大学職員の僕たち   作:房吉

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~14敗目~ 面会時間は十七時までです

 (九月十七日/温水視点)

 

「温水さん、事件です」

 

 九月十七日、水曜日、十四時四十分。

 

 大貫が、椅子ごと滑ってきた。

 

「馬剃さんが、飴を断りました」

 

「は?」

 

「桑原主査が、いつものやつを配ったんですよ。りんご味の」

 

「うん」

 

「馬剃さん、『恐れ入ります』って言って、机に置いたんです」

 

「置いた?」

 

「置きました。舐めてないです」

 

「舐めてないって、どうやって確認したんだ」

 

「包み紙が、そのままなんですよ」

 

「お前、遠くから包み紙の状態を見てるのか」

 

「見ますよ。飴は体調のバロメーターなんで」

 

「初めて聞く医学だな」

 

「大貫医学です」

 

「学会に出すな」

 

 俺は、隣の席を見た。

 

 天愛星さんは、画面に向かっていた。

 右手にマウス、左手に電卓。姿勢はいつもどおり、定規で引いたようにまっすぐである。

 

 机の端に、りんご味の飴が一つ、置いてある。

 

 ――置いてある。

 

 胸の奥が、ひやりとした。

 

「大貫」

 

「はい」

 

「お前、よく見てるな」

 

「俺、飴の在庫管理してるんで」

 

「そんな業務ないだろ」

 

「あるんですよ。誰が何個持っていったか、全部覚えてます」

 

「その調査力を、もっとまともな方向に使えないのか」

 

「使ってますよ。裏門のハカセ、今日、東門にいました」

 

「猫の話じゃないんだよ」

 

 そこへ、桑原主査が通りかかった。

 

 ふせんを一枚、俺の机に置いていく。

 

 『不備照会の様式、旧版が回覧に残っています』

 

 十九文字である。

 この人は、口で言うと七文字、紙に書くと十九文字になる。理由は俺にも分からない。

 

「桑原さん」

 

「なに」

 

「馬剃さん、今日どうですか」

 

「白い」

 

 

 

 

 ――三文字。

 

 

 

 

「それだけですか」

 

「うん」

 

「もう少しないですか」

 

「昨日も白い」

 

「五文字になりましたね」

 

「増やした」

 

 桑原主査は、それだけ言って行ってしまった。

 

 この人の情報量は、字数と反比例する。

 

 

 

 

 総合型選抜の出願受付が、二日前に始まっている。

 

 九月十五日から十月十四日まで。

 うちの大学は、この一か月で、去年は四百三十件を受けた。

 

 書類の不備は、二割から三割出る。

 志望理由書の様式が古い、調査書が入っていない、写真がプリクラのような何かになっている。

 

 それを一件ずつ電話して直してもらう。

 直してもらったものを、また確認する。

 

 九月の入試広報課は、要するに、そういう部屋である。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

 返事が、来た。

 

 俺は、その返事までの時間を数えた。

 

 二秒。

 

 ――二秒である。

 

 この人の平均は、〇・五秒から一秒だ。

 自分でそう設計していると、六月に本人が言っていた。一秒を超えると相手が不安になるからだそうである。

 

 その基準からすると、二秒は「未達」だ。

 

 今日、四回目である。

 

「不備の一覧の様式ですが、昨年度分は書式が二種類あります」

 

「ああ、途中で変えたんですよ。八月に」

 

「では、統合してもよろしいでしょうか」

 

「いいですよ」

 

「承知しました」

 

 天愛星さんが、手帳を開いた。

 

 俺は、そこで一度、手を止めた。

 

 字が、傾いている。

 

 この人の字は、罫線に対して垂直である。十六年前からそうだ。生徒会室で申請書に不備を書きこむとき、定規みたいな字を書いていた。

 

 いまの一行は、右に流れている。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日、何時に来ました」

 

「七時二十分です」

 

「昨日は」

 

「七時十五分です」

 

「一昨日は」

 

「……七時ちょうどです」

 

「毎日、早くなってません?」

 

「気のせいです」

 

 即答だった。

 

 この即答は、〇・五秒だった。

 

 ――速い。

 

 ちり、と首の後ろが焦げるような感じがした。

 

 この人は、速すぎるときも、遅すぎるときも、だいたい何か隠している。

 

「昼、食べました」

 

「はい」

 

「何を」

 

「……」

 

 

 

 

 沈黙が、三秒あった。

 

 

 

 

「ゼリーです」

 

「ゼリー」

 

「栄養補助の」

 

「それ、食事じゃないです」

 

「栄養素は充足しています」

 

「充足の話をしてないんですよ」

 

「では、何の話ですか」

 

「量の話です」

 

「量は、記載されています」

 

「記載を食べても腹は膨れないんだよなあ」

 

 天愛星さんが、少し黙った。

 

 黙って、それから、飴の袋を取った。

 

 取って、開けて、口に入れた。

 

「食べました」

 

「飴だぞ、それ」

 

「摂取しました」

 

「報告の形にすれば通ると思ってる」

 

「通りませんか」

 

「通らないです」

 

 

 

 

 十五時二十分。

 

 天愛星さんが、立ち上がった。

 

 複合機のほうへ、二歩、歩いた。

 

 三歩目がなかった。

 

 

 

 

 音が、二つした。

 

 一つ目は、書類が落ちる音である。

 二つ目は、そうではなかった。

 

 

 

 

 どくん、と心臓が一回、大きく鳴った。

 

 俺は、椅子を蹴って立っていた。

 

 立ったことを、あとから知った。

 身体のほうが先に動いていて、頭はまだ、書きかけのメールの続きを考えていた。

 

「馬剃さん」

 

 床に、膝から落ちていた。

 

 完全に倒れきってはいない。右手が床についている。

 目は開いている。開いているが、焦点がこちらに合っていない。

 

「馬剃さん、聞こえますか」

 

「……はい」

 

 返事があった。

 

 ――ある。

 

 俺は、そこでいったん、息を吐いた。

 

「そのまま座って。立たないで」

 

「申し訳、ありません」

 

「謝らなくていいから、そのまま」

 

 俺は、彼女の腕を取って、床に横向きに寝かせた。

 

 膝の下に、自分の上着を丸めて入れた。

 足を少し高くする。それだけで、戻ることがある。

 

「大貫、血圧計」

 

「え」

 

「救急箱の中にある。庶務課の壁の、上から二段目」

 

「あっ、はい!」

 

「あと、鷲尾課長呼んで」

 

「はい!」

 

 大貫が走っていった。

 

 

 

 

 俺は、医療者ではない。

 

 ただ、四年間、医療者のとなりで書類を書いていた。

 

 用度管財課で三年、医事課で一年。

 病棟にも外来にも、備品の納品と伝票の回収で、毎日入っていた。

 

 院内で人が倒れる場面を、俺は三回見ている。

 三回とも、俺は何もしていない。ただ、そこにいた看護師が何をしたかを、覚えている。

 

 声をかける。返事があるか。

 脈を見る。呼吸を見る。顔色を見る。

 吐いていないか。頭を打っていないか。

 

 それだけで、次にやることが決まる。

 

「馬剃さん、頭、ぶつけました?」

 

「……ぶつけていません」

 

「気持ち悪いですか」

 

「少し」

 

「いつからですか」

 

「……三日前です」

 

 

 

 

 ――三日前。

 

 

 

 

 ずん、と腹の底が重くなった。

 

「熱、あります?」

 

「測っていません」

 

「朝、測ってないんですか」

 

「……体温計が、ありません」

 

 九月七日に、俺はこの人の部屋を片付けている。

 

 ゴミ袋を四十七枚使って、五時間かけて、床を出した。

 

 床は出た。

 体温計は、なかった。

 

 俺はそこまで見ていなかった。

 

 

 

 

「血圧、持ってきました!」

 

 大貫が戻ってきた。

 

 巻いて、測った。

 

 上が八十二。下が五十。

 

 脈が、速い。

 

「大貫、体温計は」

 

「入ってなかったです!」

 

「庶務の引き出しの、いちばん下」

 

「なんで知ってるんですか!」

 

「去年、俺が入れたんだよ」

 

「なんで救急箱に入れないんですか!」

 

「入れた。誰かが持ってった」

 

「この職場、怖すぎません!?」

 

「毎年一本消えるんだよ、体温計」

 

「そっちのほうが事件じゃないですか!」

 

 

 

 

 三十八度二分だった。

 

 

 

 

「温水君」

 

 鷲尾課長が来た。

 

 しゃがんで、天愛星さんの顔を見て、それから俺を見た。

 

「救急車?」

 

「呼ばないです」

 

「なんで!」

 

 大貫が叫んだ。

 

「意識あるし、自分で座れるし、呼吸も脈も保ってる。この状態で救急車を呼ぶと、搬送先はこっちで選べないんですよ」

 

「選べないと駄目なんですか」

 

「駄目じゃない。ただ、三十分かけて知らない病院に運ばれるより、二十分でうちの附属に入れたほうが早い」

 

 俺は立ち上がった。

 

「課長、公用車、借ります」

 

「持ってって」

 

 鷲尾課長は、それだけ言って、鍵を投げた。

 

 この人は、こういうときに理由を聞かない。

 

「……車両管理規程」

 

 床から、声がした。

 

「はい」

 

「第八条です。公用車の使用は、あらかじめ、庶務課長の承認を……」

 

「第十一条」

 

 俺は言った。

 

「緊急の場合は、この限りでない。事後に届け出ればよい」

 

 

 

 

 天愛星さんが、目を開けた。

 

 

 

 

「……なぜ、覚えてらっしゃるんですか」

 

「用度にいたんで」

 

「……」

 

「あと、規程を読むのが趣味の人が、隣にいるんで」

 

「……趣味では、ありません」

 

「じゃあ何なんですか」

 

「……業務です」

 

「いま、業務じゃないですよ」

 

 天愛星さんは、それには答えなかった。

 

 

 

 

 構内から都道に出て、十九分。

 

 助手席で、天愛星さんはずっと背筋を伸ばして座っていた。

 

 倒れた人間の座り方ではない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「もたれていいですよ」

 

「結構です」

 

「その姿勢、しんどくないですか」

 

「しんどくありません」

 

「嘘だな」

 

「……嘘です」

 

 背中が、こつん、と二センチだけシートに触れた。

 

 二センチである。

 その二センチぶん、俺の肩から力が抜けた。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「本日の残件を、申し上げます」

 

「いま言うことじゃない」

 

「引き継ぎです」

 

「引き継ぎは明日でいいです」

 

「明日、私は」

 

「明日のことは、明日の俺が困ります」

 

「……無責任です」

 

「無責任なんですよ、俺」

 

「不備の照会が、七件残っています」

 

「聞いてないです」

 

「うち三件は、締切が明日です」

 

「聞いてないです」

 

「二件は、電話が通じません」

 

「……それは俺がやります」

 

「聞いていただけましたね」

 

「……この人は」

 

 天愛星さんが、少しだけ笑った。

 

 笑って、それから、窓のほうを向いた。

 

 信号で止まったとき、ガラスに映った顔が、白かった。

 

 

 

 

 救急外来の入口に着いたのは、十六時三分だった。

 

 俺は車を職員用の一時停車帯に入れて、受付に行った。

 

 中は、混んでいた。

 

 長椅子に、七人。

 奥の処置室から、モニターの音がしている。

 

 救急外来というのは、来た順に診る場所ではない。

 

 救急車で運ばれてきた人が先である。

 そのあとに、重い人から順に呼ばれる。歩いて来た患者は、一時間待ちがざらだ。

 

 俺はそれを、四年かけて理解した。

 当時は、待たされた患者さんの苦情が、全部うちの課に回ってきていた。

 

 「なぜ後から来た人が先に呼ばれるのか」というやつである。

 

 あれに、正しい答えはない。

 正しい答えはないが、順番の理由を先に伝えておくと、苦情は半分になる。俺が四年で覚えたのは、そういう種類のことだけだ。

 

「温水主任」

 

 車椅子から、声がした。

 

「はい」

 

「この病院は、紹介状のない初診の場合、選定療養費がかかりますね」

 

「かかります」

 

「金額は」

 

「七千七百円です」

 

「……即答ですね」

 

「それを決める会議に、四年出てました」

 

「本日は、救急外来ですが」

 

「救急は、対象外です」

 

「根拠は」

 

「厚労省の通知です」

 

「番号は」

 

「そこまで覚えてるわけないでしょ」

 

「……惜しいです」

 

「惜しくないです」

 

「あと一段でした」

 

「その一段、要ります?」

 

「要ります」

 

「熱、三十八度ありますよね」

 

「三十八度二分です」

 

「よく喋りますね、三十八度二分」

 

「……喋っていないと、意識が飛びますので」

 

 

 

 

 俺は、そこで、口を閉じた。

 

 

 

 

 この人は、いま、必死に喋っていたのである。

 

 俺はそれを、二分間、掛け合いだと思って返していた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「喋っててください。俺、聞いてるんで」

 

「……はい」

 

「番号、あとで調べます」

 

「……お願いします」

 

 

 

 

「温水君?」

 

 カウンターの奥から、声がした。

 

 

 

 

 白衣ではなく、紺のスクラブを着た人が、こちらを見ていた。

 

 唐沢師長である。

 救急外来の看護師長で、たしか、今年で五十六歳になる。

 

「うそでしょ。何年ぶり」

 

「八年です」

 

「即答じゃない」

 

「数えてたんで」

 

「あなた、うちの吸引器の見積もり、三回突き返した人よね」

 

「四回です」

 

「四回!」

 

「四回目で通しました」

 

「あのときの私、あなたのこと相当嫌いだったわよ」

 

「知ってます。三回目のとき、目を見て言われました」

 

「なんて言ったっけ」

 

「『あなた、患者さんの喉のこと考えたことある?』です」

 

「言ったわ」

 

「一言一句、覚えてます」

 

「怖い子ねえ」

 

「怒られ方に癖のある人は、覚えやすいんですよ」

 

「褒めてないでしょ、それ」

 

「褒めてないです」

 

 唐沢師長が、笑った。

 

 笑って、そのあと、すぐ真顔になった。

 

「で、今日は何」

 

 

 

 

 俺は、そこから、事実だけを並べた。

 

「三十四歳、女性。うちの職員です。十五時二十分に事務室で意識消失。数秒です。頭部打撲なし。側臥位で二分ほどで回復」

 

「うん」

 

「十五時二十五分の血圧、八十二の五十。脈拍百八。体温三十八度二分」

 

「うん」

 

「悪心が三日前から。食事は、この三日、ゼリーと飴です。水分は、本人の申告で一日五百ミリ以下」

 

「……」

 

「最終排尿は、本人の記憶で今朝。量は少なかったと」

 

「既往は」

 

「本人が答えます」

 

 

 

 

 唐沢師長が、俺の顔を見た。

 

 

 

 

「あなた、それ、看護記録の様式で喋ってるでしょ」

 

「医事課にいたんで」

 

「一年でしょ」

 

「一年です」

 

「一年でそれ覚えるの、性格が悪いのよ」

 

「よく言われます」

 

 唐沢師長は、ペンを回して、カウンターの奥に消えた。

 

 三十秒で戻ってきた。

 

「先に採血だけ回す。診察は順番だけど、結果が出てるほうが早いから」

 

「ありがとうございます」

 

「勘違いしないでね」

 

 師長は、車椅子を引っ張ってきながら言った。

 

「あなたが持ってきた情報が、正確だっただけ。あれだけ揃ってたら、こっちも判断が早いのよ」

 

「はい」

 

「……あと、少しだけ、私の裁量」

 

 

 

 

 ――割りこませたわけではない。

 

 俺は、自分にそう言った。

 

 言って、そのあと五秒くらい、それを検算した。

 

 検算の結果は、たぶん、九割そのとおりで、一割そうではない。

 

 俺はその一割を、荷物みたいに持ったまま、車椅子を押した。

 

 

 

 

 当直医は、三十代の男性だった。

 

 早口で、余計なことを言わない人である。

 

「採血、出ました。脱水と、あと貧血ですね。ヘモグロビンが八台です」

 

「八台」

 

「基準の下限が十二なんで、だいぶ下です。鉄が足りてない。長期です」

 

 医師は画面をスクロールした。

 

「炎症の値も上がってる。熱の原因は、たぶん腸炎です。エコーで壁が厚くなってるところがあります」

 

「はい」

 

「点滴して、明日もう一回採血します。数字が動かなければ、明後日退院で」

 

「……二泊、ですか」

 

「二泊です」

 

 

 

 

 医師が、はじめて、患者のほうを向いた。

 

「馬剃さん、鼻血って出ます?」

 

 

 

 

 天愛星さんが、固まった。

 

 

 

 

「……は」

 

「貧血だと出やすくなる人がいるんですよ。逆に、頻繁に出る人が貧血になることもある」

 

「……年に、数回です」

 

「原因、心当たりあります?」

 

「……ありません」

 

 

 

 

 ――ある。

 

 

 

 

 俺は、視線を壁のポスターに移した。

 

 『手洗いは三十秒』と書いてある。

 

 三十秒である。長いな、と思った。

 思うことで、いま思い出しかけた八月十六日の東ホールの光景を、無事に押し戻した。

 

 思考を止める技術については、たぶん俺は日本でも上位である。

 

「まあ、この数字なら、鉄のほうが原因ですね」

 

「そうですか」

 

「よかったですね」

 

「……はい」

 

 この人は、いま、たぶん、人生で一番安心した「はい」を言った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「最近、ちゃんと食べてました?」

 

 

 

 

 天愛星さんは、答えなかった。

 

 

 

 

 俺も、答えられなかった。

 

 俺が知っているのは、あの部屋の冷蔵庫だけである。

 

「まあ、数字が答えてますね」

 

 医師はそう言って、キーボードを叩いた。

 

「三日じゃこの数字にならないんで。半年から一年です」

 

 

 

 

 半年から一年。

 

 

 

 

 喉の奥が、ひゅっと細くなった。

 

 俺は、四月一日から今日までを、頭の中で数えた。

 

 百七十日である。

 

 百七十日、俺はこの人のとなりに座っていた。

 

 三十センチの距離で、毎日である。

 

 

 

 

「入院に必要なものの一覧は、規程で定められていますか」

 

 病棟に上がって、最初に天愛星さんが言ったのが、それだった。

 

 点滴が入って、少し血の気が戻っている。

 

 戻ったぶんが、全部そっちに行ったらしい。

 

「案内文です」

 

「規程ではないのですね」

 

「ないです」

 

「では、拘束力は」

 

「ないですけど、パジャマがないと寝られないですよ」

 

「……」

 

「これ、レンタルあります。日額三百三十円です」

 

「なぜ、料金までご存じなんですか」

 

「医事課です」

 

「一年ですよね」

 

「一年です」

 

「……あなた、性格が悪いと言われませんか」

 

「一時間前に言われました」

 

「どなたにですか」

 

「唐沢師長です」

 

「一時間で二人から言われる方は、たぶん、本当にそうです」

 

「三人目にならないでください」

 

「三人目です」

 

「早いな」

 

「事実は変わりません」

 

「点滴入ったら喋る量が二倍になりましたね」

 

「補液の効果です」

 

「効きすぎだろ」

 

 

 

 

 問題は、そのあとだった。

 

 案内文の三行目に、こう書いてある。

 

 『下着、タオル、洗面用具は各自でご用意ください』

 

 俺は、その行を、二回読んだ。

 

 

 

 

 ――いや。

 

 

 

 

 ぶわ、と首の裏が熱くなった。

 

 これは、俺の担当ではない。

 

 ここで「じゃあ買ってきます」と言う男が主人公をやっている話を、俺は何本か読んだことがある。

 

 あの手の場面では、たいていヒロインが「べ、別に何でもいいですから!」と叫び、主人公が真っ赤になって走っていく。

 

 俺の場合、どう考えても先に走っていくのはこちらだし、走っていく先が売店の日用品コーナーなのが、救いようがない。

 

 同僚のそれを、サイズから、選ぶ。

 

 絵面として、完全に事案である。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「案内文の三行目を、読まれましたね」

 

「読んでないです」

 

「二回読まれました」

 

「見てたんですか」

 

「見ていました」

 

「……」

 

「あの」

 

「はい」

 

「へ、変な気を、起こさないでくださいっ!」

 

「起こしてないです」

 

「いま、三行目で二秒止まりました」

 

「止まってないです」

 

「止まりましたっ! 私、数えていましたっ!」

 

「点滴中に、何を数えてるんですか」

 

「秒ですっ!」

 

「そこじゃない」

 

「だいたい、あなたはいつもそうですっ。人が言いにくいところを、わざわざ二回読むんですっ!」

 

 毛布の下で、足が、ばたばた、と二回動いた。

 三十八度二分の動き方ではない。

 

 天愛星さんの耳が、赤かった。

 

 赤くて、そのあと、首のほうまで下りてきた。

 

 熱のせいかもしれない。熱のせいだということにした。

 

 ……三十八度二分で、この人はいま、俺を警戒している。

 

 警戒される側の心当たりが一ミリもないかというと、そこは、あまり大きな声で否定しないでおきたい。

 

「唐沢さん」

 

 俺は、廊下に顔を出した。

 

「これ、お願いできますか」

 

「……あなた、そういうところは、昔から逃げるわね」

 

「はい」

 

「素直ね」

 

「はい」

 

 唐沢師長は、案内文を受け取って、ため息をついた。

 

「いいわよ。売店の場所、教えてあげる。行くのは私じゃないけど」

 

「え」

 

「病棟の助手さんに頼むの。そういう仕組みがあるのよ」

 

「あるんだ」

 

「あなた、四年いて知らなかったの」

 

「知らなかったです」

 

「知らないことのほうが多いのよ、この病院は」

 

「四年いて何やってたんだ、俺」

 

「見積もり突き返してたでしょ」

 

「……そうでした」

 

 

 

 

 唐沢師長は、問診票を持ってきて、ベッドの脇に立った。

 

「常用薬、ありますか」

 

「あります」

 

「なんですか」

 

 

 

 

「……黄連解毒湯です」

 

 

 

 

「漢方ね。なんのために飲んでるの」

 

「……」

 

「馬剃さん?」

 

「……体質の、調整です」

 

「調整」

 

「はい」

 

 俺は、天井を見た。

 

 十六年前、この人がその漢方を飲みはじめた理由を、俺は知っている。

 

 知っているが、いま言う場面ではない。

 というか、たぶん、一生言う場面ではない。

 

「温水君、なんの薬か知ってる?」

 

「知らないです」

 

「即答ね」

 

「知らないです」

 

「二回言ったわね」

 

「二回言うと本当になるらしいんで」

 

「誰が言ったの、それ」

 

「そこのベッドの人です」

 

「言っていませんっ!」

 

 

 

 

 ――早い。

 

 

 

 

 この人は、図星のときだけ、返事に「っ」がつく。

 

 〇・二秒である。

 いつもの即答より、さらに速い。

 

「馬剃さん、熱あるんだから、大声出さないの」

 

「……申し訳ありません」

 

「あと、その漢方は続けていいわよ。うちの薬剤師に確認しとくから」

 

「……恐れ入ります」

 

 

 

 

 十七時ちょうどに、放送が鳴った。

 

 『面会時間終了のお知らせです。ご面会の方は、ご退出をお願いいたします』

 

 天愛星さんが、俺のほうを見た。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「面会時間は、十七時までです」

 

「そうですね」

 

「規則です」

 

「はい」

 

「では」

 

「……はい」

 

 俺は立ち上がった。

 

 立ち上がって、鞄を持って、扉のところまで行った。

 

 行って、そこで、一度だけ振り返った。

 

 

 

 

 この人は、ナースコールを押さない。

 

 根拠はない。

 

 根拠はないが、俺は五か月半、この人がどういうときに何を言わないかを、毎日見ている。

 

 

 

 

 廊下に出たところで、唐沢師長に呼び止められた。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「あの子、夜、ナースコール押さないタイプでしょ」

 

「……押さないです」

 

「そう見えたのよ」

 

 師長は、ナースステーションの壁を指した。

 

 夜勤の名前が、二つしか書かれていない。

 

「うち、夜勤二人で三十床見てるの」

 

「はい」

 

「あの子、熱が上がるわよ。今夜」

 

「……はい」

 

「点滴も入ってる。トイレに行くとき、一人で立つ人でしょ」

 

「立ちます」

 

「押さずに立って、倒れるの。いちばん困るパターン」

 

 師長は、一枚の紙を出した。

 

 『付き添い許可願』と書いてあった。

 

「原則、認めてないの。でも、療養上必要と師長が認めた場合は、この限りでない」

 

 

 

 

 ――この限りでない。

 

 

 

 

 俺は、今日、二回目のそれを聞いた。

 

「建前を言うわよ。夜間の見守りと、療養上の世話の補助。うちの負担軽減。これ、嘘じゃないから」

 

「はい」

 

「一晩だけね。明日の夜は帰りなさい」

 

「はい」

 

「書いて」

 

 俺は、その紙を、ナースステーションのカウンターで書いた。

 

 氏名。連絡先。ここまでは十秒で終わった。

 

 

 

 

 続柄の欄が、あった。

 

 

 

 

 選択肢が三つ、印刷されている。

 

 『家族』『親族』『その他(   )』

 

 

 

 

 俺のペンが、止まった。

 

 

 

 

 ペン先が紙に触れたまま、インクが一滴、じわりとふくらんだ。

 

 止まってから、動くまでに、二十秒かかった。

 

 

 

 

 俺は『その他』に丸をつけて、括弧の中に、こう書いた。

 

 『知人』

 

 

 

 

 四月一日に、俺は同じことを言っている。

 

 三百二十人いましたから、と。

 

 あのときは、この人の三年後を計算したつもりだった。

 

 今日は、何を計算したのか。

 

 俺は、それを考えないことにした。

 思考を止める技術については、たぶん俺は日本でも上位である。

 

 唐沢師長は、その紙を見て、何も言わずに受け取った。

 

 

 

 

 二十時。

 

 病室に戻ると、天愛星さんが目を開けた。

 

 二秒くらい、天井を見ていた。

 

 それから、首だけをこちらに向けて、こう言った。

 

「……なぜ、いらっしゃるんですか」

 

「許可を取りました」

 

「面会時間は、十七時までです」

 

「そうですね」

 

「私、そう申し上げました」

 

「聞きました」

 

「規則です」

 

「読みました」

 

「……何を」

 

「入院診療計画書と、面会に関する案内と、この病棟の療養案内」

 

「……全部ですか」

 

「附則まで」

 

 

 

 

 天愛星さんの口が、開いたまま止まった。

 

 止まって、それから、耳のふちから順番に赤くなっていった。

 

 

 

 

 四月一日である。

 

 この人は、就業規則を附則まで通読してきたと言った。

 まだどこの職員でもない日に、である。

 

 あのとき俺は、この人は変わっていないと思った。

 

 いま、返された。

 

「……いま、私の真似をされましたね」

 

「してないです」

 

「しました」

 

「してないです」

 

「……卑怯です」

 

「はい」

 

「なぜ認めるんですか」

 

「認めたほうが早いんで」

 

「……最初からそのつもりですね」

 

「はい」

 

「……」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いま、枕に顔を半分うずめましたね」

 

「うずめていません」

 

「うずめてます」

 

「……角度の問題です」

 

「角度が四十五度くらい変わりましたけど」

 

「測らないでください」

 

 天愛星さんは、そこで一度、目を閉じた。

 

 閉じて、また開けた。

 

「温水さん」

 

 

 

 

 ――温水さん。

 

 

 

 

 業務が、終わった。

 

 この人の呼び方は、時計より正確である。

 

「うん」

 

「明日は、お帰りください」

 

「明日は帰るよ。師長に言われてる」

 

「……今夜は」

 

「今夜はいる」

 

「……そうですか」

 

 天愛星さんは、それきり黙った。

 

 毛布を、あごまで引き上げた。

 

 

 

 

 点滴が落ちている。

 

 俺は、それを見ていた。

 

 やることがないからである。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「何をしてらっしゃるんですか」

 

「数えてる」

 

「何をですか」

 

「滴の数。一分に、五十八滴」

 

「数えないでください」

 

「暇なんだよ」

 

「六月に、私の返事を秒で測っていた方の言うことですね」

 

「あれは職業病です」

 

「職業病の範囲が広すぎます」

 

「巾木の分まで測る人には言われたくないな」

 

「あれは、正確を期しました」

 

「同じですよ」

 

「同じでは、ありません」

 

 

 

 

 二十二時十分に、熱が上がった。

 

 三十八度九分。

 

 天愛星さんが、寒いと言った。

 

 言ったのではない。かたかた、と歯が鳴っていた。

 

 毛布の上から見ても、肩が細かく震えているのが分かる。

 

 俺はナースコールを押した。

 

 押してから、押されなかった場合のことを、少しだけ考えた。

 

 

 

 

 毛布が二枚、増えた。

 

 氷枕が、換わった。

 

 夜勤の看護師が、五分で三つのことを済ませて、次の部屋に行った。

 

 あの速さは、たぶん、あれ以上どこも削れない速さである。

 

 

 

 

 午前二時四十分。

 

 俺は、椅子で目を開けた。

 

 天愛星さんも、目を開けていた。

 

 髪が、ほどけていた。

 

 この人の髪は、四月からずっと、後ろで一つにきつくまとめてある。

 高校のときからそうだった。ひっつめ、というやつである。

 

 ほどけているのを見るのは、これが二回目だった。

 

 一回目は、八月二十九日である。

 

 俺は、そこから視線を外して、点滴のほうを見た。

 見るものが点滴しかないというのは、今夜、わりと救いになっている。

 

「起きてたんですか」

 

「はい」

 

「寝てください」

 

「眠れません」

 

「熱ですか」

 

「……いえ」

 

「じゃあ何ですか」

 

 

 

 

「二時に起きているのは、十年間、そうでしたので」

 

 

 

 

 俺は、何も言わなかった。

 

 八月二十九日に、この人は二時間半、その話をした。

 主語のない話し方で、全部話した。

 

 あのとき俺は、聞くことしかしなかった。

 

 今日も、そうすることにした。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「点滴、いま何滴ですか」

 

「……五十四」

 

「遅くなっていますね」

 

「そうだな」

 

「終わりますね、もうすぐ」

 

「終わるよ」

 

 

 

 

 この人は、話をそらすとき、数字を使う。

 

 俺は、それに乗った。

 

 乗ってやれるくらいには、俺もこの人を五か月半見ている。

 

 

 

 

 午前四時五十分。

 

 窓が、少しだけ白くなっていた。

 

 天愛星さんが、目を開けた。

 

 熱が、下がっていた。汗をかいたのだと思う。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「何時ですか」

 

「四時五十分」

 

「……ずっと、起きてらしたんですか」

 

「寝てた」

 

「嘘です」

 

「……」

 

「あなたは、本当に隠したいときだけ、短くなります」

 

 

 

 

 ――返ってきた。

 

 

 

 

 四月に、俺はこの人にそれを教えている。

 

 教えたつもりはない。指摘しただけである。

 

 この人は、それを記録して、五か月半、使えるところを待っていた。

 

 この人は、そういう人である。

 

「……お茶が飲みたいです」

 

「先生が、水は少しずつならいいって」

 

 俺は、机の上を指した。

 

 

 

 

 ペットボトルが、二本、置いてある。

 

 水と、スポーツドリンクである。

 

 

 

 

 天愛星さんが、それを見た。

 

 見て、しばらく、動かなかった。

 

 

 

 

「……八月二十九日と、同じ二本ですね」

 

 

 

 

「安いんですよ、それ」

 

「……」

 

「あと、この階の自販機、二台あって。二十円違ったんで、遠いほうで買いました」

 

 

 

 

 天愛星さんの目が、二回、まばたきをした。

 

 

 

 

 ふ、と目のふちが光った。

 

 それから、涙が落ちた。

 

 

 

 

 声はなかった。

 

 顔もゆがまなかった。

 

 ただ、目から出たものが、こめかみを通って、枕に入っていった。

 

 

 

 

 俺は、どうしていいか分からなかった。

 

 心臓が、ばくばく鳴っていた。

 泣いているのは向こうなのに、うるさいのはこっちである。

 

 こういうときの手順を、俺は一度も習っていない。

 

 机の上のティッシュの箱を取って、渡した。

 

 できたのは、それだけである。

 

「……申し訳ありません」

 

「謝るところじゃないです」

 

「私は、また、助けられました」

 

「……」

 

「六月も。八月も。九月も」

 

 天愛星さんは、天井を見たまま言った。

 

「……十六年前も」

 

 

 

 

 俺は、返す言葉を探した。

 

 探して、見つからなかった。

 

「私は、貸し借りを数えます」

 

「知ってます」

 

「四月から、数えています」

 

「……」

 

「返せていません。一つも」

 

 

 

 

 ――違う。

 

 

 

 

 俺は、そう思った。

 

 思ったが、それを言葉にすると、たぶん説教になる。

 

 この人に足りていないのは、説得ではない。

 

「あのですね」

 

「はい」

 

「俺、四年間、この病院にいたんですけど」

 

「はい」

 

「一回も、誰かに付き添ったことないんですよ」

 

 

 

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

 

 

 

「今日が、初めてです」

 

 

 

 

 その一言で、涙の量が変わった。

 

 変わったことに、俺は責任が取れない。

 

 俺は、二枚目のティッシュを渡した。

 

 

 

 

 外で、台車の音がした。

 

 配膳の準備が始まる時間である。

 

 天愛星さんが、鼻をかんだ。

 

 思ったより、大きい音がした。

 

「……いま、見ましたね」

 

「見てないです」

 

「見ました」

 

「見てないです」

 

「私が、その、泣いたところを」

 

「点滴を見てました」

 

「一分間五十八滴の話は、もう結構です」

 

「五十二です、いまは」

 

「訂正しないでくださいっ!」

 

「はい」

 

「あなたは、いつも、そうです」

 

「はい」

 

「一言、余計です」

 

「はい」

 

「……返事だけ、いいんですから」

 

「はい」

 

「そこですっ!」

 

「記録も、しないでください」

 

「してないです」

 

「……本当ですか」

 

「してないです」

 

「手帳は」

 

「持ってきてないです」

 

「メモ帳は」

 

「ないです」

 

「頭の中は」

 

「そこまで没収されるんですか」

 

「没収します」

 

「根拠は」

 

「……ありません」

 

「珍しいな」

 

「根拠がないことも、たまにはあります」

 

「メモしていいですか」

 

「駄目です」

 

 

 

 

 本当である。

 

 俺は、今夜、一行も書いていない。

 

 書けなかった、と言うほうが正しい。

 

 

 

 

「……そういうところですよ」

 

「なにが」

 

「いつもそうやって、はぐらかして」

 

「はぐらかしてないです」

 

「はぐらかしています。私の話を、まともに聞いてくださいませんっ」

 

「聞いてますけど」

 

「聞いていません」

 

「聞いてます」

 

「……聞いていて、ください」

 

「聞いてる」

 

 

 

 

 声が、途中で小さくなった。

 

 この人は、怒っている途中で本音が漏れると、そこで音量を落とす。

 

 十六年前からそうだった。

 生徒会室でも、こういう怒られ方をした記憶がある。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「あなたは、本日、就業時間外に、無給で、規則の例外規定を使って、ここにおられます」

 

「はい」

 

「それは、労働ではありません」

 

「労働じゃないです」

 

「では、何ですか」

 

 

 

 

「……趣味です」

 

 

 

 

「最低です」

 

「はい」

 

「……最低です」

 

「二回言いましたね」

 

「二回言うと、本当になります」

 

「三回じゃなかったですか」

 

「……上限を、引き下げました」

 

「勝手に改正しないでください」

 

「出典は」

 

「私です、でしょ」

 

「……先に言わないでください」

 

「じゃあ、なんて言えばよかったんですか」

 

「……『出典は』まで言って、待ってください」

 

「間の取り方まで指定される?」

 

「様式です」

 

「様式にしないでください」

 

 

 

 

 天愛星さんが、毛布を鼻まで引き上げた。

 

 引き上げて、そこから動かなくなった。

 

 俺は、窓の外を見た。

 

 白かった空の底に、じわ、と薄い色がにじみはじめていた。

 

 朝が来るというのは、こんなに静かな出来事だったろうか。

 九時間くらい、俺は椅子の上でそれを待っていたことになる。

 

 

 

 

 二日目は、面会時間内だけにした。

 

 十六時に上がって、十七時の十五分前に病室に着いた。

 

 鷲尾課長が、果物を持ってきていた。

 

 大貫は、ゼリーを八個持ってきていた。

 

「なんでゼリーなんだ」

 

「入院と言えばゼリーでしょう」

 

「この人、三日間それで生きてたんだよ」

 

「えっ、じゃあ大好物じゃないですか」

 

「逆だ」

 

「逆なんですか!」

 

「大貫君」

 

 天愛星さんが、ベッドから言った。

 

「はい」

 

「ありがたくいただきます」

 

「ほら見ろ!」

 

「ただし、一日一個までにします」

 

「八日かかりますよ!」

 

「計画的に消費します」

 

「入院、明日までですよ!」

 

「では、七個は持ち帰ります」

 

「計画が崩壊してますよ!」

 

「計画は、環境の変化に応じて改定されるものです」

 

「いま改定しました!?」

 

「改定しました」

 

「ゼリーで行政やらないでくださいよ!」

 

 鷲尾課長が、横で肩を震わせていた。

 

 この人が笑っているのを見たのは、五年でたぶん三回目である。

 

 

 

 

 鷲尾課長が、廊下で俺に言った。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「あなた、去年の年休、何日残った?」

 

「……十八日です」

 

「今年は」

 

「……二十日です」

 

「四月から半年で、一日も使ってないってことよね」

 

「そうですね」

 

「明日、使いなさい」

 

「明日は」

 

「退院日でしょ。分かってるのよ」

 

 

 

 

 九月十九日、金曜日、十時。

 

 会計の窓口で、俺は限度額適用認定証の話をした。

 

 天愛星さんは、その説明を全部メモした。

 

「なんで書くの」

 

「知らない制度でしたので」

 

「使うことないほうがいいんだけどね」

 

「制度は、使う予定がなくても、知っておくものです」

 

「それ、正しいんだよなあ」

 

「正しいです」

 

「正しいから、腹が立つんだよ」

 

「褒めていますか」

 

「褒めてない」

 

「……そうですか」

 

 

 

 

 天愛星さんが、スリッパの先で、床に小さく円を描いた。

 

 円ではない。

 

 途中で一度、内側に折れる。

 

 ――「の」の字である。

 

 この人は、照れると、足でこれを描く。

 

 十六年前、生徒会室の前の廊下で、俺は何度もこれを見ている。

 当時は、床の汚れでも気にしているのかと思っていた。

 

 本人は、たぶん、いまも気づいていない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「足」

 

「……足が、なんですか」

 

「いや」

 

「なんですかっ」

 

「なんでもない」

 

「気になりますっ!」

 

「なんでもないんだよ」

 

 俺は、精算機のボタンを押した。

 

 言わないでおくことにした。

 

 言ったら、この人は、たぶん明日から足を固定してくる。

 

 

 

 

 帰りの車で、天愛星さんは助手席に座った。

 

 今度は、背中がシートについていた。

 

 三日ぶりに、ちゃんと座っている人の座り方だった。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「一つ、伺ってもよろしいですか」

 

「どうぞ」

 

「続柄の欄は、選択肢がありましたか」

 

 

 

 

 俺のハンドルを持つ手が、たぶん、少し動いた。

 

 

 

 

「……ありました」

 

「なんと」

 

「家族、親族、その他」

 

「あなたは、その他に丸をされて、括弧の中に『知人』と書かれました」

 

「……見たんだ」

 

「見ました」

 

 

 

 

 俺は、前を見ていた。

 

 前を見るしかなかった。

 

「……なんて書けばよかったのかな」

 

 

 

 

 天愛星さんは、答えなかった。

 

 窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。

 

 それから、こう言った。

 

 

 

 

「……二十秒も、迷わないでください」

 

 

 

 

 ――二十秒。

 

 

 

 

 あの紙を書いたのは、ナースステーションのカウンターである。

 

 病室ではない。

 

 病室から、廊下の向こうのカウンターまでは、ドアが一枚ある。

 

 

 

 

「……起きてたんだ」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「…………」

 

 

 

 

 寝たふりが下手な人である。

 

 十六年前から、そうだった。

 

 

 

 

 信号が、赤になった。

 

 

 

 

 俺は、青になるまで、何も言わなかった。

 

 二十秒くらい、何も言わなかった。

 

 

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