(十月三日/馬剃視点)
十六時三十一分、小樽。
顔から、何も追い出せていなかった。
追い出せていないまま、私は、温水主任の半歩前を歩いていた。
「馬剃さん、速い」
「速くありません」
「視察の速度だ」
「……散策です」
「散策の定義、昨日言ってたよな。目的を定めずに歩くこと」
「言いました」
「いま、目的ある顔してる」
「ありませんっ」
ある。
堺町通りを抜けて、十七時十五分までに、ある場所に着く。
昨夜、船の上で、地図を見ながら決めた。
……昨夜は、まだ丙案が事実になっていなかったのに、である。
「お二人さん、人力車どうですか~」
「乗りませんっ」
「即答だな」
「規程にありません」
「あったら乗るのか」
「……乗りません」
「二人組で歩いてるだけで声かかるな」
「観光地ですので」
「そういう意味じゃなくて」
「そういう意味で、結構ですっ」
「手、赤い」
「寒いからです」
「手袋は」
「鞄の中です」
「出せば」
「……出すと、何かを認めた気がします」
「何を」
「寒さを、です」
「認めていいと思うけど」
「認めませんっ」
認めなかった。
認めなかったので、指先が、じんじんした。
堺町通りは、ガラスの店が続いていた。
窓の中で、小さな器が、夕方の光を溜めていた。
私は、一軒の前で、足を止めた。
止めたつもりはなかった。
足が、勝手に止まった。
「見る?」
「見ません」
「三秒、見てた」
「測らないでくださいっ」
「見ればいいのに」
「買いませんので、見ません」
「買わなくても見ていいんだよ、店って」
……そうなのか。
役所で十年、私は、買わないものを見る時間を、持っていなかった。
持っていなかったことに、ガラスの器を前にして、気づいた。
「……一分だけ」
「うん」
一分、見た。
青いガラスの、小さな蓋つきの器だった。
何を入れる器なのか、分からない。
分からないものを、私は、一分、見た。
温水主任は、何も言わずに、隣に立っていた。
三十センチである。
十七時十三分。
通りの端に、大きな時計が立っていた。
蒸気時計である。
十五分ごとに、蒸気と音で、時刻を知らせる。
……昨夜、調べた。
「ここ?」
「ここです」
「時計」
「はい」
「時計を見に来たの」
「……見に来ました」
「馬剃さんの散策、時計がゴールなんだ」
「ゴールではありません。通過点です」
十七時十四分。
周りの観光客が、スマホを構え始めた。
私は、構えなかった。
構える代わりに、両手を、ジャケットの裾で握った。
心臓が、とくん、とくん、と、早くなっていた。
早くなる理由が、時計であるわけがない。
「あと一分」
温水主任が、言った。
――先に、言われた。
「……存じております」
「いつも馬剃さんが言うから、今日は俺が」
「言わなくて、結構です」
「言いたかったんだよ」
十七時十五分。
蒸気が、しゅう、と上がった。
音が、五つ、鳴った。
「温水さん」
「うん」
それだけだった。
それだけなのに、音が鳴り終わるまで、私は、息を止めていた。
「……いまのは」
「うん」
「定時の、切り替えです」
「知ってる」
「他意は、ありません」
「聞いてない」
「聞かれる前に、申し上げました」
「聞かれる前に言うの、怪しいんだよな」
「怪しくありませんっ」
蒸気が、もう一度、しゅう、と上がった。
上がった蒸気の向こうで、温水さんが、鼻から息を出した。
十七時三十五分、運河。
日が、落ちた。
石の倉庫に、橙色の灯りが入っていた。
水面が、それを、揺らしながら映していた。
ガス灯が、ひとつずつ、点いていった。
私は、数えた。
「……三十一」
「数えてるな」
「六十三基あります。公式に」
「事実確認か」
「事実確認です」
「馬剃さん」
「四十二」
「数えるの、やめない?」
「……一基、数え損ねます」
「いいだろ、一基くらい」
よくない。
よくないのだが、私は、数えるのをやめた。
やめて、倉庫の灯りを見た。
橙色が、ぶわっと、胸に入ってきた。
入ってきて、出ていかない。
「……きれい、ですね」
「うん」
きれい、という言葉を、私は、業務で使ったことがない。
使ったことがない言葉が、口から出た。
出たことに、言ってから気づいた。
「馬剃さん、いま、業務で使わない言葉使った」
「使っていません」
「きれい、って」
「……事実確認です。この景観は、一般的な評価基準において、きれいに分類されます」
「長い」
「――っ」
「いいじゃん。きれいで」
「……よくありません」
「なんで」
「よくないからですっ」
よくない理由を、私は、持っていなかった。
持っていないのに、耳だけが、理由を知っているように、熱かった。
「お二人、写真、撮りましょうか?」
知らないご婦人が、スマホを指して、笑っていた。
ぎくっ、とした。
「け、結構ですっ!」
「……撮ってもらう?」
温水さんが、言った。
言ったので、私は、温水さんを見た。
見て、止まった。
「……業務記録として、なら」
「業務記録」
「出張報告書の、添付として」
「添付するのか、これ」
「……しません」
「じゃあ業務記録じゃないな」
「撮りますっ」
私は、スマホを、ご婦人に渡した。
渡す手が、少し、震えていた。
寒いからである。十月の小樽は、寒い。
「はい、もっと寄って~」
「これが規定距離ですっ!」
「規定?」
「……寄ります」
十五センチ、寄った。
肩が、触れる寸前で止めた。
止めたのに、温水さんのほうから、五センチ、来た。
――触れた。
肩の、ほんの端が、である。
ぶわっ、と首筋まで熱くなった。
足元で、右足のつま先が、動きかけた。
止めた。写真に、「の」の字は写らない。写らないが、止めた。
「はい、チーズ」
シャッターの音が、した。
ご婦人は、「お似合いですよ」と言って、スマホを返してくれた。
私は、三十度のお辞儀をした。
お辞儀をしてから、画面を見た。
温水さんは、少し笑っていた。
私は、目を見開いて、固まっていた。
……削除しない。
削除しないことを、その場で決めた。
理由は、業務記録だからである。
添付はしない。
「お似合い、だって」
「聞こえませんでした」
「聞こえた瞬間にお辞儀してたけど」
「……お辞儀は、反射です」
「それ、送って」
「え」
「写真。俺のにも」
「……業務記録ですので、共有します」
「業務記録なら送るんだ」
「共有は、業務上の、義務です」
「はいはい」
「はいは、一回です」
送った。
送信の音が、ぽん、と鳴った。
鳴ったので、私は、スマホをポケットに、深く、しまった。
十七時五十五分。
車へ戻る道で、ガス灯は、全部、点いていた。
「六十三」
「結局数えたのか」
「一基も、数え損ねていません」
「四十二で止まっただろ、さっき」
「……二十一基、戻って数えました」
「いつ」
「あなたが、お手洗いに」
「その調査力」
「事実確認です」
「一生ものだっけ」
「一生ものです」
十八時二分、夕食。
運河の近くの、鶏の店である。
「小樽の名物は、寿司では」
「寿司は、日当で足りません」
「調べたんだ、相場」
「昨夜です」
「じゃあ、これは」
「若鶏の半身揚げ。小樽の名物で、日当の範囲内です」
「名物の二番手を、日当で選ぶ人、初めて見た」
「二番手ではありません。有力な名物の一つです」
「ざんぎも」
「揚げ物の上に、揚げ物ですか」
「名物だろ」
「有力な名物の、一つです」
「じゃあ頼む」
「私は、結構です」
「一個食べる?」
「……一個、だけ」
「結構ですって言ったのに」
「結構です、は、辞退の意味ではありませんでした」
「どの意味だよ」
「……一個、の意味です」
運ばれてきた半身揚げは、大きかった。
私の顔より、大きかった。
「……大きいですね」
「半身だからな」
「半身で、これですか」
「全身だと、馬剃さんくらいある」
「ありませんっ」
私は、ナイフとフォークを手に取った。
「……それで食べるのか」
「規程では」
「半身揚げに規程ないだろ」
「ありません。ありませんが、手は」
「手で食べるもんだよ、これ」
「……存じております」
ナイフを置いた。
置いて、手で、持った。
油が、指に、じわっと来た。
食べた。
皮が、ぱりっと鳴った。
鳴ったので、私は、二口目を急いだ。
「うまいな」
「……はい」
「馬剃さん、今日、二回目だな」
「何がですか」
「業務で使わない言葉」
「……数えないでください」
三分の一で、私は止まった。
止まったのを、温水さんが見ていた。
「残す?」
「残しません。持ち帰ります」
「船に持ちこむのか、それ」
「……包んでいただきます」
「俺が食べる」
「あなたは、ご自分の半身を、もう」
「食べた」
「食べました。その上に、私の三分の二を」
「食べる」
食べた。
この人は、食べると決めたものを、本当に食べる。
「温水さん」
「ん」
「揚げ物は、乗船前に、推奨されていません」
「誰に」
「船酔い対策のページにです」
「読んだのか」
「昨夜です」
「太平洋は平らだった」
「今夜は、日本海です」
「船は船だろ」
「海が、違いますっ」
温水さんは、最後の一切れを口に入れて、言った。
「酔い止め、あるから」
「ポケットに入れたままの、です」
「いざとなったら飲む」
「いざとなってからでは、遅いと申し上げました」
「まだ、いざとなってない」
……この人の、こういうところである。
こういうところで、私は、十六年前から、負け続けている。
十八時四十八分、フェリーターミナル。
窓口で、私は予約番号を言った。
言いながら、スマホの中の、読んでいないメールのことを考えていた。
「馬剃様、二名様ですね。……ステートルーム、一室で承っております」
「二室です」
「お一室で、ございます」
「二室で、入力しました」
「ご入力は二室で承っておりますが、受付の時点でステートルームが満室でございまして、システムが自動的に一室に変更を……メールで、ご案内を差し上げたのですが」
――受付。
『ご予約を受け付けました』と、画面には書いてあった。
確定、とは、書いていなかった。
私は、スマホを出して、メールを開いた。
本文の三行目に、それは書いてあった。
『※ご希望の室数を確保できなかったため、二名様一室でのご案内となります』
「……読んでいませんでした」
「二重確認は」
「……一重でした」
「一重って初めて聞いた」
「私も、初めて言いました」
窓口の方が、さらに申し訳なさそうな顔になった。
嫌な予感がした。
この顔は、役所で何度も見た。悪い知らせが、二段になっているときの顔である。
「それで、大変申し上げにくいのですが」
「はい」
「そのステートルームが、弊社の手違いで、重複してご予約を承ってしまっておりまして」
「……」
「先にご到着のお客様に、すでにお渡ししてしまいました」
ずん、と床が沈んだ気がした。
船は、まだ、揺れていない。
「他に、空きは」
温水さんが、聞いた。
「二等寝台も、満席でございます」
「カーペット席は」
「……もう、ございません」
「じゃあ、俺たち、どこに」
「一室だけ、残っております」
窓口の方は、そこで、一拍置いた。
「スイートルームでございます。二名様一室で、お代は、ご予約いただいたステートルーム二室分のままで、弊社の手違いの、お詫びとして」
スイート。
二名。
一室。
三つの単語が、頭の中で、別々の方向に走った。
「……あの」
「はい」
「スイートは、船賃の区分では、特等の上に当たりますか」
「さようでございます」
「旅費規程第十三条、船賃の支給は、実費による。実費が、ステート二室分のままであれば、精算上の問題は、生じません」
「馬剃さん、いま規程を読む場面か」
「読む場面ですっ!」
「声、大きい」
窓口の方が、笑いを、こらえていた。
こらえているのが分かる顔だった。
「じゃあ、それで」
温水さんが、言った。
「は!?」
「車ごと乗れなきゃ、帰れないだろ」
「そ、それは、そうですが」
「乗らない案は」
「……甲案に戻ります。函館まで三百キロ、いまから」
「無理だ」
「無理です」
「寝台もないんだし」
「そうですが」
「スイートなら、ソファくらいあるだろ。俺がそっちで寝る」
「……」
「嫌なら、馬剃さんは小樽に泊まって、月曜の飛行機で帰ってきてもいい。車は俺が」
「嫌ではありませんっ!」
言った。
言ってから、何を言ったか分かった。
分かったので、付け足した。
「……業務の継続性の観点から、二名で乗船すべきです。旅行命令上、同乗者は私ですので」
「はいはい」
「はいは、一回です」
「はい」
私は、窓口の方に向き直った。
「承諾します。ただし、報告書には正確に記載します」
「報告書」
「『船賃。二名一室。スイート。弊社様の手違いによる』」
「手違いまで書くのか」
「書きますっ! 書かないと、私が望んだことになりますっ!」
窓口の方が、今度は、本当に吹き出した。
私は、三十度のお辞儀をした。
意味は、分かっていた。
……恥ずかしかったからである。
待合室で、十五分、待った。
「まだ赤い」
「寒いからですっ」
「ターミナルの中だけど」
「……暖房が、ききすぎています」
「昨日、ついてないって言ったよな」
「今日は、ついています」
「ついてるな、確かに」
「……ついていますっ」
ついていた。
ついていたから、赤い。
そういうことに、する。
十九時十分、乗船。
車両甲板で、温水さんがエンジンを切った。
「サイドブレーキ、ギアはパーキング」
「存じております」
「今日は、俺が先に言った」
「存じております」
階段を上がって、廊下の突き当たりに、その部屋はあった。
広かった。
入って右に、ソファと、テーブルと、大きな窓。
窓の外は、もう、黒い海だった。
入って左に、扉。
扉の向こうに、ベッドが、一台。
一台である。
大きい。大きいが、一台である。
「……一台です」
「見れば分かる」
「二名で、一台です」
「でかいけどな」
「大きくても、一台です。二名でも、規定距離は取れますが」
「規定距離」
「三十センチです」
「ベッドで三十センチは近いよ」
「……五十センチ」
「ソファの話はどこ行った」
「戻しますっ」
「だから俺はソファだって」
「ソファは、私が使います」
「なんで」
「私のほうが、小さいからです」
「それ、理由になるのか」
「なります。ソファの全長は、目測で百八十センチ。あなたは百七十四、私は百五十二。私なら、足が出ません」
「俺の身長、なんで知ってるんだ」
「……一般的な成人男性の、平均値から」
「平均値で百七十四ぴったり出るか」
出ない。
「じゃあ、じゃんけん」
「業務上の決定を、じゃんけんで?」
「じゃあ規程で決める?」
「……規程に、ソファの条文はありません」
「じゃんけん」
「…………最初は、ぐー」
私が、勝った。
勝ったので、ソファは、私のものになった。
……なったはずだった。この時点では。
私は、窓のほうを見た。
海は、黒かった。
黒い上に、白いものが、ところどころで、ちらついていた。
……波頭である。
部屋には、他にも、色々あった。
「バルコニーがあります」
「出ないでよ」
「出ません。波浪です」
「冷蔵庫」
「有料です。雑費に、含まれません」
「含めないのか」
「含めません」
もう一枚、扉があった。
開けた。
「……お風呂が、あります」
「あるな」
「浴槽が、あります」
「入れば」
「入りませんっ!」
「なんで」
「あ、あなたが、隣の部屋にいる状態で、入浴は」
「ドアあるだろ」
「ドアは、壁より薄いですっ」
「じゃあ俺が先に寝る」
「寝ている人間の隣で、入浴は、もっと」
「もっと、何」
「……もっと、です」
温水さんは、それ以上、聞かなかった。
聞かないで、ソファに座って、天井を見た。
私は、浴室の扉を、閉めた。
閉めてから、もう一回、開けて、確認した。
浴槽は、まだ、あった。
……あるに決まっている。
「避難経路、確認してきます」
「またか」
「二周」
「一周にしとけ」
「……一周半」
「半ってなんだ」
一周半、した。
戻ってきたら、温水さんが、私の手帳を見ていた。
テーブルの上に、開いたまま置いてあったのである。
「見ないでくださいっ!」
「開いてた」
「開いていても、見ないでください」
「『船賃。二名一室。スイート。弊社様の手違いによる』」
「報告書の、下書きです」
「もう書いてるのか」
「記憶が、新しいうちに」
「『二名一室』の字、震えてるな」
「揺れですっ」
「まだ出港してない」
「……予備的な、揺れです」
窓の外で、小樽の灯りが、まだ、近かった。
「小樽、また来る?」
「……業務で、来る機会があれば」
「業務以外で」
「…………規程に」
「ないだろ」
「ありませんっ」
「ないなら、来られるな」
「……理屈が、おかしいです」
「おかしくない」
おかしくない、と言われた理屈を、私は、否定できなかった。
できなかったので、窓に、額を近づけた。
ガラスが、冷たかった。
十九時十五分。
「酔い止めを」
「揺れてから」
「揺れてからでは――」
「揺れてからで、いい」
私は、一錠を、自分だけ飲んだ。
飲んで、残りの一錠を、テーブルの真ん中に置いた。
彼の正面である。
置いたことで、私は、私の義務を果たした。
……果たしたことにした。
十九時三十分、出港。
汽笛が、鳴った。
昨日の汽笛と、同じ音だった。
同じ音なのに、床から上がってくるものの量が、違った。
ぞわっ、とした。
ぞわっとしたので、私は、窓際のソファに座って、背筋を伸ばした。
伸ばしたまま、窓の外を見た。
小樽の灯りが、遠くなった。
遠くなる速さが、昨日の大洗より、速い気がした。
……速いのではない。
揺れているのである。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、揺れてる?」
「揺れています」
「どのくらい」
「……船内放送を、お待ちください」
放送は、十分後に来た。
『本船は、本日、日本海の波浪の影響により、動揺が予想されます。お客様は――』
「動揺、だって」
「船の、動揺です」
「俺の動揺かと思った」
「まだ、動揺する段階ではありません」
「まだ、か」
まだ、だった。
二十時三十分。
揺れが、変わった。
それまでは、ゆらり、ゆらり、だった。
二十時三十分から、ぐらり、ずん、になった。
ぐらり、と床が持ち上がって、ずん、と落ちる。
落ちるたびに、テーブルの上の一錠が、一センチずつ、彼のほうへ滑っていった。
「……馬剃さん」
「はい」
「顔色、変わってない?」
「変わっていません。飲みましたので」
「俺は」
「飲んでいません」
「馬剃さん、本当に平気なのか」
「平気です」
「なんで」
「飲みましたので」
「それだけ?」
「それだけです」
「不公平だ」
「公平です。三十分前に、同じ錠剤が、テーブルの上にありました」
「……あった」
「ありました」
温水さんは、テーブルの上の一錠を見た。
見て、手を伸ばした。
伸ばして、止めた。
「……いまから飲んで、効く?」
「三十分かかります」
「三十分」
「乗り物に乗る三十分前に服用、と、箱に」
「読んだ」
「では、いまから三十分、耐えてください」
「耐える」
「飲んで、耐えてください」
飲んだ。
飲んで、三分後に、温水さんは、立ち上がった。
立ち上がって、トイレに、まっすぐ歩いた。
まっすぐには、歩けていなかった。
二十時四十一分。
扉の向こうから、音がした。
聞こえなかったことにする音である。
私は、立ち上がった。
立ち上がって、何をすべきか、一秒で並べた。
水。タオル。袋。窓を少し開けて、換気。
……昨夜、船酔い対策のページを読んでおいて、よかった。
よかった、と思ったのは、初めて役に立ったからではない。
役に立つ相手が、この人だったからである。
「温水さん」
扉越しに、声をかけた。
「……うん」
「水を、置きます。扉の前に」
「……うん」
「袋も、置きます」
「……ありがとう」
ありがとう、が、弱かった。
弱かったので、私は、扉の前で、一分、待った。
待っている自分の手が、ぎゅっと、ジャケットの裾を握っていた。
扉が、開いた。
温水さんの顔は、白かった。
白い、というより、灰色に近かった。
「……揚げ物は」
「言わないで」
「推奨されていないと」
「それは言わないで」
「……一回だけ、言わせてください」
「一回だけ」
「申し上げましたっ!」
「……うん。言われた」
「水を」
「……うん」
「一口ずつです」
「うん」
「飲みこんでから、次を」
「分かってる」
「分かっている方は、一気に飲みません」
「……分かったから」
「分かっている方の言い方ではありません」
温水さんは、そのままソファに倒れこんだ。
倒れこんで、動かなくなった。
ぐらり。ずん。
「……うぅ」
「温水さん」
「……」
「ベッドへ」
「……ソファでいい」
「ソファは、私です」
「……いま、それどころじゃ」
「それどころです。横になるなら、平らなほうが、内耳への負荷が少ないと、対策のページに」
「……ページ、何個読んだんだ」
「四つです」
「……その調査力」
「読み上げます」
「いい」
「『一、遠くの水平線を見る』」
「真っ暗だ」
「『二、横になる』」
「なってる」
「『三、深呼吸』」
「……してる」
「『四、乗船前の食事は控えめに』」
「……」
「四番が、事前に必要でした」
「それ、いま言う?」
「二回目です。もう言いません」
言い終わる前に、温水さんは、また立ち上がった。
トイレのほうへ、である。
……二回目である。
数えた。数えてしまった。
戻ってきた温水さんは、ソファの肘掛けに、額を乗せた。
「……馬剃さん」
「はい」
「笑ってる?」
「笑っていません」
「口の端が」
「……心配している顔です」
「心配してる顔、初めて見た」
「見せていません」
「見えてる」
「見ないでくださいっ」
「見ないと看病できないでしょ、そっちが」
……そのとおりである。
そのとおりなので、私は、見られることにした。
見られながら、タオルを、もう一枚、濡らした。
二十一時二十分。
三回目のあと、温水さんは、ベッドに横になった。
横になったというより、私が、背中を押した。
押したら、倒れた。
倒れた人を、私は、横向きにした。
対策のページに、そう書いてあった。
「……馬剃さん」
「はい」
「ごめん」
「謝らないでください」
「……寝てていいから」
「寝られません」
「なんで」
「ぐらり、ずん、です」
「……それは、そう」
私は、濡らしたタオルを、額に置いた。
「冷たい」
「冷やしています」
「冷たすぎる」
「規定温度です」
「誰の」
「私の」
「……まあ、いいか」
置いたら、温水さんが、小さく息を吐いた。
吐いた息が、少し、楽そうだった。
……楽そうだった、だけで、胸のあたりが、じわっとした。
じわっとしたので、私は、タオルを、三十秒ごとに裏返すことにした。
裏返す回数を数えていれば、胸のあたりを数えなくて済む。
「馬剃さん」
「はい」
「何か、喋って」
「何を」
「なんでもいい。静かだと、揺れしか聞こえない」
私は、一秒、考えた。
考えて、スマホを出した。
「道路交通法第七十条」
「……それか」
「作業用BGMです」
「運転してないんだけど」
「乗り物には、乗っています」
「……いいよ、それで」
読んだ。
七十条を読み終えて、七十一条に入った。
七十一条の三号のあたりで、温水さんの呼吸が、深くなった。
深くなったので、私は、声を小さくした。
小さくして、七十二条を読んだ。
七十二条は、事故のときの条文である。
……縁起でもない。
私は、七十三条に飛んだ。
「……七十二条、飛ばした?」
「飛ばしました」
「起きてたのか」
「……なんで」
「縁起が、悪いので」
「縁起を気にするのか、馬剃さんが」
「気にしますっ」
「初めて知った」
「本日、初めて、気にしました」
「……そっか」
温水さんは、目を閉じたまま、少しだけ、口の端を上げた。
上げたのを、私は、見た。
見て、七十三条を、最初から読み直した。
二十二時四十分。
揺れは、収まらなかった。
ぐらり、ずん。ぐらり、ずん。
温水さんは、浅く眠っては、ずん、で起きた。
起きるたびに、小さく「……うぅ」と言った。
言うたびに、私は、タオルを裏返した。
二十三時十分。
私は、ソファに戻ろうとした。
戻ろうとして、立ち上がったところで、袖を、引かれた。
――袖。
温水さんの手が、私のジャケットの袖を、握っていた。
目は、閉じている。
閉じたままで、握っている。
「……温水さん」
「……」
返事は、なかった。
なかったが、手は、放れなかった。
私は、座り直した。
二十三時三十分。
二回目。
立ち上がった瞬間に、ぐらり、ずん、が来て、温水さんが「……うぅ」と言った。
座り直した。
二十三時五十分。
三回目。
「……三回目」
「数えないでください」
「数えてない」
「いま、おっしゃいました」
「……言った」
今度は、袖ではなかった。
立ち上がりかけた私の手首を、温水さんの手が、つかんだ。
つかんで、すぐに、放した。
放したのは、寝ぼけていたからである。
放す前の一秒で、私の心臓は、どん、と一回、大きく打った。
……三回目で、私は、理解した。
ソファで寝る人間は、三十分に一回、ベッドまで走ることになる。
合理的ではない。
私は、靴を脱いだ。
脱いで、ジャケットを脱いで、ベッドの端に、座った。
座って、毛布の上に、横になった。
上に、である。
毛布一枚が、規定の距離である。
出典は、私である。
横になって、五分で、問題が生じた。
温水さんが、震えていた。
冷や汗のあとの、震えである。
毛布の中で、肩が、小刻みに、ふるふると動いていた。
対策のページに、こう書いてあった。
『嘔吐後は体温が下がりやすいため、保温を』
保温。
私は、毛布の端を持ち上げた。
持ち上げて、三秒、止まった。
三秒で、文科省の十年分くらいのことを考えた。
考えて、全部、捨てた。
「……これは、保温です」
声に出した。鏡がないので、壁に向かって、である。
「保温です」
「出典は」
「対策のページです」
「抱えることは」
「……書いてありません」
「では」
「……私です」
相手の台詞まで自分で言って、結論は、いつもどおりだった。
毛布の中に、入った。
入って、温水さんの背中に、手を置いた。
置いたら、震えが、少し、減った。
減ったので、手を、背中に回した。
回したら、もっと、減った。
……減るのである。
減るのなら、もう少し、である。
私は、両腕で、温水さんを、抱えた。
ぎゅっ、と、である。
――これは、母性である。
母性である。
弟が小さかったころ、熱を出した夜に、母がこうしていた。
私はそれを、隣の布団から見ていた。
見ていただけで、したことはなかった。
私は、初めて、した。
相手は、同い年の男性である。
……年齢は、関係ない。母性に、年齢の規定はない。
出典は、私である。
「……馬剃さん」
「はい」
「なんで、いるの」
「保温です」
「ほおん……」
「はい」
「……揺れてるの、船?」
「船です」
「……よかった」
何が、よかったのか。
聞かなかった。聞くと、寝言でなくなる。
「……あったかい」
温水さんが、寝言のように、言った。
「保温です」
「……うん」
「揺れているのは、船です。あなたではありません」
「……うん」
「大丈夫です」
大丈夫です、と、私は言った。
誰かに、大丈夫です、と言ったのは、人生で、何回目だろう。
数えなかった。
数える代わりに、背中を、ぐらり、ずん、のリズムに合わせて、さすった。
ぐらり、で、上。
ずん、で、下。
船の揺れに、さする手を合わせれば、揺れは、揺れでなくなる。
……対策のページには、書いていなかった。
私が、いま、考えた。
温水さんの呼吸が、深くなった。
深くなって、規則的になって、それから、私の肩に、額が、乗った。
乗った重さを、私は、両腕で受けた。
「……ここ、どこ」
「日本海です」
「……そっか」
間が、あった。
「……馬剃さんが、いる」
「います」
「……重くない?」
「重くありません」
「嘘だ」
「……重いですが、保温上、必要です」
「そっか」
それきり、温水さんは、何も言わなかった。
……寝言である。
寝言として、処理する。
処理したのに、処理した先の胸が、きゅう、と鳴った。
鳴ったので、私は、両腕の力を、ほんの少しだけ、強くした。
一時四十分。
ぐらり、ずん、は、続いていた。
私は、うとうとしていた。
していたところで、腕の中の人が、動いた。
動いて、私の背中に、腕が、回った。
――回った。
抱えていたのは、私である。
抱えられていた。
ぎゅっ、と、である。
力が、強かった。寝ている人の力ではなかった。
何かに、つかまっている力だった。
「……天愛星さん」
どきん、と、鳴った。
鳴ったまま、止まらなかった。
天愛星さん。
聞き間違いではない。
十六年前の、冬から春まで、この人が、私をからかうときにだけ使った呼び方である。
告白の翌日から、一度も、聞いていない。
四月一日から、半年、一度も、聞いていない。
「……天愛星さん、ごめんね」
寝言である。
寝言なのに、声が、苦しそうだった。
眉が、寄っていた。額に、汗が、戻っていた。
「……からかったんじゃ……」
「……」
「……いや、からかった」
……夢を、見ている。
高校の、夢である。
下の名前で呼ばれて、私が怒る。怒るので、この人は、もっと呼ぶ。
あの冬の、いつもの流れである。
流れの先で、何があったのかは、寝言だけでは、分からない。
分からないが、夢の中の私は、たぶん、本気で怒って、この人から離れていっている。
腕の力が、それを言っていた。
「……怒らないで」
「……」
「天愛星さん、待って」
待っている。
十六年、待っている。
……そう言いたかった。言えなかった。寝ている人に言っても、寝言にしかならない。
「……下の名前、……もう、呼ばないから」
ずきん、と来た。
胸の、いちばん奥である。
呼ばないから、と、この人は、夢の中で、私に約束している。
約束を、十六年、守っている。
十六年前、私は、本気で怒ったことは、一度もなかった。
怒ってみせていただけである。
呼ばれるたびに顔が熱くなるのを、怒りで説明するしかなかったからである。
……説明の仕方を、間違えた。
十六年、間違えたままだった。
「……呼んで、いいんです」
小さく、言った。
聞こえなくていい。聞こえたら、困る。
困るのに、言った。
「私は、ここにいますよ」
腕の力が、少し、緩んだ。
緩んで、それから、また、締まった。
今度は、つかまる力ではなかった。
確かめる力だった。
「……天愛星さん」
「はい」
「……天愛星さん」
「はい」
「……いる?」
「います」
「……そっか」
七回、だった。
天愛星さん、と、七回。
私は、七回とも、はい、と答えた。
返事をするたびに、顔が、勝手に、ゆるんだ。
暗くてよかった。明るかったら、見られる。
……見られない。寝ている。
寝ている人の隣で、私は、にやけていた。
苦しそうにしている人の隣で、嬉しくなっている人間は、看病者として、失格である。
失格でも、嬉しかった。
――嬉しかった、と、書いてしまった。
十六年ぶりに、七回。
一回あたり、二年と三か月あまりである。
……計算する必要は、ない。
ないのに、計算した。計算しないと、胸のあたりが、収まらなかった。
起きかけのときは、馬剃さん、だった。
夢の中では、天愛星さん、だった。
どちらが本当かは、聞かない。
聞くと、寝言でなくなる。
寝言でなくなったら、この人は、たぶん、また、十六年、呼ばない。
腕の中の人の眉が、ほどけていた。
汗が、引いていた。
私は、背中を、ぐらり、ずん、に合わせて、さすった。
さすりながら、もう一度だけ、小さく、言った。
「ここに、いますよ」
返事は、なかった。
なかったが、腕は、放れなかった。
受けたまま、私は、目を閉じた。
閉じるつもりは、なかった。
三十分に一回、タオルを裏返すつもりだった。
目を開けたら、窓が、明るかった。
七時二分。
私は、時計を、二回、見た。
七時二分である。
五時三十分ではない。
……起きなかった。
九月十九日から十七日間、一度も破られなかった五時三十分を、私は、破った。
破ったのに、悔しくなかった。
悔しくないことが、いちばん、おかしかった。
腕の中で、温水さんが、寝ていた。
私の腕の中で、である。
一晩、抱えたままだった。
抱えたまま、七時間、私は、一度も起きなかった。
文科省にいたころ、私は、三時間ごとに目が覚めた。
辞めてからも、五時間眠れれば、標準だった。
七時間、である。
夢も、見なかった。
揺れも、覚えていない。
……人生で、いちばん、眠った。
身体が、軽かった。
肩も、首も、背中も、何も言わなかった。
十六年、何か言い続けていた場所が、全部、黙っていた。
私は、腕を、そっと抜いた。
抜くときに、温水さんが、「……ん」と言った。
言っただけで、起きなかった。
起きなかったので、私は、ベッドを降りて、洗面所に行った。
行って、鏡を見た。
……誰だ。
鏡の中の女は、肌が、光っていた。
光っていた、としか、言いようがなかった。
目の下の影が、ない。
四月一日の朝に、ファンデーションで埋めた影が、ない。
頬に、色がある。
役所で十年、鏡の中にいなかった顔である。
私は、頬を、指で押した。
ぷに、と、押し返してきた。
……押し返してきたのは、初めてである。
「……馬剃さん」
背後から、声がした。
馬剃さん、である。
……起きているときは、そうである。分かっていた。
分かっていたのに、胸の奥が、ことん、と小さく落ちた。
落ちたのは、一秒だけだった。
一秒で、昨夜の七回が、戻ってきた。
戻ってきた瞬間、口の端が、勝手に上がった。
指で押さえた。下がらなかった。
……昨夜の声は、私しか知らない。本人も、知らない。
知らない人に馬剃さんと呼ばれるくらい、もう、どうということはない。
振り向いた。
温水さんの顔は、まだ、灰色だった。
灰色で、目の下に、黒い影が、二本、引かれていた。
頬が、こけていた。
昨日の半身揚げは、どこに行ったのか。
「おはようございます」
「……おはよう」
「お加減は」
「……二キロ痩せた気がする」
「気のせいではないかもしれません」
「ひどいな」
温水さんは、私の顔を、見た。
見て、一秒、止まった。
「……なんで馬剃さん、つやつやしてるんだ」
「船の湿度です」
「俺も同じ船にいた」
「個人の湿度です」
「個人の湿度ってなんだ」
「私の湿度です」
「昨日まで、そんな肌じゃなかったろ」
「失礼ですっ!」
「いや、いい意味で」
「い、いい意味でも、失礼ですっ」
「あと、なんでにやけてるんだ」
「にやけていませんっ」
「口の端、上がってる」
「……筋肉の、都合です」
「筋肉の都合」
「朝は、筋肉が、上がりやすいんです」
「初めて聞いた」
「私も、初めて言いました」
耳が、かあっと、熱くなった。
熱くなったのに、鏡の中の耳は、赤くなるまでに、三秒かかった。
……血行が、よすぎるのである。
「化粧、してる?」
「まだです」
「素で、それか」
「素ですっ」
「俺は、素でこれ」
「灰色です」
「言わないでよ」
「血圧も、測りました」
「いつの間に」
「起きてすぐです。上が百十二」
「上がってるじゃないか」
「……上がりました」
「なんで嬉しそうなんだ」
「嬉しくありませんっ」
嬉しかった。
低血圧が、一晩で、四つ、上がった。
理由を、私は、書かない。
「腕、痺れてない?」
「痺れていません」
「一晩で?」
「……痺れていましたが、いまは、痺れていません」
「一晩って言った」
「言っていませんっ」
「寝た?」
「寝ました」
「ソファで?」
「……」
「馬剃さん」
「……毛布の上で、寝ました」
「上」
「最初は、上でした」
「最初は」
「……保温が必要でしたので」
「保温」
「嘔吐後は体温が下がりやすいため、保温を。対策のページにあります」
「それで」
「保温しました」
「どうやって」
「……一般的な、保温の方法です」
「一般的な」
「もう、聞かないでくださいっ!」
温水さんは、それ以上、聞かなかった。
聞かないで、自分の肩を、見た。
肩に、何かを、確かめるように。
「……あったかかった」
小さく、言った。
私は、返事をしなかった。
返事をする代わりに、鞄から体温計を出した。
「測ります」
「俺を」
「あなたを」
脇に、入れさせた。
三十秒のあいだ、私は、体温計の銘柄を、見ていた。
……九月二十日に、この人が買ったほうだった。
三回入れ替えて、結局、こちらだった。
述べない、と言った。
述べないが、分かってしまった。
「三十六度四分」
「低いな」
「低めです。朝食は」
「無理」
「おかゆを三口」
「……二口」
「三口です」
「なんで三口」
「中央値です」
「何の」
私は、答えなかった。
答えずに、温水さんの腕を引いて、レストランへ連れていった。
引く手に、力が入った。
今朝の私は、力が、余っている。
……絶好調である。
絶好調、という言葉を、私は、これまで一度も、自分に使ったことがない。
使った。
使って、また、口の端が上がった。
九時。
海は、まだ、揺れていた。
私は、朝食を、全部食べた。
サラダを三皿。卵。焼き魚。ご飯を、お代わりした。
「……よく食べるなあ」
「食べます。日当の範囲内です」
「夜中、俺、何か言った?」
「……寝言を、いくつか」
「何て」
「業務上、記録していません」
「記録してないのか、馬剃さんが」
「しませんでした。寝言ですので」
「……そっか」
「そっか、です」
記録していない。
していないが、覚えている。
七回、覚えている。
覚えていることは、記録より、消しにくい。
消す気も、ない。
「ご飯、お代わりするのか」
「米は、単価が」
「知ってる」
「では、申し上げません」
「そういう問題じゃなくて、人が隣で死にかけてるときに」
「死にかけている方に、おかゆを三口、食べていただくためです」
「どういう理屈だ」
「見本です」
「馬剃さん、箸止まってる」
「止まっていません」
「五秒止まった。あと、にやけてる」
「にやけていませんっ」
「……考え事です」
「何」
「報告書の、文言です」
「朝ご飯のときくらい、やめときなよ」
温水さんは、三口、食べた。
三口目で、少しだけ、顔に色が戻った。
……戻ったのを、私は、帳簿に載せなかった。
載せるべきか、三秒、迷って、載せなかった。
昨夜のことを、載せると、返済になる。
返済になると、終わる。
終わるのが、嫌だった。
――嫌だった、と、書いてしまった。
十時。
海が、少しずつ、平らになった。
私は、バルコニーの扉を開けた。
「出ないでよ」
「平らです」
「昨日は波浪だって」
「今日は、平らですっ」
出た。
風が、冷たくて、まっすぐだった。
温水さんも、出てきた。
出てきて、私を見て、目を細めた。
「……まぶしい」
「日差しです」
「馬剃さんが」
「失礼ですっ!」
「いや、だから、いい意味で」
「いい意味でも、まぶしいは、失礼ですっ」
失礼である。
失礼なのに、耳が、じんじんした。
じんじんしたのは、風のせいである。
船内放送が、流れた。
『本船は、定刻どおり、十五時三十分に新潟港へ入港の予定です』
「定刻か」
「定刻です」
「あんなに揺れて」
「船は、揺れても、着きます」
言ってから、誰の話をしているのか、分からなくなった。
十五時三十分、新潟港。
海は、正午を過ぎてから、平らになっていた。
温水さんの顔は、平らになっていなかった。
「運転、できます?」
「……できる」
「短いですね」
「……できない」
車両甲板で、私は、手を出した。
鍵が、手のひらに、置かれた。
昨日より、さらに、一秒、早かった。
「温水主任」
「……戻った」
「運転は、職務です。車両管理規程上」
「日曜なんだけど」
「出張中の日曜は、職務です」
「じゃあ、さっきまでは」
「さっきまでは、船の上でした」
「船の上は」
「規程に、ありません」
ありませんので、判断は、私がした。
昨夜も、今朝も、である。
座席を三段、前に出した。
「右よし。左よし。後方よし」
「……右よし」
助手席から、弱い声がした。
「言わなくて、結構です」
「効く気がする」
「誤りの防止に、有効です」
「左よし」
「後方よしは、私が言いました」
「……後方よし」
「二重です」
「二重で困る人はいない」
「それは、私の台詞です」
温水主任は、それだけ言って、助手席で、深く座った。
「気分が悪くなったら、すぐ言ってください」
「うん」
「窓を開けます。飴も、あります」
「飴」
「りんご味です。飴は酔いに効くと、大貫君が」
「大貫医学か」
「大貫医学です」
「……一個、ちょうだい」
渡した。
渡したあとの手が、少し、温かかった。
私の手が、である。
関越道。
「寝ていい?」
「寝てください」
「今日は即答だな」
「本日は、です」
「昨日も今日も、俺が寝ていいか聞いてる気がする」
「聞かれています」
「一昨日は駄目って言ったよな」
「一昨日は、一昨日です」
「昨日の明日、みたいな言い方、またか」
「事実です」
私は、追い越し車線に入った。
入って、戻らなかった。
大型トラックを、一台、抜いた。二台、抜いた。三台目を抜いたところで、助手席が、目を開けた。
「……馬剃さん」
「はい」
「速い」
「速くありません」
「メーター」
「法定速度の、上限です」
「上限ぴったりで追い越し車線に居座るの、やめない?」
「居座っていません。通過しています」
「四台目を通過してる」
「前の車両が、遅いのです」
「昨日、法定速度マイナス三キロだった人が言う台詞か」
「昨日は、昨日です」
「昨日の明日は終わったのか」
「終わりました」
身体が、軽い。
身体が軽いと、アクセルも、軽い。
……因果関係は、ないはずである。ないはずなのに、踏んでいた。
「馬剃さん、鼻歌」
「歌っていません」
「歌ってた」
「……何の曲かも、分かりません」
「自分で歌ってて分からないのか」
「分かりません。口が、勝手に」
「今日、口が勝手に動きすぎだろ」
動きすぎである。
動きすぎなのに、止める気が、起きなかった。
「ゴールド免許は」
「守ります」
「守る気あるのか、その速度で」
「範囲内ですっ」
「オービスは」
「位置は、把握しています」
「把握してる時点で、言い訳できないんだよ」
「……把握は、安全運転の一部です」
五台目を抜いた。
「馬剃さん」
「はい」
「七十条」
「……よろしいんですか」
「読んで」
「効かない条文だと、おっしゃいました」
「効かないのが、いまはちょうどいい」
私は、読んだ。
「道路交通法第七十条。安全運転の義務。車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し――」
「読みながら出すの、やめてほしいんだけど」
「出していません」
「六台目」
「――かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない」
「いまの、自分に読んで聞かせてよ」
「……聞かせました」
「効いてないじゃないか」
「効かない条文だと、おっしゃいました」
「俺にだよ」
七十条、七十一条。
七十二条は、飛ばした。
七十三条。
七十四条の途中で、助手席の呼吸が、深くなった。
トンネルに、入った。
長いトンネルである。十一キロ。
入った瞬間、私は、速度を落とした。
八十、ぴったりである。
「……急に守るんだ」
「トンネル内は、八十です」
「さっきまでの百はなんだったんだ」
「百は、百の区間の上限です」
「上限ばっかり走るんだな」
「トンネルは、逃げ場がありません」
「逃げ場があれば出すのか」
「……出しません」
「短い」
「短くて、結構ですっ」
オレンジ色の灯りが、等間隔で、流れていった。
数えなかった。
数えると、運転がおろそかになる。
トンネルの真ん中あたりで、温水主任が、目を開けた。
「……長いな」
「あと五キロです」
「五キロ」
「三分四十五秒です」
「さっきの速度なら二分台だったな」
「トンネルは、別です」
「別が多いな」
「飴、もう一個」
「最後の一個です」
「ちょうだい」
「……半分には、できません」
「全部ちょうだい」
「差し上げます」
「大貫医学に感謝だな」
「桑原主査の飴です」
「桑原医学か」
「医学ではありません。通貨です」
「報告書、夜のこと、何て書くんだ」
「『夜間、同乗者の体調管理を実施』」
「実施」
「実施です」
「保温も実施か」
「……実施の、内数です」
「抱えたのも実施か」
「――っ!」
「いや、寝てたから知らないけど」
「知らないなら言わないでくださいっ!」
「反応で分かった」
……分かられた。
三分四十五秒で、トンネルを抜けた。
抜けた瞬間、私は、アクセルを踏んだ。
踏む必要は、なかった。
踏まないと、顔の熱が、逃げなかった。
「速い速い速い」
「速くありませんっ」
「いま踏んだだろ」
「区間が、変わりました」
「区間のせいにしないでよ」
「区間ですっ」
七台目を抜いた。
抜いた先の空は、もう、暗かった。
サービスエリアで、一回、停まった。
停まって、温水主任は、ベンチに座った。
私は、自販機で、温かいお茶を買った。
百四十円だった。
陸の値段である。
「……ありがとう」
「船賃では、ありません」
「知ってる」
「雑費です」
「雑費で買ったのか、これ」
「……気持ちです」
「気持ちって言えるんだ」
「言えますっ」
言えた。
昨日の朝まで、言えなかった言葉である。
お茶を持つ手が、少し、震えていた。
寒いからである。十月の関越道は、寒い。
「残り百キロ、俺が」
「六割の運転者に、任せられません」
「六割でも、あの速度よりはマシだ」
「法定速度の範囲内ですっ」
「上限ぴったりで七台抜くの、範囲内って言うのかな」
「七台も、抜いていません」
「数えてたよ。七台」
「……数えないでください」
「六割って」
「私の査定です」
「何基準だ」
「顔色です」
「……七割はある」
「六割です。上方修正は、認めません」
「そっちは百二十パーセントなのに」
「……査定は、公平です」
「どこが」
スマホが、震えた。
『馬剃さん、生きてます?』
『生きています』
『温水さんは』
『六割です』
『六割って何ですか!?』
『船酔いです』
『馬剃さんは』
『百二十です』
『意味分かんないです』
『明日、分かります』
『怖いんですけど!?』
私は、スマホを伏せた。
伏せた画面に、自分の顔が、映った。
……暗い画面でも、分かる。光っている。
十九時四十八分、本学、駐車場。
エンジンを切った。
切って、サイドブレーキを引いた。
引いて、走行距離計を見た。
「四万二千八百九十二キロ」
「書くんだ、それ」
「使用簿です」
五百七十五キロ。
うち、私が運転したのが、四百四十五キロ。
温水主任が、百三十キロである。
「……早かったな」
「定刻です」
「定刻って誰が決めた」
「私です」
「使用簿、俺が書く」
「運転者が書きます」
「四百四十五キロぶん、馬剃さんが」
「はい」
「百三十キロぶんだけ、俺が」
「……では、そこだけ」
書いた。
温水主任の百三十キロの字は、少し、震えていた。
揺れではない。二キロのぶんである。
「……負けたな」
「勝負ではありません。計測です」
「それ、誰かの台詞だろ」
「……八月の方の、です」
「借りたのか」
「借りました。返す予定は、ありません」
「温水さん」
「……終わった?」
「終わりました。十九時四十九分です」
「じゃあ、俺もだ」
温水さんは、助手席のドアを開けて、外に出た。
出て、ふらついた。
ふらついたので、私は、腕を支えた。
支えた腕が、昨夜より、軽かった。
二キロ、である。
スマホが、鳴った。
課長だった。
『着いた?』
「着きました」
『二人とも』
「二人ともです」
『温水君は』
「……六割です」
『六割』
「船酔いで、二キロ減りました」
『あらまあ。馬剃さんは』
「……百二十パーセントです」
『なにそれ』
「船の、湿度です」
『意味が分からないけど、元気そうでよかったわ。明日、報告書ね』
「はい」
『スイートの件は、温水君から聞いた』
「――っ」
『書き方は、任せる。手違いって書きたいなら書きなさい』
「書きますっ!」
『そういうとこよ』
電話は、切れた。
……三回目である。
三回目は、みぞおちに来なかった。
来なかった代わりに、耳に来た。
駅までの道を、並んで歩いた。
三十センチである。
改札の前で、温水さんが、止まった。
「馬剃さん」
「はい」
「貸し、返したな」
〇・五秒で、答えるつもりだった。
答えられなかった。
「……返していません」
「返しただろ、あれは」
「あれは、保温です」
「保温」
「保温は、返済に、含めません」
「なんで」
「含めると、帳簿が、閉じます」
「閉じたら、駄目なのか」
私は、改札の向こうを見た。
見ても、答えは、向こうにはなかった。
「……駄目です」
「短いな」
「短くて、結構です」
温水さんは、少し笑った。
笑って、それから、言った。
「明日、休めば」
「休みません。報告書があります」
「げっそりしてる人間が言うことじゃない」
「げっそりしているのは、あなたです」
「……そうだった」
「私は、平常です」
「平常で、その肌か」
「肌の話は、もう結構ですっ」
「……ありがとう。昨日」
「いえ」
いえ、と言った。
いえ、ではなかった。
どういたしまして、でもなかった。
正しい返事を、私はまだ、持っていない。
持っていないまま、改札を抜けた。
十月六日、月曜日、八時三十分。
「温水さん、事件です」
大貫君が、椅子ごと滑ってきた。
熱は、下がったらしい。
「なんだ」
「馬剃さんの肌が、事件です」
「は?」
「つやつやじゃないですか!? しかもさっきからずっとにやにやしてるし!? 北海道で何があったんですか!?」
「船の湿度です」
「船の湿度で人はつやつやにならないです! にやにやもしないです!」
「にやにやは、していませんっ」
「してます! いまも!」
「個人の湿度です」
「温水さんは!? 温水さん、げっそりしてるじゃないですか!? 同じ船ですよね!?」
「同じ船だ」
「なんで片方だけ!?」
「……個人の、湿度だ」
温水さんが、私の台詞を、借りた。
借りて、返す気配がなかった。
「北海道で何があったんですか」
「業務です」
「業務でつやつやになります!?」
「なります」
「ならないです!」
「なりました」
「温水さん、二キロ痩せたって本当ですか」
「本当だ」
「馬剃さんは」
「太っていませんっ」
「言ってないです!」
「怪しいです。めちゃくちゃ怪しいです」
「怪しくありませんっ!」
「うわ、早口」
「温水さん、報告書、見ました?」
「見た」
「『弊社様の手違いによる』って書いてあるんですけど」
「書いてあるな」
「ほんとに手違いなんですか!?」
「手違いだ」
「……本当だ、って顔してないです」
「してる。げっそりしてるだけだ」
「手違いですっ!」
「馬剃さんが一番必死じゃないですか!?」
課長が、通りすがりに、言った。
「報告書は」
「九時までに」
「手違いって書いた?」
「書きました」
「温水君は」
「……げっそりしています」
「見れば分かる」
「馬剃さんは」
「……平常です」
「平常で、それ?」
「船の湿度ですっ」
「四回目よ、それ聞くの」
桑原主査が、通りすがりに、私の机に袋を置いた。
りんご味だった。
「飴、足りたか」
六文字である。
「……足りました」
足りた。
一個、温水さんに渡したぶんも、入れて、である。
私は、手帳を開いた。
十月四日の欄に、昨夜、一行だけ、書いてあった。
『小樽。よく眠れた』
欄の端に、小さく、七、と書いてある。
何の七かは、私しか知らない。
温水さんも、知らない。
……知らないままで、いい。いまは、まだ。
十六冊の手帳で、睡眠について書いたのは、初めてである。
……たぶん、これが、いちばん、書きたかった一行ではない。
ないが、書けた。
書けたので、私は、手帳を閉じて、大貫君に、飴を一つ、投げた。
「黙ってください」
「飴で黙らせる気ですか!?」
「この事務局の、慣例です」