大学職員の僕たち   作:房吉

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~20敗目~ 焼き加減に関する認識の相違

 (十月三十一日/温水視点)

 

 十月三十一日、金曜日、十四時二十分。

 

 スマホが震えた。

 

 『十九時。駅前の焼肉。二人とも。』

 

 拒否権の欄は、三回目も、なかった。

 

 一回目は六月、学食の二階。

 二回目は八月、盆明けの月曜。

 

 二回とも、俺は行った。

 

 行かなかった場合に何が起きるかを、俺は十六年前に一度だけ確認している。

 確認した結果は、ここには書かない。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「いま、私にも、同じものが届きました」

 

「だろうね」

 

「『二人とも』とは」

 

「俺と、馬剃さん」

 

「なぜ、私の予定を確認せずに」

 

「八奈見さんだから」

 

「理由になっておりませんっ」

 

「なるんだよ、これが」

 

 天愛星さんは、手帳を開いた。

 

 開いて、十九時の欄を見た。

 空欄である。空欄なのに、三秒見ていた。

 

「……本日の残務は、十八時十分に片づく見込みです」

 

「行くんだ」

 

「行きます。断る根拠がありません」

 

「根拠、いる?」

 

「要りますっ」

 

 

 

 

 十九時二分、駅前。

 

 店は、一階が煙で白かった。

 

 二階の座敷に上がると、いちばん奥の卓に、すでに人がいた。

 

 いて、すでに焼いていた。

 

「はい、お疲れ。座って座って」

 

「……八奈見さん」

 

「頼んどいたよ。とりあえず六人前」

 

「三人だよね」

 

「うん、三人。だから六人前」

 

「計算が」

 

「合ってるって。あたしが四人前だから」

 

 網の上では、すでに肉が並んでいた。

 

 右から三枚が牛カルビ、真ん中が豚トロ、左の二枚が鶏である。

 

 鶏が、いちばん赤かった。

 

 俺は、そこから目を離せなくなった。

 

 鶏である。

 

 鶏には、他の肉と違って、譲れる範囲がない。

 牛は表面、豚は中心、鶏は全部である。

 

 全部が、赤かった。

 

 赤いというより、生である。

 

 生というより、まだ鶏である。

 

 俺は、その二枚に「まだ鶏」という名前をつけて、視界の端に置いた。

 

 名前をつけると、目が離せなくなる。

 これは、俺の欠点である。

 

「馬剃さんも座って。奥どうぞ」

 

「恐れ入ります」

 

「かたっ!」

 

「……失礼しました」

 

「謝るとこじゃないって」

 

 天愛星さんが、正座した。

 

 座敷である。座敷なので、正座した。

 誰も正座していない座敷で、一人だけ正座していた。

 

「馬剃さん、崩していいよ」

 

「規則上、問題がありますか」

 

「規則ないよ、焼肉に」

 

「……では、崩します」

 

 崩さなかった。

 

 

 

 

 十九時六分。

 

 

 

 

 俺は、この時刻を覚えておくことにした。

 

 人間の下肢の血流が正座によって遮断された場合、感覚の異常が生じるまでの目安は、およそ二十分と言われている。

 

 言われているというのは、俺が中学の修学旅行で得た知見である。

 知見は、いまも更新されていない。

 

 二十分後は、十九時二十六分である。

 

 

 

 

 注文の説明が終わって、八奈見さんがジョッキを持った。

 

「じゃ、乾杯」

 

「乾杯」

 

「乾杯です」

 

「何に乾杯するの」

 

「あたしの十一店舗に」

 

「あの、八奈見さん」

 

「なに」

 

「焼くのは、どなたが」

 

「あたし」

 

「……交代等は」

 

「ない」

 

「では、私が」

 

「なんで」

 

「加熱管理は、責任者を一名に定める必要があります」

 

「誰が定めたの」

 

「――私ですっ」

 

「出た」

 

 

 

 

 焼肉屋のテーブルに、管轄が発生した。

 

 

 

 

 俺は、頭の中で議事録を取ることにした。

 

 議題一、焼き加減。

 議題二、管轄。

 

 二時間後、議題は九つになる。

 決定事項は、ゼロである。

 

「……十一?」

 

「増えた。九月に二つ増えた」

 

「増えたのは、いいことでは」

 

 天愛星さんが、そう言った。

 

 言った瞬間に、八奈見さんがジョッキを置いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いいことって、誰が言った?」

 

「……本部の方が、そうおっしゃるのでは」

 

「本部は言うよ。言うだけ」

 

「…………」

 

「人、増えてないんだよね」

 

 

 

 

 そこから、二時間である。

 

 

 

 

 俺は、途中から話題の変わった回数を数えることにした。

 

 数えないと、耐えられない量だったからである。

 

 結果を先に書いておくと、十九回だった。

 

 順に挙げる。鶏むねの値段、人手、三日で辞めた子、口コミの星、本部の課長、キャベツ、シフトの穴、健康診断の受診率、洗浄機の故障、社内の異動、去年の暮れの繁忙、パートさんの子どもの受験、駐車場の契約更新、九月に増えた二店舗、制服のサイズ展開、労基署の指導、自分の腰、休日の使い道。

 

 十八である。

 

 十九回目は、二十時五十一分に来た。

 

 来て、そこで、全部止まった。

 

 

 

 

「まず鶏むねね。去年の同じ月と比べて、二割上がってんの」

 

「二割」

 

「二割。で、本部から来る原価率の目標は、去年と同じ」

 

「……据え置き、ですか」

 

「据え置き。据え置きって言葉、あたし嫌いになった」

 

「据え置きは、行政でも多用されます」

 

「馬剃さん、いま慰めてる?」

 

「事実を申し上げました」

 

「慰めになってないよ」

 

「……失礼しました」

 

「あと三日で辞めた子がいて」

 

 話題が、変わった。

 

 一回目である。

 

「三日」

 

「三日。初日に厨房入って、二日目に洗い場で、三日目の朝にLINE」

 

「……LINEで」

 

「LINEで。あたし、その子の顔、二回しか見てない」

 

「引き止めは」

 

「したよ。既読つかなかったけど」

 

 八奈見さんは、そこでカルビを一枚返した。

 

 返して、そのまま自分の皿に取った。

 

 三秒である。

 

 片面三秒で、皿に行った。

 

「あの、八奈見さん」

 

「なに」

 

「それ、まだ」

 

「まだ?」

 

「……いや」

 

 俺は、そこで口を閉じた。

 

 二十年前から知っている。

 この人に「まだ生だ」と言っても、意味がない。

 

 

 

 

 肉の焼き方には、派閥がある。

 

 俺は、じっくり育てる派である。

 

 両面を焼いて、色が変わって、それから十秒待つ。

 十秒待った肉は、噛んだときに肉汁の出方が違う。

 

 高校の合宿で、俺はこの派閥に一人しかいなかった。

 

 三十四歳になって、状況は改善していない。

 

 

 

 

 肉には、時間がある。

 

 

 

 

 網に置かれた瞬間から、その一枚に固有の時間が流れはじめる。

 流れはじめた時間を途中で断ち切るのは、俺の中では暴力に分類される。

 

 ――と、高校一年の夏に思った。

 

 思ってから十八年、俺はこの思想を一度も他人に説明していない。

 

 説明しても、採用されないからである。

 採用されない思想を、俺は十八年、一人で運用している。

 

「口コミも見たんだけどさ」

 

 話題が変わった。二回目。

 

「星が三・二なの。三・二だよ」

 

「……低いのですか」

 

「低くはない。低くはないんだけど、去年三・六だったの」

 

「〇・四です」

 

「〇・四。で、下がった理由が『店員の態度』」

 

「態度」

 

「態度。誰の態度だと思う?」

 

「……従業員の方でしょうか」

 

「あたしだよ」

 

「え」

 

「八月に一回、あたしが入ったの。人が足りなくて」

 

「……エリアマネージャーが、現場に」

 

「入ったら怒られるんだけどね、本部に。でも入るじゃん、人いないんだから」

 

「入りますね」

 

「入るよね」

 

「あと、本部の課長がさ」

 

「はい」

 

「先月、視察に来たの。十五分いた」

 

「十五分」

 

「十五分で、『活気がないですね』って」

 

「……十五分で、何を見て」

 

「知らない。あたしも聞きたい」

 

「所要時間に対して、結論が大きすぎます」

 

「そう! そうなんだよ!」

 

「……失礼しました。つい」

 

「いいよ、もっと言って」

 

「では、申し上げます。十五分の滞在で店舗の状態を評価する場合、対象は導線と掲示物と在庫棚に限られます。活気は、指標化されておりません」

 

「馬剃さん、それ来月の会議で言っていい?」

 

「引用元は、明示してください」

 

「明示するの?」

 

「出典の明示は、基本ですっ」

 

「馬剃さん、頭いいね」

 

「――そ、そんなことは」

 

「いや、ほんとに。助かる」

 

「……お、恐れ入りますっ」

 

 

 

 

 天愛星さんの背筋が、二センチ伸びた。

 

 

 

 

 この人は、褒められると、まず背筋が伸びる。

 

 伸びたあと、三十秒くらい機嫌がいい。

 三十秒しか持たないので、こちらは常に補充が必要になる。

 

 八奈見さんは、その三十秒のあいだに、天愛星さんの皿からカルビを一枚取った。

 

「あ」

 

「なに?」

 

「……いえ」

 

 補充のコストが、回収されていた。

 

 

 

 

 高校のとき、この人の喋り方は、もっと軽かった。

 

 軽くて、速くて、途中で自分で笑っていた。

 

 いまは、速さだけが同じで、軽さが減っている。

 

 減ったぶんに何が入ったのかは、たぶん本人にも説明できない。

 説明できないものの重さが、十一店舗ぶんある。

 

 八奈見さんは、豚トロを返した。

 

 返して、また皿に取った。

 

 俺は、その豚トロの断面を見てしまった。

 

 ……ピンクだった。

 

「で、その日、あたし十四時間立ってて、たぶん最後のほう顔が死んでたの」

 

「……」

 

「『店長らしき女性が無愛想』って書かれた」

 

「店長では、ないのですよね」

 

「店長じゃない。でも、そう見えたってことでしょ」

 

「…………」

 

「あのさ」

 

「はい」

 

「三・二って、なんかもう、あたしの人格みたいじゃない?」

 

 

 

 

 三回目の話題転換は、そこで止まった。

 

 

 

 

「三・二は、平均を上回っています」

 

 天愛星さんが、そう言った。

 

「え」

 

「飲食店の口コミ評価の中央値は、おおむね三・二から三・四です。三・二は、平均です」

 

「なんで知ってんの」

 

「四月に、学食の業者選定の資料を作りました」

 

「あー」

 

「その際、比較指標として四十六店舗ぶんを調べました」

 

「四十六」

 

「四十六です」

 

「馬剃さん、それ仕事?」

 

「業務です」

 

「……そこまでやる?」

 

「やります」

 

 八奈見さんが、俺を見た。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「この人、こういう人なの?」

 

「そう」

 

「毎日?」

 

「毎日」

 

「大変じゃない?」

 

「大変だよ」

 

「大変ではありませんっ」

 

 

 

 

 天愛星さんは、二時間で三回、姿勢を直した。

 

 一回目は、八奈見さんが本部の話をしたとき。

 二回目は、三日で辞めた子の話のとき。

 

 三回目は、まだ来ていない。

 

 

 

 

 二十時二分。

 

 網が、一度空になった。

 

 俺は、そこで動いた。

 

 

 

 

 網の右奥に、まだ手をつけられていないカルビが一枚、残っていた。

 

 俺は、それを中央に移した。

 

 中央は、火が均一である。

 均一な場所で、片面を四十秒。

 

 

 

 

 ――節子。

 

 

 

 

 俺は、そう名付けた。

 

 三十四歳が焼肉屋で肉に名前をつけるのは、社会的に問題がある。

 

 問題があるが、名前をつけないと、守る理由が生まれない。

 

 

 

 

 節子は、片面が香ばしく焼きあがった。

 

 

 

 

 人間でいえば、小学校の入学式である。

 

 赤いランドセルが、よく似合う。

 少し大きめのランドセルを背負って、校門の前で写真を撮る。母親が泣く。

 

 俺は、節子を裏返した。

 

 中学に上がった。

 

 端がわずかに反り返っている。反抗期である。

 部屋に鍵をかけるようになり、味付けの話をしなくなった。

 

 あと二十秒で、成人式だ。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「その肉、動かしましたね」

 

「……はい」

 

「なぜですか」

 

「火が、均一だから」

 

「……根拠のある行動です」

 

「うん」

 

「よい行動です」

 

「ありがとう」

 

 三回目が、来た。

 

 姿勢を直して、体ごと網のほうを向いた。

 

 この人は、守るべき対象が発生すると、まず姿勢から入る。

 

 天愛星さんが、網を見た。

 

 見て、スマホを出した。

 

 出して、画面を伏せて、テーブルに置いた。

 

「なにそれ」

 

「タイマーです」

 

「タイマー?」

 

「豚肉は、中心温度七十五度で一分以上の加熱が必要です。厚生労働省が示しています」

 

「……出た」

 

「牛肉の表面加熱についても、同様の指針があります」

 

「馬剃さん、焼肉屋で厚労省の話する?」

 

「します」

 

「する人、初めて見た」

 

 俺は、少し感動していた。

 

 十六年、この派閥は俺一人だと思っていた。

 

 同盟が、いま、できた。

 

 結成の経緯は、厚生労働省の指針である。

 

 指針を根拠にした同盟が、この世でいちばん脆いことを、俺はまだ知らなかった。

 

 同盟の寿命は、四十秒だった。

 

「あ、これ食べちゃうね」

 

「――」

 

 八奈見さんの箸が、節子を攫った。

 

 三十八秒である。

 

 あと二十二秒だった。

 

 

 

 

 走馬灯が流れた。

 

 

 

 

 入学式。運動会の徒競走、五人中四位。三者面談。

 

 三者面談で、担任は言った。

 「この子は、火の通りがいい子です」

 

 いい子だった。

 

 いい子は、二十二秒足りないまま、他人の箸の上にいる。

 

「――七十五度に達しておりませんっ!」

 

「達してるって」

 

「達しておりませんっ! 根拠は、加熱時間ですっ」

 

「あたし、二十年これで生きてるけど」

 

「二十年生きたことは、安全性の根拠になりませんっ」

 

「なんないの?」

 

「なりませんっ。それは生存者バイアスですっ」

 

「なにそれ、こわ」

 

「こわいのは、そちらですっ」

 

 天愛星さんの声が、隣の卓まで飛んだ。

 

 隣の卓の四人が、こちらを見た。

 見て、すぐ目を戻した。慣れている顔だった。

 

 八奈見さんは、節子を箸で持ったまま、にっこり笑った。

 

「ふーん」

 

「なんですかっ」

 

「馬剃さん、その肉、そんなに気になる?」

 

「衛生管理の問題ですっ」

 

「へー」

 

「へー、とは」

 

「べつに」

 

 八奈見さんは、節子を自分の口に運ばなかった。

 

 運ばずに、俺のほうへ差しだした。

 

「食べたいなら言えばいいのに。はい、あーん」

 

 

 

 

 時間が、止まった。

 

 

 

 

 俺は、二十年前と同じ姿勢で固まった。

 

 二十年前は、周りを確認してから口を開けた。

 

 今回は、確認する必要がなかった。

 右隣に、確認すべき対象が座っていたからである。

 

 その対象が、立ち上がった。

 

 座敷で、正座から、一動作で立った。

 

 一動作で立てたのは、そこまでだった。

 

 立った〇・四秒後、天愛星さんの膝が、内側に折れた。

 

 折れて、俺の肩を掴んだ。

 

 掴んだまま、宣言した。

 

「――規程に、抵触しますっ!」

 

「なんの規程」

 

「本学の、ハラスメント防止規程第四条ですっ」

 

「あたし、本学の職員じゃないけど」

 

「――受託事業者は、準用対象ですっ!」

 

「準用」

 

「準用ですっ! 仕様書の第十二条に、明記されておりますっ」

 

「馬剃さん、仕様書覚えてんの」

 

「覚えておりますっ」

 

「あのさ」

 

「なんですかっ」

 

「いま、温水君の肩、掴んでるよね」

 

「――っ」

 

「それは規程どうなの」

 

「これは、転倒防止ですっ」

 

「転倒」

 

「正座に起因する一時的な下肢の感覚異常ですっ」

 

「痺れてるって言えばよくない?」

 

「――痺れておりませんっ!」

 

 痺れていた。

 

 十九時六分から、一時間二十三分である。

 目安の、四倍である。

 

 八奈見さんが、箸を下ろした。

 

 下ろして、頬杖をついた。

 

 頬杖をついたまま、俺と天愛星さんを三往復、見た。

 

 三往復目で、笑った。

 

「ヘーえ」

 

 

 

 

 議題四、肩に置かれた手の法的性質。

 

 

 

 

 この人の戦い方は、十六年前から一貫している。

 

 

 

 

 自分からは攻めない。

 

 相手に言わせて、言った内容で相手を縛る。

 縛ってから、笑う。

 

 高校のとき、俺はこれを詰め将棋と呼んでいた。

 

 呼んでいただけで、対策は立てられなかった。

 いまも、立っていない。

 

 

 

 

 ――出た。

 

 

 

 

 この音は、十六年前から一切変わっていない。

 

 語尾がわずかに上がり、母音が長い。

 この音が出たとき、この人は、すでに全部分かっている。

 

「じゃあ、馬剃さんがやれば?」

 

「……は」

 

「同じ課でしょ。衛生管理も同じでしょ」

 

「そ、それは」

 

「規程、抵触しないよね。同じ職場だもん」

 

「――抵触しますっ!」

 

「するんだ」

 

「しますっ! 同一所属であることは、免責事由になりませんっ」

 

「詳しいね」

 

「――詳しくありませんっ!」

 

 詳しかった。

 

 俺は、それを言わないでおいた。

 

 

 

 

 八奈見さんは、節子を自分の口に入れた。

 

 入れて、二回噛んで、飲んだ。

 

「うん、生」

 

「生ですかっ」

 

「生。でも美味しい」

 

「――回収しますっ!」

 

「もうないよ」

 

「…………」

 

「はい、馬剃さんもこれ食べて」

 

「結構です」

 

「食べなって。あのね、焼肉のカロリーって、割り勘した人数で割るの」

 

「割れません」

 

「割れるの。三人で割ったら、三分の一でしょ」

 

「総量は、変わりませんっ」

 

「変わるって。会計が三等分なんだから、カロリーも三等分」

 

「会計とカロリーは、独立した概念ですっ」

 

「じゃあ馬剃さん、あたしが食べたぶんのお金、払うよね」

 

「……払います」

 

「じゃあカロリーも持ってるじゃん」

 

「持っておりませんっ!」

 

「持ってるって。はい、実物」

 

 

 

 

 ホルモンだった。

 

 

 

 

 八奈見さんの箸が、天愛星さんの口に、それを入れた。

 

 入れた。

 

 物理的に、入れた。

 

「――んっ」

 

「ほら、持った」

 

「ん、んんっ」

 

「一人前六百八十キロカロリーね。三で割って、二百二十六・六」

 

「……っ、ん」

 

「はい、あと二回で計算合うから」

 

「――んんんっ!」

 

 

 

 

 議題三、カロリーの帰属。

 

 

 

 

 天愛星さんは、二十秒かけてそれを飲みこんだ。

 

 飲みこんで、湯呑みの茶を一気に飲んだ。

 

 飲んでから、姿勢を正した。

 

「八奈見さん」

 

「なに」

 

「いまの計算には、誤りがあります」

 

「まだやるんだ」

 

「六百八十を三で割ると、二百二十六・六六六です。切り捨ての根拠がありませんっ」

 

「馬剃さん、そこ?」

 

「そこですっ」

 

 

 

 

 俺は、この人の負けん気が好きだ。

 

 

 

 

 好きなのだが、いま争っているのは、小数点第三位である。

 

 

 

 

 俺は、節子のことを考えていた。

 

 

 

 

 中央に移して、四十秒。

 あと二十二秒あれば、いい肉になっていた。

 

 なる前に、消えた。

 

「温水君」

 

「……はい」

 

「で、いくらつける?」

 

「……え」

 

「いまの、あーん。いくら」

 

 

 

 

 ――これだ。

 

 

 

 

 二十年前も、この人はこれをやった。

 

 ウブな少年を演じさせて、その反応で遊ぶ。

 遊んで、値段をつけさせて、こちらが赤くなるのを見る。

 

 三十四歳になっても、同じ手を使ってくる。

 

 同じ手なのに、効く。

 

 

 

 

 効く理由は、たぶん、こちらが十六年ぶん学習していないからではない。

 

 

 

 

 学習しても、この人は毎回、少しずつ手を変えてくる。

 

 二十年前は、周りに人がいる場所でやった。

 今日は、右隣に一人だけいる場所でやった。

 

 人数を減らすと、逃げ場が減る。

 

 ……計算されている。

 

「……つけません」

 

「なんで」

 

「経費で落ちないから」

 

「うまいこと言うじゃん」

 

「用度で覚えた」

 

「用度、そういうこと教えるの」

 

「支払えないものは、値段をつけない部署です」

 

 天愛星さんが、そこで小さく息を吐いた。

 

 吐いてから、湯呑みを両手で持って、中身を見ていた。

 

 中身は、たぶん、見えていなかった。

 

 

 

 

 二十時三十四分。

 

 追加の肉が来た。

 

 俺は、今度は三枚まとめて中央に置いた。

 

 

 

 

「あのさ、馬剃さん」

 

「はい」

 

「温水君と、いつも何してんの」

 

「業務です」

 

「業務」

 

「業務ですっ」

 

「七月、なんか一緒にやってたって聞いたけど」

 

「――どこから」

 

「本人から」

 

「温水さんっ!」

 

「言ってない」

 

「言ったよ、四月に。学食で」

 

「四月にはまだ七月が来てないんだよ」

 

「あ、そっか」

 

「なんですか、いまのはっ」

 

「かまかけただけ」

 

「――八奈見さんっ!」

 

 鮮やかだった。

 

 高校時代、俺はこの手口で三回落ちている。

 

 落ちるたびに、次は気をつけようと思った。

 三回とも、思っただけだった。

 

「で、七月なにしてたの」

 

「……十一日間、同じ席におりました」

 

「へー」

 

「業務外です」

 

「業務外なんだ」

 

「――業務ではありませんが、必要な行為でしたっ」

 

「必要」

 

「必要ですっ」

 

 八奈見さんは、ジョッキを持った。

 

 持って、飲まずに置いた。

 

「あたしさ」

 

「はい」

 

「十六年前、毎日おんなじ教室にいたんだよね。温水君と」

 

「……存じております」

 

「三百日くらい? いや、もっとか」

 

「二年生の在籍日数は、おおむね二百日です」

 

「二百日か」

 

「二百日です」

 

「馬剃さんの十一日より、多いね」

 

 

 

 

 天愛星さんの湯呑みが、かたん、と鳴った。

 

 

 

 

「……現在の話をしております」

 

「うん、知ってる」

 

「では、なぜ」

 

「なんとなく」

 

「なんとなくで、そのような比較をなさいますかっ」

 

「するよ。あたし、そういうとこあるから」

 

 自己申告だった。

 

 この人は、自分の性格の悪いところを、いつも自分から申告する。

 申告してから、堂々とやる。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「怒ってる?」

 

「怒っておりません」

 

「顔、赤いけど」

 

「――焼肉ですっ」

 

「うん、焼肉だね」

 

「焼肉の熱ですっ」

 

「そういうことにしとくね」

 

「そういうことですっ」

 

 二十時五十一分。

 

 話題の転換は、そこまでで十九回だった。

 

 二十回目が、来なかった。

 

 

 

 

 八奈見さんが、網を見ていた。

 

 網の上には、何もなかった。

 なくなってから、たぶん、二分は経っていた。

 

「注文、しますか」

 

 俺が言うと、八奈見さんは首を振った。

 

「んー、いい」

 

「珍しいですね」

 

「珍しくないよ」

 

「珍しいです」

 

「……珍しいか」

 

 

 

 

 八奈見さんは、ジョッキの底のほうを指でなぞった。

 

「あのさ」

 

「うん」

 

「うちの担当エリアに、一店舗、古いのがあって」

 

「はい」

 

「工場の食堂なんだけど。三十年やってるとこ」

 

「はい」

 

「そこ、十一月三十日で終わり」

 

 

 

 

 俺は、何も言わなかった。

 

 

 

 

 天愛星さんも、何も言わなかった。

 

 

 

 

 言わないことは、たぶん、正しかった。

 

 この人が「うん」以外の相槌を求めていないとき、それは顔に出る。

 

 高校のとき、俺はそれを三回読み違えた。

 三回とも、そのあと一週間、口をきいてもらえなかった。

 

 十六年経って、俺は、読み違えない側になった。

 

 なった代わりに、何も言えない側にもなった。

 

「工場が縮小になるの。うちが悪いわけじゃない。工場が悪いわけでもない」

 

「はい」

 

「決まったのは八月」

 

「……八月」

 

「うん。あたし、八月から知ってた」

 

 八奈見さんは、指を止めた。

 

「そこにね、二十二年いるパートの人がいて」

 

「二十二年」

 

「小田さんっていうの。あたしより年上。ずっと同じ厨房」

 

「はい」

 

「その人に、来週、言わなきゃいけない」

 

 

 

 

 網が、音を立てた。

 

 

 

 

 油の残りが、はぜた音である。

 

 その音以外、しばらく、何もなかった。

 

 

 

 

 俺は、この二時間を、頭の中で巻き戻していた。

 

 

 

 

 鶏むねの二割。三日で辞めた子。星の三・二。十五分の課長。洗浄機。腰。

 

 全部、十一店舗のうちの、十店舗の話だった。

 

 残りの一店舗の話だけが、二時間、出てこなかった。

 

 出てこないものが、いちばん大きい。

 

 俺は、それを八月に学んでいる。

 

「……八奈見さんは」

 

 天愛星さんが、口を開いた。

 

「はい」

 

「その話をされるために、私たちを呼ばれたのですか」

 

「んー」

 

「違いますか」

 

「違わないけど」

 

「はい」

 

「しないよ、この話」

 

「……いま、しておられます」

 

「してない。ここまでは前置き」

 

 八奈見さんは、そこで笑った。

 

 笑った顔が、二時間で初めて、うまくできていなかった。

 

「言うとさ、決定になっちゃうから」

 

 

 

 

 ――ああ。

 

 

 

 

 この人は、二時間、そのために喋っていた。

 

 鶏むねの二割も、三日で辞めた子も、星の三・二も、全部、中心を埋めないための材料だった。

 

 中心を空けたまま、周りだけ喋る。

 

 俺は、この構造を知っている。

 

 八月二十九日に、俺は同じ構造の話を、二時間半聞いた。

 

 あのときも、中心は空いていた。

 

 空いた中心の周りを、あの人は、規程と数字と手帳の話で埋めつづけた。

 埋めきったところで、時間が来た。

 

 俺は、何も言わなかった。

 

 言わなかったのが正しかったのかどうかは、いまも分からない。

 

 分からないので、今日も、同じことをする。

 

 同じことをするしか、たぶん、俺にはできない。

 

 できることが一つしかないというのは、悪いことではない。

 悪いことではないと、六月に、誰かに教わった。

 

「肉、頼みます」

 

「え」

 

「四人前で」

 

「多くない?」

 

「八奈見さんが四人前だから」

 

「……そっか」

 

「そう」

 

「じゃ、六人前ね」

 

「増えた」

 

「増えたよ」

 

「八奈見さん」

 

「なに」

 

「今日は、俺が出します」

 

「なんで」

 

「肉、頼んだの俺だから」

 

「へー」

 

「なんですか」

 

「べつに」

 

 

 

 

 この人は、三十四歳になっても、断り方を教えてくれない。

 

 教えてくれないので、こちらは、いつも払う準備だけして待つことになる。

 

 

 

 

 肉が来るまでの三分、天愛星さんは何かを考えていた。

 

 考えて、鞄から手帳を出した。

 

 出して、開いて、閉じた。

 

 閉じてから、口を開いた。

 

「八奈見さん」

 

「なに」

 

「その方は、二十二年、いらしたんですね」

 

「うん」

 

「では、二十二年ぶんの引き継ぎが、必要です」

 

「……引き継ぎ?」

 

「はい」

 

「引き継ぐとこ、ないよ。店なくなるんだから」

 

「あります」

 

「どこに」

 

「その方の中にです」

 

 

 

 

 八奈見さんが、顔を上げた。

 

 

 

 

「二十二年、同じ厨房にいらした方は、書類に残っていないものを持っています。誰がいつ来るか。どの鍋が焦げやすいか。誰が味を薄くしたがるか」

 

「……そりゃ、持ってるけど」

 

「私の職場では、それを三枚の紙にまとめさせます」

 

「三枚」

 

「三枚です」

 

「二十二年が、三枚?」

 

「足りません」

 

「足りないじゃん」

 

「足りないと分かっていて、書かせます」

 

「……なんで」

 

 天愛星さんは、手帳の角を、指で二回そろえた。

 

「書いた人が、忘れないためです」

 

 

 

 

 網の音が、また、はぜた。

 

 

 

 

 八奈見さんは、しばらく何も言わなかった。

 

 言わないまま、ジョッキを持って、飲んだ。

 

 飲んで、置いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、来週の月曜に使っていい?」

 

「どうぞ」

 

「ありがと」

 

「いえ」

 

「……あんときの馬剃さん、そんなこと言う人じゃなかったのにな」

 

「十六年、経っております」

 

「経ったねー」

 

「経ちました」

 

「ところで馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日、あたしの勝ちでいい?」

 

「――何の話ですかっ」

 

「べつに」

 

「勝敗のつく議題は、本日一件もありませんっ」

 

「あー、うん。そうだね」

 

「そうですっ」

 

「……全部あたしが決めたけどね」

 

「――っ」

 

 

 

 

 議題は、九つだった。

 

 決定事項は、ゼロである。

 

 ゼロなのに、全部この人の言うとおりになっていた。

 

 これを、俺は高校のときから見ている。

 見ているだけで、いまだに仕組みが分からない。

 

 

 

 

「馬剃さん、あのころ、あたしのこと嫌いだったでしょ」

 

「――こ、怖かっただけですっ」

 

「怖い」

 

「怖かったです」

 

「いまは?」

 

「……いまも、少し」

 

「正直じゃん」

 

「正直は、基本ですっ」

 

 

 

 

 八奈見さんは、また、俺と天愛星さんを三往復見た。

 

 三往復目で、今日いちばん、うまく笑った。

 

「馬剃さん、いい女になったじゃん」

 

「――は」

 

「いい女」

 

「……お、恐れ入りますっ」

 

「かたっ!」

 

「……失礼しましたっ」

 

 天愛星さんの耳が、かあっ、と赤くなった。

 

 焼肉の熱では、たぶん、なかった。

 

 

 

 

 二十一時四十分、会計。

 

 

 

 

 伝票を見て、俺は少し止まった。

 

「割り勘でいいよ」

 

「さっき、俺が出すって言いましたけど」

 

「聞いてない」

 

「聞いてましたよね」

 

「聞いてない」

 

「……」

 

「温水君、いま、ちょっと粘ったね」

 

「粘ってないです」

 

「粘ったよ。高校のときは粘らなかったのに」

 

「……十六年、経ってるので」

 

「経ったねー」

 

「八奈見さん、四人前どころじゃないですよね」

 

「六人前と、あと、あれとあれ」

 

「あれとあれ」

 

「うん」

 

「……按分しましょう」

 

 天愛星さんが、電卓を出した。

 

 焼肉屋の会計で電卓を出す人を、俺は初めて見た。

 

「摂取量に応じた按分が、合理的です」

 

「馬剃さん、それやると友達なくすよ」

 

「――友人関係と、費用負担は、別の話ですっ」

 

「別なんだ」

 

「別ですっ」

 

「じゃあ、あたし多めに出すね」

 

「……え」

 

「呼んだの、あたしだから」

 

 結局、八奈見さんが半分出した。

 

 半分出して、残りを俺と天愛星さんで割った。

 

 割ってから、天愛星さんが十円足りないと言い出して、俺が十円を出した。

 

 その十円を、天愛星さんは手帳に書いた。

 

 書いてから、こちらを見た。

 

 見て、動かなくなった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「立てる?」

 

「……立てます」

 

「立って」

 

「……いま、立ちます」

 

「立って」

 

「――順序がありますっ!」

 

 

 

 

 二時間四十四分ぶんの正座である。

 

 

 

 

 天愛星さんは、まず片膝を立てた。

 

 立てて、三秒静止した。

 

 次に体重を移そうとして、そこで顔が動かなくなった。

 

「……八奈見さん」

 

「なに」

 

「先に、出ていてください」

 

「なんで」

 

「……理由は、申し上げられません」

 

「痺れてるからでしょ」

 

「――痺れておりませんっ!」

 

「じゃあ立って」

 

「…………」

 

 

 

 

 議題九、下肢の状態に関する事実認定。

 

 

 

 

 結局、俺と八奈見さんが両側から支えた。

 

 支えられながら、天愛星さんは前を向いていた。

 

 前を向いたまま、こう言った。

 

「これは、公務災害には該当しません」

 

「誰も申請しないよ」

 

「念のためですっ」

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「これは、貸しです」

 

「十円だよ」

 

「金額の多寡は、関係ありません」

 

「返してもらう気ある?」

 

「あります」

 

「いつ」

 

「……いずれ」

 

 いずれ、が、この人の口から出た。

 

 この人は、期限のないものを、原則として認めない。

 認めない人が、十円にだけ、期限をつけなかった。

 

 

 

 

 店の前で、三人になった。

 

 

 

 

 十一月が、明日から始まる。

 

 風が、二週間前より冷たかった。

 

「じゃ、あたし駅こっちだから」

 

「はい」

 

「今日はありがと。愚痴っただけだけど」

 

「愚痴ではありません」

 

「愚痴だよ、二時間」

 

「……二時間十四分です」

 

「測ってたの?」

 

「測っておりましたっ」

 

「馬剃さん、ほんとそういうとこ」

 

「そういうとこ、とは」

 

「べつに」

 

 三人で、三方向に分かれる。

 

 この駅は、そういう構造をしている。

 

 八奈見さんは、二歩歩いて、振り返った。

 

「温水君」

 

「うん」

 

「今日、あたしがなんでずっと喋ってたか、分かる?」

 

「……分かんない」

 

「うん。分かんないよね」

 

 

 

 

 十六年、この返し方は変わっていない。

 

 

 

 

 八奈見さんは、駅のほうへ歩きだした。

 

 三歩で、また振り返った。

 

「あ、そうだ」

 

「うん」

 

「次は、馬剃さんが喋る番だからね」

 

 

 

 

 ――喋る番。

 

 

 

 

 八月二十九日に、この人はもう喋った。

 

 二時間半、喋って、俺は全部聞いた。

 聞いて、その日は終わったつもりでいた。

 

 ……まだ、あるのか。

 

 俺は、隣を見た。

 

 天愛星さんは、遠ざかる背中に、十五度の礼をしていた。

 

 礼の角度が、いつもより深かった。

 

 この人の礼は、十五度で固定されている。

 

 十年、役所でそう体に入れたと本人が言っていた。

 固定されているはずのものが、今日は、たぶん三十度あった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いまの、なんの話か分かる?」

 

「……分かりません」

 

 〇・八秒だった。

 

 沈黙には、該当しない。

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