「温水さん、独り言すごいですよ」
「言ってない」
「言ってました。『いやそれは重い』って三回」
四月十五日、午後四時四十分。
俺は自分の口を疑った。三十四歳が職場で口に出す言葉ではない。
「なんの話してたんですか」
「業務の話だ」
「どの業務ですか」
「指定校の枠数の話だ」
「それのどこが重いんですか」
「枠は重いんだよ。数字なのに」
「出た。切り抜きますよ」
「切り抜くな」
俺はキーボードに手を戻した。
大貫という男は、追及だけは省庁レベルである。
実際のところ、俺が三十分前から考えていたのは、まったく別のことだった。
――どうやったら、あの人を飯に誘えるのか。
馬剃さんが来て、二週間が経っていた。
仕事は覚えた。というより、覚えるのが速すぎて、こっちが渡す速度のほうが問題になっていた。
指定校のリストは半分終わり、広報戦略の素案まで手をつけている。四月中旬でこの進捗は、正直ちょっとおかしい。
問題は、そこじゃない。
昼休みだ。
最初の数日は大貫が誘っていたが、そのうち馬剃さんは自席でコンビニのおにぎりを食べるようになった。
パソコンを開いたまま、十分で食べ終えて、残り五十分を規程の読みこみに使っている。
誰も気づいていない。
みんな「馬剃さんは真面目だから」で処理している。
……そうじゃない。
あれは、人と昼を食う体力が残っていない人間の食い方だ。
病院にいたころ、ああいう食べ方をする職員を何人か見た。
だいたい半年で辞めた。
もう一つ、気になっていることがある。
馬剃さんは、この二週間で一度も、自分から誰かに話しかけていない。
仕事の確認は完璧にする。挨拶も欠かさない。頼まれたことは倍返しで返ってくる。
だが、雑談がゼロだった。
これは意識してやっていることじゃない、と思う。
この人はたぶん、雑談を「業務外の接触」として処理している。処理して、自分から遮断している。
そして遮断していることに、本人が気づいていない。
――たぶん、そういうふうにしないと、あの十年を通り抜けられなかったんだろう。
そこまで考えて、俺は自分にツッコミを入れた。
なんで俺は、他人の十年を勝手に想像しているのか。
俺は椅子の背にもたれて、天井を見た。
――誘えばいいんだろうけど。
問題は、そこである。
脳内シミュレーション、その一。
『馬剃さん、今日この後、飯でもどうですか』
――却下。
二週間目の男性職員が女性職員を二人で誘う。これは駄目だ。世の中には順番というものがある。
シミュレーション、その二。
『大貫も誘って、三人で飯でもどうですか』
――却下。
大貫を連れていったら、九十分間ずっと文科省の話をされる。あいつは悪気なく地雷原でタップダンスを踊る男だ。
シミュレーション、その三。
『部の親睦を深めるため、ここは私が業務として』
――却下。
業務じゃない。というか、これを言った瞬間、俺は俺のことが嫌いになる。
ちなみにギャルゲーなら、ここで選択肢が三つ出る。どれを選んでも物語は進む。
現実は選択肢が表示されないうえに、「選ばない」を選び続けると好感度が静かに下がる仕様である。誰だ、この仕様を作ったのは。
三十分考えて、成果はゼロだった。
胃のあたりが、そわそわする。
仕事でこの感覚になったことは、この五年で一度もない。
十六年前に告白の返事を保留した男が、十六年後も同じ場所で立ち止まっている。人間はそう簡単に成長しない。
「温水さん、また言ってますよ」
「なにを」
「『どれも駄目だ』って」
俺は無言でパソコンを閉じた。
その日の午後、俺は仕事をしながらずっと考えていた。
思えば、俺は人を誘ったことがほとんどない。
高校の三年間で、自分から誰かを誘った記憶は数えるほどだ。
文芸部では誰かが勝手に集まってきたし、大学では飲み会に呼ばれる側だった。社会人になってからは、業者さんとの会食は仕事だし、課の飲み会は課長が声をかける。
だから俺は、十二年間、一度も「誘う側」をやらずに済ませてきた。
済ませてきたことに、いま気づいた。
――そりゃ下手なわけだ。
ちなみに大貫は、去年一年で四十七回合コンをしている。本人の申告なので信憑性は怪しいが、少なくとも十七回は事実確認が取れている。
同じ人類とは思えない。
時計を見た。
十六時五十分。あと二十五分。
俺はパソコンの画面に指定校のリストを表示したまま、一行も進めずに二十分を溶かした。
――なんでこんなに難しいんだ。
仕事なら、俺は誰にでも電話をかけられる。
怒っている教授にも、初対面の高校の先生にも、七十代の印刷会社の会長にも、平気でかけられる。かけて、笑わせて、こっちの用件を通すこともできる。
できるのに、五十センチ横の席には声をかけられない。
五十センチである。
振り向けば顔がある。キーボードの音も、ため息も、全部聞こえる距離だ。
その距離で、俺は一日八時間、業務連絡だけをしている。
……いや、違うな。
隣の席の人が、あの人だからだ。
俺はマウスを置いた。
どくり、と心臓がひとつ、重く鳴った。
その結論に、俺は三十四歳にして、初めてはっきりと到達したような気がした。
到達して、すぐ蓋をした。
OJT担当だからだ。担当者が新人を気にかけるのは当たり前のことである。うん。
十七時十五分。
鷲尾課長が出張から戻らず、桑原主査は歯医者、大貫は「合コンです!」と堂々と宣言して十七時十六分に消えた。
入試広報課には、二人だけが残った。
――いま以外にない。
俺は椅子を回した。
「あの、馬剃さん」
「はい」
「今日、このあとって」
馬剃さんの背筋が、音を立てそうな勢いで伸びた。
「業務時間外の付き合いは、強制ではありませんよね」
――ひゅ、と喉が鳴った。
早い。
構えるのが早すぎる。
背中に、すっと冷たいものが降りていく。
「あ、はい。そうですね」
俺は即座に椅子を戻した。
「すいません、忘れてください」
「……え」
「じゃあお疲れさまです」
鞄を持って立ち上がる。
我ながら、引き際だけは日本一だと思う。十六年、この技術だけで生きてきた。
「あの!」
どきん、とした。
馬剃さんが立ち上がった。
勢いがよすぎて、椅子ががたん、と後ろの棚にぶつかった。
「……すみません。いまのは、条件反射で」
彼女は自分の言葉に、自分でうろたえていた。
「そうじゃなくて、その、あの」
「はい」
「行きます」
「はい?」
「行きます。ご一緒します」
俺は鞄を持ったまま突っ立っていた。
「……いま、断られたと思ったんですけど」
「断ってません」
「めちゃくちゃ断る顔でしたけど」
「そういうとこですよ」
馬剃さんが言った。
言ってから、彼女は口を押さえた。
――そういうとこですよ。
胸の奥で、とん、と何かが鳴った。
どこかで聞いた言い回しだった。
というより、俺は十六年前、この言葉を別の人間から週三回のペースで言われていた。
「……いえ、失礼しました」
「あ、はい」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
店は、大学から二駅離れたところにした。
理由は特にない。
特にないことにしておいた。
「こちらのお店、初めてです」
「そうですか」
「大学の最寄りにも居酒屋はありますよね」
「……ありますね」
馬剃さんは、それ以上は聞かなかった。
通されたのは奥の四人席だった。
おしぼりを渡されて、メニューを開いて、そこから馬剃さんが動かなくなった。
三分経った。
「馬剃さん、決まりました?」
「いえ、こちらの飲み放題の条件を確認しておりまして」
「条件」
「ラストオーダーが九十分となっていますが、退店時刻の記載がありません。九十分経過後の滞在について、追加料金が発生する可能性が」
「発生しないです」
「明記されていませんが」
「明記されてなくても発生しないです。この店、五年通ってますけど一度もなかったです」
「……慣例ということですか」
「慣例です」
馬剃さんが眉をひそめた。
この人は本当に、この十六年、何ひとつ変わっていないのではないか。
校則の附則を暗記していた高校一年生が、いま居酒屋の飲み放題の規約を精読している。器が同じ形をしている。
「じゃあ、飲み物どうします。ウーロン茶で」
「生ビールで」
――え。
俺は、ぱっと顔を上げた。
「え」
「生ビールで」
「……飲めるんですか」
「歓迎会では飲みませんでしたが」
馬剃さんはメニューを閉じて、まっすぐこちらを見た。
「あの場では、飲みたくなかっただけです」
――あ、これは。
俺は店員を呼んだ。
「お疲れさまでした」
乾杯をして、馬剃さんはジョッキの三分の一を一息で飲んだ。
そして、五秒後には耳が赤くなっていた。
「……馬剃さん」
「はい」
「弱いですよね?」
「弱くありません」
「顔が」
「これは店内の温度です」
嘘だろ。
俺はとりあえず水を頼み、枝豆を彼女の前に押しやった。
馬剃さんは枝豆を一つ、異様に丁寧な手つきで開けた。
開けた豆を、皿の縁にきれいに三つ並べている。
並べてから、一つずつ食べている。
……この人、飲み会でこれをやってたのか。
十年間、中央省庁の飲み会で、枝豆を三つずつ並べていたのか。
「温水主任」
「はい」
「本日は、その、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ。急に誘ってすいません」
「いえ」
沈黙。
俺は店員を呼んで、焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。
「五本盛りの、タレと塩の内訳はどうなっていますか」
俺が言い終わるより先に、馬剃さんが店員に聞いていた。
「えっと、お任せになりますね」
「任せる範囲の規定はありますか」
「馬剃さん、盛り合わせってそういうものなんで」
「そういうもの、ですか」
「そういうものです」
馬剃さんが鞄から手帳を出しかけたので、俺は「以上で」と先に注文を確定させた。
居酒屋で議事録を取ろうとするな。
注文で場が持ったのは、四十秒だった。
店員が去ると、また沈黙が降りてくる。
馬剃さんは枝豆をもう三つ並べた。
……気まずい。
二週間、毎日八時間隣で喋っている相手と、いま俺は、初対面より気まずい時間を過ごしている。
仕事の話をすればいいのは分かっている。
分かっているが、それをやったらこの三時間は残業と変わらない。俺がこの人を連れ出した意味がなくなる。
俺は覚悟を決めて、当たり障りのない球を投げた。
「馬剃さん、変わらないですね」
「変わりました」
「そうですか?」
「校則を暗記しなくなりました」
俺は焼き鳥を持つ手を止めた。
「……就業規則を暗記してるだけでは」
馬剃さんが、ぴたりと止まった。
三秒。
それから、ジョッキをテーブルに置いて、彼女は言った。
「そういうとこですよ、温水さん」
――出た。
ばくん、と心臓が跳ねた。
温水さん。
十六年ぶりに、その呼び方をされた。
二人とも、動きが止まった。
馬剃さんが、ゆっくりと自分の口元を押さえる。
顔はもう耳まで赤い。今度は店内の温度のせいではない。
「あの、いまのは」
「二回目ですね」
「……はい」
「今日だけで二回」
「そうですね」
「ひさしぶりに言われましたよ、それ」
俺がそう言うと、馬剃さんは押さえていた手を、そっと下ろした。
「……八奈見さんの口癖でしたよね」
その名前が出るまでに、二週間かかった。
二杯目が来るころには、店の空気が変わっていた。
「そもそも、あなたが悪いんですよ」
馬剃さんは箸で俺を指した。行儀が悪い。素面ならこの人は絶対にやらない。
「なにが」
「持ち物検査です」
「あれは俺、被害者だろ」
「学校にあんな本を持ってくるのが悪いんです」
「普通の小説だって言ったよな。文庫本だぞ」
「表紙をご覧になりましたか?」
「見たよ」
馬剃さんが、ジョッキを置いて姿勢を正した。
「『二人合わせてハタチだから、いますぐお嫁にいけますよ?』」
一字一句、正確だった。
「え、覚えてるの?」
「忘れられるわけがないでしょう!」
馬剃さんの声が裏返った。
裏返ってから、彼女は周囲を見回した。
隣の席のサラリーマンが、ちらりとこちらを見た。
「……いま、私、声に出して」
「出してた。フルタイトルで」
「あなたが言わせたんです!」
「自分から暗唱したんだよ」
馬剃さんは耳まで赤くなったまま、姿勢だけを正した。
「私、あのタイトルの意味が、いまだに分からないんです。十歳が二人いても結婚はできません。十六年考えました」
「十六年も考えてたの?」
「たまにです。たまに、ふと思い出して、そのたびに腹が立つんです」
俺は思わず吹き出した。
馬剃さんが不機嫌そうに枝豆を開ける。
「笑わないでください」
「いや、ごめん。……あれ、合法になった世界の話だから」
「どういう世界ですか」
「そういう世界だよ」
「答えになってません」
二杯目の三分の一が減った。
馬剃さんの言葉が、少しずつ速くなっている。
「だいたい、文芸部は問題が多すぎたんです。月之木先輩の件もありますし」
「あー」
俺は目を逸らした。
あの人が学校に持ちこんでいたものについては、いまでも弁護のしようがない。
「あの、月之木先輩は」
「聞きたくありません」
「まだ何も言ってない」
「言われる前に分かります。あの方の話は、必ずろくでもない方向に行くんです」
――早い。
俺は、ジョッキを持つ手を止めた。
この人は、都合の悪いことを聞かれると、否定が早くなる。
十六年前からそうだった。「別にそういう意味では」を、相手が言い終わる前に被せてくる。
いま、たぶん、〇・三秒くらい早かった。
「元気にしてると思うよ、たぶん」
「してるでしょうね。ああいう方は、必ず元気なんです」
言い方に、若干の恨みがこもっていた。
十六年経っても消えない恨みというものが、この世にはあるらしい。
……いや。
恨みだろうか、これは。
俺は、少し考えた。
考えて、やめた。
三杯目の途中で、人の感情の分類を始めるのは、たぶん、あまり健康的ではない。
「そもそも、あの本を持ちこんだのは俺じゃないからな」
「知ってます」
「知ってるのに没収したの?」
「文芸部の管理責任です」
「一年生だぞ、当時の俺」
「部長でしたよね」
「二年からだよ」
馬剃さんが、しばらく考えこんだ。
「……あれ」
「一年のときは平部員だ。部長は玉木先輩で、そのあと小鞠だった」
「では、私が最初に叱ったときのあなたは」
「ただの一年生」
馬剃さんが、ジョッキを持ったまま固まった。
「十六年、勘違いしてました」
「けっこう理不尽に怒られてたんだよ、俺」
「……申し訳ありません」
「いまさら謝られても」
「謝りますよ。私、そういうところは、ちゃんとしてるんです」
言いながら、馬剃さんは本当に頭を下げた。
居酒屋の四人席で、三十四歳が三十四歳に頭を下げている。妙な絵面だった。
「顔上げて。焼き鳥がタレに落ちる」
「あっ」
「そういう馬剃さんだって、猫耳つけてただろ」
三杯目の途中で、俺は反撃に出た。
馬剃さんの箸が止まった。
「……なんの話でしょうか」
「ツワブキ祭」
「記憶にありません」
「メイド服で」
「記憶にありません」
「文芸部の会場に飛びこんできて、『会長、次は天文部ですにゃあ』って言ってた」
「言ってません! 言ってませんし、記憶にありませんし、あれは生徒会の職務です!」
「職務で猫耳つけるの?」
「つけます! ときには!」
「最初は志喜屋先輩に言わされて、嫌そうだったのにな。視察の終わりには『いつ仮装なさるんですにゃ?』って、完全に自前の語尾になってた」
「慣れです! 語尾は、慣れます!」
「慣れたんだ」
「……慣れました」
認めた。
「ちなみに、職務じゃないときもつけてたよな」
「……なんの話でしょうか」
「馬剃さんの家。『私を応援してくださいにゃあ』」
馬剃さんの顔が、耳から順に赤くなった。
さっきまでの酒の赤とは、明らかに種類の違う赤だった。
「あれは! あなたがチカピョンをお好きだと伺ったので、そういう趣向がよろしいのかと!」
「グッズで釣って家に呼んだのは、そっちだけどな」
「呼んでません! 勉強会です!」
「その日のうちに二回目があっただろ。選挙を手伝えって頼んできたとき。招き猫のポーズ付きで」
「数えないでください!」
「で、後日には、チカピョンの格好で渡り廊下に立ち塞がってた」
「立ち塞がってません! お、お待ちしていただけです!」
「二期の衣装、完全再現で」
「あなたが二期派だと調査済みでしたから!」
「その調査力、当時から仕事で使うべきだったな」
「うるさいですね!」
馬剃さんがテーブルを叩いた。
隣の席のサラリーマンが、こちらを見た。
俺は水を差しだした。
馬剃さんは受け取って、一口飲んで、それからゆっくり座り直した。
「……失礼しました」
「いえ」
「私、お酒を飲むと、少しだけ、感情の制御が」
「うん、分かった」
彼女はしばらく黙って、ジョッキの取っ手を指でなぞっていた。
「……ちなみにチカピョンのときは、『にゃんとかは言いませんけど』って、自分で宣言してたな」
俺がそう言うと、馬剃さんは意外そうに顔を上げた。
「しました。あれは、真剣なお願いでしたから」
「うん」
俺はジョッキを見た。
見たまま、口を開いた。
「『いまだけは私を――私だけを推してくれませんか』」
馬剃さんが、小さく息を呑んだ。
「……一字一句、覚えてるんですね」
「忘れられるわけがないだろ」
さっきの彼女の台詞を、そのまま返した。
馬剃さんは何か言いかけて、やめた。
やめて、ジョッキの残りを一息で飲んだ。
「飲みます」
「もう飲んでるんだよなあ」
それから彼女は、逃げるように話題を変えた。
「そういえば、あのときのあなた、本当に嫌な顔をしてましたね」
「そりゃするだろ。目の前で先輩に襲われてたし」
「襲われてません!」
馬剃さんが、また声を上げる。
「あれは志喜屋先輩が――そう、志喜屋先輩ですよ! あの方が全部悪いんです!」
「まあ、七割くらいはあの人のせいだと思う」
「十割です」
「体育館の照明を落としたのは、さすがに十割あの人だな」
その一言で、馬剃さんの動きが止まった。
止まって、そして、噴き出した。
「……本当に、あれは」
「うん」
「あの人、演説の途中で選手交代とか言い出して」
「言ったな」
「私、舞台袖であなたと一緒に、あんぐり口を開けて」
「開けてたね」
馬剃さんが笑っていた。
声を出して、肩を揺らして、手を口に当てて。
俺はそれを見ていた。
じん、と胸のあたりが熱くなる。
この感じに、俺は名前をつけないことにしている。五年前からずっとそうしている。
――十六年ぶりだ。
この人がこういう笑い方をするのを見るのは。
「そういえば、カラオケにも行きましたよね」
笑いが収まってから、馬剃さんが言った。
「行ったな」
「三時間で、一曲しか歌いませんでした」
「勉強してたからな」
「カラオケボックスで、古文の参考書を開いて」
馬剃さんが、しみじみと言う。
「いま思えば、あれはかなりの奇行だったのでは」
「言い出したのは馬剃さんだぞ」
「私は相談に乗ってもらうつもりでした。あなたが場所をカラオケにしたんです」
「八奈見さんが『カラオケは戦場だ』とか言ってたから、なんかそういう場所かと」
「戦場でしたよ、確かに」
馬剃さんは真顔でうなずいた。
「あの日、私は英単語を四十七個覚えました」
「数えてたの?」
「記録は取ります」
この人は本当に記録を取る。
十六年前も、いまも。
「あと、最後の一曲も覚えてます」
「……あれは」
「ギリアウの一期ED。マイク、両手で渡されたんだよな、俺」
「お渡ししただけです」
「圧があった」
「気のせいです」
「というか、なんで歌えたの、あれ。フルで」
「……時間の、有効活用です」
「答えになってない」
馬剃さんは、枝豆に集中しはじめた。
俺は、それ以上聞かなかった。
十六年前も、聞かなかった質問である。
「そういえば、優等生のお二人にも相談させてもらいましたよね」
「ああ、綾野と朝雲さん」
「朝雲さんの勉強法、覚えてますか」
「教科書と副読本を全部覚えるやつ」
「奥付まで、とおっしゃってました」
馬剃さんがジョッキを置いて、両手をテーブルに乗せた。
「私、あの日、家に帰ってから三時間くらい放心してました」
「俺もだよ」
「あの方、いまどうされてるんでしょう」
「……さあ」
俺は焼き鳥の串を皿に置いた。
馬剃さんが、少し首を傾げた。
「連絡、取ってらっしゃらないんですか」
「……取ってないな」
「どなたとも?」
「うん」
言ってから、俺は自分の言い方が短すぎたことに気づいた。
さっきこの人は言ったばかりだ。
本当に隠したいときだけ、短くなる、と。
馬剃さんは何も聞かなかった。
ジョッキを持ち上げて、少しだけ飲んで、話を変えた。
「私は、志喜屋先輩とだけ、いまでも」
「あ、そうなんだ」
「はい。……年に何度か、意味の分からないメッセージが届きます」
「意味の分からない?」
「先月は『春……溶ける……』とだけ」
「あの人、変わってないな」
「変わってません。十六年、一文字も変わってません」
馬剃さんが真剣な顔で言うので、俺はまた笑ってしまった。
四杯目は、俺が止めた。
代わりに出汁巻き卵を頼んだ。
「馬剃さんは、大学どこ行ったんだっけ」
「名古屋大学です。法学部」
「あ、そう」
俺は箸を止めた。
「……えっ、名大?」
「はい」
「ツワブキから名大って、けっこう上の方だよな」
「三年生のときに、かなり頑張りました」
馬剃さんは出汁巻きを一切れ取って、皿に乗せた。
「一年の冬に、ある人から国語を教わったのがきっかけです」
俺は出汁巻きを見ていた。
馬剃さんも出汁巻きを見ていた。
二人とも、しばらく出汁巻きを見ていた。
「……それで、そのまま国家公務員試験を受けまして」
「うん」
「総合職です。文部科学省に入りました。初等中等教育局と、高等教育局に」
「すごいな」
「すごくありません」
その否定は、少し速かった。
「……十年で辞めましたので」
空気が、一段だけ沈んだ。
俺はそれを、たぶん一秒で判断した。
「俺は十二年目」
「え」
「ずっと同じ大学。転職もしてない。異動だけ四回」
「四回、ですか」
「会計課三年、大学病院の医事課一年、病院の用度管財課三年、入試広報課五年目」
馬剃さんが指を折った。
「医事課だけ、一年ですね」
「そこ、みんな聞くんだよな」
「向いてなかったんですか」
「向いてなかった」
「なにが」
俺はジョッキの底を見た。
「一円単位で人の命の値段を数える仕事なんだけど、俺、適当だから」
馬剃さんが、何か言おうとして、やめた。
「……そのあとの、用度管財課というのは」
「業者さんと院内の板挟みになる係。毎日誰かに怒られる」
「それは、つらいのでは」
「それが意外と楽しくてさ」
俺は肩をすくめた。
「怒られ方って、人によって癖があるんだよ。そこを覚えると、だいたい丸く収まる」
馬剃さんが、じっとこちらを見た。
「……高校の頃と、同じことをされてるんですね」
俺は返事をしなかった。
高校の頃、俺が何をしていたのか。
それを一言でまとめると、たぶんこの人の言うとおりになる。
あの三年間、俺は毎日、誰かと誰かのあいだで、怒られない方法を探していた。
その技術で、いま飯を食っている。
「なんで大学職員になったんですか」
「就職活動が面倒で、最初に受かったところに行った」
「……それだけですか」
「それだけ」
馬剃さんが、ぽかんとした顔をした。
それから、また笑った。
「あなたって、本当に」
「なに」
「……いえ。なんでもありません」
出汁巻きが半分になったころ、馬剃さんが箸を置いた。
「温水さん。一つ、お伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「初日の、『知り合い程度』の件です」
俺の手が止まった。
馬剃さんは、まっすぐこちらを見ていた。
顔は赤いが、目は据わっていた。
「最初は、傷つきました」
「……はい」
「正直に申し上げると、かなり」
「はい」
「ですが、三日で分かりました」
彼女はグラスの水を一口飲んだ。
「中途で入った女性職員が、既存の男性職員と高校の友人だと分かったら、どう扱われるか。……あなたは、私の三年後を計算して喋ったんですね」
俺は箸を置いた。
「そんな深く考えてないよ」
「嘘です」
即答だった。
「あなたは昔から、そういう嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしないんです」
――は?
「普段のあなたは、嘘をつくときに必ず余計な情報を足します。『歯医者の予約が十八時十五分で』とか。細かければ細かいほど嘘です」
「え、待って」
「本当に隠したいときだけ、短くなるんです」
俺は言葉に詰まった。
三十四年生きてきて、自分の嘘のパターンを他人に解説されたのは、これが初めてだった。
しかも十六年ぶりに再会した相手にである。
「……よく見てんな」
「見ていました」
あっさりと、彼女は言った。
どき、とした。
過去形なのか現在形なのか。
俺はその一秒くらい、本気でそれを考えていた。
その一言の重さに気づく前に、馬剃さんが続けた。
「ちなみに、今日のこのお店も、大学から二駅ですね」
「……あ」
「一駅目で降りようとしたら、あなたが『まだです』と言いました」
「言った」
「なぜ二駅なんですか」
「……たまたま」
「短いですね」
俺は天井を仰いだ。
馬剃さんが、口元を隠して笑っている。
完全に楽しんでいる。この人、酒が入ると性格が悪くなるらしい。
「そういうとこですよ」
「三回目だぞ、それ」
締めに頼んだお茶漬けをつつきながら、馬剃さんが思い出したように顔を上げた。
「温水さんは、まだ読まれるんですか」
「なにを」
「その、ライトノベルを」
「読むね」
「いまでも」
「いまでも」
馬剃さんが、なんとも言えない顔をした。
「三十四歳ですよね」
「三十四歳だな」
「三十四歳で」
「三十四歳で読むんだよ。むしろ可処分所得が増えて、大人買いができる」
「大人買い」
「高校のときは月に二冊が限界だったけど、いまは一箱で買える」
馬剃さんが、箸を置いた。
「……その、失礼を承知でお聞きしますが」
「どうぞ」
「コミックマーケットというものを、ご存じですか」
俺はお茶漬けを噛む手を止めた。
なぜここでその単語が出てくるのか。
「知ってるけど」
「先日、テレビで特集をしていました。年に二回、二十万人が集まるとか」
「二十六万だな」
「二十六万」
「二日で二十六万」
「……お詳しいですね」
「まあ」
俺は湯呑みに手を伸ばした。
伸ばしたところで、馬剃さんの目が、じっとこちらを見ていることに気づいた。
「まさか」
「なにが」
「行かれるんですか」
「……行くね」
「行くんですか!」
馬剃さんが身を乗りだした。
「豊橋のころは、なかなか行けなかったから。東京に来てからは毎回」
「毎回!」
「あと、その」
俺は湯呑みを置いた。
言うか言うまいか、二秒だけ迷った。
「サークル側でも出てる」
「さーくる」
「出す側。本を作って、机の向こうに座ってるほう」
馬剃さんが、完全に固まった。
十秒くらい固まっていた。
「……あの」
「はい」
「それは、その、月之木先輩のような本ではありませんよね」
「違うわ!」
今度は俺が声を上げた。
隣のサラリーマンが、また見た。
「普通のだって。設定資料集みたいなやつ。読んだラノベの年表とか作ってるだけだから」
「年表」
「年表」
「……それは、需要があるんですか」
「あるんだよ、これが」
馬剃さんは、しばらく黙っていた。
それから、湯呑みを両手で持って、小さく息を吐いた。
「……安心しました」
「なにが」
「あなたが、ちゃんと同じ人のままで」
俺は、その言葉にすぐ返事ができなかった。
馬剃さんはそれ以上何も言わず、お茶漬けの残りを静かに食べていた。
店を出たのは、九時前だった。
四月の夜はまだ少し冷える。
馬剃さんはコートの前を合わせながら、駅までの道をゆっくり歩いた。
商店街のアーケードはもう半分が閉まっていて、シャッターの前を風が抜けていく。
二人の足音が、やけによく響いた。
三時間近く喋った。
喋ったのに、俺たちは高校の三年間の、かなり大きな部分に一度も触れていない。
生徒会長選挙の話は出た。
志喜屋さんが照明を落とした話も、猫耳の話も、チカピョンの格好で渡り廊下に立っていた話も出た。
だが、あの日の体育館で俺が何を喋ったのかは、二人とも口にしなかった。
その先にあることも、当然のように避けて通った。
――たぶん、意図的だ。
少なくとも俺は意図的だった。
この人がどうかは分からない。分からないが、たぶん同じだ。
三時間かけて、俺たちは十六年の答え合わせをした。
答え合わせをして、たった一問だけ、白紙のまま提出した。
それでいい、と俺は思っていた。
……いや。
思おうとしていた、というのが正確だと思う。
自販機の前で、彼女が足を止めた。
「少し、酔いを覚まします」
小銭を入れて、ボタンを押す。
落ちてきたのは、黒いラベルの缶コーヒーだった。
俺は、それを見ていた。
――今日なら、聞けるか。
「馬剃さん」
「はい」
「コーヒー、苦手じゃなかったっけ」
馬剃さんの手が、ぴたり、と缶の上で止まった。
風が吹いて、コートの裾が揺れた。
――なんだ、いまの間は。
胸のどこかが、ちくりとした。
「……昔の話です」
それだけだった。
彼女はプルタブを開けて、一口飲んだ。
飲んで、少しだけ眉のあたりを動かした。
「まずいんですね、それ」
「まずいです」
「じゃあ飲まなきゃいいのに」
「そうですね」
馬剃さんは、缶を両手で包んだ。
それ以上は、何も言わなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
改札の前で、俺たちは立ち止まった。
「今日は、その、ありがとうございました」
「いや、こっちこそ。楽しかったよ」
「……はい」
馬剃さんが、缶を持ち直した。
「あの」
「うん」
「温水さん」
その呼び方に、俺は顔を上げた。
馬剃さんは、何か言おうとしていた。
口が開いて、言葉の手前で止まって、それから閉じた。
しばらく、二人とも黙っていた。
改札の音が、規則正しく鳴っている。
「……いえ」
馬剃さんが言った。
「明日から、また、温水主任と呼びます」
「なんで」
「職場ですので」
「そっか」
「はい」
彼女は缶をコートのポケットに入れて、鞄を持ち直した。
「では、失礼いたします」
改札を抜けて、二歩進んで、それから振り返る。
頭を下げた。
――三十度じゃなかった。
もっと浅くて、少し崩れていて、下げ終わったときに彼女は少し笑っていた。
俺は、ぱっと手を上げた。
上げてから、自分が高校生みたいなことをしていることに気づいて、そそくさと下ろした。
顔が、少し熱かった。
四月の夜は冷えるはずなのに、おかしな話である。
馬剃さんの背中が、階段の向こうに消える。
俺はしばらく、そこに立っていた。
十六年ぶりに、あの人の笑い方を見た。
十六年ぶりに、名前を呼ばれた。
……そして俺は、十六年前に返事をしなかった話を、今日も一言も出さなかった。
ホームに降りると、電車がちょうど入ってきた。
俺は乗って、ドアの横に立って、ポケットの上から定期入れを押さえた。