(十月十一日〜十七日/温水視点)
前の晩、俺は二十三時から二時間、家で作業をしていた。
やったことは、三つである。
一、課のグループに、翌朝七時集合の連絡を入れた。
二、入試課長と、明日の朝いちばんに決めることを、電話で三分すり合わせた。
三、寝た。
三つ目が、いちばん大事である。
これも、用度管財課で覚えたことだった。
夜中に病院の給水管が破裂したとき、当時の主任が最初に言ったのが「明日の朝までに寝ろ」だった。
寝ないで朝を迎えた人間は、判断を間違える。判断を間違えると、翌日の被害が二倍になる。
俺は、二時に寝て、五時に起きた。
三時間である。
足りてはいないが、ゼロよりはるかにましだった。
十月十二日、日曜日、六時四十分。
俺は、正門の前でカードキーをかざした。
日曜の朝の大学は、静かである。
守衛室の灯りだけがついていて、あとは全部暗い。
週末に人がいる建物は、体育館と、部室棟と、あとは動物実験施設だけだ。
本部棟の四階に上がって、電気をつけた。
入試広報課の島に、誰かがいた。
「おはようございます」
天愛星さんだった。
俺は、時計を見た。
「六時四十分ですけど」
「はい」
「七時集合って言いましたよね」
「はい」
「何時から」
「五時五十分です」
俺は、鞄を置いた。
「馬剃さん」
「はい」
「怒らないんで、正直に言ってください」
「五時五十分です」
「二回目ですね」
「事実は変わりません」
「じゃあ、始発ですか」
「始発の次です」
「その差になんの意味が」
「四分の差がありますっ」
「四分」
「……四分は、四分です」
「その理屈、初めて聞きました」
「出典は」
「言わなくていいです」
「私ですっ」
「言うんじゃん」
「四分あれば、資料が一枚読めます」
「一枚」
「一枚です」
「四枚作ってましたよね」
「……十六分です」
「合ってるのが、怖いんですよ」
「合っておりますっ」
「昨夜、何時に寝ました」
「二十三時です」
「本当に?」
「……二十四時十五分です」
「なんで十五分を刻むの」
「正確を期しました」
「馬剃さん」
「はい」
「手、震えてますよ」
「……寒いのです」
「暖房、入ってないですもんね」
「はい」
「あと、マウスも震えてます」
「マウスは、震えません」
「馬剃さんの手が震えてるからです」
「…………」
「大丈夫ですか」
「……大丈夫では、ありません」
「はい」
「ですが、やります」
「はい」
彼女の机の上に、A4が四枚並んでいた。
時系列。
影響範囲。
他大学の類似事例。
想定問答。
……一時間で、これを。
「見ていいですか」
「どうぞ」
俺は、一枚目を手に取った。
『二〇二五年十月十一日 二十時三分、本学インターネット出願システムに接続障害が発生。以降、出願手続の全工程が停止。復旧見込み未定』
時刻が、分単位で入っていた。
「二十時三分って、どこから」
「システムのステータスページに、履歴が残っています」
「見たんですか」
「はい。あと、ベンダー各社の障害情報の公開ページも確認しました」
「各社?」
「同一のベンダーを使用している大学が、国内に四十三校あります」
――四十三校。
俺は、そこで背筋が伸びた。
インターネット出願というのは、いまはどこの大学もやっている。
紙の願書を郵送する時代は、うちの場合、七年前に終わった。
いまは、専用のシステムに受験生が入力して、写真をアップロードして、検定料をコンビニで払って、調査書だけを郵送する。
そのシステムを、自前で作っている大学は、ほとんどない。
外部のベンダーが提供しているものを、各大学が契約して使っている。
つまり、一つ落ちると、そのベンダーを使っている大学が全部落ちる。
七年前、この方式に切り替えるかどうかの議論があった。
当時、俺は会計課にいたので、その議論には入っていない。
入っていないが、議事録は読んだ。
反対意見が、一つだけ記録されていた。
――「システムが止まったとき、大学は何もできなくなる」
その一行を書いた人は、いま、この大学にいない。
定年退職している。
「他も落ちてる?」
「三十一校で、同様の告知が出ています」
「じゃあ、うち固有の問題じゃないですね」
「はい。ベンダー側の全体障害である可能性が高いです」
これは、でかい。
うち一校の問題なら、うちが謝って、うちが対応する。
四十三校の問題なら、話が変わる。
文科省が動く可能性もあるし、ベンダーが一斉に補償の話をしてくる可能性もある。
そして、いちばん大事なのは。
――前例が、三十一校ぶんある。
「馬剃さん」
「はい」
「三十一校の告知文、集めました?」
「集めました。三枚目です」
俺は、三枚目をめくった。
三十一校の告知文が、比較表になっていた。
縦軸が大学名。
横軸が、「謝罪の有無」「復旧見込みの明示」「締切延長の明示」「代替手段の提示」「問い合わせ先」。
○と×が並んでいる。
「……馬剃さん」
「はい」
「これ、一時間で作ったんですか」
「五十分です」
「怖いです」
「恐れ入ります」
「褒めてないです」
「…………」
「馬剃さん?」
「……いえ」
「顔、赤いですけど」
「六時五十分は、まだ暖房が入っておりません」
「じゃあ寒いはずですよね」
「寒いですっ」
「赤いのは」
「……血流ですっ」
「血流」
「血流ですっ」
七時ちょうどに、大貫が来た。
七時二分に、鷲尾課長が来た。
「おはよう。状況は」
「馬剃さんがまとめてます。三分で説明します」
俺は、四枚を課長の前に並べた。
三分で説明した。
説明が終わったとき、鷲尾課長は椅子に座り直して、こう言った。
「温水君、仕切って」
「はい」
それだけだった。
この課長は、こういうときに一切迷わない。
七時十五分。
俺は、ホワイトボードの前に立った。
人数は、四人である。
俺、天愛星さん、大貫、鷲尾課長。
入試課からは、九時に二人来る。
「最初に、方針を言います」
俺は、マーカーを取った。
「システムの復旧は、うちの仕事じゃないです」
大貫が、目を丸くした。
「え、でも」
「復旧させるのはベンダーです。うちがどれだけ電話しても、直る速度は変わりません」
「はい」
「うちの仕事は、こっちです」
俺は、ホワイトボードに一行書いた。
『受験生が、一人も不利にならない状態を作る』
「これだけです」
しばらく、誰も何も言わなかった。
この一行を、俺は五年前に教わった。
教えたのは、当時の入試課長である。
あの年、試験当日に大雪が降って、電車が全部止まった。
三百人が来られなくなって、事務局が全部で四十人、朝六時から動いた。
あのとき、あの人が最初にホワイトボードに書いたのが、この一行だった。
「復旧させろ」でも「謝れ」でもない。
「一人も不利にならない状態を作れ」だった。
その人は、三年前に定年で辞めた。
辞める前の最後の日、俺は挨拶に行った。
行って、何を言えばいいのか分からなくて、「お世話になりました」しか言えなかった。
あの人は、こう言った。
――温水君、あんたが困る側にならないうちは、大丈夫だよ。
意味は、いまでもよく分かっていない。
「今日、うちが判断すべきことは、三つあります」
俺は、指を三本立てた。
「一、いま出願しようとしている受験生に、何をすればいいかを伝えること」
「二、締切を延長するかどうかを、今日中に決めること」
「三、システムが復旧しなかった場合の、代替手段を用意すること」
「三つ目、ですか」
天愛星さんが言った。
「紙の出願を、緊急で受け付けます」
「……前例は」
「ないです」
「では」
「今日、作ります」
七時二十分から、割り振った。
「大貫」
「はい」
「電話対応の体制、作ってくれる? 九時から十七時、二人体制。今日と明日」
「二人って、誰と」
「大貫君と、入試課の若い子。名前あとで言う」
「はい」
「あと、想定問答は馬剃さんが作ってあるから、それを覚えてほしい。三十分で」
「三十分!?」
「二十五分でもいい」
「増やしてください!」
「じゃあ三十五分」
「五分だけ!?」
「五分あれば六ページ読める」
「読めません!」
「読んで」
俺は、次に課長を見た。
「課長、二つお願いします」
「はい」
「一つ、柏木部長に第一報を入れてください。日曜なんで、電話で」
「入れる」
「二つ、事務局長に、今日中に締切延長の決裁が出せる体制を確認してください」
「日曜だけど」
「日曜だから、先に確認しておきたいんです」
鷲尾課長は、うなずいて、すぐに携帯を取った。
「馬剃さん」
「はい」
「告知文、書いてください」
「はい」
「第一報は、八時三十分に出します。あと七十分です」
「承知しました」
俺は、最後に自分の分を言った。
「俺は、学部を回ります」
「日曜ですよ」
大貫が言った。
「日曜でも、電話は出ます」
「出ますかね」
「出る人と、出ない人がいる」
俺はマーカーを置いた。
「出る人から、順番にかけます」
八時十五分。
天愛星さんが、告知文を持ってきた。
A4一枚である。
俺は、それを読んだ。
完璧だった。
事実の記載に、一切の誤りがない。
時刻が分単位で、影響範囲が正確で、問い合わせ先が明記してある。
語尾の丁寧さも、過不足がない。
――ただ。
「馬剃さん」
「はい」
「一つだけ、直していいですか」
「どうぞ」
俺は、赤ペンで、一行目に丸をつけた。
『このたびは、多大なるご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます』
「これ、下に移しましょう」
「……謝罪を、後ろに」
「はい」
「順序として、不適切では」
「役所の文書だと、そうですね」
俺は、赤ペンで、余白に書いた。
『いま出願しようとしている方は、しばらくお待ちください。出願期間は延長する方向で調整しています。すでに入力されたデータは、すべて残っています』
「これを、一行目に」
天愛星さんが、その余白を見ていた。
「……データが残っているかは、まだ確認できておりません」
「九時に確認します。確認できたら、この文で出します」
「確認できなかった場合は」
「その場合は、その一行を消します」
俺は、赤ペンを置いた。
「馬剃さん、これ読むの、誰だと思います?」
「受験生と、保護者の方です」
「はい。いま、パソコンの前で固まってる十八歳です」
「……はい」
「その子が知りたいのは、大学が謝ってるかどうかじゃないです」
「自分が、いまどうすればいいかです」
天愛星さんは、しばらく黙っていた。
それから、赤ペンを受け取った。
「……直します」
「はい」
「十分で」
「十分でお願いします」
九時ちょうど。
入試課から、二人来た。
「温水さん、うち、何をすればいいですか」
「電話と、あとベンダーの緊急窓口です」
「つながります?」
「つながらないです」
「じゃあ」
「つながらないですけど、かけ続けてください」
「……何回くらい」
「つながるまでです」
「うわ」
「三十分に一回でいいです。ずっとかけてると、心が折れるんで」
「そこまで考えます?」
「折れると、午後がもたないんで」
そのうち一人が、九時十分に、ベンダーの緊急窓口につながった。
「あ、つながりました。……はい、はい。え、あ、はい」
受話器を持った入試課の職員が、こちらを見た。
「温水さん、責任者の方に代わるそうです」
「代わってください」
俺は、受話器を受け取った。
「お電話代わりました。入試広報課の温水と申します」
少し、間があった。
『……温水さん?』
俺は、受話器を持ち直した。
「……朝雲さん?」
『朝雲です。戸籍は綾野ですが、仕事では旧姓を使っています』
「あ、そうか」
『混乱させて申し訳ありません。名刺は二種類あります』
「二種類」
『使い分けています』
――日曜の朝九時に、四十三校を止めている会社の責任者が、朝雲千早である。
俺は、その事実を三秒で飲みこんだ。
飲みこんで、仕事に戻った。
感慨は、あとでいい。
いま電話の向こうにいるのは、十六年前の同級生ではなく、
四十三校ぶんの障害の責任者である。
こっちも、三百二十人ぶんの窓口である。
挨拶は、全部終わってからでいい。
「状況を教えてください」
『はい。まず結論から申し上げます。本日中の復旧は困難です』
「本日中は無理」
『明日の朝六時を目標としています。ただし、確約はいたしません』
「確約はしない」
『確約は、外れたときに二度目の謝罪が必要になります。二度目の謝罪は、一度目の三倍の時間を要します』
――変わっていない。
この人は、十六年前も、こういう喋り方をしていた。
この人は、「頑張ります」と言わなかった。
俺は、そこで少し安心した。
「頑張ります」と言う担当者は、たいてい、状況を把握していない。
「原因は」
『データベースの更新処理で、ロックが解放されない状態が発生しています。原因の特定は済んでいます』
「じゃあ、直せる」
『直せます。ただ、四十三校ぶんのデータ整合性をすべて確認してから戻しますので、時間がかかります』
「なるほど」
俺は、そこで、いちばん大事なことを聞いた。
「入力済みのデータは、残ってますか」
『残っています』
『一件も欠損していません。それは、いま断言できます』
俺は、ホワイトボードのほうを向いて、親指を立てた。
天愛星さんが、赤ペンを持ったまま、うなずいた。
「朝雲さん、いまの『一件も欠損していません』、そのまま文章にできますか」
『できます』
「うちの告知に引用したいです。ベンダー名を出さない形で」
『……文面を、十分後にメールします』
「助かります」
『温水さん』
「はい」
『変わっていませんね』
「そうですか」
『昔から、最初に「誰が困るか」を聞く人でした』
――そうだっけ。
俺は、そう思った。
思ったが、電話中なので、口には出さなかった。
『こちらも、四十三校すべてに謝って回っています』
「大変ですね」
『大変です。ただ、御校がいちばん質問が具体的でした』
「そうですか」
『他は「いつ直るんですか」しか聞いてきません』
「まあ、そうなりますよね」
『これは正常性バイアスと呼ばれる心の動きです。人は、想定の外にある事態を、想定の内側へ押しこもうとします』
「押しこむと」
『「いつ直るか」だけを聞きます。直れば元に戻ると、信じたいからです』
「戻らない場合は」
『戻りません。ですので、御校のように「戻らなかった場合」を先に聞かれる方が、結果として、いちばん早く復旧後の業務に移れます』
「褒められてますか、いま」
『評価ではありません。観測です』
「朝雲さん」
『はい』
「一個だけ、聞いていいですか」
『どうぞ』
「なんで、この業界だったんですか」
『高校のときに、配線図を読むのが好きだったので』
「……ああ」
『覚えていらっしゃいますか』
「覚えてます」
『あれは、盗聴器ではありません』
「言うと思いました」
『スマートバグです』
「十六年ぶりに聞きました」
『表現は、正確であるべきです』
――地続きだった。
十六年前、この人は生徒会室の扉に、小さい機械を貼っていた。
俺が「盗聴器ですよね」と言ったら、返ってきたのがさっきの一文である。
あのころ、この人は自分の機材に番号を振っていた。
エム一、エム二、エム三。
どれをどこに置いたか、電池があと何日もつかを、全部把握していた。
切れたものについては、「機能を失った装置は、ただのガラクタです」と言い張った。
文化祭の週には、校内にモバイルルーターを勝手に置いて、遠くの音を中継までしていた。
当時の俺は、それを「怖い同級生」の一言で処理した。
処理して、十六年たった。
配線図を読んで、どこに何を置けば全体が拾えるかを考えて、番号で管理して、残量を把握する。
あれは、趣味ではなかったのだと思う。
あれは、運用である。
高校のうちに運用を覚えた人間が、そのまま職業にした。
それだけの話である。
……それだけの話にしては、四十三校が止まっている。
いや。
止めたのは、この人ではない。
止まったものを、いま、いちばん正確に説明している人である。
『温水さん』
「はい」
『一つ、伺ってもよろしいですか』
「どうぞ」
『先ほど、受話器の向こうで、女性の方が「よかった」とおっしゃいました』
俺は、受話器を持つ手を止めた。
「……聞こえてました?」
『聞こえました。受話器は、人が思っているより広く拾います』
「……そうですね」
『あの声を、私は存じ上げている気がします』
「気のせいです」
『気のせいでしょうか』
「気のせいです」
『……そうですか』
この人は、それ以上、追及しなかった。
追及しないのが、この人のいちばん怖いところである。
十六年前から、そうだった。
電話を切ったとき、九時十四分だった。
「馬剃さん」
「はい」
「データ、無事です。一件も欠損なし」
彼女は、そこで、一度だけ目を閉じた。
閉じて、開けるまでが、長かった。
「……よかった」
小さい声だった。
この人が、業務中に「よかった」と言うのを、俺は初めて聞いた。
六か月半で、初めてである。
この人は、うまくいったときに「承知しました」と言う。
助かったときに「恐れ入ります」と言う。
感情の名前を、口に出さない人だった。
いま、出した。
俺は、そのことを、あとで考えることにした。
あとで考えるためには、いま片付けなければならない。
九時三十分、第一報を出した。
トップページの最上部に、赤枠で掲載した。
一行目は、こうである。
『現在、インターネット出願システムが停止しております。すでに入力いただいたデータは、すべて残っております。出願期間は延長する方向で調整しております。いましばらくお待ちください』
謝罪は、四段落目に置いた。
十時から、俺は電話をかけはじめた。
学部は、十一ある。
総合型選抜をやっているのは、そのうち九学部。
締切延長には、各学部の入試委員長の同意が要る。
最終的に決めるのは入試委員会だが、日曜に委員会は開けない。
だから、先に個別に取る。
順番が、いちばん大事だった。
九人に電話をかけるとき、どの順にかけるかで、結果が変わる。
これは、精神論ではない。
人は、他人の判断を参考にする。
「他の学部はどうしてるの」と必ず聞かれる。だから、最初の三人で「もう八割方まとまっている」という状況を作る。
俺が組んだ順番は、こうだった。
一番目、理学部。即決してくれる人。
二番目、工学部。理学部が乗ったと言えば乗る人。
三番目、経済学部。条件を出してくるが、条件を飲めば必ず乗る人。
ここまでで三学部。
三学部乗れば、あとは「多数がすでに同意している」という事実が使える。
四番目に、文学部を置いた。
鵜飼先生は、慎重な人である。
慎重な人には、材料を全部そろえてから行く。
五番目から八番目は、正直、順不同でよかった。
八番目と九番目に、薬学部と看護学部を置いた。
ここを最後にしたのは、いちばん硬いからではない。
いちばん硬いところに、いちばん多くの材料を持っていくためである。
一本目は、理学部にかけた。
俺は、理学部の入試責任者である。
四年目からずっとやっている。
ここは、いちばん話が早い。
三コールで出た。
『はい、権田』
「先生、日曜にすみません。入試広報課の温水です」
『おう。落ちたんだって?』
「知ってるんですか」
『娘がSNS見てて教えてくれた』
「……先生、娘さん受験生でしたっけ」
『社会人だ』
「なんで見てるんですか」
『知らん。あと、裏門の猫の写真も送ってきた』
「ハカセですか」
『SNSで有名らしいぞ、あの猫』
「……初耳です」
『広報課だろ、あんた』
「猫は、所管外です」
『所管外の猫が、うちの大学の名前で拡散されとるんだぞ』
「……調べます」
『調べんでいい。可愛いからいいんだ』
「どっちですか」
『可愛いほうだ』
俺は、そこで三十秒だけ状況を説明した。
「で、締切を三日延ばしたいです」
『いいぞ』
「早いですね」
『理由が要るか?』
「いえ」
『じゃあいい。学部長には俺から言う』
――これである。
俺は、この一本のために、三年かけて権田先生と喋ってきた。
この種の仕事には、必ず「貯金」が要る。
日曜の朝十時に電話をかけて、三十秒で「いいぞ」と言ってもらうには、それ以前の三年が要る。
三年ぶんの写真の文句を聞いて、三年ぶんの無理を断って、そのたびに代案を出す。
貯金がない人間が同じ電話をかけると、たぶん、四十分かかる。
四十分かかると、九学部で六時間である。
六時間かかると、今日中に決まらない。
今日中に決まらないと、月曜の朝、受験生が三百二十人、宙に浮く。
つまり、三年前の俺が、いまの三百二十人を救っている。
……というのは、さすがに言いすぎだ。
俺は、その考えを三秒で取り下げた。
写真映りの文句を三年聞いて、去年は三回断って、そのたびに代案を出した。
その全部が、いまの「いいぞ」に入っている。
『温水さん』
「はい」
『そっちは大丈夫か』
「大丈夫です」
『日曜だろ』
「日曜ですね」
『まあ、あんたなら大丈夫だな』
電話が切れた。
二本目は、工学部にかけた。
ここは、出ない。
出ないと分かっているので、メールを先に送って、そのあとかけた。
二回目のコールで出た。
三本目、経済学部。
ここは、条件をつけてきた。「三日はいいが、四日は駄目だ」。三日でよかったので、そのまま通した。
四本目、文学部。
『温水君』
鵜飼先生だった。
「先生、日曜にすみません」
『いいよ。それより、告知は出したのかね』
「九時半に出しました」
『読んだ』
「え」
『さっき読んだ。一行目がよかった』
俺は、受話器を持ち直した。
『謝罪が後ろにあったろう』
「ありました」
『あれは、誰が書いた』
「うちの職員です」
『そうか』
鵜飼先生は、少し黙った。
『延長、賛成する。文学部は私が押さえる』
「ありがとうございます」
『あの一行目を書ける事務局がいるうちは、大丈夫だ』
俺は、電話を切ってから、隣を見た。
天愛星さんは、想定問答の追補を作っていた。
こちらを見ていない。
……いま言うと、たぶん、手が止まる。
俺は、あとで言うことにした。
九学部のうち、七学部が十一時半までに取れた。
残ったのが、薬学部と看護学部である。
この二つが、いちばん硬い。
どちらも国家試験があるので、四年間の日程がびっちり組んである。
三日ずらすと、面接日程が実習や演習と重なる可能性があった。
薬学部は、十二時十分に取れた。
入試委員長が、条件を三つ出してきた。
一、面接は土曜に振り替える。
二、面接官の人数は増やさない。
三、その代わり、一人あたりの面接時間を二分短くする。
「二分短くして、大丈夫ですか」
『大丈夫だ。うちは十二分でやってるが、実質は十分で終わってる』
「そうなんですか」
『残り二分は、学生が緊張をほどく時間だ』
「……それ、削っていいんですか」
少し、間があった。
『……削らないほうがいいな』
「ですよね」
『じゃあ、面接官を一人増やす。俺が入る』
「先生が」
『日程を動かしたのはこっちの都合じゃないが、動くのは学生だ』
――こういう人が、いる。
俺は、電話を切ってから、少しのあいだ受話器を見ていた。
五年やっていて、こういう電話が年に二回くらいある。
二回あるから、続けられる。
問題は、看護学部だった。
入試委員長が、電話に出ない。
十二時四十分。
「馬剃さん」
「はい」
「看護だけ、取れてないです」
「はい」
「委員長が出ないです。四回かけました」
「メールは」
「送りました。返信なし」
「研究室にもかけました。誰もいないです」
天愛星さんが、ノートパソコンから顔を上げた。
「学科長は」
「え」
「入試委員長が不在の場合、代決者は学科長です。事務決裁規程の別表第三に」
――ああ。
俺は、その手を持っていなかった。
俺のやり方は、人にかける。
この人のやり方は、規程を読む。
六か月半、俺はこの人に、人の側のことを教えてきた。
どの先生にどの順で話すか。
どこで軽口を叩いて、どこで数字を出すか。
教えながら、俺は、たぶん少し優越していた。
自覚がなかった。
なかったが、いま自覚した。
この人は、俺が持っていないものを、四月から全部持っていた。
持っていて、一度も出さなかった。
出さなかったのは、俺のやり方を覚えることを優先していたからである。
……六か月半、順番が逆だったのかもしれない。
「学科長、誰でしたっけ」
「昨年度からの名簿を、印刷してあります」
「持ってるんですか」
「四月に、全部印刷しました」
「なんでですか」
「必要になると思いましたので」
六か月かかって、必要になった。
俺は、その名簿で、看護学部の学科長にかけた。
学科長も、出なかった。
二人とも、日曜に、電話に出ない。
俺は、そこで三十秒くらい考えた。
考えて、机の引き出しから、古い内線番号表を出した。
「温水さん、それは」
「大学病院の内線表です」
「なぜ、お持ちなんですか」
「四年いたんで」
俺は、医事課の代表番号にかけた。
日曜の昼である。
救急外来が動いているので、医事課には必ず誰か座っている。
『はい、医事課』
「お疲れさまです。入試広報課の温水です」
『えっ、温水さん? 久しぶり!』
「お疲れさまです。すみません、日曜に」
『どうしたの、こっち戻ってくる?』
「戻らないです。ちょっと人を探してまして」
『相変わらずだねえ。昔から、人探してたよね』
「そうでしたっけ」
『備品も人も探してた』
「……備品は、まあ」
『あと、鍵』
「鍵は探してないです」
『探してたよ。三回』
「……三回は、探してました」
俺は、看護学部の教員の名前を出した。
『ああ、その先生なら、今日は五階の病棟にいるよ』
「病棟」
『実習の指導。日曜も入ってるはず』
「内線、分かりますか」
『五階のナースステーション。番号言うね』
――これである。
俺は、医事課に一年しかいなかった。
一年で、診療報酬の算定はまったく身につかなかった。
身についたのは、電話の最初の三秒と、あとは、
この病院のどこに誰がいるかを聞ける相手を作ることだけだった。
十年前の一年が、いま効いた。
看護学部の入試委員長は、三コール目で出た。
『はい、もしもし』
「入試広報課の温水と申します。実習中に申し訳ありません」
『あら、よく分かったわね、ここが』
「医事課に聞きました」
『あの人たち、なんでも知ってるのよね』
俺は、三十秒で説明した。
『三日延長ね。いいわよ』
「ありがとうございます」
『ただ、面接日は動かさない』
「動かさない?」
『動かすと実習が全部ずれるの。出願を三日延ばして、面接はそのまま』
「……間に合いますか。書類の確認が」
『そっちが間に合わせてくれるなら』
――来た。
この球は、事務局が受けるやつである。
俺は、受話器を持ったまま、隣を見た。
天愛星さんが、こちらを見ていた。
見ていて、うなずいた。
「間に合わせます」
『じゃあ、それで』
電話を切ってから、俺は隣に言った。
「馬剃さん、いま、うなずきましたよね」
「うなずきました」
「なんの根拠があって」
「三日ぶんの書類確認を、二日で終わらせる方法を、先ほど算出しました」
「先ほど」
「あなたが医事課に電話をしている、四分間です」
俺は、天井を見た。
十三時二分。
九学部、全部取れた。
十四時、事務局長の決裁が出た。
十五時、第二報を出した。
『インターネット出願の受付期限を、十月十四日(火)十七時から、十月十七日(金)十七時に延長いたします』
「馬剃さん」
「はい」
「延長、三日にしましたけど」
「はい」
「四日にしなかった理由、分かります?」
「……経済学部の入試委員長が、四日は不可とおっしゃったからです」
「それもありますけど」
「ほかに」
「三日だと、受験生が『まだ間に合う』と思えるんですよ」
「四日では」
「四日は『延びた』になります。延びると、人は後ろに寄せる」
「……後ろに寄せると」
「また何か起きたとき、逃げ場がなくなります」
天愛星さんが、手帳を出した。
「出た」
「出しますっ」
電話は、その日、六十一件かかってきた。
六十一件という数字を、俺は少ないと思った。
出願中の受験生は、その時点で三百二十人ほどいる。
そのうち六十一人しかかけてこないということは、二百六十人は、かけてこなかったということだ。
かけてこなかった人が、安心しているとは限らない。
電話をかけるというのは、けっこう体力の要る行為である。
十八歳が、知らない大学の知らない番号に電話をかけるのは、たぶん、大人が思っているより難しい。
だから、告知の一行目が大事だった。
電話をかけられない二百六十人が読むのは、あの一行だけである。
半分は保護者からで、半分は受験生本人からだった。
大貫と入試課の若い子が、二人で全部受けた。
十六時ごろ、大貫が本部に走ってきた。
「温水さん、ちょっと来てもらっていいですか」
「どうした」
「受験生が、泣いてます」
俺は、立ち上がった。
立ち上がるのと、隣が立ち上がるのが、同時だった。
椅子が、がたん、と鳴った。
鳴らしたのは、たぶん、俺のほうではない。
「馬剃さん」
「はい」
「代わります?」
「代わります」
「三秒だけゆっくり喋ってください」
「承知しております」
天愛星さんは、受話器を受け取った。
「お電話代わりました。入試広報課の馬剃と申します」
三秒、ゆっくり。
「はい。……はい。ええ、大丈夫です」
「入力していただいた内容は、すべて残っております」
「消えていません。一件も消えていません」
俺は、少し離れたところで、それを聞いていた。
「……はい。私も、そうでした」
――ん?
「私も、書類を出す日に、パソコンが動かなくなったことがあります」
「はい」
「そのときは、誰も何も教えてくれませんでした」
「ですので、今日は、全部お伝えします」
俺は、その場から動かなかった。
――言った。
この人は、いま、自分の話をした。
十八歳の受験生に対して、「私も、そうでした」と言った。
業務上、必要のない情報である。
役所なら、たぶん減点される。
個人の経験を持ち出すのは、公正性の観点から望ましくない。そう習ったはずだ。
俺だって、言わない。
俺は、十二年、こういうときに自分の話をしたことが一度もない。
この人は、言った。
言って、そのあと、十九分かけて全部説明した。
延長後の締切日。復旧の見込み。データが残っていること。
もし復旧しなかった場合の紙出願の手順。問い合わせ先の直通番号。
最後に、こう言った。
「もう一度おかけになるとき、私の名前を出していただいて構いません。馬剃と申します」
その電話は、十九分続いた。
切ったあと、天愛星さんは受話器を置いて、しばらく手を膝に置いていた。
置いた手が、かたかた、と少し震えていた。
十九分、ゆっくり喋りつづけた手である。
「馬剃さん」
「はい」
「十九分は、長いです」
「はい」
「でも、あれでいいです」
「……はい」
十六時半を過ぎたころ、電話が止まった。
止まった、というより、かかってくる間隔が長くなった。
告知が行き渡ったのだと思う。
三十分に一件くらいになって、内容も「延長は本当ですか」の確認だけになった。
俺は、その時間に、明日の段取りを作っていた。
明日、復旧したら何をするか。
復旧しなかったら何をするか。
二本作った。二本目のほうが、六倍長かった。
紙出願の受付手順である。
様式を作って、受付場所を決めて、検定料の納付方法を変えて、受付印の管理を決めて、当日の人員を確保する。
前例がないので、全部いちから作った。
結果として、この二本目は使わなかった。
使わなかったが、それでよかった。
使わないために作るのが、事務局の仕事である。
十七時四十分、撤収。
鷲尾課長が、帰り際に言った。
「温水君」
「はい」
「今日、よかったわ」
「ありがとうございます」
「あと、超過勤務、ちゃんと出しなさいよ」
「出します」
「本当に?」
「本当に出します」
課長は、うなずいて帰っていった。
大貫は、椅子の上で死んでいた。
「大貫」
「……はい」
「明日、九時からもう一回ある」
「……はい」
「今日はもう帰っていい」
「……動けないです」
「動いて」
「……明日も九時って言いました? いま」
「言った」
「二回目です」
「事実は変わらない」
「馬剃さんの真似しないでください……」
「うつるんだよ」
「うつるんですか」
「うつる。俺、先週『出典は』って言いかけた」
「終わりですね」
「終わりだな」
十八時、正門を出た。
十月の日曜の夕方は、もう暗い。
天愛星さんと、駅までの道を歩いた。
「馬剃さん」
「はい」
「鵜飼先生が、言ってました」
「はい」
「告知の一行目が、よかったって」
天愛星さんの足が、止まった。
「……あれは」
「はい」
「あれは、あなたが直された部分です」
「直したのは俺ですけど」
「はい」
「残りの全部は、馬剃さんが書きました」
俺は、そこで一つ、思い出した。
「あと、鵜飼先生、こう言ってました」
「はい」
「『あの一行目を書ける事務局がいるうちは、大丈夫だ』」
天愛星さんは、しばらく、道路のほうを見ていた。
街灯が、一つ切れかけていて、ちかちかしていた。
「温水さん」
「はい」
「私、今日」
――来た。
俺は、ポケットのスマホを、指で押さえた。
鳴るな。
十月十一日の夜に、俺は一回、鳴らせた。
鳴らせて、そのあと、かけ直さなかった。
二回目は、ない。
「はい」
「私、今日」
天愛星さんは、鞄の持ち手を、ぎゅっ、と握り直した。
握った指の関節が、街灯の下で白かった。
「……はじめて、この仕事をしていてよかったと思いました」
スマホは、鳴らなかった。
「そうですか」
「はい」
「よかったです」
「はい」
……ここではない。
俺は、そう思った。
この人がいま言いたかったのは、たぶん、これで合っている。
合っているが、これで全部ではない。
全部ではないことを、俺は、この六か月半でようやく判別できるようになった。
駅の改札で、天愛星さんが振り返った。
「明日、九時ですね」
「九時です」
「では、失礼いたします」
「お疲れさまでした」
彼女が改札を抜けたあと、俺はスマホを取りだした。
着信は、三十七件だった。
全部、仕事である。
俺は、そのうちの一件も、私用ではないことを確認して、画面を消した。
――翌日。
システムは、朝六時二分に復旧した。
目標より、二分遅れである。
朝雲さんから、六時五分にメールが来た。
『六時二分に復旧しました。目標より百二十秒の遅延です。申し訳ありません』
二分を謝る人が、この世にはいる。
俺は、返信を打った。
『ありがとうございました。うちは全部、間に合いました』
送信してから、俺は一行足した。
『綾野によろしく』
送信ボタンを押してから、俺はしばらく画面を見ていた。
六文字である。
この六文字は、相手と自分のあいだに共通の知り合いがいないと、打てない。
しかも、その知り合いと、いま連絡が取れる状態でないと打てない。
四月の俺には、打てなかった。
五月に綾野に会うまでは、打てなかった。
十六年、俺には「よろしく」と伝える相手が、一人もいなかった。
いなかったのではない。
作らなかった。
六文字を打つのに、十六年かかった。
送信して、俺は椅子の背にもたれた。
六時七分である。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
返信は、四十秒で来た。
『こちらこそ、ありがとうございました』
『綾野には、伝えます』
『あと、馬剃さんにも、よろしくお伝えください』
俺は、その一行を見た。
見て、もう一度、上から読み直した。
……言っていない。
俺は、昨日の電話でも、いまのメールでも、馬剃さんの名前を一度も出していない。
もちろん、知っていておかしくはない。
五月に、綾野と飲んだ。あの席に、馬剃さんがいた。
綾野は、家に帰って妻にその日の話をする種類の人間である。
だから、これは推測ではない。共有された情報である。
……それでも。
共有された情報を、障害対応の翌朝六時七分に、一行だけ足して返してくる必要は、どこにもない。
三十秒後に、もう一通来た。
『昨日の電話の方が、馬剃さんですか』
……聞いてきた。
いや、違う。
これは、質問ではない。
この人は、質問の形で確認を取る人である。
答えれば、答えたという情報が残る。
答えなければ、答えなかったという情報が残る。
どちらでも、残る。
十六年前、この人に何かを聞かれた同級生は、たいてい黙った。
黙って、そのあと、全部把握されていた。
俺は、キーボードに手を置いた。
置いて、三分考えて、こう打った。
『よろしく伝えておきます』
どちらの質問にも、答えていない。
返信は、十秒で来た。
『承知しました』
『十六年前も、その答え方でした』
――記録されている。
この人は、他人の答え方を記録する。
馬剃さんとも、そこだけは同じである。
同じだが、使い方が違う。
馬剃さんは、記録して、こちらに渡してくる。
この人は、記録して、しまっておく。
しまっておいて、十六年後に出す。
俺は、スマホを裏返して机に置いた。
置いてから、置いたところで意味がないことに気づいた。
隣の席は、まだ空いている。
九時集合と言ってあるので、当然である。
……五時五十分に来ていた人が、今日は来ていない。
六時十六分である。
俺は、その事実を三秒くらい眺めて、それから、告知の第三報の下書きを開いた。
『インターネット出願システムは、本日六時に復旧いたしました』
一行目は、これでいい。
謝罪は、そのあとである。