大学職員の僕たち   作:房吉

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~11敗目・裏~ 特急料金(後編)

 (八月十六日/馬剃視点)

 

 十一時、開場。

 

 最初の一時間で、六十二部。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「なんか、人が来てるんだけど」

 

「来ていますね」

 

「なんで?」

 

「見本誌です」

 

「開いてあるページを、変えました」

 

「え」

 

「面積グラフのページです。通路から見えるように、角度をつけて立ててあります」

 

「……いつ」

 

「設営中に。ご相談せずに変更しました。申し訳ありません」

 

「いや、いいけど」

 

「通りかかった方が、足を止めます。足を止めた方は、見本誌を手に取ります。手に取った方は、七割ほど購入されます」

 

「数えてるの?」

 

「記録は取ります」

 

 記録は取る。

 

 開場から四十分で、通過人数が四百十二人。足を止めた方が五十八人。

 手に取った方が三十九人。購入が二十七人。

 

 六十九・二パーセントである。

 

 この数字を、私は口に出さなかった。

 

 出すと、この人は、また、あの顔をする。

 あの顔をされると、私の手が止まる。

 

 途中で、一人の方が声をかけてきた。

 

「既刊はありますか」

 

「すみません、今年は新刊だけで」

 

「じゃあ来年、これが既刊になったやつを」

 

「……残ってたら」

 

 残りません。

 

 私は、隣で小さくうなずいた。

 

 うなずいたことに、この人は気づいた。

 気づいて、口の端を〇・二秒だけ上げた。

 

 ……見た。

 

 

 

 

 開場前、私はこの人に「ここを開いておきましょう」と言った。

 

 言ったとき、私は自分の指が震えていないかだけを気にしていた。

 

 

 

 

「五百円になります。ありがとうございます」

 

 釣銭は、両手で渡す。

 

 渡し終わったら、目を見て、十五度。

 

 十五度というのは、役所で叩きこまれた角度である。

 十年やると、体が勝手にその角度で止まる。

 

 こんなところで役に立つとは、思っていなかった。

 

 列の三人先まで見ておく。

 

 千円札の方と、五百円玉の方を、頭の中で先に分ける。

 分けておくと、手が迷わない。

 

 途中から、この人は本を取るだけになった。

 

 取るだけになって、それから、手が止まった。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「手が、止まっています」

 

「……すみません」

 

「三冊、遅れています」

 

「はい」

 

 私は、この人の視線の先を確認しなかった。

 

 確認しなかったのは、確認すると作業が止まるからである。

 

 ……それだけである。

 

 列の中に、常連らしい方がいた。

 

「今年、様子が違いますね」

 

「グラフが、よくなったんで」

 

 私は、頒布物を渡す手を、一瞬だけ止めた。

 

 この人は、いま、私の言葉を使った。

 

 

 

 

 十一時五十分、列が一度切れた。

 

 三分ほど、誰も来なかった。

 

 私は、その三分を無駄にしないことにした。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「今朝、両隣の方と、何を話されたんですか」

 

「え? 普通に挨拶したけど」

 

「再現してください」

 

「再現?」

 

「再現してください」

 

 この人は、少し困った顔をして、それから、朝の会話を再現した。

 

「温水さん、おはようございます」

 

「おはようございます。今年も暑いですね」

 

「今年は空調が効いてますよ」

 

「本当ですか」

 

「嘘です」

 

「……嘘なんですね」

 

「嘘なんだよ」

 

「続けてください」

 

「今年の新刊は、放流量ですか」

 

「ダムカードの配布実績に方向転換しました」

 

「攻めましたね」

 

「攻めました」

 

「……攻めていらっしゃるんですね」

 

「攻めてるね」

 

「その方に、私の格好は」

 

「たぶん、なにも言われない」

 

「なぜですか」

 

「そういう場所だから」

 

 私は、それを手帳に書いた。

 

「書くんだ、それ」

 

「書きます」

 

「なんで」

 

「私が、いなかった時間だからです」

 

 

 

 

 書いてから、私は、余計な情報を足したことに気づいた。

 

 

 

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「残り四十二部です」

 

「え、もう?」

 

「十二時三十分の時点で、四十二部です。あと一時間で切れます」

 

「……」

 

「頒布制限をかけますか」

 

「かけない」

 

「最後尾札は、どなたが持つのですか」

 

「並んでる人の最後の人。渡すと、みんな普通に持ってくれる」

 

「……初対面の方に、札を」

 

「持ってくれるんだよ、これが」

 

「不思議な場所です」

 

「不思議かな」

 

「役所で、初対面の方に何かを預けたことは、十年で一度もありません」

 

「まあ、そうだろうね」

 

「ここは、預けますね」

 

「預けるね」

 

 本当に、不思議である。

 

 役所で、初対面の相手に何かを預けたことは、十年で一度もない。

 

「では、完売時のアナウンス文を用意します」

 

「用意するんだ」

 

「列の最後尾の方に、事前にお伝えする必要があります」

 

「文面は」

 

「『まもなく頒布終了です。おおよそ、あと二十名様で完売いたします』」

 

「おおよそ、が入るんだ」

 

「断定して外すと、信用に関わりますので」

 

「役所っぽい」

 

「役所で覚えました」

 

「使いどころが独特だな」

 

「応用ですっ」

 

 右隣の方が、通路の向こうから情報をくれた。

 

「西のカレー、四十分待ちだそうです」

 

「並ばれるのですか」

 

「並ばないです。これが昼です」

 

「昼食は、四十分待つ価値がある行事では」

 

「ないです。本が優先なんで」

 

「……理解しました」

 

 この人が鞄から出したのは、ゼリー飲料だった。

 

「……それが、昼ですか」

 

「コミケの昼です」

 

「文化ですか」

 

「文化です」

 

 文化らしい。

 

 私は、手帳の余白に「昼食=ゼリー」と書いた。

 書いてから、その横に、小さく「要改善」と書き足した。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「来年は、私が用意します」

 

「来年」

 

「……」

 

「いま、来年って」

 

「――仮定の話ですっ!」

 

 仮定である。

 

 仮定なので、記録には残らない。

 

 ……残らないはずのものを、私は、いま、手帳に書いてしまった。

 

 十二時を過ぎたころ、両隣の方が声をかけてきた。

 

「温水さん、今年すごいですね」

 

「なんか、そうみたいで」

 

「あと、その、そちらの方は」

 

「あ、うちの、えっと」

 

 この人が、詰まった。

 

 〇・八秒。

 

 ……沈黙に、該当する。

 

 私は、座ったまま頭を下げた。

 

「売り子の馬剃と申します。本日はよろしくお願いいたします」

 

「あ、はい、こちらこそ」

 

「あの、なにかありましたら、お声がけください」

 

「はい」

 

 「うちの、えっと」の続きは、聞かなかった。

 

 この人がそこで言えなかった説明は、たぶん、「同僚がチカピョンの格好でうちの売り子をやっています」である。

 

 成立しない。

 

 成立しないので、この人は詰まった。

 詰まらせたのは、私である。

 

 ……私は、その事実を、少しだけ、嬉しく思った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「名刺、持ってきてる?」

 

「持参しております」

 

「なんで」

 

「万が一です」

 

「万が一って、この前〇・〇一パーセントって言ってましたよね」

 

「本日は、三パーセントと見積もっております」

 

「上がってる」

 

「場所が場所ですので」

 

 

 

 

 十二時三十分、交代で昼休憩。

 

「四十五分で戻ります」

 

「一時間でいいよ」

 

「四十五分です」

 

 四十五分。

 

「その格好で行くの」

 

「更衣室に寄る時間が、ありませんので」

 

「しっぽ、踏まれない?」

 

「――踏ませませんっ」

 

「気合い入ってる」

 

「入っておりませんっ」

 

 内訳は、巡回に四十分、移動の予備に五分。

 

 私は立ち上がる前に、手帳を開いて経路を確認した。

 

「馬剃さん、それ」

 

「昼食の、経路の確認です」

 

「丸、十九個あるけど」

 

「……経路上の、確認事項です」

 

 十九個の丸。

 

 うち、昼食に該当するものは、ゼロである。

 

 十九サークル。

 

 一サークルあたりの持ち時間は、二分十秒。

 

 私は、Webカタログを三晩かけて読んだ。

 

 三晩というのは、正確には、八月十日、十一日、十二日の、それぞれ二十三時から二時までである。

 チェックしたのは五十七サークル。本日回れるのは、十九。

 

 三十八サークルを、私は落とした。

 

 落とすときは、いつも、名簿から人を消すのに似ている。

 

 

 

 

 途中、二度、声をかけられた。

 

「そのチカピョン、三期ですよね」

 

「三期です」

 

「エプロン、公式にありましたっけ」

 

「――ございませんっ」

 

「ですよね」

 

「……独自解釈ですっ」

 

「猫耳としっぽも、公式には」

 

「――ございませんっ!」

 

「全部盛りですね」

 

「……全部、盛りましたっ」

 

「いいと思います」

 

 いいらしい。

 

 この会場では、独自解釈は、褒め言葉である。

 

 十四番目までは、順調だった。

 

 列は短く、頒布は速く、私は経路上を〇・五分の遅れで進んでいた。

 

 問題は、十七番目である。

 

 

 

 

 十七番目のスペースで、頒布物を受け取ろうとしたときだった。

 

 前に並んでいた二人組の片方が、連れの方に、何かを言った。

 

 内容は、書かない。

 

 書かないが、その一言は、この会場の空気そのものだった。

 誰にも許可を取らず、誰にも遠慮せず、自分の「好き」を、真昼の音量で。

 

 

 

 

 私の鼻腔は、その瞬間に、判断を下した。

 

 

 

 

 ぶわ、と、来た。

 

 私は、〇・七秒でポケットティッシュを出した。

 

 出せた自分を、褒めたい。

 十六年、この体質と付き合ってきた人間の速度である。

 

 私は柱の陰に入り、上を向かず、鼻の付け根を押さえた。

 

 三分十秒で、止まった。

 

 ……予備の五分が、こんな形で消える。

 

 

 

 

 紙袋は、三つになった。

 

 二十四冊。

 

 一冊も、開いていない。

 

 

 

 

 開けない。

 

 この一年半、私は、一冊も開けていない。

 

 買うことだけは、やめられていない。

 

 部屋には、開けていない箱がある。

 箱の数は、書かない。

 

 

 

 

 四十四分後、私はスペースに戻った。

 

「……昼飯は」

 

「摂りました。ゼリー飲料を、立ち止まって」

 

「歩きながらじゃなくて」

 

「歩行中の飲食は、推奨されていません」

 

「そこは守るんだ」

 

「はい」

 

「あと、馬剃さん」

 

「はい」

 

「鼻血、出てます」

 

「……」

 

 手が、止まった。

 

 鞄の中でティッシュを探す時間は、〇・八秒。

 

「出ていません」

 

「もう拭いてるじゃん」

 

「……乾燥です」

 

「八月だよ」

 

「会場の空調による、乾燥です」

 

「今日の東ホール、たぶん湿度八十あるけどな」

 

「……個人の乾燥です」

 

「個人の乾燥ってなに」

 

 

 

 

「――う、うるさいですねっ!」

 

 

 

 

 立っていた。

 

 立ち上がった記憶が、ない。

 

 がしゃん、と、後ろでパイプ椅子が倒れた。

 

「乾燥ですっ! 乾燥ですし、それ以上でもそれ以下でもありませんっ! 私の鼻腔の状態は、私の管轄ですっ!」

 

「管轄」

 

「管轄ですっ!」

 

 管轄。

 

 この単語を口に出したのは、十年ぶりである。

 

 十年前、私はこの単語を、国会の想定問答の第四十七問で使った。

 あのときは、深夜二時だった。

 

 いまは、真昼の東ホールである。

 

 かあっ、と、首まで熱が上がった。

 

 両隣の島の方々が、そろってこちらを見ていた。

 

 私は、ぴん、と背筋を伸ばした。

 

 伸ばしてから、椅子が倒れていることに気づいた。

 

 ……気づくのが、遅い。

 

 そろそろと起こして、座った。

 

「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」

 

「してないよ」

 

「頭の中もです」

 

「そこまで没収されるんですか」

 

「没収しますっ」

 

「没収の根拠は」

 

「――ありませんっ」

 

「ないんだ」

 

「ありませんが、しますっ」

 

 根拠がない。

 

 十六年前、私は根拠のないものを没収したことが、一度もない。

 

 今日、初めて、根拠なく没収した。

 この人の頭の中を、である。

 

 できるわけがない。

 

 この人が、紙袋に目をやった。

 

「……それは」

 

「調査です」

 

「調査」

 

「業務外の、個人的な調査です」

 

「調査で、鼻血が出る?」

 

 肩が、びくっ、と跳ねた。

 

 跳ねたあとで、私は紙袋を両手で抱えこんでいた。

 

 抱えこんだことに、抱えこんでから気づいた。

 

 ……最悪である。

 

 これでは、隠したいものがあると、全身で申告している。

 

 私は、そろそろと紙袋を下ろした。

 

「……体質です」

 

「体質」

 

「昔からの体質です。ご存じのはずですが」

 

「まあ、知ってるけど」

 

「では、話は終わりです」

 

「何冊」

 

「……二十四冊です」

 

「即答なんだ」

 

「精算のためです。合計、一万八千四百円でした」

 

「聞いてないです」

 

「一冊あたり、七百六十六円です」

 

「割らなくていい」

 

「単価は、重要な指標ですっ」

 

「その単価、俺に報告する必要ある?」

 

「…………」

 

「ないよね」

 

「……ありませんっ」

 

 ない。

 

 私は、なぜ割ったのか。

 

 割ると、それが業務になるからである。

 業務にしてしまえば、私は、その紙袋を机の下に置ける。

 

 私は、紙袋を机の下のいちばん奥に置いた。

 

 置き方は、丁寧にした。

 中身は、たぶん、一年開かない。

 

「というか、初めて来たのに、よく場所が分かったね」

 

「Webカタログを、事前に確認しました」

 

「確認って、どのくらい」

 

「……三晩です」

 

「三晩」

 

「チェックは五十七サークルでした。本日は時間の都合で、十九に絞りました」

 

「絞ってそれなんだ」

 

「優先順位づけは、業務の基本です」

 

「業務外なんだよね、それ」

 

「……基本は、応用できます」

 

 

 

 

 私は、鞄からアルミの小袋を出した。

 

 破って、口に入れて、水で流しこんだ。

 

 苦い。

 

 十六年、この苦さと付き合っている。

 

「なにそれ」

 

「薬です」

 

「なんの」

 

「……漢方です」

 

「体調悪いの」

 

「悪くありません」

 

「じゃあ、なんで」

 

 

 

 

「……予防です」

 

 

 

 

「なんの予防?」

 

「…………」

 

 効能・効果の欄の、三番目。

 

 そこに、二文字ある。

 

 私は、その二文字を、いつも読まない。

 読まなくても、十六年前から覚えている。

 

 私は、空の小袋を四つ折りにして、鞄に戻した。

 

 捨てなかった。

 

 この会場のごみ箱が混んでいるからではない。

 印刷面が、外を向いているからである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、いつから飲んでるの」

 

「十六年前からですっ」

 

「即答」

 

「即答です」

 

「大声」

 

「……申し訳ありません」

 

 

 

 

 この人は、小袋の文字を見た。

 

 見て、目を〇・五秒で外した。

 

 

 

 

 外し方が、うますぎた。

 

 ――読めたのだ。

 

 読めて、読まなかったことにした。

 

 私は、その〇・五秒を、たぶん一生忘れない。

 

 

 

 

 写真を求められたのは、六回だった。

 

「申し訳ありません。サークルスペース内での撮影はできかねます。コスプレエリアでしたら、十四時以降でしたら伺えます」

 

 六回とも、同じ文で答えた。

 

 四人の方が「あ、はい」と言って、そのまま本を買ってくださった。

 

 一人だけ、少し粘る方がいた。

 

 この人が立ち上がろうとしたのが、視界の端で分かった。

 

 立たせるわけにはいかない。

 ここは、この人の五年ぶんの場所である。

 

「恐れ入りますが、ここは頒布の場です。後ろにお並びの方がいらっしゃいますので」

 

 その方は、頭を下げて離れていった。

 

 ……心臓は、どくどく鳴っていた。

 

 鳴っていたが、声は震えなかった。

 声だけは、十年ぶん鍛えてある。

 

 

 

 

 最後の一冊が出る三人前で、私は立ち上がった。

 

「恐れ入ります。まもなく頒布終了です。おおよそ、あと三名様で完売いたします」

 

 列から、「おおー」と声が上がった。

 

 三名様は、全員お買い上げだった。

 

 

 

 

 十三時四十分、完売。

 

 完売の札を出すと、両隣の方が拍手をくださった。

 

「これは、慣例ですか」

 

「慣例です」

 

「拍手も、慣例ですか」

 

「拍手も慣例」

 

「……よい慣例ですね」

 

「よい慣例だよ」

 

 慣例。

 

 四月に、私がいちばん憎んだ単語である。

 

 私は、その拍手の回数を数えようとした。

 

 数えられなかった。

 

 数えられなかったのは、四月以来である。

 

 

 

 

 この人が、隣にダムの本を買いに行った。

 

「新刊ください」

 

「温水さん、完売おめでとうございます」

 

「どうも。そちらは」

 

「あと六十部です」

 

「……」

 

「ダムは、これからなんで」

 

「これから、ですか」

 

「放流は、午後なんで」

 

 名言だと思う。

 

 私は、それも手帳に書いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「完売した」

 

「はい」

 

「初めてだ」

 

「そうですか」

 

「五年で初めて」

 

「……そうですか」

 

 「そうですか」しか、言えなかった。

 

 それ以上の長さを口にすると、声が割れる。

 

 私は電卓を叩いていた。

 

 叩いていれば、こちらを見なくて済む。

 見られなくて、済む。

 

 隣で、この人が空の机を見ているのが、視界の端に映っていた。

 

 

 

 

 そのあとのことは、私の管轄外である。

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「ありがとうございました」

 

「……いえ」

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「二回、言わなく――」

 

「いや、本当に、ありがとう! なんとお礼を言ったらいいか!」

 

「……」

 

 この人が、大きな声を出した。

 

 十六年で、二度目である。

 一度目は、七月十七日の「馬剃さん!」だった。

 

「完売だよ! 五年で初めてなんだ!」

 

「……はい」

 

「グラフ! あのグラフだよ! あれ、六分だろ! 六分!」

 

「……六分です」

 

「六分!」

 

「……はい」

 

 

 

 

 その時点で、私は、気づいていた。

 

 

 

 

 手を、握られている。

 

 

 

 

 両手で、である。

 

 電卓を持ったままの右手を、この人が両手で握って、上下に振っていた。

 

 ぶんぶん、である。

 

 電卓が、かたかた鳴っていた。

 

 この人は、気づいていない。

 

 気づかないまま、六分のグラフの話を、大声でしている。

 

「見本誌の角度も! 俺、五年、まっすぐ立ててたんだよ! まっすぐ!」

 

「……はい」

 

「二か月ぶんが三時間だよ! 俺の二か月が!」

 

「……あの」

 

「よくある質問も六十三項目! 六十三!」

 

 

 

 

 十一秒である。

 

 

 

 

 気づいてから申し上げるまでに、私は十一秒を要した。

 

 十一秒は、長い。

 

 私は、深夜二時の役所で、三十秒あれば答弁を一本直した。

 その私が、四文字を言うのに十一秒かかった。

 

 思考が、白かった。

 

 白いところに、文字が一つだけ浮かんでいた。

 

 

 

 

 ――手。

 

 

 

 

 十六年。

 

 この人と手が触れたことは、一度もない。

 

 一度も、ない。

 

 ぼっ、と、耳から火が出たと思った。

 

 実際には、出ない。

 出ないが、体感としては、出た。

 

「……温水さん」

 

「なに!」

 

「……手が」

 

「手?」

 

「手です」

 

 この人は、下を見た。

 

 見て、手を離して、そのまま両腕が来た。

 

 

 

 

 抱きしめられていた。

 

 

 

 

 一秒も、なかった。

 

 

 

 

 手が自由になったと認識する前に、私は、体ごと収まっていた。

 

 思考は、しなかった。

 

 できる状態では、なかった。

 

 顔の横に、この人の肩があった。

 猫耳が、この人の顎に当たって、少し傾いた。

 

 ……傾いた。

 

 私は、そのとき、猫耳の角度を気にした。

 

 こんなときに猫耳の角度を気にする人間が、ここにいる。

 

 

 

 

 あたたかかった。

 

 

 

 

 それだけである。

 

 それだけのことを、私は、たぶん一生忘れない。

 

 両手の行き場が、なかった。

 

 上げるのも違う。下ろすのも違う。

 背中に回すのは、絶対に違う。

 

 私の両手は、この人の背中の手前で、行き場を失って止まった。

 

 止まったまま、三秒が過ぎた。

 

 

 

 

 三秒である。

 

 

 

 

 私は、その三秒を、正確に測った。

 

 測ってしまった。

 

 

 

 

 ――離れてください。

 

 

 

 

 と、私は、言わなかった。

 

 言わなかったことについては、あとで、自分に説明を求めることにする。

 

 この人の腕が、先に離れた。

 

「――っ」

 

「ごっ、ごめんっ!」

 

「……」

 

「いまの、その、わざとじゃなくて」

 

「……」

 

「いや、わざとではあるんだけど、意図としては」

 

 

 

 

「――#MeToo案件だ」

 

 

 

 

 声に、出ていた。

 

 本人には、出ている自覚がない。

 

 この人は、追いつめられると、頭の中の言葉がそのまま口から出る。

 四月から数えて、四回目の観測である。

 

「違いますっ」

 

「え」

 

「#MeToo案件では、ありませんっ!」

 

「……声、出てた?」

 

「出ておりましたっ!」

 

「いや、でも、これ、完全にそれだって」

 

「該当しませんっ!」

 

「手を握って、上下に振って、そのあと抱きしめたよ。抱きしめたんだよ」

 

「――当事者が、該当しないと申し上げておりますっ!」

 

 当事者である。

 

 当事者が言うのだから、該当しない。

 

 ……この論法が通らないことは、私がいちばんよく知っている。

 

「就業規則の、何条だっけ」

 

「ハラスメント防止規程第四条ですっ」

 

「即答」

 

「即答ですっ」

 

「なんで知ってんの」

 

「――暗記しておりますからっ!」

 

 暗記している。

 

 四月に通読して、附則まで頭に入れた。

 

 入れておいてよかった、と思った自分を、私はあとで叱ることにする。

 

「月曜、相談窓口に自分から行く」

 

「行かないでください」

 

「先に申告したほうが、心証がいいんだよ」

 

「行かないでくださいっ!」

 

「委員会が立ち上がったら、俺は」

 

「立ち上がりませんっ!」

 

「立ち上がらないの」

 

「立ち上がりませんっ! 申立人が、おりませんっ!」

 

 

 

 

 言ってから、私は、自分が何を申し上げたかを理解した。

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はいっ」

 

「申立人、いないの」

 

「――おりませんっ!」

 

 私は、その右手を左手で包んで、机の下に隠した。

 

 隠してから、しまった、と思った。

 

 隠すという行為は、隠したいものがあると申告する行為である。

 私は今日、二回目の申告をした。

 

 

 

 

 なお、「離してください」と、私は申し上げていない。

 

 一度も、申し上げていない。

 

 

 

 

 七月二十四日の夜、私は、二つ目の理由を書かなかった。

 

 

 

 

 ここに、書く。

 

 

 

 

 ――そういう目で、見てほしかった。

 

 

 

 

 ……書いた。

 

 書いたので、このページは、あとで破る。

 

 破るが、破る前に、もう一度読む。

 

「温水さんっ」

 

「はい」

 

「ただいまのは、業務上の必要が、ありましたかっ!」

 

「ないです」

 

「ないんですかっ!」

 

「ないな」

 

「ないのに、なぜっ!」

 

「嬉しかったから」

 

「…………」

 

 ――ずるい。

 

 この人は、こういうことを、なんでもない顔で言う。

 

 どすん、と、七月十七日と同じ場所に、同じ重さのものが落ちた。

 

 落ちた場所が、今日は、握られた手のあたりまで熱を伝えた。

 

「馬剃さん?」

 

「――そういうのが、いけないんですっ!」

 

「怒られてる」

 

「怒っておりませんっ!」

 

「怒ってるって」

 

「あなたは、いつもそうですっ! 人の、こ、心の準備の、外側から来ますっ!」

 

「心の準備」

 

「要りますっ! 私には、要るんですっ!」

 

 

 

 

 なぜ怒っているのかを、私は説明できない。

 

 説明できないものを、私は、怒りと呼ぶことにしている。

 

 そうしないと、別の名前になる。

 

 

 

 

 私は、両手で顔を扇いだ。

 

 扇いで、水を三口飲んだ。

 

 三口では、下がらなかった。

 

「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」

 

「今日、二回目だよ、それ」

 

「二回、申し上げますっ」

 

「馬剃さん」

 

「なんですかっ」

 

「まだ赤いよ」

 

「――赤くありませんっ!」

 

「怒ってる理由、聞いてもいい?」

 

「お答えできませんっ!」

 

「今日、二回目だな、それも」

 

「二回目ですっ!」

 

「あと」

 

「まだあるんですかっ」

 

「その猫耳としっぽ、触らせて」

 

 

 

 

 脳が、止まった。

 

 

 

 

「セ、セクハラですっ!!」

 

 

 

 

「いや、衣装だから」

 

「衣装は、私が着ておりますっ!」

 

「あ、そうか」

 

「そうかで済む話では、ありませんっ!」

 

「じゃあ、耳だけ」

 

「減っておりませんっ!」

 

「委員会、立ち上がる?」

 

「――立ち上げますっ! 申立人が、できましたっ!」

 

 

 

 

 申立人が、できた。

 

 三分前には、いなかった。

 

 

 

 

 私は、しっぽを両手で押さえて、椅子ごと三十センチ下がった。

 

 下がってから、気づいた。

 

 押さえるという行為は、そこに何かがあると申告する行為である。

 

 私は今日、三回目の申告をした。

 

「……水を、もう一本、買ってまいりますっ」

 

「完売したから、もう店じまいだよ」

 

「――では、我慢しますっ」

 

 我慢した。

 

 我慢するしかない状況が、この世には、あるらしい。

 

 私は、電卓を持ち直した。

 

 持ち直して、叩いた。

 

 叩いていた指が、同じキーを二回押した。

 

 押した理由は、もう、書くまでもない。

 

 私は全部消して、最初からやり直した。

 

 二回目も、間違えた。

 

 ……二回目のことは、書かないでおく。

 

「売上、七万五千円です。うち釣銭準備金が五万ですので」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「そこ、あとでいい」

 

「精算は、当日中が原則です」

 

「原則は分かるけど」

 

「では、三分お待ちください」

 

 三分で、終わらせた。

 

 電卓を置いて、両手を膝の上にそろえた。

 

「……終わりました」

 

「はい」

 

「あの」

 

「はい」

 

 

 

 

「楽しかったです」

 

 

 

 

 言うつもりは、なかった。

 

 言うつもりのなかったことが、口から出た。

 

 出てから、私は自分の口を疑った。

 

「私、こういう場所に来たのは、初めてです」

 

「……そうだよね」

 

「生まれて、初めてです」

 

「うん」

 

「人が、多いですね」

 

「多いな」

 

「あんなに人がいるのに、誰も、他人のことをどうこう言いません」

 

「言わないな」

 

「……不思議です」

 

「ここ、誰が何着てても、誰も気にしないから」

 

「はい」

 

「本の内容も、誰も否定しない。買うか、買わないかだけだから」

 

「……いい場所ですね」

 

「いい場所だよ」

 

「……もっと、早く来ればよかったです」

 

 

 

 

 この人は、たぶん、こう考えている。

 

 私には来る理由がなかったのだ、と。

 

 

 

 

 違う。

 

 理由はあった。

 

 十七年、ずっとあった。

 

 

 

 

 私が、来てはいけないことにしていた。

 

 生徒会の副会長が、来てはいけない。

 受験生が、来てはいけない。

 役所の人間が、来てはいけない。

 

 誰にも言われていない。

 

 全部、私が決めた。

 

 決めたので、私は十七年、この天井の音を知らなかった。

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「来年も、来る?」

 

 

 

 

 来年。

 

 

 

 

 私は、来年の八月十六日に自分がどこにいるかを、知らない。

 

 知らないのに、口のほうが先に動いた。

 

 

 

 

「……にゃあ」

 

 

 

 

 言った。

 

 

 

 

 ――言ってしまった。

 

 

 

 

 頭の中で、なにかが、ぱあん、と割れた。

 

 十六年前は、武器だった。

 

 今日は、武器ではない。

 

 武器でないものを、私は、いま、無防備に置いた。

 

 この人が、空になった机に額をつけた。

 

 つけたまま、動かなくなった。

 

 私は、その頭を見ていた。

 

 見ながら、猫耳を直した。

 

 八回目である。

 

 周りは、うるさかった。

 うるさいのに、私の耳には、この人の呼吸の音だけが聞こえていた。

 

「温水さん」

 

「……うん」

 

「顔を上げてください」

 

「無理」

 

「撤収の時間です」

 

「あと三分」

 

「三分後には、次の方が来ます」

 

 三分。

 

 私は、その三分を、正確には測らなかった。

 

 

 

 

 測らなかったのは、社会人になって、初めてである。

 

 

 

 

 撤収のあいだ、私は一度も、この人の顔を見なかった。

 

 見られなかった、が正しい。

 

 十数分前に、この人は私を抱きしめた。

 

 抱きしめられたほうの体は、まだ、正常値に戻っていない。

 

 あのとき、この人の目の高さに、私の首筋があった。

 

 あそこには、ホクロが一つある。

 

 ……見られた。

 

 十六年前も、たぶん、見られている。

 

 布をたたむとき、両端を持って、真ん中で合わせた。

 

 合わせたところで、指が触れた。

 

「……失礼しました」

 

「いや、こっちこそ」

 

 〇・二秒である。

 

 〇・二秒で、心臓が、どくん、と一回、大きく鳴った。

 

 鳴った音が、たぶん、耳まで届いていた。

 

「私が持ちます」

 

「軽いから、いいって」

 

「持ちますっ」

 

 三百グラムの布を、私は両手で抱えた。

 

 両手が塞がっていれば、指は、触れない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「布、裏表」

 

「……裏表では、ありませんっ」

 

「裏だよ」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「……裏でした」

 

 私は、たたみ直した。

 

 たたみ直すあいだ、この人は、何も言わなかった。

 何も言われないほうが、こたえる。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ」

 

「……」

 

「完売したから、馬剃さんの分がない」

 

「……」

 

「見本誌でよければ」

 

「……よろしいのですか」

 

「いいよ」

 

「見本誌は、記録用では」

 

「今年はもう終わったから」

 

 私は、両手を出した。

 

 布を持ったままだったので、一度、机に置いた。

 置く動作に、四秒かかった。四秒は、長い。

 

 受け取ってから、私は財布を出した。

 

「五百円です」

 

「いらないよ」

 

「頒布価格です」

 

「売り子は、一冊もらえるんだよ。毎年の慣例で」

 

「…………」

 

「慣例です」

 

 ――ずるい。

 

 この単語で来られると、私は、断れない。

 

 四月に私がいちばん憎んだ単語で、この人は、私に一冊よこそうとしている。

 

「……いただきます」

 

「どうぞ」

 

「……頂戴、いたします」

 

「二回言ったな」

 

「二回、言いました」

 

 二回言いました。

 

 一回では、私が信じられなかったからである。

 

 

 

 

 そのあと、この人は、聞かなくてもいいことを聞いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「さっきの」

 

「なんでしょうか」

 

「さっきの、あれ」

 

「存じません」

 

「言ったよね」

 

「言っておりません」

 

「言ったって」

 

「記録に、残っておりませんっ」

 

「俺の頭の中に残ってる」

 

「――没収しますっ」

 

「根拠は」

 

「ありませんっ!」

 

 根拠は、ない。

 

 ないので、私は猫耳を外した。

 

 外して、両手で持った。

 

 持っていないと、手が、行き場を失う。

 

 床の巾木を、目で三往復した。

 

 三往復して、四往復目の途中で、私は口を開いた。

 

 

 

 

「……『はい』と、申し上げました」

 

 

 

 

 言った。

 

 

 

 

 ――言ってしまった。

 

 

 

 

 顔が、耳が、首が、順番に熱くなっていった。

 

 ぼっ、と音がしたと思う。実際には、しない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「もう一回」

 

「――お断りしますっ!」

 

 私は猫耳をかぶり直した。

 

 九回目の位置調整をして、それから、まっすぐこの人を向いた。

 

 向けたのは、その一瞬だけである。

 

「十四時以降と、六名の方に申し上げました」

 

「あー、言ってたね」

 

「参ります。約束ですので」

 

「うん」

 

「……荷物を、見ていてください」

 

「見てる」

 

 私は、歩いた。

 

 厚底のブーツで、島と島のあいだを、まっすぐ歩いた。

 

 振り返らなかった。

 

 振り返ったら、たぶん、走って戻っていた。

 

 五歩だけ歩いて、私は、一度だけ足を止めた。

 

「……十分で戻ります」

 

「一時間でいいよ」

 

「十分ですっ」

 

「さっき四十五分って言ってたときと、同じ顔してる」

 

「――同じ顔では、ありませんっ!」

 

 同じ顔だった。

 

 鏡がなくても、分かる。

 

 

 

 

 りんかい線の中で、スマートフォンが鳴った。

 

 志喜屋先輩である。

 

 月に一度、十六年、この方はかけてくる。

 

『……もしもし』

 

「お世話になっております」

 

『……声が』

 

「声が、なんでしょうか」

 

『……高い』

 

「通常です」

 

『……〇・五音、高い』

 

「気のせいですっ」

 

『……天愛星ちゃん』

 

「はい」

 

『……衣装、どうだった』

 

「……なぜ、ご存じなんですかっ」

 

『……七月に、採寸の相談、してきたでしょ』

 

「……業務上の質問ですっ」

 

『……採寸が、業務』

 

「……」

 

『……十六年ぶりだったね』

 

「なにが、ですか」

 

『……あなたが、私に、頼みごとをしたの』

 

「…………」

 

『……何が、あったの』

 

「…………」

 

『……いま、三秒』

 

「……二・八秒ですっ」

 

『……ふふ』

 

「切りますっ」

 

『……天愛星ちゃん』

 

「なんでしょうか」

 

『……今日、楽しかった?』

 

「…………」

 

『……はい、って聞こえた』

 

「聞こえておりませんっ!」

 

 私は、通話を切った。

 

 切ってから、切ったことを謝る文面を送った。

 

 既読が、〇・四秒でついた。

 

 

 

 

 二十時四十分、帰宅。

 

 鏡の前で、私はもう一度、衣装のまま立った。

 

 立って、十一分、動かなかった。

 

「……お礼、でした」

 

「お礼、でしたっ」

 

「……半分は」

 

 鏡は、答えない。

 

 答えないので、私は着替えた。

 

 衣装をハンガーにかけた。

 

 猫耳を、箱に戻した。

 ずれていないことを、二回確認した。

 

 紙袋を三つ、部屋の隅に置いた。

 

 開けていない箱の、上である。

 

 

 

 

 一冊だけ、手に取った。

 

 三秒、表紙を見た。

 

 戻した。

 

 

 

 

 ……戻せた。

 

 

 

 

 戻せてしまったことを、私は、しばらく座って考えていた。

 

 考えて、それから、鞄からもう一冊を出した。

 

 

 

 

 見本誌である。

 

 角に、値札のシールが、まだ貼ってある。

 

 私は、それを剥がさなかった。

 

 

 

 

 開いた。

 

 

 

 

 序文だった。

 

 七月二十二日に、私が三分で書かせた文章である。

 

 三回、読んだ。

 

 四回目で、電気を消した。

 

 消してから、もう一度つけた。

 

 

 

 

 ……一年半、私はどの本も開けていない。

 

 この一冊だけが、開いた。

 

 

 

 

 手帳を出した。

 

 貸借を、計算する。

 

 六月の十日間。八月九日の八百人。七月の十一日間。

 

 返した。

 返したはずである。

 

 ……合わない。

 

 返しに来たのに、増えている。

 

 私は、八月十六日の欄に、一行だけ書いた。

 

 

 

 

 ――完売。

 

 

 

 

 書いてから、消した。

 

 消して、書き直した。

 

 

 

 

 ――来年も。

 

 

 

 

 ……主語が、ない。

 

 ないのではない。

 

 二つあるから、書けなかったのだ。

 

 私は、その一行を、消さなかった。

 

 

 

 

 電気を消した。

 

 暗い天井に向かって、私は、口の形だけで、一度言った。

 

 声は、出さなかった。

 

 出したら、たぶん、明日から働けない。

 

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