(九月二十四日〜十月十一日/温水視点)
「四百二十七通です」
「多いな」
「昨年比、三十一通増です」
「増えたか」
「増加要因は、分析中です。……体感では、六月の相談会の子が何人かいます」
「顔、覚えてるんだ」
「受験番号ではなく、志望理由書の癖で分かります」
「癖で」
「文体は、顔より覚えます」
九月二十四日、水曜日。
入試広報課の島に、段ボールが三つ積んである。
中身は、総合型選抜の出願書類だった。
九月に入ってから、俺の生活はほとんど変わっていない。
変わっていないというのが、正確には問題である。
九月七日に、あの部屋は片付いた。
片付いたので、俺には行く理由がなくなった。
なくなったのに、俺は毎日、三十センチ横に座っている。
毎日八時間、業務の話をして、定時で帰る。
それだけである。
それだけなのに、四月より、はるかに落ち着かない。
「温水主任」
「はい」
「志望理由書の確認は、どこまでを事務が行うのでしょうか」
「形式だけです」
俺は、書類の束を一つ受け取った。
「文字数が足りてるか、氏名と受験番号があるか、それだけ。中身は評価しません」
「不備は、あるのですか」
「毎年ある。いちばん多いのが、氏名の書き忘れ」
「氏名を、ですか」
「志望理由は千二百字びっしり書けてるのに、名前が空欄。緊張なんだと思う」
「……分かる気がします」
「分かるんだ」
「評価は、学部の先生方が」
「そうです。うちが中身に触ると、公平性の問題になるんで」
「承知しました」
総合型選抜というのは、書類と面接で選ぶ入試である。
むかしはAO入試と呼んでいた。名前が変わったのが五年前で、名前と一緒に中身も少し変わった。
うちの場合、出願書類は四点ある。
調査書。志望理由書。活動報告書。学修計画書。
このうち、いちばん書くのが難しいのは、たぶん志望理由書だ。
千二百字である。十八歳が、自分の人生の理由を千二百字で書く。
俺は、十八歳のとき、あれを書けと言われたら、たぶん一行も書けなかった。
書けないまま、面倒になって、一般入試を受けたと思う。
天愛星さんは、そこから三時間、黙って束をめくった。
速かった。
一通あたり、たぶん二十秒である。
形式確認だけなら、それで足りる。
問題は、彼女が途中で三回、手を止めたことだった。
三回目のとき、俺は聞いた。
「馬剃さん」
「はい」
「読んでます?」
ぴたり、と手が止まった。
「……形式の確認です」
「うん」
「文字数と、氏名と、受験番号です」
「うん」
「……読んでいます」
俺は、笑わなかった。
笑うところではないと思ったからだ。
「まあ、読むよね」
「はい」
「目に入るし」
「入ります」
「ちなみに、何通読みました」
「……全部です」
「形式確認は」
「並行して行っています」
「そのうえで、二十秒なんだ」
「速読は、文科省で習得しました」
「習得するもんなんだ」
「答弁資料が、一晩で八百枚来ますので」
「八百」
「読めないと、翌朝、大臣が困ります」
「そこまで背負ってたんだ」
「背負ってはおりません。……ですが、読み落とすと、人が一人、頭を下げます」
「うん」
「ですので、読みます。全部」
「いまも?」
「……いまも、全部です」
「四百二十七通」
「四百二十七通ですっ」
「温水主任」
「はい」
「この方は、志望理由書と学修計画書が、噛み合っていません」
「よくあります」
「志望理由書では地域の医療について書かれていますが、学修計画は国際関係です」
「一貫性は、先生方が見ますよ」
「……解釈違いです」
「え」
「……失礼しました。整合性の問題です」
「いま、なんて言いました」
「整合性です」
「その前」
「整合性です」
「二回目も同じこと言いましたね」
「……事実は、変わりません」
「変わりましたけどね、いま」
「変わっていませんっ」
天愛星さんの手が、束の上でぴたりと止まった。
止まって、それから、束の角を三回そろえた。
三回である。
一回でそろっていた。
俺は、それ以上、言わなかった。
言わなかったが、この人の語彙が、たまに向こう側から漏れてくることは、八月にもう知っている。
天愛星さんは、その一通を、机の上に置いた。
置いて、しばらく見ていた。
「温水主任」
「はい」
「この方の志望理由書には、本学のことが、一行も書かれていません」
俺は、椅子を半分回した。
「よくありますよ」
「よくあるのですか」
「四百二十七通あったら、三十通くらいはそうです」
「三十」
「自分の話しか書いてない。将来やりたいことと、高校でやったことだけ」
「その方たちは、どうなるのですか」
「面接で挽回する子もいる。毎年、何人かは」
「……それは、不利になりますか」
「なりますね。総合型は、志望理由の一致度を見るんで」
「はい」
「『なぜ本学か』が書けてないと、点は伸びないです」
天愛星さんは、その一通を、束に戻した。
戻して、次を取った。
それきり、彼女は手を止めなかった。
その日、彼女は十七時十五分に帰らなかった。
十七時四十分まで残って、四百二十七通のうち、二百三十通ぶんの形式確認を終えた。
残業の申請は、出していた。
――出すようになったな。
俺は、そう思った。
四月は、出さなかった。六月も出さなかった。
九月から、出すようになった。
鷲尾課長が三回言ったからである。
その日の帰り、電車の中で、彼女が言った。
「温水さん」
「うん」
「私、二十三社受けました」
「聞いた」
「志望動機を、二十三通、書きました」
「うん」
「全部、嘘ではありませんでした」
電車が、揺れた。
「でも、全部、本当でもありませんでした」
「うん」
「『貴学の教育理念に共感し』と書きました。二十三回」
俺は、つり革を持ち直した。
「……理念、読んだ?」
「読みました。二十三校ぶん」
「読んだんだ」
「読まないと書けません」
「まあ、そうか」
「読んで、書いて、二十二社に落ちました」
二十二社。
俺は、その数字を、頭の中で並べた。
二十三社受けて、二十二社に落ちる。
九か月である。
九か月のあいだ、この人は毎月、誰かの理念を読んで、共感したふりを書いて、断られていた。
「……しんどいな、それ」
「しんどかったです」
「うん」
「三社目までは、落ちた理由を分析していました」
「途中でやめた?」
「十社目でやめました」
「なんで」
天愛星さんは、少しだけ笑った。
「分析すると、理由が全部、私自身になるからです」
俺は、返事を探した。
探して、見つからなかった。
「あの、志望理由書の彼は」
天愛星さんが言った。
「本学のことを、一行も書いていませんでした」
「うん」
「私は、それを『不利です』と言われました」
「言った」
「はい」
彼女は、窓の外を見ていた。
「……あの子は、嘘を書かなかっただけかもしれません」
俺は、そこで一つだけ、言った。
「馬剃さん」
「はい」
「その子、うちに落ちても、たぶん死なないよ」
「……はい」
「でも、馬剃さんがそれ思ったことは、たぶん、無駄にならない」
「なぜですか」
俺は、つり革を持ち直した。
「来年、志望理由書の書き方の講座、やろう」
「……講座」
「高校向け。うちの入試の説明とセットで」
「それは」
「まだ企画してない。いま思いついた」
天愛星さんが、こちらを見た。
「……温水さん」
「うん」
「いま、思いつきましたか」
「思いついた」
「三分前の会話から」
「三分前の会話から」
彼女は、しばらく黙っていた。
黙って、それから、手帳を出した。
「書きます」
「うん」
「三分前の会話を、書きます」
次の駅で、彼女は降りた。
俺は、その日の夜、共有フォルダの『99_温水メモ』に二行足した。
『志望理由書。書けない子=書くことがない子、とは限らない。嘘を書かなかった子がいる』
『高校向けの書き方講座。来年度検討。言い出したのは俺だが、元は馬剃さん』
三年後の誰かが読む。
読んで、たぶん意味が分からない。
意味が分からなくていい。書いておくことに意味がある。
……ただ、二行目は、少し余計だったかもしれない。
俺は、いったん消した。
消して、五秒考えて、また打った。
十月十一日、土曜日。
秋の合同進学相談会である。
会場は、六月と同じホテルの宴会場だった。
参加大学は、九十六校。来場は千人と少し。
六月と違うのは、来るのが三年生ばかりだということだ。
十月の相談会は、静かである。
もう決まっている子が、確認に来る。
まだ決まっていない子が、焦って来る。
どちらも、六月より真剣だった。
「六月と同じ配置でいいですか」
「いいです。あ、パンフは刷り直したほう。訂正が入ったんで」
「三十七ページの誤植ですね」
「よく覚えてるな」
「私が見つけましたので」
設営中に、俺は通路の向こうを見た。
――人が、集まってる。
斜め向かいのブースに、行列ができていた。
開場前である。
開場前に列ができるブースというのは、まずない。
列の理由は、机の上にあった。
小さいガラス瓶が、六本並んでいる。
中身は、たぶん液体ではない。粉か、粒か、そういうものだった。
その横に、顕微鏡が一台。
高校生が、順番に覗いている。
「うわ、動いてる」
「生きてるからな」
中の人が、そう答えていた。
覗いた子は、たいてい「うわ」と言う。
「うわ」と言ったあと、必ず一つ質問をする。
看板に、こう書いてあった。
『農学部 醸造科学科』
……珍しいな。
俺は、そう思った。
全国で、醸造を看板に掲げている学科は、たぶん十もない。
だから、来る子は最初から決めて来る。列ができる理由は、それだ。
俺は、その机の向こうに座っている人を見た。
――先に、座り方が目に入った。
名札を見る前である。
人間の記憶というのは、たぶん、そういうふうにできている。
顔でも声でもなく、椅子への沈み方みたいなものが、十六年残る。
背中が、丸かった。
椅子に浅く座って、上体を前に倒して、机に肘をついている。
その座り方を、俺は知っている。
文芸部の部室で、十六年前に、毎日見ていた座り方だった。
「玉木先輩」
俺は、そう呼んでいた。
その人が、顔を上げた。
髪が、短くなっていた。
あと、少し痩せた気がした。
背が高いのは、変わっていない。
顔も、あまり変わっていなかった。
「……おう」
その人は、そこで少し笑った。
「久しぶりだな。元気そうだ」
――変わってない。
十六年ぶりに会った後輩に、この人は、まず「元気そうだ」と言う。
「先輩、驚かないんですか」
「驚いてる」
「顔に出てないですけど」
「出ないんだよ、俺は」
「十六年ぶりですよ」
「うん。で、元気か」
「……元気です」
「なら、いい」
玉木先輩は、机の上の瓶を並べ直した。
「先輩、その瓶は」
「酵母。乾燥株だ」
「六本もあるんですか」
「六株ある」
「見分けつくんですか」
「つく」
「……つくんですね」
「顔だ」
「高校生に、見せるんですか」
「見せる。説明するより速い」
「開場、あと十分だぞ」
「あ、はい」
「終わったら、話そう」
俺は、なぜか少し笑ってしまった。
「温水、どこの大学」
「そこです。斜め向かい」
「入試広報?」
「はい」
「そうか」
「五年目です」
「聞いてない」
「言いたかったんです」
玉木先輩は、うなずいて、それから机の上の瓶を並べ直した。
「終わったら、飯行くか」
「行きます」
「古都も来る」
「え」
「今日、東京にいるんだ。商談で」
俺は、そこで、少し身構えた。
「……あの」
「なんだ」
「先輩、月之木先輩と」
「結婚した」
「いつですか」
「七年前」
「おめでとうございます」
「おう」
……「おう」で済ませるのか。
俺は、少しだけ感心した。
この人は、人当たりがいい。
誰にでも普通に話しかけるし、後輩の面倒もよく見る。
部室で困っているやつがいたら、最初に声をかけるのは、いつもこの人だった。
ただ、大事なところで、言葉を増やさない。
長く喋っているうちは、たぶん、大したことを言っていない。
この人が三語で喋りはじめたら、そこが本題である。
十六年前、俺はそれを、三回くらい見た。
開場の放送が流れた。
その日、俺は自分のブースで、二十二組に説明した。
十月の相談会は、質問が具体的である。
六月は「どんな大学ですか」だった。
十月は「三教科型と共通テスト利用、どっちが有利ですか」になる。
答え方も変わる。
六月は誘導だが、十月は情報である。
「三教科型と共通テスト利用、どちらが有利ですか」
「去年の実質倍率は、三教科が二・八、共テ利用が四・一です」
「じゃあ、三教科のほうが」
「ただ、共テ利用は五校まで併願できます。数字だけで決めないほうがいいです」
そういう十月だった。
天愛星さんは、十九組だった。
うち二組は、六月に会った子だった。
覚えていたらしい。手帳を見ずに、名前を呼んでいた。
あとで「よく覚えてましたね」と言ったら、こう返ってきた。
「六月の手帳を、昨夜、読み返しましたので」
「準備がいい」
「準備だけが、取り柄です」
俺は、自分のブースに戻った。
戻る途中で、隣を歩いていた人が言った。
「温水さん」
「うん」
「いまの方は」
「玉木先輩。文芸部の、俺の一つ上」
天愛星さんの足が、止まった。
「……玉木先輩」
「知ってるよね」
「存じております」
「じゃあ、あとで挨拶して。飯行くらしいんで」
「え」
「あと、月之木先輩も来る」
天愛星さんの顔から、表情が抜けた。
持っていたパンフレットの束が、ばさ、と床に落ちた。
落ちたことに、たぶん気づいていない。
「……本日は、失礼します」
「え」
「体調が」
「馬剃さん」
「万全ではありません」
「六時間後の話だよ」
「六時間後に、悪化する可能性があります」
「予知ですか」
「体感ですっ」
「体感でそこまで出るんだ」
「出ますっ。私の体感は、〇・二秒まで出ますっ」
「それ、俺が言われたやつですよね」
「……返却いたしますっ」
「返却できないんだよなあ」
俺は、そこで、一つ確認した。
「月之木先輩、苦手でした?」
「いえ」
即答だった。
「苦手では、ありません」
「じゃあ、なんで」
天愛星さんは、しばらく床を見ていた。
「……卒業式の日に」
「はい」
「保健室に、連れていっていただきました」
――ああ。
あった。
鼻血のやつである。
あの日、玉木先輩が俺に「第二ボタンをくれ」と真顔で拝み倒していて、その横を通りかかったこの人が、ぴたり、と止まった。
止まって、両手で鼻を押さえて、そのまましゃがみこんだ。
血は、見ていない。
月之木先輩が、ついたてみたいに前に立って、そのまま保健室へ連れていったからだ。
なぜあの場面で倒れたのかは、十六年たったいまでも分からない。
「そのとき、あの方に言われました」
「なんて」
「『いつでも名古屋に遊びにいらっしゃい』と」
天愛星さんは、鞄の持ち手を握り直した。
「……一度も、行っておりません」
十六年。
「それ、たぶん、怒られないと思うけど」
「怒られたほうが、楽です」
俺は、その場で、思わず言ってしまった。
「……逃げるの?」
天愛星さんが、こちらを見た。
三秒。
「……行きます」
卑怯だな、と自分でも思った。
この人に「逃げる」という単語を使うのは、たぶん、反則である。
十七時三十分、閉場。
店は、玉木先輩が予約していた。
会場から徒歩八分の、雑居ビルの地下だった。
看板が小さくて、二回通り過ぎた。
個室ではなかった。カウンターと、四人掛けのテーブルが三つ。
道中、天愛星さんは一言も喋らなかった。
喋らないまま、鞄の持ち手を、両手で握っていた。
「馬剃さん」
「はい」
「月之木先輩、名古屋の件、たぶん怒ってないですよ」
「……」
「あの人、そういうの、根に持たない人なんで」
天愛星さんは、前を向いたまま答えた。
「存じております」
「じゃあ」
「私が気にしているのは、そこだけではありません」
「じゃあ、どこ」
「……申し上げられません」
短かった。
俺は、そこで聞くのをやめた。
やめたのは、店に着いたからである。
俺たちが着いたとき、すでに一人座っていた。
「あら」
その人は、瓶ビールを傾けながら、こちらを見た。
傾け方が、慣れていた。
ラベルを上に向けて、注ぎ口を安定させて、泡の量を目で測っている。
この人は、たぶん、一日に何十回もこれをやっている。
「生きてたのね」
月之木古都先輩は、髪を短く切っていた。
肩より上である。
十六年前は、後ろで二つに縛って、腰のあたりまであった。
眼鏡は、変わっていなかった。
いや、フレームは変わっている。
変わっていないのは、その奥の目のほうである。
着ているのは、紺のシャツと、デニムだった。
袖をまくった腕が、少し焼けている。
「……ご無沙汰してます」
「十六年ね」
「はい」
「三十四?」
「三十四です」
「うわ、おばさんじゃん、あたし」
「先輩、三十六ですよね」
「言うな」
「今日は、商談と伺いました」
「そう。百貨店の催事。決まったわよ、ばっちり」
「おめでとうございます」
「今日二回目のおめでとうね」
俺は、そこで、少しだけ拍子抜けした。
説教が来ると思っていた。
綾野のときのような、優しい刺し方が来ると思っていた。
八奈見さんのような、大盛りの請求書が来ると思っていた。
来なかった。
「馬剃ちゃんも、久しぶり」
「ご無沙汰しております」
「うっわ、変わってない。喋り方が全然変わってない」
「……恐れ入ります」
「褒めてないから」
月之木先輩は、そこで一度、グラスを置いた。
「馬剃ちゃん」
「はい」
「一回も、来なかったね」
天愛星さんの背筋が、伸びた。
「……申し訳ございません」
「謝んなくていいよ」
「いえ」
「あたしも、一回も呼び直してないし」
月之木先輩は、瓶を持ち上げた。
「十六年、おあいこ」
俺は、その言い方を、たぶん一生使えない。
この人は、責めない。
責めないが、なかったことにもしない。
「一回も来なかったね」と言ってから、自分のぶんも同じだけ並べる。
綾野は「連絡くらいくれよ」と言った。
八奈見さんは、七品の賄いを出した。
この人は、おあいこにした。
「あと、あたし、あんたに嫌われてたもんね」
「はい」
「即答すんな」
「事実です」
「事実だけど!」
天愛星さんは、烏龍茶のグラスを両手で持ったまま、平然と言った。
「仕事を途中で放り出して、生徒会を辞められた方でしたので」
「うわ、言うじゃん」
「軽蔑に値すると、思っておりました」
「軽蔑」
「はい」
俺は、水を飲みかけて、むせた。
月之木先輩は、げらげら笑っていた。
「玉木、聞いた?」
「聞いた」
「軽蔑だって」
「事実だろ」
「あんたも言うな!」
「ですが先輩、当時の引き継ぎ書は完璧でした」
「そうでしょ」
「三日で読了しました。ふせんを四十一枚貼りました」
「……褒めてるの、それ」
「褒めています」
「あのさ」
「はい」
「褒めてるときと、けなしてるときの、顔が同じなのよ」
「同じではありません」
「同じ」
「……〇・三ミリ、違います」
「見えるか、そんなもん」
「見える方も、いらっしゃいます」
俺は、烏龍茶を吹きそうになった。
いま、名指しされた。
四人で座った。
「お二人が、奥へどうぞ」
「あんたたちが奥でいいのよ」
「お客様は奥です」
「……変わってないわねえ」
俺と天愛星さんが並んで、向かいに玉木夫妻である。
「はい、これ」
月之木先輩が、足元の紙袋から、一升瓶を出した。
テーブルに、どん、と置いた。
「店に持ちこみ交渉済み。抜栓料払った」
「え、いいんですか」
「いいの。うちの酒」
「交渉は、いつ」
「予約の電話で。慎太郎が」
「俺じゃない。お前だ」
「……あたしだったわ」
ラベルを見た。
『古都』
「……先輩」
「なに」
「これ」
「うちの蔵の、代表銘柄」
「名前が」
「名前がなに」
月之木先輩は、瓶を持ち上げて、俺のグラスに注いだ。
「先にあったのよ、こっちが」
「え」
「大正十四年から。あたしが生まれるより、六十年以上前」
「はい」
「で、あたしが生まれたとき、じいさんが『古都でいい』って言った」
「……酒から、名前を」
「酒から名前を」
月之木先輩は、自分のグラスにも注いだ。
「うちの母親、三日抵抗したらしいよ」
「三日」
「三日で負けた。じいさん、そういう人だったから」
「……先輩」
「なに」
「その、お名前は」
「うん」
「……素敵だと思います」
「え」
「酒の名前が先にあって、あとから人が来る。順番が、美しいです」
月之木先輩が、二秒、動きを止めた。
「馬剃ちゃん」
「はい」
「あんた、そういうこと真顔で言うのやめて」
「事実です」
「事実だから困るのよ」
この話を、この人はこのあと、あと二回した。
俺が数えた。
天愛星さんは、烏龍茶を頼んでいた。
三人以上いると、この人は飲まない。
四月の歓迎会も、八月の焼塩さんのときも、そうだった。
防具である。
「馬剃ちゃん、飲まないの?」
「体質でして」
「嘘つけ」
「た、体質ですっ」
「いま噛んだでしょ」
「噛んでおりませんっ」
「噛んだ」
「……舌が、一瞬、規程外の動きを」
「なにその言い訳」
――速い。
俺は、グラスを持つ手を止めた。
この人、一秒で見抜いた。
「え、なんで分かるんですか」
「あたし、酒売ってんのよ」
月之木先輩は、当然のように言った。
「二十年、人が酒を断る顔を見てきてんの。体質の人と、飲みたくない人の顔は、全然違う」
「……」
「馬剃ちゃんは、飲みたくない人の顔」
天愛星さんが、烏龍茶のグラスを両手で持った。
「……申し訳ありません」
「謝んなくていいよ。飲まなくていいから」
「はい」
「その代わり、匂いだけ嗅いで」
月之木先輩は、自分のグラスを、天愛星さんの前に置いた。
天愛星さんが、少し身を引いて、それから、顔を近づけた。
「……甘いですね」
「そう。米の匂い」
「はい」
「うちの水、硬水なの。だから発酵が速い。速いと甘い香りが出る」
「……お詳しいんですね」
「詳しいのが仕事なの」
「はい」
「秋あがりはもっと丸くなる。今度送ったげる」
「……お気持ちだけで」
「飲まなくていいのよ。嗅ぐだけで」
――喋り方が、違う。
俺は、そのとき気づいた。
酒の話をしているときのこの人は、十六年前の顔ではなかった。
部室でBL同人誌を広げていた人の顔でもない。
あれは、仕事をしている人の顔だった。
「先輩、蔵は」
「継いだ。八年前」
「え」
「親父が倒れてさ。出版社辞めて、帰った」
月之木先輩は、そう言って、一口飲んだ。
「編集、五年やってたのよ。楽しかった」
「はい」
「でも、蔵がなくなるほうが嫌だった。それだけ」
――それだけ。
この人は、いま、十六年ぶんの選択を、四文字で済ませた。
俺は、隣を見なかった。
見なかったが、天愛星さんが手帳を出さなかったことは、分かった。
「玉木先輩は、なんで蔵に入らなかったんですか」
俺は、そう聞いた。
――なんで農学部なんですか、とは聞かなかった。
それは、聞く必要がない。
十六年前の秋、この人は文系クラスから理転した。
理由は、部室の全員が知っていた。この人が、自分で言ったからである。
――古都の実家が、蔵だから。
二年生の秋に、そう言った。
言って、そこから一年半、この人は模試の判定を上げつづけて、名古屋の国立大学の農学部に受かった。
合格を聞いた日、小鞠が泣いた。
部室で、なぜか俺に抱きついて泣いた。あれは、いま思い出しても意味が分からない。
そういう人である。
この人は、自分の理由を、隠さない。
だから、俺が聞くべきなのは、そこではなかった。
玉木先輩は、グラスを置いた。
「入る予定だった」
「はい」
「修士出て、灘のメーカーに四年いた。修行のつもりで」
「はい」
「そのあいだに、古都の親父さんが倒れた」
月之木先輩が、静かに言った。
「八年前ね」
「そのとき、二人で計算した」
玉木先輩が続けた。
「蔵の状態が、よくなかった。俺が入ると、収入が蔵だけになる」
「……」
「二人とも沈むと、誰も引き上げられない」
俺は、その言い方に、少し息を止めた。
これは、諦めた人の言い方ではない。
計算した人の言い方だった。
「で、俺が大学に戻った。博士取って、いまの職場に入った」
「東京ですよね」
「ポストが東京にあった。それだけだ」
「……先輩」
「なんだ」
「いま、なんの研究してるんですか」
玉木先輩は、テーブルの上の一升瓶を、顎で示した。
「これの酵母」
俺は、二秒くらい、意味が分からなかった。
「……え」
「月之木酒造の蔵付き酵母だ。十四年ぶんの株を持ってる」
「先輩の蔵の」
「そう」
「それを、東京で」
「東京で」
玉木先輩は、それだけ言って、刺身をつまんだ。
――毎日、見てるのか。
四百キロ離れた大学の実験室で、この人は、毎日、顕微鏡の中の妻の蔵を見ている。
今日、あのブースの机に並んでいた六本の小瓶。
あれは、そういうものだった。
高校生に「これが酵母です」と言って見せていたのは、
この人が十六年前に、進路を変えてまで扱うと決めたものである。
二時間くらい、いろんな話をした。
「学生がね、毎年、実習の余りで密造しかける」
「どぶろくですか」
「どぶろく。見つけるのが俺の仕事だ」
「見つかるんですか」
「匂いで分かる。廊下の時点で」
月之木先輩が、笑いながら続けた。
「うちは今年、米がだめ」
「だめ、というと」
「夏が暑すぎたの。溶けるのよ、米が」
「米が、溶ける」
「溶ける。仕込み泣かせの年」
「対策は、あるのですか」
「あるけど、企業秘密」
「……手帳を、しまいます」
「賢明ね」
小鞠の話も、出た。
「こまちゃん、六巻出したね」
「読みました」
「あたし、四巻がいちばん好き」
「……」
「え、なに」
「いや、なんでも」
「言いなさいよ」
「……俺、三巻派なんで」
「はあ? 四巻でしょ」
「三巻です」
「慎太郎は」
「四巻」
「ほら」
「多数決じゃないんです、これは」
「四巻ですっ」
隣から、声がした。
四人が、そちらを見た。
天愛星さんは、烏龍茶のグラスを両手で持ったまま、まっすぐ前を向いていた。
顔だけが、まっすぐだった。
「……いま、言った?」
「言っておりません」
「言ったわよ」
「言っておりませんっ」
「馬剃ちゃん、四巻読んでるじゃん」
「…………」
「読んでるでしょ」
「……六巻まで、拝読しております」
「一巻しか持ってないんじゃないの」
「持っているのが、一巻です」
「じゃあ残りは」
「……立ち読みでは、ありませんっ。図書館ですっ」
「そこまで聞いてないわよ」
――知っていた。
八月二十九日の夜、この人は俺の背中で、四巻の二百三十七ページの話をした。
二百三十七ページで主人公が黙るところが、三巻より易しくない、という主張だった。
知っていたが、素面のこの人が四巻と言うのは、これが初めてである。
この世界には、四巻派が三人いる。
「で、誰が好きなの」
「登場人物では、図書委員の子がよかったです。……推しです」
言ったあと、天愛星さんの動きが、ぴたり、と止まった。
止まって、烏龍茶を一気に飲んだ。
氷が、からん、と鳴った。
「いまの、オタクの語彙」
「違います」
「推しって言った」
「言っていませんっ」
「言ったよ」
「言っておりませんし、仮に申し上げたとしても、当該語は近年、新聞にも行政の広報にも用いられておりまして、一般語彙として定着していると解するのが」
「うわ、早口」
「早口ではありませんっ!」
「息継ぎ、ゼロだったわよ」
「息継ぎの回数は、発言の正当性と無関係ですっ」
「無関係じゃないでしょ。ふつう息するもん」
「していますっ。鼻でしていますっ」
「鼻」
「鼻ですっ」
「元は、こっち側の語彙よ」
月之木先輩が、にやにやしていた。
天愛星さんは、グラスを両手で持ったまま、耳の先まで赤くして、まっすぐ前を見ていた。
持ったまま、もう一杯飲もうとして、空だと気づいて、そのまま置いた。
「先輩、小鞠とは連絡取ってるんですか」
「取ってる。年に二回くらい」
「そうですか」
「あの子、いまだに締切ぎりぎりだって」
「変わってないですね」
「変わってない」
月之木先輩は、そこで一度、こちらを見た。
「温水君は?」
「え」
「こまちゃんに、連絡した?」
――来た。
俺は、グラスを置いた。
「……してないです」
「なんで」
「なんて言えばいいのか、分からなくて」
月之木先輩は、うなずいた。
うなずいて、それ以上、追及しなかった。
「まあ、いいんじゃない」
「え」
「べつに、いま連絡しなくても。あの子、逃げないから」
――逃げないから。
その言い方が、少し引っかかった。
引っかかった理由に、俺はそのとき、気づかなかった。
二十時を過ぎたころだった。
「馬剃ちゃん」
月之木先輩が、唐突に言った。
「まだ読んでる?」
場が、止まった。
天愛星さんの手が、烏龍茶のグラスの上で止まっていた。
俺は、何も言わなかった。
言えることが、なかった。
九月七日に、俺はあの五つの箱を見ている。
伝票の日付も、見ている。
だから、答えを知っている。
知っているが、それは俺が言うことではない。
「……読んでいません」
天愛星さんが、そう答えた。
「え、なんで」
「読めなく、なりました」
月之木先輩は、二秒くらい黙った。
俺は、その二秒のあいだ、この人が何を言うかを予想していた。
「なんで」でもなく、「大丈夫?」でもなく。
「そう」
それだけだった。
月之木先輩は、グラスを持ち上げて、一口飲んだ。
「じゃあ、また読めるようになったら教えて」
――「なったら」だ。
俺は、その助動詞を聞いていた。
「読めるようになれば」でも、「読めるようになったなら」でもない。
「なったら」である。
この人は、なると思っている。
思っていることを、一秒も疑っていない言い方だった。
「……はい」
「あたし、いま新刊追えてないから。三年ぶん教えて」
「三年」
「三年」
天愛星さんが、うつむいた。
肩が、一回だけ動いた。
俺は、隣を見なかった。
見ない代わりに、店員を呼んで、ぬるいお茶を頼んだ。
――ああ。
そこで、俺はようやく理解した。
六時間前、この人は「体調が万全ではありません」と言った。
名古屋に一度も行かなかったから、というのは、本当だと思う。
思うが、それだけなら、この人は行く。
謝るのが得意な人である。謝って済むことなら、この人は必ず行く。
もう一つ、あった。
十六年前、この人にあれを渡したのは、月之木先輩である。
正確には、渡したのではない。
この人が没収して、そのあと、なぜか本屋で商業のやつを勧められた。
あのとき、何が起きたのかを、俺は横で見ていない。
見ていないが、そのあと三か月で、この人の鞄の中身が変わったことは知っている。
渡した本人にだけは、「読めなくなりました」と言いたくない。
それは、月之木先輩がくれたものを、否定することになる。
――と、この人は、たぶん、考えている。
考えて、六時間、それを抱えて座っていた。
烏龍茶を、一杯だけ。
置いたとき、天愛星さんは何も言わなかった。
言わずに、両手で持った。
――九月七日に、俺はあの五つを、名刺の箱の隣に置いた。
あのとき、俺は何も言わなかった。
言わなかったのは、正しかったと思う。
でも、月之木先輩は、言った。
言って、答えを聞いて、そのうえで「また読めるようになったら」と言った。
……俺には、できない。
俺は、その一言を持っていない。
持っていないから、代わりに、お茶を頼んでいる。
「ところでさ」
月之木先輩が、話を戻した。
「あんたたち、付き合ってんの?」
「付き合ってないです」
俺は、そう答えた。
「付き合っておりません」
天愛星さんが、そう答えた。
――速い。
俺の〇・二秒くらい前に、被さっていた。
月之木先輩が、にやり、とした。
「ふうん」
「なんですか」
「べつにー」
俺は、グラスに手を伸ばした。
――嫌なんだな。
俺は、そう思った。
当たり前である。
女性職員が、同じ課の男性職員と噂になって、いいことは一つもない。
四月一日に、俺はそれを計算して「知り合い程度です」と言った。
この人は、それを三日で見抜いて、感謝までしてくれた。
だから、いま、否定を急いだ。
俺は、その解釈を、たぶん三秒で確定させた。
三秒で確定させて、そこから先を考えなかった。
考えなかったのは、そこから先が、面倒だからである。
「なぜ、あんなに速かったのか」を最後まで考えると、可能性が二つになる。
一つは、噂になるのが嫌だから。
もう一つは――
俺は、そこで思考を止めて、グラスを空けた。
十六年、俺はこの止め方でやってきた。
止め方だけは、たぶん、日本でも上位に入る。
二十一時半に、解散した。
店の前で、月之木先輩が言った。
「あたし、明日の朝の新幹線で帰るから」
「日帰りじゃないんですね」
「泊まり。月に二回、こっち来るのよ」
「二回」
「そう。慎太郎がこっちだから」
「新幹線代が」
「経費。営業を兼ねるから」
「……強い」
「経理はあたしだからね」
俺は、そこで、はじめて聞いた。
「え、別居……いや、その」
「別居じゃないよ。単身赴任でもない」
「じゃあ」
「あたしが愛知で、こいつが東京。それだけ」
月之木先輩は、玉木先輩の腕を、軽く叩いた。
「七年、こんな感じ」
「七年」
「四百キロ」
「……大変じゃないですか」
俺は、そう聞いた。
月之木先輩は、少し考えて、それから言った。
「大変よ」
「はい」
「先月なんか、三週間会えなかったし」
「三週間」
「向こうが学会で、こっちが仕込みで」
月之木先輩は、指を折った。
「あと、うちの母親がね、いまだに『いつ帰ってくるの』って慎太郎に聞くの」
「……先輩に、ですか」
「そう。婿だと思ってるから」
「思ってないぞ」
「思われてるの」
「正月、席が上座なのよ、こいつ」
「座らされてるんだ」
「毎年な」
「……あの」
天愛星さんが、言った。
「上座は、続柄ではなく、席次規程で決まります」
「なにその豆知識」
「ご実家に、席次表をご提案いたしましょうか」
「いらないわよ」
「……作成は、三十分です」
「そこ、速いのね」
玉木先輩が、黙って肩をすくめた。
「でも、決めたから」
――決めたから。
俺は、その四文字を、たぶん一生忘れない。
この夫婦は、七年間、四百キロ離れている。
月に二回、どちらかが新幹線に乗る。
三週間会えない月もある。母親からは、いまだに婿扱いされている。
それで、七年である。
俺は、五か月半、三十センチ横に座っている。
同じ島で、同じ課で、毎日八時間である。
……なんなんだ、この差は。
距離ではない。
距離ではないことは、いま、目の前で証明された。
駅の手前で、玉木先輩が足を止めた。
「馬剃さん」
「はい」
「あのときは、助かった」
天愛星さんの足が、止まった。
「……なんのことでしょうか」
「同人誌」
天愛星さんの表情が、消えた。
俺は、その横で、黙っていた。
十六年前の十二月である。
この人が月之木先輩のBL同人誌を没収して、俺に取引を持ちかけた。
終業式までに志喜屋先輩と月之木先輩の仲に決着をつけろ、と。
あのとき、俺は玉木先輩に相談した。
玉木先輩は「先生と生徒会には俺が話しにいく」と言って、それから、クリスマスイブの予定を潰して、二人を引き合わせる段取りを全部作った。
「あれ、志喜屋のためにやったんだろ」
天愛星さんが、こちらを――ではなく、玉木先輩を見た。
「……なぜ」
「見てれば分かる」
「私は、何も申し上げておりません」
「言われてない」
玉木先輩は、少しだけ笑った。
「言われてないけどな。あんた、志喜屋のこと見るときだけ、顔が違ったから」
天愛星さんは、何も言えなかった。
俺も、何も言えなかった。
――知らなかった。
俺は、あの取引を、十六年ずっと「規律のための取引」だと思っていた。
途中で、たぶん違うと気づいた。
気づいたが、確信は持てなかった。持てないまま、卒業した。
この人は、当時から、知っていた。
知っていて、一度も口に出さずに、イブの予定を潰した。
「ありがとうございました」
天愛星さんが、そう言った。
深く、頭を下げた。
「十六年、遅れました」
「いや」
玉木先輩は、それだけ言って、月之木先輩のほうを見た。
「古都、行くぞ」
「はいはい」
「馬剃ちゃん、今度は十六年空けないでよ」
「……はい」
「月二回、東京いるから」
「はい」
「温水」
「はい」
玉木先輩は、片手をポケットに入れた。
「お前、昔から人の話ばっかり聞いてただろ」
「……まあ」
「自分の話、いつするんだ」
俺は、答えられなかった。
この人は、十六年前も、こういう言い方をした。
部誌の締切が過ぎて、小鞠が原稿を出せなくて、部室の空気が最悪だったときである。
あのとき、玉木先輩は、小鞠に一言だけ言った。
――書けないなら、書けないって言え。
それだけ言って、部室を出ていった。
小鞠は、その夜、原稿を出した。
この人の言葉は、短い。
短くて、逃げ場がない。
玉木先輩は、それ以上、何も言わなかった。
言わずに、月之木先輩と改札を抜けていった。
俺と天愛星さんは、反対側のホームに向かった。
十月の夜は、もう秋だった。
風が乾いていて、駅前の街路樹が少し鳴っていた。
「温水さん」
「うん」
「私、ずっと」
――鳴った。
ポケットの中で、スマホが震えた。
俺は、反射で取りだした。
画面に、入試課の名前が出ていた。
土曜の、二十一時四十分である。
この時間にここから電話が来るのは、一つしかない。
「……ごめん、出る」
「はい」
「はい、温水です。……はい。え、いつからですか」
出願システムが、二十時から落ちていた。
総合型選抜の出願締切は、十月十四日である。
あと三日で、四百人が動く。
俺は、その場で三分喋った。
ベンダーの緊急連絡先と、入試課長の携帯と、明日の朝の対応の順番を決めた。
「あと、受験生への告知は、明日の八時までに出します。……はい、俺が書きます」
「復旧見込みが立たないなら、締切の延長も検討します。それは学部の合意が要るんで、明日の朝一で」
「入試課長には、俺から連絡します。いま二十一時四十分なんで、二十二時ちょうどに」
喋りながら、俺は、いつもの顔になっていた。
自覚があった。
この顔になると、俺は強い。
誰が何をいつ決めるべきかを、三分で並べられる。
五か月半、俺はこの顔で、いろんなものを片付けてきた。
片付けられなかったものが、一つだけある。
電話を切ったとき、俺は、少し息が上がっていた。
「すみません、馬剃さん」
「いえ」
「システム落ちてるみたいで」
「……そうですか」
「明日、俺、たぶん出ます」
「私も、出ます」
「いや、いいです」
「出ます」
「明日、日曜だよ」
「システム障害に、曜日はありません」
「……七時ね」
「七時です。あと、告知文の下書きは、帰りの電車で作ります」
「馬剃さん」
「五分でできます。定型を、持っていますので」
「持ってるんだ」
「四月に、作りました」
「四月?」
「入職三日目に、想定される緊急事態を十七種類、洗い出しました」
「十七」
「本件は、七番目です」
「七番目に来ると思ってたんだ」
「一番目は、火災です」
「そりゃそうだ」
「……じゃあ、頼む」
「はい」
俺は、そこで、はっとした。
「あ」
「はい」
「さっき、なんか言いかけてなかった?」
天愛星さんは、こちらを見なかった。
「いえ」
「言いかけてたよね」
「なんでもありません」
「馬剃さん」
「本当に、なんでもありません」
――短い。
俺は、それに気づいた。
気づいて、そこで止まった。
この人の癖は、俺が四月に教わったものである。
本当に隠したいときだけ、短くなる。
いま、短かった。
……聞くべきだ。
俺は、そう思った。
思って、そのあと、システム障害のことを考えた。
明日の朝、七時には大学にいる必要がある。
ベンダーの担当者と、入試課長と、それから広報のサイトの告知文を作らなければならない。
いま聞いたら、たぶん、長くなる。
「……そっか」
俺は、そう言った。
電車が来た。
天愛星さんは、三駅で降りた。
降りる前に、いつもより浅く頭を下げた。
「明日、七時に伺います」
「あ、うん」
「では、失礼いたします」
ドアが閉まった。
一人になってから、俺は、玉木先輩の言葉を思い出した。
――自分の話、いつするんだ。
いつ、だろうか。
窓の外を、十月の夜が流れていく。
あの人は、たぶん、明日も明後日も、あの続きを言わない。
俺は、そのとき、そう思った。
思って、それから、少しだけ訂正した。
この人は、言わない。
言わないが、この人は、四月からずっと、言おうとしてはいる。
四月の改札で「温水さん」と呼んで、言い直した。
六月の非常階段で「私、ここでもまた逃げるんですか」と言った。
八月の大講堂で「聞きますか」と言った。
全部、この人から出ている。
俺は、一度も出していない。
――かけ直せばいい。
いま、この電車の中で、この人にかければいい。
三駅先である。まだ、たぶん改札を出ていない。
俺は、スマホを取りだした。
連絡先を開いた。
名前を、見た。
――『馬剃さん』
四月一日に登録して、そのままである。
俺は、画面を消した。
消した理由を、俺はそのとき、自分に説明しなかった。
説明できなかった、というほうが正確である。
かけ直さなかったのは、俺のほうである。