(八月十六日/馬剃視点)
十一時、開場。
最初の一時間で、六十二部。
「馬剃さん」
「はい」
「なんか、人が来てるんだけど」
「来ていますね」
「なんで?」
「見本誌です」
「開いてあるページを、変えました」
「え」
「面積グラフのページです。通路から見えるように、角度をつけて立ててあります」
「……いつ」
「設営中に。ご相談せずに変更しました。申し訳ありません」
「いや、いいけど」
「通りかかった方が、足を止めます。足を止めた方は、見本誌を手に取ります。手に取った方は、七割ほど購入されます」
「数えてるの?」
「記録は取ります」
記録は取る。
開場から四十分で、通過人数が四百十二人。足を止めた方が五十八人。
手に取った方が三十九人。購入が二十七人。
六十九・二パーセントである。
この数字を、私は口に出さなかった。
出すと、この人は、また、あの顔をする。
あの顔をされると、私の手が止まる。
途中で、一人の方が声をかけてきた。
「既刊はありますか」
「すみません、今年は新刊だけで」
「じゃあ来年、これが既刊になったやつを」
「……残ってたら」
残りません。
私は、隣で小さくうなずいた。
うなずいたことに、この人は気づいた。
気づいて、口の端を〇・二秒だけ上げた。
……見た。
開場前、私はこの人に「ここを開いておきましょう」と言った。
言ったとき、私は自分の指が震えていないかだけを気にしていた。
「五百円になります。ありがとうございます」
釣銭は、両手で渡す。
渡し終わったら、目を見て、十五度。
十五度というのは、役所で叩きこまれた角度である。
十年やると、体が勝手にその角度で止まる。
こんなところで役に立つとは、思っていなかった。
列の三人先まで見ておく。
千円札の方と、五百円玉の方を、頭の中で先に分ける。
分けておくと、手が迷わない。
途中から、この人は本を取るだけになった。
取るだけになって、それから、手が止まった。
「温水さん」
「はい」
「手が、止まっています」
「……すみません」
「三冊、遅れています」
「はい」
私は、この人の視線の先を確認しなかった。
確認しなかったのは、確認すると作業が止まるからである。
……それだけである。
列の中に、常連らしい方がいた。
「今年、様子が違いますね」
「グラフが、よくなったんで」
私は、頒布物を渡す手を、一瞬だけ止めた。
この人は、いま、私の言葉を使った。
十一時五十分、列が一度切れた。
三分ほど、誰も来なかった。
私は、その三分を無駄にしないことにした。
「温水さん」
「うん」
「今朝、両隣の方と、何を話されたんですか」
「え? 普通に挨拶したけど」
「再現してください」
「再現?」
「再現してください」
この人は、少し困った顔をして、それから、朝の会話を再現した。
「温水さん、おはようございます」
「おはようございます。今年も暑いですね」
「今年は空調が効いてますよ」
「本当ですか」
「嘘です」
「……嘘なんですね」
「嘘なんだよ」
「続けてください」
「今年の新刊は、放流量ですか」
「ダムカードの配布実績に方向転換しました」
「攻めましたね」
「攻めました」
「……攻めていらっしゃるんですね」
「攻めてるね」
「その方に、私の格好は」
「たぶん、なにも言われない」
「なぜですか」
「そういう場所だから」
私は、それを手帳に書いた。
「書くんだ、それ」
「書きます」
「なんで」
「私が、いなかった時間だからです」
書いてから、私は、余計な情報を足したことに気づいた。
「温水さん」
「うん」
「残り四十二部です」
「え、もう?」
「十二時三十分の時点で、四十二部です。あと一時間で切れます」
「……」
「頒布制限をかけますか」
「かけない」
「最後尾札は、どなたが持つのですか」
「並んでる人の最後の人。渡すと、みんな普通に持ってくれる」
「……初対面の方に、札を」
「持ってくれるんだよ、これが」
「不思議な場所です」
「不思議かな」
「役所で、初対面の方に何かを預けたことは、十年で一度もありません」
「まあ、そうだろうね」
「ここは、預けますね」
「預けるね」
本当に、不思議である。
役所で、初対面の相手に何かを預けたことは、十年で一度もない。
「では、完売時のアナウンス文を用意します」
「用意するんだ」
「列の最後尾の方に、事前にお伝えする必要があります」
「文面は」
「『まもなく頒布終了です。おおよそ、あと二十名様で完売いたします』」
「おおよそ、が入るんだ」
「断定して外すと、信用に関わりますので」
「役所っぽい」
「役所で覚えました」
「使いどころが独特だな」
「応用ですっ」
右隣の方が、通路の向こうから情報をくれた。
「西のカレー、四十分待ちだそうです」
「並ばれるのですか」
「並ばないです。これが昼です」
「昼食は、四十分待つ価値がある行事では」
「ないです。本が優先なんで」
「……理解しました」
この人が鞄から出したのは、ゼリー飲料だった。
「……それが、昼ですか」
「コミケの昼です」
「文化ですか」
「文化です」
文化らしい。
私は、手帳の余白に「昼食=ゼリー」と書いた。
書いてから、その横に、小さく「要改善」と書き足した。
「温水さん」
「うん」
「来年は、私が用意します」
「来年」
「……」
「いま、来年って」
「――仮定の話ですっ!」
仮定である。
仮定なので、記録には残らない。
……残らないはずのものを、私は、いま、手帳に書いてしまった。
十二時を過ぎたころ、両隣の方が声をかけてきた。
「温水さん、今年すごいですね」
「なんか、そうみたいで」
「あと、その、そちらの方は」
「あ、うちの、えっと」
この人が、詰まった。
〇・八秒。
……沈黙に、該当する。
私は、座ったまま頭を下げた。
「売り子の馬剃と申します。本日はよろしくお願いいたします」
「あ、はい、こちらこそ」
「あの、なにかありましたら、お声がけください」
「はい」
「うちの、えっと」の続きは、聞かなかった。
この人がそこで言えなかった説明は、たぶん、「同僚がチカピョンの格好でうちの売り子をやっています」である。
成立しない。
成立しないので、この人は詰まった。
詰まらせたのは、私である。
……私は、その事実を、少しだけ、嬉しく思った。
「馬剃さん」
「はい」
「名刺、持ってきてる?」
「持参しております」
「なんで」
「万が一です」
「万が一って、この前〇・〇一パーセントって言ってましたよね」
「本日は、三パーセントと見積もっております」
「上がってる」
「場所が場所ですので」
十二時三十分、交代で昼休憩。
「四十五分で戻ります」
「一時間でいいよ」
「四十五分です」
四十五分。
「その格好で行くの」
「更衣室に寄る時間が、ありませんので」
「しっぽ、踏まれない?」
「――踏ませませんっ」
「気合い入ってる」
「入っておりませんっ」
内訳は、巡回に四十分、移動の予備に五分。
私は立ち上がる前に、手帳を開いて経路を確認した。
「馬剃さん、それ」
「昼食の、経路の確認です」
「丸、十九個あるけど」
「……経路上の、確認事項です」
十九個の丸。
うち、昼食に該当するものは、ゼロである。
十九サークル。
一サークルあたりの持ち時間は、二分十秒。
私は、Webカタログを三晩かけて読んだ。
三晩というのは、正確には、八月十日、十一日、十二日の、それぞれ二十三時から二時までである。
チェックしたのは五十七サークル。本日回れるのは、十九。
三十八サークルを、私は落とした。
落とすときは、いつも、名簿から人を消すのに似ている。
途中、二度、声をかけられた。
「そのチカピョン、三期ですよね」
「三期です」
「エプロン、公式にありましたっけ」
「――ございませんっ」
「ですよね」
「……独自解釈ですっ」
「猫耳としっぽも、公式には」
「――ございませんっ!」
「全部盛りですね」
「……全部、盛りましたっ」
「いいと思います」
いいらしい。
この会場では、独自解釈は、褒め言葉である。
十四番目までは、順調だった。
列は短く、頒布は速く、私は経路上を〇・五分の遅れで進んでいた。
問題は、十七番目である。
十七番目のスペースで、頒布物を受け取ろうとしたときだった。
前に並んでいた二人組の片方が、連れの方に、何かを言った。
内容は、書かない。
書かないが、その一言は、この会場の空気そのものだった。
誰にも許可を取らず、誰にも遠慮せず、自分の「好き」を、真昼の音量で。
私の鼻腔は、その瞬間に、判断を下した。
ぶわ、と、来た。
私は、〇・七秒でポケットティッシュを出した。
出せた自分を、褒めたい。
十六年、この体質と付き合ってきた人間の速度である。
私は柱の陰に入り、上を向かず、鼻の付け根を押さえた。
三分十秒で、止まった。
……予備の五分が、こんな形で消える。
紙袋は、三つになった。
二十四冊。
一冊も、開いていない。
開けない。
この一年半、私は、一冊も開けていない。
買うことだけは、やめられていない。
部屋には、開けていない箱がある。
箱の数は、書かない。
四十四分後、私はスペースに戻った。
「……昼飯は」
「摂りました。ゼリー飲料を、立ち止まって」
「歩きながらじゃなくて」
「歩行中の飲食は、推奨されていません」
「そこは守るんだ」
「はい」
「あと、馬剃さん」
「はい」
「鼻血、出てます」
「……」
手が、止まった。
鞄の中でティッシュを探す時間は、〇・八秒。
「出ていません」
「もう拭いてるじゃん」
「……乾燥です」
「八月だよ」
「会場の空調による、乾燥です」
「今日の東ホール、たぶん湿度八十あるけどな」
「……個人の乾燥です」
「個人の乾燥ってなに」
「――う、うるさいですねっ!」
立っていた。
立ち上がった記憶が、ない。
がしゃん、と、後ろでパイプ椅子が倒れた。
「乾燥ですっ! 乾燥ですし、それ以上でもそれ以下でもありませんっ! 私の鼻腔の状態は、私の管轄ですっ!」
「管轄」
「管轄ですっ!」
管轄。
この単語を口に出したのは、十年ぶりである。
十年前、私はこの単語を、国会の想定問答の第四十七問で使った。
あのときは、深夜二時だった。
いまは、真昼の東ホールである。
かあっ、と、首まで熱が上がった。
両隣の島の方々が、そろってこちらを見ていた。
私は、ぴん、と背筋を伸ばした。
伸ばしてから、椅子が倒れていることに気づいた。
……気づくのが、遅い。
そろそろと起こして、座った。
「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」
「してないよ」
「頭の中もです」
「そこまで没収されるんですか」
「没収しますっ」
「没収の根拠は」
「――ありませんっ」
「ないんだ」
「ありませんが、しますっ」
根拠がない。
十六年前、私は根拠のないものを没収したことが、一度もない。
今日、初めて、根拠なく没収した。
この人の頭の中を、である。
できるわけがない。
この人が、紙袋に目をやった。
「……それは」
「調査です」
「調査」
「業務外の、個人的な調査です」
「調査で、鼻血が出る?」
肩が、びくっ、と跳ねた。
跳ねたあとで、私は紙袋を両手で抱えこんでいた。
抱えこんだことに、抱えこんでから気づいた。
……最悪である。
これでは、隠したいものがあると、全身で申告している。
私は、そろそろと紙袋を下ろした。
「……体質です」
「体質」
「昔からの体質です。ご存じのはずですが」
「まあ、知ってるけど」
「では、話は終わりです」
「何冊」
「……二十四冊です」
「即答なんだ」
「精算のためです。合計、一万八千四百円でした」
「聞いてないです」
「一冊あたり、七百六十六円です」
「割らなくていい」
「単価は、重要な指標ですっ」
「その単価、俺に報告する必要ある?」
「…………」
「ないよね」
「……ありませんっ」
ない。
私は、なぜ割ったのか。
割ると、それが業務になるからである。
業務にしてしまえば、私は、その紙袋を机の下に置ける。
私は、紙袋を机の下のいちばん奥に置いた。
置き方は、丁寧にした。
中身は、たぶん、一年開かない。
「というか、初めて来たのに、よく場所が分かったね」
「Webカタログを、事前に確認しました」
「確認って、どのくらい」
「……三晩です」
「三晩」
「チェックは五十七サークルでした。本日は時間の都合で、十九に絞りました」
「絞ってそれなんだ」
「優先順位づけは、業務の基本です」
「業務外なんだよね、それ」
「……基本は、応用できます」
私は、鞄からアルミの小袋を出した。
破って、口に入れて、水で流しこんだ。
苦い。
十六年、この苦さと付き合っている。
「なにそれ」
「薬です」
「なんの」
「……漢方です」
「体調悪いの」
「悪くありません」
「じゃあ、なんで」
「……予防です」
「なんの予防?」
「…………」
効能・効果の欄の、三番目。
そこに、二文字ある。
私は、その二文字を、いつも読まない。
読まなくても、十六年前から覚えている。
私は、空の小袋を四つ折りにして、鞄に戻した。
捨てなかった。
この会場のごみ箱が混んでいるからではない。
印刷面が、外を向いているからである。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、いつから飲んでるの」
「十六年前からですっ」
「即答」
「即答です」
「大声」
「……申し訳ありません」
この人は、小袋の文字を見た。
見て、目を〇・五秒で外した。
外し方が、うますぎた。
――読めたのだ。
読めて、読まなかったことにした。
私は、その〇・五秒を、たぶん一生忘れない。
写真を求められたのは、六回だった。
「申し訳ありません。サークルスペース内での撮影はできかねます。コスプレエリアでしたら、十四時以降でしたら伺えます」
六回とも、同じ文で答えた。
四人の方が「あ、はい」と言って、そのまま本を買ってくださった。
一人だけ、少し粘る方がいた。
この人が立ち上がろうとしたのが、視界の端で分かった。
立たせるわけにはいかない。
ここは、この人の五年ぶんの場所である。
「恐れ入りますが、ここは頒布の場です。後ろにお並びの方がいらっしゃいますので」
その方は、頭を下げて離れていった。
……心臓は、どくどく鳴っていた。
鳴っていたが、声は震えなかった。
声だけは、十年ぶん鍛えてある。
最後の一冊が出る三人前で、私は立ち上がった。
「恐れ入ります。まもなく頒布終了です。おおよそ、あと三名様で完売いたします」
列から、「おおー」と声が上がった。
三名様は、全員お買い上げだった。
十三時四十分、完売。
完売の札を出すと、両隣の方が拍手をくださった。
「これは、慣例ですか」
「慣例です」
「拍手も、慣例ですか」
「拍手も慣例」
「……よい慣例ですね」
「よい慣例だよ」
慣例。
四月に、私がいちばん憎んだ単語である。
私は、その拍手の回数を数えようとした。
数えられなかった。
数えられなかったのは、四月以来である。
この人が、隣にダムの本を買いに行った。
「新刊ください」
「温水さん、完売おめでとうございます」
「どうも。そちらは」
「あと六十部です」
「……」
「ダムは、これからなんで」
「これから、ですか」
「放流は、午後なんで」
名言だと思う。
私は、それも手帳に書いた。
「馬剃さん」
「はい」
「完売した」
「はい」
「初めてだ」
「そうですか」
「五年で初めて」
「……そうですか」
「そうですか」しか、言えなかった。
それ以上の長さを口にすると、声が割れる。
私は電卓を叩いていた。
叩いていれば、こちらを見なくて済む。
見られなくて、済む。
隣で、この人が空の机を見ているのが、視界の端に映っていた。
そのあとのことは、私の管轄外である。
「馬剃さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「……いえ」
「本当に、ありがとうございました」
「二回、言わなく――」
「いや、本当に、ありがとう! なんとお礼を言ったらいいか!」
「……」
この人が、大きな声を出した。
十六年で、二度目である。
一度目は、七月十七日の「馬剃さん!」だった。
「完売だよ! 五年で初めてなんだ!」
「……はい」
「グラフ! あのグラフだよ! あれ、六分だろ! 六分!」
「……六分です」
「六分!」
「……はい」
その時点で、私は、気づいていた。
手を、握られている。
両手で、である。
電卓を持ったままの右手を、この人が両手で握って、上下に振っていた。
ぶんぶん、である。
電卓が、かたかた鳴っていた。
この人は、気づいていない。
気づかないまま、六分のグラフの話を、大声でしている。
「見本誌の角度も! 俺、五年、まっすぐ立ててたんだよ! まっすぐ!」
「……はい」
「二か月ぶんが三時間だよ! 俺の二か月が!」
「……あの」
「よくある質問も六十三項目! 六十三!」
十一秒である。
気づいてから申し上げるまでに、私は十一秒を要した。
十一秒は、長い。
私は、深夜二時の役所で、三十秒あれば答弁を一本直した。
その私が、四文字を言うのに十一秒かかった。
思考が、白かった。
白いところに、文字が一つだけ浮かんでいた。
――手。
十六年。
この人と手が触れたことは、一度もない。
一度も、ない。
ぼっ、と、耳から火が出たと思った。
実際には、出ない。
出ないが、体感としては、出た。
「……温水さん」
「なに!」
「……手が」
「手?」
「手です」
この人は、下を見た。
見て、手を離して、そのまま両腕が来た。
抱きしめられていた。
一秒も、なかった。
手が自由になったと認識する前に、私は、体ごと収まっていた。
思考は、しなかった。
できる状態では、なかった。
顔の横に、この人の肩があった。
猫耳が、この人の顎に当たって、少し傾いた。
……傾いた。
私は、そのとき、猫耳の角度を気にした。
こんなときに猫耳の角度を気にする人間が、ここにいる。
あたたかかった。
それだけである。
それだけのことを、私は、たぶん一生忘れない。
両手の行き場が、なかった。
上げるのも違う。下ろすのも違う。
背中に回すのは、絶対に違う。
私の両手は、この人の背中の手前で、行き場を失って止まった。
止まったまま、三秒が過ぎた。
三秒である。
私は、その三秒を、正確に測った。
測ってしまった。
――離れてください。
と、私は、言わなかった。
言わなかったことについては、あとで、自分に説明を求めることにする。
この人の腕が、先に離れた。
「――っ」
「ごっ、ごめんっ!」
「……」
「いまの、その、わざとじゃなくて」
「……」
「いや、わざとではあるんだけど、意図としては」
「――#MeToo案件だ」
声に、出ていた。
本人には、出ている自覚がない。
この人は、追いつめられると、頭の中の言葉がそのまま口から出る。
四月から数えて、四回目の観測である。
「違いますっ」
「え」
「#MeToo案件では、ありませんっ!」
「……声、出てた?」
「出ておりましたっ!」
「いや、でも、これ、完全にそれだって」
「該当しませんっ!」
「手を握って、上下に振って、そのあと抱きしめたよ。抱きしめたんだよ」
「――当事者が、該当しないと申し上げておりますっ!」
当事者である。
当事者が言うのだから、該当しない。
……この論法が通らないことは、私がいちばんよく知っている。
「就業規則の、何条だっけ」
「ハラスメント防止規程第四条ですっ」
「即答」
「即答ですっ」
「なんで知ってんの」
「――暗記しておりますからっ!」
暗記している。
四月に通読して、附則まで頭に入れた。
入れておいてよかった、と思った自分を、私はあとで叱ることにする。
「月曜、相談窓口に自分から行く」
「行かないでください」
「先に申告したほうが、心証がいいんだよ」
「行かないでくださいっ!」
「委員会が立ち上がったら、俺は」
「立ち上がりませんっ!」
「立ち上がらないの」
「立ち上がりませんっ! 申立人が、おりませんっ!」
言ってから、私は、自分が何を申し上げたかを理解した。
「馬剃さん」
「はいっ」
「申立人、いないの」
「――おりませんっ!」
私は、その右手を左手で包んで、机の下に隠した。
隠してから、しまった、と思った。
隠すという行為は、隠したいものがあると申告する行為である。
私は今日、二回目の申告をした。
なお、「離してください」と、私は申し上げていない。
一度も、申し上げていない。
七月二十四日の夜、私は、二つ目の理由を書かなかった。
ここに、書く。
――そういう目で、見てほしかった。
……書いた。
書いたので、このページは、あとで破る。
破るが、破る前に、もう一度読む。
「温水さんっ」
「はい」
「ただいまのは、業務上の必要が、ありましたかっ!」
「ないです」
「ないんですかっ!」
「ないな」
「ないのに、なぜっ!」
「嬉しかったから」
「…………」
――ずるい。
この人は、こういうことを、なんでもない顔で言う。
どすん、と、七月十七日と同じ場所に、同じ重さのものが落ちた。
落ちた場所が、今日は、握られた手のあたりまで熱を伝えた。
「馬剃さん?」
「――そういうのが、いけないんですっ!」
「怒られてる」
「怒っておりませんっ!」
「怒ってるって」
「あなたは、いつもそうですっ! 人の、こ、心の準備の、外側から来ますっ!」
「心の準備」
「要りますっ! 私には、要るんですっ!」
なぜ怒っているのかを、私は説明できない。
説明できないものを、私は、怒りと呼ぶことにしている。
そうしないと、別の名前になる。
私は、両手で顔を扇いだ。
扇いで、水を三口飲んだ。
三口では、下がらなかった。
「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」
「今日、二回目だよ、それ」
「二回、申し上げますっ」
「馬剃さん」
「なんですかっ」
「まだ赤いよ」
「――赤くありませんっ!」
「怒ってる理由、聞いてもいい?」
「お答えできませんっ!」
「今日、二回目だな、それも」
「二回目ですっ!」
「あと」
「まだあるんですかっ」
「その猫耳としっぽ、触らせて」
脳が、止まった。
「セ、セクハラですっ!!」
「いや、衣装だから」
「衣装は、私が着ておりますっ!」
「あ、そうか」
「そうかで済む話では、ありませんっ!」
「じゃあ、耳だけ」
「減っておりませんっ!」
「委員会、立ち上がる?」
「――立ち上げますっ! 申立人が、できましたっ!」
申立人が、できた。
三分前には、いなかった。
私は、しっぽを両手で押さえて、椅子ごと三十センチ下がった。
下がってから、気づいた。
押さえるという行為は、そこに何かがあると申告する行為である。
私は今日、三回目の申告をした。
「……水を、もう一本、買ってまいりますっ」
「完売したから、もう店じまいだよ」
「――では、我慢しますっ」
我慢した。
我慢するしかない状況が、この世には、あるらしい。
私は、電卓を持ち直した。
持ち直して、叩いた。
叩いていた指が、同じキーを二回押した。
押した理由は、もう、書くまでもない。
私は全部消して、最初からやり直した。
二回目も、間違えた。
……二回目のことは、書かないでおく。
「売上、七万五千円です。うち釣銭準備金が五万ですので」
「馬剃さん」
「はい」
「そこ、あとでいい」
「精算は、当日中が原則です」
「原則は分かるけど」
「では、三分お待ちください」
三分で、終わらせた。
電卓を置いて、両手を膝の上にそろえた。
「……終わりました」
「はい」
「あの」
「はい」
「楽しかったです」
言うつもりは、なかった。
言うつもりのなかったことが、口から出た。
出てから、私は自分の口を疑った。
「私、こういう場所に来たのは、初めてです」
「……そうだよね」
「生まれて、初めてです」
「うん」
「人が、多いですね」
「多いな」
「あんなに人がいるのに、誰も、他人のことをどうこう言いません」
「言わないな」
「……不思議です」
「ここ、誰が何着てても、誰も気にしないから」
「はい」
「本の内容も、誰も否定しない。買うか、買わないかだけだから」
「……いい場所ですね」
「いい場所だよ」
「……もっと、早く来ればよかったです」
この人は、たぶん、こう考えている。
私には来る理由がなかったのだ、と。
違う。
理由はあった。
十七年、ずっとあった。
私が、来てはいけないことにしていた。
生徒会の副会長が、来てはいけない。
受験生が、来てはいけない。
役所の人間が、来てはいけない。
誰にも言われていない。
全部、私が決めた。
決めたので、私は十七年、この天井の音を知らなかった。
「馬剃さん」
「はい」
「来年も、来る?」
来年。
私は、来年の八月十六日に自分がどこにいるかを、知らない。
知らないのに、口のほうが先に動いた。
「……にゃあ」
言った。
――言ってしまった。
頭の中で、なにかが、ぱあん、と割れた。
十六年前は、武器だった。
今日は、武器ではない。
武器でないものを、私は、いま、無防備に置いた。
この人が、空になった机に額をつけた。
つけたまま、動かなくなった。
私は、その頭を見ていた。
見ながら、猫耳を直した。
八回目である。
周りは、うるさかった。
うるさいのに、私の耳には、この人の呼吸の音だけが聞こえていた。
「温水さん」
「……うん」
「顔を上げてください」
「無理」
「撤収の時間です」
「あと三分」
「三分後には、次の方が来ます」
三分。
私は、その三分を、正確には測らなかった。
測らなかったのは、社会人になって、初めてである。
撤収のあいだ、私は一度も、この人の顔を見なかった。
見られなかった、が正しい。
十数分前に、この人は私を抱きしめた。
抱きしめられたほうの体は、まだ、正常値に戻っていない。
あのとき、この人の目の高さに、私の首筋があった。
あそこには、ホクロが一つある。
……見られた。
十六年前も、たぶん、見られている。
布をたたむとき、両端を持って、真ん中で合わせた。
合わせたところで、指が触れた。
「……失礼しました」
「いや、こっちこそ」
〇・二秒である。
〇・二秒で、心臓が、どくん、と一回、大きく鳴った。
鳴った音が、たぶん、耳まで届いていた。
「私が持ちます」
「軽いから、いいって」
「持ちますっ」
三百グラムの布を、私は両手で抱えた。
両手が塞がっていれば、指は、触れない。
「馬剃さん」
「はい」
「布、裏表」
「……裏表では、ありませんっ」
「裏だよ」
「…………」
「馬剃さん」
「……裏でした」
私は、たたみ直した。
たたみ直すあいだ、この人は、何も言わなかった。
何も言われないほうが、こたえる。
「馬剃さん」
「はい」
「これ」
「……」
「完売したから、馬剃さんの分がない」
「……」
「見本誌でよければ」
「……よろしいのですか」
「いいよ」
「見本誌は、記録用では」
「今年はもう終わったから」
私は、両手を出した。
布を持ったままだったので、一度、机に置いた。
置く動作に、四秒かかった。四秒は、長い。
受け取ってから、私は財布を出した。
「五百円です」
「いらないよ」
「頒布価格です」
「売り子は、一冊もらえるんだよ。毎年の慣例で」
「…………」
「慣例です」
――ずるい。
この単語で来られると、私は、断れない。
四月に私がいちばん憎んだ単語で、この人は、私に一冊よこそうとしている。
「……いただきます」
「どうぞ」
「……頂戴、いたします」
「二回言ったな」
「二回、言いました」
二回言いました。
一回では、私が信じられなかったからである。
そのあと、この人は、聞かなくてもいいことを聞いた。
「馬剃さん」
「はい」
「さっきの」
「なんでしょうか」
「さっきの、あれ」
「存じません」
「言ったよね」
「言っておりません」
「言ったって」
「記録に、残っておりませんっ」
「俺の頭の中に残ってる」
「――没収しますっ」
「根拠は」
「ありませんっ!」
根拠は、ない。
ないので、私は猫耳を外した。
外して、両手で持った。
持っていないと、手が、行き場を失う。
床の巾木を、目で三往復した。
三往復して、四往復目の途中で、私は口を開いた。
「……『はい』と、申し上げました」
言った。
――言ってしまった。
顔が、耳が、首が、順番に熱くなっていった。
ぼっ、と音がしたと思う。実際には、しない。
「馬剃さん」
「はい」
「もう一回」
「――お断りしますっ!」
私は猫耳をかぶり直した。
九回目の位置調整をして、それから、まっすぐこの人を向いた。
向けたのは、その一瞬だけである。
「十四時以降と、六名の方に申し上げました」
「あー、言ってたね」
「参ります。約束ですので」
「うん」
「……荷物を、見ていてください」
「見てる」
私は、歩いた。
厚底のブーツで、島と島のあいだを、まっすぐ歩いた。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん、走って戻っていた。
五歩だけ歩いて、私は、一度だけ足を止めた。
「……十分で戻ります」
「一時間でいいよ」
「十分ですっ」
「さっき四十五分って言ってたときと、同じ顔してる」
「――同じ顔では、ありませんっ!」
同じ顔だった。
鏡がなくても、分かる。
りんかい線の中で、スマートフォンが鳴った。
志喜屋先輩である。
月に一度、十六年、この方はかけてくる。
『……もしもし』
「お世話になっております」
『……声が』
「声が、なんでしょうか」
『……高い』
「通常です」
『……〇・五音、高い』
「気のせいですっ」
『……天愛星ちゃん』
「はい」
『……衣装、どうだった』
「……なぜ、ご存じなんですかっ」
『……七月に、採寸の相談、してきたでしょ』
「……業務上の質問ですっ」
『……採寸が、業務』
「……」
『……十六年ぶりだったね』
「なにが、ですか」
『……あなたが、私に、頼みごとをしたの』
「…………」
『……何が、あったの』
「…………」
『……いま、三秒』
「……二・八秒ですっ」
『……ふふ』
「切りますっ」
『……天愛星ちゃん』
「なんでしょうか」
『……今日、楽しかった?』
「…………」
『……はい、って聞こえた』
「聞こえておりませんっ!」
私は、通話を切った。
切ってから、切ったことを謝る文面を送った。
既読が、〇・四秒でついた。
二十時四十分、帰宅。
鏡の前で、私はもう一度、衣装のまま立った。
立って、十一分、動かなかった。
「……お礼、でした」
「お礼、でしたっ」
「……半分は」
鏡は、答えない。
答えないので、私は着替えた。
衣装をハンガーにかけた。
猫耳を、箱に戻した。
ずれていないことを、二回確認した。
紙袋を三つ、部屋の隅に置いた。
開けていない箱の、上である。
一冊だけ、手に取った。
三秒、表紙を見た。
戻した。
……戻せた。
戻せてしまったことを、私は、しばらく座って考えていた。
考えて、それから、鞄からもう一冊を出した。
見本誌である。
角に、値札のシールが、まだ貼ってある。
私は、それを剥がさなかった。
開いた。
序文だった。
七月二十二日に、私が三分で書かせた文章である。
三回、読んだ。
四回目で、電気を消した。
消してから、もう一度つけた。
……一年半、私はどの本も開けていない。
この一冊だけが、開いた。
手帳を出した。
貸借を、計算する。
六月の十日間。八月九日の八百人。七月の十一日間。
返した。
返したはずである。
……合わない。
返しに来たのに、増えている。
私は、八月十六日の欄に、一行だけ書いた。
――完売。
書いてから、消した。
消して、書き直した。
――来年も。
……主語が、ない。
ないのではない。
二つあるから、書けなかったのだ。
私は、その一行を、消さなかった。
電気を消した。
暗い天井に向かって、私は、口の形だけで、一度言った。
声は、出さなかった。
出したら、たぶん、明日から働けない。