(九月十七日/温水視点)
「温水さん、事件です」
九月十七日、水曜日、十四時四十分。
大貫が、椅子ごと滑ってきた。
「馬剃さんが、飴を断りました」
「は?」
「桑原主査が、いつものやつを配ったんですよ。りんご味の」
「うん」
「馬剃さん、『恐れ入ります』って言って、机に置いたんです」
「置いた?」
「置きました。舐めてないです」
「舐めてないって、どうやって確認したんだ」
「包み紙が、そのままなんですよ」
「お前、遠くから包み紙の状態を見てるのか」
「見ますよ。飴は体調のバロメーターなんで」
「初めて聞く医学だな」
「大貫医学です」
「学会に出すな」
俺は、隣の席を見た。
天愛星さんは、画面に向かっていた。
右手にマウス、左手に電卓。姿勢はいつもどおり、定規で引いたようにまっすぐである。
机の端に、りんご味の飴が一つ、置いてある。
――置いてある。
胸の奥が、ひやりとした。
「大貫」
「はい」
「お前、よく見てるな」
「俺、飴の在庫管理してるんで」
「そんな業務ないだろ」
「あるんですよ。誰が何個持っていったか、全部覚えてます」
「その調査力を、もっとまともな方向に使えないのか」
「使ってますよ。裏門のハカセ、今日、東門にいました」
「猫の話じゃないんだよ」
そこへ、桑原主査が通りかかった。
ふせんを一枚、俺の机に置いていく。
『不備照会の様式、旧版が回覧に残っています』
十九文字である。
この人は、口で言うと七文字、紙に書くと十九文字になる。理由は俺にも分からない。
「桑原さん」
「なに」
「馬剃さん、今日どうですか」
「白い」
――三文字。
「それだけですか」
「うん」
「もう少しないですか」
「昨日も白い」
「五文字になりましたね」
「増やした」
桑原主査は、それだけ言って行ってしまった。
この人の情報量は、字数と反比例する。
総合型選抜の出願受付が、二日前に始まっている。
九月十五日から十月十四日まで。
うちの大学は、この一か月で、去年は四百三十件を受けた。
書類の不備は、二割から三割出る。
志望理由書の様式が古い、調査書が入っていない、写真がプリクラのような何かになっている。
それを一件ずつ電話して直してもらう。
直してもらったものを、また確認する。
九月の入試広報課は、要するに、そういう部屋である。
「温水主任」
「はい」
返事が、来た。
俺は、その返事までの時間を数えた。
二秒。
――二秒である。
この人の平均は、〇・五秒から一秒だ。
自分でそう設計していると、六月に本人が言っていた。一秒を超えると相手が不安になるからだそうである。
その基準からすると、二秒は「未達」だ。
今日、四回目である。
「不備の一覧の様式ですが、昨年度分は書式が二種類あります」
「ああ、途中で変えたんですよ。八月に」
「では、統合してもよろしいでしょうか」
「いいですよ」
「承知しました」
天愛星さんが、手帳を開いた。
俺は、そこで一度、手を止めた。
字が、傾いている。
この人の字は、罫線に対して垂直である。十六年前からそうだ。生徒会室で申請書に不備を書きこむとき、定規みたいな字を書いていた。
いまの一行は、右に流れている。
「馬剃さん」
「はい」
「今日、何時に来ました」
「七時二十分です」
「昨日は」
「七時十五分です」
「一昨日は」
「……七時ちょうどです」
「毎日、早くなってません?」
「気のせいです」
即答だった。
この即答は、〇・五秒だった。
――速い。
ちり、と首の後ろが焦げるような感じがした。
この人は、速すぎるときも、遅すぎるときも、だいたい何か隠している。
「昼、食べました」
「はい」
「何を」
「……」
沈黙が、三秒あった。
「ゼリーです」
「ゼリー」
「栄養補助の」
「それ、食事じゃないです」
「栄養素は充足しています」
「充足の話をしてないんですよ」
「では、何の話ですか」
「量の話です」
「量は、記載されています」
「記載を食べても腹は膨れないんだよなあ」
天愛星さんが、少し黙った。
黙って、それから、飴の袋を取った。
取って、開けて、口に入れた。
「食べました」
「飴だぞ、それ」
「摂取しました」
「報告の形にすれば通ると思ってる」
「通りませんか」
「通らないです」
十五時二十分。
天愛星さんが、立ち上がった。
複合機のほうへ、二歩、歩いた。
三歩目がなかった。
音が、二つした。
一つ目は、書類が落ちる音である。
二つ目は、そうではなかった。
どくん、と心臓が一回、大きく鳴った。
俺は、椅子を蹴って立っていた。
立ったことを、あとから知った。
身体のほうが先に動いていて、頭はまだ、書きかけのメールの続きを考えていた。
「馬剃さん」
床に、膝から落ちていた。
完全に倒れきってはいない。右手が床についている。
目は開いている。開いているが、焦点がこちらに合っていない。
「馬剃さん、聞こえますか」
「……はい」
返事があった。
――ある。
俺は、そこでいったん、息を吐いた。
「そのまま座って。立たないで」
「申し訳、ありません」
「謝らなくていいから、そのまま」
俺は、彼女の腕を取って、床に横向きに寝かせた。
膝の下に、自分の上着を丸めて入れた。
足を少し高くする。それだけで、戻ることがある。
「大貫、血圧計」
「え」
「救急箱の中にある。庶務課の壁の、上から二段目」
「あっ、はい!」
「あと、鷲尾課長呼んで」
「はい!」
大貫が走っていった。
俺は、医療者ではない。
ただ、四年間、医療者のとなりで書類を書いていた。
用度管財課で三年、医事課で一年。
病棟にも外来にも、備品の納品と伝票の回収で、毎日入っていた。
院内で人が倒れる場面を、俺は三回見ている。
三回とも、俺は何もしていない。ただ、そこにいた看護師が何をしたかを、覚えている。
声をかける。返事があるか。
脈を見る。呼吸を見る。顔色を見る。
吐いていないか。頭を打っていないか。
それだけで、次にやることが決まる。
「馬剃さん、頭、ぶつけました?」
「……ぶつけていません」
「気持ち悪いですか」
「少し」
「いつからですか」
「……三日前です」
――三日前。
ずん、と腹の底が重くなった。
「熱、あります?」
「測っていません」
「朝、測ってないんですか」
「……体温計が、ありません」
九月七日に、俺はこの人の部屋を片付けている。
ゴミ袋を四十七枚使って、五時間かけて、床を出した。
床は出た。
体温計は、なかった。
俺はそこまで見ていなかった。
「血圧、持ってきました!」
大貫が戻ってきた。
巻いて、測った。
上が八十二。下が五十。
脈が、速い。
「大貫、体温計は」
「入ってなかったです!」
「庶務の引き出しの、いちばん下」
「なんで知ってるんですか!」
「去年、俺が入れたんだよ」
「なんで救急箱に入れないんですか!」
「入れた。誰かが持ってった」
「この職場、怖すぎません!?」
「毎年一本消えるんだよ、体温計」
「そっちのほうが事件じゃないですか!」
三十八度二分だった。
「温水君」
鷲尾課長が来た。
しゃがんで、天愛星さんの顔を見て、それから俺を見た。
「救急車?」
「呼ばないです」
「なんで!」
大貫が叫んだ。
「意識あるし、自分で座れるし、呼吸も脈も保ってる。この状態で救急車を呼ぶと、搬送先はこっちで選べないんですよ」
「選べないと駄目なんですか」
「駄目じゃない。ただ、三十分かけて知らない病院に運ばれるより、二十分でうちの附属に入れたほうが早い」
俺は立ち上がった。
「課長、公用車、借ります」
「持ってって」
鷲尾課長は、それだけ言って、鍵を投げた。
この人は、こういうときに理由を聞かない。
「……車両管理規程」
床から、声がした。
「はい」
「第八条です。公用車の使用は、あらかじめ、庶務課長の承認を……」
「第十一条」
俺は言った。
「緊急の場合は、この限りでない。事後に届け出ればよい」
天愛星さんが、目を開けた。
「……なぜ、覚えてらっしゃるんですか」
「用度にいたんで」
「……」
「あと、規程を読むのが趣味の人が、隣にいるんで」
「……趣味では、ありません」
「じゃあ何なんですか」
「……業務です」
「いま、業務じゃないですよ」
天愛星さんは、それには答えなかった。
構内から都道に出て、十九分。
助手席で、天愛星さんはずっと背筋を伸ばして座っていた。
倒れた人間の座り方ではない。
「馬剃さん」
「はい」
「もたれていいですよ」
「結構です」
「その姿勢、しんどくないですか」
「しんどくありません」
「嘘だな」
「……嘘です」
背中が、こつん、と二センチだけシートに触れた。
二センチである。
その二センチぶん、俺の肩から力が抜けた。
「温水主任」
「はい」
「本日の残件を、申し上げます」
「いま言うことじゃない」
「引き継ぎです」
「引き継ぎは明日でいいです」
「明日、私は」
「明日のことは、明日の俺が困ります」
「……無責任です」
「無責任なんですよ、俺」
「不備の照会が、七件残っています」
「聞いてないです」
「うち三件は、締切が明日です」
「聞いてないです」
「二件は、電話が通じません」
「……それは俺がやります」
「聞いていただけましたね」
「……この人は」
天愛星さんが、少しだけ笑った。
笑って、それから、窓のほうを向いた。
信号で止まったとき、ガラスに映った顔が、白かった。
救急外来の入口に着いたのは、十六時三分だった。
俺は車を職員用の一時停車帯に入れて、受付に行った。
中は、混んでいた。
長椅子に、七人。
奥の処置室から、モニターの音がしている。
救急外来というのは、来た順に診る場所ではない。
救急車で運ばれてきた人が先である。
そのあとに、重い人から順に呼ばれる。歩いて来た患者は、一時間待ちがざらだ。
俺はそれを、四年かけて理解した。
当時は、待たされた患者さんの苦情が、全部うちの課に回ってきていた。
「なぜ後から来た人が先に呼ばれるのか」というやつである。
あれに、正しい答えはない。
正しい答えはないが、順番の理由を先に伝えておくと、苦情は半分になる。俺が四年で覚えたのは、そういう種類のことだけだ。
「温水主任」
車椅子から、声がした。
「はい」
「この病院は、紹介状のない初診の場合、選定療養費がかかりますね」
「かかります」
「金額は」
「七千七百円です」
「……即答ですね」
「それを決める会議に、四年出てました」
「本日は、救急外来ですが」
「救急は、対象外です」
「根拠は」
「厚労省の通知です」
「番号は」
「そこまで覚えてるわけないでしょ」
「……惜しいです」
「惜しくないです」
「あと一段でした」
「その一段、要ります?」
「要ります」
「熱、三十八度ありますよね」
「三十八度二分です」
「よく喋りますね、三十八度二分」
「……喋っていないと、意識が飛びますので」
俺は、そこで、口を閉じた。
この人は、いま、必死に喋っていたのである。
俺はそれを、二分間、掛け合いだと思って返していた。
「馬剃さん」
「はい」
「喋っててください。俺、聞いてるんで」
「……はい」
「番号、あとで調べます」
「……お願いします」
「温水君?」
カウンターの奥から、声がした。
白衣ではなく、紺のスクラブを着た人が、こちらを見ていた。
唐沢師長である。
救急外来の看護師長で、たしか、今年で五十六歳になる。
「うそでしょ。何年ぶり」
「八年です」
「即答じゃない」
「数えてたんで」
「あなた、うちの吸引器の見積もり、三回突き返した人よね」
「四回です」
「四回!」
「四回目で通しました」
「あのときの私、あなたのこと相当嫌いだったわよ」
「知ってます。三回目のとき、目を見て言われました」
「なんて言ったっけ」
「『あなた、患者さんの喉のこと考えたことある?』です」
「言ったわ」
「一言一句、覚えてます」
「怖い子ねえ」
「怒られ方に癖のある人は、覚えやすいんですよ」
「褒めてないでしょ、それ」
「褒めてないです」
唐沢師長が、笑った。
笑って、そのあと、すぐ真顔になった。
「で、今日は何」
俺は、そこから、事実だけを並べた。
「三十四歳、女性。うちの職員です。十五時二十分に事務室で意識消失。数秒です。頭部打撲なし。側臥位で二分ほどで回復」
「うん」
「十五時二十五分の血圧、八十二の五十。脈拍百八。体温三十八度二分」
「うん」
「悪心が三日前から。食事は、この三日、ゼリーと飴です。水分は、本人の申告で一日五百ミリ以下」
「……」
「最終排尿は、本人の記憶で今朝。量は少なかったと」
「既往は」
「本人が答えます」
唐沢師長が、俺の顔を見た。
「あなた、それ、看護記録の様式で喋ってるでしょ」
「医事課にいたんで」
「一年でしょ」
「一年です」
「一年でそれ覚えるの、性格が悪いのよ」
「よく言われます」
唐沢師長は、ペンを回して、カウンターの奥に消えた。
三十秒で戻ってきた。
「先に採血だけ回す。診察は順番だけど、結果が出てるほうが早いから」
「ありがとうございます」
「勘違いしないでね」
師長は、車椅子を引っ張ってきながら言った。
「あなたが持ってきた情報が、正確だっただけ。あれだけ揃ってたら、こっちも判断が早いのよ」
「はい」
「……あと、少しだけ、私の裁量」
――割りこませたわけではない。
俺は、自分にそう言った。
言って、そのあと五秒くらい、それを検算した。
検算の結果は、たぶん、九割そのとおりで、一割そうではない。
俺はその一割を、荷物みたいに持ったまま、車椅子を押した。
当直医は、三十代の男性だった。
早口で、余計なことを言わない人である。
「採血、出ました。脱水と、あと貧血ですね。ヘモグロビンが八台です」
「八台」
「基準の下限が十二なんで、だいぶ下です。鉄が足りてない。長期です」
医師は画面をスクロールした。
「炎症の値も上がってる。熱の原因は、たぶん腸炎です。エコーで壁が厚くなってるところがあります」
「はい」
「点滴して、明日もう一回採血します。数字が動かなければ、明後日退院で」
「……二泊、ですか」
「二泊です」
医師が、はじめて、患者のほうを向いた。
「馬剃さん、鼻血って出ます?」
天愛星さんが、固まった。
「……は」
「貧血だと出やすくなる人がいるんですよ。逆に、頻繁に出る人が貧血になることもある」
「……年に、数回です」
「原因、心当たりあります?」
「……ありません」
――ある。
俺は、視線を壁のポスターに移した。
『手洗いは三十秒』と書いてある。
三十秒である。長いな、と思った。
思うことで、いま思い出しかけた八月十六日の東ホールの光景を、無事に押し戻した。
思考を止める技術については、たぶん俺は日本でも上位である。
「まあ、この数字なら、鉄のほうが原因ですね」
「そうですか」
「よかったですね」
「……はい」
この人は、いま、たぶん、人生で一番安心した「はい」を言った。
「馬剃さん」
「はい」
「最近、ちゃんと食べてました?」
天愛星さんは、答えなかった。
俺も、答えられなかった。
俺が知っているのは、あの部屋の冷蔵庫だけである。
「まあ、数字が答えてますね」
医師はそう言って、キーボードを叩いた。
「三日じゃこの数字にならないんで。半年から一年です」
半年から一年。
喉の奥が、ひゅっと細くなった。
俺は、四月一日から今日までを、頭の中で数えた。
百七十日である。
百七十日、俺はこの人のとなりに座っていた。
三十センチの距離で、毎日である。
「入院に必要なものの一覧は、規程で定められていますか」
病棟に上がって、最初に天愛星さんが言ったのが、それだった。
点滴が入って、少し血の気が戻っている。
戻ったぶんが、全部そっちに行ったらしい。
「案内文です」
「規程ではないのですね」
「ないです」
「では、拘束力は」
「ないですけど、パジャマがないと寝られないですよ」
「……」
「これ、レンタルあります。日額三百三十円です」
「なぜ、料金までご存じなんですか」
「医事課です」
「一年ですよね」
「一年です」
「……あなた、性格が悪いと言われませんか」
「一時間前に言われました」
「どなたにですか」
「唐沢師長です」
「一時間で二人から言われる方は、たぶん、本当にそうです」
「三人目にならないでください」
「三人目です」
「早いな」
「事実は変わりません」
「点滴入ったら喋る量が二倍になりましたね」
「補液の効果です」
「効きすぎだろ」
問題は、そのあとだった。
案内文の三行目に、こう書いてある。
『下着、タオル、洗面用具は各自でご用意ください』
俺は、その行を、二回読んだ。
――いや。
ぶわ、と首の裏が熱くなった。
これは、俺の担当ではない。
ここで「じゃあ買ってきます」と言う男が主人公をやっている話を、俺は何本か読んだことがある。
あの手の場面では、たいていヒロインが「べ、別に何でもいいですから!」と叫び、主人公が真っ赤になって走っていく。
俺の場合、どう考えても先に走っていくのはこちらだし、走っていく先が売店の日用品コーナーなのが、救いようがない。
同僚のそれを、サイズから、選ぶ。
絵面として、完全に事案である。
「温水主任」
「はい」
「案内文の三行目を、読まれましたね」
「読んでないです」
「二回読まれました」
「見てたんですか」
「見ていました」
「……」
「あの」
「はい」
「へ、変な気を、起こさないでくださいっ!」
「起こしてないです」
「いま、三行目で二秒止まりました」
「止まってないです」
「止まりましたっ! 私、数えていましたっ!」
「点滴中に、何を数えてるんですか」
「秒ですっ!」
「そこじゃない」
「だいたい、あなたはいつもそうですっ。人が言いにくいところを、わざわざ二回読むんですっ!」
毛布の下で、足が、ばたばた、と二回動いた。
三十八度二分の動き方ではない。
天愛星さんの耳が、赤かった。
赤くて、そのあと、首のほうまで下りてきた。
熱のせいかもしれない。熱のせいだということにした。
……三十八度二分で、この人はいま、俺を警戒している。
警戒される側の心当たりが一ミリもないかというと、そこは、あまり大きな声で否定しないでおきたい。
「唐沢さん」
俺は、廊下に顔を出した。
「これ、お願いできますか」
「……あなた、そういうところは、昔から逃げるわね」
「はい」
「素直ね」
「はい」
唐沢師長は、案内文を受け取って、ため息をついた。
「いいわよ。売店の場所、教えてあげる。行くのは私じゃないけど」
「え」
「病棟の助手さんに頼むの。そういう仕組みがあるのよ」
「あるんだ」
「あなた、四年いて知らなかったの」
「知らなかったです」
「知らないことのほうが多いのよ、この病院は」
「四年いて何やってたんだ、俺」
「見積もり突き返してたでしょ」
「……そうでした」
唐沢師長は、問診票を持ってきて、ベッドの脇に立った。
「常用薬、ありますか」
「あります」
「なんですか」
「……黄連解毒湯です」
「漢方ね。なんのために飲んでるの」
「……」
「馬剃さん?」
「……体質の、調整です」
「調整」
「はい」
俺は、天井を見た。
十六年前、この人がその漢方を飲みはじめた理由を、俺は知っている。
知っているが、いま言う場面ではない。
というか、たぶん、一生言う場面ではない。
「温水君、なんの薬か知ってる?」
「知らないです」
「即答ね」
「知らないです」
「二回言ったわね」
「二回言うと本当になるらしいんで」
「誰が言ったの、それ」
「そこのベッドの人です」
「言っていませんっ!」
――早い。
この人は、図星のときだけ、返事に「っ」がつく。
〇・二秒である。
いつもの即答より、さらに速い。
「馬剃さん、熱あるんだから、大声出さないの」
「……申し訳ありません」
「あと、その漢方は続けていいわよ。うちの薬剤師に確認しとくから」
「……恐れ入ります」
十七時ちょうどに、放送が鳴った。
『面会時間終了のお知らせです。ご面会の方は、ご退出をお願いいたします』
天愛星さんが、俺のほうを見た。
「温水主任」
「はい」
「面会時間は、十七時までです」
「そうですね」
「規則です」
「はい」
「では」
「……はい」
俺は立ち上がった。
立ち上がって、鞄を持って、扉のところまで行った。
行って、そこで、一度だけ振り返った。
この人は、ナースコールを押さない。
根拠はない。
根拠はないが、俺は五か月半、この人がどういうときに何を言わないかを、毎日見ている。
廊下に出たところで、唐沢師長に呼び止められた。
「温水君」
「はい」
「あの子、夜、ナースコール押さないタイプでしょ」
「……押さないです」
「そう見えたのよ」
師長は、ナースステーションの壁を指した。
夜勤の名前が、二つしか書かれていない。
「うち、夜勤二人で三十床見てるの」
「はい」
「あの子、熱が上がるわよ。今夜」
「……はい」
「点滴も入ってる。トイレに行くとき、一人で立つ人でしょ」
「立ちます」
「押さずに立って、倒れるの。いちばん困るパターン」
師長は、一枚の紙を出した。
『付き添い許可願』と書いてあった。
「原則、認めてないの。でも、療養上必要と師長が認めた場合は、この限りでない」
――この限りでない。
俺は、今日、二回目のそれを聞いた。
「建前を言うわよ。夜間の見守りと、療養上の世話の補助。うちの負担軽減。これ、嘘じゃないから」
「はい」
「一晩だけね。明日の夜は帰りなさい」
「はい」
「書いて」
俺は、その紙を、ナースステーションのカウンターで書いた。
氏名。連絡先。ここまでは十秒で終わった。
続柄の欄が、あった。
選択肢が三つ、印刷されている。
『家族』『親族』『その他( )』
俺のペンが、止まった。
ペン先が紙に触れたまま、インクが一滴、じわりとふくらんだ。
止まってから、動くまでに、二十秒かかった。
俺は『その他』に丸をつけて、括弧の中に、こう書いた。
『知人』
四月一日に、俺は同じことを言っている。
三百二十人いましたから、と。
あのときは、この人の三年後を計算したつもりだった。
今日は、何を計算したのか。
俺は、それを考えないことにした。
思考を止める技術については、たぶん俺は日本でも上位である。
唐沢師長は、その紙を見て、何も言わずに受け取った。
二十時。
病室に戻ると、天愛星さんが目を開けた。
二秒くらい、天井を見ていた。
それから、首だけをこちらに向けて、こう言った。
「……なぜ、いらっしゃるんですか」
「許可を取りました」
「面会時間は、十七時までです」
「そうですね」
「私、そう申し上げました」
「聞きました」
「規則です」
「読みました」
「……何を」
「入院診療計画書と、面会に関する案内と、この病棟の療養案内」
「……全部ですか」
「附則まで」
天愛星さんの口が、開いたまま止まった。
止まって、それから、耳のふちから順番に赤くなっていった。
四月一日である。
この人は、就業規則を附則まで通読してきたと言った。
まだどこの職員でもない日に、である。
あのとき俺は、この人は変わっていないと思った。
いま、返された。
「……いま、私の真似をされましたね」
「してないです」
「しました」
「してないです」
「……卑怯です」
「はい」
「なぜ認めるんですか」
「認めたほうが早いんで」
「……最初からそのつもりですね」
「はい」
「……」
「馬剃さん」
「はい」
「いま、枕に顔を半分うずめましたね」
「うずめていません」
「うずめてます」
「……角度の問題です」
「角度が四十五度くらい変わりましたけど」
「測らないでください」
天愛星さんは、そこで一度、目を閉じた。
閉じて、また開けた。
「温水さん」
――温水さん。
業務が、終わった。
この人の呼び方は、時計より正確である。
「うん」
「明日は、お帰りください」
「明日は帰るよ。師長に言われてる」
「……今夜は」
「今夜はいる」
「……そうですか」
天愛星さんは、それきり黙った。
毛布を、あごまで引き上げた。
点滴が落ちている。
俺は、それを見ていた。
やることがないからである。
「温水さん」
「うん」
「何をしてらっしゃるんですか」
「数えてる」
「何をですか」
「滴の数。一分に、五十八滴」
「数えないでください」
「暇なんだよ」
「六月に、私の返事を秒で測っていた方の言うことですね」
「あれは職業病です」
「職業病の範囲が広すぎます」
「巾木の分まで測る人には言われたくないな」
「あれは、正確を期しました」
「同じですよ」
「同じでは、ありません」
二十二時十分に、熱が上がった。
三十八度九分。
天愛星さんが、寒いと言った。
言ったのではない。かたかた、と歯が鳴っていた。
毛布の上から見ても、肩が細かく震えているのが分かる。
俺はナースコールを押した。
押してから、押されなかった場合のことを、少しだけ考えた。
毛布が二枚、増えた。
氷枕が、換わった。
夜勤の看護師が、五分で三つのことを済ませて、次の部屋に行った。
あの速さは、たぶん、あれ以上どこも削れない速さである。
午前二時四十分。
俺は、椅子で目を開けた。
天愛星さんも、目を開けていた。
髪が、ほどけていた。
この人の髪は、四月からずっと、後ろで一つにきつくまとめてある。
高校のときからそうだった。ひっつめ、というやつである。
ほどけているのを見るのは、これが二回目だった。
一回目は、八月二十九日である。
俺は、そこから視線を外して、点滴のほうを見た。
見るものが点滴しかないというのは、今夜、わりと救いになっている。
「起きてたんですか」
「はい」
「寝てください」
「眠れません」
「熱ですか」
「……いえ」
「じゃあ何ですか」
「二時に起きているのは、十年間、そうでしたので」
俺は、何も言わなかった。
八月二十九日に、この人は二時間半、その話をした。
主語のない話し方で、全部話した。
あのとき俺は、聞くことしかしなかった。
今日も、そうすることにした。
「温水さん」
「うん」
「点滴、いま何滴ですか」
「……五十四」
「遅くなっていますね」
「そうだな」
「終わりますね、もうすぐ」
「終わるよ」
この人は、話をそらすとき、数字を使う。
俺は、それに乗った。
乗ってやれるくらいには、俺もこの人を五か月半見ている。
午前四時五十分。
窓が、少しだけ白くなっていた。
天愛星さんが、目を開けた。
熱が、下がっていた。汗をかいたのだと思う。
「温水さん」
「うん」
「何時ですか」
「四時五十分」
「……ずっと、起きてらしたんですか」
「寝てた」
「嘘です」
「……」
「あなたは、本当に隠したいときだけ、短くなります」
――返ってきた。
四月に、俺はこの人にそれを教えている。
教えたつもりはない。指摘しただけである。
この人は、それを記録して、五か月半、使えるところを待っていた。
この人は、そういう人である。
「……お茶が飲みたいです」
「先生が、水は少しずつならいいって」
俺は、机の上を指した。
ペットボトルが、二本、置いてある。
水と、スポーツドリンクである。
天愛星さんが、それを見た。
見て、しばらく、動かなかった。
「……八月二十九日と、同じ二本ですね」
「安いんですよ、それ」
「……」
「あと、この階の自販機、二台あって。二十円違ったんで、遠いほうで買いました」
天愛星さんの目が、二回、まばたきをした。
ふ、と目のふちが光った。
それから、涙が落ちた。
声はなかった。
顔もゆがまなかった。
ただ、目から出たものが、こめかみを通って、枕に入っていった。
俺は、どうしていいか分からなかった。
心臓が、ばくばく鳴っていた。
泣いているのは向こうなのに、うるさいのはこっちである。
こういうときの手順を、俺は一度も習っていない。
机の上のティッシュの箱を取って、渡した。
できたのは、それだけである。
「……申し訳ありません」
「謝るところじゃないです」
「私は、また、助けられました」
「……」
「六月も。八月も。九月も」
天愛星さんは、天井を見たまま言った。
「……十六年前も」
俺は、返す言葉を探した。
探して、見つからなかった。
「私は、貸し借りを数えます」
「知ってます」
「四月から、数えています」
「……」
「返せていません。一つも」
――違う。
俺は、そう思った。
思ったが、それを言葉にすると、たぶん説教になる。
この人に足りていないのは、説得ではない。
「あのですね」
「はい」
「俺、四年間、この病院にいたんですけど」
「はい」
「一回も、誰かに付き添ったことないんですよ」
天愛星さんが、こちらを見た。
「今日が、初めてです」
その一言で、涙の量が変わった。
変わったことに、俺は責任が取れない。
俺は、二枚目のティッシュを渡した。
外で、台車の音がした。
配膳の準備が始まる時間である。
天愛星さんが、鼻をかんだ。
思ったより、大きい音がした。
「……いま、見ましたね」
「見てないです」
「見ました」
「見てないです」
「私が、その、泣いたところを」
「点滴を見てました」
「一分間五十八滴の話は、もう結構です」
「五十二です、いまは」
「訂正しないでくださいっ!」
「はい」
「あなたは、いつも、そうです」
「はい」
「一言、余計です」
「はい」
「……返事だけ、いいんですから」
「はい」
「そこですっ!」
「記録も、しないでください」
「してないです」
「……本当ですか」
「してないです」
「手帳は」
「持ってきてないです」
「メモ帳は」
「ないです」
「頭の中は」
「そこまで没収されるんですか」
「没収します」
「根拠は」
「……ありません」
「珍しいな」
「根拠がないことも、たまにはあります」
「メモしていいですか」
「駄目です」
本当である。
俺は、今夜、一行も書いていない。
書けなかった、と言うほうが正しい。
「……そういうところですよ」
「なにが」
「いつもそうやって、はぐらかして」
「はぐらかしてないです」
「はぐらかしています。私の話を、まともに聞いてくださいませんっ」
「聞いてますけど」
「聞いていません」
「聞いてます」
「……聞いていて、ください」
「聞いてる」
声が、途中で小さくなった。
この人は、怒っている途中で本音が漏れると、そこで音量を落とす。
十六年前からそうだった。
生徒会室でも、こういう怒られ方をした記憶がある。
「温水さん」
「うん」
「あなたは、本日、就業時間外に、無給で、規則の例外規定を使って、ここにおられます」
「はい」
「それは、労働ではありません」
「労働じゃないです」
「では、何ですか」
「……趣味です」
「最低です」
「はい」
「……最低です」
「二回言いましたね」
「二回言うと、本当になります」
「三回じゃなかったですか」
「……上限を、引き下げました」
「勝手に改正しないでください」
「出典は」
「私です、でしょ」
「……先に言わないでください」
「じゃあ、なんて言えばよかったんですか」
「……『出典は』まで言って、待ってください」
「間の取り方まで指定される?」
「様式です」
「様式にしないでください」
天愛星さんが、毛布を鼻まで引き上げた。
引き上げて、そこから動かなくなった。
俺は、窓の外を見た。
白かった空の底に、じわ、と薄い色がにじみはじめていた。
朝が来るというのは、こんなに静かな出来事だったろうか。
九時間くらい、俺は椅子の上でそれを待っていたことになる。
二日目は、面会時間内だけにした。
十六時に上がって、十七時の十五分前に病室に着いた。
鷲尾課長が、果物を持ってきていた。
大貫は、ゼリーを八個持ってきていた。
「なんでゼリーなんだ」
「入院と言えばゼリーでしょう」
「この人、三日間それで生きてたんだよ」
「えっ、じゃあ大好物じゃないですか」
「逆だ」
「逆なんですか!」
「大貫君」
天愛星さんが、ベッドから言った。
「はい」
「ありがたくいただきます」
「ほら見ろ!」
「ただし、一日一個までにします」
「八日かかりますよ!」
「計画的に消費します」
「入院、明日までですよ!」
「では、七個は持ち帰ります」
「計画が崩壊してますよ!」
「計画は、環境の変化に応じて改定されるものです」
「いま改定しました!?」
「改定しました」
「ゼリーで行政やらないでくださいよ!」
鷲尾課長が、横で肩を震わせていた。
この人が笑っているのを見たのは、五年でたぶん三回目である。
鷲尾課長が、廊下で俺に言った。
「温水君」
「はい」
「あなた、去年の年休、何日残った?」
「……十八日です」
「今年は」
「……二十日です」
「四月から半年で、一日も使ってないってことよね」
「そうですね」
「明日、使いなさい」
「明日は」
「退院日でしょ。分かってるのよ」
九月十九日、金曜日、十時。
会計の窓口で、俺は限度額適用認定証の話をした。
天愛星さんは、その説明を全部メモした。
「なんで書くの」
「知らない制度でしたので」
「使うことないほうがいいんだけどね」
「制度は、使う予定がなくても、知っておくものです」
「それ、正しいんだよなあ」
「正しいです」
「正しいから、腹が立つんだよ」
「褒めていますか」
「褒めてない」
「……そうですか」
天愛星さんが、スリッパの先で、床に小さく円を描いた。
円ではない。
途中で一度、内側に折れる。
――「の」の字である。
この人は、照れると、足でこれを描く。
十六年前、生徒会室の前の廊下で、俺は何度もこれを見ている。
当時は、床の汚れでも気にしているのかと思っていた。
本人は、たぶん、いまも気づいていない。
「馬剃さん」
「はい」
「足」
「……足が、なんですか」
「いや」
「なんですかっ」
「なんでもない」
「気になりますっ!」
「なんでもないんだよ」
俺は、精算機のボタンを押した。
言わないでおくことにした。
言ったら、この人は、たぶん明日から足を固定してくる。
帰りの車で、天愛星さんは助手席に座った。
今度は、背中がシートについていた。
三日ぶりに、ちゃんと座っている人の座り方だった。
「温水さん」
「うん」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「続柄の欄は、選択肢がありましたか」
俺のハンドルを持つ手が、たぶん、少し動いた。
「……ありました」
「なんと」
「家族、親族、その他」
「あなたは、その他に丸をされて、括弧の中に『知人』と書かれました」
「……見たんだ」
「見ました」
俺は、前を見ていた。
前を見るしかなかった。
「……なんて書けばよかったのかな」
天愛星さんは、答えなかった。
窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「……二十秒も、迷わないでください」
――二十秒。
あの紙を書いたのは、ナースステーションのカウンターである。
病室ではない。
病室から、廊下の向こうのカウンターまでは、ドアが一枚ある。
「……起きてたんだ」
「…………」
「馬剃さん」
「…………」
寝たふりが下手な人である。
十六年前から、そうだった。
信号が、赤になった。
俺は、青になるまで、何も言わなかった。
二十秒くらい、何も言わなかった。