(八月九日〜二十九日/温水視点)
「聞くよ」
俺は、そう答えた。
誰もいない大講堂で、舞台の上に立った人に向かって。
「ただ、今日は無理」
「……はい」
「俺、いま、たぶん三十時間くらい寝てない」
「三十時間」
「昨日の四時起きだから。あと、いま話を聞いたら、たぶん俺、途中で寝る」
「寝ないでください」
「寝る自信がある」
「自信を持つところが、違いますっ」
天愛星さんが、少し笑った。
「私も、同じです」
「だろうな」
「昨夜は、何時間寝られたんですか」
「二時間です」
「俺の勝ちだ」
「勝負ではありません」
「勝負にしたら、勝ってるけど」
「勝っていません。睡眠時間は、少ないほうが負けです」
「そっちの採点なんだ」
「そちらの採点ですっ」
「立っているのが、限界です」
「座る?」
「舞台の上に座るのは、適切ではありません」
「誰もいないよ」
「……いません、ね」
「座ろう」
「座りません」
「なんで」
「一度座ると、たぶん、立てませんっ」
「じゃあ、日を決めよう」
俺は、スマホを取りだした。
カレンダーを開いて、八月の後半を見た。
十日は日曜。十一日から十四日は夏季休業。十八日から二十二日は、総合型選抜の要項の確定作業。
二十五日の週は、九月の入試説明会の資料。
「二十九日、金曜はどう?」
言ってから、俺は少し後悔した。
二十九日は、二週間後である。
二週間、この人は「話すと決めた」まま待つことになる。
俺も、二週間、待つことになる。
もっと近い日にすればよかった。
「二十九日で、お願いします」
天愛星さんは、即答した。
即答して、それから、少しだけ息を吐いた。
この人は、怖いときほど即答する。
六月に、俺はそれに気づいた。
考える時間を作ると、断る理由が見つかってしまうからだ。
いまも、たぶん、そうだった。
「……二週間、ありますね」
「あるな」
「その間に、私が『やっぱりやめます』と言い出したら」
「言い出すの?」
「言い出す可能性が、三割ほどあります」
「三割」
「三割です。数字は、正直に申し上げます」
「その三割、どうやって出したの」
「体感です」
「体感なんだ」
「体感ですが、根拠はあります」
「あるの」
「過去に、同種の決意を三回しました。実行したのは、二回です」
「……三回目が、今日?」
「四回目です」
「増えてる」
「増えましたっ」
俺は、少し考えた。
「じゃあ、店だけ予約しとく」
「なぜですか」
「キャンセル料がかかるから」
「……そういう縛り方をしますか」
「する」
天愛星さんは、たっぷり三秒黙った。
「……卑怯です」
「用度で覚えた」
「用度は、そのようなことを教える部署なのですか」
「業者さんとの約束を守らせる部署です」
「私は業者ではありませんっ」
「じゃあ、なんですか」
「…………」
「馬剃さん?」
「……当事者ですっ」
「うん。だからキャンセル料」
「話が戻りましたっ」
「ちなみに、お店はどちらですか」
「個室の、静かなとこ。焼き鳥じゃないほう」
「……なぜ、焼き鳥ではないのですか」
「タレに落ちると、話が止まるんで」
「覚えてらしたんですね」
「覚えてる」
「四月十五日ですね」
「日付は覚えてない」
「私は覚えています」
「そこは記録なんだ」
「記録です」
「なんの記録?」
「…………」
「馬剃さん」
「……業務外の、記録ですっ」
二週間は、長かった。
八月十日は日曜で、十一日から十四日が夏季休業だった。
俺は、四日間ずっと家にいた。
夏コミは、十六日に終わった。
あの二日間のことは、まだ、うまく整理できていない。
整理できていないので、俺は四日間、その話を誰にもしなかった。
十八日から、また仕事が始まった。
総合型選抜の要項の確定作業。九月の入試説明会の資料。オープンキャンパスの反省会資料。
八月の後半は、毎年こうなる。
天愛星さんは、普通だった。
普通に出勤して、普通に仕事をして、普通に定時で帰った。
オープンキャンパスの日から、彼女は一度も、あの話をしなかった。
俺も、しなかった。
ただ、二十一日の木曜に、一度だけ変なことがあった。
「温水主任」
「はい」
「本日は、八月二十一日です」
「そうですね」
「……以上です」
「以上?」
「以上ですっ」
その日、彼女は日付だけ確認して、自分の席に戻った。
……たぶん、あと八日、と数えている。
ただ、一度だけ。
二十六日の火曜日、彼女が席を立つとき、俺の机にふせんが貼ってあった。
『二十九日、行きます』
……三割は、消えたらしい。
俺は、そのふせんを、共有フォルダには入れなかった。
ローカルの『memo』にも入れなかった。
鞄の内ポケットに入れた。
定期入れの、隣である。
八月二十九日、金曜日。
俺は、人生で二回目の「個室の予約」というものをした。
一回目は、去年の課の忘年会である。あのときは幹事だったので、業務だった。
今回は、業務ではない。
電話で「個室ってあります?」と聞いたとき、自分の声が少し変だった。
「何名様でしょうか」
「二名です」
「お祝いのご利用ですか」
「……いえ」
「ご接待でしょうか」
「……いえ」
「かしこまりました」
店の人は、それ以上、何も聞かなかった。
プロである。
店は、大学から二駅離れたところにした。
四月に行った店ではない。
あそこは席が近い。今日は、隣の話し声が聞こえない場所がよかった。
結果として、少し高い店になった。
「二駅ですね」
入り口で、天愛星さんが言った。
「……二駅」
「学習しませんね」
「学習して二駅にしてる」
「なるほど」
「納得が早いな」
「理由が示されましたので」
「理由、言ってないけど」
「……言っていませんね」
「うん」
「では、伺います。なぜ二駅なのですか」
「三駅にすると、帰りが面倒だから」
「……一理ありますね」
「ないですよ」
「ないんですかっ」
「三駅にしたことも、ありますし」
「――七月ですねっ!」
入り口で、声が大きくなった。
通りかかった店員が、少しだけ歩調を速めた。
個室は、四畳半くらいの和室だった。
掘りごたつ式のテーブルが一つ。障子が閉まると、外の音が半分になる。
天愛星さんは、座布団の位置を直してから座った。
直し方が、几帳面だった。
畳の目に合わせて、角を揃えている。
「馬剃さん」
「はい」
「座布団、二回直しました」
「一回です」
「二回でした」
「……一回半です」
「半ってなに」
「途中で、やめました」
「やめきれてないんだよなあ」
俺は、その動作を見ながら、少し安心した。
この人が座布団の角を揃えているうちは、たぶん、まだ大丈夫である。
「温水さん」
「うん」
「先に、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「今日、私は、たぶん、うまく話せません」
彼女は、まっすぐこちらを見ていた。
「順序立てて話すつもりで来ました。ですが、たぶん、あちこち飛びます」
「うん」
「あと、途中で関係のない話をします」
「うん」
「それでも、よろしいですか」
「いいよ」
俺は、そう答えた。
「俺、要約が苦手だから」
「……議事録を作られる方の台詞とは思えません」
「作ってない。作ってるの、馬剃さんだろ」
「四月から二か月は、あなたが作っておられました」
「あれ、ほとんど『異議なし』だったよな」
「そうですね」
天愛星さんが、少し笑った。
笑ってから、おしぼりを畳んだ。
畳み方が、四つ折りだった。
「それ、使ってないですよね」
「使いました」
「一秒くらいだったけど」
「一・二秒です」
「測ってた?」
「体感です」
「体感で〇・二秒まで出るの、怖いんだよなあ」
天愛星さんは、生ビールを頼んだ。
「早いな」
「四月に、決めておきましたので」
「四月?」
「四月十五日に、一杯目を何にするかで、三十秒使いました」
「三十秒」
「二度と、あの三十秒は使いたくありません」
「じゃあ、今日は」
「〇・五秒です」
「成長だ」
「成長ですっ」
俺も、同じものを頼んだ。
最初の三十分は、ほとんど文科省の組織の話だった。
初等中等教育局に、課がいくつあるか。
その課が、それぞれ何をしているか。
高等教育局に異動したのが何年目で、そのときの併任がどこで、担当した施策がなんだったか。
彼女は、それを、異様に滑らかに喋った。
途中で、俺は完全に理解を諦めた。
局と課と室と班があって、それぞれに併任があって、審議会と部会と作業部会があって、そのうえで通知と告示と事務連絡が別物らしい。
うちの大学の事務局は、百二十人で十一課である。
俺は、その全部の課長の名前を言える。
あそこは、たぶん、桁が二つ違う。
「馬剃さん」
「はい」
「いま、局と課と室と班が出てきたけど」
「はい」
「それ、全部違うもの?」
「違います」
「通知と告示と事務連絡は」
「別物です」
「どう別なの」
「……三十分ほど、かかります」
「じゃあいい」
「いま『じゃあいい』とおっしゃいましたね」
「言った」
「みなさん、そこで『じゃあいい』とおっしゃるんです」
滑らかすぎて、俺は途中で気づいた。
――この人、これを何回も喋ってる。
転職の面接で、たぶん二十三回喋っている。
二十三社受けて、内定が一つだったと言っていた。
だから、ここは滑らかなのだ。
「席は、左から三番目でした」
「うん」
「窓際です。夏は暑くて、冬は寒いです」
「そういうもんだよな」
「はい。……局の中で、いちばん人の出入りが多い席でした」
天愛星さんは、二杯目を頼んだ。
「タクシーチケットを、一年で三百二十枚使った年があります」
「三百二十」
「土日を除くと、ほぼ毎日です」
「それ、家には帰ってる?」
「帰っています。着替えのためです」
「着替えのため」
「はい」
「風呂は」
「……朝、庁舎の中で」
「あるんだ」
「あります」
「へえ」
「ありますが、あることを知っている時点で、いろいろと駄目です」
「……」
「深夜二時に電話が来ます。答弁の想定問答の、三行目の語尾を直してほしいと」
「三行目の語尾」
「三行目の語尾です」
「……『します』を『してまいります』にするとか、そういうやつ?」
「はい」
「それ、深夜二時に決めるの?」
「翌朝の八時に、大臣がお読みになるからです」
「なるほど」
「あと、変えたことを、関係する三つの課に連絡します。三時です」
「三時に電話するの?」
「メールです。ただ、三つの課の担当者も、その時間に起きています」
……起きてるのか。
俺は、そのとき、自分の生活のことを考えた。
定時に帰って、飯を食って、アニメを見て、寝る。
繁忙期でも、月の残業は十時間を超えない。
同じ「教育に関わる仕事」で、こうも違う。
彼女は、そこで少し笑った。
「あれは、意味がないわけではないんです。国会で読まれる文章ですから、語尾一つで意味が変わります」
「なるほど」
「ですので、私は起きて、直しました。四年間」
「四年」
「四年です」
――違うな。
俺は、そう思った。
この人がいま話しているのは、たぶん、辞めた理由ではない。
深夜二時の電話が理由なら、この人は辞めていない。
この人は、深夜二時に起きて語尾を直すことに、たぶん、そこまで文句がない。
むしろ、その話をするとき、声が少し楽しそうだった。
俺は、何も言わずに、枝豆を彼女の前に押しやった。
「三年目に、一つ仕組みを作りました」
三杯目で、彼女はそう言った。
「評価の記録を残す仕組みです。現場の負担が増えるので、反対がありました」
「五月の、入試委員会の話だよね」
「はい。あれと、同じ趣旨のものです」
「通ったの?」
「通りました」
天愛星さんは、ジョッキを置いた。
「五年目に、廃止されました」
俺は、ジョッキを持つ手を止めた。
「……廃止」
「はい。私は、そのとき別の局にいました」
「知らされたの?」
「いえ」
彼女は、首を横に振った。
「三年後に、たまたま資料を見て、なくなっていることに気づきました」
「……誰も言わないの?」
「言う理由がありません。私は、もうその課にいませんでしたので」
「いや、でも」
「業務上、必要のない連絡です」
天愛星さんは、そう言った。
言い方が、完全に事務の人の言い方だった。
「廃止の理由は、記録に残っていました」
「なんて書いてあった?」
「『運用上の負担に鑑み』です」
「……それだけ?」
「それだけです」
俺は、ジョッキの縁を見ていた。
三年かけて作ったものが、三年後に、誰にも知らされずに消える。
それが役所というものなのか、それとも、この人の場合が特別だったのか。
俺には分からない。
分からないが、俺なら、たぶん、そこで一回死ぬ。
「それは、しんどいな」
「そうでしょうか」
「しんどいだろ」
「……よくあることです」
――出た。
この人は、さっきから、こればかり言っている。
「よくあることです」
「そういうものです」
「私だけではありません」
全部、主語を消す言い方だった。
四杯目のあたりで、話が少しずつ、遅くなった。
「通院を始めたのは、九年目の十一月です」
「うん」
「十一月十七日です」
「日付、覚えてるんだ」
「記録は取ります」
俺は、うなずいた。
「最初は、眠れないだけでした。それから、朝、起きられなくなりました」
「うん」
「休職の申請をしました。様式は第十七号です」
「様式番号まで」
「様式番号は、覚えています」
――覚えているものと、覚えていないものが、はっきり分かれている。
俺は、そのことに気づいていた。
局の名前、課の名前、席の位置、チケットの枚数、様式番号、通院の日付。
全部、正確に出てくる。
なのに、一度も出てこないものがある。
人が、出てこない。
この一時間半、この人は、一人も人の名前を出していない。
上司も、同僚も、部下も。
「課長が」も「同期が」も、一度も言っていない。
全部、「文科省では」「あそこでは」「局の中では」だった。
場所しか、出てこない。
俺は、それを、たぶん四十分前から気づいていた。
気づいていて、四十分、黙っていた。
この人の話し方は、うちの課の議事録に似ている。
『事務局より説明。異議なし』
誰が何を言ったかは、書かない。書かないほうが、記録として安全だからだ。
この人は、自分の十年を、そうやって記録している。
人を書くと、事故になる。
だから、場所だけ書く。
……十六年前、この人は、俺のことを一度も名前で呼ばなかった。
いや、違う。呼ばれたことはある。
呼ばなかったのは、この人が自分の下の名前を、俺以外に呼ばせなかったほうだ。
名前というのは、この人にとって、たぶん、そういうものである。
「馬剃さん」
「はい」
「一個、聞いていい?」
「はい」
俺は、そこで二秒だけ迷った。
聞くべきか。
聞かないべきか。
四月から、俺は「聞かれたら嫌でしょ」でやってきた。
やってきて、それでこの人は、たぶん、少し楽になった。
でも、今日は、この人が「聞きますか」と言ったのだ。
「……いや、なんでもない」
俺は、そう言った。
天愛星さんが、こちらを見た。
「聞いてください」
「え」
「いま、聞こうとされましたよね」
「……うん」
「聞いてください」
「人の話が、一回も出てこないなって」
天愛星さんの手が、ジョッキの上で止まった。
しばらく、止まっていた。
障子の向こうで、店員が皿を下げる音がした。
どこかの個室で、誰かが笑っていた。
「……そうですね」
彼女は、そう言った。
「出てきませんね」
「うん」
「気づきませんでした」
「そう?」
「いえ、嘘です」
天愛星さんは、ジョッキを両手で持った。
「気づいていました」
「うん」
「出さないようにしていました」
「うん」
「出すと、その人の話になるからです」
――そこか。
「その人の話にすると、私が、その人のせいにしていることになります」
彼女は、まっすぐ前を見ていた。
「私が壊れたのは、私が弱かったからです。同じ環境で、壊れなかった人がいます。だから、環境の問題ではありません」
――出た。
この論法を、俺は知っている。
病院にいたころ、これを言う人を何人か見た。
だいたい、言われて覚えた人である。自分で思いついた人は、あんまりいない。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、誰に言われたの?」
沈黙が、長かった。
「……よく分かりますね」
「分かるよ」
「なぜですか」
「その理屈、馬剃さんが自分で考えたにしては、雑だから」
天愛星さんが、口を開いた。
開いて、閉じた。
それから、もう一度開いた。
「……金曜の、十七時以降のことは」
止まった。
「あまり、覚えていません」
「うん」
「その話は、いいです」
「うん」
俺は、それ以上、何も聞かなかった。
聞かずに、立ち上がった。
「温水さん?」
「ちょっと出る」
「え」
「二分で戻る」
店を出て、通りの自販機まで歩いた。
二十メートルくらいである。
小銭を入れて、ボタンを二回押した。
ごとん、ごとん、と二回鳴った。
個室に戻って、俺は一本を彼女の前に置いた。
黒いラベルの、砂糖もミルクも入っていないやつだった。
「……これは」
「まだビール残ってるけど」
「はい」
「あとで飲んで」
天愛星さんは、缶を見ていた。
しばらく、見ていた。
「……なにも、聞かないんですね」
「聞かない」
「なぜですか」
俺は、自分の缶を開けた。
「聞いても、俺、なんもできないから」
「……」
「用度にいたころ、業者さんが泣いたことがあるんだよ」
「泣いた」
「納品でミスして、それで、うちの医局に怒鳴られて」
俺は、缶を一口飲んだ。
「そのとき、俺、何も聞かなかった。缶コーヒー買って、隣に座って、二十分黙ってた」
「……それで」
「二十分後に、その人が『すいません、戻ります』って言って、戻った」
天愛星さんが、缶を両手で包んだ。
「……その方は、いま」
「まだ来てる。十年目」
「そうですか」
「うん」
彼女は、プルタブを開けた。
一口飲んだ。
「……まずいです」
「知ってる」
――金曜の、十七時以降。
四月十五日。
俺が「今日、このあとって」と言ったとき、この人は反射でこう言った。
――業務時間外の付き合いは、強制ではありませんよね。
あのとき、俺は「早いな」と思った。
構えるのが早すぎる、と。
早いのではなかった。
あれは、この人が何年もかけて練習した文である。
毎週、金曜の夕方に、言おうとして、言えなかった文である。
それを、四月十五日の火曜日に、この人は俺に向かって言った。
俺は、ジョッキを持ち上げて、飲んだ。
味は、しなかった。
「温水さん」
「うん」
「今度は、私が聞いてもよろしいですか」
――来たか。
俺は、覚悟していた。
覚悟していたが、覚悟が足りていなかった。
「はい」
「なぜ、誰にも言わずに東京に来られたんですか」
俺は、箸を置いた。
答えは、持っている。
持っているが、それを口に出す訓練を、俺は十六年やっていない。
「……面倒だったんだよ」
俺は、そう言った。
「あのころ、いろいろあって。人間関係が、こう、ぐちゃぐちゃになってて」
「はい」
「全部整理して出ていくのが、面倒だった。だから、整理しないで出た」
嘘ではない。
一文字も、嘘ではない。
でも、これは。
「……そうですか」
天愛星さんは、そう言った。
それだけだった。
「嘘です」とは、言わなかった。
俺は、その二秒くらい、ものすごく救われて、そのあと、ものすごく落ちこんだ。
救われたのは、追及されなかったからだ。
落ちこんだのは、追及されなかったからだ。
同じ理由である。
――言ってくれよ。
四月に、この人は言ったのだ。
「あなたは昔から、そういう嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしないんです」と。
今日の俺の答えは、短かった。
完全に、あのパターンだった。
気づいていないわけがない。
気づいていて、言わなかった。
……そういうことか。
今日、この人は、自分の空白を俺に見せた。
見せたうえで、俺の空白には、触れないことにした。
交換ではない。
交換ではないから、これは、たぶん、もっと悪い。
「温水さん」
五杯目のジョッキを、天愛星さんが置いた。
置き方が、少し雑になっていた。
「一つだけ、言ってもいいですか」
「うん」
「今日、いちばん言いたかったことです」
「うん」
彼女は、テーブルの木目を見ていた。
「私、あなたに褒められたときの自分で、いたかったんです」
どくん、と心臓が鳴った。
鳴ってから、俺は、その一文を二回読み直すみたいに考えた。
褒められたとき。
褒められたときの、自分。
――過去形だ。
「十六年前の、体育館です」
「うん」
「あなたが、全校生徒の前で、私のことを言いました」
「言った」
「不器用で、強情で、少しわがままで。……でも、そのわがままは、いつも誰かのためだと」
覚えている。
俺は、あれを、一字一句覚えている。
「あのとき、私は、そういう人間だったんです」
天愛星さんは、まだ木目を見ていた。
「少なくとも、あなたにはそう見えていました」
「うん」
「だから、そうであろうと思いました。大学でも、役所でも」
彼女は、そこで少し、息を吸った。
「誰かのために、わがままを言う人間で、いようと思いました」
「……十六年、それでやってきました」
俺は、そのとき、たぶん、息を止めていた。
十六年前、俺があの演台でやったのは、告白ではない。
推薦人の応援演説である。
全校生徒に向かって、この人の悪いところを並べて、最後に一つだけ置いた。
置いた言葉が、この人の十六年になっていた。
……そんなつもりは、なかった。
なかったが、それは俺の都合である。
俺は、何も言えなかった。
「やってきて、できなくなりました」
「一年半前に、私は、誰のためでもなく、自分のために逃げました」
「馬剃さん」
「はい、分かっています。逃げてよかったんです。医師にも、そう言われました」
彼女は、顔を上げた。
目が、少し赤かった。
泣いてはいなかった。
「ただ、私は」
「あなたが語ってくれた人間で、いられなくなったんです」
俺は、テーブルの上の何もない場所を見ていた。
言うべきことが、たぶん、五つくらいあった。
「そんなことない」。
「逃げたのは正しい」。
「馬剃さんは、いまも十分」。
全部、たぶん、正しい。
全部、いま言うと、この人は「はい」と言って終わる。
この人が欲しいのは、たぶん、否定ではない。
「そんなことない」と言われたら、この人はもう一段深く沈む。
自分の十六年を、軽く扱われたことになるからだ。
かといって、「分かります」も駄目だ。
俺は分からない。分からないものを分かると言うと、この人は次から話さなくなる。
じゃあ、なんて言えばいいんだ。
俺は、口を開いた。
「……重いな」
天愛星さんが、こちらを見た。
二秒。
それから、噴き出した。
「重いです」
「重いよ」
「重いですよね?」
「重い」
「自分でも、そう思ってました」
「思ってたんだ」
「思っていました。言う前から、これは重いなと」
「じゃあなんで言ったんだよ」
「二週間、考えたからです」
「二週間」
「二週間考えて、これを言わないと、他の話に意味がなくなると思いました」
……そこは、ちゃんと構成してきたのか。
俺は、なぜか少し笑ってしまった。
「馬剃さん」
「はい」
「二週間かけて、構成組んできたんだ」
「組みました」
「原稿は」
「作っていません」
彼女は、そう言って、少しだけ胸を張った。
天愛星さんは、笑いながら、目のあたりを手の甲で拭いた。
「言ってしまいました」
「言ったな」
「十六年ぶんです」
「重いわけだ」
彼女は、ジョッキの残りを飲み干した。
飲み干して、店員を呼んだ。
「すみません、同じものを」
「馬剃さん」
「はい」
「六杯目」
「知っています」
「明日、土曜だぞ」
「知っています」
……これは、止められないやつだ。
俺は、水を頼んだ。
五杯目までは、話が成立していた。
六杯目で、崩れた。
「温水さん」
「うん」
「私、実は、四月一日に」
「はい」
「あなたがいるとは、思っていませんでした」
「知ってる」
「知ってるんですか」
「顔に出てた」
「出ていましたか」
「めちゃくちゃ出てた」
天愛星さんは、両手で顔を覆った。
「……最悪です」
「いや、俺もだよ」
「あなたは、名簿を見ていたでしょう」
「十分前」
「十分」
「十分前に見て、十分で顔を作った」
彼女は、指の隙間から、こちらを見た。
「……作れていませんでした」
「作れてなかった?」
「二秒、止まっていました」
「数えてたのか」
「記録は取ります」
俺は、天井を仰いだ。
二十二時四十分。
天愛星さんは、テーブルに突っ伏していた。
六杯目の途中から、記憶が飛んでいたと思う。
最後のほうは、話の内容が高校に戻っていた。
志喜屋先輩が体育館の照明を落とした話を、二回した。二回目のほうが長かった。
「あの人は、天才です」
「二回目だぞ、それ」
「天才ですっ」
「うん」
「私は、あの日、全部、飛びました」
「知ってる」
「……知ってるんですか」
「見てた」
「…………」
「馬剃さん?」
「……忘れてくださいっ」
「無理」
「馬剃さん」
「……」
「馬剃さん、帰るよ」
「……はい」
返事はした。
動かなかった。
俺は、会計を済ませて、彼女の鞄を持った。
肩を貸して、なんとか店の外まで出した。
外は、まだ暑かった。
八月の終わりの夜は、昼の熱が地面から上がってくる。
「馬剃さん、家、どこ」
「……」
「馬剃さん」
「……こまり、が」
「え」
「こまりが、六巻を、出しました」
「知ってる。買った」
「……そうですか」
「面白かった」
「……そうですか」
「三巻がいちばん好き」
「……四巻です」
「え」
「四巻のほうが、いいです」
「いや、三巻の、あの終わり方が」
「――四巻ですっ!」
肩の上で、声が跳ねた。
夜の住宅街に、四巻という単語だけが、やけにくっきり残った。
「四巻の、二百三十七ページですっ! 主人公が、そこで黙るところですっ! 三巻は、まだ喋っていますっ! 喋っているうちは、まだ易しいんですっ!」
「……ページまで覚えてるのか」
「記録は取りますっ」
「手帳、鞄の中だろ」
「頭にもありますっ」
この人は、酔うと、そこだけ譲らない。
「馬剃さん、家」
「……四巻です」
「家の話をしてる」
「四巻ですっ」
天愛星さんが、ぶんぶん、と首を振った。
振ってから、自分で目を回していた。
完全に駄目だった。
俺は、タクシーを止めようとして、手を下ろした。
行き先が、言えない。
――どうする。
俺は、彼女の鞄の中を見た。
見るのは気が引けたが、他に方法がなかった。
中は、異様に整理されていた。
手帳、筆箱、名刺入れ、折り畳み傘、ハンカチ、ウェットティッシュ。
全部、位置が決まっている。四月から毎日、同じ場所に入っているのだと思う。
書類だけは、いつも完璧なのだ。
鞄の中も、たぶん、その延長にある。
手帳には、触らなかった。
触らなかったのは、たぶん、俺の中の最後の一線である。
あれを開いたら、この人の十六年が全部そこにある。
そんなものを、本人が寝ているあいだに読んでいい人間は、この世に一人もいない。
職員証が、内ポケットに入っていた。
裏に、緊急連絡先の記載欄がある。
入職時に、本人が書く欄だ。
几帳面な角ばった字で、住所が書いてあった。
ここから、歩いて十五分。
「馬剃さん」
「……はい」
「おぶる」
「……はい」
「いいの?」
「……はい」
俺は、この人をおぶって、八月の終わりの住宅街を歩いた。
道は、ほとんど誰もいなかった。
二十三時前の住宅街というのは、思ったより静かである。
自販機の音と、どこかの家のエアコンの室外機の音と、あとは俺の足音だけがした。
軽かった。
思っていたより、はるかに軽かった。
この人は、たぶん、ちゃんと食べていない。
六月に、賄いの天丼と茶碗蒸しと豚汁を食べて、残りを俺に回した。
あのとき、判断が速いなと思った。
速いんじゃなくて、入らなかったのかもしれない。
――高校のとき、この人をおぶることになるなんて、一度も考えなかった。
考えるわけがない。
俺はあのとき、この人の告白に、返事すらしなかったのだから。
背中で、天愛星さんが何か言った。
聞こえなかった。
聞こえなかったことにした。
……いや。
聞こえた。
短い一言だった。
短くて、はっきりしていて、そして、俺が十六年ぶりに聞くものだった。
俺は、歩幅を変えなかった。
変えると、聞こえたことがばれる。
だから、そのまま歩いた。
――なあ。
俺は、歩きながら、自分に聞いた。
これ、大貫だったら、おぶるか?
おぶらないな。
あいつなら、タクシーに詰めこんで、運転手に住所を伝えて、手を振って帰る。
じゃあ、なんでこの人はおぶってるんだ。
……住所を、他人に言うのが嫌だろうと思ったからだ。
うん。それだ。
配慮だ。同僚への、まっとうな配慮である。
その説明を、俺は、三分くらいかけて自分にした。
三分かかった時点で、たぶん、答えは出ている。
二十三時十分。
三階建てのアパートの、二階の角部屋だった。
鍵は、鞄の外ポケットにあった。
定位置なのだと思う。この人は、たぶん、鍵の置き場所だけは決めている。
「馬剃さん、着いた」
「……はい」
「鍵、開けるよ」
「……はい」
――ここで、帰れる。
実際、そのつもりだった。
鍵を開けて、玄関を開けて、中に入れて、水を置いて、帰る。
六月の特訓のあと、俺は毎晩そうやって正門で別れてきた。
今日も、そうすればいい。
男が、女の部屋に入る理由は、ない。
俺は、彼女を背中から下ろして、壁にもたれさせた。
鍵を差して、回した。
かちり、と鳴った。
ドアを開けた。
最初に来たのは、においだった。
次に、音がなかった。
玄関の照明のスイッチを探して、手が壁を三回叩いて、四回目でついた。
俺の思考が、止まった。
――足の、置き場が、ない。
背中で、天愛星さんが小さく身じろぎした。
「……温水さん」
「うん」
「見ないで、ください」
六月の非常階段で、この人は同じことを言った。
あのときは、扉のところで止まれば済んだ。
今日は、止まったら、この人が廊下で寝ることになる。