(八月二十九日〜九月七日/温水視点)
結論から言うと、俺は掃除をしなかった。
八月二十九日、二十三時十二分。
照明のスイッチを四回目で見つけて、俺の思考は一度止まった。
止まって、それから、三十秒くらいかけて再起動した。
再起動して、最初にやったのは、床を見ることだった。
玄関の三和土から、部屋の奥まで、およそ五メートル。
その五メートルのあいだに、俺が足を置ける場所は、たぶん四か所あった。
――行ける。
俺は、そう判断した。
用度管財課にいたころ、俺は病院の倉庫を三回、掃除している。
あそこは、三十年ぶんの備品が積まれていた。
埃をかぶった車椅子が十四台と、動かない医療機器が六台と、なぜか年賀状の束が七年ぶんあった。
あの三回に比べれば、五メートルは、なんとかなる。
「馬剃さん、行きますよ」
「……はい」
「頭、ぶつけないで」
「……はい」
俺は、彼女をもう一度背負い直して、四か所の足場を順番に踏んだ。
部屋の奥に、布団があった。
敷いてある。
畳んでいないのではなく、敷いたままである。
その周りだけ、半径一メートルほど、床が見えていた。
この部屋で、二番目にきれいな場所だった。
――一番きれいなのは、あそこだ。
俺は、壁際を見た。
二段のカラーボックスがある。
そこだけ、埃がない。
黒い革表紙の手帳が、十五冊、背表紙をそろえて並んでいた。
俺は、目を逸らした。
天愛星さんを布団に下ろして、横向きにした。
鞄を枕元に置いて、財布と鍵の位置を確認する。
台所――と呼んでいいのか分からない場所――に行って、コップを探した。
探した。
二分探して、諦めた。
俺は、自販機で買った水のペットボトルを、枕元に置いた。
もう一本、スポーツドリンクも買ってある。それも置いた。
それで、終わりである。
――掃除は、しない。
これは、六月に決めたことではない。
用度管財課にいた三年で、決めたことである。
人の部屋を、本人の許可なく片付けるのは、支援ではない。
病院にいたころ、俺は一度それをやって、めちゃくちゃ怒られた。
退職した職員のロッカーを、上司の指示で整理した。
中に入っていたものを、規程どおり、処分した。
三か月後、その人が取りに来た。
あのとき、俺は「規程どおりです」と言った。
言って、そのあと三日くらい、飯がまずかった。
「馬剃さん」
「……はい」
「帰りますね」
「……はい」
「あと、鍵、かけてください」
俺は、鍵を彼女の手のひらに置いた。
「俺が出たら、内側から。できます?」
「……できます」
「じゃあ、待ってるんで」
俺は、玄関を出て、ドアを閉めた。
廊下で、三十秒待った。
――かちり。
鳴った。
俺は、そこでようやく、息を吐いた。
翌朝、八月三十日、九時四十分。
メッセージが来た。
『昨夜のことは、業務上の事故として処理してください』
俺は、三秒くらい画面を見た。
『そんな決裁区分ない』
『……』
『見ましたね』
『見た』
『……』
『体調どう』
『問題ありません』
『それ、絶対に嘘だろ』
『……頭痛がします』
俺は、そこで一度、指を止めた。
次に打つ文を、たぶん四回書き直した。
『九月七日の日曜、空いてる?』
書き直した四回のうち、三回は、もっと丁寧な文だった。
『よければ、片付けを手伝わせてもらえませんか』
『無理にとは言いません』
『嫌だったら断ってください』
全部、消した。
消した理由は、はっきりしている。
この人は、断る余地を作ると、断る。
六月に、俺はそれを学習した。
「無理なら調整します」と言ったら、この人は即答で「やります」と言った。
逆をやればいい。
余地を作らずに、日付だけ投げる。
……卑怯である。
卑怯だが、この人は、八月二十九日に俺に「卑怯です」と言った。
言って、そのあと来た。
既読がついて、それから、四分間なにも返ってこなかった。
四分は、長い。
『空いています』
九月一日から六日までの、俺の業務外の時間の使い方は、以下のとおりである。
ちなみに、業務のほうは、九月の入試説明会の資料作成と、総合型選抜の出願受付準備が同時に走っていた。
つまり、繁忙期である。
繁忙期に、俺は以下のことをした。
一、自治体のごみ分別のページを読んだ。
全四十七ページ。印刷して、蛍光ペンを引いた。
二、粗大ごみ受付センターに電話をした。
九月七日に出せるものと、出せないものを確認した。予約は前日までである。
三、冷蔵庫の処分について、家電リサイクル法を確認した。
結果、冷蔵庫は今回対象外にした。理由は、動いているからである。
四、不用品回収業者に、三社見積もりを取った。
うち一社が、日曜対応可だった。四時間で三万八千円。
五、資材を買った。
可燃四十五リットル百枚。不燃三十枚。資源用の紐。マスク。軍手。ゴム手袋。雑巾二十枚。掃除機用のパック。あとゴミ袋を入れる台のやつ。
六、作業手順書を作った。
六が、余計だった。
ちなみに、一から五までは、業務でやったことがある。
病院の倉庫を片付けたとき、俺は同じことをした。
自治体に電話して、業者に見積もりを取って、資材を発注して、当日の動線を決めた。
あのときは、そういう仕事だった。
今回は、そういう仕事ではない。
それでも同じ手順を踏んでいる自分に、俺は水曜の夜、一度だけ気づいた。
気づいて、蛍光ペンを引く手を止めた。
止めて、五秒くらい考えて、また引きはじめた。
九月七日、日曜日、九時。
俺は、彼女の部屋の前に立っていた。
両手に、資材の袋を四つ持っている。
肩に、掃除機を担いでいる。これは昨日、駅前のレンタル店で借りた。二泊三日で千八百円である。
うちにもあるが、十二年前に買った小さいやつで、たぶん途中で力尽きる。
ドアが開いた。
天愛星さんは、Tシャツにジャージだった。
髪を後ろで一つにまとめて、上からタオルを巻いている。
私服を見たのは、これが二回目だった。
一回目は、八月十六日の東ホールである。
あれは私服ではなく衣装だったので、実質、これが一回目かもしれない。
どちらにせよ、四月から五か月半、俺はこの人のスーツしか見ていない。
その手に、クリアファイルがあった。
「おはようございます」
「おはよう」
「本日は、よろしくお願いいたします」
「うん」
「私服を、初めてお見せします」
「八月十六日に見た」
「あれは衣装です」
「じゃあ、初めてだ」
「はい。……以上です」
「報告だったんだ」
「報告です。事前にお伝えしないと、認識に齟齬が生じます」
「私服で齟齬は生じないですよ」
「生じます。私は昨夜、二十二分迷いました」
「なにを」
「本日の服装をです」
「二十二分」
「三着です。三着を、二十二分」
「ジャージですけど」
「三着とも、ジャージですっ」
……三着とも、ジャージ。
俺は、その情報の処理に、たぶん二秒かかった。
二秒かけて出た結論は、「聞かないほうがいい」である。
出た結論と、俺の口は、別に連動していない。
「何が違うんですか」
「丈と、色と、あと」
「あと」
「……袖の、長さですっ」
「高校のときは、どうしてたんですか」
「といいますと」
「休みの日。私服」
「制服です」
「休みの日に?」
「校則の適用範囲は、登下校時に限りません」
「限るでしょ」
「限りませんっ」
「名札は」
「つけていました」
「休みの日に、名札」
「つけていましたっ」
……つけていた。
俺は、その光景を、実際に見たことがある。
二年の夏、駅前の本屋の前で、制服に名札の馬剃天愛星とすれ違った。
日曜日である。
俺が会釈をしたら、この人は「校外での立ち寄りには該当しません」と、聞いてもいないことを言って歩いていった。
「……あの、温水さん」
「はい」
「いま、思い出しておられますね」
「思い出してない」
「思い出している顔ですっ」
「そんな顔ないですよ」
「あります。〇・二秒、目線が上に行きましたっ」
この人の観測精度は、たまに、犯罪的である。
「まあ、例外は二回だけ知ってますけど」
「――そこは、記憶しておられるんですねっ」
「二回だけなんで」
「…………」
「馬剃さん?」
「……その二回については、本日の作業と、関係がありませんっ」
「ないですね」
「ありませんっ」
白い襟のついた、紺色のワンピース。
もう一つは、薄い青地に、花火の柄。
……関係はない。
関係はないが、覚えているものは、覚えている。
「あの」
「はい」
「作業手順書を、作成いたしました」
俺は、肩の掃除機を、いったん床に置いた。
置いて、自分の鞄から、クリアファイルを出した。
「……作ってきた?」
「作ってきました」
「俺も作ってきた」
「……」
「先に、おっしゃってください」
「そっちもだよ」
「私は、驚かせるつもりでした」
「驚いた」
「成功です」
「あの、馬剃さん」
「はい」
「いま、ちょっと嬉しそうでした」
「嬉しくありませんっ」
「三ミリくらい、口角が」
「三ミリは、誤差ですっ」
「誤差の範囲、狭くないですか」
「私の誤差は、〇・五ミリですっ」
「じゃあ六倍だ」
「…………」
この人は、数字で反論して、数字で自滅する。
四月からずっとそうである。
いちばん強い武器を、いちばん自分に刺す。
二人で、二枚を並べた。
工程が、三つとも一致していた。
一、分別。
二、搬出。
三、清掃。
所要時間の見積もりが、俺のほうが一時間長い。
彼女のほうが、休憩を計上していない。
「馬剃さん」
「はい」
「休憩、入れて」
「必要でしょうか」
「四時間動くと、人は死ぬんで」
「死にません」
「死ぬんだって。病院の倉庫で、八月に二人倒れた」
「……ご覧になったんですか」
「見た。だから休憩は三十分、固定」
「……承知しました。計上します」
俺は、彼女の手順書を受け取って、自分のと重ねた。
「じゃあ、俺のを使います。休憩が入ってるんで」
「はい」
「あと、資材はこちらで用意すると、メッセージで申し上げました」
「見る前に買ってた」
「では、二重です」
「二重で困る人はいません」
「……それは、私の台詞です」
「借りた」
「あと、一個だけ」
「はい」
俺は、玄関の三和土に立ったまま、言った。
「判断が要るものは、全部そっちで決めて」
「……といいますと」
「捨てるか捨てないかは、俺は一切決めない」
「はい」
「俺は運ぶだけ」
天愛星さんが、少し黙った。
「……効率が、落ちます」
「落ちる」
「明らかに不要なものも、確認が必要になります」
「なる」
「非合理です」
「非合理」
俺は、袋を持ち上げた。
「でも、そうしないと、あとで馬剃さんが困るんで」
「……困る、といいますと」
「三か月後に、『あれ、どこいったっけ』ってなったとき」
「はい」
「『温水が捨てた』になると、それは俺のせいになる」
「そんなことは」
「なるんだよ」
俺は、袋を三和土に置いた。
「病院で、一回やった。人のロッカーを、規程どおりに処分した」
「……」
「三か月後に、本人が取りに来た」
天愛星さんは、何も言わなかった。
「あのとき俺、『規程どおりです』って言ったんだよ」
「正しいです」
「正しかった」
「はい」
「正しかったから、余計にきつかった」
彼女は、少し目を伏せた。
「……承知しました。全部、私が決めます」
「うん」
「一つずつ、確認します」
「そうして」
「では、開始します。九時二十分」
「記録するんだ、開始時刻」
「議事録の癖です」
この人が「承知しました」と言うときは、たぶん、本当に承知している。
四月から、そこだけは一度も外れていない。
俺は、靴を脱いで、部屋に上がった。
昼の光で見ると、この部屋は、夜より広かった。
広いというより、範囲が分かる、という意味である。
夜は、照明が届くところしか見えていなかった。
六畳と、台所が二畳。
――六畳。
十六年前、俺は一度だけ、この人の部屋に入ったことがある。
豊橋の、花園のあたりだった。
商店街の、道路に面した三階建て。
一階は、昔、バッジやトロフィーや垂れ幕を作る店だったらしい。
俺が行ったころには、もう店は畳んでいて、薄暗い棚に衣装ケースと段ボールが積んであった。
急な階段を、三階まで上がる。
彼女の部屋は、六畳の和室だった。
ベッドと、勉強机と、本棚と、ちゃぶ台。
それだけである。
物が、異様に少なかった。
ただ、ちゃぶ台の下のラグと、窓のカーテンだけが、薄いピンクだった。
あの二つは、明らかに、本人が選んで置いたものだった。
……そこだけ、覚えている。
いま俺が立っているのも、六畳である。
同じ広さで、物の量が、たぶん二十倍ある。
一階に店はない。三階でもない。
ラグはなく、カーテンは備え付けのままの、うすい生成りだった。
物が二十倍あって、本人が選んで置いたものが、たぶん一つもない。
――そういうことか。
俺は、そこで考えるのをやめて、袋を開けた。
いま、考えることではない。
九時二十分、開始。
まず、玄関に養生テープを貼った。
三和土と廊下の境目に、四十五リットルの袋を三種類、立てて並べる。
可燃、不燃、資源。それぞれに紙を貼って、油性ペンで書いた。
「温水さん」
「はい」
「字が」
「うるさい」
「読めます。読めますが、『資源』の『源』が、たぶん一画多いです」
「勢いだから」
「勢いで、漢字は増えません」
「増えるんだよ、油性ペンだと」
「……増えるんですか」
「増える」
「……メモします」
「メモしないで」
メモしないでください、と言ってから、俺は少し反省した。
この人は、たぶん、本気で信じた。
油性ペンで漢字が増えるなら、うちの課の掲示物は、いまごろ全部読めなくなっている。
訂正すべきである。
訂正すべきだが、訂正すると、なぜ嘘をついたのかの話になる。
……嘘ではない。
勢いで一画増えたのは、事実である。
これも、病院でやったやつである。
「手際が、業者の方のようです」
「三回やると、こうなる」
「温水さん」
「はい」
「袋を、立てるための道具があるんですね」
「ある。三百円くらい」
「……三百円」
「これがないと、袋の口を押さえる人間が一人要るんだよ」
「病院では、押さえる係がいたんですか」
「俺だった。三回目に自腹でスタンドを買った」
「経費では」
「通らなかった。『袋は手で持てます』って言われて」
「……どこにでもいるんですね、その査定」
「どこにでもいる」
「文科省にも、いました」
「そっちは、どんな査定でした」
「『それは、机の上でもできるのでは』です」
「なにを申請したんですか」
「椅子です」
「椅子」
「腰痛対策の、事務椅子です」
「机の上ではできないだろ」
「できませんっ」
「勝ったのか、それ」
「……三年後に、通りました」
「三年」
「私が異動した、あとにです」
俺は、袋の口を縛る手を止めた。
三年かけて通した椅子に、本人は座っていない。
この人の話は、九割が制度の話で、残りの一割が、こういうやつである。
こういうやつのほうが、たぶん、本体だ。
「そういうとこだよなあ、役所」
「そういうところですっ」
天愛星さんが、手帳を出した。
「馬剃さん」
「はい」
「いま書かないで」
「重要です」
「作業中だから」
「……はい」
この人は、今日、たぶん三回は手帳を出す。
俺は、そう予想した。
結果として、七回だった。
七回目のとき、俺は聞いた。
「それ、何を書いてるの」
「ごみ袋スタンドの品番と、養生テープの幅と、あと」
「あと」
「……業務に関係のないことです」
「じゃあ、なんで書いてるんですか」
「……関係がないから、書くんです」
「深いこと言った」
「深くありませんっ」
手帳が、すっと引っこめられた。
最初の一時間は、ほとんど袋詰めだった。
玄関から順に、手前から。
俺が袋を広げて、彼女が入れる。判断が必要なものは、彼女が手に取って、一秒で決める。
「口は、二重に縛ってください」
「なんで」
「途中で開くと、心が折れます」
「経験者の言い方だな」
「経験者です。六月に一度、一人で試みましたので」
「……そっか」
「三袋で終わりました」
速かった。
この人は、決められない人ではない。
決められないのは、自分の生活についてだけである。
物一つずつなら、決められる。
途中、袋に物を入れながら、彼女が何かを小さく唱えているのに気づいた。
「……廃棄物の処理及び清掃に関する法律、第二条の四……」
「馬剃さん」
「はい」
「ごみ袋に条文を読み聞かせない」
「暗唱していると、手が進むんです」
「そういう作業用BGMがあるんだ」
「あります。私には」
「他のは」
「他の、といいますと」
「他の法律。ずっと廃掃法だと飽きるでしょ」
「飽きません」
「飽きるって」
「……では、途中から学校教育法に切り替えます」
「切り替わるんだ」
「第一条から入ります」
「あれ、学校の種類が並んでるだけですよね」
「並んでいるものは、強いです」
「強い」
「リズムが、あります」
試しに、俺も口の中で第一条を並べてみた。
幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校――。
……たしかに、進んだ。
袋が一つ、いつのまにか埋まっていた。
この人の言うことは、たまに、腹が立つほど正しい。
十一時五分に、俺のスマホが鳴った。
画面に、大貫と出ていた。
日曜である。
……日曜に電話をかけてくる人間が、うちの課に一人だけいる。
「はい」
『温水さん、すいません日曜に。総合型の出願フォーム、テスト送信したら二重に飛んでて』
「二重」
『二重です。俺、なんかやりました?』
「やってない。設定の初期値だ。月曜の朝に直す」
『助かります。……あれ、なんか音しません?』
俺は、動きを止めた。
背後で、ビニール袋が、がさ、と鳴った。
「掃除してる」
『日曜に?』
「日曜に」
『えらいっすね』
「うん」
『あ、じゃあ切ります。……あと、馬剃さんも捕まらなくて。電話出ないんですよ』
「……そっか」
『日曜だから、寝てるんですかね』
「かもな」
俺は、電話を切った。
切ってから、振り返った。
天愛星さんが、ごみ袋を両手で持ったまま、完全に静止していた。
息も、止めていたと思う。
「……いま」
「うん」
「私、袋の音を、立てましたか」
「立てた」
「…………」
「大丈夫。掃除してるって言ったんで」
「嘘は、よくありませんっ」
「嘘じゃない。掃除してる」
「……主語が、抜けていますっ」
「そこは、抜くんだよ」
天愛星さんは、袋を静かに床に置いた。
置いてから、スマホを鞄から出して、画面を見た。
見て、そっと戻した。
「……着信が、四件ありました」
「大貫?」
「大貫君が二件と、あとの二件は」
「あとの二件は」
「……マナーモードの、確認です」
「それ着信じゃないですよね」
「着信ではありませんっ」
マナーモードの確認を、二回。
……たぶん、鳴っていないことを確認したのだと思う。
鳴っていないことを二回確認する人は、鳴ってほしくない人ではない。
俺は、そこで考えるのをやめた。
やめたが、やめるまでに四秒かかった。
本棚の下の段に、ノートが何冊か積んであった。
全部、同じ青である。
俺が一冊に手を伸ばしかけたら、その手の甲に、彼女の手が乗った。
乗ったというより、上から押さえられた。
「そこは、いいです」
「あ、はい」
「そこは、私がやります」
「はい」
「業務ではありませんので」
「業務じゃないのは、今日ぜんぶそうですけど」
「……そうでした」
天愛星さんは、そのノートを、五冊まとめて自分の鞄に入れた。
入れてから、鞄のファスナーを閉めた。
閉める音が、やけに大きかった。
「馬剃さん」
「はい」
「日記ですか」
「違いますっ」
「そんな否定します?」
「……療法です」
「療法」
「認知の」
「認知療法」
「はい」
「そんな、鞄に隠すみたいな療法ある?」
「あります。私にはっ」
「――だいたいですねっ!」
部屋の中で、声が反響した。
物が減ったぶん、この部屋は、よく響くようになっていた。
「思ったことを書き出して、数日置いてから読み返すのは、正規の技法ですっ! 医師の指導ですっ! 私は、その指導に従っているだけですっ! なぜ、隠しているみたいな言い方をされるんですかっ!」
「隠してるからです」
「隠して……」
「いま鞄に入れましたよね。ファスナーの音、廊下まで聞こえてた」
「…………」
「馬剃さん」
「……ノートには、療法と無関係な記述が、若干、含まれますっ」
「若干」
「若干ですっ」
「二回目ですね、その言い方」
「……作業用BGMと同じです」
俺は、それ以上、聞かなかった。
聞かなかったが、青いノートは、五冊とも表紙が擦れていた。
擦れているということは、何度も開いたということである。
カラーボックスを五センチずらしたのは、その五分後だった。
下の隙間から、すっ、と何かが滑り出てきた。
文庫本である。
俺は、反射で拾った。
拾って、表紙を見た。
男が二人、描いてあった。
二人とも、こちらを見ていない。
見つめ合ってもいない。片方が、片方の後頭部を見ている。
タイトルは読まなかった。
読まなくても、背表紙のレーベルで分かる。
……BLである。
見て、一秒で、床に伏せた。
「――お、お待ちくださいっ!」
声が、真後ろから来た。
振り返ると、天愛星さんが、ごみ袋を落としていた。
落とした袋から、ペットボトルが二本、転がっていった。
「見てない」
「見ましたよねっ!」
「見てない」
「一秒、見ましたっ! 私、数えましたっ!」
「そこは数えないでいいんだよ」
天愛星さんが、四つん這いで距離を詰めてきた。
速かった。
八月九日、この人は八百人の前で、三十八分間、背筋をまっすぐにして立っていた。
その人が、いま、自分の部屋を四つん這いで移動している。
人間には、いろんな面がある。
「返してくださいっ」
「返す。返すけど、いま俺の手の下にあるんで」
「どけてくださいっ」
「どけると見えるんだよ」
「――っ」
結局、俺は目を閉じたまま、手探りでそれを渡した。
渡すとき、指先が触れた。
触れた瞬間、彼女の手が、ばっ、と引っこんだ。
引っこんでから、もう一度伸びてきて、今度はちゃんと持っていった。
三秒くらい、部屋が静かだった。
「……温水さん」
「はい」
「本日の記録から、ただいまの三十秒を、削除してください」
「議事録じゃないんですよ、今日」
「削除してくださいっ」
「無理です」
「なぜですかっ」
「議事録なら削れますけど、記憶には決裁区分がないんで」
「…………」
彼女は、その一冊を、青いノートと同じ鞄に入れた。
入れて、ファスナーを閉めた。
二回目である。
この鞄は、今日、この部屋でいちばん重くなっている。
「……温水さん」
「はい」
「ただいまのものは、私の蔵書です」
「はい」
「蔵書には、さまざまな分野が含まれます」
「はい」
「その、分野の一つが」
「BLですよね」
「――言わないでくださいっ!」
「馬剃さんが説明しようとしたからでしょ」
「説明はしましたが、その語を出す予定はありませんでしたっ」
「じゃあ、なんて言うつもりだったんですか」
「……『特定のジャンル』ですっ」
「遠いなあ」
「遠くて結構ですっ」
BLという二文字を言えない人が、BLの本を鞄に入れて、ファスナーを閉めた。
二文字を言えないことと、持っていることは、両立する。
四月から、この人はずっとそうである。
「あと、一個だけいいですか」
「……なんですか」
「それ、けっこう古い本ですよね」
「――だから見てるじゃないですかっ!」
声が、また響いた。
物が減ると、本当によく響く。
「中は見てない。背表紙の作りが、いまと違うんで」
「作り」
「二〇一〇年より前のやつです。あのころ、まだタイトルが下寄せだった」
「…………」
「馬剃さん?」
「……なぜ、あなたが、そのようなことをご存じなんですか」
「本を十二年数えてると、背表紙で年代が出るようになるんですよ」
「気持ち悪いですっ」
「うん」
否定しなかった。
否定できる要素が、一つもなかったからである。
「……温水さん」
「はい」
「お互い、聞かなかったことにしませんか」
「そうしましょう」
「では、そのように」
「はい」
三十秒後、彼女はまた条文を唱えはじめた。
今度は、廃掃法ではなかった。
たぶん、いちばん長いやつを選んだのだと思う。
途中、彼女が判断に迷ったものが、三つあった。
一つ目は、封の開いていない調味料だった。
「賞味期限が、二〇二三年です」
「捨てよう」
「未開封です」
「二年前だぞ」
「未開封であれば、賞味期限は品質の目安であって」
「それ、消費者庁の見解?」
「見解です」
「見解ごと捨てよう」
「見解は、捨てられません」
「じゃあ、見解は残そう。中身だけ捨てよう」
「分離できません」
「できますよ。中身は物で、見解は概念なんで」
「……概念の話をされると、弱いですっ」
「弱いんだ」
「弱いです」
「じゃあ聞くけど、食べる?」
「……捨てます」
概念に弱い。
俺は、その情報を、心のメモに書いた。
書いてから、書いてしまったことに気づいて、少し反省した。
この人は手帳に書く。俺は心に書く。やっていることは、たぶん同じである。
二つ目は、傘だった。
ビニール傘が、六本あった。
「六本」
「六本です」
「一人で、六本」
「……買った記憶が、三本ぶんしかありません」
「あとの三本は」
「分かりません」
「傘は、増えるんだよ。うちにも四本ある」
「買った記憶は」
「二本ぶん」
「……全国の玄関で、傘が増えているんですね」
「増えてる。誰も買ってないのに」
「これは、統計上の異常です」
「異常だな」
「調べます」
「調べないで」
「調べますっ」
「馬剃さん、いま何時だと思ってる」
「十時十二分です」
「まだ二メートルしか進んでない」
「……調べません」
「うん」
「あとで、調べます」
あとで調べると言ったこの人が、あとで調べなかったのを、俺は見たことがない。
今夜、この人の検索履歴に「ビニール傘 増える なぜ」が入る。
入って、たぶん、三十分は溶ける。
三つ目は、あとで書く。
最初の笑いは、二十五分後に来た。
「温水さん」
「はい」
「これは、資源ごみです」
「あー、それ違う」
「違いません。豊橋市の分別では、プラスチック製容器包装は資源です」
「ここ、東京です」
天愛星さんの手が、ぴたり、と止まった。
止まったまま、手の中のトレイを、ゆっくり見た。
「……東京です」
「東京です」
「豊橋を出て、十六年です」
「十六年ですね」
「なぜ、豊橋市の分別が出てくるんでしょうか」
「知らないですけど」
「十一年、東京で分別してきました」
「うん」
「その間ずっと、豊橋のルールが混ざっていた可能性があります」
「あるだろうね。俺も、プラマークの扱いで年二回くらい豊橋が出る」
「温水さんもですか」
「実家の分別は、身体に入ってるんだよ」
「……少し、安心しました」
「安心するとこじゃないんだよなあ」
「安心しましたっ」
「そこ、強く言う?」
「十一年ぶんの分別が誤っていた可能性に、一人で耐えろとおっしゃるんですかっ」
「耐えなくていいですけど」
「耐えられませんっ」
「じゃあ、二人で耐えましょう」
「……はい」
「あ、いま素直になった」
「なっていませんっ」
なっていた。
この人は、素直になった直後に、必ず否定する。
否定するので、素直になった瞬間が、はっきり分かる。
本人は、たぶん、逆だと思っている。
俺は、印刷してきた四十七ページを渡した。
「はい、これ」
「……これは」
「この自治体の分別ルール。全部で四十七ページ」
「印刷されたんですか」
「した」
「蛍光ペンが引いてあります」
「引いた」
天愛星さんは、それを両手で持って、その場で読みはじめた。
「馬剃さん」
「はい」
「いま読まないで」
「重要な資料です」
「あとで読んで。作業中だから」
「……はい」
「では、口頭で確認します。乾電池は」
「不燃じゃなくて、拠点回収」
「スプレー缶は」
「使い切って、穴は開けない。ここの自治体は」
「開けない、のですか」
「五年前に変わった。穴開けの事故が多くて」
「……四十七ページある理由が、分かりました」
「分かってもらえてよかった」
十時四十分。
玄関から二メートルぶんの床が見えた。
「馬剃さん、いま二メートル」
「計測されていたんですか」
「そっちの台詞だと思ってた」
「私も測っていました。二・一メートルです」
「〇・一の差はなに」
「巾木の分です」
「細かっ」
「巾木は、床ではありません」
「床でしょ」
「壁の一部です」
「その話、いま要る?」
「要りますっ。計測は、定義が命ですっ」
「じゃあ、二メートルでいいですか」
「二・一です」
「そこは譲らないんだ」
「譲りませんっ」
二・一メートル。
俺は、その〇・一を、たぶん一生覚えている。
どうでもいいことほど、なぜか残る。
二メートル。
九時二十分から、一時間二十分で、二メートルである。
この進捗を、俺は遅いと思わなかった。
病院の倉庫は、一日目に一・五メートルだった。
あのときは五人でやっていた。
いまは二人で、二メートルである。
速いのは、彼女の判断が速いからだ。
迷わない。
一秒で決めて、次に行く。
……仕事の顔だ。
俺は、そう思った。
この人は、自分の部屋を、仕事として処理している。
そうしないと、たぶん、手が動かない。
冷蔵庫の前に来たのは、十一時十分である。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、開ける?」
沈黙が、四秒あった。
「……開けます」
「無理しなくていいよ」
「開けます。私の冷蔵庫です」
彼女は、取っ手に手をかけた。
かけて、動かなかった。
「……温水さん」
「はい」
「三十秒、いただけますか」
「どうぞ」
三十秒経った。
「四十秒に、延長できますか」
「できる」
結果として、五十二秒かかった。
開いた。
俺は、ゆっくり閉めた。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、専門の人に頼もう」
「はい」
「今日、業者さんが十三時に来るんで」
「はい」
「そこまで、開けないでおこう」
「はい」
天愛星さんの声が、少し小さかった。
「……申し訳ありません」
「なんで謝るんだよ」
「見苦しいものを、お見せしました」
「見苦しくない」
「見苦しいです」
「馬剃さん」
「はい」
「あれ、ただの冷蔵庫だから」
「……冷蔵庫です」
「うん」
「中身が」
「中身も、ただの中身」
天愛星さんが、こちらを見た。
「……そういう言い方を、されるんですね」
「するね」
「いつからですか」
「病院」
俺は、ゴム手袋を外した。
「あそこ、人間のいろんなものを見る場所だから。見て、名前をつけないっていうのを、四年で覚えた」
「名前をつけない」
「『汚い』とか『ひどい』とかを、いちいち言わない。言うと、そこから先が進まないんで」
天愛星さんは、しばらく黙っていた。
「……それは、業務の技術ですか」
「業務の技術」
「では、今日は」
俺は、ゴム手袋をつけ直した。
「今日は、業務じゃないな」
彼女は、それきり、何も言わなかった。
十一時半に、休憩を入れた。
俺が手順書に書いた休憩である。三十分。
二人で、玄関のところに座った。
部屋の中に、まだ座れる場所がなかったからだ。
俺は、コンビニで買ってきたペットボトルを二本出した。
「水と、スポーツドリンク。どっち」
「スポーツドリンクをお願いします」
「はい」
「あの」
「はい」
「なぜ、二種類あるんですか」
「片方を選んでもらうため」
「……選択肢を、用意されたんですね」
「用意した」
「三種類だと」
「迷うから、二種類」
「……検討の跡が、見えます」
「見ないでください」
見えていた。
二種類にするか三種類にするかで、俺は昨日、コンビニの棚の前で四十秒使っている。
四十秒である。
二十二分に比べれば、まだ健全なほうだと思いたい。
しばらく、二人とも黙って飲んだ。
九月の日曜の午前は、まだ暑い。
廊下から入ってくる風が、生ぬるかった。
「温水さん」
「はい」
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「なぜ、なにも言わないんですか」
俺は、ペットボトルの蓋を閉めた。
「なにを」
「『なんでこんなになるまで』と」
「……言ってほしい?」
「いえ」
「じゃあ、言わない」
天愛星さんは、膝を抱えて座っていた。
大の大人が、自分の部屋の玄関で、膝を抱えていた。
「……普通は、言うと思います」
「言う人もいるだろうね」
「はい」
「でも、それ言われて、片付いた人、いる?」
「……いません」
「だろうね」
しばらく、黙っていた。
「起きて、食べて、寝るだけの場所に」
天愛星さんが、そう言った。
「意味を、作れなくなったんです」
「うん」
「仕事は、意味があります。ですので、書類は片付くんです」
――そこだ。
俺は、部屋の奥を見た。
壁際に、書類のファイルボックスが六つ並んでいる。
背表紙にラベルが貼ってあって、色が四色に分かれている。
インデックスの出っ張りが、全部同じ高さでそろっている。
この部屋で、唯一まともな一角だった。
俺は、そのファイルボックスを、四月から見たことがある。
いや、正確には、そこに入っているものを見たことがある。
六月の四十枚。
七月の追跡データ。八月の進行台本。
全部、あそこから出てきた。
この部屋の、この一角だけが、外の世界とつながっていた。
その手前に、床が見えている。
三十センチ四方くらい。あそこで、この人はノートパソコンを開いて、追跡データの資料を作った。
七月の水曜の夜である。
「おかしいですよね」
天愛星さんが言った。
「おかしくない」
俺は、そう答えた。
「おかしいです」
「おかしくないって」
「……」
俺は、ペットボトルを床に置いた。
「うちの部屋、十二年住んでてさ」
「はい」
「カーテン、一回も替えてない」
天愛星さんが、顔を上げた。
「入居のとき、不動産屋がつけたやつ。十二年、そのまま」
「……」
「あと、粗大ごみ、十二年で一回も出したことない」
「一回も」
「一回も」
「なぜですか」
「出し方が分からないから」
「調べれば」
「調べなかった」
「……」
「今週、初めて調べた」
天愛星さんが、こちらを見た。
「……今週、ですか」
「今週」
「三十四年間で、初めて」
「初めて」
俺は、少し笑った。
「一時間で分かった。四十七ページ読んで、電話一本」
「一時間」
「十二年、一時間ぶんのことをやらなかった」
俺は、少し笑った。
「押し入れの下、十一年ぶんの売れ残りで埋まってる。その手前に、去年の段ボールが四つある」
「存じております」
「知ってるんだ」
「七月に、伺いました」
「……あのさ」
「はい」
「馬剃さんの部屋は、意味を作れなくなった部屋でしょ」
「はい」
「俺の部屋は、意味を作らなかった部屋なんだよ」
天愛星さんが、こちらを見た。
「十二年、同じ部屋で、なんにも決めてない。カーテンも、家具も、捨てるものも」
「……」
「汚れてるかどうかの差でしかない」
しばらく、廊下の風の音だけがした。
「……温水さん」
「はい」
「それは、慰めですか」
「違う」
「では、なんですか」
俺は、立ち上がった。
「愚痴」
天愛星さんが、少し笑った。
「……温水さん」
「はい」
「愚痴でしたら、伺います」
「いいって」
「聞きます」
「いいって」
「先月、私は二時間半、聞いていただきました」
――出た。
この人は、貸し借りを必ず数える。
七月にも同じことをやられた。
「六月に、あなたは私に、十日間、無給で付き合いました」である。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、全部返そうとしなくていいから」
「返します」
「返されると、俺が困る」
「なぜですか」
俺は、そこで、少し詰まった。
――返し終わったら、終わるからだ。
そう思ったが、口には出さなかった。
「……なんでもない」
「短いですね」
「短いな」
「本当に隠したいときだけ、短くなるんです」
「知ってる。四月に聞いた」
天愛星さんが、缶の蓋を閉めた。
閉めて、それ以上、追及しなかった。
十二時から、作業を再開した。
カラーボックスの前に来たのは、十二時四十分である。
その上に、箱があった。
名刺の箱だった。
蓋が閉まっている。
埃が薄くかぶっていて、その埃の上に、指の跡が一つだけある。
最近、誰かが触った跡だった。
天愛星さんが、その箱を見た。
見て、動かなかった。
俺は、何も聞かなかった。
聞かずに、その箱を持ち上げて、いったん脇に置いた。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、あとで棚に戻すんで」
「……はい」
「今日は、触らない」
「はい」
彼女は、それきり何も言わなかった。
玄関脇に来たのは、十三時前だった。
業者が来る直前である。
「粗大ごみのシールは」
「貼りました。三点です」
「行政に出すなら朝八時までだけど、今日は業者だから」
「存じております。四十七ページ、読みましたので」
「……もう俺より詳しいかもしれない」
「蛍光ペンの箇所は、二回読みました」
そこに、段ボールが積んであった。
五つ。
全部、同じ書店の箱だった。
全部、開封されていない。
俺は、いちばん上の伝票を見た。
見るつもりはなかった。
目に入ったのである。
――一年半前。
その下の箱も、伝票の角が見えていた。
同じ年の、二か月前である。
箱の大きさが、全部同じだった。
俺は、その大きさを知っている。
同人誌を十一回出している人間が、この形の箱を見て、何が入っているか分からないわけがない。
書店の名前も、知っている。
俺は、その書店で買ったことはない。
買ったことはないが、何を扱っている書店かは、知っている。
BLの、専門店である。
カラーボックスの下から出てきた、あの一冊と、同じ棚に並ぶ本だ。
俺は、伝票から目を離した。
「温水さん」
天愛星さんが、後ろから来た。
声が、少し硬い。
「それは」
「うん」
「それは、資源ごみです」
――違う。
俺は、そう思った。
思ったが、口には出さなかった。
三つ目の、判断に迷ったものである。
この五つが、いつからここにあるのか。
伝票の日付を見れば、分かる。
分かるが、俺が知る必要はない。
ただ、一つだけ、分かってしまったことがある。
この人は、これを買うのは、やめられなかった。
買って、届いて、そこに置いて、開けなかった。
開けられなかった。
……買うのはやめられなかった、という事実のほうが、たぶん重い。
俺は、その五つを持ち上げた。
「それ、こっちに入れとく」
「……え」
「棚に戻すやつと、同じとこ」
天愛星さんが、何か言おうとした。
「あの、それは」
「馬剃さん」
「はい」
「判断が要るものは、そっちが決めるって言ったよね」
「……はい」
「今日じゃなくていい」
俺は、名刺の箱の隣に、その五つを置いた。
インターホンが鳴った。
十三時ちょうど。業者だった。
「時間ぴったりですね」
「いい業者は、時間で分かるんだよ」
「……手帳に書いても」
「休憩中ならいい」
「いまは、作業中です」
「じゃあ駄目」
「……業者の方が到着されるまでの、待機時間です」
「待機時間は、作業中です」
「規程に、定めがありません」
「うちの規程の話してます?」
「本手順書の、第三条ですっ」
「手順書に条文つけたの?」
「つけましたっ」
……第三条まであるのか。
俺の手順書は、一枚に工程が三つ書いてあるだけである。
書いていた。
搬出は、一時間半で終わった。
可燃が二十七袋、不燃が九袋、資源が十一束。
「合計、四十七です」
天愛星さんが、数え終えて言った。
「……手引きのページ数と同じだな」
「本当ですね」
「今日いちばん、どうでもいい一致だ」
「どうでもよくありません」
「どうでもいいでしょ」
「意味を見出すのが、人間です」
「ごみ袋に意味を見出さないでください」
「四十七袋。四十七ページ。四十七都道府県」
「三つ目、関係ないですよね」
「関係ありませんっ。……ですが、揃うと、気持ちがいいです」
「そこは、同意する」
揃うと気持ちがいい、というのは、たぶん、この人の芯に近い。
書類の角をそろえるのも、座布団の角をそろえるのも、たぶん同じところから出ている。
そろっていないものが、五か月半、この部屋にあった。
……そう考えると、四十七の一致は、どうでもよくない。
粗大ごみが三点。冷蔵庫の中身は、業者の方が処理してくれた。
あの人は、プロだった。
開けて、二秒で「あー、はいはい」と言って、それだけだった。
俺は、その二秒に感謝した。
三万八千円のうち、たぶん一万円は、あの二秒の代金である。
業者の方は、帰り際に、玄関で一度だけ振り返った。
「お客さん」
「はい」
「うち、こういうの年に百件くらい行きますけどね」
「はい」
「今日みたいに、本人が全部立ち会って自分で決めるとこ、そんなにないですよ」
俺は、その言葉を、あとで彼女に伝えるべきかどうか、三分くらい迷った。
伝えなかった。
伝えると、この人は、たぶん謝る。
十五時。
床が、全部見えた。
天愛星さんは、その真ん中に立っていた。
立って、動かなかった。
「馬剃さん」
「……はい」
「掃除機、かける?」
「……はい」
「かけて」
「はい」
「あと、俺、下で袋まとめてるんで」
「はい」
「三十分くらい戻らない」
天愛星さんが、こちらを見た。
「……三十分」
「三十分」
「作業量から考えて、十分で足ります」
「三十分かかる」
彼女は、少し黙って、それからうなずいた。
「……はい」
彼女は、掃除機を受け取って、かけはじめた。
かけながら、途中で一回、止まった。
止まって、それから、また動かした。
俺は、玄関で袋の口を縛りながら、それを見ていなかった。
見ていなかったので、彼女がどんな顔をしていたかは、分からない。
分からないが、掃除機の音は、途中で二回、不自然に長く同じ場所に留まった。
その二回のあいだ、俺は袋の口を、必要以上に固く縛った。
十六時二十分、終了。
部屋は、普通の部屋になっていた。
1DKである。
台所があって、六畳の部屋があって、窓が二つある。
窓が二つあることを、俺は今日はじめて知った。
カラーボックスに、手帳が十五冊。
その隣に、名刺の箱と、開いていない段ボールが五つ。
書類のファイルボックスが六つ。
それ以外に、物がほとんどなかった。
――少ないな。
俺は、そう思った。
物が多くて汚れていたのではない。
この人は、一年半、物を捨てなかっただけである。
買ってもいない。増やしてもいない。
ただ、減らせなかった。
窓のカーテンが、風で少し動いた。
備え付けのままの、うすい生成りである。
……ピンクでは、ない。
俺は、そのことを、なぜか一日じゅう覚えていた。
「温水さん」
「はい」
「一つ、ご報告があります」
「はい」
「……カーテンを、買い替えようと思います」
俺は、窓を見た。
それから、この人を見た。
「いいと思いますよ」
「色は、まだ決めていません」
「決まったら、教えてください」
「……業務外ですが」
「業務外だから、教えてください」
「…………」
「あ、いま考えましたね」
「考えておりませんっ」
「〇・二秒、目線が下に行きました」
「……その計測は、返上いたしますっ」
「返上できないんだよなあ」
「温水さん」
「はい」
「本日は、ありがとうございました」
「いえ」
「費用の精算を、いま」
「あとでいい」
「原則は当日中です」
「原則は分かるけど、いま計算したら俺が死ぬ」
天愛星さんが、少し笑った。
笑って、それから、鞄から電卓を出した。
「出さないで」
「掃除機は、レンタルと伺いました」
「うん」
「返却期限は」
「明後日の十九時」
「延長料金は」
「一日五百円」
「では、明日中に返却されるべきです」
「なんで」
「明後日は火曜日です。あなたは十八時三十分まで、入試委員会の打ち合わせが入っています」
「なんで俺の予定を」
「課の共有カレンダーです」
「見ないでください」
「業務上、必要です」
「三十分あれば行けますよ」
「駅前までは徒歩九分です。往復十八分。手続きに五分。信号を三つ渡ります」
「渡るなあ」
「余裕が、七分しかありません」
「馬剃さん」
「はい」
「俺の五百円の心配、してくれてるんですか」
「……しています」
「わりと嬉しいな、それ」
「嬉しがらないでください」
「なんで」
「……こちらが、困りますので」
「なにが困るんですか」
「…………」
「馬剃さん」
「――信号を、三つ渡りますっ!」
「話が戻った」
「戻しましたっ」
戻された。
この人の話題転換は、いつも音がする。
自分で戻したことを自分で申告するので、逃げていることが、全部ばれる。
ばれているのに、毎回やる。
「……あの」
「はい」
「お茶を、お出しできません」
「知ってる」
「コップが、ありません」
「知ってる」
「二分探されていましたよね、八月二十九日に」
「見てたのか」
「見ていました」
「寝てただろ」
「半分は」
「どっちの半分」
「後半です。……コップを諦められた、あたりから」
「起きてたなら、言ってくれれば」
「言えませんっ」
「なんで」
「あの状況で声を出すと、いろいろと、まずいんですっ」
「なにが」
「……全部ですっ」
俺は、天井を仰いだ。
「じゃあ、下で飲もう。自販機あるから」
「はい」
アパートの下の自販機で、俺は缶を二本買った。
一本を渡した。
黒いラベルの、砂糖もミルクも入っていないやつだった。
「……まずいです」
「知ってる」
「三十円、値上がりしています」
「したな」
「四月は、両機とも百三十円でした。確認済みです」
「……あれ、まだ覚えてるんだ」
「事実確認は、一生ものです」
俺たちは、駐車場の縁石に並んで座った。
九月の夕方は、六月より少しだけ早く暗くなる。
「温水さん」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「なぜ、ここまでしてくださるんですか」
――来た。
俺は、缶を持ったまま、少し考えた。
四月なら、答えられた。
「OJT担当なんで」で終わった。
六月なら、答えられた。
「独り立ちさせる責任があるんで」で終わった。
八月も、まだ答えられた。
「同期入職みたいなもんなんで」で、なんとかなった。
九月七日の、十六時四十分。
俺は、答えを持っていなかった。
「……部屋が、あの状態だったから」
俺は、そう言った。
言った瞬間に、自分でも分かった。
それは、今日で、終わる。
部屋は、片付いた。
明日から、俺には、この人のところに行く理由が、一つもない。
「……そうですか」
天愛星さんは、そう言った。
それだけだった。
彼女は、缶を両手で包んで、しばらく黙っていた。
「温水さん」
「はい」
「明日から、また、職場ですね」
「そうだね」
「温水主任と、お呼びします」
「うん」
「では、失礼いたします」
天愛星さんは、立ち上がって、頭を下げた。
角度は、たぶん三十度だった。
階段を上っていく音が、二階で止まった。
ドアが開いて、閉まって、かちり、と鳴った。
俺は、駐車場の縁石に、まだ座っていた。
缶が、半分残っている。
まずい。
この人が、いつからブラックを飲んでいるのかを、俺は知らない。
四月に一度、聞いた。
「昔の話です」と言われて、それきりである。
昔というのが、いつなのか。
……たぶん、聞けば教えてくれる。
この人は、今日、冷蔵庫を開けた。
二時間半、文科省の話をした。名刺の箱の隣に、開けていない箱を置いた。
聞けば、たぶん、教える。
俺が、聞いていないだけである。
――で。
明日から、俺は、なんて言えばいいんだ。
空を見上げると、九月の雲が、思ったより低いところを流れていた。
二階の窓に、灯りがついた。
カーテンが、閉まっていない。
あの部屋のカーテンは、たぶん、今日はじめて開いた。
開いたまま、閉め方を忘れているのだと思う。
窓の向こうで、人影が一度、通った。
――明日から、俺は、なんて言えばいいんだ。
俺は、もう一度、そう考えた。
考えて、答えが出なかった。
出ない理由も、たぶん、分かっている。
言い訳が要るということは、言い訳が要るような何かを、俺がしているということだ。
四月から、五か月半。
俺は、その事実に、五か月半かけて、たどり着いた。
……遅い。
俺は、残りを飲み干した。
まずかった。