大学職員の僕たち   作:房吉

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~17敗目~ 旅行命令変更伺い(前編)

(十月二日/馬剃視点)

 

『馬剃さん、事件です』

 

 十月二日、木曜日、六時五十二分。

 

 電話の相手は、大貫君である。

 

『熱が、三十八度二分あります』

 

「それは、事件ではなく、症状です」

 

『事件ですよ。今日、俺、札幌なんで』

 

「存じております」

 

『温水さんと車で大洗まで行って、船で苫小牧まで行って、十二箱を札幌に運ぶ係なんで』

 

「十二箱の経緯も、存じております」

 

 十二箱、というのは、本日の出張の原因である。

 

『二十九日に俺が送ったやつ、戻ってきたじゃないですか』

 

「戻ってきました」

 

『送り状の、依頼主と届け先、逆に書いちゃって』

 

「存じております」

 

『十二箱、一日で帰ってきて。守衛さんに「お帰りなさい」って言われて』

 

「伺いました」

 

『あれは、事故です』

 

「送り状の上下を逆に書くことを、事故とは呼びません」

 

『じゃあ、なんですか』

 

「去年の宛名四校と、同じ類型です」

 

『……馬剃さん、それ、誰から』

 

「四月一日に、課長から伺いました」

 

『初日に俺の話してたんですか、あの人!』

 

「話していらっしゃいました」

 

 再送すれば、三日には着く。

 

 ただし運送会社の告知には、前日から一行が出ていた。

 

 『台風十八号の影響により、北海道方面のお荷物に遅延が生じる可能性があります』

 

 鷲尾課長の判断は、早かった。

 

「届かない可能性が一割でもあるなら、持っていく」

 

 飛行機二名分は取り消され、本学で最も荷室の広い公用車が、十二箱ごと海を渡ることになった。

 

 運転者は二名。温水主任と、原因である大貫君。

 

 それが、昨日までの計画である。

 

『温水さんには、まだ言ってないんです』

 

「なぜですか」

 

『言うと、一人で行くって言うんで』

 

「おっしゃいません、あの方は」

 

『言いますよ。絶対言います。一人で行けますって言って、課長に止められて、そのあと俺に「お前のせいだ」って一週間言います』

 

「後半は、事実でしょう」

 

『事実ですけど!』

 

 受話器の向こうで、大貫君が咳をした。

 

 咳をして、それから、少しだけ声を落とした。

 

『馬剃さん、行けますか』

 

 〇・五秒だった。

 

「行きます」

 

『早っ』

 

「体調に問題はありません。旅行命令の変更は、私から課長に――」

 

『あ、課長には俺から言っときます。馬剃さん、七時まで待つでしょ、電話』

 

「……なぜ、ご存じなんですか」

 

『馬剃さんなんで』

 

「わ、私を勝手に分類しないでくださいっ!」

 

『じゃあ待たないんですか』

 

「……待ちます」

 

『ほら』

 

 通話は、そこで切れた。

 

 私は、時計を見た。

 

 六時五十五分である。

 

 ……七時まで、待つつもりだった。

 

 八歳下の後輩に、五分で読まれた。

 

 ぐっ、と喉の奥が鳴った。

 

 鳴ったので、私は受話器を置いて、一回、深呼吸をした。

 

 

 

 

 七時〇分に、電話が鳴った。

 

 課長からである。

 

 大貫君は、三十八度二分で、五分で報告を済ませたらしい。

 

『馬剃さん、聞いた?』

 

「伺いました」

 

『行ける?』

 

「行けます」

 

『体は』

 

「問題ありません。九月十九日から、毎朝計測しています。今朝は三十六度六分、血圧は上が百八です」

 

『十四日連続ね』

 

「……数えていらっしゃるんですか」

 

『数えてないわよ。引き算しただけ』

 

 私は、手帳の端を見た。

 

 十四、と小さく書いてある。

 

 引き算で出る数字を、私は毎朝、手で書いている。

 

『温水君には』

 

「これから、私から――」

 

『言わなくていい』

 

「は?」

 

『言うと、一人で行くって言い出すから』

 

「大貫君も、同じことを申しておりました」

 

『あの子、たまに正しいのよ』

 

「ですが、同乗者を事前に伝えないのは、業務上の――」

 

『馬剃さん』

 

「はい」

 

『先月、あなたを車で病院に運んだ子よ』

 

「……はい」

 

『あなたが代わりですって聞いて、はいそうですかって言うと思う?』

 

「……思いません」

 

『でしょ。だから、十二時半に駐車場。荷物と一緒に、先に乗ってなさい』

 

「先に、ですか」

 

『乗ってる人間を降ろすほど、あの子は非情じゃないから』

 

「荷物扱いですかっ」

 

『そう言ってない』

 

「言っています、実質的にっ」

 

『実質的に荷物でいいじゃない。十二箱と一緒に運ばれてきなさい』

 

「…………」

 

 言い返せなかった。

 

 言い返せないときの私は、口の中で、条文を探す。

 

 旅行命令に、同乗者を荷物と見なしてはならない、という条文はない。

 

 ……ないのが、悔しい。

 

「……旅行命令の変更と、公用車の同乗者の届けは」

 

『私がやっとく』

 

「課長が、ですか」

 

『私、課長なのよ』

 

「存じております」

 

『午前中は来なくていい。来ると、見つかる』

 

「見つかる、とは」

 

『隣の席でしょ、あなたたち』

 

「三十センチです」

 

『測ったの』

 

「……一般的な事務机の幅から、算出しました」

 

『そういうとこよ』

 

 電話は、切れた。

 

 ……そういうとこ、と言われた。

 

 四月に、私が温水さんに言った側の台詞である。

 

 言われる側に回ると、こんなに、みぞおちに来る。

 

 かあっ、と耳が熱くなった。

 

 熱くなったので、私は手帳を開いて、『そういうとこ、とは何か』と書いた。

 

 書いて、三分、定義を考えた。

 

 定義できなかった。

 

 定義できないものを書いた手帳は、十六冊目にして、初めてである。

 

 

 

 

 七時十一分。

 

 私は、押し入れの下段から鞄を出した。

 

 一泊二日の出張用である。

 

 文科省にいたころ、この鞄は、自席の足元に置いてあった。明日どこに飛ばされるか分からない職場だった。

 

 辞めてから一年半、一度も開けていない。

 

 開けていないのに、中身は一年半前のままで、全部そろっていた。

 

 ブラウス二枚。下着二日分。充電器。予備の手帳。針と糸。常備薬。

 

 鏡。

 

 ……鏡は、練習用である。

 

 そこに、九月二十日以降に増えた二本の体温計のうち、一本を足した。

 

 足して、出して、もう一本を入れた。

 

 入れて、出して、最初の一本に戻した。

 

 三回、入れ替えた。

 

 ……何をやっているのか。

 

 体温計は、どちらも、三十六度台を表示する道具である。

 

 どちらを入れたかは、述べない。

 

 九時二分、正門前の薬局で、酔い止めを二箱買った。

 

 箱を六つ手に取って、六つとも用法の欄を読んだ。

 

 『乗り物に乗る三十分前に服用』

 

 私は、手帳に書いた。

 

 『十九時十五分、服用』

 

 書いてから、もう一行、足した。

 

 『温水主任の分も』

 

 足してから、三秒、見た。

 

 見て、『温水主任の』の五文字を線で消した。

 

 消して、『二名分』と書き直した。

 

 線が、濃すぎた。

 

 ペン先が紙を破りかけるほど、濃すぎた。

 

 ……別に、見られて困る一行ではない。

 

 困らないのに、消した。

 

 消した線の濃さのほうが、よほど困る。

 

 

 

 

 十二時二十八分。

 

 駐車場の奥に、白いワンボックスが停まっていた。

 

 車両管理規程別表第一に載っている七台のうち、最も荷室の広い一台である。

 

 十五日前、私はこの車の助手席に座った。

 

 座って、もたれていいですよ、と言われて、結構です、と答えた。

 

 あの日の十九分のことは、帳簿に載っている。

 

 九月十七日の朝に百三十七件だった帳簿は、本日の朝、百五十一件になっている。

 

 うち十四件が、九月十七日以降の分である。

 

 返済済みの欄は、相変わらず、まっさらである。

 

 鍵は、守衛室で預かっていた。課長の手配である。

 

「馬剃さん、鍵ね」

 

「恐れ入ります」

 

「十二箱にさ、昨日『お帰りなさい』って言っちゃったよ」

 

「伺いました」

 

「言わないほうがよかった?」

 

「……正確でした」

 

「正確か」

 

「正確です」

 

 十二箱は、守衛室の脇に積まれていた。

 

 一箱、十四キロ。

 

 私は台車を借りて、運び始めた。

 

 三箱目を台車に載せたところで、後ろから声がした。

 

「貸せ」

 

 桑原主査だった。

 

 二文字である。

 

 主査は返事を待たずに箱を二つ抱え、荷室に積んだ。

 

 積んで、戻ってきて、また二つ抱えた。

 

 十二箱を積み終えるまで、主査は一言も発しなかった。

 

 発しなかったが、最後の一箱を押しこんだあと、上着のポケットから袋を出して、私に渡した。

 

「飴。持ってけ」

 

 りんご味だった。

 

 ……この事務局は、本当に、飴を通貨にしている。

 

「恐れ入ります」

 

「気をつけて、行け」

 

 七文字。

 

 主査は、それで事務棟に戻っていった。

 

 

 

 

 私は、助手席に座った。

 

 座って、シートベルトを締めた。

 

 締めてから、手帳を開いて、走行距離計の数字を写した。四万二千三百十七キロ。車両管理規程第九条、使用簿への記載事項である。

 

 四番の箱のテープが一箇所浮いていたので、荷室に戻って、貼り直した。

 

 貼り直してから、また助手席に座った。

 

 シートベルトを、もう一度、締めた。

 

 心臓が、ばくばくしていた。

 

 十四キロの箱を運んだせいである。運んだのは三箱だけだが、そういうことにする。

 

 私は、バックミラーに向かって、口を動かした。

 

「同乗者です」

 

 一回目は、声が高かった。

 

「同乗者です」

 

 二回目は、早かった。

 

「同乗者です」

 

 三回目で、ちょうどよくなった。

 

 窓の外で、咳払いがした。

 

 桑原主査が、まだ、そこにいた。

 

「……ひとりごと?」

 

「違いますっ!」

 

 主査は、それ以上聞かずに、本当に戻っていった。

 

 聞かれなかったことが、いちばん効いた。

 

 十二時五十九分。

 

 事務棟の裏口から、温水主任が出てきた。

 

 課長が、隣を歩いている。

 

 温水主任は、荷室を見た。見て、少し歩幅が落ちた。

 

「……積んである」

 

「桑原さんよ」

 

「一人でですか」

 

「さあ」

 

 声が、近づいてくる。

 

「課長、大貫、本当に来ないんですか」

 

「来ないわよ。三十八度二分」

 

「じゃあ、一人で行きます」

 

「駄目」

 

「いや、十二箱くらい一人で――」

 

「馬剃さん」

 

「は?」

 

 運転席のドアが開いた。

 

 温水主任が、私を見た。

 

 見て、一秒、止まった。

 

「……なんで、いるんですか」

 

「同乗者です」

 

「聞いてない」

 

「いま、聞かれました」

 

「課長」

 

「言ってなかったっけ」

 

「言ってないです」

 

「じゃあ、いま言った」

 

「そういう問題じゃ――」

 

 温水主任は、そこで言葉を切った。

 

 切って、私を見た。

 

 見る場所が、顔から、首へ、首から手へ、順に動いた。

 

 ……体調を、確認している。

 

 十五日前に私を病院に運んだ人の目である。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、首で視線が止まった〇・五秒で、背中がぞわっとした。

 

「み、見ないでくださいっ!」

 

「熱があるか見てるだけです」

 

「首は関係ありませんっ!」

 

「首筋が赤いと、熱があるんですよ」

 

「……赤いんですか」

 

「赤いです」

 

「それは、熱ではありませんっ」

 

「じゃあ何」

 

「……気温です」

 

「十月です」

 

「熱は」

 

 話を、自分で戻した。

 

 戻さないと、首筋の理由を説明することになる。

 

「ありません」

 

「本当に」

 

「本当にです。計測済みです」

 

「先月――」

 

「存じております」

 

 私は、先に言った。

 

「先月の件を先月で終わらせるために、乗っています」

 

「意味が分からない」

 

「貸しの返済です」

 

「返さなくていいって、言いましたよね」

 

「伺いました」

 

「じゃあ」

 

「伺いましたが、承諾はしていません」

 

 課長が、横で小さく笑った。

 

「温水君。乗ってる人間を、降ろす気?」

 

「……」

 

「一人で十二箱下ろして、一人でブース回して、一人で四百キロ運転して、途中で寝て十二箱ごと側溝に落ちられるほうが、私は困るのよ」

 

「側溝には落ちないです」

 

「落ちないなら、いいじゃない」

 

 温水主任は、ドアに手をかけたまま、三秒、黙った。

 

 三秒は、この人にしては、長い。

 

「……シートベルト」

 

「着用済みです」

 

「早いな」

 

 敬語が、一瞬、外れた。

 

 外れて、すぐに戻った。

 

「じゃあ、行きます」

 

「行きましょう」

 

「気をつけてね。二人とも」

 

「課長、大貫から何か」

 

「伝言が二つ。『すみません』と、『お土産は白い恋人』」

 

「後半いらないです」

 

「私もそう言った」

 

「あと温水君。馬剃さんを側溝に落としたら、殴るから」

 

「なんで側溝基準なんですか」

 

「いちばん、ありそうだから」

 

 課長は、それだけ言って、手を振った。

 

 この人は、こういうときに、それ以上のことを言わない。

 

 

 

 

 十三時十一分、出発。

 

「使用簿に記載します。出発時刻十三時十一分、走行距離計四万二千三百十七キロ、運転者温水、同乗者馬剃」

 

「書くんだ、それ」

 

「規程です」

 

「同乗者の欄、書き直されてますね」

 

「八時十二分に、課長が」

 

「時間まで知ってるんだ」

 

「報告を受けました」

 

 常磐道に入るまで、温水主任は、あまり喋らなかった。

 

 喋らなかったが、三回、こちらを見た。

 

 信号で一回。合流で一回。料金所を抜けたあとで、一回。

 

 私の顔を見る業務上の必要は、三回のうち、ゼロである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「十二箱の件、大貫に何か言いました?」

 

「去年の宛名四校と同じ類型だと、申し上げました」

 

「言ったんだ」

 

「事実ですので」

 

「あいつ、三十八度で刺されたのか」

 

「三十八度二分です」

 

「細かい」

 

「事実です」

 

「飛行機のキャンセル料、いくらでした」

 

「二名分で、四千四百円です」

 

「大貫の給料から」

 

「引けません。規程にありません」

 

「引く規程、作れないですか」

 

「起案しますか」

 

「しないです」

 

「賢明です」

 

「馬剃さんが言うと、賢明じゃない気がする」

 

 ラジオが、台風の話をしていた。

 

 十八号。現在、四国の南。土曜から日曜にかけて、関東に最接近。

 

 温水主任が、音量を一段、上げた。

 

「帰りの便、土曜の夜ですよね」

 

「苫小牧発十八時四十五分、大洗着日曜の十四時です」

 

「……太平洋側だな」

 

「はい」

 

「大丈夫ですかね」

 

「欠航の可能性を、三割と見ています」

 

「根拠」

 

「進路予想図と、過去五年の同時期の欠航実績です」

 

「いつ調べたんですか」

 

「昨夜です」

 

「その調査力」

 

「出張の、事前準備です」

 

「三割で、何か用意してます?」

 

「三案」

 

「三案」

 

「代替経路を、三案」

 

 温水主任は、前を見たまま、息を吐いた。

 

「……聞くの、いまじゃなくていいですか」

 

「当日の十四時ごろに、欠航は確定します。それまでは、確率の話です」

 

「じゃあ、土曜の十四時」

 

「承知しました」

 

 

 

 

「酔い止めを、二箱、購入しています」

 

「俺は要らないです」

 

「根拠は」

 

「フェリーは揺れないでしょ。でかいし」

 

「総トン数一万三千八百トン、全長百九十九メートルです」

 

「調べたんだ」

 

「船内案内と、避難経路も」

 

「避難経路」

 

「乗船者の、義務です」

 

「義務ではないと思う」

 

「私には、義務です」

 

「出典は」

 

「私です」

 

 温水主任が、鼻から息を出した。

 

 笑うときの、この人の癖である。

 

「酔い止め、十九時十五分に服用予定です。乗船三十分前」

 

「俺の分も買ってあるってことですか」

 

「二名分です」

 

「……じゃあ、まあ、もらっときます」

 

「飲みますか」

 

「持っときます」

 

「飲みませんね、それ」

 

「飲まない、とは言ってない」

 

「言っていませんが、飲まない人の言い方です」

 

「なんで分かるんですか」

 

「六か月、隣にいます」

 

 温水主任は、それには答えなかった。

 

 答えないとき、この人は、ウインカーを出す。

 

 出したが、車線は、変えなかった。

 

 ……言ってから、気づいた。

 

 六か月、隣にいると、飲まない人の言い方が分かる。

 

 それは、六か月、隣の人の言い方を聞き分けてきた、ということである。

 

「い、いまのは、業務上の観察の結果であってですね、特定個人の発話傾向を継続的に把握することは事務職員として当然の――」

 

「言い訳が長い」

 

「言い訳ではありませんっ!」

 

「じゃあ何」

 

「……補足です」

 

「補足にしては早口でしたね」

 

 耳が、じん、と熱い。

 

 熱いので、私は窓の外の看板を、三枚続けて音読した。

 

 

 

 

「運転、二時間で交代します」

 

「え」

 

「車両管理規程第十六条。長距離運行における運転者の交代。連続運転は、二時間以内」

 

「馬剃さん、免許」

 

「あります」

 

「……色は」

 

「ゴールドです」

 

「最後に運転したのは」

 

「……十年前です」

 

「ペーパーだ」

 

「ゴールドですっ!」

 

「ゴールドは、乗ってない人に配られるんですよ」

 

「無事故無違反の事実は、変わりません」

 

「事実の使い方がおかしい」

 

「苫小牧から札幌で、感覚を取り戻します」

 

「取り戻すのは、俺のいないところでやってほしい」

 

「旅行命令上、運転者は二名です」

 

「……」

 

「大貫君の欄が、私になっています」

 

「八時十二分に」

 

「はい」

 

 温水主任は、ハンドルを握り直した。

 

「……明日、考えます」

 

「承知しました」

 

「考えるだけですからね」

 

「はい。考えた結果、私が運転します」

 

「決まってるじゃないですか」

 

「決まっています」

 

 ウインカーが、もう一回、鳴った。

 

 今度は、車線を変えた。

 

 

 

 

 十五時四十分、大洗港。

 

 フェリーターミナルの駐車場に入った時点で、船が見えた。

 

 大きい、というより、建物だった。

 

 白い壁に、向日葵の絵が描いてある。

 

「でかいな」

 

「百九十九メートルです」

 

「さっき聞きました」

 

「事実です」

 

 乗船手続きの窓口で、私は予約の控えを出した。

 

「二名、個室二室。予約番号は――」

 

「確認しました?」

 

「二重に確認しました」

 

「二重で困る人はいない」

 

「それは、私の台詞です」

 

「借りました」

 

「返してください」

 

「いつか」

 

「お車の全長は」

 

「四メートル七十です」

 

「お早いですね」

 

「車検証の数字です」

 

 窓口の方が、少し笑っていた。

 

 ……他人の前で、貸し借りの話をしている。

 

 気づいた瞬間、首から上に、ぶわっと血が上った。

 

 私は、窓口の方に三十度のお辞儀をした。

 

 意味は、自分でも分からない。

 

「なんでお辞儀」

 

「……礼儀です」

 

「顔、赤いですよ」

 

「暖房ですっ」

 

「ついてないですよ、まだ」

 

 

 

 

 車両の乗船は、十八時からだった。

 

 それまで、ターミナルの待合室で待つ。

 

 温水主任は、ベンチに背中を預けて、天井を見ていた。

 

「明日、札幌、十六度だそうです」

 

「最高気温です。最低は、九度」

 

「コート、持ってきました?」

 

「持ってきました」

 

「朝の六時五十二分に連絡が来て」

 

「七時十一分に、詰め終わりました」

 

「十九分で」

 

「鞄が、詰まっていましたので」

 

「詰まってた」

 

「役所で、十年、そういう鞄でした」

 

「……」

 

「いまは、使っていません」

 

「いま使ってるじゃないですか」

 

「……本日だけです」

 

 温水主任は、天井を見たまま、何も言わなかった。

 

 言わないのが、この人の、聞き方である。

 

 十七時十四分。

 

 私は、口の中で、三回、練習した。

 

 温水さん。温水さん。温水さん。

 

 ……四月から、何百回も呼んでいる名前である。

 

 呼んでいるのに、切り替えの一回目だけは、毎回、喉に引っかかる。

 

 十七時十五分。

 

「温水さん」

 

「……切り替え、早いな」

 

「定時です」

 

「出張中だけど」

 

「旅行命令上、移動時間は勤務時間に含まれません。本日の勤務は、十七時十五分に終了しました」

 

「じゃあ、いままでは勤務だったんだ」

 

「常磐道は、勤務です」

 

「高速道路で勤務か」

 

「車両管理規程上、公用車の運転は職務です」

 

「……じゃあ、俺もだ」

 

「はい」

 

 温水さんが、天井を見たまま、言った。

 

「船、初めてなんだよ。泊まるやつ」

 

「私もです」

 

「三十四で」

 

「三十四でも、初めては初めてです」

 

「そうだな」

 

 温水さんは、それきり黙った。

 

 黙って、天井を見ていた。

 

 私は、隣に座った。

 

 三十センチである。

 

 測っていない。身体が、覚えている。

 

 

 

 

 十八時十分、乗船。

 

 車両甲板は、薄暗くて、鉄の匂いがした。

 

 誘導員の方の手信号に従って、温水さんが車を停めた。

 

「エンジン切って、サイドブレーキ、ギアはパーキング」

 

「存じております」

 

「存じてるのは分かってる。口に出してるだけ」

 

「声に出す確認は、誤りの防止に有効です」

 

「だから言ってる」

 

 ……同じことを、言っている。

 

 同じことを言っているのに、先に言われると、少し悔しい。

 

 

 

 

 部屋は、五階だった。

 

 五二二一号室と、五二二二号室。

 

 隣である。

 

「隣だな」

 

「隣、ですね」

 

「壁、薄そうだな」

 

 どきっ、とした。

 

 したので、私は鞄を持ち直した。

 

「だからといって、へ、変な気を起こさないでくださいっ!」

 

「起こさないって」

 

「……起こさないんですか」

 

「なんでちょっと不満そうなんだよ」

 

「不満ではありませんっ!」

 

「声、大きいって」

 

 廊下の向こうで、知らないご夫婦が、こちらを見た。

 

 私は、そのご夫婦にも三十度のお辞儀をした。

 

 壁の厚さは、分からない。

 

 三十センチより薄いことだけは、分かる。

 

 ……分かる必要は、ない。

 

 夕食は、船内のレストランで、バイキングだった。

 

 二千円。

 

「食べないんですか」

 

「食べます。二千円分、食べます」

 

「元を取る気だ」

 

「旅費の日当は、食事代を含みます」

 

「二千円で日当は超えないだろ」

 

「……超えません。超えませんが、気持ちの問題です」

 

「気持ちの問題で、サラダ三皿」

 

「いいじゃないですか別にっ! 野菜は身体にいいんですっ!」

 

「急に怒らないでよ」

 

「怒っていません。野菜は、単価が低いので」

 

「元を取る方向がおかしい」

 

「デザートは」

 

「取りません」

 

「なんで」

 

「単価が、高いので」

 

「元を取るんじゃなかったのか」

 

「単価の高いものを取ると、元を取った気分になりません」

 

「分からん」

 

「気分の問題です」

 

「さっきから気分の話しかしてない」

 

 温水さんは、カレーを取っていた。

 

 ……この人は、船の上でも、カレーを選ぶ。

 

 船内の自販機は、缶コーヒーが百六十円だった。

 

 陸より、二十円高い。

 

「高い」

 

「海上輸送費です」

 

「船の中で、海上輸送費」

 

「事実確認です」

 

「まだやってるのか、それ」

 

「事実確認は、一生ものです」

 

 温水さんは、それには何も言わなかった。

 

 言わないで、百六十円を入れた。

 

 陸より二十円高い音が、した。

 

 

 

 

 十九時十五分。

 

 私は、酔い止めを飲んだ。

 

 温水さんは、箱を上着のポケットに入れた。

 

 入れただけである。

 

「飲みませんね」

 

「揺れたら飲む」

 

「揺れてから飲む薬では、ありません」

 

「じゃあ、揺れないことを祈る」

 

「祈りは、旅費規程にありません」

 

「あったら怖いよ」

 

「副作用は、眠気です」

 

「運転しないからいいか」

 

「船は、乗務員の方が運転します」

 

「知ってる」

 

「念のためです」

 

「念のためが多いな、今日」

 

「出張ですので」

 

 

 

 

 十九時四十五分。

 

 汽笛が鳴った。

 

 低い音が、床から上がってきた。

 

 床から足へ。足から、背中へ。

 

 ……ぞく、とした。

 

 鳴ったので、私は手すりを握った。

 

 握ったまま、岸壁が動くのを見た。

 

 動いているのは船のほうである。分かっているのに、岸が動いて見える。

 

 

 

 

 デッキには、あまり人がいなかった。

 

 十月の風は、冷たい。

 

 温水さんは、手すりに肘を置いていた。

 

 私は、その隣に立った。

 

 三十センチ。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「もたれていいよ」

 

 ……十五日前と、同じ台詞である。

 

 敬語が取れているぶん、違う。

 

 違うぶんだけ、心臓が、どん、と一回、大きく打った。

 

「……へ、変な意味では、ありませんよね」

 

「どんな意味だよ」

 

「手すりに、という意味ですよね」

 

「手すり以外に何があるんだよ」

 

「……何も、ありません」

 

 何もない。

 

 何もないのに、何かがあると思った自分が、いちばん、変な気を起こしている。

 

「結構です」

 

 十五日前と、同じ返事をした。

 

 返事をしてから、私は両手を手すりに置いた。

 

 もたれてはいない。

 

 置いているだけである。

 

 港の灯りが、遠くなっていく。

 

「速いな」

 

「二十三ノットです」

 

「時速で言って」

 

「四十二キロです」

 

「自転車だな」

 

「速い自転車です」

 

「一晩で北海道に着く自転車か」

 

「はい」

 

 工場の煙突の赤い光が、等間隔に並んでいた。

 

 数えた。十一本。

 

「なんで来たの」

 

 温水さんが、前を見たまま、言った。

 

「旅行命令です」

 

「短いな」

 

 ――そこを、突かれた。

 

 突かれて、ぼん、と頭の中で何かが弾けた。

 

「な、なんでもいいじゃないですかっ! 旅行命令ですっ! 課長の指示で、規程に基づいて、大貫君の代わりに、同乗者として適正に――」

 

「早口」

 

「――っ」

 

「手すり、曲がるよ」

 

 見ると、両手の指が、白くなるほど手すりを握っていた。

 

 一本ずつ、力を抜いた。

 

 十本、抜くのに、十秒かかった。

 

「……貸しが、あります」

 

「貸し」

 

「九月十七日と、二十日の分です」

 

「返さなくていいって言った」

 

「返さないと、次に、借りられません」

 

「借りればいいじゃん」

 

「……借りたままの状態が続くのは、困ります」

 

「なんで」

 

「困るんです」

 

「だから、なんで」

 

 私は、答えなかった。

 

 答えなかったのではない。

 

 答えが、手元になかった。

 

 役所で十年、答えのない質問には、条文を返してきた。

 

 条文は、海の上では、一行も出てこなかった。

 

 手すりの冷たさが、手のひらから、上がってくる。

 

 

 

 

 汽笛が、もう一度、鳴った。

 

 温水さんは、それ以上、聞かなかった。

 

 聞かなかったという事実が、また、いちばん効いた。

 

「髪、乱れないな」

 

 しばらくして、温水さんが言った。

 

「ひっつめですので」

 

「風速十メートルに勝ってる」

 

「負けたことは、ありません」

 

「十六年間」

 

「十六年間です」

 

「……そうか」

 

 温水さんの前髪は、風で、上がったり下がったりしていた。

 

 上がったとき、額が見えた。

 

 十六年前より、少しだけ、広い気がする。

 

 ……これは、帳簿には載せない。

 

 載せないが、見ていたことに気づかれて、温水さんがこちらを向いた。

 

「なに」

 

「……なんでもありません」

 

「〇・三秒だった」

 

「測らないでくださいっ!」

 

 風が冷たいのに、頬だけが、じわじわと熱かった。

 

 

 

 

 二十時三十分。

 

 五階の廊下で、私たちは部屋の前に立った。

 

 五二二一と、五二二二。

 

「じゃあ、おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

「揺れたら、起こしてくれていい」

 

「揺れたら、あなたが飲むべき薬が、ポケットにあります」

 

「そうだった」

 

 温水さんは、ドアを開けて、入った。

 

 私は、自分のドアを開けた。

 

 開けて、入って、閉めて、それから、壁を見た。

 

 壁の向こうで、鞄を床に置く音がした。

 

 ……聞こえる。

 

 聞こえる必要は、ない。

 

 私は、壁から二歩、離れた。

 

 離れて、二歩で、戻った。

 

 戻って、耳を澄ませている自分に気づいて、両手で耳を塞いだ。

 

 塞いだまま、ベッドの端に座った。

 

 私は、手帳を出して、本日の記録を書いた。

 

 『乗船。十九時四十五分出港。汽笛二回。煙突十一本』

 

 書いてから、一行、足すかどうか、二分迷った。

 

 足さなかった。

 

 足さないことに二分かかった、という事実だけを、書いた。

 

 

 

 

 十月三日、金曜日、五時三十分。

 

 私は、起きた。十五日連続である。

 

 体温三十六度六分。血圧、上が百七。

 

 船は、揺れていなかった。

 

 六時から、避難経路を歩いた。

 

 八時四十分、ラウンジに温水さんが来た。

 

「早いな」

 

「五時半です」

 

「船の上でも?」

 

「船の上でも、です」

 

「何してたの、三時間」

 

「避難経路を、歩きました」

 

「……」

 

「二周」

 

「二周」

 

「一周目は確認です」

 

「二周目は」

 

「……散歩です」

 

「散歩って言えるんだ、馬剃さん」

 

「言えます。散策の定義は、目的を定めずに歩くことです」

 

「出典は」

 

「辞書です」

 

「珍しい。自分じゃないんだ」

 

「辞書に載っているものは、辞書が出典です」

 

 温水さんは、窓の外を見た。

 

 海が、平らだった。

 

「揺れなかったな」

 

「予報どおりです」

 

「じゃあ酔い止め、要らなかったな」

 

「返品は、できません」

 

「返品する気だったのか」

 

「日本海は、別です」

 

「日本海は通らないだろ」

 

「通らないことを、祈ります」

 

「祈りは規程にないんじゃなかったのか」

 

「規程にないので、自由です」

 

 温水さんは、鼻から息を出して、三列前の席に座った。

 

 座って、十分で、寝た。

 

 

 

 

 十三時三十分、苫小牧。

 

 太平洋は、平らだった。

 

 十八時間のうち、六時間は寝た。

 

 残りの十二時間のうち、九時間は、手帳と、船内案内と、ラウンジの三列前で寝ている温水さんの後頭部を見ていた。

 

 比率は、述べない。

 

 一度だけ、後頭部が、こちらを振り向いた。

 

 ばっ、と手帳に目を落とした。

 

 落とした手帳は、逆さまだった。

 

 逆さまの手帳を、私は、四十秒、読んでいるふりをした。

 

「手帳、逆さまだけど」

 

「……存じています」

 

「知ってて読んでるの」

 

「訓練です」

 

「何の」

 

「……何の、でしょうか」

 

「聞かれても」

 

「逆さまの文書を読む訓練です。役所では、向かいの席の書類を読む必要が――」

 

「早口」

 

「……っ」

 

 温水さんは、それ以上、聞かなかった。

 

 聞かないで、鼻から息を出した。

 

 ……笑われた。笑われたほうが、聞かれるより、楽である。

 

 温水さんは、酔わなかった。

 

 平らな海で酔う人間はいない。

 

「ほら、揺れなかった」

 

「太平洋は、本日は平らでした」

 

「明日も平らだよ」

 

「台風が、来ています」

 

「帰りは帰りで考える」

 

 十三時三十分は、勤務時間内である。

 

 ここからは、温水主任、に戻す。

 

 ……旅費規程に、船の上の項目はない。判断は、私がした。

 

「交代します」

 

 車両甲板で、私は手を出した。

 

「……明日って言いませんでしたっけ」

 

「言いました。本日は、昨日の明日です」

 

「昨日の明日」

 

「はい」

 

「ずるいな、それ」

 

「事実です」

 

 敬語が、昨夜から、半分しか戻っていない。

 

 半分戻って、半分、残っている。

 

 私は、指摘しなかった。

 

 出張中の、例外措置である。

 

 ……起案は、していない。

 

 温水主任は、鍵を、私の手のひらに置いた。

 

 置いて、助手席に回った。

 

 回るまでに、四秒かかった。

 

 

 

 

 私は、座席を三段、前に出した。

 

「三段」

 

「足が、届きませんので」

 

「届かないのに運転するんですか」

 

「三段出せば、届きます」

 

 ミラーを三枚、合わせた。

 

 合わせてから、声に出した。

 

「右よし。左よし。後方よし」

 

「指差し確認」

 

「誤りの防止に有効です」

 

「誘導員の人が見てる」

 

「見ていただいて、結構です」

 

 誘導員の方は、笑っていた。

 

 

 

 

 道央道に入って、私は法定速度に合わせた。

 

 ぴったりである。

 

 ぴったりに合わせるのに、十二秒かかった。

 

「……遅くない?」

 

「法定速度です」

 

「後ろ、詰まってる」

 

「法定速度で走る車は、高速道路上で最も安全な車両です」

 

「最も追い抜かれる車両でもある」

 

「追い抜かれることは、違反ではありません」

 

 大型トラックが、右から追い抜いていった。

 

 風圧で、車体が、わずかに揺れた。

 

「ひっ」

 

「いまの声」

 

「出していませんっ」

 

「出てた」

 

 ……どくん、と鳴った。

 

 鳴ったので、私は、別の声を出した。

 

「道路交通法第七十条。安全運転の義務。車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ――」

 

「読み上げないでほしいんだけど」

 

「作業用BGMです」

 

「それ、前も聞いた」

 

「条文は、BGMとして優秀です」

 

「どこが」

 

「意味が分かって、感情が動きません」

 

 温水主任は、少し黙った。

 

 黙ってから、言った。

 

「……そういう文章が要るときがあるのは、分かる」

 

「はい」

 

「でも七十条はやめてほしい。運転してる人間に、いちばん効かない条文だから」

 

「では、七十一条を」

 

「番号の問題じゃない」

 

 

 

 

「どこで降りるか、知ってます?」

 

「札幌南です。ここから五十一キロ」

 

「調べてある」

 

「昨夜、船の上で」

 

「九時間の内訳が、また増えた」

 

「増えていません。最初から、入っています」

 

 十分ほど走って、温水主任が、助手席で背中を丸めた。

 

「寝ていい?」

 

「駄目です」

 

「なんで」

 

「……私が、不安になります」

 

「え」

 

「いえ。運転者が、同乗者の睡眠によって心理的孤立を感じることは、注意力低下の要因として――」

 

「早口」

 

「……」

 

「馬剃さん、いま、自分でも分かったでしょ」

 

「分かっていません」

 

「分かってたよ。途中で、声が小さくなった」

 

 私は、前を見た。

 

 前しか見られない。運転中である。

 

 運転中でよかった、と思ったのは、本日が初めてである。

 

 温水主任は、寝なかった。

 

 寝ないで、札幌まで、一時間、起きていた。

 

 起きて、ときどき、こちらを見た。

 

 数えた。

 

 七回。

 

 業務上の必要は、七回とも、ない。

 

 

 

 

 十五時十五分、札幌。

 

 ホテルは、会場から徒歩八分の、ビジネスホテルである。

 

「シングル二室、予約の馬剃です」

 

「確認しました?」

 

「二重にです」

 

「借りなくても、もう馬剃さんのですよ、それ」

 

「返していただきました」

 

「箱、降ろします?」

 

「明朝九時に、会場へ直接です」

 

「じゃあ今夜は車の中か」

 

「施錠は、確認しました」

 

「二重に?」

 

「……二重にです」

 

「自分で言うときより、自信なさそうですね」

 

「気のせいです」

 

 

 

 

 夕食は、スープカレーだった。

 

 温水主任が、三十秒で決めた。

 

「スープカレーって、札幌のでしょ」

 

「発祥については諸説ありますが、広まったのは札幌です」

 

「調べたんだ」

 

「船の上で」

 

「馬剃さんの船旅、調べものしかしてない」

 

「九時間、しました」

 

「何を」

 

「……色々です」

 

「九時間の内訳、一個くらい言ってよ」

 

「北海道の高校生向けの想定問答を、四十二問、作りました」

 

「四十二」

 

「雪の日の休講基準、寮の暖房費、帰省の航空券の相場、冬の通学路の凍結状況」

 

「最後のは聞かれないだろ」

 

「聞かれたときに答えられないのは、困ります」

 

「それで四十二問」

 

「一部です」

 

「一部」

 

「……一部ですっ」

 

「いま『っ』ついた」

 

「ついていませんっ」

 

「また」

 

「……っ」

 

「三回目」

 

「数えないでくださいっ!」

 

「四回目」

 

 辛さは、十段階で選べた。

 

「五です」

 

「根拠は」

 

「中央値です」

 

「辛さを統計で決める人、初めて見た」

 

 温水主任は、三を選んだ。

 

「三の根拠は」

 

「無難」

 

「出典は」

 

「俺」

 

 ……借りられた。

 

 五は、辛かった。

 

 三口目で、額に汗が浮いた。五口目で、鼻の奥がつんとした。

 

「辛い?」

 

「辛くありませんっ」

 

「目が潤んでる」

 

「スパイスの、揮発成分ですっ」

 

「水、飲んでいいですよ」

 

「……いただきます」

 

 一杯で足りなかった。

 

 二杯目を注ぐとき、温水主任が、何も言わずにピッチャーを持ち上げてくれた。

 

 ……こういうところである。

 

 こういうところで、私は、怒る理由を見失う。

 

 店のテレビが、台風の進路図を出していた。

 

 十八号は、紀伊半島の沖にいた。

 

 日曜の朝に、関東の東の海上。

 

 太平洋側の海は、土曜の夜から、荒れる。

 

「……三割、上がりました?」

 

「五割です」

 

「上げたな」

 

「進路が、東に寄りました。苫小牧から大洗の航路は、ちょうど、東側です」

 

「三案の話、いま聞いとく?」

 

「いまは、確率の話です。明日の十四時に、事実になります」

 

「事実になってから聞くのか」

 

「事実になってから、三案を二案に絞ります」

 

「もう絞れてるだろ」

 

「……絞れています」

 

「言えばいいのに」

 

 十八時四十分。

 

 勤務時間外である。

 

 敬語は、外れたままで、正しい。

 

「丙案です」

 

「丙ってなに」

 

「明日、申し上げます」

 

「なんで」

 

「事実になってから、申し上げます」

 

「甲乙丙って、契約書かよ」

 

「役所の癖です」

 

「抜けてないな」

 

「……抜けません」

 

「……馬剃さんって、そういうとこあるよな」

 

 ――本日、二人目である。

 

 四月に私が言った側の台詞が、半年経って、同じ日に二回、返ってきた。

 

 スープは、五でも、それほど辛くなかった。

 

 辛くなかったのに、耳が熱かった。

 

 

 

 

 二十一時十分、ホテルの部屋で、大貫君からメッセージが来た。

 

 『馬剃さん、生きてます?』

 

 『生きています』

 

 『温水さん、怒ってました?』

 

 『怒っていません。十二箱を側溝に落とさないよう、課長から言われていました』

 

 『なんで側溝!?』

 

 『存じません』

 

 『熱、三十七度五分まで下がりました』

 

 『承知しました。お大事に』

 

 『馬剃さん、いま、札幌ですよね』

 

 『札幌です』

 

 『温水さんと二人で』

 

 『業務です』

 

 『……早口ですね、文字なのに』

 

 私は、反論を打った。

 

 百二十字。消した。

 

 九十字。消した。

 

 四十字。消した。

 

 『違います』

 

 送信した。

 

 『四文字でそれだけ間が空くの、逆に怪しいです』

 

 私は、スマホを伏せた。

 

 伏せて、枕に顔を押しつけて、声を出さずに三秒、叫んだ。

 

 ……叫んだ理由は、述べない。

 

 

 

 

 十月四日、土曜日、九時。

 

 搬入。

 

 会場はホテルの三階、宴会場を二つつないだもので、参加大学は七十二校、来場見込みは六百人、本学のブース番号は三十八番である。

 

 八時三十分、ロビー。

 

「寝ました?」

 

「はい」

 

「何時間」

 

「……じゅうぶんです」

 

「時間を聞いてるんですけど」

 

「……五時間です」

 

「短い」

 

「標準です」

 

「誰の」

 

「私の」

 

「出典は」

 

「……私です」

 

「今日は自信なさそうだな、出典」

 

 ホテルから会場まで、車で三分。

 

「歩けば八分だったんですけどね」

 

「七分です」

 

「一分の差は」

 

「私の歩幅で七分。あなたの歩幅なら、六分です」

 

「なんで俺の歩幅を知ってるんですか」

 

「……一般的な成人男性の歩幅から、算出しました」

 

「一般的な成人男性、よく出てきますね」

 

「便利ですので」

 

 のぼり二本。テーブルクロス。タブレット二台。

 

「のぼり、傾いています」

 

「どっちが」

 

「左が、〇・五度」

 

「分かるんですか」

 

「分かります」

 

「直さなくていいと思いますけど」

 

「直します」

 

 直した。

 

 直したあと、温水主任が、右を〇・五度、傾けた。

 

「なぜ」

 

「そろった」

 

「そろっていません」

 

「そろいました」

 

 ……そろっている。

 

 悔しいが、そろっている。

 

 大学案内は、四十センチの高さに積んだ。

 

「四十センチ」

 

「崩れない限界の高さです」

 

「計ったんですか」

 

「六月に」

 

「六月から持ってたのか、その数字」

 

「数字は、持っていて困りません」

 

 隣のブースは、東北の私立大学だった。

 

 向こうの方が、のぼりの角度を直しながら、会釈してきた。

 

 全員が競合で、全員が同業者である。

 

 

 

 

 十時、開場。

 

 六月と違って、来るのは三年生ばかりだった。

 

 六月は迷いに来る。十月は、確認しに来る。

 

 六月に、温水主任から教わった区別である。

 

 一人目は、男子だった。理学部志望。

 

「東京って、生活費、どのくらいですか」

 

「一人暮らしで、家賃込みで月に十二万から十四万です。学生寮なら、八万台まで下がります」

 

「寮、あるんですか」

 

「あります。定員百六十名、倍率は昨年度で一・七倍です」

 

「……早いっすね、答え」

 

「業務ですので」

 

 男子は、大学案内をめくって、理学部のページで止まった。

 

「この先生、怖そう」

 

「写真映りに、毎年、怒っていらっしゃる先生です」

 

「本人が?」

 

「本人が、です。実物は、怒っていません」

 

「……写真に怒ってる先生がいる大学、ちょっといいっすね」

 

 男子は、理学部のページに折り目をつけて、帰った。

 

 ……権田先生には、報告しない。

 

 二人目は、母娘だった。看護学部。

 

 娘さんが黙っているので、お母様が全部喋った。

 

 温水主任は、お母様の質問に三つ答えてから、娘さんに向き直った。

 

「いちばん、気になってることは」

 

 娘さんは、一秒、黙った。

 

 黙ってから、小さく言った。

 

「……実習、きついって聞いて」

 

「きついです」

 

 温水主任は、即答した。

 

「きついけど、一人でやる実習は、一つもないです。それだけは、言えます」

 

 娘さんは、うなずいた。

 

 お母様は、うなずかなかった。

 

 うなずかなかったが、大学案内を、二冊、持って帰った。

 

 ……私は、この人のこういうところを、十六年前から知っている。

 

 知っていて、帳簿には載せない。

 

 載せると、件数が、増えすぎる。

 

 

 

 

「受付の締切、十月十四日ですよね」

 

 三人目の女子が、総合型選抜の話をしていた。

 

「十四日の二十三時五十九分までに、出願登録と検定料の納入です」

 

「ギリギリに出す予定で」

 

「……余裕を持って、お願いします」

 

「え?」

 

「ネットは、何が起きるか分かりません」

 

「そんなこと、ありますか」

 

「……ないことを、祈ります」

 

「祈るんですか、大学の人が」

 

「祈ります」

 

 温水主任が、横で咳払いをした。

 

「馬剃さん、祈りは旅費規程にないって、昨日」

 

「出願要項にも、ありません。ありませんが、祈ります」

 

 女子は、笑って、手帳に『余裕を持って』と書いた。

 

 ……手帳を持っている子だった。

 

 それだけで、私は、少し安心した。

 

 四人目は、父子だった。経済学部。

 

「就職率は」

 

「昨年度で、九十七・二パーセントです」

 

 私は、付箋に書いた。

 

 『九十七・四』

 

 書いて、温水主任の手元に、滑らせた。

 

 温水主任は、〇・五秒、見た。

 

「失礼しました。九十七・四です」

 

「……細かいですね」

 

「事実ですので」

 

 私が言った。

 

 お父様は、私と温水主任を交互に見て、笑った。

 

 笑って、息子さんの背中を叩いた。

 

「こういう大学に行け」

 

「なんで」

 

「小数点を直す大学だ」

 

 ……褒められた。

 

 かっ、と耳が熱くなった。

 

 熱くなったので、私は机の下で、両手を握った。

 

「……恐れ入ります」

 

 謝らなかった。

 

 謝らなかったことを、帳簿の、別の欄に書く。

 

 謝らずに言えるまでに一秒半かかったことは、書かない。

 

 五人目の男子は、温水主任に聞いた。

 

「先生ですか」

 

「職員です」

 

「何が違うんですか」

 

「教えないです。あと、夏休みがないです」

 

「……大変ですね」

 

「大変です。でも、八月に三千人を一日で呼ぶのは、職員のほうです」

 

「それ、すごいんですか」

 

「すごいです」

 

 温水主任は、そこで私を見た。

 

「隣の人が、今年、八百人の会場を一人で止めなかったんで」

 

 ――どん、と来た。

 

 胸の真ん中に、来た。

 

「……止めなかった、という言い方は、正確では」

 

「正確ですよ」

 

「あの」

 

 男子が、私の顔を見た。

 

「顔、赤いですけど」

 

「照明ですっ」

 

「白色灯ですよ、ここ」

 

「……個人の、照明です」

 

 男子は、意味が分からない顔で、大学案内を持って帰った。

 

 意味が分からなくていい。

 

 私にだけ、分かればいい。

 

 ……分かってほしくない一点だけ、隣の人に分かられている。

 

「耳まで赤いですよ」

 

「見ないでくださいっ」

 

「見えるんですよ、隣だと」

 

「見えないように、してくださいっ」

 

「無理言わないでよ」

 

 温水主任は、それ以上、何も言わなかった。

 

 言わないで、ポケットから何かを出して、私の手元に置いた。

 

 りんご味だった。

 

「桑原さんの」

 

「…………いただきます」

 

 ……この事務局は、飴で人を黙らせる。

 

 黙らされたまま、私は、次の高校生を待った。

 

 待つあいだ、耳が、じんじんしていた。

 

 正午までに、十四件。

 

 うち八件を、私が受けた。

 

「温水主任、水を」

 

「飲んでます」

 

「二時間で、一口です」

 

「数えてたんですか」

 

「……業務上の、把握です」

 

「業務上の把握で、一口単位」

 

「単位は、細かいほうが正確です」

 

 温水主任は、ペットボトルを半分、飲んだ。

 

 飲んで、私に見せた。

 

「これでいいですか」

 

「結構です」

 

 結構です、の使い方が、十五日前と違う。

 

 違うことに、言ってから気づいた。

 

 

 

 

 六人目は、女子だった。文学部。

 

「東京、行ったことなくて」

 

「私も、住んだのは二十二からです」

 

「え、職員さんも地方ですか」

 

「愛知の、豊橋です」

 

「豊橋……」

 

「ご存じないですよね」

 

「……ちくわ?」

 

「正解です」

 

 女子は、少し笑った。

 

 笑ってから、声を落とした。

 

「東京、怖くなかったですか」

 

「怖かったです」

 

 〇・五秒だった。

 

「……」

 

「ですが、怖かったのは、東京ではありませんでした」

 

「じゃあ、何が」

 

「……自分の、準備不足です」

 

「準備」

 

「準備は、いまからで間に合います。寮の暖房費と、帰省の航空券の相場を、お渡しします」

 

「そんなのあるんですか」

 

「昨夜、作りました」

 

 女子は、二枚の紙を、大学案内に挟んで帰った。

 

 温水主任が、こちらを見ていた。

 

「四十二問、出番あったな」

 

「一部です」

 

「一部、と言い張るんだ」

 

「……一部です」

 

 十三時を過ぎて、七人目の男子が、私の説明を最後まで聞いてから、言った。

 

「東京の大学の人って、みんな早口ですね」

 

「……早口ではありませんっ!」

 

「いま早かったです」

 

「褒めてるんです。聞き取れたんで」

 

「聞き取れたのなら、早口ではありません」

 

「いや、早いです」

 

 男子は、笑って帰った。

 

 温水主任が、横を向いていた。

 

 横を向いて、肩が、二回、動いた。

 

「笑いましたね」

 

「笑ってないです」

 

「二回、動きました」

 

「数えないでください」

 

 

 

 

 十四時四十八分。

 

 ジャケットのポケットで、スマホが震えた。

 

 一回。メールである。

 

 目の前には、看護学部志望の三年生が座っていた。

 

 第一志望は、道内の国立。本学は、第三志望。

 

 私は、スマホを出さなかった。

 

 出さなかったが、震えた位置を、ポケットの上から、一度だけ、押さえた。

 

 

 

 

 十四時五十五分。

 

 三年生が席を立ったところで、私はスマホを見た。

 

 

 

 

 『【重要】十月四日 苫小牧発大洗行き 欠航のお知らせ』

 

 

 

 

 二回、読んだ。

 

 二回読んでも、文字は変わらなかった。

 

 次の三年生が、もう、椅子の前に立っていた。

 

 私は、スマホを伏せて、顔を上げた。

 

「お待たせしました。どちらの学部を」

 

 

 

 

 十五時、閉場。

 

 十五時四分、最後の三年生が帰った。

 

 本日、二十九件。うち十五件を、私が受けた。

 

 十五時四分三十秒。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「苫小牧発、欠航です」

 

「……マジか」

 

「十四時四十八分に、メールが来ました」

 

「十六分前だ」

 

「はい」

 

「なんで、その時」

 

「三年生が、目の前にいました」

 

「……」

 

「十六分では、事実は変わりません」

 

「変わらないけど」

 

「……」

 

「顔に、出てなかったな」

 

「出さない練習を、十年しています」

 

「どこで」

 

「文科省で」

 

「……そうか」

 

「本日は、役に立ちました」

 

「立たなくていい日のほうが、多いと思う」

 

 温水主任は、タブレットの電源を落として、それから、私を見た。

 

「三案」

 

「はい」

 

「丙って言ってたな」

 

「言いました」

 

「丙」

 

「まだ、一案も述べていません」

 

「昨日の夜に丙って聞いた。理由は聞いてない。丙で」

 

「理由を、申し上げます」

 

「言いたいんだ」

 

「……はい」

 

「どうぞ」

 

 私は、息を吸った。

 

「甲案。函館から大間。札幌から函館まで三百キロ、津軽海峡フェリーで九十分、大間から本学まで八百三十キロ。運転時間の合計は十六時間で、車両管理規程第十六条の一日八時間の上限を二日に分けても、途中で一泊が必要です。乙案。苫小牧で待機。進路予想から、太平洋側の再開は早くて月曜日。月曜の勤務に間に合いません。丙案。小樽から新潟。太平洋側の欠航を受けて、新日本海フェリーが本日十九時三十分に臨時便を出しています。新潟着は明日の十五時三十分、新潟から本学まで三百三十キロ、四時間半。本日中に日本海側に出れば、台風の影響圏から外れます。以上により、丙案です」

 

「一息だな」

 

「……恐れ入ります」

 

「一個でよかったんだけど」

 

「三個ないと、比較になりません」

 

「比較するために、三個作ったのか」

 

「はい」

 

「丙のために」

 

「……結果的には」

 

「最初から丙だろ」

 

「最初から、丙でした」

 

 温水主任は、鼻から息を出した。

 

「小樽」

 

「はい」

 

「行ったことあります?」

 

「ありません」

 

「俺も」

 

「はい」

 

「……じゃあ、丙」

 

「承知しました」

 

 温水主任は、スマホを出して、課長にかけた。

 

 かけながら、のぼりを畳み始めたので、スピーカーになった。

 

『欠航ね』

 

「欠航です」

 

『で、どうするの』

 

「小樽から新潟です。今晩の臨時便」

 

『誰が決めたの』

 

「馬剃さんです」

 

『じゃあ大丈夫ね』

 

「俺が決めても大丈夫でしょ」

 

『どうかしら』

 

「ひどいな」

 

『馬剃さん、聞こえてる?』

 

「はい」

 

『温水君を、座らせなさい。その子、立ってると座らないから』

 

「存じております」

 

『知ってるなら、いいわ。日曜の夜、二人とも着いたら連絡して』

 

「着きます」

 

『着いてから言いなさい』

 

 電話は、切れた。

 

 ……課長は、事実になってからしか、報告を受け取らない。

 

 私と、同じである。

 

 

 

 

 予約サイトは、重かった。

 

 太平洋側から流れてきた人間が、全員、同じ画面を見ているのである。

 

 二名。乗用車一台。個室二室。

 

 私は、入力して、送信を押した。

 

 画面が、白くなった。

 

 白いまま、四十秒。

 

「落ちた?」

 

「落ちていません。待っています」

 

「待ってるのか、止まってるのか」

 

「待っています」

 

 一分十二秒で、画面が戻った。

 

 『ご予約を受け付けました』

 

 その下の詳細欄は、読みこみ中の円が回っているだけだった。

 

 私は、その円を、にらんだ。

 

 にらんで止まる円なら、役所で十年、止めている。

 

「取れました?」

 

「受け付けられました」

 

「取れたってことですか」

 

「受付メールが来ています」

 

「個室、二室になってます?」

 

「二室で、入力しました」

 

「二重に確認しました?」

 

「……確認画面が、出ません」

 

「出ないんだ」

 

「出ませんが、入力は、二室です」

 

「入力はね」

 

 ポケットで、スマホが震えた。

 

 件名だけが、見えた。

 

 『ご予約受付のお知らせ』

 

 本文を開こうとしたところで、隣のブースの方が、のぼりの回収場所を聞きにきた。

 

 私はスマホを伏せて、回収場所を案内した。

 

 案内して、それから、自分ののぼりを抜いた。

 

 本文は、後で読むことにした。

 

 ……これが、本日、二つ目の判断である。

 

 一つ目は、十四時四十八分に、十六分黙ったことだ。

 

 どちらが正しかったかは、まだ分からない。

 

 

 

 

 隣のブースの方が、段ボールを閉じながら、話しかけてきた。

 

「そちらも、苫小牧でした?」

 

「欠航で」

 

「うちもです。どうされます」

 

「小樽から新潟です」

 

「あ、うちも。臨時便」

 

「……取れましたか」

 

「二等寝台しか。個室、全部埋まってましたよ」

 

「……」

 

「そちらは」

 

「受け付けられました」

 

「取れたんですか」

 

「受け付けられました」

 

 隣の方は、少し首をかしげて、段ボールを台車に載せた。

 

 背中を、冷たいものが一筋、伝った。

 

 私は、ポケットの上から、スマホを押さえた。

 

 押さえただけで、開かなかった。

 

 開けなかったのではない。

 

 ……開けたくなかったのである。

 

 事実を先に受け取る人間が、本日、二回目の先送りをした。

 

「箱、俺が運びます」

 

「半分ずつです」

 

「十四キロですよ」

 

「存じております。五箱ずつなら、七十キロずつです」

 

「計算すると重くなる」

 

「計算しなくても、同じ重さです」

 

 十五時四十五分、撤収完了。

 

「十箱」

 

「百二十部、減りました。二箱ぶんです」

 

「悪くない」

 

「悪くありません」

 

「六月より、いいかもしれない」

 

「……六月は、十七件中八件でした」

 

「覚えてるんだ」

 

「数字は、持っていて困りません」

 

 温水主任が、鍵を出した。

 

 私は、手を出した。

 

「鍵を」

 

「俺が運転します」

 

「あなたは、本日、五時間十二分、立っていました」

 

「数えてたんですか」

 

「座ったのは、四分です」

 

「……大丈夫ですよ」

 

「短いですね」

 

 温水主任が、止まった。

 

 止まって、苦い顔をした。

 

「……それ、俺のやつ」

 

「四月に、私が解説しました。相互に使えます」

 

「使えるとは言ってない」

 

「言っていませんが、使えます」

 

 温水主任は、鍵を、私の手のひらに置いた。

 

 昨日より、一秒、早かった。

 

「……四十分だけですよ」

 

「四十分です。札樽道、四十分」

 

「調べてる」

 

「昨夜です」

 

「昨夜は、まだ丙じゃなかったでしょ」

 

「丙でした」

 

 

 

 

 座席を三段、前に出した。

 

 右よし。左よし。後方よし。

 

 本日は、温水主任は、何も言わなかった。

 

 

 

 

 札樽道に入って、五分。

 

「寝ていい?」

 

「昨日は、駄目と申し上げました」

 

「うん」

 

「本日は――」

 

 私は、前を見た。

 

 前しか見られない。運転中である。

 

「……寝ていてください」

 

「いいの」

 

「四十分なら、一人でも、不安になりません」

 

「なんで」

 

「……慣れました」

 

 一日で慣れる人間は、いない。

 

 いないが、私は、そう言った。

 

 温水主任は、三十秒で、寝た。

 

 早い。

 

 五時間十二分、立っていた人の、寝方である。

 

 

 

 

 私は、法定速度で走った。

 

 正確には、法定速度より、三キロ、遅く走った。

 

 ……三キロは、誤差である。

 

 右手に、海が見えてきた。

 

 石狩湾。

 

 日本海である。

 

 太平洋と、色が違う。

 

 違うように見えるだけかもしれない。

 

 見えるだけでも、私は、違うと記録する。

 

 助手席を、一回だけ、見た。

 

 見て、前に戻すのに、二秒かかった。

 

 二秒は、長い。

 

 それ以上は、見ないように、した。

 

 見ると、数えることになる。

 

 数えると、帳簿に載せなければならなくなる。

 

 載せないために、私は、ミラーを一回、余分に見た。

 

 ミラーに、助手席は、映らない。

 

 

 

 

 十六時二十六分、小樽。

 

 運河の近くの駐車場に、車を入れた。

 

 入れて、エンジンを切って、サイドブレーキを引いた。

 

 声には、出さなかった。

 

「温水主任、着きました」

 

「……ごめん、寝てた」

 

「まだ、十六時二十六分です」

 

「あ」

 

「はい」

 

「……すみません。寝てました」

 

「承知しました」

 

 敬語に戻すのに、三秒かかった。

 

 この人にしては、長い。

 

「あと、最後の五分は、起きてました」

 

「え」

 

「目は閉じてましたけど」

 

「……」

 

「二秒くらい、見てました?」

 

「見ていませんっ!」

 

「目、閉じてたのに分かるんですよ。視線って」

 

「分かるわけないじゃないですかっ! 運転中ですっ! 前を見ていましたっ! ミラーと前方以外は、道路交通法上――」

 

「早口」

 

「――っ」

 

 かっ、と顔に血が上った。

 

 上ったので、私は運転席のドアを開けて、外に出た。

 

 出て、深呼吸を二回した。

 

 二回で足りなかったので、三回目をした。

 

 潮の匂いがした。

 

 太平洋の匂いと同じなのか、違うのかは、分からない。

 

 分からないことを、私は、あまり記録しない。

 

「出港まで、三時間ある」

 

「手続きの締切は、十八時五十分です。二時間二十四分です」

 

「……歩きましょうか」

 

 〇・五秒で、答えるつもりだった。

 

 答えられなかった。

 

「……はい」

 

 短くなった。

 

 短くなった理由を、私はまだ、自分に説明していない。

 

 説明していないあいだに、右足のつま先が、アスファルトの上で動いていた。

 

 ――「の」の字である。

 

 止めた。

 

 止めたのに、左足が、続きを書こうとした。

 

 十七時十五分まで、あと四十九分。

 

 それまでに、顔から、何かを、追い出しておく必要がある。

 

 

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