(九月十九日〜二十日/温水視点)
九月十九日、金曜日、二十一時十四分。
俺は、自分の部屋で、三行目を書き直していた。
一行目は、十分前に書いた。
二行目は、五分前に書いた。
三行目が、書けない。
画面には、こう出ている。
『明日、行きます』
これで送れば、たぶん話は早い。
早いのだが、俺は「たぶん」がついている文を送るのが、あまり得意ではない。
四分迷って、送った。
既読が、ぴこん、とついた。〇・五秒である。
『恐れ入りますが、目的を伺ってもよろしいでしょうか』
――来た。
この人は、断るときに「嫌です」と言わない。
「目的を伺ってもよろしいでしょうか」と言う。
目的を聞いて、目的に対する代替案を三つ出して、こちらが折れるのを待つ。
文科省で十年、たぶんそれで生きてきた人である。
俺は、三秒で返した。
『実地調査です』
『何の実地調査でしょうか』
『職員の療養状況の』
『そのような制度は、本学に存在いたしません』
『今日から始まりました』
『起案は』
『してないです』
『決裁は』
『取ってないです』
『……無効です』
『無効ですけど、明日の九時に行きます』
既読が、しばらく動かなかった。
三分四十秒である。
俺はその間、なんとなく部屋の中を歩いていた。歩く必要はまったくなかった。
『九時三十分にしていただけますか』
――勝った。
いや、勝ってはいない。
三十分ずらされている。この人は、必ず何かを一つ取り返す。
俺は『了解です』と返して、スマホを伏せた。
伏せてから、十分後に、俺はスーパーにいた。
二十二時のスーパーである。
閉店三十分前で、惣菜が半額になっていて、客はほとんど残っていない。
俺はそこで、四十分いた。
四十分のうち、三十五分は、鶏肉の前で使った。
消化のいいもの、と栄養士の人は言った。
言ったが、鶏肉が消化にいいのか悪いのかを、俺は判定できない。
結果として、俺のかごに入ったのは、米と、卵と、白ねぎと、豆腐と、なぜかりんごである。
りんごは、たぶん、病人と言われたときに脳が最初に出す絵である。
うちの母が、俺が熱を出すたびに、りんごをすりおろしていた。
子どものころの刷りこみは、レジの前でも解除されなかった。
スーパーを出たところで、俺は自分の重大な見落としに気づいた。
鍋がない。
俺の部屋にあるのは、片手鍋が一つである。
直径十四センチ。インスタントラーメン専用機として、十二年間、他の用途に使われたことがない。
あれを持っていくのは、どう考えても無理がある。
俺は、閉店十五分前のホームセンターに駆けこんだ。
調理器具の棚の前で、十分立っていた。
「お鍋、お探しですか」
店員さんが来た。二十代くらいの、名札に『研修中』と書いてある人である。
「はい」
「何を作られます?」
「おかゆです」
「……おかゆ、ですか」
「おかゆです」
「でしたら、この十八センチので十分ですよ。二千三百円です」
「これ、何合炊けますか」
「一合で、たっぷりですね」
「三合は」
「三合!?」
――そこそこ驚かれた。
「三合は、無理ですね。あふれます」
「そうですか」
「はい。おかゆは、お米の五倍から七倍のお水を使うので」
「なるほど」
「三合だと、二リットル以上になっちゃうんですよ」
「分かりました」
俺は、その鍋をレジに持っていった。
持っていきながら、この会話を、一秒も記憶に定着させていなかった。
ついでに、茶碗を買った。
一つ売りがなくて、二つ入りのやつしかなかった。四百八十円である。
……一つ余る。
余るが、四百八十円である。俺はそこで考えるのをやめた。
思考を止める技術については、たぶん俺は日本でも上位である。
部屋に戻ってから、心臓が、どくどく鳴っていることに気づいた。
……なんでだ。
明日やることは、飯を作って、様子を見て、帰るだけである。
業務でいえば、内容としては、備品の検収より軽い。
軽いのに、なぜか手のひらが湿っていた。
九月二十日、土曜日、九時二十八分。
俺は、彼女のアパートの二階の廊下に立っていた。
右手にエコバッグ二つ。左手に、買ったばかりの鍋。
鍋は箱に入っている。箱には『電磁調理器対応』と大きく書いてある。この部屋の火が何なのかを、俺は確認していない。
自分でも、なかなかの絵面だと思う。
階段の踊り場の窓ガラスに映ったのは、土曜の朝に鍋の箱を提げて他人の家の前に立つ男である。
これがラノベなら、二ページ目で幼なじみに笑われている場面だ。
あいにく、この階には誰もいない。
誰もいないので、俺は窓から目を逸らして、腕時計を見た。
九時二十九分に、俺はチャイムを押した。
三十秒待った。
鍵が、かちり、と回った。
天愛星さんが、立っていた。
スウェットの上下だった。
九月七日はジャージだったので、これで三回目である。
私服の履歴を数えている自分に気づいて、俺は一瞬、視線をドアの蝶番に逃がした。
「おはようございます」
「おはよう」
「……九時二十九分です」
「一分早いけど」
「一分早いです」
「怒られる?」
「……いえ」
「怒りますよね、いつもは」
「怒るようなことをされなければ、怒りません」
「じゃあ今日は」
「……べ、別に、来ていただかなくても結構だったんですけど」
「来ちゃったけど」
「来られましたね」
「帰る?」
「……お上がりください」
「はい」
天愛星さんの右足のつま先が、三和土の上で、小さく円を描いた。
途中で内側に折れる、あの描き方である。
――「の」の字だ。
スリッパでも、パンプスでも、高校の上履きでも、この人はこれを描く。
照れているときだけである。十六年前から、一度も変わっていない。
本人は、たぶん、気づいていない。
俺は、靴を脱ぎながら、それを見なかったことにした。
天愛星さんは、そこで一度、口を閉じた。
閉じて、こう言った。
「早く着かれたのは、本日で三回目です」
「数えてるんだ」
「数えます」
「顔色、悪くないね」
「三十六度八分です」
「即答」
「今朝、測りました。買いましたので」
――買った。
俺は、エコバッグの外ポケットに手を突っこんだ。
突っこんで、細長い箱を出した。
「体温計」
「……」
「昨日、駅前の薬局で」
「……」
天愛星さんが、玄関の靴箱の上を見た。
同じ箱が、置いてある。
メーカーは違う。だが、大きさと色は、ほぼ同じである。
「……二重です」
「二重で困る人はいない」
「それは、私の台詞です」
「借りた」
「二回目です」
「利息は」
「ありません。ただ、記録はします」
「する必要ある?」
「あります」
天愛星さんは、廊下の壁のフックから、鞄を取った。
鞄から手帳を出した。
朝の九時三十分に、玄関で、手帳が開いた。
「……いま書くの」
「いま書きます」
「体温計が二本になったことを」
「二本になった事実は、変わりません」
「変わらないな」
「変わりません」
天愛星さんは、手帳を閉じかけて、そこで手を止めた。
「温水さん」
「はい」
「本日お持ちいただいた物品の、レシートを頂戴できますか」
「なんで」
「精算します」
「しなくていい」
「私費の立替は、精算されるべきです」
「これ、業務じゃないんで」
「では、なんですか」
「……実地調査です」
「実地調査でしたら、旅費規程が適用されます」
「されないよ」
「第四条、公務のため出張する職員には」
「公務じゃないんだよ」
「では、なんですか」
――さっき、同じところを一周した。
この人は、円を描いて追いこんでくる。
役所で十年、たぶんこれで人を落としてきたのだと思う。
「レシートは、捨てた」
「嘘です」
「なんで分かるの」
「あなたは、嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしません」
「……」
「本当なら『レジ袋と一緒に丸めて捨てました』くらいはおっしゃいます」
「くわしいな」
「五か月半、記録しています」
俺は、ポケットからレシートを出した。
出したというより、抜き取られた。
天愛星さんは、それを両手で受け取って、上から下まで一度読んで、それから、手帳のあいだに挟んだ。
「……財布じゃないんだ」
「手帳です」
「なんで」
「こちらのほうが、紛失しません」
天愛星さんは、手帳を閉じた。
閉じたとき、なぜか、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
――なんでだ。
千八百四十二円である。
うちの千二百円は、たぶん、りんごとは関係のないところで使われた金である。
部屋に上がって、俺はまず、台所に立った。
立って、三十秒くらい、動けなかった。
何もない。
九月七日に、俺はここを片付けている。
床は出た。シンクも磨いた。コンロの五徳も外して洗った。
だから、きれいである。
きれいなのだが、物がない。
鍋がない。フライパンもない。
まな板がない。包丁は、一本ある。刃がまったく減っていない。
菜箸がない。おたまがない。ざるがない。ボウルがない。
あるのは、割り箸の束と、コンビニでもらうプラスチックのスプーンが、輪ゴムでまとめられて置いてあるだけである。
「馬剃さん」
「はい」
「調理器具が、ないんだけど」
「使いませんので」
「……十二年?」
「十一年です。東京に来てからは、そうです」
「文科省にいたときは」
「……深夜二時に、まな板は使いません」
ぐ、と喉のあたりが詰まった。
この人は、こういうことを、平気な顔で言う。
平気な顔で言うから、こっちは受け取り方を間違える。
「馬剃さん」
「はい」
「ここ、火はガス?」
「ガスです」
「よかった」
「よくないのですか」
「いや、箱に『電磁調理器対応』って書いてあったんで、そっちだったらどうしようかと」
「確認せずに、購入されたんですか」
「した」
「いつですか」
「いまだよ」
「……購入後です」
「購入後です」
「順序が」
「順序が逆でした」
「じゃあ、持ってきてよかった」
俺は、箱から鍋を出した。
白い、十八センチの片手鍋である。取っ手の樹脂が、まだ新品の匂いをさせている。
「……それは」
「鍋」
「見れば分かります」
「だよね」
「あなたのご自宅の鍋は、十四センチではありませんでしたか」
「なんで知ってるの」
「九月七日に、掃除機を借りたという話の流れで、伺いました」
「そんな話したっけ」
「『うちにはラーメン用のしかない』と、おっしゃいました」
「……記録されてたんだ」
「記録します」
天愛星さんは、鍋を上から覗きこんだ。
覗きこんで、そのまま、ふちのあたりで視線が止まった。
「……値札が」
俺は、鍋の側面を見た。
貼ってあった。
黄色いシールで、二千三百円と書いてある。
「あ」
「昨日、購入されましたね」
「……」
「短いです」
「……はい」
「本当に隠したいときだけ、短くなります」
「本日、二回目だね、それ」
「二回で成立します」
「その運用、ほんとにやめてほしい」
天愛星さんの顔が、耳から順に赤くなった。
なぜこの人が赤くなるのかは、俺には分からない。
値札をはがし忘れたのは俺である。
天愛星さんは、シールの端に爪をかけて、丁寧にはがした。
はがして、四つ折りにして、手帳のあいだに挟んだ。
――挟むな。
「なんで挟むの」
「証憑です」
「なんの証憑ですか」
「……別の帳簿の」
「さっきから出てくる、その帳簿はなんなの」
「なんでもありません」
「〇・三秒だったよ」
「測らないでください」
湯が沸くまでのあいだに、俺は窓を開けた。
部屋の空気が、すう、と入れ替わった。
九月七日から、十三日である。
床は、出たままだった。
ゴミも溜まっていない。流しに皿もない。
……皿がないのは、皿を使っていないからかもしれないが。
変わったところが、二つあった。
一つは、カーテンである。
開いていた。
九月七日の朝、ここのカーテンは閉まっていた。閉めっぱなしで、上の端が二か所、フックから外れていた。
いま、それが直っている。
二つ目は、壁際のカラーボックスの上に、小さな観葉植物が置いてあることだった。
手のひらに乗るくらいの、緑の丸いやつである。
――増えている。
この人の部屋で、物が増えているのを見たのは、初めてだった。
「馬剃さん」
「はい」
「あれ、いつ」
「先週です」
「なんで」
「……特に、理由はありません」
返事が、短い。
俺は、それ以上聞かなかった。
聞かなかったが、窓を閉めるときに、もう一度だけ見た。
水受けの皿に、水が入っていた。
入れたばかりの、きれいな水だった。
九時五十分。
俺は、療養の条件について、確認事項を読み上げることにした。
昨日、退院時に医師が言ったことである。
「一、一週間は消化のいいものを。二、鉄剤は三か月。三、無理はしない」
「承知しています」
「三が抜けてる」
「抜けていません」
「じゃあ、今日は安静で」
「安静とは、どの範囲を指しますか」
――来た。
「寝てること」
「起き上がることは」
「トイレはいい」
「読書は」
「……いいよ」
「入浴は」
「シャワーだけにして」
「時間の上限は」
「……十分」
「根拠は」
「俺です」
「……出典が、あなたですか」
「初めて言った」
「盗まれました」
「借りた」
「三回目です」
「二回で成立するんじゃなかったですか」
「……その運用は、私が定めたものではありません」
「三分前に定めてたよ」
「では、資料の読みこみは」
「駄目です」
「読書と資料の読みこみは、行為として同一です」
「目的が違うでしょ」
「目的による差異は、退院時指導の文書に記載がありません」
「じゃあ書いとく」
「あなたに、当該文書の作成権限はありません」
「権限外の行為に、罰則ある?」
「……ありません」
「じゃあ書きます」
「書かないでください!」
天愛星さんの声が、久しぶりに大きくなった。
大きくなって、そのあと、自分でびっくりした顔をした。
顔が、ぼわ、と赤くなっていく。
……熱かもしれない。
三十六度八分だったので、たぶん熱ではない。
「ノートパソコン」
「え」
「そこにあるの、出して」
「業務上の必要が」
「土曜だよ」
「土曜日にも業務は発生します」
「発生させてるの、馬剃さんだよ」
「…………」
「はい、預かります」
「返してくださいっ!」
「月曜に返します」
「いま返してくださいっ」
「返さない」
「これは、私物です」
「私物だね」
「私物の占有を、あなたが」
「あと、そこの青いノートも」
「それは業務ではありません」
「じゃあ、いいね。置いていける」
「駄目ですっ!」
「なんで」
「……療法です」
「療法」
「認知の」
「認知療法」
「はい」
「なにを認知するの」
「……現実です」
天愛星さんが、両手でノートを胸に抱えた。
抱えて、そこから早口になった。
「思ったことを、そのまま書きます。数日置いてから読み返します。そうすると、当時の自分が事実と願望を混同していたことが客観的に確認できるので、そんなはずはない、と結論づけることが可能になり、以上が本療法の全体像です」
「……いま、一息で言った?」
「言っていません」
「呼吸してた?」
「呼吸は、常時しています」
「効いてる? それ」
天愛星さんは、少し黙った。
「……効かない年が、増えました」
「どういうこと」
「なんでもありません」
「いや」
「なんでもありませんっ」
俺は、それ以上聞かなかった。
聞かなかったので、意味は分からないままである。
分からないままだが、なんとなく、いま聞くべきではない気がした。
この「気がする」を、俺は五か月半で、たぶん四十回くらいやっている。
「じゃあ、こうしよう」
俺は、パソコンを自分の鞄に入れながら言った。
「馬剃さんが、俺の作ったもの全部食べたら、返します」
天愛星さんが、二秒、黙った。
「……条件付き決裁ですね」
「そうです」
「条件の充足は、誰が判定しますか」
「俺です」
「不服申立ての手続きは」
「ないです」
「……独裁です」
「独裁です」
十時十分。
俺は、米を研ぎはじめた。
おかゆである。
病院で三日、全粥を食べていた人に、いきなり普通の飯は出せない。
昨日、退院前に、栄養士の人に十分ほど聞いてきた。
聞いてきたので、大丈夫だと思っていた。
結論から言うと、大丈夫ではなかった。
俺は、米を三合、研いでいた。
研ぎ終わって、鍋に入れて、水を入れる段になって、気づいた。
おかゆの水の量は、米の五倍から七倍である。
三合は、五百四十ミリリットル。
五倍で、二・七リットルである。
鍋の容量は、三リットルである。
……入る。
入るが、それは「三リットルの液体が入る」という意味であって、「三リットルのおかゆを食べる人間が存在する」という意味ではない。
「温水さん」
背後から声がした。
「寝ててください」
「音が、変です」
「変じゃない」
「米を研ぐ音が、三分続いています」
「丁寧に研いでるんです」
「無洗米ではないのですか」
「……」
「袋を拝見しても」
「見ないで」
「なぜですか」
「三合、研ぎました」
沈黙が、三秒あった。
「……三合、ですか」
「三合です」
「なぜ、二回おっしゃるんですか」
「二回言うと本当になるんで」
「本日の事実は、一回目で確定しています」
「そこは適用しないんだ」
「事実に、成立要件は不要です」
「厳しいな」
「おかゆの標準的な炊き上がり倍率は、米一に対して水五から七です」
「知ってる。いま知った」
「三合ですと」
「言わないで」
「およそ、十二食分です」
「言ったじゃん」
――昨日の店員さん。
あの人は、たしかに驚いていた。
三合と言った瞬間に、声が裏返っていた。
二リットル以上になる、とも言っていた。
俺は、それを、一秒も持ち帰っていなかった。
研修中の名札の人に、俺は昨日、正解を全部教わっている。
天愛星さんが、台所の入口に立って、鍋を見ていた。
パジャマ姿で、腕を組んで、鍋を見ている。
その顔が、なんというか、ものすごく楽しそうだった。
「あなた、数字の方では」
「数字は得意です」
「では、なぜ」
「米は数字じゃないんだよ」
「米は数字です」
「そうだね」
「あなたは、五月に、五十分の説明を二本、三十分前に組み替えた方です」
「そうだね」
「その方が、米で敗北しています」
「敗北しました」
「記録します」
「やめてください」
「事実は変わりません」
「変わってほしい」
天愛星さんが、笑った。
声を出して、肩を、くく、と揺らして笑った。
俺は、それを見て、水の量を間違えた。
二・七リットルのところを、三リットル入れた。
十時五十分。
鍋が、こと、と最初の音を立てた。
俺は、コンロの前で、スマホを見ていた。
大貫からである。
『温水さん、今日どこですか』
『家』
『嘘ですよね』
『なんでだよ』
『温水さん、土曜に家にいる人じゃないです』
『どういう認識だ』
『土曜は原稿か、資料集めか、あと本屋って言ってました』
『九月だぞ』
『じゃあ冬の原稿ですよね』
『……』
『既読無視やめてください』
『既読無視です』
『言うんですね!』
俺はスマホを伏せた。
伏せた瞬間、背後から声がした。
「温水さん」
「寝ててください」
「塩の量ですが」
「ひとつまみです」
「ひとつまみとは、何グラムですか」
「……知らない」
「出典は」
「栄養士さんです」
「では、その方に確認を」
「土曜だよ」
「電話番号は」
「病院の代表番号しか知らない」
「では、代表に」
「土曜に代表にかけて『ひとつまみは何グラムですか』って聞く人間、いないんだよ」
「一人います」
「馬剃さんです」
「はい」
「駄目です」
天愛星さんは、そこで少し考えて、こう言った。
「では、私が計測します」
「え」
「指を三本、こう使いますね」
「そうです」
「その状態で、私の指と、あなたの指の容量は異なります」
「そうだね」
「したがって、『ひとつまみ』は個体差を含む単位です」
「そうだね」
「単位として、不適切です」
「料理に文句を言うな」
「文句ではありません。指摘です」
「同じなんだよなあ」
「同じではありません」
この人は、九月七日にも、同じことをやった。
掃除機をかける範囲について、巾木の内側か外側かで五分揉めた。
あのときの結論は「巾木の分です」だった。
結論というより、ただの言い張りである。
十一時十分に、電話が鳴った。
八奈見杏菜からだった。
「はい」
『あ、温水君? いま馬剃さんち?』
「なんで知ってるんだよ」
『大貫君が学食で喋ってたよ』
「あいつ」
『鷲尾課長とね、日替わりの列のとこで三分くらい。うち、カウンター越しに丸聞こえだから』
「学食の情報網、こわいな」
『情報網じゃないよ。あたし、地獄耳なの』
「自分で言うんだ」
『言うよ。強みだもん』
むしゃ、と音がした。
この人は、十六年前から、電話中に必ず何かを食べている。
「八奈見さん、なに食ってんの」
『まかないの唐揚げ』
「土曜だぞ」
『土曜も人はお腹すくじゃん。あ、これ揚げたてだからカロリーないやつだよ』
「ないわけないだろ」
『あるよ。でも揚げたては油が落ちきってないから、まだお肉のほうにカウントされてないんだよ』
「意味が分からない」
『冷めてから食べるほうが太るんだって。だから熱いうちに食べるのが正解なんだよ』
この理論は、十六年前からまったく進歩していない。
『で、温水君はなに作ってんの』
「おかゆ」
『何合炊いた?』
「……三合」
『は?』
「三合」
『温水君、おかゆ三合って十二食だよ?』
「そう言われた」
『誰に』
「本人に」
『あはは、いいじゃん。……あ、でも大丈夫だよ。おかゆって水で薄まってるからさ、実質カロリーゼロだから何杯でもいけるって』
「米の量は変わらないんだよ」
『……え』
「三合は、三合だよ」
『…………』
「八奈見さん?」
『にゅああっ!』
「どうした」
『味噌汁が熱かった』
「いま関係ないだろ、それ」
八奈見が、何かをごくりと飲みこんだ。
飲みこんで、少し声を落とした。
『っていうかさ、温水君』
「なに」
『なんであたしに言わないの』
「なにを」
『馬剃さんが倒れたこと。うち、栄養士さんいるんだよ? 病人食の相談くらい乗れたじゃん』
「……八奈見さんに言うと、なんか、大ごとになりそうで」
『大ごとにしたほうがいいことだってあるじゃん』
「そうかな」
『そうだよ。温水君、あたしのこと何屋だと思ってんの』
「学食」
『給食の人じゃないんだよ。あたし、いちおう五店舗見てるの』
『ていうか温水君、それ、馬剃さんにも同じこと思われてるからね』
「なにが」
『言うと大ごとになるから言わない、ってやつ。あの子がそれやって、倒れたんでしょ』
「……」
『温水君、そういうとこだよ』
……返す言葉がない。
この人は、昔からそうである。
三分ふざけて、四分目にいちばん痛いところを刺してくる。
しかも、刺した自覚が本人にあるのかどうか、十六年たってもまだ分からない。
『十六年前もさ、そうだったよね』
「なにが」
『困ってる子がいると、勝手に動くやつ』
「動いてない」
『動いてるじゃん。文化祭も、部長会も、選挙も』
「うるさいな」
『責めてないってば』
「責めてる」
『責めてないよ』
電話の向こうで、椅子の鳴る音がした。
『……あの日さ、あたし、体育館のいちばん後ろにいたんだよ』
「なにが」
『温水君の、応援演説』
「……」
『あれ聞いててさ』
「うん」
『……世界なんて滅べばいいと思った』
「重いな」
『冗談だってば』
笑い声がした。
笑い声はしたが、始まりが〇・五秒くらい、遅かった。
『まあいいや。温水君』
「はい」
『ごはん、ちゃんと最後まで見ときなよ』
「見てる」
『よし。あ、それと今度うちの大盛り食べに来てね』
「大盛りは断る」
『断れないよ。うち、大盛り無料だもん』
「理屈がおかしいだろ」
『無料は断れないんだよ、温水君』
電話が切れた。
……あの人は、十六年たっても、こっちの話を聞かない。
「温水さん」
「寝ててくださいって」
「どなたからですか」
「八奈見さんです」
「……学食の」
「学食の」
「なぜ、ご存じなのですか」
「大貫が学食で喋ったらしい」
「……情報管理の観点から、重大な問題があります」
「うちの職場、全部これだよ」
「改善すべきです」
「起案しますか」
「……します」
「土曜だよ」
「……月曜に、します」
「そうしてください」
俺は鍋のふたを開けた。
白いのが、ぐつ、と一回ふくらんだ。
十一時四十分。
インターホンが、ぴんぽーん、と鳴った。
鳴った瞬間、俺の視界の端で、何かが高速で動いた。
天愛星さんである。
「馬剃さん」
「はい」
「走らないで」
「走っていません」
「走ってた」
「早歩きです」
「点滴が抜けて、まだ二日目だよ」
「本日の体温は三十六度八分です」
「そういう問題じゃないんだよなあ」
天愛星さんは、玄関で、宅配便の箱を受け取った。
わりと大きい箱である。
受け取って、玄関の三和土に置いた。
置いて、そこから、動かなかった。
「……上がらないの」
「上がります」
「箱は」
「あとで」
「重くない? 運ぶよ」
「結構です」
「一秒で断ったね」
「〇・四秒です」
「自分で測るな」
俺は、鍋のふたを開けながら、玄関のほうを見た。
箱には、送り状が貼ってある。
品名の欄が、こちらからは見えない角度に、きれいに置き直されていた。
……角度である。
この人は、角度で防御をする。
「見ないでくださいっ!」
天愛星さんが、玄関と俺のあいだに、ばっ、と立った。
立ってから、自分が立ったことに気づいて、二歩戻って、それから、また立った。
……守っている。段ボールを。
「見てない」
「いま、玄関のほうを見ましたっ」
「換気扇の位置を確認してた」
「換気扇は、台所です」
「……」
「温水さん」
「はい」
「あなたは、嘘をつくとき、必ず具体的な設備の名前を出されます」
「やめてください、その分析」
「馬剃さん」
「はい」
「中身は」
「……調査資料です」
「その調査、いつ終わるの」
「終わりません」
即答だった。
〇・五秒である。
……終わらないらしい。
天愛星さんが、鞄からアルミの小袋を出した。
破って、口に入れて、水で流しこんだ。
八月十六日と、同じ粉である。
「……予防です」
「まだ何も聞いてないよ」
「聞かれる前に、予防します」
「先手なんだ」
「先手ですっ」
俺は、それ以上、何も聞かなかった。
八月十六日に二十四冊買ったときも、俺は何も聞かなかった。
聞かないことにしている、というより、聞き方が分からない。
鍋の中で、こぽ、と最初の泡が上がった。
「温水さん」
「寝ててください」
「三回目です」
「なにが」
「本日、寝ていろと言われたのが」
「四回目だよ」
「数えていらっしゃったんですか」
「数えます」
「……何か、手伝います」
「駄目です」
「洗い物なら」
「駄目です」
「拭くだけなら」
「駄目です」
「立っているだけなら」
「それ、手伝いじゃないよね」
「監督です」
「監督されると、こっちが緊張するんだよ」
「あなたが緊張されるところを、私は見たことがありません」
「毎日してます」
「いつですか」
「……言わない」
「短いです」
「はい」
「本当に隠したいときだけ、短くなりますね」
「そうだね」
「認めるんですか」
「認めたほうが早いんで」
「……本日、二回目です」
「二回で成立だね」
「その運用は、やめてください」
結局、天愛星さんは、台所の入口の柱に寄りかかって、そこから動かなかった。
寄りかかるという姿勢を、この人がとるのを、俺は初めて見た。
十二時二十分。
できた。
白い。
塩を、ひとつまみ入れた。
あとは、卵を溶いて回し入れて、火を止めて、ふたをして三分置いた。
栄養士の人に言われたとおりである。
俺は、それを、昨日買った茶碗によそった。
この部屋には、茶碗もなかった。
二つ入りのうちの、片方である。
もう片方は、鞄の中で、まだ紙に包まれたままだった。
「どうぞ」
「……いただきます」
天愛星さんは、テーブルの前に正座した。
正座である。
背筋が、定規で引いたようにまっすぐだった。
「馬剃さん」
「はい」
「その姿勢、しんどくない?」
「しんどくありません」
「昨日も同じこと言ったよね」
「言いました」
「そのときも嘘だったよね」
「……崩します」
天愛星さんは、正座を崩した。
崩したところが、ぴったり横座りだった。
崩し方まできれいな人である。
スプーンが、一口目を運んだ。
天愛星さんが、止まった。
スプーンを口に入れて、飲みこんで、そこで、動かなくなった。
俺は、三秒待った。
五秒待った。
「……どうかした?」
「……いえ」
「まずい?」
「……いえ」
「正直に言って。塩、入れすぎたかも」
「……おいしいです」
言ったあと、天愛星さんは、スプーンを茶碗の縁に置いた。
置いて、両手を膝に乗せた。
「二回目です」
「二杯目?」
「いえ」
「……何が」
天愛星さんは、しばらく黙っていた。
黙って、それから、茶碗を見たまま言った。
「人に作っていただいたものを、おいしいと思ったのが、です」
「……二回目です」
俺は、返事ができなかった。
「一回目は」
「……クレープです」
十六年前の十二月である。
ときわ通りの、駅の近くの、狭い間口の店だった。
勉強会の帰りに、この人が腹を鳴らしたので、俺は三百五十円のクレープを買った。
この人は、一番上に書いてあるものを選んだ。選ぶ基準を持っていないと言った。
そして、「人生で初めて食べます」と言った。
俺は「そうなんだ」としか言わなかった。
十六年、俺はあれを、ただのクレープだと思っていた。
三百五十円の、レジ袋にも入れてもらわなかった、ただのクレープである。
天愛星さんは、それを、一回目と数えていた。
俺は、台所の壁に寄りかかった。
寄りかからないと、たぶん、立っている姿勢の維持に支障が出るところだった。
胸の奥のあたりが、じん、と重くなって、そのあと、熱くなった。
この感じに、俺は名前をつけないことにしている。
五年前から、そうしている。
最近、その運用が、あまりうまくいっていない。
天愛星さんは、二口目を食べた。
三口目を食べた。
途中で一度、鼻をすすった。
俺は、聞こえなかったことにした。
茶碗が空になった。
「おかわり、あるけど」
「……いただきます」
「十一食分あります」
「……計画的に消費します」
「ゼリーと同じこと言ってるよ」
「ゼリーは、まだ七個あります」
「合わせて十八食だね」
「……多いです」
「多いね」
「……冷凍できますか」
「できます」
「では、九食を冷凍します」
「保存容器は」
「……ありません」
「買ってくる」
「本日、二度目の私費支出です」
「精算しないでよ」
「します」
「しないで」
「レシートは、手帳に挟みます」
「そこ、経費の帳簿じゃないよね」
「……別の帳簿です」
「別のって」
「……なんでもありません」
「急に短くなったね」
「気のせいです」
「〇・五秒で否定したね」
「測らないでください」
「急に現実的になったね」
「私は、常に現実的です」
「三合研いだ人間の前で言うのは、けっこう効きます」
「……記録しますか」
「しないでください」
「では、しません」
天愛星さんが、二杯目を受け取った。
受け取って、両手で茶碗を持って、こう言った。
「温水さん」
「はい」
「……記録は、しませんが」
「はい」
「覚えては、おきます」
俺は、おたまを鍋に落とした。
落として、拾って、洗い直した。
十三時四十分。
俺は、冷蔵庫に小さなタッパーを入れた。
天愛星さんが、後ろから覗きこんできた。
「それは、なに」
「すりおろしたりんご」
「なぜ」
「病人といえば、これなんだよ」
「出典は」
「うちの母です」
「……」
「熱を出すたびに、これが出てきた」
天愛星さんの手が、冷蔵庫のドアの縁で、止まった。
「本日、初めてです」
「なにが」
「あなたが、ご家族の話をされたのが」
「……そうだっけ」
「四月一日から、初めてです」
「数えてるんだ」
「数えます」
「……たいした話じゃないよ」
「はい」
「すりおろすだけなんで」
「はい」
「……」
「短いです」
「本日、三回目だね、それ」
「三回で、本当になります」
「上限、二回に引き下げたんじゃなかった?」
「……失念しておりました」
「珍しいな」
「珍しいです」
「記録しますか」
「しません」
「なんで」
「……都合が悪いので」
「馬剃さんでも、そういうのあるんだ」
「あります」
「へえ」
「へえ、と言わないでください」
ぱたん、と冷蔵庫が閉まった。
閉まったあと、この人は三秒くらい、そのドアを見ていた。
十四時十分。
俺は、洗い物を終えて、鞄を持った。
「じゃあ、帰る」
「はい」
「パソコンは月曜に持ってくる」
「はい」
「あと、鉄剤、飲んだ?」
「……これから飲みます」
「いま飲んで」
「はい」
天愛星さんは、水と一緒に薬を飲んだ。
飲んで、コップを置いて、玄関まで送りに出てきた。
この部屋には、コップが一つある。九月七日に、俺が持ってきたものである。
「馬剃さん」
「はい」
「来週の土曜も来ます」
「聞いていません」
「いま言いました」
「事前通告の期限が」
「実地調査は、事前通告なしです」
「そのような制度は」
「今日から、二回目です」
「二回で、制度になりますか」
「三回言うと本当になるって、聞いたんで」
「……上限を二回に引き下げたのは、私です」
「じゃあ、もう成立だね」
「……べ、別に、変な期待をしているわけではありませんからねっ」
「なんの期待?」
「……」
「馬剃さん」
「……いまのは、忘れてください」
「忘れます」
「早いですっ!」
「早く忘れろって言われたんで」
「……そんなに早く忘れないでください」
「どっちなんだ」
「……両方です」
「無理があるだろ」
「無理を承知で申し上げています」
天愛星さんは、俺の顔を見て、それから、視線を落とした。
何か言おうとして、口が半分開いて、閉じた。
閉じて、こう言った。
「……鍋は、置いていってください」
俺の鍋である。
昨日、閉店十五分前に買った、二千三百円のやつである。
値札は、いまこの人の手帳の中にある。
「……いいけど」
「ありがとうございます」
「使うの?」
「……練習します」
俺は「うん」とだけ言って、ドアを閉めた。
階段を降りながら、俺は考えていた。
あれは、俺の鍋である。
俺の鍋が、あの部屋にある。
置いてきたということは、いつか取りに来るということである。
――取りに来る用事が、立った。
来週も、再来週も、勝手に立っていた。
二階と一階のあいだの踊り場で、俺は一度、立ち止まった。
立ち止まって、五秒くらい、手すりを握っていた。
……あの人、最初から、それを狙って言ったんじゃないだろうな。
スマホが、ぴこん、と鳴った。
『鍋の返却期限を、伺ってもよろしいでしょうか』
――狙ってた。
俺は、階段の途中で、しばらく画面を見ていた。
見ていたら、後ろから小さい足音がして、裏門の猫が俺を追い越していった。
この辺にも出るのか、ハカセ。
俺は、返事を四回書き直して、結局、こう送った。
『未定です』
既読が、〇・三秒でついた。
速すぎるだろ。