大学職員の僕たち   作:房吉

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~18敗目~ 出願受付を停止しております

(十月十一日〜十七日/温水視点)

 

 前の晩、俺は二十三時から二時間、家で作業をしていた。

 

 やったことは、三つである。

 

 一、課のグループに、翌朝七時集合の連絡を入れた。

 二、入試課長と、明日の朝いちばんに決めることを、電話で三分すり合わせた。

 三、寝た。

 

 三つ目が、いちばん大事である。

 

 これも、用度管財課で覚えたことだった。

 

 夜中に病院の給水管が破裂したとき、当時の主任が最初に言ったのが「明日の朝までに寝ろ」だった。

 寝ないで朝を迎えた人間は、判断を間違える。判断を間違えると、翌日の被害が二倍になる。

 

 俺は、二時に寝て、五時に起きた。

 

 三時間である。

 

 足りてはいないが、ゼロよりはるかにましだった。

 

 

 

 

 十月十二日、日曜日、六時四十分。

 

 俺は、正門の前でカードキーをかざした。

 

 日曜の朝の大学は、静かである。

 

 守衛室の灯りだけがついていて、あとは全部暗い。

 週末に人がいる建物は、体育館と、部室棟と、あとは動物実験施設だけだ。

 

 本部棟の四階に上がって、電気をつけた。

 

 入試広報課の島に、誰かがいた。

 

「おはようございます」

 

 天愛星さんだった。

 

 俺は、時計を見た。

 

「六時四十分ですけど」

 

「はい」

 

「七時集合って言いましたよね」

 

「はい」

 

「何時から」

 

「五時五十分です」

 

 俺は、鞄を置いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「怒らないんで、正直に言ってください」

 

「五時五十分です」

 

「二回目ですね」

 

「事実は変わりません」

 

「じゃあ、始発ですか」

 

「始発の次です」

 

「その差になんの意味が」

 

「四分の差がありますっ」

 

「四分」

 

「……四分は、四分です」

 

「その理屈、初めて聞きました」

 

「出典は」

 

「言わなくていいです」

 

「私ですっ」

 

「言うんじゃん」

 

「四分あれば、資料が一枚読めます」

 

「一枚」

 

「一枚です」

 

「四枚作ってましたよね」

 

「……十六分です」

 

「合ってるのが、怖いんですよ」

 

「合っておりますっ」

 

「昨夜、何時に寝ました」

 

「二十三時です」

 

「本当に?」

 

「……二十四時十五分です」

 

「なんで十五分を刻むの」

 

「正確を期しました」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「手、震えてますよ」

 

「……寒いのです」

 

「暖房、入ってないですもんね」

 

「はい」

 

「あと、マウスも震えてます」

 

「マウスは、震えません」

 

「馬剃さんの手が震えてるからです」

 

「…………」

 

「大丈夫ですか」

 

「……大丈夫では、ありません」

 

「はい」

 

「ですが、やります」

 

「はい」

 

 彼女の机の上に、A4が四枚並んでいた。

 

 時系列。

 影響範囲。

 他大学の類似事例。

 想定問答。

 

 ……一時間で、これを。

 

「見ていいですか」

 

「どうぞ」

 

 俺は、一枚目を手に取った。

 

 『二〇二五年十月十一日 二十時三分、本学インターネット出願システムに接続障害が発生。以降、出願手続の全工程が停止。復旧見込み未定』

 

 時刻が、分単位で入っていた。

 

「二十時三分って、どこから」

 

「システムのステータスページに、履歴が残っています」

 

「見たんですか」

 

「はい。あと、ベンダー各社の障害情報の公開ページも確認しました」

 

「各社?」

 

「同一のベンダーを使用している大学が、国内に四十三校あります」

 

 ――四十三校。

 

 俺は、そこで背筋が伸びた。

 

 インターネット出願というのは、いまはどこの大学もやっている。

 

 紙の願書を郵送する時代は、うちの場合、七年前に終わった。

 

 いまは、専用のシステムに受験生が入力して、写真をアップロードして、検定料をコンビニで払って、調査書だけを郵送する。

 

 そのシステムを、自前で作っている大学は、ほとんどない。

 

 外部のベンダーが提供しているものを、各大学が契約して使っている。

 

 つまり、一つ落ちると、そのベンダーを使っている大学が全部落ちる。

 

 七年前、この方式に切り替えるかどうかの議論があった。

 

 当時、俺は会計課にいたので、その議論には入っていない。

 入っていないが、議事録は読んだ。

 

 反対意見が、一つだけ記録されていた。

 

 ――「システムが止まったとき、大学は何もできなくなる」

 

 その一行を書いた人は、いま、この大学にいない。

 

 定年退職している。

 

「他も落ちてる?」

 

「三十一校で、同様の告知が出ています」

 

「じゃあ、うち固有の問題じゃないですね」

 

「はい。ベンダー側の全体障害である可能性が高いです」

 

 これは、でかい。

 

 うち一校の問題なら、うちが謝って、うちが対応する。

 

 四十三校の問題なら、話が変わる。

 文科省が動く可能性もあるし、ベンダーが一斉に補償の話をしてくる可能性もある。

 

 そして、いちばん大事なのは。

 

 ――前例が、三十一校ぶんある。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「三十一校の告知文、集めました?」

 

「集めました。三枚目です」

 

 俺は、三枚目をめくった。

 

 三十一校の告知文が、比較表になっていた。

 

 縦軸が大学名。

 横軸が、「謝罪の有無」「復旧見込みの明示」「締切延長の明示」「代替手段の提示」「問い合わせ先」。

 

 ○と×が並んでいる。

 

「……馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ、一時間で作ったんですか」

 

「五十分です」

 

「怖いです」

 

「恐れ入ります」

 

「褒めてないです」

 

「…………」

 

「馬剃さん?」

 

「……いえ」

 

「顔、赤いですけど」

 

「六時五十分は、まだ暖房が入っておりません」

 

「じゃあ寒いはずですよね」

 

「寒いですっ」

 

「赤いのは」

 

「……血流ですっ」

 

「血流」

 

「血流ですっ」

 

 

 

 

 七時ちょうどに、大貫が来た。

 

 七時二分に、鷲尾課長が来た。

 

「おはよう。状況は」

 

「馬剃さんがまとめてます。三分で説明します」

 

 俺は、四枚を課長の前に並べた。

 

 三分で説明した。

 

 説明が終わったとき、鷲尾課長は椅子に座り直して、こう言った。

 

「温水君、仕切って」

 

「はい」

 

 それだけだった。

 

 この課長は、こういうときに一切迷わない。

 

 

 

 

 七時十五分。

 

 俺は、ホワイトボードの前に立った。

 

 人数は、四人である。

 

 俺、天愛星さん、大貫、鷲尾課長。

 入試課からは、九時に二人来る。

 

「最初に、方針を言います」

 

 俺は、マーカーを取った。

 

「システムの復旧は、うちの仕事じゃないです」

 

 大貫が、目を丸くした。

 

「え、でも」

 

「復旧させるのはベンダーです。うちがどれだけ電話しても、直る速度は変わりません」

 

「はい」

 

「うちの仕事は、こっちです」

 

 俺は、ホワイトボードに一行書いた。

 

 

 

 

 『受験生が、一人も不利にならない状態を作る』

 

 

 

 

「これだけです」

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

 この一行を、俺は五年前に教わった。

 

 教えたのは、当時の入試課長である。

 

 あの年、試験当日に大雪が降って、電車が全部止まった。

 三百人が来られなくなって、事務局が全部で四十人、朝六時から動いた。

 

 あのとき、あの人が最初にホワイトボードに書いたのが、この一行だった。

 

 「復旧させろ」でも「謝れ」でもない。

 

 「一人も不利にならない状態を作れ」だった。

 

 その人は、三年前に定年で辞めた。

 

 辞める前の最後の日、俺は挨拶に行った。

 行って、何を言えばいいのか分からなくて、「お世話になりました」しか言えなかった。

 

 あの人は、こう言った。

 

 ――温水君、あんたが困る側にならないうちは、大丈夫だよ。

 

 意味は、いまでもよく分かっていない。

 

「今日、うちが判断すべきことは、三つあります」

 

 俺は、指を三本立てた。

 

「一、いま出願しようとしている受験生に、何をすればいいかを伝えること」

 

「二、締切を延長するかどうかを、今日中に決めること」

 

「三、システムが復旧しなかった場合の、代替手段を用意すること」

 

「三つ目、ですか」

 

 天愛星さんが言った。

 

「紙の出願を、緊急で受け付けます」

 

「……前例は」

 

「ないです」

 

「では」

 

「今日、作ります」

 

 

 

 

 七時二十分から、割り振った。

 

「大貫」

 

「はい」

 

「電話対応の体制、作ってくれる? 九時から十七時、二人体制。今日と明日」

 

「二人って、誰と」

 

「大貫君と、入試課の若い子。名前あとで言う」

 

「はい」

 

「あと、想定問答は馬剃さんが作ってあるから、それを覚えてほしい。三十分で」

 

「三十分!?」

 

「二十五分でもいい」

 

「増やしてください!」

 

「じゃあ三十五分」

 

「五分だけ!?」

 

「五分あれば六ページ読める」

 

「読めません!」

 

「読んで」

 

 俺は、次に課長を見た。

 

「課長、二つお願いします」

 

「はい」

 

「一つ、柏木部長に第一報を入れてください。日曜なんで、電話で」

 

「入れる」

 

「二つ、事務局長に、今日中に締切延長の決裁が出せる体制を確認してください」

 

「日曜だけど」

 

「日曜だから、先に確認しておきたいんです」

 

 鷲尾課長は、うなずいて、すぐに携帯を取った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「告知文、書いてください」

 

「はい」

 

「第一報は、八時三十分に出します。あと七十分です」

 

「承知しました」

 

 俺は、最後に自分の分を言った。

 

「俺は、学部を回ります」

 

「日曜ですよ」

 

 大貫が言った。

 

「日曜でも、電話は出ます」

 

「出ますかね」

 

「出る人と、出ない人がいる」

 

 俺はマーカーを置いた。

 

「出る人から、順番にかけます」

 

 

 

 

 八時十五分。

 

 天愛星さんが、告知文を持ってきた。

 

 A4一枚である。

 

 俺は、それを読んだ。

 

 完璧だった。

 

 事実の記載に、一切の誤りがない。

 時刻が分単位で、影響範囲が正確で、問い合わせ先が明記してある。

 

 語尾の丁寧さも、過不足がない。

 

 ――ただ。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「一つだけ、直していいですか」

 

「どうぞ」

 

 俺は、赤ペンで、一行目に丸をつけた。

 

 『このたびは、多大なるご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます』

 

「これ、下に移しましょう」

 

「……謝罪を、後ろに」

 

「はい」

 

「順序として、不適切では」

 

「役所の文書だと、そうですね」

 

 俺は、赤ペンで、余白に書いた。

 

 『いま出願しようとしている方は、しばらくお待ちください。出願期間は延長する方向で調整しています。すでに入力されたデータは、すべて残っています』

 

「これを、一行目に」

 

 天愛星さんが、その余白を見ていた。

 

「……データが残っているかは、まだ確認できておりません」

 

「九時に確認します。確認できたら、この文で出します」

 

「確認できなかった場合は」

 

「その場合は、その一行を消します」

 

 俺は、赤ペンを置いた。

 

「馬剃さん、これ読むの、誰だと思います?」

 

「受験生と、保護者の方です」

 

「はい。いま、パソコンの前で固まってる十八歳です」

 

「……はい」

 

「その子が知りたいのは、大学が謝ってるかどうかじゃないです」

 

「自分が、いまどうすればいいかです」

 

 天愛星さんは、しばらく黙っていた。

 

 それから、赤ペンを受け取った。

 

「……直します」

 

「はい」

 

「十分で」

 

「十分でお願いします」

 

 

 

 

 九時ちょうど。

 

 入試課から、二人来た。

 

「温水さん、うち、何をすればいいですか」

 

「電話と、あとベンダーの緊急窓口です」

 

「つながります?」

 

「つながらないです」

 

「じゃあ」

 

「つながらないですけど、かけ続けてください」

 

「……何回くらい」

 

「つながるまでです」

 

「うわ」

 

「三十分に一回でいいです。ずっとかけてると、心が折れるんで」

 

「そこまで考えます?」

 

「折れると、午後がもたないんで」

 

 そのうち一人が、九時十分に、ベンダーの緊急窓口につながった。

 

「あ、つながりました。……はい、はい。え、あ、はい」

 

 受話器を持った入試課の職員が、こちらを見た。

 

「温水さん、責任者の方に代わるそうです」

 

「代わってください」

 

 俺は、受話器を受け取った。

 

「お電話代わりました。入試広報課の温水と申します」

 

 少し、間があった。

 

 

 

 

『……温水さん?』

 

 

 

 

 俺は、受話器を持ち直した。

 

「……朝雲さん?」

 

『朝雲です。戸籍は綾野ですが、仕事では旧姓を使っています』

 

「あ、そうか」

 

『混乱させて申し訳ありません。名刺は二種類あります』

 

「二種類」

 

『使い分けています』

 

 ――日曜の朝九時に、四十三校を止めている会社の責任者が、朝雲千早である。

 

 俺は、その事実を三秒で飲みこんだ。

 

 飲みこんで、仕事に戻った。

 

 感慨は、あとでいい。

 

 いま電話の向こうにいるのは、十六年前の同級生ではなく、

 四十三校ぶんの障害の責任者である。

 

 こっちも、三百二十人ぶんの窓口である。

 

 挨拶は、全部終わってからでいい。

 

「状況を教えてください」

 

『はい。まず結論から申し上げます。本日中の復旧は困難です』

 

「本日中は無理」

 

『明日の朝六時を目標としています。ただし、確約はいたしません』

 

「確約はしない」

 

『確約は、外れたときに二度目の謝罪が必要になります。二度目の謝罪は、一度目の三倍の時間を要します』

 

 

 

 

 ――変わっていない。

 

 

 

 

 この人は、十六年前も、こういう喋り方をしていた。

 

 この人は、「頑張ります」と言わなかった。

 

 俺は、そこで少し安心した。

 

 「頑張ります」と言う担当者は、たいてい、状況を把握していない。

 

「原因は」

 

『データベースの更新処理で、ロックが解放されない状態が発生しています。原因の特定は済んでいます』

 

「じゃあ、直せる」

 

『直せます。ただ、四十三校ぶんのデータ整合性をすべて確認してから戻しますので、時間がかかります』

 

「なるほど」

 

 俺は、そこで、いちばん大事なことを聞いた。

 

「入力済みのデータは、残ってますか」

 

 

 

 

『残っています』

 

 

 

 

『一件も欠損していません。それは、いま断言できます』

 

 俺は、ホワイトボードのほうを向いて、親指を立てた。

 

 天愛星さんが、赤ペンを持ったまま、うなずいた。

 

「朝雲さん、いまの『一件も欠損していません』、そのまま文章にできますか」

 

『できます』

 

「うちの告知に引用したいです。ベンダー名を出さない形で」

 

『……文面を、十分後にメールします』

 

「助かります」

 

『温水さん』

 

「はい」

 

『変わっていませんね』

 

「そうですか」

 

『昔から、最初に「誰が困るか」を聞く人でした』

 

 ――そうだっけ。

 

 俺は、そう思った。

 

 思ったが、電話中なので、口には出さなかった。

 

『こちらも、四十三校すべてに謝って回っています』

 

「大変ですね」

 

『大変です。ただ、御校がいちばん質問が具体的でした』

 

「そうですか」

 

『他は「いつ直るんですか」しか聞いてきません』

 

「まあ、そうなりますよね」

 

『これは正常性バイアスと呼ばれる心の動きです。人は、想定の外にある事態を、想定の内側へ押しこもうとします』

 

「押しこむと」

 

『「いつ直るか」だけを聞きます。直れば元に戻ると、信じたいからです』

 

「戻らない場合は」

 

『戻りません。ですので、御校のように「戻らなかった場合」を先に聞かれる方が、結果として、いちばん早く復旧後の業務に移れます』

 

「褒められてますか、いま」

 

『評価ではありません。観測です』

 

 

 

 

「朝雲さん」

 

『はい』

 

「一個だけ、聞いていいですか」

 

『どうぞ』

 

「なんで、この業界だったんですか」

 

『高校のときに、配線図を読むのが好きだったので』

 

「……ああ」

 

『覚えていらっしゃいますか』

 

「覚えてます」

 

『あれは、盗聴器ではありません』

 

「言うと思いました」

 

『スマートバグです』

 

「十六年ぶりに聞きました」

 

『表現は、正確であるべきです』

 

 

 

 

 ――地続きだった。

 

 

 

 

 十六年前、この人は生徒会室の扉に、小さい機械を貼っていた。

 

 俺が「盗聴器ですよね」と言ったら、返ってきたのがさっきの一文である。

 

 あのころ、この人は自分の機材に番号を振っていた。

 

 エム一、エム二、エム三。

 どれをどこに置いたか、電池があと何日もつかを、全部把握していた。

 

 切れたものについては、「機能を失った装置は、ただのガラクタです」と言い張った。

 

 文化祭の週には、校内にモバイルルーターを勝手に置いて、遠くの音を中継までしていた。

 

 当時の俺は、それを「怖い同級生」の一言で処理した。

 

 処理して、十六年たった。

 

 

 

 

 配線図を読んで、どこに何を置けば全体が拾えるかを考えて、番号で管理して、残量を把握する。

 

 あれは、趣味ではなかったのだと思う。

 

 あれは、運用である。

 

 高校のうちに運用を覚えた人間が、そのまま職業にした。

 

 それだけの話である。

 

 ……それだけの話にしては、四十三校が止まっている。

 

 

 

 

 いや。

 

 止めたのは、この人ではない。

 

 止まったものを、いま、いちばん正確に説明している人である。

 

 

 

 

『温水さん』

 

「はい」

 

『一つ、伺ってもよろしいですか』

 

「どうぞ」

 

『先ほど、受話器の向こうで、女性の方が「よかった」とおっしゃいました』

 

 

 

 

 俺は、受話器を持つ手を止めた。

 

 

 

 

「……聞こえてました?」

 

『聞こえました。受話器は、人が思っているより広く拾います』

 

「……そうですね」

 

『あの声を、私は存じ上げている気がします』

 

「気のせいです」

 

『気のせいでしょうか』

 

「気のせいです」

 

『……そうですか』

 

 

 

 

 この人は、それ以上、追及しなかった。

 

 追及しないのが、この人のいちばん怖いところである。

 

 十六年前から、そうだった。

 

 電話を切ったとき、九時十四分だった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「データ、無事です。一件も欠損なし」

 

 彼女は、そこで、一度だけ目を閉じた。

 

 閉じて、開けるまでが、長かった。

 

 

 

 

「……よかった」

 

 

 

 

 小さい声だった。

 

 この人が、業務中に「よかった」と言うのを、俺は初めて聞いた。

 

 六か月半で、初めてである。

 

 この人は、うまくいったときに「承知しました」と言う。

 助かったときに「恐れ入ります」と言う。

 

 感情の名前を、口に出さない人だった。

 

 いま、出した。

 

 俺は、そのことを、あとで考えることにした。

 

 あとで考えるためには、いま片付けなければならない。

 

 

 

 

 九時三十分、第一報を出した。

 

 トップページの最上部に、赤枠で掲載した。

 

 一行目は、こうである。

 

 『現在、インターネット出願システムが停止しております。すでに入力いただいたデータは、すべて残っております。出願期間は延長する方向で調整しております。いましばらくお待ちください』

 

 謝罪は、四段落目に置いた。

 

 

 

 

 十時から、俺は電話をかけはじめた。

 

 学部は、十一ある。

 

 総合型選抜をやっているのは、そのうち九学部。

 締切延長には、各学部の入試委員長の同意が要る。

 

 最終的に決めるのは入試委員会だが、日曜に委員会は開けない。

 だから、先に個別に取る。

 

 順番が、いちばん大事だった。

 

 九人に電話をかけるとき、どの順にかけるかで、結果が変わる。

 

 これは、精神論ではない。

 

 人は、他人の判断を参考にする。

 「他の学部はどうしてるの」と必ず聞かれる。だから、最初の三人で「もう八割方まとまっている」という状況を作る。

 

 俺が組んだ順番は、こうだった。

 

 一番目、理学部。即決してくれる人。

 二番目、工学部。理学部が乗ったと言えば乗る人。

 三番目、経済学部。条件を出してくるが、条件を飲めば必ず乗る人。

 

 ここまでで三学部。

 三学部乗れば、あとは「多数がすでに同意している」という事実が使える。

 

 四番目に、文学部を置いた。

 

 鵜飼先生は、慎重な人である。

 慎重な人には、材料を全部そろえてから行く。

 

 五番目から八番目は、正直、順不同でよかった。

 

 八番目と九番目に、薬学部と看護学部を置いた。

 

 ここを最後にしたのは、いちばん硬いからではない。

 いちばん硬いところに、いちばん多くの材料を持っていくためである。

 

 

 

 

 一本目は、理学部にかけた。

 

 俺は、理学部の入試責任者である。

 

 四年目からずっとやっている。

 ここは、いちばん話が早い。

 

 三コールで出た。

 

『はい、権田』

 

「先生、日曜にすみません。入試広報課の温水です」

 

『おう。落ちたんだって?』

 

「知ってるんですか」

 

『娘がSNS見てて教えてくれた』

 

「……先生、娘さん受験生でしたっけ」

 

『社会人だ』

 

「なんで見てるんですか」

 

『知らん。あと、裏門の猫の写真も送ってきた』

 

「ハカセですか」

 

『SNSで有名らしいぞ、あの猫』

 

「……初耳です」

 

『広報課だろ、あんた』

 

「猫は、所管外です」

 

『所管外の猫が、うちの大学の名前で拡散されとるんだぞ』

 

「……調べます」

 

『調べんでいい。可愛いからいいんだ』

 

「どっちですか」

 

『可愛いほうだ』

 

 俺は、そこで三十秒だけ状況を説明した。

 

「で、締切を三日延ばしたいです」

 

『いいぞ』

 

「早いですね」

 

『理由が要るか?』

 

「いえ」

 

『じゃあいい。学部長には俺から言う』

 

 ――これである。

 

 俺は、この一本のために、三年かけて権田先生と喋ってきた。

 

 この種の仕事には、必ず「貯金」が要る。

 

 日曜の朝十時に電話をかけて、三十秒で「いいぞ」と言ってもらうには、それ以前の三年が要る。

 

 三年ぶんの写真の文句を聞いて、三年ぶんの無理を断って、そのたびに代案を出す。

 

 貯金がない人間が同じ電話をかけると、たぶん、四十分かかる。

 

 四十分かかると、九学部で六時間である。

 六時間かかると、今日中に決まらない。

 

 今日中に決まらないと、月曜の朝、受験生が三百二十人、宙に浮く。

 

 つまり、三年前の俺が、いまの三百二十人を救っている。

 

 ……というのは、さすがに言いすぎだ。

 

 俺は、その考えを三秒で取り下げた。

 

 写真映りの文句を三年聞いて、去年は三回断って、そのたびに代案を出した。

 その全部が、いまの「いいぞ」に入っている。

 

『温水さん』

 

「はい」

 

『そっちは大丈夫か』

 

「大丈夫です」

 

『日曜だろ』

 

「日曜ですね」

 

『まあ、あんたなら大丈夫だな』

 

 電話が切れた。

 

 

 

 

 二本目は、工学部にかけた。

 

 ここは、出ない。

 出ないと分かっているので、メールを先に送って、そのあとかけた。

 

 二回目のコールで出た。

 

 三本目、経済学部。

 ここは、条件をつけてきた。「三日はいいが、四日は駄目だ」。三日でよかったので、そのまま通した。

 

 四本目、文学部。

 

『温水君』

 

 鵜飼先生だった。

 

「先生、日曜にすみません」

 

『いいよ。それより、告知は出したのかね』

 

「九時半に出しました」

 

『読んだ』

 

「え」

 

『さっき読んだ。一行目がよかった』

 

 俺は、受話器を持ち直した。

 

『謝罪が後ろにあったろう』

 

「ありました」

 

『あれは、誰が書いた』

 

「うちの職員です」

 

『そうか』

 

 鵜飼先生は、少し黙った。

 

『延長、賛成する。文学部は私が押さえる』

 

「ありがとうございます」

 

『あの一行目を書ける事務局がいるうちは、大丈夫だ』

 

 俺は、電話を切ってから、隣を見た。

 

 天愛星さんは、想定問答の追補を作っていた。

 

 こちらを見ていない。

 

 ……いま言うと、たぶん、手が止まる。

 

 俺は、あとで言うことにした。

 

 九学部のうち、七学部が十一時半までに取れた。

 

 残ったのが、薬学部と看護学部である。

 

 この二つが、いちばん硬い。

 

 どちらも国家試験があるので、四年間の日程がびっちり組んである。

 三日ずらすと、面接日程が実習や演習と重なる可能性があった。

 

 薬学部は、十二時十分に取れた。

 

 入試委員長が、条件を三つ出してきた。

 

 一、面接は土曜に振り替える。

 二、面接官の人数は増やさない。

 三、その代わり、一人あたりの面接時間を二分短くする。

 

「二分短くして、大丈夫ですか」

 

『大丈夫だ。うちは十二分でやってるが、実質は十分で終わってる』

 

「そうなんですか」

 

『残り二分は、学生が緊張をほどく時間だ』

 

「……それ、削っていいんですか」

 

 少し、間があった。

 

『……削らないほうがいいな』

 

「ですよね」

 

『じゃあ、面接官を一人増やす。俺が入る』

 

「先生が」

 

『日程を動かしたのはこっちの都合じゃないが、動くのは学生だ』

 

 ――こういう人が、いる。

 

 俺は、電話を切ってから、少しのあいだ受話器を見ていた。

 

 五年やっていて、こういう電話が年に二回くらいある。

 

 二回あるから、続けられる。

 

 

 

 

 問題は、看護学部だった。

 

 入試委員長が、電話に出ない。

 

 十二時四十分。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「看護だけ、取れてないです」

 

「はい」

 

「委員長が出ないです。四回かけました」

 

「メールは」

 

「送りました。返信なし」

 

「研究室にもかけました。誰もいないです」

 

 天愛星さんが、ノートパソコンから顔を上げた。

 

「学科長は」

 

「え」

 

「入試委員長が不在の場合、代決者は学科長です。事務決裁規程の別表第三に」

 

 

 

 

 ――ああ。

 

 

 

 

 俺は、その手を持っていなかった。

 

 俺のやり方は、人にかける。

 この人のやり方は、規程を読む。

 

 六か月半、俺はこの人に、人の側のことを教えてきた。

 

 どの先生にどの順で話すか。

 どこで軽口を叩いて、どこで数字を出すか。

 

 教えながら、俺は、たぶん少し優越していた。

 

 自覚がなかった。

 なかったが、いま自覚した。

 

 この人は、俺が持っていないものを、四月から全部持っていた。

 

 持っていて、一度も出さなかった。

 

 出さなかったのは、俺のやり方を覚えることを優先していたからである。

 

 ……六か月半、順番が逆だったのかもしれない。

 

「学科長、誰でしたっけ」

 

「昨年度からの名簿を、印刷してあります」

 

「持ってるんですか」

 

「四月に、全部印刷しました」

 

「なんでですか」

 

「必要になると思いましたので」

 

 六か月かかって、必要になった。

 

 俺は、その名簿で、看護学部の学科長にかけた。

 

 学科長も、出なかった。

 

 二人とも、日曜に、電話に出ない。

 

 俺は、そこで三十秒くらい考えた。

 

 考えて、机の引き出しから、古い内線番号表を出した。

 

「温水さん、それは」

 

「大学病院の内線表です」

 

「なぜ、お持ちなんですか」

 

「四年いたんで」

 

 俺は、医事課の代表番号にかけた。

 

 日曜の昼である。

 救急外来が動いているので、医事課には必ず誰か座っている。

 

『はい、医事課』

 

「お疲れさまです。入試広報課の温水です」

 

『えっ、温水さん? 久しぶり!』

 

「お疲れさまです。すみません、日曜に」

 

『どうしたの、こっち戻ってくる?』

 

「戻らないです。ちょっと人を探してまして」

 

『相変わらずだねえ。昔から、人探してたよね』

 

「そうでしたっけ」

 

『備品も人も探してた』

 

「……備品は、まあ」

 

『あと、鍵』

 

「鍵は探してないです」

 

『探してたよ。三回』

 

「……三回は、探してました」

 

 俺は、看護学部の教員の名前を出した。

 

『ああ、その先生なら、今日は五階の病棟にいるよ』

 

「病棟」

 

『実習の指導。日曜も入ってるはず』

 

「内線、分かりますか」

 

『五階のナースステーション。番号言うね』

 

 ――これである。

 

 俺は、医事課に一年しかいなかった。

 

 一年で、診療報酬の算定はまったく身につかなかった。

 

 身についたのは、電話の最初の三秒と、あとは、

 この病院のどこに誰がいるかを聞ける相手を作ることだけだった。

 

 十年前の一年が、いま効いた。

 

 看護学部の入試委員長は、三コール目で出た。

 

『はい、もしもし』

 

「入試広報課の温水と申します。実習中に申し訳ありません」

 

『あら、よく分かったわね、ここが』

 

「医事課に聞きました」

 

『あの人たち、なんでも知ってるのよね』

 

 俺は、三十秒で説明した。

 

『三日延長ね。いいわよ』

 

「ありがとうございます」

 

『ただ、面接日は動かさない』

 

「動かさない?」

 

『動かすと実習が全部ずれるの。出願を三日延ばして、面接はそのまま』

 

「……間に合いますか。書類の確認が」

 

『そっちが間に合わせてくれるなら』

 

 ――来た。

 

 この球は、事務局が受けるやつである。

 

 俺は、受話器を持ったまま、隣を見た。

 

 天愛星さんが、こちらを見ていた。

 

 見ていて、うなずいた。

 

 

 

 

「間に合わせます」

 

 

 

 

『じゃあ、それで』

 

 電話を切ってから、俺は隣に言った。

 

「馬剃さん、いま、うなずきましたよね」

 

「うなずきました」

 

「なんの根拠があって」

 

「三日ぶんの書類確認を、二日で終わらせる方法を、先ほど算出しました」

 

「先ほど」

 

「あなたが医事課に電話をしている、四分間です」

 

 俺は、天井を見た。

 

 十三時二分。

 

 九学部、全部取れた。

 

 

 

 

 十四時、事務局長の決裁が出た。

 

 十五時、第二報を出した。

 

 『インターネット出願の受付期限を、十月十四日(火)十七時から、十月十七日(金)十七時に延長いたします』

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「延長、三日にしましたけど」

 

「はい」

 

「四日にしなかった理由、分かります?」

 

「……経済学部の入試委員長が、四日は不可とおっしゃったからです」

 

「それもありますけど」

 

「ほかに」

 

「三日だと、受験生が『まだ間に合う』と思えるんですよ」

 

「四日では」

 

「四日は『延びた』になります。延びると、人は後ろに寄せる」

 

「……後ろに寄せると」

 

「また何か起きたとき、逃げ場がなくなります」

 

 天愛星さんが、手帳を出した。

 

「出た」

 

「出しますっ」

 

 

 

 

 電話は、その日、六十一件かかってきた。

 

 六十一件という数字を、俺は少ないと思った。

 

 出願中の受験生は、その時点で三百二十人ほどいる。

 そのうち六十一人しかかけてこないということは、二百六十人は、かけてこなかったということだ。

 

 かけてこなかった人が、安心しているとは限らない。

 

 電話をかけるというのは、けっこう体力の要る行為である。

 十八歳が、知らない大学の知らない番号に電話をかけるのは、たぶん、大人が思っているより難しい。

 

 だから、告知の一行目が大事だった。

 

 電話をかけられない二百六十人が読むのは、あの一行だけである。

 

 半分は保護者からで、半分は受験生本人からだった。

 

 大貫と入試課の若い子が、二人で全部受けた。

 

 

 

 

 十六時ごろ、大貫が本部に走ってきた。

 

「温水さん、ちょっと来てもらっていいですか」

 

「どうした」

 

「受験生が、泣いてます」

 

 俺は、立ち上がった。

 

 立ち上がるのと、隣が立ち上がるのが、同時だった。

 

 椅子が、がたん、と鳴った。

 

 鳴らしたのは、たぶん、俺のほうではない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「代わります?」

 

「代わります」

 

「三秒だけゆっくり喋ってください」

 

「承知しております」

 

 天愛星さんは、受話器を受け取った。

 

「お電話代わりました。入試広報課の馬剃と申します」

 

 三秒、ゆっくり。

 

「はい。……はい。ええ、大丈夫です」

 

「入力していただいた内容は、すべて残っております」

 

「消えていません。一件も消えていません」

 

 俺は、少し離れたところで、それを聞いていた。

 

 

 

 

「……はい。私も、そうでした」

 

 

 

 

 ――ん?

 

「私も、書類を出す日に、パソコンが動かなくなったことがあります」

 

「はい」

 

「そのときは、誰も何も教えてくれませんでした」

 

「ですので、今日は、全部お伝えします」

 

 俺は、その場から動かなかった。

 

 ――言った。

 

 この人は、いま、自分の話をした。

 

 十八歳の受験生に対して、「私も、そうでした」と言った。

 

 業務上、必要のない情報である。

 

 役所なら、たぶん減点される。

 個人の経験を持ち出すのは、公正性の観点から望ましくない。そう習ったはずだ。

 

 俺だって、言わない。

 

 俺は、十二年、こういうときに自分の話をしたことが一度もない。

 

 この人は、言った。

 

 言って、そのあと、十九分かけて全部説明した。

 

 延長後の締切日。復旧の見込み。データが残っていること。

 もし復旧しなかった場合の紙出願の手順。問い合わせ先の直通番号。

 

 最後に、こう言った。

 

「もう一度おかけになるとき、私の名前を出していただいて構いません。馬剃と申します」

 

 その電話は、十九分続いた。

 

 切ったあと、天愛星さんは受話器を置いて、しばらく手を膝に置いていた。

 

 置いた手が、かたかた、と少し震えていた。

 

 十九分、ゆっくり喋りつづけた手である。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「十九分は、長いです」

 

「はい」

 

「でも、あれでいいです」

 

「……はい」

 

 

 

 

 十六時半を過ぎたころ、電話が止まった。

 

 止まった、というより、かかってくる間隔が長くなった。

 

 告知が行き渡ったのだと思う。

 

 三十分に一件くらいになって、内容も「延長は本当ですか」の確認だけになった。

 

 俺は、その時間に、明日の段取りを作っていた。

 

 明日、復旧したら何をするか。

 復旧しなかったら何をするか。

 

 二本作った。二本目のほうが、六倍長かった。

 

 紙出願の受付手順である。

 

 様式を作って、受付場所を決めて、検定料の納付方法を変えて、受付印の管理を決めて、当日の人員を確保する。

 

 前例がないので、全部いちから作った。

 

 結果として、この二本目は使わなかった。

 

 使わなかったが、それでよかった。

 

 使わないために作るのが、事務局の仕事である。

 

 

 

 

 十七時四十分、撤収。

 

 鷲尾課長が、帰り際に言った。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「今日、よかったわ」

 

「ありがとうございます」

 

「あと、超過勤務、ちゃんと出しなさいよ」

 

「出します」

 

「本当に?」

 

「本当に出します」

 

 課長は、うなずいて帰っていった。

 

 大貫は、椅子の上で死んでいた。

 

「大貫」

 

「……はい」

 

「明日、九時からもう一回ある」

 

「……はい」

 

「今日はもう帰っていい」

 

「……動けないです」

 

「動いて」

 

「……明日も九時って言いました? いま」

 

「言った」

 

「二回目です」

 

「事実は変わらない」

 

「馬剃さんの真似しないでください……」

 

「うつるんだよ」

 

「うつるんですか」

 

「うつる。俺、先週『出典は』って言いかけた」

 

「終わりですね」

 

「終わりだな」

 

 

 

 

 十八時、正門を出た。

 

 十月の日曜の夕方は、もう暗い。

 

 天愛星さんと、駅までの道を歩いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「鵜飼先生が、言ってました」

 

「はい」

 

「告知の一行目が、よかったって」

 

 天愛星さんの足が、止まった。

 

「……あれは」

 

「はい」

 

「あれは、あなたが直された部分です」

 

「直したのは俺ですけど」

 

「はい」

 

「残りの全部は、馬剃さんが書きました」

 

 俺は、そこで一つ、思い出した。

 

「あと、鵜飼先生、こう言ってました」

 

「はい」

 

「『あの一行目を書ける事務局がいるうちは、大丈夫だ』」

 

 天愛星さんは、しばらく、道路のほうを見ていた。

 

 街灯が、一つ切れかけていて、ちかちかしていた。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「私、今日」

 

 ――来た。

 

 俺は、ポケットのスマホを、指で押さえた。

 

 鳴るな。

 

 十月十一日の夜に、俺は一回、鳴らせた。

 鳴らせて、そのあと、かけ直さなかった。

 

 二回目は、ない。

 

「はい」

 

「私、今日」

 

 天愛星さんは、鞄の持ち手を、ぎゅっ、と握り直した。

 

 握った指の関節が、街灯の下で白かった。

 

 

 

 

「……はじめて、この仕事をしていてよかったと思いました」

 

 

 

 

 スマホは、鳴らなかった。

 

「そうですか」

 

「はい」

 

「よかったです」

 

「はい」

 

 ……ここではない。

 

 俺は、そう思った。

 

 この人がいま言いたかったのは、たぶん、これで合っている。

 

 合っているが、これで全部ではない。

 

 全部ではないことを、俺は、この六か月半でようやく判別できるようになった。

 

 駅の改札で、天愛星さんが振り返った。

 

「明日、九時ですね」

 

「九時です」

 

「では、失礼いたします」

 

「お疲れさまでした」

 

 彼女が改札を抜けたあと、俺はスマホを取りだした。

 

 着信は、三十七件だった。

 

 全部、仕事である。

 

 俺は、そのうちの一件も、私用ではないことを確認して、画面を消した。

 

 

 

 

 ――翌日。

 

 システムは、朝六時二分に復旧した。

 

 目標より、二分遅れである。

 

 朝雲さんから、六時五分にメールが来た。

 

 『六時二分に復旧しました。目標より百二十秒の遅延です。申し訳ありません』

 

 二分を謝る人が、この世にはいる。

 

 俺は、返信を打った。

 

 『ありがとうございました。うちは全部、間に合いました』

 

 送信してから、俺は一行足した。

 

 

 

 

 『綾野によろしく』

 

 

 

 

 送信ボタンを押してから、俺はしばらく画面を見ていた。

 

 六文字である。

 

 この六文字は、相手と自分のあいだに共通の知り合いがいないと、打てない。

 

 しかも、その知り合いと、いま連絡が取れる状態でないと打てない。

 

 四月の俺には、打てなかった。

 

 五月に綾野に会うまでは、打てなかった。

 

 十六年、俺には「よろしく」と伝える相手が、一人もいなかった。

 

 いなかったのではない。

 

 作らなかった。

 

 六文字を打つのに、十六年かかった。

 

 送信して、俺は椅子の背にもたれた。

 

 六時七分である。

 

 窓の外が、少しずつ明るくなっていた。

 

 

 

 

 返信は、四十秒で来た。

 

 『こちらこそ、ありがとうございました』

 

 『綾野には、伝えます』

 

 

 

 

 『あと、馬剃さんにも、よろしくお伝えください』

 

 

 

 

 俺は、その一行を見た。

 

 見て、もう一度、上から読み直した。

 

 ……言っていない。

 

 俺は、昨日の電話でも、いまのメールでも、馬剃さんの名前を一度も出していない。

 

 もちろん、知っていておかしくはない。

 

 五月に、綾野と飲んだ。あの席に、馬剃さんがいた。

 綾野は、家に帰って妻にその日の話をする種類の人間である。

 

 だから、これは推測ではない。共有された情報である。

 

 ……それでも。

 

 共有された情報を、障害対応の翌朝六時七分に、一行だけ足して返してくる必要は、どこにもない。

 

 

 

 

 三十秒後に、もう一通来た。

 

 

 

 

 『昨日の電話の方が、馬剃さんですか』

 

 

 

 

 ……聞いてきた。

 

 いや、違う。

 

 これは、質問ではない。

 

 この人は、質問の形で確認を取る人である。

 

 答えれば、答えたという情報が残る。

 答えなければ、答えなかったという情報が残る。

 

 どちらでも、残る。

 

 十六年前、この人に何かを聞かれた同級生は、たいてい黙った。

 

 黙って、そのあと、全部把握されていた。

 

 俺は、キーボードに手を置いた。

 

 置いて、三分考えて、こう打った。

 

 

 

 

 『よろしく伝えておきます』

 

 

 

 

 どちらの質問にも、答えていない。

 

 返信は、十秒で来た。

 

 

 

 

 『承知しました』

 

 『十六年前も、その答え方でした』

 

 

 

 

 ――記録されている。

 

 この人は、他人の答え方を記録する。

 

 馬剃さんとも、そこだけは同じである。

 

 同じだが、使い方が違う。

 

 馬剃さんは、記録して、こちらに渡してくる。

 この人は、記録して、しまっておく。

 

 しまっておいて、十六年後に出す。

 

 俺は、スマホを裏返して机に置いた。

 

 置いてから、置いたところで意味がないことに気づいた。

 

 

 

 

 隣の席は、まだ空いている。

 

 九時集合と言ってあるので、当然である。

 

 

 

 

 ……五時五十分に来ていた人が、今日は来ていない。

 

 

 

 

 六時十六分である。

 

 俺は、その事実を三秒くらい眺めて、それから、告知の第三報の下書きを開いた。

 

 『インターネット出願システムは、本日六時に復旧いたしました』

 

 一行目は、これでいい。

 

 謝罪は、そのあとである。

 

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