大学職員の僕たち   作:房吉

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~14敗目・裏~ 続柄

 (九月十四日〜十七日/馬剃視点)

 

 私は、貸し借りを数える人間である。

 

 四月一日から、数えている。

 

 初日に自席まで案内された。これが一。

 学食に連れていかれた。二。

 電話を代わってもらった。三。

 

 三日目で、私は数えるのをやめようとした。

 やめようとして、やめられなかった。数えないと、返す量が分からなくなるからだ。

 

 九月十七日の朝の時点で、私の帳簿には、百三十七件が記載されている。

 

 うち、金額に換算できるものが十一件。

 缶コーヒー二本、のど飴一袋、学食の日替わり一食、ゴミ袋四十七枚。

 

 残りの百二十六件には、単位がない。

 

 単位のないものは、返し方も分からない。

 

 返済済みの欄は、まっさらである。

 

 まっさらな欄を見るたびに、みぞおちのあたりが、きゅっと縮む。

 

 

 

 

 悪心が始まったのは、九月十四日の夜だった。

 

 日曜日である。

 

 その前の週、私は総合型選抜の出願受付の準備を、自分の裁量で二重化した。

 昨年度の出願四百三十件を洗い出して、不備を類型に分けて、想定問答を作った。

 

 誰にも頼まれていない。

 

 頼まれていないことをやるのは、私の悪い癖である。

 文科省で十年、それをやって、それで私は自分の仕事を失った。

 

 ……分かっている。

 分かっているのに、身体のほうが先に動く。

 

 十四日の夜、胃のあたりが重くなった。

 私はそれを、疲労だと判断した。判断の根拠は、そうであってほしかったから、である。

 

 十五日。食事はゼリー一つ。

 十六日。ゼリー一つと、コーヒー。

 十七日。ゼリー一つ。

 

 私は、これを誰にも言わなかった。

 

 言えば、あの人が動く。

 

 それが、いちばん、避けたいことだった。

 

 

 

 

 三時に、桑原主査が飴を配った。

 

 りんご味である。

 

 私は、それを口に入れることができなかった。

 

 包み紙を開けた瞬間、甘い匂いが、ぶわ、と喉の奥まで上がってきた。

 上がってきて、そこで、つかえた。

 

 机の端に置いた。

 

 置いた瞬間に、きい、と大貫君の椅子が回る音がした。

 

 ……見られた。

 

 ひやり、と背中が冷えた。

 

 あの人には、たぶん、二分以内に伝わる。

 

 

 

 

 その予測は、正しかった。

 

 十四時四十分。

 

 温水主任は、私の返事の時間を測りはじめた。

 昼食の内容を聞いた。出勤時刻を、三日ぶん確認した。

 

 この人は、心配だとは言わない。

 

 言わずに、数える。

 

 私は「気のせいです」と答えた。

 〇・五秒で答えた。〇・五秒で答えたことが、この人には答えになっていた。

 

 

 

 

 十五時二十分。

 

 私は、複合機に向かって歩いた。

 

 二歩目で、床が、ぐらり、と傾いた。

 

 傾いたのは床ではなく私だと気づいたときには、視界の下から白いものが、ざあ、と上がってきていた。

 

 ――ああ。

 

 私が最後に考えたのは、それだけである。

 

 次に分かったのは、床が近いことと、右手が痛いことと、名前を呼ばれていることだった。

 

 

 

 

 あの人は、謝るなと言った。

 

 言って、私を横向きに寝かせて、上着を丸めて膝の下に入れて、足を上げた。

 

 迷いがなかった。

 

 十六年間、私はこの人の「迷いのなさ」を、二回しか見たことがない。

 

 一回目は、十六年前の十二月。

 私が無理な取引を持ちかけたときである。この人は断らなかった。断らずに、期限までにやり遂げた。

 

 二回目が、今日である。

 

 

 

 

 救急車を呼ばない、とこの人は言った。

 

 大貫君が叫んだ。私も、内心で同じことを思った。

 

 根拠が示された。意識、呼吸、脈拍、搬送先の選択可能性。

 二十秒で四つである。

 

 私は、床から車両管理規程の話をした。

 

 あれは、正しさの話ではない。

 

 私は、あのとき、この人に迷惑がかかることだけが怖かった。

 公用車の私的使用で、この人が誰かに何か言われることが、怖かった。

 

 第十一条が返ってきた。

 

 「用度にいたんで」と、この人は言った。

 

 

 

 

 ……ずるい。

 

 

 

 

 この人は、いつも、自分の行為に説明をつける。

 

 職業病。前の部署。案内文。規程の但し書き。

 

 全部、正しい。

 正しいから、私は、それ以上、何も言えなくなる。

 

 

 

 

 助手席で、私は背筋を伸ばして座っていた。

 

 もたれていいと言われた。

 

 もたれられるわけがない。

 

 もたれた瞬間に、私は自分が誰かに運ばれている人間だと認めることになる。

 

 私は、二センチだけ、背中をつけた。

 

 二センチが、その日の私の限界だった。

 

 シートに触れた瞬間、じん、と背中が温かくて、私は慌てて姿勢を戻しかけた。

 戻しかけて、やめた。やめたことに、また少し、罪悪感がわいた。

 

 

 

 

 救急外来で、この人は別の人間になった。

 

 いや、正確ではない。

 

 別の人間になったのではなく、私が知らない四年ぶんが、そこに置いてあっただけである。

 

 看護師長に名前を呼ばれた。

 八年ぶりだと即答した。吸引器の見積もりを四回突き返した話で、二人が笑った。

 

 そのあと、この人は、私の状態を三十秒で報告した。

 

 時刻。持続時間。血圧。脈拍。体温。食事摂取。水分量。最終排尿。

 

 私が、私自身について、その順番で説明できたことは、一度もない。

 

 そのあいだ、私は車椅子の上で、口を半分開けていたと思う。

 

 文科省の局議で、私は十年、事実を並べる訓練をしてきた。

 その私が、自分の事実を、他人に並べてもらっている。

 

 

 

 

 ――この人は、私を見ていた。

 

 

 

 

 三日前から、である。

 

 悪心が始まった日から、この人は数えていた。

 

 私が隠していたつもりのものは、全部、隣の机で記録されていた。

 

 

 

 

 私は、車椅子の上で、選定療養費の話をした。

 

 あれは、意識をつなぐためである。

 黙ると、視界が狭くなる。喋っていれば、自分がまだそこにいることが確認できる。

 

 通知の番号を聞いた。

 この人は「そこまで覚えてるわけないでしょ」と言った。

 

 私は「惜しいです」と返した。

 

 返しながら、私は、この掛け合いが終わってしまうことが怖かった。

 

 

 

 

「喋っててください。俺、聞いてるんで」

 

 

 

 

 ……この人は、気づいた。

 

 二分で、気づいた。

 

 私は「はい」としか言えなかった。

 

 顔が、かっと熱くなった。

 熱のせいにできる状況で顔が熱くなるのは、卑怯なほど便利である。

 

 喉の奥が、きゅうっと締まった。

 それ以上言うと、たぶん、そこで泣いていた。

 

 三十八度二分で、待合室で、泣く。

 

 ……それだけは、絶対に避けなければならなかった。

 救急外来の待合室で泣いている職員は、翌週の噂の材料として、あまりに優秀すぎる。

 

 

 

 

 診断が出た。

 

 脱水。鉄欠乏性貧血。腸炎の疑い。

 

 「最近、ちゃんと食べてました?」と医師が言った。

 

 私は答えられなかった。

 

 半年から一年だと、医師は言った。

 

 

 

 

 その前に、私は二つ、致命的な質問を受けている。

 

 一つは、常用薬である。

 

 黄連解毒湯、と私は答えた。

 答えてから、なんのために、と聞かれた。

 

 言えるわけがない。

 

 あれは十六年前、私が自分の体質に対して打った、最初にして唯一の対策である。

 効いている。効いてはいるが、効いている理由を説明すると、私の社会的地位が終わる。

 

 もう一つは、鼻血である。

 

 医師が「鼻血、出ますか」と聞いた瞬間、私の頭の中は真っ白になった。

 

 年に数回です、と答えた。

 原因の心当たりは、と聞かれて、ありません、と答えた。

 

 嘘である。

 

 全部、心当たりしかない。

 

 あのとき、あの人は壁のポスターを見ていた。

 『手洗いは三十秒』と書いてあるポスターである。

 

 三十秒も見るような掲示物ではない。

 

 ……知っているのだ、あの人は。

 知っていて、見なかったことにする。十六年、ずっとそうである。

 

 

 

 

 半年から一年である。

 

 

 

 

 私が文科省を辞めたのが、一年半前。

 通院をやめたのが、十か月前。

 

 九割は平気だと、私は自分に説明してきた。

 残りの一割は、電話と、原稿を読み上げるプレゼンと、あと一つだと。

 

 数えられていなかった一つが、これである。

 

 私は、食べていなかった。

 

 食べていないことを、私は「忙しいから」と説明してきた。

 説明が上手な人間は、自分にも嘘をつける。

 

 

 

 

 九月七日に、この人は私の部屋を片付けた。

 

 床が出た。ゴミ袋を四十七枚使った。

 

 あの日、この人は冷蔵庫を開けて、五十二秒、動かなかった。

 

 私は、その五十二秒を、いまでも正確に覚えている。

 

 あのとき、この人は何も言わなかった。

 何も言わずに、閉めた。

 

 ……言ってくれれば、よかったのに。

 

 言われていたら、私は、体温計を買ったかもしれない。

 

 

 

 

 十七時の放送で、私はこの人を帰らせた。

 

 規則だから、と言った。

 

 規則だからである。

 規則だから、というのは、私がずっと使ってきた、いちばん都合のいい言葉だ。

 

 扉が閉まったあと、私は天井を見た。

 

 白い天井だった。

 

 ……帰ってしまった。

 

 そう思った自分に、私は驚いた。

 

 帰らせたのは、私である。

 

 

 

 

 二十時に、この人は戻ってきた。

 

 許可を取ったと言った。

 

 私は「面会時間は十七時までです」と言った。三回くらい言った。

 

 三回言うと本当になるのだから、三回言えば帰ってくれると思った。

 

 帰らなかった。

 

 そして、この人は言った。

 

「附則まで」

 

 

 

 

 息が、ひゅっと止まった。

 

 心臓が、ばくん、と一回だけ大きく鳴って、そのあと勝手に速くなった。

 

 点滴のせいではない。

 

 

 

 

 四月一日である。

 

 私が就業規則を通読したと言ったとき、この人は「全部ですか」と聞いた。

 私は「附則まで」と答えた。

 

 あの日から、五か月半である。

 

 この人は、それを覚えていた。

 

 覚えていて、五か月半、使うところを待っていた。

 

 

 

 

 ……それは。

 

 

 

 

 それは、私がしていることと、同じである。

 

 

 

 

 私は、この人の癖を記録している。

 嘘のつき方。返事の長さ。マグカップを持つ回数。

 

 記録して、使えるところを待っている。

 

 同じことを、この人もしていた。

 

 

 

 

 「温水さん」と、私は呼んだ。

 

 呼んでしまった。

 

 業務中は「温水主任」である。私はその線を、四月一日から一度も越えていない。

 

 越えた。

 

 この人は、何も言わなかった。

 何も言わずに「うん」と答えた。

 

 ……気づいている。

 気づいていて、何も言わない。

 

 この人の、そういうところが、私は。

 

 

 

 

 二十時半に、志喜屋先輩からメッセージが来た。

 

 『秋……沈む……』

 

 私は、既読をつけたまま、五分ほど画面を見ていた。

 

 この方は、なぜ、いつも当たるのだろう。

 

 十六年間、私はこの人からの連絡に、一度も適切に返信できていない。

 返信の様式が、存在しないからである。

 

 私は『恐れ入ります』と返した。

 

 既読がついた。返事はなかった。

 

 ……たぶん、これで合っている。

 

 

 

 

 二十二時に、熱が上がった。

 

 寒かった。

 

 骨の内側から、がちがち、と震えが上がってきた。

 毛布を掴もうとした指が、うまく閉じない。

 

 ぴん、とナースコールの鳴る音がした。

 

 私は押していない。

 

 

 

 

 午前一時ごろ、私は目を覚ました。

 

 喉が渇いていた。

 トイレにも行きたかった。

 

 私は、点滴のスタンドを引いて、一人で立った。

 

 押さなかった。

 夜勤が二人しかいないことを、私はナースステーションの掲示で確認していた。

 

 ……いつもこうである。

 

 誰かの負担が見えると、私は自分の要求を取り下げる。

 文科省での十年で、私はそれを完成させた。完成させて、いなくなった。

 

 廊下は薄暗かった。

 

 トイレから戻る途中、ナースステーションのカウンターが見えた。

 

 

 

 

 あの人が、いた。

 

 

 

 

 紙を一枚、前に置いて、ペンを持っていた。

 

 書いていなかった。

 

 止まっていた。

 

 

 

 

 私は、そこで足を止めた。

 

 止めて、数えた。

 

 癖である。私は、意味もなく、時間を数える。

 

 

 

 

 二十秒。

 

 

 

 

 数えているあいだ、私の心臓は、とくとく、と妙に静かだった。

 

 静かなのに、指先だけが冷たかった。

 

 二十秒たって、あの人のペンが動いた。

 

 二文字か、三文字である。それだけ書いて、紙を看護師長に渡した。

 

 私は、見なかったことにして、病室に戻った。

 

 戻って、布団に入って、目を閉じた。

 

 目を閉じて、二十秒のことを考えた。

 

 

 

 

 この人は、何を書けばいいか、分からなかったのだ。

 

 

 

 

 ……私も、分からない。

 

 私も、二十秒では、たぶん足りない。

 

 

 

 

 午前二時四十分に、私は起きていた。

 

 あの人も起きていた。

 

 「二時に起きているのは、十年間、そうでしたので」と、私は言った。

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 八月二十九日に、私はこの人に二時間半、その話をしている。

 主語を全部抜いて、話した。

 

 この人は、そのとき、一度も「それは君のことか」と聞かなかった。

 

 今日も、聞かなかった。

 

 代わりに、点滴の滴数の話に乗ってくれた。

 

 

 

 

 ……ずるい。

 

 

 

 

 この人は、私が逃げる方向に、先回りして道を作る。

 

 作って、自分は何も言わない。

 

 十六年前から、そうである。

 

 

 

 

 午前四時五十分。

 

 熱が下がっていた。

 

 私は目を開けて、あの人がまだそこにいることを確認した。

 

 「寝てた」と、この人は言った。

 

 嘘である。

 

 私は「あなたは、本当に隠したいときだけ、短くなります」と言った。

 

 四月に、この人が私に教えたことだ。

 

 教えられたときは、少し腹が立った。

 腹が立って、その日のうちに手帳に書いた。

 

 五か月半、私はそれを持っていた。

 

 

 

 

 お茶が飲みたい、と言った。

 

 あの人が、机の上を指した。

 

 

 

 

 ペットボトルが、二本。

 

 水と、スポーツドリンクである。

 

 

 

 

 ――八月二十九日。

 

 

 

 

 私が酔って、この人に部屋まで運ばれた夜である。

 

 あの人は、私を布団に下ろして、鍵を私の手のひらに置いて、帰った。

 枕元に、ペットボトルを二本、置いて。

 

 水と、スポーツドリンク。

 

 あのときも、コップは探して、見つからなかったはずだ。

 私の部屋には、コップがなかったからである。

 

 

 

 

 同じ二本だった。

 

 

 

 

「安いんですよ、それ」

 

 あの人は、そう言った。

 

 そのあとに、こう続けた。

 

「あと、この階の自販機、二台あって。二十円違ったんで、遠いほうで買いました」

 

 

 

 

 私は、そこで、決壊した。

 

 ぶわ、と目の奥が熱くなって、そのあとは、もう何も間に合わなかった。

 

 

 

 

 四月一日である。

 

 この人が私に最初に言った業務外の言葉は、自販機の缶コーヒーの値段だった。

 

 二台あって、どちらも同じ値段だという、何の役にも立たない事実確認である。

 

 あのとき、私は思った。

 この人は、十六年たっても、こういうことしか言わない人なのだと。

 

 その人が、いま、三十八度の熱を出した同僚のために、深夜の病院で、自販機を二台とも見に行っている。

 

 二十円のためではない。

 

 二十円を確認しないと、この人は、自分がここにいる理由を説明できないのだ。

 

 

 

 

 ……この人は、十六年、何も変わっていない。

 

 

 

 

 高校一年の冬。

 

 この人は、私の成績票を拾った。

 弱みを握られたと思って、私は階段の下に連れこんで問い詰めた。

 

 この人は、脅さなかった。

 脅さずに、勉強を見てくれる人を紹介して、クレープを奢った。

 

 私は、あのクレープを、いまでも覚えている。

 

「馬剃さん、それ何味にしたの」

 

「一番上に書いてあったものです」

 

「選んでないじゃん」

 

「選ぶ基準を、持っていませんので」

 

「じゃあ次から、二番目にしてみたら」

 

「なぜですか」

 

「一番上って、店が売りたいやつなんだよ。二番目のほうが、だいたいうまい」

 

「……出典は」

 

「俺です」

 

 

 

 

 あれが、最初である。

 

 私が「出典は」と聞いて、この人が「俺です」と答えた。

 

 いま私がやっているあの言い方は、この人から取ったものだ。

 

 十六年、私はそれを自分の癖だと思っていた。

 

 

 

 

「私、クレープというものを、食べたことがありませんでした」

 

「え」

 

「人生で、初めてです」

 

「……そうなんだ」

 

 

 

 

 言ったあとで、この人は何も聞かなかった。

 

 なぜ食べたことがないのかも、なぜ成績が悪いのかも、聞かなかった。

 

 私は、それで、話してしまった。

 

 周りについていけないことを。

 どんどん離されていくことを。

 

 誰にも言ったことのないことを、クレープ一つで話してしまった。

 

 

 

 

 あれから、十六年である。

 

 

 

 

 私は、この人に、何も返していない。

 

 六月も。八月も。九月も。

 

 十六年前も。

 

 

 

 

 私は、それを口に出した。

 

 出しながら、涙が止まらなかった。

 

 

 

 

 罪悪感である。

 

 この人の時間を、私は奪っている。

 この人は、十二年間、定時で帰る権利を守ってきた人である。その人が、いま、椅子で夜を明かしている。

 

 私のせいで。

 

 

 

 

 それと、もう一つ。

 

 

 

 

 嬉しかった。

 

 

 

 

 ……最低である。

 

 人に迷惑をかけて、嬉しいと思っている。

 

 私は、そういう人間だったのか。

 

 

 

 

 でも。

 

 

 

 

 十六年ぶりに、あの日と同じ場所に、この人がいた。

 

 十六年が経って、髪も生活も職場も何もかも変わって、それでも、この人は、同じ位置に立っていた。

 

 私の、少し斜め後ろである。

 

 振り返らないと見えない位置。

 振り返れば、必ずいる位置。

 

 

 

 

 胸のなかが、いっぱいになった。

 

 

 

 

 いっぱいになって、あふれた。

 

 あふれたぶんが、目から出た。

 

 それだけのことである。

 

 それだけのことを、私は、はじめて経験した。

 

 

 

 

「俺、四年間、この病院にいたんですけど」

 

 あの人は、そう言った。

 

「一回も、誰かに付き添ったことないんですよ」

 

「今日が、初めてです」

 

 

 

 

 ……やめてほしい。

 

 

 

 

 この人は、自分が何を言ったか、分かっていない。

 

 分かっていないから言える。

 分かっていたら、この人は絶対に言わない。

 

 

 

 

 私は、二枚目のティッシュを受け取った。

 

 鼻をかんだ。

 思ったより、大きい音がした。

 

 三十八度九分まで出した人間の鼻のかみ方ではない。

 

 私は、その音で、我に返った。

 

 

 

 

 ……見られた。

 

 

 

 

 私は、逆上した。

 

 かあっ、と顔じゅうに血が上った。

 三十八度九分から下がったばかりの顔である。上げる余地が、まだあったらしい。

 

 自覚はある。

 

 私はいま、患者衣で、点滴を刺したまま、逆上している。

 

 しかも売店の一件では、この人に「変な気を起こさないでください」と言った。

 三十八度二分の人間に対して、いったい誰が何を起こすというのか。

 

 自覚はあるが、あのとき、私にできることは、それしかなかった。

 

 見た、見ていない、を四往復した。

 記録するな、と言った。していない、と返ってきた。

 

 手帳は。持ってきてないです。

 メモ帳は。ないです。

 頭の中は。

 

 ……我ながら、何を没収しようとしているのか。

 

 私は、たぶん、記録されていてほしかった。

 

 

 

 

 「趣味です」と、この人は言った。

 

 

 

 

 最低である。

 

 二回言った。

 

 二回言うと本当になる、と私は言った。

 

 上限を勝手に引き下げた。

 出典は、私である。

 

 三回目は、言わなかった。

 

 言わなかった理由は、書かない。

 

 

 

 

 二日目の朝、七時三十分。

 

 あの人が、病室に来た。

 

「面会時間は、十四時からです」

 

「知ってる」

 

「なぜいらっしゃるんですか」

 

「通り道なんで」

 

「病棟は、通り道ではありません」

 

「五階が」

 

「ここは八階です」

 

「エレベーターが混んでて」

 

「三階ぶん、混みませんが」

 

「……すいません」

 

「謝罪の対象が、不明です」

 

 あの人は、椅子に座らなかった。

 

 鞄も置かなかった。

 

 置かないということは、五分で帰るつもりだということである。

 私は、そこまで読んで、少しだけ、胸のあたりがつめたくなった。

 

「引き継ぎを、申し上げます」

 

「もう済んだ」

 

「……は」

 

「不備の照会、七件。全部済んでる」

 

「三件は、締切が本日です」

 

「昨日のうちに出した」

 

「二件は、電話が通じませんでした」

 

「二十時に、もう一回かけた」

 

「……二十時に、あなたは、ここに」

 

 

 

 

 あの人は、そこで、少しだけ視線を逸らした。

 

 

 

 

「廊下で、かけた」

 

「…………」

 

「あと、様式が旧版のままだったんで、統合しといた。馬剃さんの案のやつ」

 

「……あれは、まだ決裁を」

 

「取った。課長、三秒」

 

「三秒」

 

「『いいわよ』だった」

 

 

 

 

 私は、何も言えなかった。

 

 

 

 

 言えないでいるうちに、あの人は「じゃ、行ってきます」と言って、出ていった。

 

 五分どころか、三分だった。

 

 

 

 

 ……行ってきます。

 

 

 

 

 その言い方は、業務の言い方ではない。

 

 私は、その四文字を、天井を見ながら、たぶん十回くらい再生した。

 

 再生するたびに、じわ、と目の奥が熱くなるので、途中でやめた。

 

 

 

 

 二日目の午前中、唐沢さんが病室に来た。

 

 救急外来の看護師長だが、朝の申し送りのついでだと言った。

 

 体温計を脇に入れて、その三十秒のあいだ、この方は私の顔を見ていた。

 

「あなた、温水君の何なの」

 

「……同僚です」

 

「ふうん」

 

 三十秒が鳴った。

 

 三十七度一分だった。

 

「あの子ね、うちに四年いたの」

 

「伺いました」

 

「一度も残業しなかったのよ」

 

「……はい」

 

「有名だったの。定時の温水って。病院で定時に帰る事務職員なんて、あの子だけだったから」

 

「存じています」

 

「昨日、五時半に、まだ廊下にいたのよ」

 

 

 

 

 私は、答えられなかった。

 

 

 

 

「私ね、目を疑ったの。八年ぶりに見た顔が、その時間にそこにあったから」

 

「……」

 

「それだけ」

 

 唐沢さんは、記録を書いて、立ち上がった。

 

 立ち上がってから、思い出したように言った。

 

「続柄の欄ね」

 

「……はい」

 

「あの子、ずいぶん迷ってたけど」

 

「……」

 

「あなた、なんて書いてほしかったの」

 

 

 

 

「……存じません」

 

 

 

 

「即答じゃないのね」

 

 

 

 

 唐沢さんは、それだけ言って、カーテンを閉めて出ていった。

 

 

 

 

 ……即答ではなかった。

 

 私は、一秒を超えると相手が不安になるという理由で、返事を〇・五秒から一秒に設計している。

 四月からの達成率は、九十六パーセントである。

 

 いまのは、たぶん、四秒だった。

 

 四秒である。

 

 

 

 

 二日目の夕方、大貫君がゼリーを八個持ってきた。

 

 私は、一日一個ずつ消費すると宣言した。

 

 あの子は「入院、明日までですよ」と叫んだ。

 

 ……正しい。

 

 あの子は、たまに正しい。

 

 

 

 

 九月十九日、金曜日。

 

 退院した。

 

 会計で、この人は限度額適用認定証の説明をした。

 私は全部メモした。

 

 制度は、使う予定がなくても知っておくものである。

 

 ――と、私は言った。

 

 本当の理由は、違う。

 

 この人が説明しているあいだは、この人が、私のために喋っているからである。

 

 

 

 

 帰りの車で、私は続柄の話をした。

 

 聞かなければよかった、といまは思う。

 

 選択肢は三つだった。

 家族。親族。その他。

 

 この人は、その他に丸をして、括弧の中に『知人』と書いた。

 

 

 

 

 ……知人。

 

 

 

 

 四月一日の「知り合い程度です」から、五か月半である。

 

 三百二十分の一から、知人になった。

 

 

 

 

 私は、窓の外を見た。

 

 

 

 

 ――でも。

 

 

 

 

 この人は、二十秒、迷った。

 

 私は、それを見ている。

 

 選択肢の中に、書きたい言葉がなかったから、迷ったのだ。

 

 なかった言葉が何なのかを、私は知らない。

 この人も、たぶん、知らない。

 

 

 

 

 「二十秒も、迷わないでください」と、私は言った。

 

 

 

 

 言ってしまってから、私は寝たふりをした。

 

 名前を二回呼ばれた。

 

 私は答えなかった。

 

 答えたら、今度こそ、何か言ってしまう。

 

 

 

 

 信号が赤になった音が、聞こえた気がした。

 

 音などしないのに。

 

 あの人は、青になるまで、何も言わなかった。

 

 二十秒くらい、何も言わなかった。

 

 

 

 

 部屋に帰って、私は手帳を開いた。

 

 今日の欄に、業務の引き継ぎ事項が十一行ある。

 

 その下に、一行、書き足そうとした。

 

 書き足そうとして、ペンが止まった。

 

 十六年前と、同じである。

 

 あのときは、駅の待合室で十分迷って、結局、書いた。

 

 今日は、二十秒迷って、書かなかった。

 

 

 

 

 私には、もう一冊ある。

 

 青いノートである。

 

 思ったことを、そのまま書く。数日置いてから読み返す。

 読み返すと、当時の自分が事実と願望を混同していたことが分かる。分かれば、現実に戻れる。

 

 十六年、それで持たせてきた。

 

 この一年は、うまくいっていない。

 

 書いて、数日置いて、読み返して、「そんなはずはない」と結論づける。

 結論づけたはずのものが、翌週にまた書かれている。

 

 同じ人のことが、二十三回である。

 

 療法とは、回数が減っていくものを言うのだと思う。

 

 

 

 

 私は、ペンをしまった。

 

 しまってから、鞄の内ポケットに、紙が一枚入っていることを思い出した。

 

 付き添い許可願の、患者控えである。

 

 続柄の欄に、『知人』と書いてある。

 

 ……処分しなければならない。

 

 個人情報である。保管の必要も、規程上の根拠もない。

 

 私は、その紙を、内ポケットのいちばん奥に押しこんだ。

 

 押しこんでから、手帳を閉じた。

 

 

 

 

 ……明日、体温計を買おう。

 

 

 

 

 私は、そう思って、電気を消した。

 

 この一年、私は毎日、何かを明日に回している。

 

 明日買うものが、はじめて、自分のためのものだった。

 

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