「温水さん、負けてますよ」
「何にだ」
「馬剃さんの出勤時刻に」
四月三日、午前八時二十分。
入試広報課の島には、すでに一人ぶんの灯りがついていた。
窓際から二列目。俺の隣の席で、馬剃さんが画面に向かっている。
背筋がまっすぐで、キーボードを叩く音が異様に規則正しい。
「昨日も一昨日も、俺が来たときにはもういました」
大貫が小声で言う。
「勝負してないんだが」
「してますって。温水さん、五年間ずっとこの課で二番目に早い人だったんですよ」
「一番は?」
「桑原主査です。あの人、六時半に来て新聞読んでますから」
「じゃあ俺は三位に落ちただけだ。表彰台は死守してる」
「その競技、参加人口六人ですからね」
六時半に来て新聞を読む男と、八時前に来て仕事をする女。
俺は八時十五分に来て、コーヒーを淹れる。順位としては妥当な位置だと思う。
「おはようございます、温水主任」
馬剃さんが立ち上がって、頭を下げてくる。
角度が、昨日と同じだった。たぶん明日も同じだろう。
「おはようございます。早いですね」
「はい」
「……その、無理はしないでくださいね」
「はい」
会話が終わった。
三日目にして、俺は理解しつつあった。
この人は、質問には正確に答える。だが、それ以上のことは一切返してこない。
俺の当面の目標は明快だった。
三日で業務説明を終わらせ、四日目からは通常運転に戻る。
通常運転というのは、要するに定時退社である。
権利は行使しないと錆びる。これは俺の座右の銘であり、座右の銘が労働基準法寄りである時点で、俺という人間の説明はだいたい終わっている。
だから初日にざっくり全体、二日目に課の実務、三日目に会議体と学内の地図。
三日で渡しきって、あとは走りながら覚えてもらう。それが俺の計画だった。
計画は、二日目の昼にはもう崩れていた。
「馬剃さん、大学職員って何する人だと思われてます?」
説明の入り口として、俺はそう聞いた。
だいたいの新人はここで詰まるので、話を広げやすい。
「高等教育機関の運営を支える事務専門職です」
詰まらなかった。
「教育研究活動が円滑に行われるよう、学務、財務、施設、入試、就職支援等の各領域において――」
「あ、はい。すいません、そういうことじゃなくて」
俺は片手を上げて止めた。
止めなければ、定義の次はたぶん沿革が来ていた。
「もっとこう、身も蓋もない話をしようと思ってて」
「身も蓋もない」
馬剃さんが、その六文字を手帳に書いた。
書くんだ、それ。
「うちの事務局は百二十人です。専任教員が三百人ちょっと。学生が八千人」
俺はメモ用紙に数字を書いた。
「で、大学ってのは建前上、教員が動かしてます。教授会があって、学部長がいて、学長がいる。事務局は『支える』側です」
「はい」
「でもですね」
俺は数字の下に、横棒を一本引いた。
「教員は三年で入れ替わります。学部長も、学長も。委員会の委員長も毎年変わる。……で、事務局は変わらない」
馬剃さんの手が止まった。
「去年その委員会で何が決まったか、なぜそう決まったか、五年前に同じ議題が出て潰れたのはなぜか。それを覚えてるのは事務局だけです」
「……記憶装置、ということですか」
「そうですね。記憶してて、都合のいいときにだけ思い出す装置です」
馬剃さんが、少しだけ目を細めた。
「都合のいいとき」
「全部覚えてる顔をすると嫌われるんで」
俺は肩をすくめた。
「『そういえば五年前にも似た話がありましたね』って言うと通る案が、『五年前に否決されてます』って言うと通らないんですよ。中身は同じなんですけど」
馬剃さんはしばらく黙っていた。
それから、手帳に一行だけ書いた。
「……文科省でも、同じでした」
「そうですか」
「はい」
それきりだった。
俺はそれ以上、突っこまなかった。
突っこむのは、知り合い程度の人間の仕事ではない。
三日目の午前は、決裁の話をした。
「大学の仕事って、九割が『誰がハンコを押すか』なんですよ」
「事務決裁規程ですね」
「読みました?」
「はい」
「附則まで?」
「附則までです」
知ってた。
この人は本当に全部読んでいる。
「じゃあ話が早い。実務でいうと、うちの課で一番多いのが高校訪問の出張伺いと、あとは印刷物の発注です。指定校推薦の枠数の決裁は――」
俺は少し考えた。
「あれは課長専決でいけます」
馬剃さんが、ペンを止めた。
ほんの一瞬だった。
止まって、それから何事もなかったように動きだした。
「承知しました」
その日は、そのまま終わった。
翌朝。
出勤して席につくと、俺のキーボードの上に、ふせんが一枚貼ってあった。
几帳面な角ばった字で、こう書いてある。
『事務決裁規程 別表第二・第十四項につき、指定校推薦の枠数変更は部長決裁と存じます。前年度からの増減がない場合のみ課長専決。馬剃』
……合ってる。
俺は規程集を開いて確認し、閉じて、椅子の背に、どさ、ともたれた。
完全に俺の記憶違いだ。去年は増減がなかったから課長専決で通した。それを一般化して覚えていた。
ふせん一枚で人は敗北できる。
三十四歳、四月の新しい学びである。
隣を見ると、馬剃さんはもう来ていて、画面に向かっている。
「馬剃さん」
「はい」
「ふせん、ありがとうございます。俺の間違いです」
「いえ」
「助かりました。あれ、部長に上げずに出してたら、六月に事故ってました」
「……はい」
馬剃さんは顔を上げなかった。
俺は自分のマグカップを持って立ち上がり、給湯室のほうへ二歩歩いて、それから戻った。
「あの、一個だけ聞いていいですか」
「はい」
「昨日、その場で言ってくれてもよかったのに」
キーボードの音が止まった。
馬剃さんは画面を見たまま、少し息を吸った。
「……人前で、上司の誤りを指摘したことがありまして」
それだけだった。
ひやり、と背中が冷えた。
その一文の後ろに、どれだけのものがぶら下がっているのか。
俺は考えかけて、途中でやめた。考えたところで、俺には何もできない。
その先を、この人は言わない。
言わないまま、指をキーボードに戻して、また打ちはじめた。
俺は給湯室に行き、コーヒーを淹れて、戻ってきた。
そして自分の席に座る前に、馬剃さんの机の横に立った。
「馬剃さん」
「はい」
「これから俺が間違ってたら、その場で言ってください」
馬剃さんが顔を上げる。
「俺、間違えるんで。わりと頻繁に」
「……」
「大貫にも同じこと言われてます。『温水さん、平気で嘘の情報流しますよね』って」
「言いましたけど、それ悪口ですからね!」
三席向こうから大貫の声が飛んできた。聞いてたのか。
「本当に、いいんですか」
馬剃さんが言った。
声が、少しだけ低い。
「よくないと死ぬんですよ、この仕事」
俺はマグカップをひと口すすった。
「六月に十七件の相談会があります。俺が間違ったまま喋ったら、それを聞いた高校生が間違ったまま出願します。……で、落ちます」
馬剃さんの表情が動いた。
昨日までの、貼り替えられたやつではなかった。
「承知しました」
その返事だけ、すごく短かった。
三日で終わらせるという計画は、四日目に入って完全に破綻した。
理由はひとつ。
この人が、質問をしないからだ。
「どこか分からないところありました?」
「いえ、大丈夫です」
「ほんとに?」
「はい」
これが四回続いた。
困るのだ。
分からないところを聞いてくれれば、どこが伝わっていないか分かる。伝わっていないところが分かれば、そこだけ説明すればいい。それがOJTというやつの仕組みだ。
この人は、その仕組みを使わない。
全部自分で埋めようとする。埋まるまで、何も言わない。
だから俺は、方法を変えることにした。
「馬剃さん、ちょっとこれ見てもらっていいですか」
俺は共有フォルダから、去年の指定校推薦の一覧を開いた。
「これ、去年の実績です。百四十七校。で、今年これを更新するのが四月と五月の仕事です」
「はい」
「……で、俺はいま、この作業が死ぬほど嫌いです」
馬剃さんが目をしばたかせた。
「嫌い、ですか」
「エクセルが嫌いなんですよ。関数が嫌いです。俺、去年これフィルタで手作業でやって、三日かかりました」
これは事実である。
俺は事務職員としてそれなりに長く生きてきたが、エクセルとだけは十二年間、和解できていない。向こうも俺を嫌っていると思う。
「元データはどちらに」
「学務課からもらう入学実績と、教務システムから吐き出したGPAと、あと退学の記録です。それぞれ別のファイルです」
「……別のファイル」
「別のファイルです。しかも高校コードの桁数が違います」
馬剃さんが、椅子を半歩前に出した。
「見せていただいても」
「どうぞ」
三つのファイルを開いて、彼女に画面を渡す。
そこからが、少し異様だった。
彼女は五分ほど無言でファイルを行き来し、それから何も言わずに手を動かしはじめた。
キーボードの音が変わった。さっきまでの規則正しい音じゃない。もっと速くて、途中で止まらない。
十五分後。
「こちらでいかがでしょうか」
画面には、一枚のシートが出ていた。
高校名、所在地、過去五年の出願者数と入学者数、入学後の平均GPA、退学者数。全部、一行に並んでいる。
俺は三秒くらい黙った。
ぽかん、という擬音が、たぶん頭の上に出ていたと思う。
異世界ならチート認定される速度である。
詠唱がエクセル関数なだけで、やっていることはほぼ魔法だ。
「……えっと。三日かかるって言いましたよね、俺」
「はい」
「十五分ですね」
「桁数の違いは、頭のゼロを埋める処理を挟めば揃いますので。高校コードは全国共通ですから、そこを軸にすれば」
「あ、はい」
「これ、来年以降も使えるようにしておきますね。元データを貼るだけで更新されます」
馬剃さんが、少し早口になっていた。
そして――笑っていた。
いや、笑っているというほどではない。
口の端が上がっているとか、目が細くなっているとか、そういうことでもない。
ただ、息が楽そうだった。
肩の力が、すう、と抜けている。
俺は、それを見ていた。
見ていて、胸のあたりが、じわっとあたたかくなった。
この人は数字と一緒にいるときだけ、ちゃんと息をしているんだなと思った。
「馬剃さん」
「はい」
「めちゃくちゃ助かりました」
「いえ、この程度は」
「この程度って言うのやめてもらっていいですか。俺が三日かけたやつなんで」
「……失礼しました」
「あと」
俺は自分の席に戻りながら、振り返らずに言った。
「嫌いなもの、他にもいっぱいあるんで。順番に押しつけますね」
背中のほうで、小さく息を吐く音がした気がした。
午前の残りは、会議体の話に使った。
「うちの課が事務局をやってる会議が二つあります。広報委員会と、入試委員会」
「委員はどなたが」
「各学部から一人ずつ出ます。学部長が指名するので、だいたい持ち回りです」
俺はホワイトボードに、丸を八つ描いた。
「で、ここからが本題なんですけど」
「はい」
「この八人、仲がいいわけじゃないです」
馬剃さんが、ペンを止めた。
「文学部と理学部は、十年前の学部再編でわりと本気で揉めてます。経済と経営は仲がいいですけど、それは学部長が同期だからで、来年は分かりません。工学部は基本、他学部に興味がないです」
「……それを、把握したうえで議事を」
「そうです。議題の並び順で結果が変わるんで」
「順番で」
「疲れてる時間に出すと、揉める議題も通ります。逆に、通したくない議題は一番目に置きます」
馬剃さんが、たっぷり三秒黙った。
「……それは、その、健全なんでしょうか」
「健全じゃないですね」
即答したら、馬剃さんの眉が困った角度になった。
「議事運営の公正性の観点からは」
「観点は正しいです」
「正しいのに、なさらないんですか」
「正しさで三年止まった議題を、二つ知ってるんで」
俺はマーカーのキャップを閉めた。
「健全にやると三年決まりません。で、三年決まらないと、そのあいだの受験生が損をします」
馬剃さんは何か言いかけて、やめた。
それから手帳に、たぶん長めの一行を書いた。
「――と、俺は思ってるってだけです」
俺は付け足した。
「これ、正解じゃないんで。馬剃さんは馬剃さんのやり方でいいです」
「いえ」
馬剃さんが顔を上げる。
「勉強になります。役所では、順番は決まっていましたから」
「決まってた?」
「はい。序列の順に」
……それはそれで地獄だな、と思ったが、口には出さなかった。
昼休み。
大貫が学食のトレイを持って、馬剃さんの向かいに座った。
俺の隣ではなく、正面に座るあたりが大貫である。物怖じというものがない。
「馬剃さん、聞いていいですか」
「はい」
「文科省ってどんなとこなんですか。やっぱ全員めちゃくちゃ頭いいんですか」
――箸が止まった。
〇・五秒だったと思う。
ほとんど誰にも分からない長さだ。
「そうですね。優秀な方が多かったです」
「うわ、いいなー。俺、地元の私大なんで、そういう世界まったく知らなくて」
「大貫君」
俺は割って入った。
「お前、来週の高校訪問のアポ、あれ何件取れた」
「……えっ、いま?」
「いま」
「や、それは、あの、まだ三件で」
「先週も三件だったよな」
「うっ」
「電話ってのは午前中の十時から十一時にかけるんだよ。先生方が授業に出る前だから」
「そういうのは早く言ってくださいよ!」
「共有フォルダのメモに書いてある」
「あのメモ量、読めるわけないでしょ!」
大貫がわめいて、話題は流れた。
馬剃さんは黙って味噌汁を飲んでいた。
顔を上げなかった。
顔は上げなかったが、テーブルの下で、パンプスの先が動いていた。
小さく円を描いて、途中で内側に折れる。
――なんだ、あれ。
俺は、その動きを、二回だけ目で追った。
追って、それから、自分の焼き魚に戻った。
高校のとき、生徒会室の前で同じものを見た気がする。
気がするだけで、たぶん、思い出さないほうがいい種類の記憶である。
俺は自分の焼き魚を崩しながら、ぼんやり考えた。
――なんで俺は、いま話を取ったんだろう。
OJT担当だから、だろう。
新人が答えにくい質問をされたら、庇う。それは担当者の仕事だ。
うん。それだ。
俺は妙に律儀に、自分にそう説明した。
午後は電話応対をやった。
大学にかかってくる電話には、種類がある。
受験生本人。保護者。高校の先生。予備校。業者。たまに報道。
それから、まれに、何を言っているのか最後まで分からない人。
「先週の、『宇宙からの電波で合否が決まっているのでは』の方ですね」
三席向こうから大貫が言った。
「あの人は入試課に回していい。三年前からの常連さんだ」
「合否、電波で決まるんですか」
「決まるか。マークシートで決まるんだよ」
馬剃さんが、手帳に何かを書きかけて、やめた。
いまのはメモしなくていい。
「基本は名乗って、用件を聞いて、分かる範囲で答える。分からなければ調べて折り返す。ここまではどこも同じですよね」
「はい」
「うちの課で気をつけるのは、受験生本人からの電話です」
「といいますと」
「あの子たち、めちゃくちゃ緊張して電話してくるんですよ。人生ではじめて大学に電話する、みたいな子もいます」
俺は自分の卓上電話を指でつついた。
「だから、最初の三秒だけゆっくり喋ってください。『はい、入試広報課です』を、ちょっとだけ遅く」
「……三秒」
「三秒です。そのあとは普通でいいです」
馬剃さんが手帳に書いた。
書いてから、顔を上げた。
「温水主任は、そういうことを、どこで習われたんですか」
「習ってないです」
「では」
「病院にいたころ、患者さんからの電話をよく取ってたんで」
それは本当だった。
医事課の一年間で俺が身につけたものは、ほとんどそれだけだ。診療報酬の算定はまるで駄目だったが、電話の最初の三秒だけは覚えた。
「……なるほど」
「じゃあ、実際に取ってみますか。かかってきたやつを、そのまま」
馬剃さんが、少しだけ背筋を伸ばした。
最初の一本は、業者だった。
印刷会社の営業で、大学案内の校正の件。馬剃さんは完璧に取り次いだ。
二本目は高校の先生。指定校推薦の枠の件。
これも問題なかった。「担当の者に代わります」まで、教科書どおりだった。
三本目。
午後三時十二分。
外線が鳴って、馬剃さんが受話器を取った。
「はい、入試広報課でございます」
三秒、ゆっくり。ちゃんとやっている。
俺は自分の画面に視線を戻した。
戻して、二秒後に、また上げた。
馬剃さんが、動いていなかった。
受話器を耳に当てたまま、口が開いていない。
目が、机の一点を見ている。焦点が合っていない。
受話器から、相手の声が漏れつづけている。
俺は聞こえた単語だけを拾った。
――文部科学省高等教育局の。
どくん、と心臓が鳴った。
立ち上がるのと、手が伸びるのは同時だった。
考えるより先に、身体のほうが動いていた。
距離は、五十センチもなかった。
手を伸ばせば届く。届いてしまう。
俺は彼女の手から受話器を抜き取った。
抜き取るというより、指のあいだから滑らせて受け取った。抵抗はなかった。彼女の指はほとんど力が入っていなかった。
「お電話代わりました、入試広報課の温水と申します」
俺は椅子に浅く腰を下ろして、メモ用紙を引き寄せる。
「はい。……はい、入学者選抜実施状況の調査票の件ですね。締切、今月末でしたよね。……あ、二十五日ですか。すいません、こちらの控えが古かったです」
相手は淡々としていた。
ごく普通の、事務的な照会だった。三分で終わる話だった。
「様式は前年度から変更ありですか。……なるほど、別紙二だけ。承知しました。担当は本学の入試課になりますので、そちらに転送しておきます。ええ、はい。ありがとうございます、失礼します」
受話器を置く。
メモに『調査票・四月二十五日締切・別紙二変更あり・入試課へ』と書いて、ふせんを貼った。
馬剃さんは、まだ机の一点を見ていた。
膝の上で、両手が重なっている。右手が、左手を押さえつけていた。
俺は椅子を回して、自分の席に戻った。
心臓が、まだ、どくどくいっている。
顔には出ていないはずだ。出ていないと信じたい。
戻ってから、画面を見たまま言った。
「馬剃さん」
「……申し訳ありません」
「俺、電話代わるの得意なんで」
馬剃さんが顔を上げる気配がした。
「用度にいたころ、クレーム電話を代わる係だったんですよ。院内の苦情って全部あそこに来るんで」
俺は画面をスクロールした。
中身は一文字も頭に入らなかった。
「あれ、コツがあって。代わったほうが冷静に聞こえるんですよね。同じこと言っても」
「……」
「だから、しんどい電話は投げてください。俺、得意なんで」
沈黙があった。
長かった。
たぶん十秒か、二十秒か。俺は数えていなかった。
「……なぜ、何も聞かないんですか」
馬剃さんの声だった。
俺はマウスから手を離した。
ぐ、と奥歯を噛んだ。
言いたいことは、あった。
あの表情の貼り替えのことも、震えていた右手のことも、たぶん全部つながっているんだろうということも。
でも俺は、知り合い程度の人間だった。
自分でそう名乗ったのだ。三日前に、この課の全員の前で。
「聞かれたら嫌でしょ」
俺はそう言った。
しばらくして、馬剃さんが小さく答えた。
「……はい」
それきり、二人とも喋らなかった。
午後四時に大貫が戻ってきて、「あーもう疲れた」と大声で言った。
その声で、部屋の空気がようやく普通に戻った。
「温水さん、三峰高校のアポ、どうしても取れないんですけど」
「進路指導の宮野先生?」
「そうです。三回かけて三回とも『検討します』で」
「電話貸せ」
俺は大貫の卓上電話に手を伸ばした。
馬剃さんが顔を上げるのが、視界の端に見えた。
「お世話になっております、温水と申します。宮野先生、いらっしゃいますか。……あ、先生。どうもどうも」
受話器を肩と耳で挟んで、俺は椅子を後ろに傾ける。
「先生、去年の三月の話覚えてます? うちの合格発表の日に、先生から電話もらったやつ。……そうそう、あの子です。あの子いま二年で、めちゃくちゃ元気にやってますよ」
受話器の向こうの声が、少し柔らかくなった。
「いやあ、あのとき先生に『ちゃんと面倒みろよ』って言われたんで、俺、毎年あの子の成績を確認してるんですよ。……そうです。しつこいんですよ、俺」
笑い声が漏れてくる。
「で、そのご報告も兼ねてなんですけど、五月中にお時間いただけませんか。二十分で終わります。……あ、大丈夫ですか。じゃあ十四日の放課後で。……はい、ありがとうございます。では、失礼します」
受話器を置いて、俺は大貫にふせんを渡した。
「五月十四日十六時、三峰高校。ちゃんと成績票のコピー持ってけよ」
「なんで温水さんだと一発なんですか」
「三年ぶん貸しがあるからだ」
「貸し?」
「去年その先生に電話もらったとき、俺が学務課まで走って調べたんだよ」
大貫が「うわ」と言った。
馬剃さんは、何も言わなかった。
ただ、手帳を開いて、そこに一行だけ書いた。
書いたあと、しばらくペンの先を紙に置いたままにしていた。
十七時十五分。
俺は席を立った。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした、温水主任」
馬剃さんも荷物をまとめていた。
鷲尾課長に「初日から何やってるの」と言われたのが効いているらしい。
金曜日の夜、歓迎会があった。
大学の裏門から歩いて五分の居酒屋。
入試広報部の恒例で、二階の座敷を借り切って、部長以下十四人が並ぶ。
俺は毎年、入口から二番目の席に座ることにしている。
トイレに立ちやすく、会計を手伝いやすく、二次会の話が始まる前に帰りやすい。五年かけて見つけた最適解だ。
人生を懸ける場所を、たぶん少し間違えている。
「温水さん、この配席へのこだわり、なんなんですか」
「戦略だ」
「宴会の戦略って何ですか」
「生き残ることだよ」
馬剃さんは、上座に座らされていた。
柏木部長の正面。逃げ場のない席である。
「馬剃さん、飲み物どうします?」
大貫がメニューを差しだす。
「ウーロン茶をお願いします」
「え、飲まないんですか?」
「体質でして」
そう言って、彼女はきれいに笑った。
――貼り替えだ。
俺はそれを、枝豆をつまみながら見ていた。
乾杯のあと、しばらくは普通の飲み会だった。
桑原主査が「瓶ビールでいい」と言った。七文字。本日の全発話を注文に使う男である。
大貫は「この会、配信したら絶対バズりますって」と言って課長に睨まれ、鷲尾課長は全員に日本酒を注いで回った。
問題は、四十分くらいしてから起きた。
「いやあ、しかし馬剃さんが来てくれて助かりましたよ」
柏木部長が、赤い顔で身を乗りだした。
この人は悪い人ではない。悪い人ではないが、酒が入ると声が大きくなる。
「文科省でしょう? 補助金の申請とか、全部お見通しでしょ」
「いえ、私は補助金の担当ではありませんでしたので」
「またまた。謙遜しなくていいって。何年いらしたんでしたっけ」
「十年です」
「十年! 十年いて、なんでまた辞めちゃったんですか」
空気が、ほんの少しだけ薄くなった。
部長に悪気はない。
この人は本当に、ただ興味があるだけだ。だから止まらない。
「もったいないなあ。あのまま行ってたら課長補佐? 課長?」
俺は自分のグラスを見ていた。
喉の奥が、かっと熱くなった。
止めるべきだ、と思った。
思ったが、止め方が分からなかった。ここで俺が話を取ったら、それは明確に不自然だ。知り合い程度の同僚がやることではない。
――
「ご期待いただけるほどの働きは、できませんでしたので」
馬剃さんが言った。
完璧な声だった。
完璧すぎて、部長は満足そうに笑い、話は次の話題に移った。
二十時ちょうど。
「申し訳ありません。少し体調が優れませんので、失礼いたします」
馬剃さんが立ち上がった。
誰も止めなかった。
みんな「お大事に」「初日から気を張ってたもんね」と言って、それぞれの会話に戻った。
俺は財布を出して、大貫に一万円札を押しつけた。
「これ会費。お釣りいらない」
「えっ、多いですよ」
「二次会の分。あと部長が三次会って言い出したら、桑原さんに止めてもらえ」
「桑原さん、そんなに喋ってくれますかね」
「あの人の『帰るぞ』は三文字で座を制する」
「温水さん帰るんですか?」
「明日、朝早いんだ」
嘘である。
土曜の予定は、昼まで寝ることだった。
外は、少し風があった。
通りに出ると、馬剃さんが歩いていた。
速くはない。ただ、まっすぐ歩いている。まっすぐすぎて、かえって危なっかしい。
「馬剃さん」
振り返った彼女が、明らかに、しまったという顔をした。
「……温水主任。どうされたんですか」
「駅、こっちなんで」
「そうですか」
並んで歩いた。
二人ぶんの足音が、少しずつ揃っていく。揃ってしまうのが妙に落ち着かなくて、俺は歩幅を半歩ずらした。
「あの、部長のあれ、悪気ないんで」
「存じてます」
「はい」
「……本当に、存じているんです」
馬剃さんが、前を向いたまま言った。
「悪気のない方の質問が、いちばん答えにくいというのは、この十年で学びました」
俺は返す言葉を探して、見つからなかった。
信号が赤になって、二人とも止まった。
「私、ああいう席が、少し苦手で」
馬剃さんがぽつりと言った。
「……体質というのは、嘘です」
「知ってます」
言ってしまってから、まずいと思った。
知り合い程度の人間が、なぜ知っているのか。
馬剃さんがこちらを見る。
街灯の下で、目だけがはっきり見えた。
「なぜ」
「あ、いや。今日、ウーロン茶に三回しか口つけてなかったんで」
俺は視線を信号に戻した。
「飲めない人は、逆にめちゃくちゃ飲むんですよ。手持ち無沙汰だから。三回しか飲まない人は、飲めないんじゃなくて、飲みたくない人です」
沈黙があった。
「……よく、見ていらっしゃるんですね」
「用度で三年、業者さんと飲んでたんで。職業病です」
信号が青になった。
歩きだしながら、俺は口を開いた。
「あの、もしよかったら」
――今度、人数の少ないところで。
その言葉は、喉の少し手前で、ぴたりと止まった。
舌の上まで来ていたのに、そこから先に出なかった。
止まった理由は、自分でも分かっている。
それを言ったら、知り合い程度ではなくなるからだ。
「……もしよかったら、月曜は少し遅く来てください。今日、気を張ったでしょうから」
俺は、そう言った。
「はい。ありがとうございます」
馬剃さんは頭を下げて、改札の手前で「お疲れさまでした」と言った。
俺たちは違うホームに向かった。
電車に乗って、ドアの横に立って、俺はスマホを取りだした。
共有フォルダにつないで、『99_温水メモ』を開く。
いつものように、今日気づいたことを放りこむ。
『指定校の枠数変更=部長決裁(別表第二・十四項)。増減なしのときだけ課長専決。去年の記憶で喋るな』
『高校訪問のアポは十時〜十一時。大貫に三回言った』
『高校コード、頭ゼロ埋めで揃う』
そこまで打って、俺は指を止めた。
もう一行、打ちかけていた。
『馬剃さん・文科省からの電話』
打ち終わる前に、俺は文字を消した。
これは仕事のメモじゃない。
共有フォルダは全課員が見られる。書いていいことと、よくないことがある。
――でも。
OJT担当が指導記録を残すのは、当たり前のことだ。
むしろ残さないほうがおかしい。引き継ぎのときに困る。
俺は共有フォルダを閉じた。
そして自分の端末のローカルドライブに、新しいファイルを一つ作った。
名前を打ちこむ手が、少しだけ止まった。
『memo』
結局、それだけにした。
保存して、スマホをしまう。
窓の外を、東京の夜が流れていく。
――OJTだからな。
俺は自分にそう言った。
言ったときには、電車はもう次の駅に着いていた。
ドアが開いて、閉まる。
さっき、喉の手前で止めた言葉のことを、俺はもう一度考えた。
考えて、やめた。
言わなくてよかった。
言っていたら、たぶん、断られていた。
……それはそれで、はっきりしてよかったのかもしれない。
そこまで思って、俺は自分に少し呆れた。
十六年前と、まったく同じことを考えている。