大学職員の僕たち   作:房吉

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~12敗目~ 主語のない話

(八月九日〜二十九日/温水視点)

 

「聞くよ」

 

 俺は、そう答えた。

 

 誰もいない大講堂で、舞台の上に立った人に向かって。

 

 

 

 

「ただ、今日は無理」

 

「……はい」

 

「俺、いま、たぶん三十時間くらい寝てない」

 

「三十時間」

 

「昨日の四時起きだから。あと、いま話を聞いたら、たぶん俺、途中で寝る」

 

「寝ないでください」

 

「寝る自信がある」

 

「自信を持つところが、違いますっ」

 

 

 

 

 天愛星さんが、少し笑った。

 

 

 

 

「私も、同じです」

 

「だろうな」

 

「昨夜は、何時間寝られたんですか」

 

「二時間です」

 

「俺の勝ちだ」

 

「勝負ではありません」

 

「勝負にしたら、勝ってるけど」

 

「勝っていません。睡眠時間は、少ないほうが負けです」

 

「そっちの採点なんだ」

 

「そちらの採点ですっ」

 

「立っているのが、限界です」

 

「座る?」

 

「舞台の上に座るのは、適切ではありません」

 

「誰もいないよ」

 

「……いません、ね」

 

「座ろう」

 

「座りません」

 

「なんで」

 

「一度座ると、たぶん、立てませんっ」

 

「じゃあ、日を決めよう」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、スマホを取りだした。

 

 カレンダーを開いて、八月の後半を見た。

 

 十日は日曜。十一日から十四日は夏季休業。十八日から二十二日は、総合型選抜の要項の確定作業。

 二十五日の週は、九月の入試説明会の資料。

 

 

 

 

「二十九日、金曜はどう?」

 

 

 

 

 

 

 

 言ってから、俺は少し後悔した。

 

 

 

 

 二十九日は、二週間後である。

 

 二週間、この人は「話すと決めた」まま待つことになる。

 俺も、二週間、待つことになる。

 

 もっと近い日にすればよかった。

 

 

 

 

「二十九日で、お願いします」

 

 

 

 

 天愛星さんは、即答した。

 

 即答して、それから、少しだけ息を吐いた。

 

 

 

 

 この人は、怖いときほど即答する。

 

 六月に、俺はそれに気づいた。

 考える時間を作ると、断る理由が見つかってしまうからだ。

 

 いまも、たぶん、そうだった。

 

 

 

 

「……二週間、ありますね」

 

「あるな」

 

「その間に、私が『やっぱりやめます』と言い出したら」

 

「言い出すの?」

 

「言い出す可能性が、三割ほどあります」

 

「三割」

 

「三割です。数字は、正直に申し上げます」

 

「その三割、どうやって出したの」

 

「体感です」

 

「体感なんだ」

 

「体感ですが、根拠はあります」

 

「あるの」

 

「過去に、同種の決意を三回しました。実行したのは、二回です」

 

「……三回目が、今日?」

 

「四回目です」

 

「増えてる」

 

「増えましたっ」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、少し考えた。

 

 

 

 

「じゃあ、店だけ予約しとく」

 

「なぜですか」

 

「キャンセル料がかかるから」

 

「……そういう縛り方をしますか」

 

「する」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんは、たっぷり三秒黙った。

 

 

 

 

「……卑怯です」

 

「用度で覚えた」

 

「用度は、そのようなことを教える部署なのですか」

 

「業者さんとの約束を守らせる部署です」

 

「私は業者ではありませんっ」

 

「じゃあ、なんですか」

 

「…………」

 

「馬剃さん?」

 

「……当事者ですっ」

 

「うん。だからキャンセル料」

 

「話が戻りましたっ」

 

「ちなみに、お店はどちらですか」

 

「個室の、静かなとこ。焼き鳥じゃないほう」

 

「……なぜ、焼き鳥ではないのですか」

 

「タレに落ちると、話が止まるんで」

 

「覚えてらしたんですね」

 

「覚えてる」

 

「四月十五日ですね」

 

「日付は覚えてない」

 

「私は覚えています」

 

「そこは記録なんだ」

 

「記録です」

 

「なんの記録?」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「……業務外の、記録ですっ」

 

 

 

 

 

 

 

 二週間は、長かった。

 

 

 

 

 八月十日は日曜で、十一日から十四日が夏季休業だった。

 

 俺は、四日間ずっと家にいた。

 

 夏コミは、十六日に終わった。

 

 あの二日間のことは、まだ、うまく整理できていない。

 整理できていないので、俺は四日間、その話を誰にもしなかった。

 

 

 

 

 十八日から、また仕事が始まった。

 

 総合型選抜の要項の確定作業。九月の入試説明会の資料。オープンキャンパスの反省会資料。

 八月の後半は、毎年こうなる。

 

 

 

 

 天愛星さんは、普通だった。

 

 

 

 

 普通に出勤して、普通に仕事をして、普通に定時で帰った。

 オープンキャンパスの日から、彼女は一度も、あの話をしなかった。

 

 俺も、しなかった。

 

 ただ、二十一日の木曜に、一度だけ変なことがあった。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「本日は、八月二十一日です」

 

「そうですね」

 

「……以上です」

 

「以上?」

 

「以上ですっ」

 

 その日、彼女は日付だけ確認して、自分の席に戻った。

 

 ……たぶん、あと八日、と数えている。

 

 

 

 

 ただ、一度だけ。

 

 二十六日の火曜日、彼女が席を立つとき、俺の机にふせんが貼ってあった。

 

 

 

 

 『二十九日、行きます』

 

 

 

 

 

 

 

 ……三割は、消えたらしい。

 

 

 

 

 俺は、そのふせんを、共有フォルダには入れなかった。

 ローカルの『memo』にも入れなかった。

 

 鞄の内ポケットに入れた。

 

 定期入れの、隣である。

 

 

 

 

 

 

 

 八月二十九日、金曜日。

 

 

 

 

 俺は、人生で二回目の「個室の予約」というものをした。

 

 一回目は、去年の課の忘年会である。あのときは幹事だったので、業務だった。

 今回は、業務ではない。

 

 電話で「個室ってあります?」と聞いたとき、自分の声が少し変だった。

 

「何名様でしょうか」

 

「二名です」

 

「お祝いのご利用ですか」

 

「……いえ」

 

「ご接待でしょうか」

 

「……いえ」

 

「かしこまりました」

 

 店の人は、それ以上、何も聞かなかった。

 

 プロである。

 

 

 

 

 店は、大学から二駅離れたところにした。

 

 四月に行った店ではない。

 あそこは席が近い。今日は、隣の話し声が聞こえない場所がよかった。

 

 結果として、少し高い店になった。

 

 

 

 

 

 

 

「二駅ですね」

 

 入り口で、天愛星さんが言った。

 

「……二駅」

 

「学習しませんね」

 

「学習して二駅にしてる」

 

「なるほど」

 

「納得が早いな」

 

「理由が示されましたので」

 

「理由、言ってないけど」

 

「……言っていませんね」

 

「うん」

 

「では、伺います。なぜ二駅なのですか」

 

「三駅にすると、帰りが面倒だから」

 

「……一理ありますね」

 

「ないですよ」

 

「ないんですかっ」

 

「三駅にしたことも、ありますし」

 

「――七月ですねっ!」

 

 入り口で、声が大きくなった。

 

 通りかかった店員が、少しだけ歩調を速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 個室は、四畳半くらいの和室だった。

 

 掘りごたつ式のテーブルが一つ。障子が閉まると、外の音が半分になる。

 

 天愛星さんは、座布団の位置を直してから座った。

 

 直し方が、几帳面だった。

 畳の目に合わせて、角を揃えている。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「座布団、二回直しました」

 

「一回です」

 

「二回でした」

 

「……一回半です」

 

「半ってなに」

 

「途中で、やめました」

 

「やめきれてないんだよなあ」

 

 俺は、その動作を見ながら、少し安心した。

 

 この人が座布団の角を揃えているうちは、たぶん、まだ大丈夫である。

 

 

 

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「先に、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」

 

「どうぞ」

 

 

 

 

「今日、私は、たぶん、うまく話せません」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、まっすぐこちらを見ていた。

 

 

 

 

「順序立てて話すつもりで来ました。ですが、たぶん、あちこち飛びます」

 

「うん」

 

「あと、途中で関係のない話をします」

 

「うん」

 

「それでも、よろしいですか」

 

 

 

 

 

 

 

「いいよ」

 

 俺は、そう答えた。

 

「俺、要約が苦手だから」

 

 

 

 

「……議事録を作られる方の台詞とは思えません」

 

「作ってない。作ってるの、馬剃さんだろ」

 

「四月から二か月は、あなたが作っておられました」

 

「あれ、ほとんど『異議なし』だったよな」

 

「そうですね」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんが、少し笑った。

 

 

 

 

 笑ってから、おしぼりを畳んだ。

 

 畳み方が、四つ折りだった。

 

「それ、使ってないですよね」

 

「使いました」

 

「一秒くらいだったけど」

 

「一・二秒です」

 

「測ってた?」

 

「体感です」

 

「体感で〇・二秒まで出るの、怖いんだよなあ」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんは、生ビールを頼んだ。

 

「早いな」

 

「四月に、決めておきましたので」

 

「四月?」

 

「四月十五日に、一杯目を何にするかで、三十秒使いました」

 

「三十秒」

 

「二度と、あの三十秒は使いたくありません」

 

「じゃあ、今日は」

 

「〇・五秒です」

 

「成長だ」

 

「成長ですっ」

 

 俺も、同じものを頼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 最初の三十分は、ほとんど文科省の組織の話だった。

 

 

 

 

 初等中等教育局に、課がいくつあるか。

 その課が、それぞれ何をしているか。

 

 高等教育局に異動したのが何年目で、そのときの併任がどこで、担当した施策がなんだったか。

 

 彼女は、それを、異様に滑らかに喋った。

 

 途中で、俺は完全に理解を諦めた。

 

 局と課と室と班があって、それぞれに併任があって、審議会と部会と作業部会があって、そのうえで通知と告示と事務連絡が別物らしい。

 

 うちの大学の事務局は、百二十人で十一課である。

 俺は、その全部の課長の名前を言える。

 

 あそこは、たぶん、桁が二つ違う。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いま、局と課と室と班が出てきたけど」

 

「はい」

 

「それ、全部違うもの?」

 

「違います」

 

「通知と告示と事務連絡は」

 

「別物です」

 

「どう別なの」

 

「……三十分ほど、かかります」

 

「じゃあいい」

 

「いま『じゃあいい』とおっしゃいましたね」

 

「言った」

 

「みなさん、そこで『じゃあいい』とおっしゃるんです」

 

 

 

 

 滑らかすぎて、俺は途中で気づいた。

 

 

 

 

 ――この人、これを何回も喋ってる。

 

 

 

 

 転職の面接で、たぶん二十三回喋っている。

 二十三社受けて、内定が一つだったと言っていた。

 

 だから、ここは滑らかなのだ。

 

 

 

 

「席は、左から三番目でした」

 

「うん」

 

「窓際です。夏は暑くて、冬は寒いです」

 

「そういうもんだよな」

 

「はい。……局の中で、いちばん人の出入りが多い席でした」

 

 

 

 

 天愛星さんは、二杯目を頼んだ。

 

 

 

 

「タクシーチケットを、一年で三百二十枚使った年があります」

 

「三百二十」

 

「土日を除くと、ほぼ毎日です」

 

「それ、家には帰ってる?」

 

「帰っています。着替えのためです」

 

「着替えのため」

 

「はい」

 

「風呂は」

 

「……朝、庁舎の中で」

 

「あるんだ」

 

「あります」

 

「へえ」

 

「ありますが、あることを知っている時点で、いろいろと駄目です」

 

「……」

 

「深夜二時に電話が来ます。答弁の想定問答の、三行目の語尾を直してほしいと」

 

「三行目の語尾」

 

「三行目の語尾です」

 

「……『します』を『してまいります』にするとか、そういうやつ?」

 

「はい」

 

「それ、深夜二時に決めるの?」

 

「翌朝の八時に、大臣がお読みになるからです」

 

「なるほど」

 

「あと、変えたことを、関係する三つの課に連絡します。三時です」

 

「三時に電話するの?」

 

「メールです。ただ、三つの課の担当者も、その時間に起きています」

 

 

 

 

 

 

 

 ……起きてるのか。

 

 

 

 

 俺は、そのとき、自分の生活のことを考えた。

 

 定時に帰って、飯を食って、アニメを見て、寝る。

 繁忙期でも、月の残業は十時間を超えない。

 

 同じ「教育に関わる仕事」で、こうも違う。

 

 

 

 

 彼女は、そこで少し笑った。

 

 

 

 

「あれは、意味がないわけではないんです。国会で読まれる文章ですから、語尾一つで意味が変わります」

 

「なるほど」

 

「ですので、私は起きて、直しました。四年間」

 

「四年」

 

「四年です」

 

 

 

 

 

 

 

 ――違うな。

 

 

 

 

 俺は、そう思った。

 

 

 

 

 この人がいま話しているのは、たぶん、辞めた理由ではない。

 

 深夜二時の電話が理由なら、この人は辞めていない。

 この人は、深夜二時に起きて語尾を直すことに、たぶん、そこまで文句がない。

 

 むしろ、その話をするとき、声が少し楽しそうだった。

 

 

 

 

 俺は、何も言わずに、枝豆を彼女の前に押しやった。

 

 

 

 

 

 

 

「三年目に、一つ仕組みを作りました」

 

 三杯目で、彼女はそう言った。

 

「評価の記録を残す仕組みです。現場の負担が増えるので、反対がありました」

 

「五月の、入試委員会の話だよね」

 

「はい。あれと、同じ趣旨のものです」

 

「通ったの?」

 

「通りました」

 

 

 

 

 天愛星さんは、ジョッキを置いた。

 

 

 

 

「五年目に、廃止されました」

 

 

 

 

 俺は、ジョッキを持つ手を止めた。

 

 

 

 

 

 

 

「……廃止」

 

「はい。私は、そのとき別の局にいました」

 

「知らされたの?」

 

「いえ」

 

 彼女は、首を横に振った。

 

「三年後に、たまたま資料を見て、なくなっていることに気づきました」

 

「……誰も言わないの?」

 

「言う理由がありません。私は、もうその課にいませんでしたので」

 

「いや、でも」

 

「業務上、必要のない連絡です」

 

 

 

 

 天愛星さんは、そう言った。

 

 言い方が、完全に事務の人の言い方だった。

 

「廃止の理由は、記録に残っていました」

 

「なんて書いてあった?」

 

「『運用上の負担に鑑み』です」

 

「……それだけ?」

 

「それだけです」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、ジョッキの縁を見ていた。

 

 

 

 

 三年かけて作ったものが、三年後に、誰にも知らされずに消える。

 

 それが役所というものなのか、それとも、この人の場合が特別だったのか。

 俺には分からない。

 

 分からないが、俺なら、たぶん、そこで一回死ぬ。

 

 

 

 

「それは、しんどいな」

 

「そうでしょうか」

 

「しんどいだろ」

 

「……よくあることです」

 

 

 

 

 

 

 

 ――出た。

 

 

 

 

 この人は、さっきから、こればかり言っている。

 

 「よくあることです」

 「そういうものです」

 「私だけではありません」

 

 全部、主語を消す言い方だった。

 

 

 

 

 

 

 

 四杯目のあたりで、話が少しずつ、遅くなった。

 

 

 

 

「通院を始めたのは、九年目の十一月です」

 

「うん」

 

「十一月十七日です」

 

「日付、覚えてるんだ」

 

「記録は取ります」

 

 

 

 

 俺は、うなずいた。

 

 

 

 

「最初は、眠れないだけでした。それから、朝、起きられなくなりました」

 

「うん」

 

「休職の申請をしました。様式は第十七号です」

 

「様式番号まで」

 

「様式番号は、覚えています」

 

 

 

 

 

 

 

 ――覚えているものと、覚えていないものが、はっきり分かれている。

 

 

 

 

 俺は、そのことに気づいていた。

 

 

 

 

 局の名前、課の名前、席の位置、チケットの枚数、様式番号、通院の日付。

 全部、正確に出てくる。

 

 なのに、一度も出てこないものがある。

 

 

 

 

 人が、出てこない。

 

 

 

 

 

 

 

 この一時間半、この人は、一人も人の名前を出していない。

 

 上司も、同僚も、部下も。

 「課長が」も「同期が」も、一度も言っていない。

 

 全部、「文科省では」「あそこでは」「局の中では」だった。

 

 

 

 

 場所しか、出てこない。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、それを、たぶん四十分前から気づいていた。

 

 気づいていて、四十分、黙っていた。

 

 

 

 

 この人の話し方は、うちの課の議事録に似ている。

 

 『事務局より説明。異議なし』

 誰が何を言ったかは、書かない。書かないほうが、記録として安全だからだ。

 

 この人は、自分の十年を、そうやって記録している。

 

 

 

 

 人を書くと、事故になる。

 だから、場所だけ書く。

 

 

 

 

 ……十六年前、この人は、俺のことを一度も名前で呼ばなかった。

 

 いや、違う。呼ばれたことはある。

 

 呼ばなかったのは、この人が自分の下の名前を、俺以外に呼ばせなかったほうだ。

 

 

 

 

 名前というのは、この人にとって、たぶん、そういうものである。

 

 

 

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「一個、聞いていい?」

 

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、そこで二秒だけ迷った。

 

 

 

 

 聞くべきか。

 聞かないべきか。

 

 四月から、俺は「聞かれたら嫌でしょ」でやってきた。

 やってきて、それでこの人は、たぶん、少し楽になった。

 

 でも、今日は、この人が「聞きますか」と言ったのだ。

 

 

 

 

「……いや、なんでもない」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、そう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

 

 

 

「聞いてください」

 

「え」

 

「いま、聞こうとされましたよね」

 

「……うん」

 

「聞いてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人の話が、一回も出てこないなって」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんの手が、ジョッキの上で止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく、止まっていた。

 

 

 

 

 障子の向こうで、店員が皿を下げる音がした。

 どこかの個室で、誰かが笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……そうですね」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、そう言った。

 

 

 

 

「出てきませんね」

 

「うん」

 

「気づきませんでした」

 

「そう?」

 

「いえ、嘘です」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんは、ジョッキを両手で持った。

 

 

 

 

「気づいていました」

 

 

 

 

「うん」

 

「出さないようにしていました」

 

「うん」

 

「出すと、その人の話になるからです」

 

 

 

 

 

 

 

 ――そこか。

 

 

 

 

 

 

 

「その人の話にすると、私が、その人のせいにしていることになります」

 

 彼女は、まっすぐ前を見ていた。

 

「私が壊れたのは、私が弱かったからです。同じ環境で、壊れなかった人がいます。だから、環境の問題ではありません」

 

 

 

 

 ――出た。

 

 

 

 

 この論法を、俺は知っている。

 

 病院にいたころ、これを言う人を何人か見た。

 だいたい、言われて覚えた人である。自分で思いついた人は、あんまりいない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、誰に言われたの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沈黙が、長かった。

 

 

 

 

 

 

 

「……よく分かりますね」

 

「分かるよ」

 

「なぜですか」

 

「その理屈、馬剃さんが自分で考えたにしては、雑だから」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんが、口を開いた。

 

 

 

 

 開いて、閉じた。

 

 

 

 

 それから、もう一度開いた。

 

 

 

 

「……金曜の、十七時以降のことは」

 

 

 

 

 

 

 

 止まった。

 

 

 

 

 

 

 

「あまり、覚えていません」

 

 

 

 

 

 

 

「うん」

 

「その話は、いいです」

 

「うん」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、それ以上、何も聞かなかった。

 

 

 

 

 聞かずに、立ち上がった。

 

 

 

 

「温水さん?」

 

「ちょっと出る」

 

「え」

 

「二分で戻る」

 

 

 

 

 

 

 

 店を出て、通りの自販機まで歩いた。

 

 二十メートルくらいである。

 

 

 

 

 小銭を入れて、ボタンを二回押した。

 

 

 

 

 ごとん、ごとん、と二回鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 個室に戻って、俺は一本を彼女の前に置いた。

 

 

 

 

 黒いラベルの、砂糖もミルクも入っていないやつだった。

 

 

 

 

「……これは」

 

「まだビール残ってるけど」

 

「はい」

 

「あとで飲んで」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんは、缶を見ていた。

 

 

 

 

 しばらく、見ていた。

 

 

 

 

「……なにも、聞かないんですね」

 

「聞かない」

 

「なぜですか」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、自分の缶を開けた。

 

 

 

 

「聞いても、俺、なんもできないから」

 

 

 

 

「……」

 

「用度にいたころ、業者さんが泣いたことがあるんだよ」

 

「泣いた」

 

「納品でミスして、それで、うちの医局に怒鳴られて」

 

 俺は、缶を一口飲んだ。

 

「そのとき、俺、何も聞かなかった。缶コーヒー買って、隣に座って、二十分黙ってた」

 

「……それで」

 

「二十分後に、その人が『すいません、戻ります』って言って、戻った」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんが、缶を両手で包んだ。

 

 

 

 

「……その方は、いま」

 

「まだ来てる。十年目」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、プルタブを開けた。

 

 

 

 

 一口飲んだ。

 

 

 

 

「……まずいです」

 

「知ってる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――金曜の、十七時以降。

 

 

 

 

 

 

 

 四月十五日。

 

 俺が「今日、このあとって」と言ったとき、この人は反射でこう言った。

 

 

 

 

 ――業務時間外の付き合いは、強制ではありませんよね。

 

 

 

 

 

 

 

 あのとき、俺は「早いな」と思った。

 

 構えるのが早すぎる、と。

 

 

 

 

 早いのではなかった。

 

 あれは、この人が何年もかけて練習した文である。

 毎週、金曜の夕方に、言おうとして、言えなかった文である。

 

 

 

 

 それを、四月十五日の火曜日に、この人は俺に向かって言った。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、ジョッキを持ち上げて、飲んだ。

 

 味は、しなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「今度は、私が聞いてもよろしいですか」

 

 

 

 

 

 

 

 ――来たか。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、覚悟していた。

 

 覚悟していたが、覚悟が足りていなかった。

 

 

 

 

「はい」

 

 

 

 

「なぜ、誰にも言わずに東京に来られたんですか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、箸を置いた。

 

 

 

 

 

 

 

 答えは、持っている。

 

 持っているが、それを口に出す訓練を、俺は十六年やっていない。

 

 

 

 

「……面倒だったんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、そう言った。

 

 

 

 

「あのころ、いろいろあって。人間関係が、こう、ぐちゃぐちゃになってて」

 

「はい」

 

「全部整理して出ていくのが、面倒だった。だから、整理しないで出た」

 

 

 

 

 

 

 

 嘘ではない。

 

 一文字も、嘘ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 でも、これは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そうですか」

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんは、そう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それだけだった。

 

 

 

 

 「嘘です」とは、言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、その二秒くらい、ものすごく救われて、そのあと、ものすごく落ちこんだ。

 

 

 

 

 救われたのは、追及されなかったからだ。

 落ちこんだのは、追及されなかったからだ。

 

 同じ理由である。

 

 

 

 

 

 

 

 ――言ってくれよ。

 

 

 

 

 

 

 

 四月に、この人は言ったのだ。

 

 「あなたは昔から、そういう嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしないんです」と。

 

 今日の俺の答えは、短かった。

 完全に、あのパターンだった。

 

 

 

 

 気づいていないわけがない。

 

 

 

 

 気づいていて、言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……そういうことか。

 

 

 

 

 

 

 

 今日、この人は、自分の空白を俺に見せた。

 

 見せたうえで、俺の空白には、触れないことにした。

 

 

 

 

 交換ではない。

 

 交換ではないから、これは、たぶん、もっと悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「温水さん」

 

 

 

 

 五杯目のジョッキを、天愛星さんが置いた。

 

 

 

 

 置き方が、少し雑になっていた。

 

 

 

 

「一つだけ、言ってもいいですか」

 

「うん」

 

「今日、いちばん言いたかったことです」

 

「うん」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、テーブルの木目を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

「私、あなたに褒められたときの自分で、いたかったんです」

 

 

 

 

 どくん、と心臓が鳴った。

 

 

 

 

 鳴ってから、俺は、その一文を二回読み直すみたいに考えた。

 

 

 

 

 褒められたとき。

 褒められたときの、自分。

 

 

 

 

 ――過去形だ。

 

 

 

 

 

 

 

「十六年前の、体育館です」

 

「うん」

 

「あなたが、全校生徒の前で、私のことを言いました」

 

「言った」

 

「不器用で、強情で、少しわがままで。……でも、そのわがままは、いつも誰かのためだと」

 

 

 

 

 

 

 

 覚えている。

 

 俺は、あれを、一字一句覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

「あのとき、私は、そういう人間だったんです」

 

 天愛星さんは、まだ木目を見ていた。

 

「少なくとも、あなたにはそう見えていました」

 

「うん」

 

「だから、そうであろうと思いました。大学でも、役所でも」

 

 

 

 

 彼女は、そこで少し、息を吸った。

 

 

 

 

「誰かのために、わがままを言う人間で、いようと思いました」

 

 

 

 

 

 

 

「……十六年、それでやってきました」

 

 

 

 

 俺は、そのとき、たぶん、息を止めていた。

 

 

 

 

 十六年前、俺があの演台でやったのは、告白ではない。

 推薦人の応援演説である。

 

 全校生徒に向かって、この人の悪いところを並べて、最後に一つだけ置いた。

 

 

 

 

 置いた言葉が、この人の十六年になっていた。

 

 

 

 

 ……そんなつもりは、なかった。

 

 なかったが、それは俺の都合である。

 

 

 

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「やってきて、できなくなりました」

 

 

 

 

 

 

 

「一年半前に、私は、誰のためでもなく、自分のために逃げました」

 

「馬剃さん」

 

「はい、分かっています。逃げてよかったんです。医師にも、そう言われました」

 

 

 

 

 彼女は、顔を上げた。

 

 

 

 

 目が、少し赤かった。

 

 泣いてはいなかった。

 

 

 

 

「ただ、私は」

 

 

 

 

 

 

 

「あなたが語ってくれた人間で、いられなくなったんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、テーブルの上の何もない場所を見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 言うべきことが、たぶん、五つくらいあった。

 

 

 

 

 「そんなことない」。

 「逃げたのは正しい」。

 「馬剃さんは、いまも十分」。

 

 全部、たぶん、正しい。

 

 

 

 

 全部、いま言うと、この人は「はい」と言って終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この人が欲しいのは、たぶん、否定ではない。

 

 「そんなことない」と言われたら、この人はもう一段深く沈む。

 自分の十六年を、軽く扱われたことになるからだ。

 

 かといって、「分かります」も駄目だ。

 俺は分からない。分からないものを分かると言うと、この人は次から話さなくなる。

 

 

 

 

 じゃあ、なんて言えばいいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、口を開いた。

 

 

 

 

「……重いな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 二秒。

 

 

 

 

 

 

 

 それから、噴き出した。

 

 

 

 

 

 

 

「重いです」

 

「重いよ」

 

「重いですよね?」

 

「重い」

 

「自分でも、そう思ってました」

 

「思ってたんだ」

 

「思っていました。言う前から、これは重いなと」

 

「じゃあなんで言ったんだよ」

 

「二週間、考えたからです」

 

「二週間」

 

「二週間考えて、これを言わないと、他の話に意味がなくなると思いました」

 

 

 

 

 

 

 

 ……そこは、ちゃんと構成してきたのか。

 

 

 

 

 俺は、なぜか少し笑ってしまった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「二週間かけて、構成組んできたんだ」

 

「組みました」

 

「原稿は」

 

「作っていません」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、そう言って、少しだけ胸を張った。

 

 

 

 

 

 

 

 天愛星さんは、笑いながら、目のあたりを手の甲で拭いた。

 

 

 

 

「言ってしまいました」

 

「言ったな」

 

「十六年ぶんです」

 

「重いわけだ」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、ジョッキの残りを飲み干した。

 

 

 

 

 飲み干して、店員を呼んだ。

 

 

 

 

「すみません、同じものを」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「六杯目」

 

「知っています」

 

「明日、土曜だぞ」

 

「知っています」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……これは、止められないやつだ。

 

 

 

 

 俺は、水を頼んだ。

 

 

 

 

 五杯目までは、話が成立していた。

 

 六杯目で、崩れた。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「私、実は、四月一日に」

 

「はい」

 

「あなたがいるとは、思っていませんでした」

 

「知ってる」

 

「知ってるんですか」

 

「顔に出てた」

 

「出ていましたか」

 

「めちゃくちゃ出てた」

 

 

 

 

 天愛星さんは、両手で顔を覆った。

 

 

 

 

「……最悪です」

 

「いや、俺もだよ」

 

「あなたは、名簿を見ていたでしょう」

 

「十分前」

 

「十分」

 

「十分前に見て、十分で顔を作った」

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は、指の隙間から、こちらを見た。

 

 

 

 

「……作れていませんでした」

 

「作れてなかった?」

 

「二秒、止まっていました」

 

「数えてたのか」

 

「記録は取ります」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、天井を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 二十二時四十分。

 

 

 

 

 天愛星さんは、テーブルに突っ伏していた。

 

 

 

 

 六杯目の途中から、記憶が飛んでいたと思う。

 

 最後のほうは、話の内容が高校に戻っていた。

 志喜屋先輩が体育館の照明を落とした話を、二回した。二回目のほうが長かった。

 

「あの人は、天才です」

 

「二回目だぞ、それ」

 

「天才ですっ」

 

「うん」

 

「私は、あの日、全部、飛びました」

 

「知ってる」

 

「……知ってるんですか」

 

「見てた」

 

「…………」

 

「馬剃さん?」

 

「……忘れてくださいっ」

 

「無理」

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「……」

 

「馬剃さん、帰るよ」

 

「……はい」

 

 

 

 

 返事はした。

 

 動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、会計を済ませて、彼女の鞄を持った。

 

 肩を貸して、なんとか店の外まで出した。

 

 

 

 

 外は、まだ暑かった。

 

 八月の終わりの夜は、昼の熱が地面から上がってくる。

 

 

 

 

「馬剃さん、家、どこ」

 

「……」

 

「馬剃さん」

 

「……こまり、が」

 

「え」

 

「こまりが、六巻を、出しました」

 

「知ってる。買った」

 

「……そうですか」

 

「面白かった」

 

「……そうですか」

 

「三巻がいちばん好き」

 

「……四巻です」

 

「え」

 

「四巻のほうが、いいです」

 

「いや、三巻の、あの終わり方が」

 

 

 

 

「――四巻ですっ!」

 

 

 

 

 肩の上で、声が跳ねた。

 

 夜の住宅街に、四巻という単語だけが、やけにくっきり残った。

 

「四巻の、二百三十七ページですっ! 主人公が、そこで黙るところですっ! 三巻は、まだ喋っていますっ! 喋っているうちは、まだ易しいんですっ!」

 

「……ページまで覚えてるのか」

 

「記録は取りますっ」

 

「手帳、鞄の中だろ」

 

「頭にもありますっ」

 

 

 

 

 この人は、酔うと、そこだけ譲らない。

 

 

 

 

「馬剃さん、家」

 

「……四巻です」

 

「家の話をしてる」

 

「四巻ですっ」

 

 天愛星さんが、ぶんぶん、と首を振った。

 振ってから、自分で目を回していた。

 

 

 

 

 

 

 

 完全に駄目だった。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、タクシーを止めようとして、手を下ろした。

 

 

 

 

 行き先が、言えない。

 

 

 

 

 

 

 

 ――どうする。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、彼女の鞄の中を見た。

 

 見るのは気が引けたが、他に方法がなかった。

 

 中は、異様に整理されていた。

 

 手帳、筆箱、名刺入れ、折り畳み傘、ハンカチ、ウェットティッシュ。

 全部、位置が決まっている。四月から毎日、同じ場所に入っているのだと思う。

 

 書類だけは、いつも完璧なのだ。

 鞄の中も、たぶん、その延長にある。

 

 

 

 

 手帳には、触らなかった。

 

 触らなかったのは、たぶん、俺の中の最後の一線である。

 

 あれを開いたら、この人の十六年が全部そこにある。

 そんなものを、本人が寝ているあいだに読んでいい人間は、この世に一人もいない。

 

 

 

 

 職員証が、内ポケットに入っていた。

 

 裏に、緊急連絡先の記載欄がある。

 入職時に、本人が書く欄だ。

 

 

 

 

 几帳面な角ばった字で、住所が書いてあった。

 

 

 

 

 ここから、歩いて十五分。

 

 

 

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「……はい」

 

「おぶる」

 

「……はい」

 

「いいの?」

 

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、この人をおぶって、八月の終わりの住宅街を歩いた。

 

 

 

 

 道は、ほとんど誰もいなかった。

 

 二十三時前の住宅街というのは、思ったより静かである。

 自販機の音と、どこかの家のエアコンの室外機の音と、あとは俺の足音だけがした。

 

 

 

 

 

 

 

 軽かった。

 

 

 

 

 思っていたより、はるかに軽かった。

 

 

 

 

 この人は、たぶん、ちゃんと食べていない。

 

 六月に、賄いの天丼と茶碗蒸しと豚汁を食べて、残りを俺に回した。

 あのとき、判断が速いなと思った。

 

 速いんじゃなくて、入らなかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 ――高校のとき、この人をおぶることになるなんて、一度も考えなかった。

 

 

 

 

 考えるわけがない。

 

 俺はあのとき、この人の告白に、返事すらしなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 背中で、天愛星さんが何か言った。

 

 

 

 

 

 

 

 聞こえなかった。

 

 

 

 

 聞こえなかったことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 ……いや。

 

 

 

 

 聞こえた。

 

 

 

 

 短い一言だった。

 

 短くて、はっきりしていて、そして、俺が十六年ぶりに聞くものだった。

 

 

 

 

 俺は、歩幅を変えなかった。

 

 変えると、聞こえたことがばれる。

 

 

 

 

 だから、そのまま歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なあ。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、歩きながら、自分に聞いた。

 

 

 

 

 これ、大貫だったら、おぶるか?

 

 

 

 

 おぶらないな。

 あいつなら、タクシーに詰めこんで、運転手に住所を伝えて、手を振って帰る。

 

 

 

 

 じゃあ、なんでこの人はおぶってるんだ。

 

 

 

 

 ……住所を、他人に言うのが嫌だろうと思ったからだ。

 

 

 

 

 うん。それだ。

 配慮だ。同僚への、まっとうな配慮である。

 

 

 

 

 

 

 

 その説明を、俺は、三分くらいかけて自分にした。

 

 

 

 

 三分かかった時点で、たぶん、答えは出ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二十三時十分。

 

 

 

 

 三階建てのアパートの、二階の角部屋だった。

 

 

 

 

 鍵は、鞄の外ポケットにあった。

 定位置なのだと思う。この人は、たぶん、鍵の置き場所だけは決めている。

 

 

 

 

「馬剃さん、着いた」

 

「……はい」

 

「鍵、開けるよ」

 

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 ――ここで、帰れる。

 

 

 

 

 

 

 

 実際、そのつもりだった。

 

 鍵を開けて、玄関を開けて、中に入れて、水を置いて、帰る。

 六月の特訓のあと、俺は毎晩そうやって正門で別れてきた。

 

 今日も、そうすればいい。

 

 

 

 

 男が、女の部屋に入る理由は、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、彼女を背中から下ろして、壁にもたれさせた。

 

 

 

 

 鍵を差して、回した。

 

 

 

 

 かちり、と鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 ドアを開けた。

 

 

 

 

 最初に来たのは、においだった。

 

 

 

 

 次に、音がなかった。

 

 

 

 

 玄関の照明のスイッチを探して、手が壁を三回叩いて、四回目でついた。

 

 

 

 

 

 

 

 俺の思考が、止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――足の、置き場が、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 背中で、天愛星さんが小さく身じろぎした。

 

 

 

 

「……温水さん」

 

「うん」

 

「見ないで、ください」

 

 

 

 

 

 

 

 六月の非常階段で、この人は同じことを言った。

 

 

 

 

 あのときは、扉のところで止まれば済んだ。

 

 

 

 

 今日は、止まったら、この人が廊下で寝ることになる。

 

 

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