(十月三十一日/温水視点)
十月三十一日、金曜日、十四時二十分。
スマホが震えた。
『十九時。駅前の焼肉。二人とも。』
拒否権の欄は、三回目も、なかった。
一回目は六月、学食の二階。
二回目は八月、盆明けの月曜。
二回とも、俺は行った。
行かなかった場合に何が起きるかを、俺は十六年前に一度だけ確認している。
確認した結果は、ここには書かない。
「温水さん」
「はい」
「いま、私にも、同じものが届きました」
「だろうね」
「『二人とも』とは」
「俺と、馬剃さん」
「なぜ、私の予定を確認せずに」
「八奈見さんだから」
「理由になっておりませんっ」
「なるんだよ、これが」
天愛星さんは、手帳を開いた。
開いて、十九時の欄を見た。
空欄である。空欄なのに、三秒見ていた。
「……本日の残務は、十八時十分に片づく見込みです」
「行くんだ」
「行きます。断る根拠がありません」
「根拠、いる?」
「要りますっ」
十九時二分、駅前。
店は、一階が煙で白かった。
二階の座敷に上がると、いちばん奥の卓に、すでに人がいた。
いて、すでに焼いていた。
「はい、お疲れ。座って座って」
「……八奈見さん」
「頼んどいたよ。とりあえず六人前」
「三人だよね」
「うん、三人。だから六人前」
「計算が」
「合ってるって。あたしが四人前だから」
網の上では、すでに肉が並んでいた。
右から三枚が牛カルビ、真ん中が豚トロ、左の二枚が鶏である。
鶏が、いちばん赤かった。
俺は、そこから目を離せなくなった。
鶏である。
鶏には、他の肉と違って、譲れる範囲がない。
牛は表面、豚は中心、鶏は全部である。
全部が、赤かった。
赤いというより、生である。
生というより、まだ鶏である。
俺は、その二枚に「まだ鶏」という名前をつけて、視界の端に置いた。
名前をつけると、目が離せなくなる。
これは、俺の欠点である。
「馬剃さんも座って。奥どうぞ」
「恐れ入ります」
「かたっ!」
「……失礼しました」
「謝るとこじゃないって」
天愛星さんが、正座した。
座敷である。座敷なので、正座した。
誰も正座していない座敷で、一人だけ正座していた。
「馬剃さん、崩していいよ」
「規則上、問題がありますか」
「規則ないよ、焼肉に」
「……では、崩します」
崩さなかった。
十九時六分。
俺は、この時刻を覚えておくことにした。
人間の下肢の血流が正座によって遮断された場合、感覚の異常が生じるまでの目安は、およそ二十分と言われている。
言われているというのは、俺が中学の修学旅行で得た知見である。
知見は、いまも更新されていない。
二十分後は、十九時二十六分である。
注文の説明が終わって、八奈見さんがジョッキを持った。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
「乾杯です」
「何に乾杯するの」
「あたしの十一店舗に」
「あの、八奈見さん」
「なに」
「焼くのは、どなたが」
「あたし」
「……交代等は」
「ない」
「では、私が」
「なんで」
「加熱管理は、責任者を一名に定める必要があります」
「誰が定めたの」
「――私ですっ」
「出た」
焼肉屋のテーブルに、管轄が発生した。
俺は、頭の中で議事録を取ることにした。
議題一、焼き加減。
議題二、管轄。
二時間後、議題は九つになる。
決定事項は、ゼロである。
「……十一?」
「増えた。九月に二つ増えた」
「増えたのは、いいことでは」
天愛星さんが、そう言った。
言った瞬間に、八奈見さんがジョッキを置いた。
「馬剃さん」
「はい」
「いいことって、誰が言った?」
「……本部の方が、そうおっしゃるのでは」
「本部は言うよ。言うだけ」
「…………」
「人、増えてないんだよね」
そこから、二時間である。
俺は、途中から話題の変わった回数を数えることにした。
数えないと、耐えられない量だったからである。
結果を先に書いておくと、十九回だった。
順に挙げる。鶏むねの値段、人手、三日で辞めた子、口コミの星、本部の課長、キャベツ、シフトの穴、健康診断の受診率、洗浄機の故障、社内の異動、去年の暮れの繁忙、パートさんの子どもの受験、駐車場の契約更新、九月に増えた二店舗、制服のサイズ展開、労基署の指導、自分の腰、休日の使い道。
十八である。
十九回目は、二十時五十一分に来た。
来て、そこで、全部止まった。
「まず鶏むねね。去年の同じ月と比べて、二割上がってんの」
「二割」
「二割。で、本部から来る原価率の目標は、去年と同じ」
「……据え置き、ですか」
「据え置き。据え置きって言葉、あたし嫌いになった」
「据え置きは、行政でも多用されます」
「馬剃さん、いま慰めてる?」
「事実を申し上げました」
「慰めになってないよ」
「……失礼しました」
「あと三日で辞めた子がいて」
話題が、変わった。
一回目である。
「三日」
「三日。初日に厨房入って、二日目に洗い場で、三日目の朝にLINE」
「……LINEで」
「LINEで。あたし、その子の顔、二回しか見てない」
「引き止めは」
「したよ。既読つかなかったけど」
八奈見さんは、そこでカルビを一枚返した。
返して、そのまま自分の皿に取った。
三秒である。
片面三秒で、皿に行った。
「あの、八奈見さん」
「なに」
「それ、まだ」
「まだ?」
「……いや」
俺は、そこで口を閉じた。
二十年前から知っている。
この人に「まだ生だ」と言っても、意味がない。
肉の焼き方には、派閥がある。
俺は、じっくり育てる派である。
両面を焼いて、色が変わって、それから十秒待つ。
十秒待った肉は、噛んだときに肉汁の出方が違う。
高校の合宿で、俺はこの派閥に一人しかいなかった。
三十四歳になって、状況は改善していない。
肉には、時間がある。
網に置かれた瞬間から、その一枚に固有の時間が流れはじめる。
流れはじめた時間を途中で断ち切るのは、俺の中では暴力に分類される。
――と、高校一年の夏に思った。
思ってから十八年、俺はこの思想を一度も他人に説明していない。
説明しても、採用されないからである。
採用されない思想を、俺は十八年、一人で運用している。
「口コミも見たんだけどさ」
話題が変わった。二回目。
「星が三・二なの。三・二だよ」
「……低いのですか」
「低くはない。低くはないんだけど、去年三・六だったの」
「〇・四です」
「〇・四。で、下がった理由が『店員の態度』」
「態度」
「態度。誰の態度だと思う?」
「……従業員の方でしょうか」
「あたしだよ」
「え」
「八月に一回、あたしが入ったの。人が足りなくて」
「……エリアマネージャーが、現場に」
「入ったら怒られるんだけどね、本部に。でも入るじゃん、人いないんだから」
「入りますね」
「入るよね」
「あと、本部の課長がさ」
「はい」
「先月、視察に来たの。十五分いた」
「十五分」
「十五分で、『活気がないですね』って」
「……十五分で、何を見て」
「知らない。あたしも聞きたい」
「所要時間に対して、結論が大きすぎます」
「そう! そうなんだよ!」
「……失礼しました。つい」
「いいよ、もっと言って」
「では、申し上げます。十五分の滞在で店舗の状態を評価する場合、対象は導線と掲示物と在庫棚に限られます。活気は、指標化されておりません」
「馬剃さん、それ来月の会議で言っていい?」
「引用元は、明示してください」
「明示するの?」
「出典の明示は、基本ですっ」
「馬剃さん、頭いいね」
「――そ、そんなことは」
「いや、ほんとに。助かる」
「……お、恐れ入りますっ」
天愛星さんの背筋が、二センチ伸びた。
この人は、褒められると、まず背筋が伸びる。
伸びたあと、三十秒くらい機嫌がいい。
三十秒しか持たないので、こちらは常に補充が必要になる。
八奈見さんは、その三十秒のあいだに、天愛星さんの皿からカルビを一枚取った。
「あ」
「なに?」
「……いえ」
補充のコストが、回収されていた。
高校のとき、この人の喋り方は、もっと軽かった。
軽くて、速くて、途中で自分で笑っていた。
いまは、速さだけが同じで、軽さが減っている。
減ったぶんに何が入ったのかは、たぶん本人にも説明できない。
説明できないものの重さが、十一店舗ぶんある。
八奈見さんは、豚トロを返した。
返して、また皿に取った。
俺は、その豚トロの断面を見てしまった。
……ピンクだった。
「で、その日、あたし十四時間立ってて、たぶん最後のほう顔が死んでたの」
「……」
「『店長らしき女性が無愛想』って書かれた」
「店長では、ないのですよね」
「店長じゃない。でも、そう見えたってことでしょ」
「…………」
「あのさ」
「はい」
「三・二って、なんかもう、あたしの人格みたいじゃない?」
三回目の話題転換は、そこで止まった。
「三・二は、平均を上回っています」
天愛星さんが、そう言った。
「え」
「飲食店の口コミ評価の中央値は、おおむね三・二から三・四です。三・二は、平均です」
「なんで知ってんの」
「四月に、学食の業者選定の資料を作りました」
「あー」
「その際、比較指標として四十六店舗ぶんを調べました」
「四十六」
「四十六です」
「馬剃さん、それ仕事?」
「業務です」
「……そこまでやる?」
「やります」
八奈見さんが、俺を見た。
「温水君」
「はい」
「この人、こういう人なの?」
「そう」
「毎日?」
「毎日」
「大変じゃない?」
「大変だよ」
「大変ではありませんっ」
天愛星さんは、二時間で三回、姿勢を直した。
一回目は、八奈見さんが本部の話をしたとき。
二回目は、三日で辞めた子の話のとき。
三回目は、まだ来ていない。
二十時二分。
網が、一度空になった。
俺は、そこで動いた。
網の右奥に、まだ手をつけられていないカルビが一枚、残っていた。
俺は、それを中央に移した。
中央は、火が均一である。
均一な場所で、片面を四十秒。
――節子。
俺は、そう名付けた。
三十四歳が焼肉屋で肉に名前をつけるのは、社会的に問題がある。
問題があるが、名前をつけないと、守る理由が生まれない。
節子は、片面が香ばしく焼きあがった。
人間でいえば、小学校の入学式である。
赤いランドセルが、よく似合う。
少し大きめのランドセルを背負って、校門の前で写真を撮る。母親が泣く。
俺は、節子を裏返した。
中学に上がった。
端がわずかに反り返っている。反抗期である。
部屋に鍵をかけるようになり、味付けの話をしなくなった。
あと二十秒で、成人式だ。
「温水さん」
「はい」
「その肉、動かしましたね」
「……はい」
「なぜですか」
「火が、均一だから」
「……根拠のある行動です」
「うん」
「よい行動です」
「ありがとう」
三回目が、来た。
姿勢を直して、体ごと網のほうを向いた。
この人は、守るべき対象が発生すると、まず姿勢から入る。
天愛星さんが、網を見た。
見て、スマホを出した。
出して、画面を伏せて、テーブルに置いた。
「なにそれ」
「タイマーです」
「タイマー?」
「豚肉は、中心温度七十五度で一分以上の加熱が必要です。厚生労働省が示しています」
「……出た」
「牛肉の表面加熱についても、同様の指針があります」
「馬剃さん、焼肉屋で厚労省の話する?」
「します」
「する人、初めて見た」
俺は、少し感動していた。
十六年、この派閥は俺一人だと思っていた。
同盟が、いま、できた。
結成の経緯は、厚生労働省の指針である。
指針を根拠にした同盟が、この世でいちばん脆いことを、俺はまだ知らなかった。
同盟の寿命は、四十秒だった。
「あ、これ食べちゃうね」
「――」
八奈見さんの箸が、節子を攫った。
三十八秒である。
あと二十二秒だった。
走馬灯が流れた。
入学式。運動会の徒競走、五人中四位。三者面談。
三者面談で、担任は言った。
「この子は、火の通りがいい子です」
いい子だった。
いい子は、二十二秒足りないまま、他人の箸の上にいる。
「――七十五度に達しておりませんっ!」
「達してるって」
「達しておりませんっ! 根拠は、加熱時間ですっ」
「あたし、二十年これで生きてるけど」
「二十年生きたことは、安全性の根拠になりませんっ」
「なんないの?」
「なりませんっ。それは生存者バイアスですっ」
「なにそれ、こわ」
「こわいのは、そちらですっ」
天愛星さんの声が、隣の卓まで飛んだ。
隣の卓の四人が、こちらを見た。
見て、すぐ目を戻した。慣れている顔だった。
八奈見さんは、節子を箸で持ったまま、にっこり笑った。
「ふーん」
「なんですかっ」
「馬剃さん、その肉、そんなに気になる?」
「衛生管理の問題ですっ」
「へー」
「へー、とは」
「べつに」
八奈見さんは、節子を自分の口に運ばなかった。
運ばずに、俺のほうへ差しだした。
「食べたいなら言えばいいのに。はい、あーん」
時間が、止まった。
俺は、二十年前と同じ姿勢で固まった。
二十年前は、周りを確認してから口を開けた。
今回は、確認する必要がなかった。
右隣に、確認すべき対象が座っていたからである。
その対象が、立ち上がった。
座敷で、正座から、一動作で立った。
一動作で立てたのは、そこまでだった。
立った〇・四秒後、天愛星さんの膝が、内側に折れた。
折れて、俺の肩を掴んだ。
掴んだまま、宣言した。
「――規程に、抵触しますっ!」
「なんの規程」
「本学の、ハラスメント防止規程第四条ですっ」
「あたし、本学の職員じゃないけど」
「――受託事業者は、準用対象ですっ!」
「準用」
「準用ですっ! 仕様書の第十二条に、明記されておりますっ」
「馬剃さん、仕様書覚えてんの」
「覚えておりますっ」
「あのさ」
「なんですかっ」
「いま、温水君の肩、掴んでるよね」
「――っ」
「それは規程どうなの」
「これは、転倒防止ですっ」
「転倒」
「正座に起因する一時的な下肢の感覚異常ですっ」
「痺れてるって言えばよくない?」
「――痺れておりませんっ!」
痺れていた。
十九時六分から、一時間二十三分である。
目安の、四倍である。
八奈見さんが、箸を下ろした。
下ろして、頬杖をついた。
頬杖をついたまま、俺と天愛星さんを三往復、見た。
三往復目で、笑った。
「ヘーえ」
議題四、肩に置かれた手の法的性質。
この人の戦い方は、十六年前から一貫している。
自分からは攻めない。
相手に言わせて、言った内容で相手を縛る。
縛ってから、笑う。
高校のとき、俺はこれを詰め将棋と呼んでいた。
呼んでいただけで、対策は立てられなかった。
いまも、立っていない。
――出た。
この音は、十六年前から一切変わっていない。
語尾がわずかに上がり、母音が長い。
この音が出たとき、この人は、すでに全部分かっている。
「じゃあ、馬剃さんがやれば?」
「……は」
「同じ課でしょ。衛生管理も同じでしょ」
「そ、それは」
「規程、抵触しないよね。同じ職場だもん」
「――抵触しますっ!」
「するんだ」
「しますっ! 同一所属であることは、免責事由になりませんっ」
「詳しいね」
「――詳しくありませんっ!」
詳しかった。
俺は、それを言わないでおいた。
八奈見さんは、節子を自分の口に入れた。
入れて、二回噛んで、飲んだ。
「うん、生」
「生ですかっ」
「生。でも美味しい」
「――回収しますっ!」
「もうないよ」
「…………」
「はい、馬剃さんもこれ食べて」
「結構です」
「食べなって。あのね、焼肉のカロリーって、割り勘した人数で割るの」
「割れません」
「割れるの。三人で割ったら、三分の一でしょ」
「総量は、変わりませんっ」
「変わるって。会計が三等分なんだから、カロリーも三等分」
「会計とカロリーは、独立した概念ですっ」
「じゃあ馬剃さん、あたしが食べたぶんのお金、払うよね」
「……払います」
「じゃあカロリーも持ってるじゃん」
「持っておりませんっ!」
「持ってるって。はい、実物」
ホルモンだった。
八奈見さんの箸が、天愛星さんの口に、それを入れた。
入れた。
物理的に、入れた。
「――んっ」
「ほら、持った」
「ん、んんっ」
「一人前六百八十キロカロリーね。三で割って、二百二十六・六」
「……っ、ん」
「はい、あと二回で計算合うから」
「――んんんっ!」
議題三、カロリーの帰属。
天愛星さんは、二十秒かけてそれを飲みこんだ。
飲みこんで、湯呑みの茶を一気に飲んだ。
飲んでから、姿勢を正した。
「八奈見さん」
「なに」
「いまの計算には、誤りがあります」
「まだやるんだ」
「六百八十を三で割ると、二百二十六・六六六です。切り捨ての根拠がありませんっ」
「馬剃さん、そこ?」
「そこですっ」
俺は、この人の負けん気が好きだ。
好きなのだが、いま争っているのは、小数点第三位である。
俺は、節子のことを考えていた。
中央に移して、四十秒。
あと二十二秒あれば、いい肉になっていた。
なる前に、消えた。
「温水君」
「……はい」
「で、いくらつける?」
「……え」
「いまの、あーん。いくら」
――これだ。
二十年前も、この人はこれをやった。
ウブな少年を演じさせて、その反応で遊ぶ。
遊んで、値段をつけさせて、こちらが赤くなるのを見る。
三十四歳になっても、同じ手を使ってくる。
同じ手なのに、効く。
効く理由は、たぶん、こちらが十六年ぶん学習していないからではない。
学習しても、この人は毎回、少しずつ手を変えてくる。
二十年前は、周りに人がいる場所でやった。
今日は、右隣に一人だけいる場所でやった。
人数を減らすと、逃げ場が減る。
……計算されている。
「……つけません」
「なんで」
「経費で落ちないから」
「うまいこと言うじゃん」
「用度で覚えた」
「用度、そういうこと教えるの」
「支払えないものは、値段をつけない部署です」
天愛星さんが、そこで小さく息を吐いた。
吐いてから、湯呑みを両手で持って、中身を見ていた。
中身は、たぶん、見えていなかった。
二十時三十四分。
追加の肉が来た。
俺は、今度は三枚まとめて中央に置いた。
「あのさ、馬剃さん」
「はい」
「温水君と、いつも何してんの」
「業務です」
「業務」
「業務ですっ」
「七月、なんか一緒にやってたって聞いたけど」
「――どこから」
「本人から」
「温水さんっ!」
「言ってない」
「言ったよ、四月に。学食で」
「四月にはまだ七月が来てないんだよ」
「あ、そっか」
「なんですか、いまのはっ」
「かまかけただけ」
「――八奈見さんっ!」
鮮やかだった。
高校時代、俺はこの手口で三回落ちている。
落ちるたびに、次は気をつけようと思った。
三回とも、思っただけだった。
「で、七月なにしてたの」
「……十一日間、同じ席におりました」
「へー」
「業務外です」
「業務外なんだ」
「――業務ではありませんが、必要な行為でしたっ」
「必要」
「必要ですっ」
八奈見さんは、ジョッキを持った。
持って、飲まずに置いた。
「あたしさ」
「はい」
「十六年前、毎日おんなじ教室にいたんだよね。温水君と」
「……存じております」
「三百日くらい? いや、もっとか」
「二年生の在籍日数は、おおむね二百日です」
「二百日か」
「二百日です」
「馬剃さんの十一日より、多いね」
天愛星さんの湯呑みが、かたん、と鳴った。
「……現在の話をしております」
「うん、知ってる」
「では、なぜ」
「なんとなく」
「なんとなくで、そのような比較をなさいますかっ」
「するよ。あたし、そういうとこあるから」
自己申告だった。
この人は、自分の性格の悪いところを、いつも自分から申告する。
申告してから、堂々とやる。
「馬剃さん」
「はい」
「怒ってる?」
「怒っておりません」
「顔、赤いけど」
「――焼肉ですっ」
「うん、焼肉だね」
「焼肉の熱ですっ」
「そういうことにしとくね」
「そういうことですっ」
二十時五十一分。
話題の転換は、そこまでで十九回だった。
二十回目が、来なかった。
八奈見さんが、網を見ていた。
網の上には、何もなかった。
なくなってから、たぶん、二分は経っていた。
「注文、しますか」
俺が言うと、八奈見さんは首を振った。
「んー、いい」
「珍しいですね」
「珍しくないよ」
「珍しいです」
「……珍しいか」
八奈見さんは、ジョッキの底のほうを指でなぞった。
「あのさ」
「うん」
「うちの担当エリアに、一店舗、古いのがあって」
「はい」
「工場の食堂なんだけど。三十年やってるとこ」
「はい」
「そこ、十一月三十日で終わり」
俺は、何も言わなかった。
天愛星さんも、何も言わなかった。
言わないことは、たぶん、正しかった。
この人が「うん」以外の相槌を求めていないとき、それは顔に出る。
高校のとき、俺はそれを三回読み違えた。
三回とも、そのあと一週間、口をきいてもらえなかった。
十六年経って、俺は、読み違えない側になった。
なった代わりに、何も言えない側にもなった。
「工場が縮小になるの。うちが悪いわけじゃない。工場が悪いわけでもない」
「はい」
「決まったのは八月」
「……八月」
「うん。あたし、八月から知ってた」
八奈見さんは、指を止めた。
「そこにね、二十二年いるパートの人がいて」
「二十二年」
「小田さんっていうの。あたしより年上。ずっと同じ厨房」
「はい」
「その人に、来週、言わなきゃいけない」
網が、音を立てた。
油の残りが、はぜた音である。
その音以外、しばらく、何もなかった。
俺は、この二時間を、頭の中で巻き戻していた。
鶏むねの二割。三日で辞めた子。星の三・二。十五分の課長。洗浄機。腰。
全部、十一店舗のうちの、十店舗の話だった。
残りの一店舗の話だけが、二時間、出てこなかった。
出てこないものが、いちばん大きい。
俺は、それを八月に学んでいる。
「……八奈見さんは」
天愛星さんが、口を開いた。
「はい」
「その話をされるために、私たちを呼ばれたのですか」
「んー」
「違いますか」
「違わないけど」
「はい」
「しないよ、この話」
「……いま、しておられます」
「してない。ここまでは前置き」
八奈見さんは、そこで笑った。
笑った顔が、二時間で初めて、うまくできていなかった。
「言うとさ、決定になっちゃうから」
――ああ。
この人は、二時間、そのために喋っていた。
鶏むねの二割も、三日で辞めた子も、星の三・二も、全部、中心を埋めないための材料だった。
中心を空けたまま、周りだけ喋る。
俺は、この構造を知っている。
八月二十九日に、俺は同じ構造の話を、二時間半聞いた。
あのときも、中心は空いていた。
空いた中心の周りを、あの人は、規程と数字と手帳の話で埋めつづけた。
埋めきったところで、時間が来た。
俺は、何も言わなかった。
言わなかったのが正しかったのかどうかは、いまも分からない。
分からないので、今日も、同じことをする。
同じことをするしか、たぶん、俺にはできない。
できることが一つしかないというのは、悪いことではない。
悪いことではないと、六月に、誰かに教わった。
「肉、頼みます」
「え」
「四人前で」
「多くない?」
「八奈見さんが四人前だから」
「……そっか」
「そう」
「じゃ、六人前ね」
「増えた」
「増えたよ」
「八奈見さん」
「なに」
「今日は、俺が出します」
「なんで」
「肉、頼んだの俺だから」
「へー」
「なんですか」
「べつに」
この人は、三十四歳になっても、断り方を教えてくれない。
教えてくれないので、こちらは、いつも払う準備だけして待つことになる。
肉が来るまでの三分、天愛星さんは何かを考えていた。
考えて、鞄から手帳を出した。
出して、開いて、閉じた。
閉じてから、口を開いた。
「八奈見さん」
「なに」
「その方は、二十二年、いらしたんですね」
「うん」
「では、二十二年ぶんの引き継ぎが、必要です」
「……引き継ぎ?」
「はい」
「引き継ぐとこ、ないよ。店なくなるんだから」
「あります」
「どこに」
「その方の中にです」
八奈見さんが、顔を上げた。
「二十二年、同じ厨房にいらした方は、書類に残っていないものを持っています。誰がいつ来るか。どの鍋が焦げやすいか。誰が味を薄くしたがるか」
「……そりゃ、持ってるけど」
「私の職場では、それを三枚の紙にまとめさせます」
「三枚」
「三枚です」
「二十二年が、三枚?」
「足りません」
「足りないじゃん」
「足りないと分かっていて、書かせます」
「……なんで」
天愛星さんは、手帳の角を、指で二回そろえた。
「書いた人が、忘れないためです」
網の音が、また、はぜた。
八奈見さんは、しばらく何も言わなかった。
言わないまま、ジョッキを持って、飲んだ。
飲んで、置いた。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、来週の月曜に使っていい?」
「どうぞ」
「ありがと」
「いえ」
「……あんときの馬剃さん、そんなこと言う人じゃなかったのにな」
「十六年、経っております」
「経ったねー」
「経ちました」
「ところで馬剃さん」
「はい」
「今日、あたしの勝ちでいい?」
「――何の話ですかっ」
「べつに」
「勝敗のつく議題は、本日一件もありませんっ」
「あー、うん。そうだね」
「そうですっ」
「……全部あたしが決めたけどね」
「――っ」
議題は、九つだった。
決定事項は、ゼロである。
ゼロなのに、全部この人の言うとおりになっていた。
これを、俺は高校のときから見ている。
見ているだけで、いまだに仕組みが分からない。
「馬剃さん、あのころ、あたしのこと嫌いだったでしょ」
「――こ、怖かっただけですっ」
「怖い」
「怖かったです」
「いまは?」
「……いまも、少し」
「正直じゃん」
「正直は、基本ですっ」
八奈見さんは、また、俺と天愛星さんを三往復見た。
三往復目で、今日いちばん、うまく笑った。
「馬剃さん、いい女になったじゃん」
「――は」
「いい女」
「……お、恐れ入りますっ」
「かたっ!」
「……失礼しましたっ」
天愛星さんの耳が、かあっ、と赤くなった。
焼肉の熱では、たぶん、なかった。
二十一時四十分、会計。
伝票を見て、俺は少し止まった。
「割り勘でいいよ」
「さっき、俺が出すって言いましたけど」
「聞いてない」
「聞いてましたよね」
「聞いてない」
「……」
「温水君、いま、ちょっと粘ったね」
「粘ってないです」
「粘ったよ。高校のときは粘らなかったのに」
「……十六年、経ってるので」
「経ったねー」
「八奈見さん、四人前どころじゃないですよね」
「六人前と、あと、あれとあれ」
「あれとあれ」
「うん」
「……按分しましょう」
天愛星さんが、電卓を出した。
焼肉屋の会計で電卓を出す人を、俺は初めて見た。
「摂取量に応じた按分が、合理的です」
「馬剃さん、それやると友達なくすよ」
「――友人関係と、費用負担は、別の話ですっ」
「別なんだ」
「別ですっ」
「じゃあ、あたし多めに出すね」
「……え」
「呼んだの、あたしだから」
結局、八奈見さんが半分出した。
半分出して、残りを俺と天愛星さんで割った。
割ってから、天愛星さんが十円足りないと言い出して、俺が十円を出した。
その十円を、天愛星さんは手帳に書いた。
書いてから、こちらを見た。
見て、動かなくなった。
「馬剃さん」
「はい」
「立てる?」
「……立てます」
「立って」
「……いま、立ちます」
「立って」
「――順序がありますっ!」
二時間四十四分ぶんの正座である。
天愛星さんは、まず片膝を立てた。
立てて、三秒静止した。
次に体重を移そうとして、そこで顔が動かなくなった。
「……八奈見さん」
「なに」
「先に、出ていてください」
「なんで」
「……理由は、申し上げられません」
「痺れてるからでしょ」
「――痺れておりませんっ!」
「じゃあ立って」
「…………」
議題九、下肢の状態に関する事実認定。
結局、俺と八奈見さんが両側から支えた。
支えられながら、天愛星さんは前を向いていた。
前を向いたまま、こう言った。
「これは、公務災害には該当しません」
「誰も申請しないよ」
「念のためですっ」
「温水さん」
「はい」
「これは、貸しです」
「十円だよ」
「金額の多寡は、関係ありません」
「返してもらう気ある?」
「あります」
「いつ」
「……いずれ」
いずれ、が、この人の口から出た。
この人は、期限のないものを、原則として認めない。
認めない人が、十円にだけ、期限をつけなかった。
店の前で、三人になった。
十一月が、明日から始まる。
風が、二週間前より冷たかった。
「じゃ、あたし駅こっちだから」
「はい」
「今日はありがと。愚痴っただけだけど」
「愚痴ではありません」
「愚痴だよ、二時間」
「……二時間十四分です」
「測ってたの?」
「測っておりましたっ」
「馬剃さん、ほんとそういうとこ」
「そういうとこ、とは」
「べつに」
三人で、三方向に分かれる。
この駅は、そういう構造をしている。
八奈見さんは、二歩歩いて、振り返った。
「温水君」
「うん」
「今日、あたしがなんでずっと喋ってたか、分かる?」
「……分かんない」
「うん。分かんないよね」
十六年、この返し方は変わっていない。
八奈見さんは、駅のほうへ歩きだした。
三歩で、また振り返った。
「あ、そうだ」
「うん」
「次は、馬剃さんが喋る番だからね」
――喋る番。
八月二十九日に、この人はもう喋った。
二時間半、喋って、俺は全部聞いた。
聞いて、その日は終わったつもりでいた。
……まだ、あるのか。
俺は、隣を見た。
天愛星さんは、遠ざかる背中に、十五度の礼をしていた。
礼の角度が、いつもより深かった。
この人の礼は、十五度で固定されている。
十年、役所でそう体に入れたと本人が言っていた。
固定されているはずのものが、今日は、たぶん三十度あった。
「馬剃さん」
「はい」
「いまの、なんの話か分かる?」
「……分かりません」
〇・八秒だった。
沈黙には、該当しない。