大学職員の僕たち   作:房吉

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~2敗目~ 大学職員の一年は四月から始まらない

「温水さん、負けてますよ」

 

「何にだ」

 

「馬剃さんの出勤時刻に」

 

 四月三日、午前八時二十分。

 入試広報課の島には、すでに一人ぶんの灯りがついていた。

 

 窓際から二列目。俺の隣の席で、馬剃さんが画面に向かっている。

 背筋がまっすぐで、キーボードを叩く音が異様に規則正しい。

 

「昨日も一昨日も、俺が来たときにはもういました」

 

 大貫が小声で言う。

 

「勝負してないんだが」

 

「してますって。温水さん、五年間ずっとこの課で二番目に早い人だったんですよ」

 

「一番は?」

 

「桑原主査です。あの人、六時半に来て新聞読んでますから」

 

「じゃあ俺は三位に落ちただけだ。表彰台は死守してる」

 

「その競技、参加人口六人ですからね」

 

 六時半に来て新聞を読む男と、八時前に来て仕事をする女。

 俺は八時十五分に来て、コーヒーを淹れる。順位としては妥当な位置だと思う。

 

「おはようございます、温水主任」

 

 馬剃さんが立ち上がって、頭を下げてくる。

 角度が、昨日と同じだった。たぶん明日も同じだろう。

 

「おはようございます。早いですね」

 

「はい」

 

「……その、無理はしないでくださいね」

 

「はい」

 

 会話が終わった。

 

 三日目にして、俺は理解しつつあった。

 この人は、質問には正確に答える。だが、それ以上のことは一切返してこない。

 

 

 

 

 俺の当面の目標は明快だった。

 三日で業務説明を終わらせ、四日目からは通常運転に戻る。

 

 通常運転というのは、要するに定時退社である。

 権利は行使しないと錆びる。これは俺の座右の銘であり、座右の銘が労働基準法寄りである時点で、俺という人間の説明はだいたい終わっている。

 

 だから初日にざっくり全体、二日目に課の実務、三日目に会議体と学内の地図。

 三日で渡しきって、あとは走りながら覚えてもらう。それが俺の計画だった。

 

 計画は、二日目の昼にはもう崩れていた。

 

「馬剃さん、大学職員って何する人だと思われてます?」

 

 説明の入り口として、俺はそう聞いた。

 だいたいの新人はここで詰まるので、話を広げやすい。

 

「高等教育機関の運営を支える事務専門職です」

 

 詰まらなかった。

 

「教育研究活動が円滑に行われるよう、学務、財務、施設、入試、就職支援等の各領域において――」

 

「あ、はい。すいません、そういうことじゃなくて」

 

 俺は片手を上げて止めた。

 止めなければ、定義の次はたぶん沿革が来ていた。

 

「もっとこう、身も蓋もない話をしようと思ってて」

 

「身も蓋もない」

 

 馬剃さんが、その六文字を手帳に書いた。

 書くんだ、それ。

 

「うちの事務局は百二十人です。専任教員が三百人ちょっと。学生が八千人」

 

 俺はメモ用紙に数字を書いた。

 

「で、大学ってのは建前上、教員が動かしてます。教授会があって、学部長がいて、学長がいる。事務局は『支える』側です」

 

「はい」

 

「でもですね」

 

 俺は数字の下に、横棒を一本引いた。

 

「教員は三年で入れ替わります。学部長も、学長も。委員会の委員長も毎年変わる。……で、事務局は変わらない」

 

 馬剃さんの手が止まった。

 

「去年その委員会で何が決まったか、なぜそう決まったか、五年前に同じ議題が出て潰れたのはなぜか。それを覚えてるのは事務局だけです」

 

「……記憶装置、ということですか」

 

「そうですね。記憶してて、都合のいいときにだけ思い出す装置です」

 

 馬剃さんが、少しだけ目を細めた。

 

「都合のいいとき」

 

「全部覚えてる顔をすると嫌われるんで」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「『そういえば五年前にも似た話がありましたね』って言うと通る案が、『五年前に否決されてます』って言うと通らないんですよ。中身は同じなんですけど」

 

 馬剃さんはしばらく黙っていた。

 それから、手帳に一行だけ書いた。

 

「……文科省でも、同じでした」

 

「そうですか」

 

「はい」

 

 それきりだった。

 

 俺はそれ以上、突っこまなかった。

 突っこむのは、知り合い程度の人間の仕事ではない。

 

 

 

 

 三日目の午前は、決裁の話をした。

 

「大学の仕事って、九割が『誰がハンコを押すか』なんですよ」

 

「事務決裁規程ですね」

 

「読みました?」

 

「はい」

 

「附則まで?」

 

「附則までです」

 

 知ってた。

 この人は本当に全部読んでいる。

 

「じゃあ話が早い。実務でいうと、うちの課で一番多いのが高校訪問の出張伺いと、あとは印刷物の発注です。指定校推薦の枠数の決裁は――」

 

 俺は少し考えた。

 

「あれは課長専決でいけます」

 

 馬剃さんが、ペンを止めた。

 

 ほんの一瞬だった。

 止まって、それから何事もなかったように動きだした。

 

「承知しました」

 

 その日は、そのまま終わった。

 

 

 

 

 翌朝。

 

 出勤して席につくと、俺のキーボードの上に、ふせんが一枚貼ってあった。

 几帳面な角ばった字で、こう書いてある。

 

 『事務決裁規程 別表第二・第十四項につき、指定校推薦の枠数変更は部長決裁と存じます。前年度からの増減がない場合のみ課長専決。馬剃』

 

 ……合ってる。

 

 俺は規程集を開いて確認し、閉じて、椅子の背に、どさ、ともたれた。

 

 完全に俺の記憶違いだ。去年は増減がなかったから課長専決で通した。それを一般化して覚えていた。

 

 ふせん一枚で人は敗北できる。

 三十四歳、四月の新しい学びである。

 

 隣を見ると、馬剃さんはもう来ていて、画面に向かっている。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「ふせん、ありがとうございます。俺の間違いです」

 

「いえ」

 

「助かりました。あれ、部長に上げずに出してたら、六月に事故ってました」

 

「……はい」

 

 馬剃さんは顔を上げなかった。

 

 俺は自分のマグカップを持って立ち上がり、給湯室のほうへ二歩歩いて、それから戻った。

 

「あの、一個だけ聞いていいですか」

 

「はい」

 

「昨日、その場で言ってくれてもよかったのに」

 

 キーボードの音が止まった。

 

 馬剃さんは画面を見たまま、少し息を吸った。

 

「……人前で、上司の誤りを指摘したことがありまして」

 

 それだけだった。

 

 ひやり、と背中が冷えた。

 

 その一文の後ろに、どれだけのものがぶら下がっているのか。

 俺は考えかけて、途中でやめた。考えたところで、俺には何もできない。

 

 その先を、この人は言わない。

 言わないまま、指をキーボードに戻して、また打ちはじめた。

 

 俺は給湯室に行き、コーヒーを淹れて、戻ってきた。

 そして自分の席に座る前に、馬剃さんの机の横に立った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これから俺が間違ってたら、その場で言ってください」

 

 馬剃さんが顔を上げる。

 

「俺、間違えるんで。わりと頻繁に」

 

「……」

 

「大貫にも同じこと言われてます。『温水さん、平気で嘘の情報流しますよね』って」

 

「言いましたけど、それ悪口ですからね!」

 

 三席向こうから大貫の声が飛んできた。聞いてたのか。

 

「本当に、いいんですか」

 

 馬剃さんが言った。

 声が、少しだけ低い。

 

「よくないと死ぬんですよ、この仕事」

 

 俺はマグカップをひと口すすった。

 

「六月に十七件の相談会があります。俺が間違ったまま喋ったら、それを聞いた高校生が間違ったまま出願します。……で、落ちます」

 

 馬剃さんの表情が動いた。

 昨日までの、貼り替えられたやつではなかった。

 

「承知しました」

 

 その返事だけ、すごく短かった。

 

 

 

 

 三日で終わらせるという計画は、四日目に入って完全に破綻した。

 

 理由はひとつ。

 この人が、質問をしないからだ。

 

「どこか分からないところありました?」

 

「いえ、大丈夫です」

 

「ほんとに?」

 

「はい」

 

 これが四回続いた。

 

 困るのだ。

 分からないところを聞いてくれれば、どこが伝わっていないか分かる。伝わっていないところが分かれば、そこだけ説明すればいい。それがOJTというやつの仕組みだ。

 

 この人は、その仕組みを使わない。

 全部自分で埋めようとする。埋まるまで、何も言わない。

 

 だから俺は、方法を変えることにした。

 

「馬剃さん、ちょっとこれ見てもらっていいですか」

 

 俺は共有フォルダから、去年の指定校推薦の一覧を開いた。

 

「これ、去年の実績です。百四十七校。で、今年これを更新するのが四月と五月の仕事です」

 

「はい」

 

「……で、俺はいま、この作業が死ぬほど嫌いです」

 

 馬剃さんが目をしばたかせた。

 

「嫌い、ですか」

 

「エクセルが嫌いなんですよ。関数が嫌いです。俺、去年これフィルタで手作業でやって、三日かかりました」

 

 これは事実である。

 俺は事務職員としてそれなりに長く生きてきたが、エクセルとだけは十二年間、和解できていない。向こうも俺を嫌っていると思う。

 

「元データはどちらに」

 

「学務課からもらう入学実績と、教務システムから吐き出したGPAと、あと退学の記録です。それぞれ別のファイルです」

 

「……別のファイル」

 

「別のファイルです。しかも高校コードの桁数が違います」

 

 馬剃さんが、椅子を半歩前に出した。

 

「見せていただいても」

 

「どうぞ」

 

 三つのファイルを開いて、彼女に画面を渡す。

 

 そこからが、少し異様だった。

 

 彼女は五分ほど無言でファイルを行き来し、それから何も言わずに手を動かしはじめた。

 キーボードの音が変わった。さっきまでの規則正しい音じゃない。もっと速くて、途中で止まらない。

 

 十五分後。

 

「こちらでいかがでしょうか」

 

 画面には、一枚のシートが出ていた。

 高校名、所在地、過去五年の出願者数と入学者数、入学後の平均GPA、退学者数。全部、一行に並んでいる。

 

 俺は三秒くらい黙った。

 

 ぽかん、という擬音が、たぶん頭の上に出ていたと思う。

 

 異世界ならチート認定される速度である。

 詠唱がエクセル関数なだけで、やっていることはほぼ魔法だ。

 

「……えっと。三日かかるって言いましたよね、俺」

 

「はい」

 

「十五分ですね」

 

「桁数の違いは、頭のゼロを埋める処理を挟めば揃いますので。高校コードは全国共通ですから、そこを軸にすれば」

 

「あ、はい」

 

「これ、来年以降も使えるようにしておきますね。元データを貼るだけで更新されます」

 

 馬剃さんが、少し早口になっていた。

 

 そして――笑っていた。

 

 いや、笑っているというほどではない。

 口の端が上がっているとか、目が細くなっているとか、そういうことでもない。

 

 ただ、息が楽そうだった。

 

 肩の力が、すう、と抜けている。

 

 俺は、それを見ていた。

 見ていて、胸のあたりが、じわっとあたたかくなった。

 この人は数字と一緒にいるときだけ、ちゃんと息をしているんだなと思った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「めちゃくちゃ助かりました」

 

「いえ、この程度は」

 

「この程度って言うのやめてもらっていいですか。俺が三日かけたやつなんで」

 

「……失礼しました」

 

「あと」

 

 俺は自分の席に戻りながら、振り返らずに言った。

 

「嫌いなもの、他にもいっぱいあるんで。順番に押しつけますね」

 

 背中のほうで、小さく息を吐く音がした気がした。

 

 

 

 

 午前の残りは、会議体の話に使った。

 

「うちの課が事務局をやってる会議が二つあります。広報委員会と、入試委員会」

 

「委員はどなたが」

 

「各学部から一人ずつ出ます。学部長が指名するので、だいたい持ち回りです」

 

 俺はホワイトボードに、丸を八つ描いた。

 

「で、ここからが本題なんですけど」

 

「はい」

 

「この八人、仲がいいわけじゃないです」

 

 馬剃さんが、ペンを止めた。

 

「文学部と理学部は、十年前の学部再編でわりと本気で揉めてます。経済と経営は仲がいいですけど、それは学部長が同期だからで、来年は分かりません。工学部は基本、他学部に興味がないです」

 

「……それを、把握したうえで議事を」

 

「そうです。議題の並び順で結果が変わるんで」

 

「順番で」

 

「疲れてる時間に出すと、揉める議題も通ります。逆に、通したくない議題は一番目に置きます」

 

 馬剃さんが、たっぷり三秒黙った。

 

「……それは、その、健全なんでしょうか」

 

「健全じゃないですね」

 

 即答したら、馬剃さんの眉が困った角度になった。

 

「議事運営の公正性の観点からは」

 

「観点は正しいです」

 

「正しいのに、なさらないんですか」

 

「正しさで三年止まった議題を、二つ知ってるんで」

 

 俺はマーカーのキャップを閉めた。

 

「健全にやると三年決まりません。で、三年決まらないと、そのあいだの受験生が損をします」

 

 馬剃さんは何か言いかけて、やめた。

 それから手帳に、たぶん長めの一行を書いた。

 

「――と、俺は思ってるってだけです」

 

 俺は付け足した。

 

「これ、正解じゃないんで。馬剃さんは馬剃さんのやり方でいいです」

 

「いえ」

 

 馬剃さんが顔を上げる。

 

「勉強になります。役所では、順番は決まっていましたから」

 

「決まってた?」

 

「はい。序列の順に」

 

 ……それはそれで地獄だな、と思ったが、口には出さなかった。

 

 

 

 

 昼休み。

 

 大貫が学食のトレイを持って、馬剃さんの向かいに座った。

 俺の隣ではなく、正面に座るあたりが大貫である。物怖じというものがない。

 

「馬剃さん、聞いていいですか」

 

「はい」

 

「文科省ってどんなとこなんですか。やっぱ全員めちゃくちゃ頭いいんですか」

 

 ――箸が止まった。

 

 〇・五秒だったと思う。

 ほとんど誰にも分からない長さだ。

 

「そうですね。優秀な方が多かったです」

 

「うわ、いいなー。俺、地元の私大なんで、そういう世界まったく知らなくて」

 

「大貫君」

 

 俺は割って入った。

 

「お前、来週の高校訪問のアポ、あれ何件取れた」

 

「……えっ、いま?」

 

「いま」

 

「や、それは、あの、まだ三件で」

 

「先週も三件だったよな」

 

「うっ」

 

「電話ってのは午前中の十時から十一時にかけるんだよ。先生方が授業に出る前だから」

 

「そういうのは早く言ってくださいよ!」

 

「共有フォルダのメモに書いてある」

 

「あのメモ量、読めるわけないでしょ!」

 

 大貫がわめいて、話題は流れた。

 

 馬剃さんは黙って味噌汁を飲んでいた。

 顔を上げなかった。

 

 顔は上げなかったが、テーブルの下で、パンプスの先が動いていた。

 

 小さく円を描いて、途中で内側に折れる。

 

 ――なんだ、あれ。

 

 俺は、その動きを、二回だけ目で追った。

 

 追って、それから、自分の焼き魚に戻った。

 

 高校のとき、生徒会室の前で同じものを見た気がする。

 気がするだけで、たぶん、思い出さないほうがいい種類の記憶である。

 

 俺は自分の焼き魚を崩しながら、ぼんやり考えた。

 

 ――なんで俺は、いま話を取ったんだろう。

 

 OJT担当だから、だろう。

 新人が答えにくい質問をされたら、庇う。それは担当者の仕事だ。

 

 うん。それだ。

 俺は妙に律儀に、自分にそう説明した。

 

 

 

 

 午後は電話応対をやった。

 

 大学にかかってくる電話には、種類がある。

 

 受験生本人。保護者。高校の先生。予備校。業者。たまに報道。

 それから、まれに、何を言っているのか最後まで分からない人。

 

「先週の、『宇宙からの電波で合否が決まっているのでは』の方ですね」

 

 三席向こうから大貫が言った。

 

「あの人は入試課に回していい。三年前からの常連さんだ」

 

「合否、電波で決まるんですか」

 

「決まるか。マークシートで決まるんだよ」

 

 馬剃さんが、手帳に何かを書きかけて、やめた。

 いまのはメモしなくていい。

 

「基本は名乗って、用件を聞いて、分かる範囲で答える。分からなければ調べて折り返す。ここまではどこも同じですよね」

 

「はい」

 

「うちの課で気をつけるのは、受験生本人からの電話です」

 

「といいますと」

 

「あの子たち、めちゃくちゃ緊張して電話してくるんですよ。人生ではじめて大学に電話する、みたいな子もいます」

 

 俺は自分の卓上電話を指でつついた。

 

「だから、最初の三秒だけゆっくり喋ってください。『はい、入試広報課です』を、ちょっとだけ遅く」

 

「……三秒」

 

「三秒です。そのあとは普通でいいです」

 

 馬剃さんが手帳に書いた。

 書いてから、顔を上げた。

 

「温水主任は、そういうことを、どこで習われたんですか」

 

「習ってないです」

 

「では」

 

「病院にいたころ、患者さんからの電話をよく取ってたんで」

 

 それは本当だった。

 医事課の一年間で俺が身につけたものは、ほとんどそれだけだ。診療報酬の算定はまるで駄目だったが、電話の最初の三秒だけは覚えた。

 

「……なるほど」

 

「じゃあ、実際に取ってみますか。かかってきたやつを、そのまま」

 

 馬剃さんが、少しだけ背筋を伸ばした。

 

 

 

 

 最初の一本は、業者だった。

 印刷会社の営業で、大学案内の校正の件。馬剃さんは完璧に取り次いだ。

 

 二本目は高校の先生。指定校推薦の枠の件。

 これも問題なかった。「担当の者に代わります」まで、教科書どおりだった。

 

 三本目。

 

 午後三時十二分。

 外線が鳴って、馬剃さんが受話器を取った。

 

「はい、入試広報課でございます」

 

 三秒、ゆっくり。ちゃんとやっている。

 

 俺は自分の画面に視線を戻した。

 戻して、二秒後に、また上げた。

 

 馬剃さんが、動いていなかった。

 

 受話器を耳に当てたまま、口が開いていない。

 目が、机の一点を見ている。焦点が合っていない。

 

 受話器から、相手の声が漏れつづけている。

 

 俺は聞こえた単語だけを拾った。

 

 

 

 

 ――文部科学省高等教育局の。

 

 

 

 

 どくん、と心臓が鳴った。

 

 立ち上がるのと、手が伸びるのは同時だった。

 考えるより先に、身体のほうが動いていた。

 

 距離は、五十センチもなかった。

 手を伸ばせば届く。届いてしまう。

 

 俺は彼女の手から受話器を抜き取った。

 抜き取るというより、指のあいだから滑らせて受け取った。抵抗はなかった。彼女の指はほとんど力が入っていなかった。

 

「お電話代わりました、入試広報課の温水と申します」

 

 俺は椅子に浅く腰を下ろして、メモ用紙を引き寄せる。

 

「はい。……はい、入学者選抜実施状況の調査票の件ですね。締切、今月末でしたよね。……あ、二十五日ですか。すいません、こちらの控えが古かったです」

 

 相手は淡々としていた。

 ごく普通の、事務的な照会だった。三分で終わる話だった。

 

「様式は前年度から変更ありですか。……なるほど、別紙二だけ。承知しました。担当は本学の入試課になりますので、そちらに転送しておきます。ええ、はい。ありがとうございます、失礼します」

 

 受話器を置く。

 

 メモに『調査票・四月二十五日締切・別紙二変更あり・入試課へ』と書いて、ふせんを貼った。

 

 馬剃さんは、まだ机の一点を見ていた。

 膝の上で、両手が重なっている。右手が、左手を押さえつけていた。

 

 俺は椅子を回して、自分の席に戻った。

 

 心臓が、まだ、どくどくいっている。

 顔には出ていないはずだ。出ていないと信じたい。

 

 戻ってから、画面を見たまま言った。

 

「馬剃さん」

 

「……申し訳ありません」

 

「俺、電話代わるの得意なんで」

 

 馬剃さんが顔を上げる気配がした。

 

「用度にいたころ、クレーム電話を代わる係だったんですよ。院内の苦情って全部あそこに来るんで」

 

 俺は画面をスクロールした。

 中身は一文字も頭に入らなかった。

 

「あれ、コツがあって。代わったほうが冷静に聞こえるんですよね。同じこと言っても」

 

「……」

 

「だから、しんどい電話は投げてください。俺、得意なんで」

 

 沈黙があった。

 

 長かった。

 たぶん十秒か、二十秒か。俺は数えていなかった。

 

「……なぜ、何も聞かないんですか」

 

 馬剃さんの声だった。

 

 俺はマウスから手を離した。

 

 ぐ、と奥歯を噛んだ。

 

 言いたいことは、あった。

 あの表情の貼り替えのことも、震えていた右手のことも、たぶん全部つながっているんだろうということも。

 

 でも俺は、知り合い程度の人間だった。

 自分でそう名乗ったのだ。三日前に、この課の全員の前で。

 

「聞かれたら嫌でしょ」

 

 俺はそう言った。

 

 しばらくして、馬剃さんが小さく答えた。

 

「……はい」

 

 それきり、二人とも喋らなかった。

 

 午後四時に大貫が戻ってきて、「あーもう疲れた」と大声で言った。

 その声で、部屋の空気がようやく普通に戻った。

 

「温水さん、三峰高校のアポ、どうしても取れないんですけど」

 

「進路指導の宮野先生?」

 

「そうです。三回かけて三回とも『検討します』で」

 

「電話貸せ」

 

 俺は大貫の卓上電話に手を伸ばした。

 馬剃さんが顔を上げるのが、視界の端に見えた。

 

「お世話になっております、温水と申します。宮野先生、いらっしゃいますか。……あ、先生。どうもどうも」

 

 受話器を肩と耳で挟んで、俺は椅子を後ろに傾ける。

 

「先生、去年の三月の話覚えてます? うちの合格発表の日に、先生から電話もらったやつ。……そうそう、あの子です。あの子いま二年で、めちゃくちゃ元気にやってますよ」

 

 受話器の向こうの声が、少し柔らかくなった。

 

「いやあ、あのとき先生に『ちゃんと面倒みろよ』って言われたんで、俺、毎年あの子の成績を確認してるんですよ。……そうです。しつこいんですよ、俺」

 

 笑い声が漏れてくる。

 

「で、そのご報告も兼ねてなんですけど、五月中にお時間いただけませんか。二十分で終わります。……あ、大丈夫ですか。じゃあ十四日の放課後で。……はい、ありがとうございます。では、失礼します」

 

 受話器を置いて、俺は大貫にふせんを渡した。

 

「五月十四日十六時、三峰高校。ちゃんと成績票のコピー持ってけよ」

 

「なんで温水さんだと一発なんですか」

 

「三年ぶん貸しがあるからだ」

 

「貸し?」

 

「去年その先生に電話もらったとき、俺が学務課まで走って調べたんだよ」

 

 大貫が「うわ」と言った。

 

 馬剃さんは、何も言わなかった。

 ただ、手帳を開いて、そこに一行だけ書いた。

 

 書いたあと、しばらくペンの先を紙に置いたままにしていた。

 

 

 

 

 十七時十五分。

 

 俺は席を立った。

 

「お先に失礼します」

 

「お疲れさまでした、温水主任」

 

 馬剃さんも荷物をまとめていた。

 鷲尾課長に「初日から何やってるの」と言われたのが効いているらしい。

 

 

 

 

 金曜日の夜、歓迎会があった。

 

 大学の裏門から歩いて五分の居酒屋。

 入試広報部の恒例で、二階の座敷を借り切って、部長以下十四人が並ぶ。

 

 俺は毎年、入口から二番目の席に座ることにしている。

 トイレに立ちやすく、会計を手伝いやすく、二次会の話が始まる前に帰りやすい。五年かけて見つけた最適解だ。

 人生を懸ける場所を、たぶん少し間違えている。

 

「温水さん、この配席へのこだわり、なんなんですか」

 

「戦略だ」

 

「宴会の戦略って何ですか」

 

「生き残ることだよ」

 

 馬剃さんは、上座に座らされていた。

 柏木部長の正面。逃げ場のない席である。

 

「馬剃さん、飲み物どうします?」

 

 大貫がメニューを差しだす。

 

「ウーロン茶をお願いします」

 

「え、飲まないんですか?」

 

「体質でして」

 

 そう言って、彼女はきれいに笑った。

 

 ――貼り替えだ。

 

 俺はそれを、枝豆をつまみながら見ていた。

 

 乾杯のあと、しばらくは普通の飲み会だった。

 

 桑原主査が「瓶ビールでいい」と言った。七文字。本日の全発話を注文に使う男である。

 大貫は「この会、配信したら絶対バズりますって」と言って課長に睨まれ、鷲尾課長は全員に日本酒を注いで回った。

 

 問題は、四十分くらいしてから起きた。

 

「いやあ、しかし馬剃さんが来てくれて助かりましたよ」

 

 柏木部長が、赤い顔で身を乗りだした。

 この人は悪い人ではない。悪い人ではないが、酒が入ると声が大きくなる。

 

「文科省でしょう? 補助金の申請とか、全部お見通しでしょ」

 

「いえ、私は補助金の担当ではありませんでしたので」

 

「またまた。謙遜しなくていいって。何年いらしたんでしたっけ」

 

「十年です」

 

「十年! 十年いて、なんでまた辞めちゃったんですか」

 

 空気が、ほんの少しだけ薄くなった。

 

 部長に悪気はない。

 この人は本当に、ただ興味があるだけだ。だから止まらない。

 

「もったいないなあ。あのまま行ってたら課長補佐? 課長?」

 

 俺は自分のグラスを見ていた。

 

 喉の奥が、かっと熱くなった。

 

 止めるべきだ、と思った。

 思ったが、止め方が分からなかった。ここで俺が話を取ったら、それは明確に不自然だ。知り合い程度の同僚がやることではない。

 

 ――

 

「ご期待いただけるほどの働きは、できませんでしたので」

 

 馬剃さんが言った。

 

 完璧な声だった。

 完璧すぎて、部長は満足そうに笑い、話は次の話題に移った。

 

 二十時ちょうど。

 

「申し訳ありません。少し体調が優れませんので、失礼いたします」

 

 馬剃さんが立ち上がった。

 

 誰も止めなかった。

 みんな「お大事に」「初日から気を張ってたもんね」と言って、それぞれの会話に戻った。

 

 俺は財布を出して、大貫に一万円札を押しつけた。

 

「これ会費。お釣りいらない」

 

「えっ、多いですよ」

 

「二次会の分。あと部長が三次会って言い出したら、桑原さんに止めてもらえ」

 

「桑原さん、そんなに喋ってくれますかね」

 

「あの人の『帰るぞ』は三文字で座を制する」

 

「温水さん帰るんですか?」

 

「明日、朝早いんだ」

 

 嘘である。

 土曜の予定は、昼まで寝ることだった。

 

 

 

 

 外は、少し風があった。

 

 通りに出ると、馬剃さんが歩いていた。

 速くはない。ただ、まっすぐ歩いている。まっすぐすぎて、かえって危なっかしい。

 

「馬剃さん」

 

 振り返った彼女が、明らかに、しまったという顔をした。

 

「……温水主任。どうされたんですか」

 

「駅、こっちなんで」

 

「そうですか」

 

 並んで歩いた。

 二人ぶんの足音が、少しずつ揃っていく。揃ってしまうのが妙に落ち着かなくて、俺は歩幅を半歩ずらした。

 

「あの、部長のあれ、悪気ないんで」

 

「存じてます」

 

「はい」

 

「……本当に、存じているんです」

 

 馬剃さんが、前を向いたまま言った。

 

「悪気のない方の質問が、いちばん答えにくいというのは、この十年で学びました」

 

 俺は返す言葉を探して、見つからなかった。

 

 信号が赤になって、二人とも止まった。

 

「私、ああいう席が、少し苦手で」

 

 馬剃さんがぽつりと言った。

 

「……体質というのは、嘘です」

 

「知ってます」

 

 言ってしまってから、まずいと思った。

 知り合い程度の人間が、なぜ知っているのか。

 

 馬剃さんがこちらを見る。

 街灯の下で、目だけがはっきり見えた。

 

「なぜ」

 

「あ、いや。今日、ウーロン茶に三回しか口つけてなかったんで」

 

 俺は視線を信号に戻した。

 

「飲めない人は、逆にめちゃくちゃ飲むんですよ。手持ち無沙汰だから。三回しか飲まない人は、飲めないんじゃなくて、飲みたくない人です」

 

 沈黙があった。

 

「……よく、見ていらっしゃるんですね」

 

「用度で三年、業者さんと飲んでたんで。職業病です」

 

 信号が青になった。

 

 歩きだしながら、俺は口を開いた。

 

「あの、もしよかったら」

 

 ――今度、人数の少ないところで。

 

 その言葉は、喉の少し手前で、ぴたりと止まった。

 

 舌の上まで来ていたのに、そこから先に出なかった。

 

 止まった理由は、自分でも分かっている。

 それを言ったら、知り合い程度ではなくなるからだ。

 

「……もしよかったら、月曜は少し遅く来てください。今日、気を張ったでしょうから」

 

 俺は、そう言った。

 

「はい。ありがとうございます」

 

 馬剃さんは頭を下げて、改札の手前で「お疲れさまでした」と言った。

 

 俺たちは違うホームに向かった。

 

 

 

 

 電車に乗って、ドアの横に立って、俺はスマホを取りだした。

 

 共有フォルダにつないで、『99_温水メモ』を開く。

 いつものように、今日気づいたことを放りこむ。

 

 『指定校の枠数変更=部長決裁(別表第二・十四項)。増減なしのときだけ課長専決。去年の記憶で喋るな』

 『高校訪問のアポは十時〜十一時。大貫に三回言った』

 『高校コード、頭ゼロ埋めで揃う』

 

 そこまで打って、俺は指を止めた。

 

 もう一行、打ちかけていた。

 

 『馬剃さん・文科省からの電話』

 

 打ち終わる前に、俺は文字を消した。

 

 これは仕事のメモじゃない。

 共有フォルダは全課員が見られる。書いていいことと、よくないことがある。

 

 ――でも。

 

 OJT担当が指導記録を残すのは、当たり前のことだ。

 むしろ残さないほうがおかしい。引き継ぎのときに困る。

 

 俺は共有フォルダを閉じた。

 そして自分の端末のローカルドライブに、新しいファイルを一つ作った。

 

 名前を打ちこむ手が、少しだけ止まった。

 

 『memo』

 

 結局、それだけにした。

 

 保存して、スマホをしまう。

 窓の外を、東京の夜が流れていく。

 

 ――OJTだからな。

 

 俺は自分にそう言った。

 言ったときには、電車はもう次の駅に着いていた。

 

 ドアが開いて、閉まる。

 

 さっき、喉の手前で止めた言葉のことを、俺はもう一度考えた。

 考えて、やめた。

 

 言わなくてよかった。

 言っていたら、たぶん、断られていた。

 

 ……それはそれで、はっきりしてよかったのかもしれない。

 

 そこまで思って、俺は自分に少し呆れた。

 

 十六年前と、まったく同じことを考えている。

 

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