(十月十八日/温水視点)
「温水主任。本日の目標値を、確認させてください」
「はい」
「来場者、約六百名。参加大学、三十二校。本学のブースの席数は二」
「そうですね」
「昨年度実績は四十一組。本日の目標は、四十五組といたします」
「上げるんですね」
「上げます」
十月十八日、土曜日、午前九時四十分。
会場は、都内の私立女子高の体育館だった。
バスケットゴールが天井に畳まれていて、床にブルーシート、その上に長机が三十二列。
うちのブースは、入口から数えて十一番目である。
「馬剃さん、この高校、うちにとって何番目に大事な高校か分かります?」
「二番目です。過去五年で九十七名、昨年度は十九名の入学実績。第一位は――」
馬剃さんが手元の一覧をめくった。
「――同一法人の附属校ですので、実質、ここが一番です」
「正解です。なので今日は二人体制なんですよ」
「承知しました」
馬剃さんは、パンフレットの束の角を揃えた。
揃えてから、もう一度揃えた。二回目は、揃っているものを揃えていた。
――緊張してるな。
俺は気づかなかったことにして、名刺入れを内ポケットに移した。
十時、開場。
最初の三十分は静かで、そこから一気に来た。
六百人が三十二ブースに散ると、うちの前には常に三人か四人が立っている状態になる。
席は二つ。つまり、常に誰かを待たせている。
「温水主任」
「はい」
「待機列が四名です。私が二席とも回します」
「え」
「あなたは、立ってください」
「立って何を」
「並んでいる方に、先に三点だけ伺っておいてください。高校名、志望系統、本日回られた大学数。座った時点で、こちらの初動が三分縮みます」
――強い。
俺は素直に立った。
六月の相談会で、この人は十七件のうち八件を一人でさばいた。
あれから四か月経って、いまはもう、俺に指示を出している。
立ったまま、俺は少しにやけそうになって、口の端をこらえた。
十一時台、九組。
十二時台、七組。
馬剃さんは、途中で一度も水を飲まなかった。
俺が缶を机の下に置いても、手をつけない。
「馬剃さん、飲んでください」
「対応中です」
「対応の合間に飲むんですよ。飲まないと、午後に声が死にます」
「……根拠は」
「五年ぶんの経験です」
「出典が弱いですね」
「出典は俺です」
馬剃さんが、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
上げてから、缶を三口飲んだ。三口できっちり止めるあたりが、この人である。
十三時二十分。
波が引いた。
昼食休憩と、体育館の外でやっている在校生の吹奏楽の演奏が重なる時間帯である。
毎年ここで、全ブースが二十分ほど暇になる。
「温水主任」
「はい」
「現在、三十一組です」
「早いな」
「目標まで、あと十四組。残り時間は百六十分――」
馬剃さんが顔を上げて、言葉を止めた。
視線の先に、三人いた。
一人目が、袋菓子を持っていた。
会場の受付で配っている、この高校の名前が入ったクッキーである。
彼女はそれをすでに三枚目まで進めていて、しかも二袋目だった。
「あー、ここ空いてる。座っていい?」
返事を待たずに座った。
二人目は、その後ろにいた。
小柄で、猫背で、パンフレットの束の陰に半分隠れている。
こちらと目が合うと、びくっと肩が跳ねて、隠れる面積が増えた。
三人目は、座らなかった。
日に焼けていて、ジャージを制服の下に着ていて、その場で軽く踵を上下させている。
立ち止まっていることに耐えられない人種の動きだった。
――待て。
ぞわ、と背中を何かが上がっていった。
俺はこの並びを知っている。
いや、知らない。知っているわけがない。
十六年前の愛知県の高校の部室に座っていた三人が、令和の東京の体育館で、大学のブースに来るわけがない。
「先生、ここの大学の人ですか」
「あ、はい。職員です。……先生ではないです」
「じゃあ先生じゃないんですね。りょうかいでーす、先生」
全然、りょうかいしていない。
「私たち二年生なんですけど、まだ何も決まってなくて」
「決まってなくていい時期ですよ。二年生の十月は」
「ほんとに? うち、先生たちが『もう決めろ』って毎日言ってくるんですけど」
「言いますね、先生方は。仕事なので」
「うわ、大人の答え」
クッキーの子が、四枚目に手を伸ばした。
「じゃあ質問。学食っておいしいですか」
「……正直に言っていいですか」
「言って」
「学生新聞に見出しを付けられたことがあります」
三人が、同時に笑った。
笑ってから、クッキーの子が身を乗り出した。
「見出しなんて書かれたの?」
「言えません」
「えー、言ってくださいよー」
「言うと、うちの学食の担当者が悲しむので」
「じゃあ行くしかないじゃん、確かめに」
――なぜだ。
なぜ、いま志願度が上がったんだ。
俺の隣で、馬剃さんが席を立った。
自分の側の椅子に来た生徒を、対応するためである。
その組は、七分で終わった。
高校名と志望系統を聞いて、資料請求の登録をして、丁寧に送り出す。完璧だった。
完璧に終わって、次が来なかった。
馬剃さんは、空いた椅子の背に手を置いて、少し待った。
待って、来ないので、座った。
座って、パンフレットを揃えた。
それから、こちらを見た。
目が合った。
合ったのに、そらされなかった。
――こわ。
「先生、じゃあ次の質問でーす」
跳ねている子が、机に両手をついた。
「先生って、押しに弱いですよね」
「なんの話ですか」
「わかる」
「わ、分かる」
三人が三人とも頷いた。隠れている子まで頷いた。
「初対面で分かるものですか、そういうのは」
「分かるよ。だってさっきから、一回も『次の方が待ってるので』って言わないもん」
――言えないんだよ。
言えない理由は、俺の性格ではなく、後ろに次の方が待っていないからである。
念のため確認したが、待機列はゼロだった。
波が完全に引いている。
「先生、兄弟いますか」
「妹が一人」
「うわー、絶対そうだと思った」
「なんですかその反応」
「妹に勝てないタイプの顔してる」
勝てない。
三十四年間、一度も勝てたことがない。
「あ、先生。これ持っててもらっていいですか」
跳ねている子が、当たり前の顔で、体育館の袋を差しだしてきた。
「なんで俺が」
「両手空けたいんで」
「いや、あの」
「先生、ありがとうございまーす」
持っていた。
気がついたら、両手に袋を持っていた。
クッキーの子が、感心したように頷いた。
「ほら、押しに弱い」
「いま、断る間がなかったんですよ」
「間があっても断らないでしょ」
「……断らないですね」
「正直だ」
「せ、正直」
三人が、うんうんと頷き合っている。
俺は袋を二つ抱えたまま、大学の説明をする立場を完全に見失っていた。
「あの、ちょっと聞いていいですか」
隠れている子が、パンフレットの陰から言った。
声が小さくて、二回聞き返した。
「文学部って、その、何を、するところですか」
「大まかに言うと、人が書いたものを読んで、なんでそう書いたのかを考えるところです」
「……それだけで、いいんですか」
「よくないです」
「え」
「それだけを四年間やるので、めちゃくちゃ大変です」
隠れている子が、ぱっと顔を上げた。
目が、丸くなっていた。
「四年間、それ、やっていいんですか」
「いいですよ」
「…………」
彼女は口を開けたまま、二秒くらい固まった。
それから、真っ赤になって、またパンフレットの後ろに戻った。
「この子、書いてるんですよ」
クッキーの子が、あっさり暴露した。
「うぇっ! い、言うなって言ったじゃん!」
「だって聞いてもらえばいいじゃん。せっかく大学の人いるんだし」
「そ、そういうことじゃなくて!」
「今年の文化祭のやつ、めっちゃよかったよね」
「よかった。あたし、走りながら読んだ」
「走りながら読むな」
俺は、思わずツッコんでいた。
言ってから、しまった、と思った。
大学職員が高校生にツッコむ場面ではない。
三人が、こちらを見た。
そして、声を揃えて笑った。
「先生、いま素が出た」
「出てないです」
「出てた出てた」
「あ、あの、部活は、その、文芸部です」
――ぐ、と喉の奥が鳴った。
俺は、そこで完全に、五秒ほど止まった。
食べる人がいて、隠れる人がいて、走る人がいて、原稿の締切だけが常に破られている部屋。
二年前まで存在していたのではなく、十六年前に、六百キロ離れた場所に存在していた部屋。
その部屋が、いま、目の前で笑っている。
「先生?」
「あ、はい。……いえ、あの、いい部活だと思います」
「なんで泣きそうなんですか」
「泣いてないです」
「泣きそうだったよ、ねえ」
「泣きそう」
「な、泣きそうだった」
三対一である。
この構図にも、俺は覚えがあった。
「じゃあ先生、高校のとき何部だったんですか」
クッキーの子が、身を乗り出した。
俺は、その質問に、たっぷり二秒使ってから答えた。
「……文芸部です」
「えっ」
「うそ」
「い、一緒じゃん!」
三人が、同時に立ち上がった。
立ち上がるな。ここは進学相談会である。
「先生、部誌出してました?」
「出してました。年二回」
「うちも! 文化祭と、三月!」
「締切、守られました?」
「一度も」
「ですよね!」
「原稿が集まらないのは、部の伝統なんで」
「伝統なんだ」
「伝統です。あと、表紙だけ異様に凝るのも伝統です」
「わ、分かる! 表紙、いちばん時間かかる!」
隠れている子が、パンフレットの陰から完全に出てきた。
出てきて、目を輝かせていた。
……いや。
このへんで、俺は自覚していた。
もう業務の話を一言もしていない。
三十四歳の大学職員が、体育館の隅で、高校二年生三人と部誌の締切の話をしている。
これは進学相談ではない。同窓会ですらない。ただの、部室である。
「先生、教えるのうまいですね」
「そんなことないですよ」
――落ち着け。
俺は自分に言い聞かせた。
これはラブコメでいうところの、序盤の好感度上昇イベントである。
選択肢は三つ出ていて、どれを選んでも本筋には影響しない。フラグは立たない。立たない設計になっている。
十六年、俺はこの処理で生き延びてきた。
現実の出来事を、いったんギャルゲーの文脈に置き換えてから受け取る。そうすると、たいていのことは他人事になる。
……なるはずだった。
今日は、耐久値がやけに低い。
「うまいって。うち、進路の先生の話より分かった」
「……そうですか」
――やめろ。
顔がゆるむ。ゆるんでいる。分かっているのに止まらない。
正直に内訳を申告すると、七割は困っていた。
残りの三割は、正直に申告すると、かなり嬉しかった。
俺は名刺入れを取り出して、三枚抜いた。
「これ、俺の名刺です。何かあったら、大学に電話してください」
「え、いいんですか」
「もらっていいの?」
「いいですよ。……そこの番号は、俺につながるんで」
三人が、きゃあ、と声を上げた。
名刺というのは、本来、高校の先生に渡すものである。
五年間、生徒に配ったことは、たぶん一度もない。
「――恐れ入ります」
真横から、低い声がした。
馬剃さんが、立っていた。
立って、こちらを見ていた。
目が、細い。
いつもの、貼り付けた微笑の目ではない。まぶたが半分だけ下りていて、そこから、じ、と光が出ている。
ペン先が、かち、かち、と二回鳴った。
「本学ブースの、一組あたりの標準対応時間は十五分です」
「わっ、こわい人来た」
「事実の共有です」
「いま何分でした?」
「三十七分です」
即答だった。
三人が、おお、とどよめいた。
「測ってたんですか」
「記録です」
「お姉さんも大学の人ですよね。先生、教えるのうまくないですか」
「……存じております」
低い。
いままででいちばん低かった。
しかも、褒めているのに褒めていない発音だった。
「うわ、なんか怖い」
「事実の共有です」
「先生の彼女さんですか」
「――同僚です」
〇・五秒。
その〇・五秒を、俺は完全に聞き取った。
そして、たちの悪いことに、目の前の三人も聞き取っていた。
「いま、間があったよね」
「あった」
「あ、あった」
「ありません」
「ありましたー」
クッキーの子が、袋を置いた。
置いた。この子が食べるのをやめた。事態は深刻である。
「お姉さん、お名前は?」
「本学入試広報課の、馬剃と申します」
「ばそりさん。下のお名前は?」
「業務上、必要がありませんので」
「えー、教えてくださいよー」
「必要が、ありませんので」
「じゃあ、うましゃくさんで」
「馬剃です」
「あまあい……ぼしさん?」
「――馬剃、天愛星ですっ!」
ばん、と机が鳴った。
手のひらである。
両隣二つのブースが、いっせいにこちらを見た。
その向こうの、農学部の看板の人まで見た。
馬剃さんは、自分の手を見た。
見てから、そっと持ち上げて、膝の上に置いて、静かに座り直した。
「……失礼いたしました。本学の来場者対応要領において、応対時の声量は、周囲に配慮したものとすると定められておりまして」
「もう遅いですよ」
「存じております」
「てぃあらさん! 名前かわいい!」
「か、かわいい」
「本名なんですか」
「本名です」
「うわー、いいなー。うち、田中なんですよ」
「田中は、いい名字です」
「フォロー入った」
馬剃さんの耳が、みるみる赤くなっていった。
俺はそこで気づいた。
この人は、三人以上に囲まれると弱い。
十六年前からそうで、たぶん、今日もそうである。
「あの、一応言っておきますけど」
俺は、三人のほうに向き直った。
「この人、今日、一人で二十九組さばいてるんで」
「え」
「二十九?」
「俺、十七です。倍近い」
三人が、おおー、と声を上げた。
「すご」
「かっこいい」
「か、かっこいい」
「……恐れ入ります」
馬剃さんの背中から、力が抜けた。
所要時間、二秒である。
二秒前まで机を叩いていた人が、いま、両手を膝の上でそろえて、うつむいて、耳だけ赤くしている。
――相変わらずだ。
この人は昔から、怒るのが速くて、鎮まるのはもっと速い。
褒められることに、恐ろしく耐性がない。
「先生、扱いうまくない?」
「うまい」
「う、うまい」
「――扱われておりませんっ!」
また上がった。
「じゃあ質問変えます。お二人、仲いいんですか」
「業務上の関係です」
「休みの日に会ったりします?」
「……業務上の関係です」
「二回言った」
「言ってません」
「言ったよね」
「い、言ってた」
「では申し上げます。私とこの方は、職務上の指揮命令系統においても、席次においても、あくまで対等な同僚であり、その、業務時間外における個人的な接触の有無につきましては、就業規則上、報告の義務がなく――」
「長い」
「長いです」
「な、長かった」
「――ですので、仮に休日に会っていたとしても、それは規程上なんら問題のない行為であって、私が、その、あの人と、休日に、二人で……えっ」
馬剃さんが止まった。
自分の言葉に、自分で追突した顔だった。
「……いま、私は、何を否定していたのでしょうか」
三人が、爆発した。
――変わってない。
俺はそれを、他人事のような気持ちで見ていた。
十六年前、この人は職員室の前で同じことをやって、同じように自爆していた。
あのときは相手が生徒会の書記だった。いまは初対面の高校二年生である。相手が変わっただけで、構造は一文字も変わっていない。
跳ねている子が、机に身を乗り出した。
「あ、そうだ。お姉さん、いま三十七分って即答したじゃないですか。あたし、そういうの好きです。五十メートル走の記録、〇・〇一秒まで言えます」
「……それは、正確に記録されているのですか」
「手動計測だから誤差ありますけど。〇・二くらい」
「〇・二秒の誤差は、有意です」
「ですよね!」
「はい。有意です」
二人が、がっちり握手をしそうな空気になった。
――なんだこれは。
俺の知らないところで、計測の同盟が結ばれている。
「じゃあお姉さんに質問。先生の、笑った回数って測ってました?」
空気が、止まった。
馬剃さんの手が、ペンの上で固まった。
「……業務に関係のない質問には」
「測ってたんだ」
「測っておりません」
「顔に出てるよ」
「出ておりません」
「出てるー」
三人が、きゃあ、と笑った。
馬剃さんは、口を真一文字に結んで、それから、パンフレットの束を持ち上げた。
揃えた。
揃っているものを、三回揃えた。
「あ、そろそろ行こ。次のブース回ってないし」
「先生、ばいばーい」
「あ、あの、ありがとうございました」
三人が立ち上がって、二歩進んで、クッキーの子だけが振り返った。
「お姉さん」
「はい」
「先生、絶対うちらのこと今日いちばん楽しかったって言いますよ」
馬剃さんは、何も言わなかった。
言わずに、三人が通路の向こうに消えるまで、まっすぐ立っていた。
消えてから、椅子に座った。
座って、こちらを見た。
じ、と見た。
「言いません」
「まだ何も聞かれてませんよ」
「先に否定しておきました」
「そうですか」
「……三十七分でしたので」
「その数字、今日ずっと出てきますね」
「出します」
十七時、閉場。
撤収は十五分で終わった。
残ったパンフレットを箱に戻し、テーブルクロスを畳む。
馬剃さんは四つ折りにして、さらに半分にして、角をきっちり合わせた。
合わせながら、一言も喋らなかった。
「馬剃さん」
「はい」
「何組でした?」
「四十六組です」
「目標超えましたね」
「超えました」
「すごいな」
「……内訳を申し上げます」
馬剃さんが、手帳を開いた。
ぱ、とページが鳴った。いつもより五割ほど鋭い音だった。
「私の対応が、二十九組。あなたが、十七組」
「はい」
「うち、一組に、三十七分」
「はい」
「その三十七分間、私の対応組数は、ゼロです」
「……はい」
「ブースの前に立たれていた高校生は、その間、四名います。四名とも、二分以内に離れました」
――それは。
それは、俺のせいだ。
完全に俺のせいである。
「すいませんでした」
「業務上の損失については、以上です」
馬剃さんは手帳を閉じた。
閉じてから、閉じた手帳を、指先で二回叩いた。
「……業務外の報告も、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「本日、あなたが声を出して笑った回数は、十一回です」
俺は、テーブルクロスを持ったまま止まった。
「通常の勤務日における平均は、三回です」
「測ってたんですか」
「記録です」
「業務外って言いましたよね、いま」
「事実は変わりません」
「……はい」
「それから、名刺です」
「名刺」
「本日、高校生に配付された枚数は、三枚」
「あー」
「私が同行した相談会は、通算十一件です。そのうち、あなたが生徒に名刺をお渡しになったのは、本日が初めてです」
「あれは、その」
「なお、私は、まだ一枚も渡しておりません」
「……はい」
「見損ないました」
「重い」
「重くありません」
「重いですって。名刺三枚ですよ」
「三枚です」
馬剃さんは、テーブルクロスの角を、きっちり合わせた。
「渡す機会が、ありませんでしたので」
「……はい」
「三十七分間、私の前には、誰も座りませんでしたので」
「はい」
「二回言いました」
「言いましたね」
「言いたかったので」
「……はい」
「温水主任」
「はい」
「あなたは、昔から、手当たり次第です」
「出た」
「十六年前からです」
「その評価、まだ生きてるんですか」
「更新されていません」
「更新してください」
「本日、更新の機会がありました」
馬剃さんは、封筒の角をきっちり合わせた。
「三十七分ありました」
「馬剃さん」
「はい」
「今日、四十六組いったの、開場二十分で二席とも回すって決めたからですよ」
「……そうでしょうか」
「そうです。俺が立って三点聞いてたぶん、全部あの判断です」
馬剃さんの手が、止まった。
ふくれていた頬が、す、と元に戻った。
「……恐れ入ります」
「いえ」
「あの、その、そこまでのことでは」
「そこまでのことです」
「…………」
三秒。
馬剃さんは、封筒を抱えたまま、床の一点を見ていた。
――沈んだ。
三十七分ぶんの怒りが、褒め言葉一つで三秒である。
為替でもこんなに急には動かない。
「……いま」
馬剃さんが顔を上げた。
「いま、私を、収めにきましたね」
「はい」
「認めるんですか」
「認めます」
「安い人間だと思われています」
「思ってないです」
「思っています。私は、いま、自分でも安いと思いました」
「自己申告しなくていいんですよ、そういうのは」
「事実は変わりません」
馬剃さんは、封筒を、ぎゅ、と抱え直した。
「……もう一度、怒ります」
「戻るんですか」
「戻ります。まだ終わっていませんので」
出た。
馬剃さんは、頬をわずかに膨らませていた。
わずかに、である。
本人はたぶん、完全に無表情でいるつもりだ。無表情の定義を、この人だけが間違えている。
資料請求の登録カードを封筒にまとめていて、三枚出てきた。
三人組のぶんである。
全員、書いていた。三人とも、同じ高校、同じ二年、同じ日付。
クッキーの子の自由記入欄には、『学食のカレー、確かめに行きます』。
跳ねている子は、『陸上部の練習環境について知りたいです』。
隠れている子のカードだけ、字が小さかった。
『小説を書いています。文芸部はありますか』
俺は、そのカードを、しばらく見ていた。
「……あります、って書いてやりたいな」
「ありますよ」
馬剃さんが、横から言った。
「本学の文芸サークルは、現在、部員十四名です。年二回、部誌を発行しています」
「調べてたんですか」
「三十七分のあいだに」
「……暇だったんですね」
「暇でした」
「あの子の小説、どんなの書いてるんですかね」
「……ジャンルは、お聞きになりましたか」
「聞いてないです」
「そうですか」
「なんでいま、残念そうな顔したんですか」
「していません」
「してました」
「調査上の関心です」
言い切った。
言い切って、それから、少し早口になった。
「返信は、私が書きます」
「え」
「あなたが書くと、長くなりますので」
「長くならないですよ」
「なります。あなたは、あの子に、四年間やっていいと言いました」
馬剃さんは、カードを三枚そろえて、封筒に入れた。
入れてから、封筒の口を、指で二回、揃えた。
「……言われた側は、二年間、覚えていますので」
「二年?」
「例示です」
例示ではないと思う。
馬剃さんは、封筒をファイルに挟んで、それから、机の脚の高さで一度、視線を止めた。
「あの三人は、同じ部活だそうですね」
「そうみたいですね」
「同じ部誌に、同じ締切で、原稿を落とすわけですね」
「そうなりますね」
「……いいですね」
俺は、テーブルクロスを畳む手を止めた。
馬剃さんは、こちらを見ていなかった。
畳んだクロスの角を、指で押さえていた。
押さえる必要のない角だった。
「私は、あの部屋に、呼ばれたことがありません」
――ああ。
俺は、そこでようやく、今日の三十七分の正体に追いついた。
この人が見ていたのは、俺と高校生ではない。
同じ部で、同じ締切を守れずに、同じ表紙に時間をかける三人組のほうだった。
「……馬剃さん」
「二回、行きました。一回目は没収で、二回目は抗議です」
「覚えてます」
「どちらも、私は生徒会でした」
彼女は、そこで一度、息を吸った。
「あなたは、文芸部でした」
俺は、何も言わなかった。
言えることが、一つもなかったからである。
「温水主任」
「はい」
「一つ、事実確認をさせてください」
「どうぞ」
「一年生の三学期に、私はあなたを勧誘しました」
――あ。
背中の内側を、すう、と冷たいものが降りていった。
「当選したら、副会長になっていただきたいと申し上げました」
「……言われました」
「あなたは、断りました」
「断りました」
「回答までの所要時間は、〇・五秒です」
「測ってたんですか」
「十六年、覚えています」
馬剃さんは、そこで初めて、まっすぐこちらを見た。
目は、赤くなかった。
声も、まったく震えていなかった。
ただ、頬が、はっきりと膨れていた。
「あなたの隣は、常に、別の所属の人でした」
「……はい」
「私は、生徒会でした」
「はい」
「十六年、生徒会でした」
それは、たぶん、比喩だった。
省の十年も含めて、この人はずっと、規則の側に立っていた。
規則の側に立っている人間は、部室に呼ばれない。呼ばれても、没収に来た人として扱われる。
俺は、テーブルクロスを箱に入れた。
入れてから、言った。
「馬剃さん」
「はい」
「いま、同じ課ですよ」
馬剃さんの動きが、止まった。
「……はい」
「同じ島の、隣の席で」
「はい」
「同じ相談会に、同じ封筒持って来てるでしょ」
「……はい」
「十六年かかりましたけど」
馬剃さんは、返事をしなかった。
しなかったが、封筒を抱え直す手が、少しだけ速かった。
「……あの三人には、負けています」
「なんの話ですか」
「三十七分と、ゼロ分の話です」
「まだ言うんですか」
「言います」
「はい」
「今日は、ずっと言います」
十七時三十五分。
駅のホームで、俺は自販機の前に立った。
缶コーヒーが二種類あって、片方が百六十円、片方が百五十円だった。
「十円、違いますね」
「違いますね」
「事実確認は、一生ものですので」
「言うと思った」
俺は安いほうを二本買って、一本を渡した。
馬剃さんは両手で受け取って、ひと口飲んで、眉を寄せた。
「……まずいです」
「知ってる」
十七時十五分は、とっくに過ぎている。
「温水さん」
「うん」
「一つ、事実確認をさせてください」
「どうぞ」
「あなたは十六年前、私を、下の名前で呼びました」
「……呼びました」
「私は、怒りました」
「めちゃくちゃ怒られました。校則の話までされた」
「はい」
ホームに、電車の接近を知らせる音が流れた。
馬剃さんは、缶を両手で持ったまま、前を向いていた。
「……いまは、怒りません」
俺は、缶を持ったまま止まった。
三文字である。
三文字を口の中で一度だけ組み立てて、俺はそれを、そのまま飲みこんだ。
――選択肢は、消えていない。
俺は自分にそう言った。
いま選ばなかっただけで、選択肢はまだそこにある。ギャルゲーとはそういうものだ。
……消えている。
十六年前に一度、これは消えている。
消えたものが、いま、もう一度表示されているだけだ。表示されている時間が有限であることを、俺はこの十六年で学んだはずだった。
「温水さん」
「うん」
「もう一つ、お願いがあります」
「どうぞ」
「次の相談会ですが」
馬剃さんは、缶を両手で持ったまま、前を向いていた。
「席を、隣にしてください」
「隣だったろ、今日も」
「…………」
馬剃さんは、缶に口をつけた。
つけてから、離した。飲んでいなかった。
「もっと、隣です」
電車が来た。
土曜の夕方の電車は、思ったより混んでいた。
ドアの横に二人で立つと、肩が触れそうな距離になる。
馬剃さんは吊革を持たずに、封筒のファイルを両手で抱えていた。
かすかに、香りがした。
控えめな、化粧の匂いだった。
――知ってる。
十六年前の、カラオケの個室で嗅いだのと、たぶん同じ系統である。
そこまで覚えている自分に、俺は少しだけ、本気で引いた。
俺は、いつものように、思考を止める作業に取りかかった。
三十秒で終わるはずの作業だった。
乗り換えの駅を、二つ通り過ぎた。