大学職員の僕たち   作:房吉

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~11敗目・裏~ 特急料金(前編)

 (七月十七日〜八月十六日/馬剃視点)

 

「お礼をさせてください」

 

「いや、いいって」

 

「させてください」

 

「いいって」

 

「させてください」

 

「三回目です」

 

「四回目まで行きます」

 

「予告するんだ」

 

「予告は、誠意です」

 

 七月十七日、木曜日、十七時二十分。

 

 この会話を、私は七月三日から準備していた。

 

 論点が三つ。予備が一つ。

 所要時間の見積もりは、四分である。

 

 十分が、経過していた。

 

「なぜ拒否されるんですか」

 

「拒否っていうか」

 

「模擬プレゼンの件です」

 

「あれは業務」

 

「就業時間外でした」

 

「……」

 

「無給でした」

 

「……」

 

「秘密でした」

 

「三つ並べるなって」

 

 並べます。

 

 三つ並べると、人は黙る。

 深夜二時の役所で、私が十年かけて覚えた、数少ない実用技術である。

 

「四つ目もあります」

 

「まだあるの」

 

「『私は、あなたに何も返していません』」

 

「それ、事実の話じゃないよね」

 

「事実ですっ」

 

「感想だろ、それ」

 

 ――違います。

 

 感想なら、とっくに諦めている。

 

 諦められないから、事実として処理している。

 処理しないと、胸のあたりが、ずっと、ずきずきする。

 

「――事実ですっ!」

 

 声が、出た。

 

 出てから、それが天井のあたりまで飛んでいったのが分かった。

 

 定時から二十分。人はいない。

 いないが、このフロアは、天井が高い。

 

 かあっ、と耳が熱くなった。

 

「……失礼しました」

 

「いや、いいけど」

 

「ですが、撤回はしません」

 

「撤回しないんだ」

 

「音量だけ、撤回します」

 

 私は椅子を回して、この人に正対した。

 

 この体勢を作ると、私は動かなくてよくなる。

 動かないでいると、たいてい、相手のほうが先に折れる。

 

「じゃあ、飯でも奢って」

 

「安いです」

 

「安くないって。俺、けっこう食べるから」

 

「オープンキャンパスの件もあります」

 

「あれも業務」

 

「司会を任せていただきました」

 

「任せたっていうか、押しつけたっていうか」

 

「八百人の前に立たせていただきました」

 

 この言い方も、役所で覚えた。

 

 感謝を「させていただきました」の形にすると、相手は断れなくなる。

 断ると、こちらの感謝を拒否したことになるからだ。

 

 ……我ながら、いい性格ではない。

 

「では、伺います」

 

「うん」

 

「いま、いちばんお困りのことは何ですか」

 

 二秒、間があった。

 

 この人が二秒黙るのは、本当のことを言う直前である。

 四月から数えて、七回目の観測になる。

 

「……原稿が、四割」

 

 来た。

 

「締切は」

 

「七月二十八日」

 

「本日は十七日です」

 

「うん」

 

「十一日ですね」

 

「……うん」

 

「承知しました」

 

「え」

 

「本日から、参ります」

 

「いや、待って」

 

「どちらへ伺えばよろしいですか」

 

「待って待って」

 

「大学の休憩室でよろしいでしょうか。それとも、カラオケボックス――」

 

「馬剃さん!」

 

 この人が声を上げるのは、めずらしい。

 

 めずらしいので、私は少しだけ嬉しくなった。

 嬉しくなった自分に、あとで説明を求めることにする。

 

「あの、これ、完全に趣味だから」

 

「存じております」

 

「大学の仕事じゃないから」

 

「存じております」

 

「手伝ってもらうようなもんじゃないって」

 

「その判断は、私がします」

 

 私は鞄を持って立ち上がった。

 

 立ち上がった瞬間、膝が、かくん、と鳴りそうになった。

 

 鳴らなかった。

 鳴らなかったのは、この一週間、給湯室で十一回練習したからである。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「六月に、あなたは私に、十日間、無給で付き合いました」

 

「……はい」

 

「あれは、あなたの判断でした」

 

「はい」

 

「今回は、私の判断です」

 

 言えた。

 

 十一回の練習のうち、通しで言えたのは三回だけだった。

 本番は、一回で済んだ。

 

 

 

 

 七月十七日、十九時。

 

 駅前のファミリーレストラン。

 

 この人は、家の話を、〇・五秒でよけた。

 よけ方が不自然すぎたので、私は追及しないことにした。

 

 押し入れに何かがあるのだろう。

 だいたいの人間の押し入れには、何かがある。

 

「Wi-Fiは」

 

「ある」

 

「電源は」

 

「窓際の四席だけ」

 

「では、そこにしましょう」

 

 席に着いた。

 

「馬剃さん、なに頼む?」

 

「ドリンクバーで結構です」

 

「夕飯は」

 

「摂りました」

 

「いつ」

 

「……昼に」

 

「じゃあ、ミックスグリル二つで」

 

「二つ」

 

「一つは馬剃さんの。食べないと、手が遅くなるんで」

 

「…………」

 

「馬剃さん?」

 

「……いただきます」

 

 ちょろい、と自分で思った。

 

 思ったが、鉄板は熱く、肉は大きく、私は空腹だった。

 

 この人はノートパソコンを開いた。

 

 画面に、エクセルが出た。

 

「……これは」

 

「今年の本のデータ」

 

「四千二百行」

 

「二〇〇〇年から去年までの、ライトノベルの刊行データ。レーベル別、月別」

 

 私は、画面に顔を近づけた。

 

 行番号が、四千二百まで続いている。

 空白セルが、ほとんどない。

 

「出典は」

 

「出版年鑑と、各社のサイトと、あと個人の方が公開してるデータベース」

 

「三種類の突合を、手作業で?」

 

「手作業」

 

「……四千二百行を」

 

「四千二百行」

 

 私は、この人の顔を見た。

 

 冗談を言っている顔ではなかった。

 この人は、冗談を言うとき、必ず目線を〇・二秒だけ外す。外していない。

 

「なぜ、そのようなことを」

 

「趣味だから」

 

「なぜ、関数を使わないんですか」

 

「使えないから」

 

「……エクセルは、十二年お使いですよね」

 

「使ってる」

 

「関数を、使わずに」

 

「電卓で」

 

「電卓」

 

「あと、指」

 

「…………」

 

 指。

 

 指と言った。

 

 私の頭の中で、なにかが、ぷつん、と切れた。

 

「馬剃さん、いま、なにか言いたそうな顔してる」

 

「しておりません」

 

「してる」

 

「……して、おりますっ」

 

「言っていいよ」

 

「もったいないですっ! 二か月ですっ! 二か月というのは、一年の六分の一ですっ! あなたは一年の六分の一を、関数一本で片づく作業に使ったんですっ!」

 

「言い方がすごい」

 

「事実ですっ」

 

「事実だけど、俺、けっこう楽しかったよ」

 

「…………」

 

 どすん、と、胸のあたりに重いものが落ちた。

 

 ずるい。

 

 この人は、こういうことを、なんでもない顔で言う。

 

 言われた側は、ここで反論の材料を全部失う。

 失った上に、顔が熱くなる。

 

「馬剃さん?」

 

「……そういうことを、言わないでくださいっ」

 

「なんで怒られてるの」

 

「怒っておりませんっ」

 

 怒っていない。

 

 怒っていないのだが、それ以外の説明が、その場で出てこなかった。

 

 

 

 

「――お預かりします」

 

 

 

 

 私は、手を出した。

 

 出した手が、少しだけ震えていた。

 

 震えていた理由は、当時、分からなかった。

 いまも、分かっていないことにしている。

 

 突合は、三時間で終わった。

 

 やり方を聞かれたので、「キーを揃えて、条件付き書式で差分を出しただけです」と答えた。

 

 実際、それだけである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、俺が二か月かけたやつ」

 

「はい」

 

「三時間だな」

 

「はい」

 

「……」

 

 この「……」が、いけない。

 

 この人は、こういうところで黙る。

 黙って、たぶん、自分の二か月を数えている。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「二か月かけて手作業をされたことに、意味がなかったわけではありません」

 

「フォローが優しい」

 

「事実です。手で触ったから、どこが怪しいかを覚えていらっしゃいます」

 

 これは、六月に私が言われたことである。

 

 四十枚の資料を捨てさせられて、「中身は捨てないです」と言われた。

 

 あのとき、私は救われた。

 救われたので、同じ形で返した。

 

 ……返したはずが、口に出したあとで、なぜか、貸しがまた増えた気がした。

 

 この人と私の貸借は、四月から一度も釣り合っていない。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「十四か所、不一致があります」

 

「え」

 

「うち九か所は、出版年鑑側の誤りです。ISBNから確認しました」

 

「……ISBN」

 

「残り五か所は、あなたの入力ミスです」

 

「あ、うん」

 

「二〇一七年に、三か所集中しています」

 

 この人は、そこで動きを止めた。

 

 止めて、天井を見た。

 目線が、右上で二秒止まった。思い出しているときの角度である。

 

 私は、その年に何があったのかを聞かなかった。

 

 聞かずに、直した。

 

「……直す」

 

「直しました」

 

「早い」

 

「三分です」

 

 

 

 

 二日目は、グラフだった。

 

「温水さん、この折れ線は、何を示すものですか」

 

「レーベル別の刊行点数の推移」

 

「レーベルが、十七本入っています」

 

「十七レーベルあるから」

 

「読めません」

 

「読めないかな」

 

「読めません。人間の目は、折れ線を五本までしか追えません」

 

 この人は、画面を見て、そのまま数秒黙った。

 

「五年間、これ載せてるんだけどな」

 

「……」

 

「見づらいけど、まあ、データだから」

 

「……とは」

 

「って、五年思ってた」

 

 ずきん、と胸が痛んだ。

 

 誰も言わなかったのだ。

 

 五年間、誰も「読めない」と言わなかった。

 言われなければ、人は五年でも同じ折れ線を引く。

 

「では、どうすれば」

 

「上位五本を線にして、残りは面で積みます」

 

「面」

 

「面積グラフです。合計の推移と、上位の内訳が同時に見えます」

 

「……作れます?」

 

「作れます」

 

 六分で、できた。

 

 六分というのは、私の仕事の速さではない。

 エクセルの速さである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「……すごいな」

 

「グラフです」

 

「グラフだけど」

 

「エクセルの標準機能です」

 

「そうなんだけど」

 

 私は、画面から顔を上げなかった。

 

 上げられなかった、が正しい。

 

 顔が、じわじわ熱い。

 耳のあたりが、たぶん、ひどいことになっている。

 

 私は、次のシートを開いた。

 

 開いてから、それが目的のシートではないことに気づいた。

 気づいたが、戻すと不自然なので、しばらくそのシートを見ていた。

 

 ……私は、そこに何が表示されていたかを、いまも覚えていない。

 

 

 

 

 七月二十二日、火曜日。

 

 本文を読ませてもらった。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「この序文ですが」

 

「はい」

 

「読者は、誰でしょうか」

 

「えっと、この本を買う人」

 

「その方は、なぜこの本を買うのでしょうか」

 

「……データが見たいから?」

 

「では、なぜあなたのデータでなければならないのですか」

 

 言ってから、〇・五秒後に、私は自分の口を疑った。

 

 いま並べた三つは、六月に、この人が私に投げた質問である。

 

 順番まで同じだった。

 私は、他人の質問を丸ごと盗んで、本人に打ち返している。

 

 ……気づかれた。

 

 この人が、コーラのグラスを持ったまま、〇・二秒こちらを見た。

 見て、何も言わなかった。

 

 何も言わないほうが、こたえる。

 

「……たぶん、公式の統計だと、レーベルの気配が出ないんだよ」

 

「気配」

 

「うん。数字は出るんだけど、どのレーベルがどの時期に何をやろうとしてたかが、出ない」

 

「あなたのデータには、出ると」

 

「出るように、並べてるつもり」

 

 私は、ペンを置いた。

 

 いま、この人は、五年ぶんの答えを、二十秒で言った。

 

「それを、序文に書いてください」

 

「え」

 

「いま、あなたが言ったことを、そのまま書いてください」

 

「……いま?」

 

「いまです。三分以内に。考えると、悪くなります」

 

 

 

 

 十一日間で、ファミリーレストランに七回。

 

 残りの四日は、大学の休憩室である。

 

 七回目に、店員の方が席の話をした。

 

「いつもの窓際、空いてますよ」

 

「あ、どうも」

 

 私は、その一言を、手帳に書きたくなった。

 

 書かなかった。

 書くと、私が何を嬉しがっているかが、紙の上に残ってしまう。

 

「……『いつもの』に、なりましたね」

 

「なったね」

 

「常連の定義を満たしています。週三回以上の来店が二週間」

 

「その定義、どこの」

 

「私です」

 

「出典、全部そこなんだよなあ」

 

「信頼できる出典です」

 

「自分で言うんだ」

 

「では、反証をどうぞ」

 

「反証」

 

「週三回未満で常連と呼ばれる事例を、一件でも」

 

「……うちの近所のラーメン屋、月一で名前覚えられてる」

 

「頻度ではなく、顔の印象です。それは定義外ですっ」

 

「定義、いま増えた?」

 

「補足しましたっ」

 

「補足は、あとから足すもんじゃないんだよなあ」

 

「――役所は、いつも、あとから足しますっ」

 

「開き直った」

 

「……失礼しました」

 

 いた場所のせいにした。

 

 十年ぶんを、二秒で盾にした。

 

 ……こういうところが、私は、まだ抜けていない。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「では、伺いますが」

 

「うん」

 

「あなたは、この店の常連ですか」

 

「常連ではないな。今年で三軒目だし」

 

「……三軒目」

 

「毎年、店を変えてる。同じ店に三年通うと、なんか、居づらくて」

 

「なぜですか」

 

「顔を覚えられるから」

 

「…………」

 

 五年間、この人は毎年ちがう店で、一人で締切と戦っていた。

 

 顔を覚えられないように、店を変えながら。

 

「馬剃さん?」

 

「……今年は、覚えられましたね」

 

「覚えられたね」

 

「私が、一緒だったからです」

 

「そうだね」

 

「……いえ、いまのは」

 

「取り消さないよ」

 

「取り消してくださいっ」

 

「他に、誰も言ってくれませんので」

 

「……」

 

 ――余計なことを言った。

 

 言った瞬間に分かった。

 分かったが、言葉は戻らない。

 

「いまのは、忘れてください」

 

「忘れない」

 

「忘れてくださいっ」

 

 この人は、たぶん、忘れない。

 

 この人が「忘れない」と言うときは、本当に忘れない。

 四月からの観測で、それだけは確定している。

 

 この十一日間、私は一度も「疲れた」と言わなかった。

 

 この人は三回言った。

 三回目に、私は画面から顔を上げずに答えた。

 

「疲れたと口に出すと、二割増しで疲れます」

 

「その数字の出典は」

 

「私です」

 

 出典は、私である。

 

 根拠はない。

 根拠はないが、十年、それで持たせた。

 

 同じ日に、私は一つだけ聞いた。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「毎年、この時期は、こうなるのですか」

 

「なる」

 

「毎年、何かおっしゃっていませんか」

 

「言ってる」

 

「なんと」

 

「今年は早めにやる」

 

「他には」

 

「今年は七月頭に八割いく」

 

「他には」

 

「今年こそ余裕を持つ」

 

「……何年ぶんですか」

 

「十一年ぶん」

 

「十一回、おっしゃって」

 

「十一回、守れなかった」

 

 私は、それを手帳に書いた。

 

「書かないで」

 

「書きます」

 

「なんで」

 

「来年の七月に、読み上げるためです」

 

「やめて」

 

 

 

 

 七月二十四日、二十二時。

 

 あの夜のことは、順番に書く。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「この本は、毎年、何部ほど出るのですか」

 

「去年が、九十部」

 

「九十」

 

「持ちこみが百二十で、残ったのが三十」

 

「……残るのですか」

 

「残る。だいたい毎年」

 

 ペンが、止まった。

 

「残った本は、どうされるんですか」

 

「家にある」

 

「何年ぶんですか」

 

「……十一年ぶん」

 

「十一年」

 

「押し入れ」

 

 私は、しばらく黙っていた。

 

 十一年。

 

 この人は、毎年、あの膨大な数字を並べて、印刷して、会場まで運んで、そして、余った分を持ち帰っている。

 

 持ち帰って、押し入れに入れている。

 

 ……十一年間、誰にも言わずに。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「今年は、残らないと思います」

 

「なんで」

 

「グラフが、よくなりましたので」

 

 私は「グラフが」と言った。

 

 「私が」とは言わない。

 

 言うと、それは手柄になる。

 手柄にすると、貸借の計算がまた狂う。

 

 嘘である。

 

 正確には、半分が嘘である。

 

 グラフはよくなった。それは事実だ。

 だが、私がそのとき考えていたのは、グラフのことではなかった。

 

 

 

 

 帰りの電車で、私は三社に見積もりを取った。

 

 

 

 

 一社目、納期四週間。

 二社目、納期三週間。

 三社目、特急対応可、納期十二日。

 

 私は三社目に発注した。

 

 いちばん高い会社だった。

 高い理由は、技術ではなく、速さである。

 

『十二日ですと、特急扱いになりますが』

 

「構いません」

 

『あの、失礼ですが、当日はどちらで』

 

「……コミックマーケットです」

 

『でしたら、しっぽの芯は硬めにしておきますね。座られるので』

 

「……ご配慮、痛み入ります」

 

『よくあるご相談ですので』

 

 よくある相談らしい。

 

 世の中には、私の知らない「よくある」が、まだいくらでもある。

 

 仕様は、こちらから指定した。

 

 三期のチカピョンの衣装に、次の四点を追加すること。

 

 一、フリル付きの白いエプロン。

 二、袖口のカフスと、首元のリボン。

 三、猫耳。

 四、しっぽ。

 

 

 

 

 原作に、この衣装は存在しない。

 

 

 

 

 存在しないものを、私は発注した。

 

 理由は、二つある。

 

 一つ目は、書ける。

 

 あの人は、チカピョンが好きである。

 そして、猫耳とメイドが、それ以上に好きである。

 

 根拠は、二件。

 

 一件目。十六年前のツワブキ祭の朝、生徒会室で、あの人は私を見て固まった。

 あのとき私が着せられていたのは、志喜屋先輩が持ちこんだ、しっぽ付きの猫耳メイド服である。

 

 二件目。本人の自白。

 

 自室で猫耳をつけた私に、あの人は言った。

 「確かに好きだけど」と。

 

 十六年、私はその四文字を保管している。

 

 

 

 

 二つ目の理由は、書かない。

 

 

 

 

 書かないが、見積書の「特急料金」の欄を三回見て、それでも押印した人間の動機としては、一つ目だけでは足りない。

 

 衣装本体、六万八千円。

 特急料金、二万四千円。

 

 合計、九万二千円。

 

 ……私は、その金額を手帳に書かなかった。

 

 金額を書かなかったのは、社会人になって、初めてである。

 

 

 

 

 七月二十八日、月曜日、二十三時四十分。

 

「温水さん、入稿前の最終確認を」

 

「した」

 

「ページ番号の順序は」

 

「見た」

 

「奥付の発行日は」

 

「……」

 

「奥付の、発行日は」

 

「……見てない」

 

 やはり。

 

「なってなかった。去年のままだった」

 

「毎年の事故です、それは」

 

「なんで知ってるの」

 

「印刷所のよくある質問に、太字で書いてありました」

 

「よくある質問、読んだんですか」

 

「全項目、読みました」

 

「何項目」

 

「六十三項目です」

 

「俺、五年読んでない」

 

「読んでください」

 

「読まないな」

 

「読んでくださいっ」

 

 この人が、入稿ボタンを押した。

 

 押した瞬間、椅子の背に、どさっ、ともたれた。

 

「……終わった」

 

「お疲れさまでした」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「ありがとうございました」

 

「いえ」

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「二回言わなくて結構です」

 

 二回言われた。

 

 私は、二回目を、聞かなかったことにした。

 

 聞いてしまうと、また、貸借が逆になる。

 逆になると、私はここに来た理由を失う。

 

 私はノートパソコンを閉じた。

 

 閉じて、一つだけ聞いた。

 

「当日は、いつですか」

 

「八月十六日」

 

「場所は」

 

「東京ビッグサイト」

 

「何時からですか」

 

「一般入場が十一時。設営は八時から」

 

「八月十六日は、土曜日です」

 

「そう」

 

「毎年、有給を取られるのですか」

 

「平日にあたる年は取る。今年は、たまたま土日にあたる日」

 

「……理由は、書かれるのですか」

 

「うちは書かなくていいんだよ」

 

「存じております。私が、書かせない側でした」

 

 全部、知っていた。

 

 七月二十四日の夜に、私は調べている。

 開催日も、会場も、時間も、コスプレ登録の受付時間も、更衣室の場所も。

 

 知らないふりをして聞いたのは、知らないことにしておく必要があったからだ。

 

「馬剃さん、来なくていいからね」

 

「行きません」

 

「そう」

 

「行きません」

 

「二回言ったな」

 

「二回言いました」

 

「なんで二回」

 

「一回では、信じていただけないかと思いまして」

 

「三回言うと本当になるって、前に俺が言いましたよね」

 

「……二回で、止めました」

 

「なんで」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「その質問には、お答えできませんっ」

 

 

 

 

 四月に、私はこの人に言った。

 

 嘘をつくとき、あなたは余計な情報を足します、と。

 

 

 

 

 七月二十八日、二十三時五十二分。

 

 私は、余計な情報を、足した。

 

 足した理由まで、自分から説明した。

 

 ……深夜だったので、この人は気づかなかったことにしてくれたらしい。

 らしい、というのは、あとで思い返すと、あの目は、たぶん気づいていた。

 

 八月九日のことは、ここには書かない。

 

 書くと、長くなる。

 

 二つだけ書く。

 

 一つ。八月十二日の昼、大貫さんが、また停電の話をしていた。

 

「馬剃さん、あの三分間、温水主任が何したか分かります?」

 

「先日、伺いました」

 

「無線で『任せた』の一言だけっすよ。三文字」

 

「三文字ですね」

 

「三文字で二号館が動いたんです。あれ、事件ですよ」

 

 私は、あの三分間、舞台の上にいた。

 

 いたので、その三文字を、私は聞いていない。

 

「ところで馬剃さん、今週なんか元気じゃないっすか」

 

「通常です」

 

「通常の人、書類そろえながら鼻歌います?」

 

「歌っておりませんっ」

 

「歌ってましたって」

 

「――業務に、支障はありませんっ」

 

 支障はない。

 

 支障はないが、大貫さんの観察力は、たまに正しい。

 

 二つ。撤収のあと、大講堂で二人になったとき、この人は「めちゃくちゃよかったです」と言った。

 

 十二文字である。

 

 私は、その十二文字を、帰りの電車で二十二回、数え直した。

 二十三回目で、隣の乗客に顔を見られたので、やめた。

 

 

 

 

 八月十三日、水曜日、二十時十分。

 

 宅配便が届いた。

 

 箱は、思っていたより大きかった。

 

 私は玄関に立ったまま、その箱を四分見ていた。

 開けたら後戻りできない、という種類の箱である。

 

 開けた。

 

 ピンクだった。

 

 

 

 

 試着には、二十六分かかった。

 

 厚底のブーツの紐で八分、白いタイツで四分。

 残りは、猫耳の位置決めと、しっぽの角度である。

 

 しっぽの角度に、正解はない。

 

 存在しない衣装だからである。

 

 ないので、私が決めた。四十五度である。

 

 鏡の前に立った。

 

 

 

 

 ……三十四歳。

 

 

 

 

 私は、鏡に向かって声を出した。

 

「本日は、売り子として参りました」

 

 鏡は、答えない。

 

「会計と、在庫管理と、列の整理を担当します」

 

 鏡は、答えない。

 

「……不審者ではありません」

 

 鏡は、答えない。

 

「不審者ではありませんっ!」

 

 鏡は、答えない。

 

「……これは、お礼ですっ」

 

「他意は、ありませんっ」

 

「エプロンは、売り子の作業着ですっ」

 

「猫耳は、キャラクターの一部ですっ」

 

「しっぽは……」

 

「しっぽは、」

 

「……しっぽの説明が、つきませんっ」

 

「他意は――」

 

 

 

 

 ……鏡が、答えないのが、いけない。

 

 答えてくれれば、私は、そこで止まれた。

 

 

 

 

 ……深夜に、鏡に向かって語気を強める女が、ここにいる。

 

 

 

 

 十六年前、私はこの衣装の二期版を着て、廊下の曲がり角に立った。

 

 前の晩に、私は鏡の前で「にゃあ」を練習した。

 

 高さを三種類試して、真ん中を採用した。

 

 本番では、先に宣言した。

 ――にゃんとかは言いませんけど、と。

 

 

 

 

 そう宣言しておいて、私は、最後に言った。

 

 

 

 

 あれは、武器だった。

 

 この人に効くと知っていて、知っていて使った。

 

 効いた。

 効いて、あの人は壇上に立ち、私の悪口を言う人がいたら朝まで語ると言った。

 

 ……そこまで効くとは、思っていなかった。

 

 今回は、言わない。

 

 今回は、頼みごとですらない。

 頼まないのなら、武器は、要らない。

 

 私は、そう決めた。

 

 決めて、猫耳を外して、ハンガーにかけた。

 

 二期の衣装は、もう手元にない。

 

 一年半前、役所を出るときに、他の多くのものと一緒に処分した。

 

 なぜ処分したのかは、あのとき考えなかった。

 

 ……いまも、考えないようにしている。

 

 

 

 

 八月十六日、土曜日。

 

 四時五十分に、目が開いた。

 

 目覚ましは五時である。三回連続で、鳴る前に起きている。

 

 体温三十六度六分。血圧、上が百四。

 

 朝食は摂った。摂ったが、味は記録に残っていない。

 

 

 

 

 六時十二分の電車に乗った。

 

 七時二十分、会場着。

 

 当然、入れない。

 

 私は入れないことを知っていて、そこにいた。

 

 

 

 

 ……三十四歳の女が、八月の朝七時に、入れない建物の前に立っている。

 

 

 

 

 九時三十分、コスプレ受付。

 

 登録料、四百円。

 支払いは現金のみ。おつりが出ないよう、四百円を用意しておいた。

 

 十時十分、更衣室。

 

 着替えに要した時間は、自宅の二十六分に対し、十四分だった。

 人間は、二回目で四割速くなる。

 

 十時二十四分、更衣室を出た。

 

 

 

 

 そこから東ホールの、し-32bまでは、二百メートルある。

 

 私は、その二百メートルを、二十六分かけて歩いた。

 

 

 

 

 途中で三回、止まった。

 

 一回目は、猫耳がずれたから。

 二回目も、猫耳がずれたから。

 

 三回目は、ずれていなかった。

 

 ずれていない猫耳を直しながら、私は、自分が何をしにここへ来たのかを、口の中で三回唱えた。

 

「……売り子です」

 

「会計と、在庫管理と、列の整理」

 

「……業務です」

 

「エプロンは、業務に必要です」

 

「……必要では、ありませんっ」

 

「しっぽも、必要ではありませんっ」

 

「……九万二千円も、必要では」

 

 そこで、私は口を閉じた。

 

 通路の真ん中で、猫耳をつけた女が、自分と口論をしている。

 

 業務ではない。

 

 業務ではないので、規程がない。

 規程がないと、私は歩けなくなる。

 

 十時四十一分。

 

 私は、島の角で止まった。

 

 角から先が、見えていた。

 

 パイプ椅子に、あの人が座っていた。

 

 ペットボトルの水を飲んで、机の上の見本誌の角度を、二回直していた。

 直し方が、雑だった。

 

 

 

 

 十時四十一分から、十時五十分まで。

 

 私は、動けなかった。

 

 

 

 

 九分である。

 

 九分あれば、私は、四十枚の資料の誤字を潰せる。

 九分あれば、想定問答を三十問、暗唱できる。

 

 その九分を、私は、角に立って消費した。

 

 ……逃げる、という選択肢が、頭に三回浮かんだ。

 

 三回とも、私はそれを打ち消した。

 

 打ち消せたのは、六月の非常階段で、この人が言ったことを覚えていたからである。

 

 

 

 

 私は、角を曲がった。

 

 

 

 

「――温水さん」

 

 声が、掠れた。

 

 十六年前も、掠れた。

 

 

 

 

 あの人の手から、ペットボトルが落ちた。

 

 

 

 

 落ちて、二回跳ねて、通路へ転がっていった。

 

 拾おうとして立ち上がった膝が、机の裏を叩いた。

 

 釣銭箱が跳ねた。

 

 じゃらじゃら、と、五百円玉が四十枚、床に散った。

 

 

 

 

 ……効いた。

 

 

 

 

 九万二千円が、〇・四秒で回収された。

 

 私は、そう判断した。

 

 判断してから、自分の口角が上がっていることに気づいて、慌てて下ろした。

 

「……お拾いします」

 

「あ、うん」

 

「四十枚です」

 

「数えたの」

 

「音で、分かります」

 

「……馬剃さん」

 

「はい」

 

「え」

 

「はい」

 

「え?」

 

 この人の目が、まん丸になっていた。

 

 まん丸のまま、〇・五秒ごとに瞬きをしていた。

 瞬きの間隔が、明らかに乱れている。

 

 ……効いている。

 

 じわ、と、腹の底があたたかくなった。

 

 この人が、こんなに分かりやすく動揺するのを、私は十六年ぶりに見た。

 

「行かないって、二回言ったよな」

 

「言いました」

 

「二回」

 

「二回です」

 

「嘘だったの?」

 

「嘘です」

 

 即答した。

 

 即答は、防具である。

 防具を出した時点で、私は負けている。

 

「……その、格好は」

 

「アニメ『ギリギリアウトな女たち』の、チカピョンです」

 

「知ってる」

 

「三期のバージョンです」

 

「知ってるって!」

 

「……猫耳と、しっぽと、エプロンつきの」

 

「知って――待って」

 

「はい」

 

「三期に、メイド回あったっけ」

 

「ありません」

 

「ないよね」

 

「ありませんので、追加しました」

 

「追加」

 

「追加ですっ」

 

「なんで」

 

「……仕様です」

 

「誰が決めた仕様」

 

「――私ですっ」

 

 出典は、いつも、私である。

 

 今回ばかりは、明かしたくなかった。

 

 この人が、がたん、と立ち上がった。

 

 パイプ椅子が半歩下がって、床で鳴った。

 

 ――知っている。

 

 この人は、知っている。

 

 十六年前の廊下で、この人は「知ってる」と言った。

 言って、それから、三秒くらい停止した。

 

 いまも、停止している。

 

 停止しているこの人の顔を見ながら、私は、ようやく息を吸えた。

 

「なんで、三期」

 

「二期の衣装は、もう手元にありませんので」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「三期は、昨年放送されました。現行のバージョンで臨むのが適切だと判断しました」

 

「適切」

 

「はい」

 

「どこで手に入れたんだよ」

 

「発注しました」

 

「発注」

 

「オーダーメイドです」

 

「……いくらしたの」

 

「申し上げられません」

 

 九万二千円。

 

 言えるわけがない。

 

 この人は椅子に座り直して、両手で顔を覆った。

 覆った指の隙間から、耳が見えた。赤かった。

 

 ……赤い。

 

 私は、それを確認して、その事実を、頭の中の記録簿に一行書いた。

 

 四月一日、この人は課の全員の前で「知り合い程度です」と言った。

 

 知り合い程度の人間は、九万二千円を払わない。

 

 ……この矛盾については、あとで、私が私に説明する。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「コスプレって、登録が要るんだけど」

 

「済ませました」

 

「え」

 

「更衣室で着替えました。登録番号は――」

 

「いい、もういい」

 

「登録料は、四百円でした」

 

「そこは言うんだ」

 

「事実ですので」

 

「衣装の値段は」

 

「申し上げられません」

 

「情報の出し方に差がある」

 

「四百円は、公表されている金額ですので」

 

「衣装は」

 

「公表されておりません」

 

「誰も公表しないよ、そんなの」

 

「……ですので、申し上げられませんっ」

 

「いくらだったの」

 

「五桁ですっ」

 

「桁だけ言った」

 

「桁までが、限界ですっ」

 

 五桁。

 

 五桁の、いちばん上のほうである。

 

 ……そこまでは、言わない。

 

「規約は熟読しました。撮影については、サークルスペース内での撮影は不可です。ご希望の方には、コスプレエリアへの移動をご案内します」

 

 規約は、三日前に読んだ。

 

 全四十一項目。

 うち、コスプレに関する記述は九項目。撮影に関する記述は六項目。

 

 暗唱できる。

 

 暗唱できるようにしておくと、こういう場面で、私は喋れる。

 喋れないと、逃げてしまうからだ。

 

「あの、馬剃さん」

 

「はい」

 

「なんで、来たの」

 

「売り子です」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「本日は、売り子として参りました。会計と、在庫管理と、列の整理を担当します」

 

「そうじゃなくて」

 

「……」

 

「なんで、その格好で来たんだよ」

 

 開場十分前のアナウンスが流れた。

 

 私は、猫耳を直した。

 

「それ、直すの何回目」

 

「……七回目です」

 

「数えてるんだ」

 

「耳は、ずれます」

 

「そういう知見はいらない」

 

「重要な知見です」

 

「なんで重要なの」

 

「ずれた状態で人前に立つのは、キャラクターに失礼です」

 

「キャラクターに」

 

「失礼ですっ」

 

「馬剃さん、それ、けっこうオタクの言い方だよ」

 

「…………」

 

 ――しまった。

 

「あ、いま黙った」

 

「黙っておりませんっ」

 

「黙ってたって」

 

「……〇・八秒以内でしたので、沈黙には該当しませんっ」

 

「基準があるんだ」

 

「あります」

 

 基準は、更衣室からここまでの二百メートルのあいだに作った。

 

 根拠はない。

 根拠はないが、基準があると、人は喋れる。

 

 私は、息を吸った。

 

 吸って、この人の目を見た。

 

「十六年前」

 

「はい」

 

「私は、これを着て、あなたに頼みごとをしました」

 

「……うん」

 

「今日は、頼みごとではありません」

 

 私は、隣のパイプ椅子に座った。

 

 座ってから、言った。

 

 

 

 

「返しに来ました」

 

 

 

 

 言えた。

 

 声は、震えていなかった。

 

 震えていなかったことに、私は、少し驚いた。

 

 

 

 

 この人は、何も返さなかった。

 

 返さないまま、開場のブザーが鳴った。

 

 東ホールが、一斉に音を立てはじめた。

 

 ざあっ、と、波のような音が、天井のあたりから降ってきた。

 

 私は、背筋を伸ばした。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「頒布価格は」

 

「五百円」

 

「釣銭は」

 

「五百円玉が四十枚と、千円札が三十枚」

 

「不足します」

 

「え」

 

「百五十部です。五百円玉が四十枚では、確実に足りません」

 

「両替に行きます。三分で戻ります」

 

「ああ、うん」

 

「その間、あなた一人になります」

 

「大丈夫。毎年一人だから」

 

 

 

 

 時間が、止まった。

 

 

 

 

「……毎年、お一人なんですね」

 

「一人」

 

「五年間」

 

「五年間」

 

 私は、走った。

 

 厚底のブーツで会場内を走るのは、推奨されない。

 

 推奨されないが、走った。

 

 走らないと、顔が、まずいことになりそうだった。

 

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