(七月十七日〜八月十六日/馬剃視点)
「お礼をさせてください」
「いや、いいって」
「させてください」
「いいって」
「させてください」
「三回目です」
「四回目まで行きます」
「予告するんだ」
「予告は、誠意です」
七月十七日、木曜日、十七時二十分。
この会話を、私は七月三日から準備していた。
論点が三つ。予備が一つ。
所要時間の見積もりは、四分である。
十分が、経過していた。
「なぜ拒否されるんですか」
「拒否っていうか」
「模擬プレゼンの件です」
「あれは業務」
「就業時間外でした」
「……」
「無給でした」
「……」
「秘密でした」
「三つ並べるなって」
並べます。
三つ並べると、人は黙る。
深夜二時の役所で、私が十年かけて覚えた、数少ない実用技術である。
「四つ目もあります」
「まだあるの」
「『私は、あなたに何も返していません』」
「それ、事実の話じゃないよね」
「事実ですっ」
「感想だろ、それ」
――違います。
感想なら、とっくに諦めている。
諦められないから、事実として処理している。
処理しないと、胸のあたりが、ずっと、ずきずきする。
「――事実ですっ!」
声が、出た。
出てから、それが天井のあたりまで飛んでいったのが分かった。
定時から二十分。人はいない。
いないが、このフロアは、天井が高い。
かあっ、と耳が熱くなった。
「……失礼しました」
「いや、いいけど」
「ですが、撤回はしません」
「撤回しないんだ」
「音量だけ、撤回します」
私は椅子を回して、この人に正対した。
この体勢を作ると、私は動かなくてよくなる。
動かないでいると、たいてい、相手のほうが先に折れる。
「じゃあ、飯でも奢って」
「安いです」
「安くないって。俺、けっこう食べるから」
「オープンキャンパスの件もあります」
「あれも業務」
「司会を任せていただきました」
「任せたっていうか、押しつけたっていうか」
「八百人の前に立たせていただきました」
この言い方も、役所で覚えた。
感謝を「させていただきました」の形にすると、相手は断れなくなる。
断ると、こちらの感謝を拒否したことになるからだ。
……我ながら、いい性格ではない。
「では、伺います」
「うん」
「いま、いちばんお困りのことは何ですか」
二秒、間があった。
この人が二秒黙るのは、本当のことを言う直前である。
四月から数えて、七回目の観測になる。
「……原稿が、四割」
来た。
「締切は」
「七月二十八日」
「本日は十七日です」
「うん」
「十一日ですね」
「……うん」
「承知しました」
「え」
「本日から、参ります」
「いや、待って」
「どちらへ伺えばよろしいですか」
「待って待って」
「大学の休憩室でよろしいでしょうか。それとも、カラオケボックス――」
「馬剃さん!」
この人が声を上げるのは、めずらしい。
めずらしいので、私は少しだけ嬉しくなった。
嬉しくなった自分に、あとで説明を求めることにする。
「あの、これ、完全に趣味だから」
「存じております」
「大学の仕事じゃないから」
「存じております」
「手伝ってもらうようなもんじゃないって」
「その判断は、私がします」
私は鞄を持って立ち上がった。
立ち上がった瞬間、膝が、かくん、と鳴りそうになった。
鳴らなかった。
鳴らなかったのは、この一週間、給湯室で十一回練習したからである。
「温水さん」
「うん」
「六月に、あなたは私に、十日間、無給で付き合いました」
「……はい」
「あれは、あなたの判断でした」
「はい」
「今回は、私の判断です」
言えた。
十一回の練習のうち、通しで言えたのは三回だけだった。
本番は、一回で済んだ。
七月十七日、十九時。
駅前のファミリーレストラン。
この人は、家の話を、〇・五秒でよけた。
よけ方が不自然すぎたので、私は追及しないことにした。
押し入れに何かがあるのだろう。
だいたいの人間の押し入れには、何かがある。
「Wi-Fiは」
「ある」
「電源は」
「窓際の四席だけ」
「では、そこにしましょう」
席に着いた。
「馬剃さん、なに頼む?」
「ドリンクバーで結構です」
「夕飯は」
「摂りました」
「いつ」
「……昼に」
「じゃあ、ミックスグリル二つで」
「二つ」
「一つは馬剃さんの。食べないと、手が遅くなるんで」
「…………」
「馬剃さん?」
「……いただきます」
ちょろい、と自分で思った。
思ったが、鉄板は熱く、肉は大きく、私は空腹だった。
この人はノートパソコンを開いた。
画面に、エクセルが出た。
「……これは」
「今年の本のデータ」
「四千二百行」
「二〇〇〇年から去年までの、ライトノベルの刊行データ。レーベル別、月別」
私は、画面に顔を近づけた。
行番号が、四千二百まで続いている。
空白セルが、ほとんどない。
「出典は」
「出版年鑑と、各社のサイトと、あと個人の方が公開してるデータベース」
「三種類の突合を、手作業で?」
「手作業」
「……四千二百行を」
「四千二百行」
私は、この人の顔を見た。
冗談を言っている顔ではなかった。
この人は、冗談を言うとき、必ず目線を〇・二秒だけ外す。外していない。
「なぜ、そのようなことを」
「趣味だから」
「なぜ、関数を使わないんですか」
「使えないから」
「……エクセルは、十二年お使いですよね」
「使ってる」
「関数を、使わずに」
「電卓で」
「電卓」
「あと、指」
「…………」
指。
指と言った。
私の頭の中で、なにかが、ぷつん、と切れた。
「馬剃さん、いま、なにか言いたそうな顔してる」
「しておりません」
「してる」
「……して、おりますっ」
「言っていいよ」
「もったいないですっ! 二か月ですっ! 二か月というのは、一年の六分の一ですっ! あなたは一年の六分の一を、関数一本で片づく作業に使ったんですっ!」
「言い方がすごい」
「事実ですっ」
「事実だけど、俺、けっこう楽しかったよ」
「…………」
どすん、と、胸のあたりに重いものが落ちた。
ずるい。
この人は、こういうことを、なんでもない顔で言う。
言われた側は、ここで反論の材料を全部失う。
失った上に、顔が熱くなる。
「馬剃さん?」
「……そういうことを、言わないでくださいっ」
「なんで怒られてるの」
「怒っておりませんっ」
怒っていない。
怒っていないのだが、それ以外の説明が、その場で出てこなかった。
「――お預かりします」
私は、手を出した。
出した手が、少しだけ震えていた。
震えていた理由は、当時、分からなかった。
いまも、分かっていないことにしている。
突合は、三時間で終わった。
やり方を聞かれたので、「キーを揃えて、条件付き書式で差分を出しただけです」と答えた。
実際、それだけである。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、俺が二か月かけたやつ」
「はい」
「三時間だな」
「はい」
「……」
この「……」が、いけない。
この人は、こういうところで黙る。
黙って、たぶん、自分の二か月を数えている。
「温水さん」
「うん」
「二か月かけて手作業をされたことに、意味がなかったわけではありません」
「フォローが優しい」
「事実です。手で触ったから、どこが怪しいかを覚えていらっしゃいます」
これは、六月に私が言われたことである。
四十枚の資料を捨てさせられて、「中身は捨てないです」と言われた。
あのとき、私は救われた。
救われたので、同じ形で返した。
……返したはずが、口に出したあとで、なぜか、貸しがまた増えた気がした。
この人と私の貸借は、四月から一度も釣り合っていない。
「温水さん」
「うん」
「十四か所、不一致があります」
「え」
「うち九か所は、出版年鑑側の誤りです。ISBNから確認しました」
「……ISBN」
「残り五か所は、あなたの入力ミスです」
「あ、うん」
「二〇一七年に、三か所集中しています」
この人は、そこで動きを止めた。
止めて、天井を見た。
目線が、右上で二秒止まった。思い出しているときの角度である。
私は、その年に何があったのかを聞かなかった。
聞かずに、直した。
「……直す」
「直しました」
「早い」
「三分です」
二日目は、グラフだった。
「温水さん、この折れ線は、何を示すものですか」
「レーベル別の刊行点数の推移」
「レーベルが、十七本入っています」
「十七レーベルあるから」
「読めません」
「読めないかな」
「読めません。人間の目は、折れ線を五本までしか追えません」
この人は、画面を見て、そのまま数秒黙った。
「五年間、これ載せてるんだけどな」
「……」
「見づらいけど、まあ、データだから」
「……とは」
「って、五年思ってた」
ずきん、と胸が痛んだ。
誰も言わなかったのだ。
五年間、誰も「読めない」と言わなかった。
言われなければ、人は五年でも同じ折れ線を引く。
「では、どうすれば」
「上位五本を線にして、残りは面で積みます」
「面」
「面積グラフです。合計の推移と、上位の内訳が同時に見えます」
「……作れます?」
「作れます」
六分で、できた。
六分というのは、私の仕事の速さではない。
エクセルの速さである。
「馬剃さん」
「はい」
「……すごいな」
「グラフです」
「グラフだけど」
「エクセルの標準機能です」
「そうなんだけど」
私は、画面から顔を上げなかった。
上げられなかった、が正しい。
顔が、じわじわ熱い。
耳のあたりが、たぶん、ひどいことになっている。
私は、次のシートを開いた。
開いてから、それが目的のシートではないことに気づいた。
気づいたが、戻すと不自然なので、しばらくそのシートを見ていた。
……私は、そこに何が表示されていたかを、いまも覚えていない。
七月二十二日、火曜日。
本文を読ませてもらった。
「温水さん」
「うん」
「この序文ですが」
「はい」
「読者は、誰でしょうか」
「えっと、この本を買う人」
「その方は、なぜこの本を買うのでしょうか」
「……データが見たいから?」
「では、なぜあなたのデータでなければならないのですか」
言ってから、〇・五秒後に、私は自分の口を疑った。
いま並べた三つは、六月に、この人が私に投げた質問である。
順番まで同じだった。
私は、他人の質問を丸ごと盗んで、本人に打ち返している。
……気づかれた。
この人が、コーラのグラスを持ったまま、〇・二秒こちらを見た。
見て、何も言わなかった。
何も言わないほうが、こたえる。
「……たぶん、公式の統計だと、レーベルの気配が出ないんだよ」
「気配」
「うん。数字は出るんだけど、どのレーベルがどの時期に何をやろうとしてたかが、出ない」
「あなたのデータには、出ると」
「出るように、並べてるつもり」
私は、ペンを置いた。
いま、この人は、五年ぶんの答えを、二十秒で言った。
「それを、序文に書いてください」
「え」
「いま、あなたが言ったことを、そのまま書いてください」
「……いま?」
「いまです。三分以内に。考えると、悪くなります」
十一日間で、ファミリーレストランに七回。
残りの四日は、大学の休憩室である。
七回目に、店員の方が席の話をした。
「いつもの窓際、空いてますよ」
「あ、どうも」
私は、その一言を、手帳に書きたくなった。
書かなかった。
書くと、私が何を嬉しがっているかが、紙の上に残ってしまう。
「……『いつもの』に、なりましたね」
「なったね」
「常連の定義を満たしています。週三回以上の来店が二週間」
「その定義、どこの」
「私です」
「出典、全部そこなんだよなあ」
「信頼できる出典です」
「自分で言うんだ」
「では、反証をどうぞ」
「反証」
「週三回未満で常連と呼ばれる事例を、一件でも」
「……うちの近所のラーメン屋、月一で名前覚えられてる」
「頻度ではなく、顔の印象です。それは定義外ですっ」
「定義、いま増えた?」
「補足しましたっ」
「補足は、あとから足すもんじゃないんだよなあ」
「――役所は、いつも、あとから足しますっ」
「開き直った」
「……失礼しました」
いた場所のせいにした。
十年ぶんを、二秒で盾にした。
……こういうところが、私は、まだ抜けていない。
「温水さん」
「うん」
「では、伺いますが」
「うん」
「あなたは、この店の常連ですか」
「常連ではないな。今年で三軒目だし」
「……三軒目」
「毎年、店を変えてる。同じ店に三年通うと、なんか、居づらくて」
「なぜですか」
「顔を覚えられるから」
「…………」
五年間、この人は毎年ちがう店で、一人で締切と戦っていた。
顔を覚えられないように、店を変えながら。
「馬剃さん?」
「……今年は、覚えられましたね」
「覚えられたね」
「私が、一緒だったからです」
「そうだね」
「……いえ、いまのは」
「取り消さないよ」
「取り消してくださいっ」
「他に、誰も言ってくれませんので」
「……」
――余計なことを言った。
言った瞬間に分かった。
分かったが、言葉は戻らない。
「いまのは、忘れてください」
「忘れない」
「忘れてくださいっ」
この人は、たぶん、忘れない。
この人が「忘れない」と言うときは、本当に忘れない。
四月からの観測で、それだけは確定している。
この十一日間、私は一度も「疲れた」と言わなかった。
この人は三回言った。
三回目に、私は画面から顔を上げずに答えた。
「疲れたと口に出すと、二割増しで疲れます」
「その数字の出典は」
「私です」
出典は、私である。
根拠はない。
根拠はないが、十年、それで持たせた。
同じ日に、私は一つだけ聞いた。
「温水さん」
「うん」
「毎年、この時期は、こうなるのですか」
「なる」
「毎年、何かおっしゃっていませんか」
「言ってる」
「なんと」
「今年は早めにやる」
「他には」
「今年は七月頭に八割いく」
「他には」
「今年こそ余裕を持つ」
「……何年ぶんですか」
「十一年ぶん」
「十一回、おっしゃって」
「十一回、守れなかった」
私は、それを手帳に書いた。
「書かないで」
「書きます」
「なんで」
「来年の七月に、読み上げるためです」
「やめて」
七月二十四日、二十二時。
あの夜のことは、順番に書く。
「温水さん」
「うん」
「この本は、毎年、何部ほど出るのですか」
「去年が、九十部」
「九十」
「持ちこみが百二十で、残ったのが三十」
「……残るのですか」
「残る。だいたい毎年」
ペンが、止まった。
「残った本は、どうされるんですか」
「家にある」
「何年ぶんですか」
「……十一年ぶん」
「十一年」
「押し入れ」
私は、しばらく黙っていた。
十一年。
この人は、毎年、あの膨大な数字を並べて、印刷して、会場まで運んで、そして、余った分を持ち帰っている。
持ち帰って、押し入れに入れている。
……十一年間、誰にも言わずに。
「温水さん」
「うん」
「今年は、残らないと思います」
「なんで」
「グラフが、よくなりましたので」
私は「グラフが」と言った。
「私が」とは言わない。
言うと、それは手柄になる。
手柄にすると、貸借の計算がまた狂う。
嘘である。
正確には、半分が嘘である。
グラフはよくなった。それは事実だ。
だが、私がそのとき考えていたのは、グラフのことではなかった。
帰りの電車で、私は三社に見積もりを取った。
一社目、納期四週間。
二社目、納期三週間。
三社目、特急対応可、納期十二日。
私は三社目に発注した。
いちばん高い会社だった。
高い理由は、技術ではなく、速さである。
『十二日ですと、特急扱いになりますが』
「構いません」
『あの、失礼ですが、当日はどちらで』
「……コミックマーケットです」
『でしたら、しっぽの芯は硬めにしておきますね。座られるので』
「……ご配慮、痛み入ります」
『よくあるご相談ですので』
よくある相談らしい。
世の中には、私の知らない「よくある」が、まだいくらでもある。
仕様は、こちらから指定した。
三期のチカピョンの衣装に、次の四点を追加すること。
一、フリル付きの白いエプロン。
二、袖口のカフスと、首元のリボン。
三、猫耳。
四、しっぽ。
原作に、この衣装は存在しない。
存在しないものを、私は発注した。
理由は、二つある。
一つ目は、書ける。
あの人は、チカピョンが好きである。
そして、猫耳とメイドが、それ以上に好きである。
根拠は、二件。
一件目。十六年前のツワブキ祭の朝、生徒会室で、あの人は私を見て固まった。
あのとき私が着せられていたのは、志喜屋先輩が持ちこんだ、しっぽ付きの猫耳メイド服である。
二件目。本人の自白。
自室で猫耳をつけた私に、あの人は言った。
「確かに好きだけど」と。
十六年、私はその四文字を保管している。
二つ目の理由は、書かない。
書かないが、見積書の「特急料金」の欄を三回見て、それでも押印した人間の動機としては、一つ目だけでは足りない。
衣装本体、六万八千円。
特急料金、二万四千円。
合計、九万二千円。
……私は、その金額を手帳に書かなかった。
金額を書かなかったのは、社会人になって、初めてである。
七月二十八日、月曜日、二十三時四十分。
「温水さん、入稿前の最終確認を」
「した」
「ページ番号の順序は」
「見た」
「奥付の発行日は」
「……」
「奥付の、発行日は」
「……見てない」
やはり。
「なってなかった。去年のままだった」
「毎年の事故です、それは」
「なんで知ってるの」
「印刷所のよくある質問に、太字で書いてありました」
「よくある質問、読んだんですか」
「全項目、読みました」
「何項目」
「六十三項目です」
「俺、五年読んでない」
「読んでください」
「読まないな」
「読んでくださいっ」
この人が、入稿ボタンを押した。
押した瞬間、椅子の背に、どさっ、ともたれた。
「……終わった」
「お疲れさまでした」
「馬剃さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「いえ」
「本当に、ありがとうございました」
「二回言わなくて結構です」
二回言われた。
私は、二回目を、聞かなかったことにした。
聞いてしまうと、また、貸借が逆になる。
逆になると、私はここに来た理由を失う。
私はノートパソコンを閉じた。
閉じて、一つだけ聞いた。
「当日は、いつですか」
「八月十六日」
「場所は」
「東京ビッグサイト」
「何時からですか」
「一般入場が十一時。設営は八時から」
「八月十六日は、土曜日です」
「そう」
「毎年、有給を取られるのですか」
「平日にあたる年は取る。今年は、たまたま土日にあたる日」
「……理由は、書かれるのですか」
「うちは書かなくていいんだよ」
「存じております。私が、書かせない側でした」
全部、知っていた。
七月二十四日の夜に、私は調べている。
開催日も、会場も、時間も、コスプレ登録の受付時間も、更衣室の場所も。
知らないふりをして聞いたのは、知らないことにしておく必要があったからだ。
「馬剃さん、来なくていいからね」
「行きません」
「そう」
「行きません」
「二回言ったな」
「二回言いました」
「なんで二回」
「一回では、信じていただけないかと思いまして」
「三回言うと本当になるって、前に俺が言いましたよね」
「……二回で、止めました」
「なんで」
「…………」
「馬剃さん」
「その質問には、お答えできませんっ」
四月に、私はこの人に言った。
嘘をつくとき、あなたは余計な情報を足します、と。
七月二十八日、二十三時五十二分。
私は、余計な情報を、足した。
足した理由まで、自分から説明した。
……深夜だったので、この人は気づかなかったことにしてくれたらしい。
らしい、というのは、あとで思い返すと、あの目は、たぶん気づいていた。
八月九日のことは、ここには書かない。
書くと、長くなる。
二つだけ書く。
一つ。八月十二日の昼、大貫さんが、また停電の話をしていた。
「馬剃さん、あの三分間、温水主任が何したか分かります?」
「先日、伺いました」
「無線で『任せた』の一言だけっすよ。三文字」
「三文字ですね」
「三文字で二号館が動いたんです。あれ、事件ですよ」
私は、あの三分間、舞台の上にいた。
いたので、その三文字を、私は聞いていない。
「ところで馬剃さん、今週なんか元気じゃないっすか」
「通常です」
「通常の人、書類そろえながら鼻歌います?」
「歌っておりませんっ」
「歌ってましたって」
「――業務に、支障はありませんっ」
支障はない。
支障はないが、大貫さんの観察力は、たまに正しい。
二つ。撤収のあと、大講堂で二人になったとき、この人は「めちゃくちゃよかったです」と言った。
十二文字である。
私は、その十二文字を、帰りの電車で二十二回、数え直した。
二十三回目で、隣の乗客に顔を見られたので、やめた。
八月十三日、水曜日、二十時十分。
宅配便が届いた。
箱は、思っていたより大きかった。
私は玄関に立ったまま、その箱を四分見ていた。
開けたら後戻りできない、という種類の箱である。
開けた。
ピンクだった。
試着には、二十六分かかった。
厚底のブーツの紐で八分、白いタイツで四分。
残りは、猫耳の位置決めと、しっぽの角度である。
しっぽの角度に、正解はない。
存在しない衣装だからである。
ないので、私が決めた。四十五度である。
鏡の前に立った。
……三十四歳。
私は、鏡に向かって声を出した。
「本日は、売り子として参りました」
鏡は、答えない。
「会計と、在庫管理と、列の整理を担当します」
鏡は、答えない。
「……不審者ではありません」
鏡は、答えない。
「不審者ではありませんっ!」
鏡は、答えない。
「……これは、お礼ですっ」
「他意は、ありませんっ」
「エプロンは、売り子の作業着ですっ」
「猫耳は、キャラクターの一部ですっ」
「しっぽは……」
「しっぽは、」
「……しっぽの説明が、つきませんっ」
「他意は――」
……鏡が、答えないのが、いけない。
答えてくれれば、私は、そこで止まれた。
……深夜に、鏡に向かって語気を強める女が、ここにいる。
十六年前、私はこの衣装の二期版を着て、廊下の曲がり角に立った。
前の晩に、私は鏡の前で「にゃあ」を練習した。
高さを三種類試して、真ん中を採用した。
本番では、先に宣言した。
――にゃんとかは言いませんけど、と。
そう宣言しておいて、私は、最後に言った。
あれは、武器だった。
この人に効くと知っていて、知っていて使った。
効いた。
効いて、あの人は壇上に立ち、私の悪口を言う人がいたら朝まで語ると言った。
……そこまで効くとは、思っていなかった。
今回は、言わない。
今回は、頼みごとですらない。
頼まないのなら、武器は、要らない。
私は、そう決めた。
決めて、猫耳を外して、ハンガーにかけた。
二期の衣装は、もう手元にない。
一年半前、役所を出るときに、他の多くのものと一緒に処分した。
なぜ処分したのかは、あのとき考えなかった。
……いまも、考えないようにしている。
八月十六日、土曜日。
四時五十分に、目が開いた。
目覚ましは五時である。三回連続で、鳴る前に起きている。
体温三十六度六分。血圧、上が百四。
朝食は摂った。摂ったが、味は記録に残っていない。
六時十二分の電車に乗った。
七時二十分、会場着。
当然、入れない。
私は入れないことを知っていて、そこにいた。
……三十四歳の女が、八月の朝七時に、入れない建物の前に立っている。
九時三十分、コスプレ受付。
登録料、四百円。
支払いは現金のみ。おつりが出ないよう、四百円を用意しておいた。
十時十分、更衣室。
着替えに要した時間は、自宅の二十六分に対し、十四分だった。
人間は、二回目で四割速くなる。
十時二十四分、更衣室を出た。
そこから東ホールの、し-32bまでは、二百メートルある。
私は、その二百メートルを、二十六分かけて歩いた。
途中で三回、止まった。
一回目は、猫耳がずれたから。
二回目も、猫耳がずれたから。
三回目は、ずれていなかった。
ずれていない猫耳を直しながら、私は、自分が何をしにここへ来たのかを、口の中で三回唱えた。
「……売り子です」
「会計と、在庫管理と、列の整理」
「……業務です」
「エプロンは、業務に必要です」
「……必要では、ありませんっ」
「しっぽも、必要ではありませんっ」
「……九万二千円も、必要では」
そこで、私は口を閉じた。
通路の真ん中で、猫耳をつけた女が、自分と口論をしている。
業務ではない。
業務ではないので、規程がない。
規程がないと、私は歩けなくなる。
十時四十一分。
私は、島の角で止まった。
角から先が、見えていた。
パイプ椅子に、あの人が座っていた。
ペットボトルの水を飲んで、机の上の見本誌の角度を、二回直していた。
直し方が、雑だった。
十時四十一分から、十時五十分まで。
私は、動けなかった。
九分である。
九分あれば、私は、四十枚の資料の誤字を潰せる。
九分あれば、想定問答を三十問、暗唱できる。
その九分を、私は、角に立って消費した。
……逃げる、という選択肢が、頭に三回浮かんだ。
三回とも、私はそれを打ち消した。
打ち消せたのは、六月の非常階段で、この人が言ったことを覚えていたからである。
私は、角を曲がった。
「――温水さん」
声が、掠れた。
十六年前も、掠れた。
あの人の手から、ペットボトルが落ちた。
落ちて、二回跳ねて、通路へ転がっていった。
拾おうとして立ち上がった膝が、机の裏を叩いた。
釣銭箱が跳ねた。
じゃらじゃら、と、五百円玉が四十枚、床に散った。
……効いた。
九万二千円が、〇・四秒で回収された。
私は、そう判断した。
判断してから、自分の口角が上がっていることに気づいて、慌てて下ろした。
「……お拾いします」
「あ、うん」
「四十枚です」
「数えたの」
「音で、分かります」
「……馬剃さん」
「はい」
「え」
「はい」
「え?」
この人の目が、まん丸になっていた。
まん丸のまま、〇・五秒ごとに瞬きをしていた。
瞬きの間隔が、明らかに乱れている。
……効いている。
じわ、と、腹の底があたたかくなった。
この人が、こんなに分かりやすく動揺するのを、私は十六年ぶりに見た。
「行かないって、二回言ったよな」
「言いました」
「二回」
「二回です」
「嘘だったの?」
「嘘です」
即答した。
即答は、防具である。
防具を出した時点で、私は負けている。
「……その、格好は」
「アニメ『ギリギリアウトな女たち』の、チカピョンです」
「知ってる」
「三期のバージョンです」
「知ってるって!」
「……猫耳と、しっぽと、エプロンつきの」
「知って――待って」
「はい」
「三期に、メイド回あったっけ」
「ありません」
「ないよね」
「ありませんので、追加しました」
「追加」
「追加ですっ」
「なんで」
「……仕様です」
「誰が決めた仕様」
「――私ですっ」
出典は、いつも、私である。
今回ばかりは、明かしたくなかった。
この人が、がたん、と立ち上がった。
パイプ椅子が半歩下がって、床で鳴った。
――知っている。
この人は、知っている。
十六年前の廊下で、この人は「知ってる」と言った。
言って、それから、三秒くらい停止した。
いまも、停止している。
停止しているこの人の顔を見ながら、私は、ようやく息を吸えた。
「なんで、三期」
「二期の衣装は、もう手元にありませんので」
「いや、そうじゃなくて」
「三期は、昨年放送されました。現行のバージョンで臨むのが適切だと判断しました」
「適切」
「はい」
「どこで手に入れたんだよ」
「発注しました」
「発注」
「オーダーメイドです」
「……いくらしたの」
「申し上げられません」
九万二千円。
言えるわけがない。
この人は椅子に座り直して、両手で顔を覆った。
覆った指の隙間から、耳が見えた。赤かった。
……赤い。
私は、それを確認して、その事実を、頭の中の記録簿に一行書いた。
四月一日、この人は課の全員の前で「知り合い程度です」と言った。
知り合い程度の人間は、九万二千円を払わない。
……この矛盾については、あとで、私が私に説明する。
「馬剃さん」
「はい」
「コスプレって、登録が要るんだけど」
「済ませました」
「え」
「更衣室で着替えました。登録番号は――」
「いい、もういい」
「登録料は、四百円でした」
「そこは言うんだ」
「事実ですので」
「衣装の値段は」
「申し上げられません」
「情報の出し方に差がある」
「四百円は、公表されている金額ですので」
「衣装は」
「公表されておりません」
「誰も公表しないよ、そんなの」
「……ですので、申し上げられませんっ」
「いくらだったの」
「五桁ですっ」
「桁だけ言った」
「桁までが、限界ですっ」
五桁。
五桁の、いちばん上のほうである。
……そこまでは、言わない。
「規約は熟読しました。撮影については、サークルスペース内での撮影は不可です。ご希望の方には、コスプレエリアへの移動をご案内します」
規約は、三日前に読んだ。
全四十一項目。
うち、コスプレに関する記述は九項目。撮影に関する記述は六項目。
暗唱できる。
暗唱できるようにしておくと、こういう場面で、私は喋れる。
喋れないと、逃げてしまうからだ。
「あの、馬剃さん」
「はい」
「なんで、来たの」
「売り子です」
「いや、そうじゃなくて」
「本日は、売り子として参りました。会計と、在庫管理と、列の整理を担当します」
「そうじゃなくて」
「……」
「なんで、その格好で来たんだよ」
開場十分前のアナウンスが流れた。
私は、猫耳を直した。
「それ、直すの何回目」
「……七回目です」
「数えてるんだ」
「耳は、ずれます」
「そういう知見はいらない」
「重要な知見です」
「なんで重要なの」
「ずれた状態で人前に立つのは、キャラクターに失礼です」
「キャラクターに」
「失礼ですっ」
「馬剃さん、それ、けっこうオタクの言い方だよ」
「…………」
――しまった。
「あ、いま黙った」
「黙っておりませんっ」
「黙ってたって」
「……〇・八秒以内でしたので、沈黙には該当しませんっ」
「基準があるんだ」
「あります」
基準は、更衣室からここまでの二百メートルのあいだに作った。
根拠はない。
根拠はないが、基準があると、人は喋れる。
私は、息を吸った。
吸って、この人の目を見た。
「十六年前」
「はい」
「私は、これを着て、あなたに頼みごとをしました」
「……うん」
「今日は、頼みごとではありません」
私は、隣のパイプ椅子に座った。
座ってから、言った。
「返しに来ました」
言えた。
声は、震えていなかった。
震えていなかったことに、私は、少し驚いた。
この人は、何も返さなかった。
返さないまま、開場のブザーが鳴った。
東ホールが、一斉に音を立てはじめた。
ざあっ、と、波のような音が、天井のあたりから降ってきた。
私は、背筋を伸ばした。
「温水さん」
「うん」
「頒布価格は」
「五百円」
「釣銭は」
「五百円玉が四十枚と、千円札が三十枚」
「不足します」
「え」
「百五十部です。五百円玉が四十枚では、確実に足りません」
「両替に行きます。三分で戻ります」
「ああ、うん」
「その間、あなた一人になります」
「大丈夫。毎年一人だから」
時間が、止まった。
「……毎年、お一人なんですね」
「一人」
「五年間」
「五年間」
私は、走った。
厚底のブーツで会場内を走るのは、推奨されない。
推奨されないが、走った。
走らないと、顔が、まずいことになりそうだった。