大学職員の僕たち   作:房吉

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~21敗目~ 起案は通らない

 

 (十一月四日〜十二月十九日/温水視点)

 

 十一月四日、火曜日の朝。

 

 俺の机の上に、クリアファイルが置いてあった。

 

 中身は、A4で十一枚である。

 

 表紙に、こうあった。

 

 『本学におけるSD体系の整備について(案)』

 

 ――課長じゃなくて、俺か。

 

 俺は、まずそれを思った。

 

 企画の起案は、普通、課長に上げる。

 

 新しいことをやりたいなら、直属の上司に相談するのが筋である。

 この人は、そういう筋を絶対に外さない人だ。

 

 外さない人が、外した。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ、課長には」

 

「まだです」

 

「なんで」

 

 天愛星さんは、画面を見たまま答えた。

 

「先に、否定していただきたくて」

 

「……否定」

 

「はい」

 

「肯定じゃなくて」

 

「肯定は、課長がしてくださいます」

 

「俺の役割は」

 

「穴を開けることです。徹底的にお願いします」

 

「発注の仕方が怖いんだよなあ」

 

「怖くありません。品質管理です」

 

「品質管理って言われると、断りにくいんですよ」

 

「断りにくいように、申し上げました」

 

「自覚あるんだ」

 

「あります」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、根回しの外堀型ですよね」

 

「……七月に、教わりました」

 

「教えたの、俺か」

 

「あなたです」

 

 この人は、こういう頼み方をする。

 

 SDというのは、スタッフ・ディベロップメントの略である。

 

 大学の職員が、ちゃんと仕事ができるように研修をやりなさい、という話だ。

 二〇一七年から、大学設置基準で義務になっている。

 

 義務になっているので、どこの大学もやっている。

 

 うちの場合、年に一回、全体研修会というのをやる。

 

 外部から講師を呼んで、九十分の講演を聞く。

 テーマは毎年変わる。去年は「大学経営を取り巻く環境変化」だった。

 

「うちの全体研修会、参加率どれくらいだと思います」

 

「六割ほどでしょうか」

 

「四割です」

 

「……四割」

 

「で、俺は五年連続で欠席してます」

 

「存じております。三ページ目の脚注に、匿名の事例として入れてあります」

 

「入れたんだ」

 

「事例は、具体的なほうが通ります」

 

「俺じゃん」

 

 参加率は、四割である。

 

 俺は、五年連続で欠席している。

 

 欠席というのは、正確ではない。

 

 毎年、その日に高校訪問か、業者との打ち合わせを入れている。

 入れておくと、欠席にならない。「業務の都合」になる。

 

 五年連続で「業務の都合」が入るというのは、統計的にはあり得ない。

 

 あり得ないのに、誰も何も言わない。

 

 言わないので、俺は五年、行っていない。

 

 天愛星さんの企画書は、そこから始まっていた。

 

 『現状、本学のSDは年一回の全体研修会のみであり、大学設置基準第十一条第一項が求める「必要な研修の機会を設ける」という水準を、形式的に満たしているに過ぎない』

 

 二行目で、俺は姿勢を直した。

 

 この一文は、危ない。

 

 「形式的に満たしているに過ぎない」というのは、要するに「うちはやったふりをしている」という意味である。

 

 役所の文書なら、たぶん、この書き方は通らない。

 

 通らないが、事実だった。

 

 三枚目に、提案があった。

 

 階層別が四つ。新任、三年目、中堅、管理職。

 分野別が四つ。学務、入試、財務、広報。

 

 講師は、外部から呼ばない。

 

 学内の職員が、やる。

 

 六枚目に、こう書いてあった。

 

 『本学の事務局には、十年以上の実務経験を持つ職員が多数在籍している。しかし、その経験は個人に属したまま、組織に蓄積されていない。SDの本質は、外部の知見を輸入することではなく、内部の経験を言語化することにある』

 

 ――これ。

 

 俺は、そこで一度、目を上げた。

 

 これは、俺のことである。

 

 共有フォルダの『99_温水メモ』。

 

 あれは、俺の頭の中にあるものを、三年後の誰かが読めるようにするためのものだ。

 

 この人は、四月から、それを毎日読んでいる。

 

 読んで、こう書いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ、よくできてます」

 

「恐れ入ります」

 

「めちゃくちゃよくできてます」

 

「……はい」

 

 

 

 

「たぶん、通らないです」

 

 

 

 

 天愛星さんの手が、キーボードの上で、ぴたり、と止まった。

 

「理由を、伺えますか」

 

「三つあります」

 

 俺は、指を三本立てた。

 

「一つ目。これ、入試広報課の起案じゃ通らないです」

 

「といいますと」

 

「全学の職員研修の所管は、人事課です」

 

 天愛星さんが、事務分掌規程を開いた。

 

 紙のほうである。

 

 この人は、規程は紙で持っている。

 

「そのふせん、何枚貼ってあるんですか」

 

「三十七枚です」

 

「数えてるんだ」

 

「先週、一枚増えました」

 

「増えた報告はいらないです」

 

「三十八枚目は、事務決裁規程です」

 

「いらないです」

 

「別表第三に、代決者の一覧が」

 

「知ってます。十月に教わりました」

 

「……教えたのは、私です」

 

「はい」

 

「いま私は、私が教えた話を、私に説明されました」

 

「されましたね」

 

「……返してくださいっ」

 

「返せないんだよなあ」

 

 開いて、二十秒で見つけた。

 

「……第八条第三項。『職員の研修に関すること』は人事課の分掌です」

 

「そうです」

 

「私の確認漏れです」

 

「いや、確認漏れとかじゃなくて」

 

「規程は、全条読みました。所管が人事課であることも、知っていました」

 

「でしょうね」

 

「知っていて、規程上は可能だと判断しました」

 

「その判断は合ってます。規程上はね」

 

 俺は、椅子を回した。

 

「規程上は、うちが企画しても違法じゃないです。ただ」

 

「はい」

 

「人事課の課長が、これを見てどう思うかです」

 

 ――余所の課が、うちの仕事に口を出してきた。

 

 そう思われたら、終わりである。

 

 内容がどれだけ正しくても、そこで止まる。

 

 止め方は、いくらでもある。

 

「止まると、どうなるのですか」

 

「『検討します』が来ます」

 

「検討は、していただけるのでは」

 

「『検討します』は、事務局語で『しません』です」

 

「……辞書に載せるべきです」

 

「載ってないから強いんですよ」

 

 天愛星さんが、手帳を開いた。

 

「書くんだ、それ」

 

「書きます」

 

「ほかにもありますよ。『貴重なご意見として承ります』は『聞き流します』」

 

「……」

 

「『前向きに検討』は『しません、でも角は立てたくない』」

 

「……」

 

「『所管と調整のうえ』は『たらい回しにします』」

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「もう少し、ゆっくり言ってくださいっ」

 

「追いつかない?」

 

「追いつきませんっ」

 

「馬剃さん、速記できるって言ってませんでしたっけ」

 

「できます」

 

「じゃあ」

 

 

 

 

「――速記の問題ではありませんっ!」

 

 

 

 

 声が、島に響いた。

 

 大貫が、二つ向こうの席で、椅子ごとこちらを向いた。

 

 俺は、手のひらを下に向けて、二回ふった。

 

 大貫は、椅子ごと戻った。

 

「……失礼しました」

 

「いえ」

 

「……手が、追いつかないのではありません」

 

「はい」

 

「頭が、追いつかないのですっ」

 

「そこ、張り合うところじゃないですよ」

 

「張り合っておりませんっ」

 

 

 

 

 天愛星さんは、四行書いて、ペンを止めた。

 

 止めて、その四行を、しばらく見ていた。

 

「……この語彙で、私は十年、文書を書いていました」

 

「でしょうね」

 

「私は、何人に『検討します』と言ったのでしょうか」

 

「数えないほうがいいですよ」

 

「数えます」

 

「そこは数えるんだ」

 

「……数えないと、直せませんので」

 

 俺は、返す言葉を探して、見つからなかった。

 

 この人は、たまに、こういう返し方をする。

 こっちが軽い話をしているつもりのところに、正面から刺してくる。

 

 しかも、本人には刺した自覚がない。

 

 「検討します」と言って、三年検討すればいい。

 

「二つ目。講師を学内から出すのは、いい案です。ただ、各課が『うちは人を出せない』って言います」

 

「なぜですか」

 

「忙しいからです」

 

「研修は、業務です」

 

「業務ですけど、期限のない業務です」

 

 俺は、机の上の未処理の書類の山を、顎で示した。

 

「期限のある業務と期限のない業務が並んだら、人は期限のあるほうをやります」

 

「……はい」

 

「これは、人格の問題じゃないです」

 

「では、何の問題ですか」

 

「締切の問題です。なので、この企画にも締切をつけます」

 

「つけられるのですか」

 

「『次年度予算に間に合わせる』。事務局でいちばん強い締切です」

 

 天愛星さんは、それを書き取った。

 

「三つ目は」

 

 俺は、そこで一度、口を閉じた。

 

 九枚目である。

 

 『効果測定について』

 

 三ページ、割いてあった。

 

 研修を受けた職員が、三か月後にどう変わったか。

 

 上司の主観評価は使わない。

 業務データと、本人の自己申告の二本で測る。測定項目が十四個ある。

 

 この三ページが、いちばん精度が高かった。

 

 いちばん精度が高くて、いちばん、通らない。

 

「三つ目。この効果測定の部分、削りましょう」

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

 顔から、表情が抜けていた。

 

「……理由を」

 

「測れないものを『測ります』と書くと、必ず潰れます」

 

「測れます。設計しました」

 

「設計はできてます。ただ」

 

 俺は、その三ページを指で叩いた。

 

「これ、読んだ人が『じゃあ、うちの課の数字も出るのか』って思います」

 

「……」

 

「出したくない課が、必ずあります」

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

 空調の音がしていた。

 

「……削ります」

 

 天愛星さんが、そう言った。

 

 早かった。

 

 三秒くらいだった。

 

「え」

 

「削ります。九枚目から十一枚目を、削除します」

 

「あの」

 

「削除して、代わりに『実施後の振り返りの機会を設ける』と一行だけ入れます」

 

「……はい」

 

「それで、通りやすくなりますか」

 

「なります」

 

「では、そうします」

 

 天愛星さんは、そのまま作業に戻った。

 

 俺は、企画書を持ったまま、動けなかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「なんで、そんなに早く決めるんですか」

 

 彼女は、画面から目を離さずに答えた。

 

 

 

 

「二度目だからです」

 

 

 

 

 俺は、そこで、たぶん十秒くらい何も言えなかった。

 

 一度目は、九年前である。

 

 評価の記録を残す仕組みを、この人は三年かけて作った。

 現場の負担が増えるという反対を、数字で押し返した。

 

 通した。

 

 五年目に、廃止された。

 

 廃止の理由は、記録に一行だけ残っている。

 『運用上の負担に鑑み』。

 

 二度目のいま、この人は、押し返さなかった。

 

 三秒で、削った。

 

 ……賢くなった、と言うべきなのだろうか。

 

 俺には、そう思えなかった。

 

 人が学習するとき、二つの方向がある。

 

 一つは、「次はこうすれば通る」と学ぶ方向。

 

 もう一つは、「どうせ通らないから、先に削っておく」と学ぶ方向。

 

 外から見ると、この二つは同じ動きに見える。

 

 どちらも、素早く譲る。

 

 違いは、譲ったあとに残るものである。

 

 前者には、次がある。

 後者には、次がない。

 

 三秒で削ったこの人が、どちらなのかを、俺はそのとき判別できなかった。

 

 

 

 

 十一月七日、金曜日、十七時十五分。

 

 俺は、席を立たなかった。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「お帰りにならないんですか」

 

「うん」

 

「本日は、金曜日です」

 

「知ってる」

 

「定時です」

 

「知ってる」

 

「権利は、行使しないと錆びると伺いました」

 

「言った。俺が言った」

 

「五月七日です」

 

「日付まで記録しないでください」

 

「記録は、取ります」

 

「その一文、今年に入って何回聞いたと思います」

 

「四十二回です」

 

「数えてたのか」

 

「記録は、取ります」

 

「四十三回目です」

 

 天愛星さんが、こちらを見ていた。

 

「……ご体調が」

 

「悪くない」

 

「では」

 

「資料作ってる」

 

「なんの資料でしょうか」

 

 俺は、画面をこちらに向けた。

 

 表題は、こうである。

 

 

 

 

 『人事課提案 職員研修体系の見直しについて(たたき台)』

 

 

 

 

 天愛星さんが、それを読んだ。

 

 読んで、動きが止まった。

 

「……人事課、提案」

 

「はい」

 

「私の企画書と、内容がほぼ同一です」

 

「同一です」

 

「起案課が、違います」

 

「違います」

 

「……なぜですか」

 

 俺は、椅子を回して、彼女のほうを向いた。

 

「来週の火曜に、人事課長と昼を食います」

 

「はい」

 

「そこで、これを見せます」

 

「はい」

 

「『人事課さんのほうで、こういうのを考えてらっしゃいませんか』って聞きます」

 

 天愛星さんが、口を開いた。

 

「……考えていらっしゃらないと思います」

 

「思います」

 

「では、なぜ」

 

「考えてなくても、そう聞くんです」

 

 俺は、そこで一つ、息を吐いた。

 

「そうすると、あの人は『あー、まあ、そういうのはね』って言います」

 

「はい」

 

「そのあと、こっちが『じゃあ、うちで作った素案でよければ、使ってください』って言う」

 

「……」

 

「そうすると、これは人事課の企画になります」

 

 天愛星さんは、しばらく画面を見ていた。

 

「……私の名前は」

 

 

 

 

「消えます」

 

 

 

 

 俺は、はっきり言った。

 

 ここを曖昧にすると、あとで必ず揉める。

 

「起案者は人事課の担当者になります。馬剃さんの名前は、どこにも残らないです」

 

「……」

 

「協力者として名前を入れることはできます。ただ、入れると、また『入試広報課が』って話になります」

 

「はい」

 

「なので、消したほうが通ります」

 

 天愛星さんは、両手を膝の上に置いていた。

 

 その手が、少し白かった。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「それは、正しい方法ですか」

 

 

 

 

 ――来た。

 

 

 

 

 俺は、その質問を待っていた。

 

 この人は、必ず聞くと思っていた。

 

「正しくないです」

 

「え」

 

「正しくないですよ、これ」

 

 俺は、画面を閉じた。

 

「正しいのは、馬剃さんが起案して、馬剃さんの名前で通ることです」

 

「はい」

 

「ただ、それは通らないです。俺はそれを五年見てます」

 

「……」

 

「だから、正しくない方法を使います」

 

 天愛星さんは、何も言わなかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「嫌なら、やめます」

 

「……なぜ、そこまでされるんですか」

 

 俺は、そこで詰まった。

 

 九月にも、同じことを聞かれた。

 

 あのときは、「部屋が、あの状態だったから」と答えた。

 

 いまは、部屋は片付いている。

 

「……これ、通ったほうがいいと思うんで」

 

 俺は、そう言った。

 

「うちの職員、優秀な人が多いんですよ。でも、それが誰にも引き継がれてないです」

 

「はい」

 

「俺が明日辞めたら、俺の頭の中のやつは全部消えます」

 

「……」

 

「それ、もったいないなって、五年くらい思ってました」

 

「五年」

 

「五年です」

 

「五年思って、なにもされなかったんですか」

 

「しなかったです」

 

 俺は、正直に答えた。

 

「思ってただけです。企画書、書いたことないです」

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

 その目が、少し変わっていた。

 

「……では」

 

「はい」

 

「今回は、私が書きました」

 

「書きました」

 

「あなたは、通します」

 

「通します」

 

 

 

 

「では、名前は要りません」

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いま、即答しましたね」

 

「はい」

 

「三秒でした」

 

「二秒です」

 

 俺は、そこで一度、椅子ごと彼女のほうを向いた。

 

「あの、これ、けっこう理不尽なことを言ってるんで」

 

「存じております」

 

「もうちょっと、渋ってもらってもいいです」

 

「必要ですか」

 

「必要じゃないですけど」

 

 天愛星さんが、少しだけ、口の端を上げた。

 

「……渋ると、あなたが、私に気を遣います」

 

「遣いますね」

 

「遣うと、遅くなります」

 

「遅くなりますね」

 

「ですので、即答します」

 

 ――そういう理由か。

 

 俺は、そこで、少しだけ救われた。

 

 少しだけ、である。

 

 彼女は、そう言って、パソコンを開いた。

 

「九枚目から十一枚目は、すでに削除済みです。人事課提案の体裁に直します。一時間ください」

 

「あ、いや、それは俺が」

 

「私がやります」

 

「馬剃さん、これ俺の仕事なんで」

 

「私の企画です」

 

「名前、消すんですよね」

 

「消します」

 

「消すのに、体裁は自分で直すんですか」

 

「……消えるものほど、正確につくります」

 

「…………」

 

「消えたあとに残るのは、体裁だけですので」

 

 その日、俺は十九時四十分まで残った。

 

 人生で、たぶん三番目に長い自主残業である。

 

 一番目と二番目は、去年の会計課併任のときだが、あれは業務命令だった。

 

 だから、自分の意志で残ったのは、これが初めてかもしれない。

 

 俺は、十二年、定時に帰ってきた。

 

 権利は行使しないと錆びる、と言ってきた。

 実際、そう思っている。いまも思っている。

 

 ただ、その理屈には続きがあって、俺はそれをずっと言わないでいた。

 

 ――残業しないというのは、要するに、残ってまでやりたいことがない、ということでもある。

 

 十二年、なかった。

 

 いま、ある。

 

 それだけの話である。それだけの話だが、十二年かかった。

 

 

 

 

 十一月十一日、火曜日。

 

 人事課長と、学食の二階で昼を食った。

 

 この人は、五十二歳で、うちの事務局でいちばん腰が重い。

 

 腰が重いのは、慎重だからである。

 慎重な人は、動かない代わりに、動いたあとで引き返さない。

 

 俺は、十五分、まったく別の話をした。

 

 来年度の採用の話と、うちの課の若手の話と、あとは学食のカレーの話である。

 

 カレーの話が、いちばん長かった。

 

「ここのカレー、五年前よりうまくなったよな」

 

「レシピが変わったんです。当時、学生新聞に抗議されました」

 

「え、抗議されたの」

 

「『カレー、還れ』という見出しで」

 

「うまいな」

 

「見出しは、うまいんですよ」

 

「中身は」

 

「一枚目で寝ます」

 

「読んでないだろ」

 

「三回とも一枚目で寝たので、通算三枚です」

 

「それ、誰の言い方だよ」

 

「うちの若手です」

 

「うつるんだよなあ、そういうの」

 

「うつります」

 

 十六分目に、切り出した。

 

「課長、SDのことなんですけど」

 

「ああ、あれね。今年もやらないとなあ」

 

「毎年、大変ですよね」

 

「講師探すのが面倒でさ。金もかかるし」

 

「ですよね」

 

 俺は、そこで一拍置いた。

 

「あの、人事課さんのほうで、学内講師でやるみたいな案って、考えてらっしゃいませんか」

 

「あー、まあ、そういうのはね」

 

 ――出た。

 

 俺は、心の中で、隣にいない人にうなずいた。

 

「うちで、たたき台だけ作ってあるんです。入試広報の若手の研修用に作ってたやつなんですけど」

 

「へえ」

 

「全学に広げたら使えるかなと思って。よければ、見ていただけませんか」

 

 人事課長は、A4の束を受け取って、その場で三枚めくった。

 

 三枚目で、動きが止まった。

 

「……これ、誰が作ったの」

 

「うちの課で作りました」

 

「よくできてるね」

 

「恐れ入ります」

 

「予算、いくらかかる」

 

「初年度、ゼロです」

 

 課長が、顔を上げた。

 

「ゼロ?」

 

「外部講師を呼ばないので。会場は学内で、資料は電子です」

 

「……ゼロか」

 

「ゼロです」

 

「ゼロに弱いんだよなあ、事務局は」

 

「存じてます」

 

「知ってて出したな」

 

「出しました」

 

 この一行のために、俺は五日かけた。

 

 外部講師を呼ばないと決めると、いろんなものが崩れる。

 

 資料の作成費が要る。会場の設営が要る。講師をやる職員の負担が発生する。

 

 その全部を、既存の業務のどこかに埋めなければならない。

 

 俺は、五日かけて、それを一つずつ埋めた。

 

 資料は、既存の新任研修の資料を使い回す。

 会場は、空き教室を授業のない時間に借りる。使用料はゼロである。

 

 講師の負担は、一人あたり年に一回、九十分。

 九十分なら、たぶん、どの課も断らない。

 

 天愛星さんの原案では、講師は一人あたり年に三回だった。

 

 三回だと、断られる。

 

 三回を一回にすると、質は落ちる。

 

 落ちるが、動く。

 

 動かない完璧な計画と、動く不完全な計画のどちらを選ぶか。

 

 俺は、後者しか選んだことがない。

 

 予算がゼロなら、財務が反対しない。

 

 財務が反対しない企画は、事務局長会議で必ず一段階、抵抗が減る。

 

 天愛星さんの原案では、初年度百八十万だった。

 

 外部講師を二回呼ぶ設計になっていた。

 

 俺は、それも削った。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「これ、うちの起案でいいのか?」

 

 ――聞かれた。

 

 この人は、慎重である。

 

 慎重な人は、こういうところを必ず確認する。

 

「所管は人事課さんなので」

 

「いや、そうだけど」

 

「うちが出すと、越権になっちゃうんで」

 

「まあ、そうなんだけどさ」

 

 人事課長は、束をそろえた。

 

「作った人は、それでいいの」

 

 俺は、そこで二秒だけ迷った。

 

 迷って、正直に言った。

 

「よくないと思います」

 

「え」

 

「よくないと思いますけど、その人が『名前は要りません』って言いました」

 

「……そうか」

 

「はい」

 

 人事課長は、束を鞄に入れた。

 

 入れてから、こう言った。

 

 

 

 

「じゃあ、俺が覚えとくよ」

 

 

 

 

 俺は、そのとき、この人に電話をかけたくなった。

 

 いま学食の二階で人事課長がなんて言ったか、そのまま伝えたくなった。

 

 かけなかった。

 

 伝えると、たぶん、この人は「恐れ入ります」と言う。

 

 言って、それで終わる。

 

 ……それが嫌なのは、たぶん、俺の都合である。

 

 

 

 

 十二月十六日、火曜日。

 

 事務局長会議に、その案が出た。

 

 起案は人事課。

 説明したのは、人事課の担当者である。

 

 俺は、陪席で末席にいた。

 

 説明は、十二分だった。

 

 俺は、末席で、それを聞いていた。

 

 人事課の担当者は、三十代前半の女性である。

 

 まじめな人で、資料を丁寧に読みこんでくる。

 読みこんでくるぶん、少し早口になる。

 

 説明の途中で、彼女が一度、こう言った。

 

「この案の要点は、外部から知見を輸入することではなく、内部の経験を言語化することにあります」

 

 

 

 

 ――六枚目だ。

 

 

 

 

 天愛星さんが書いた、あの一文である。

 

 一字一句、同じだった。

 

 俺は、末席で、机の下で拳を握った。

 

 質問が、六つ出た。

 

 六つとも、想定問答に入っていた。

 

 天愛星さんが作った十九枚のうちの、十四枚目から十七枚目である。

 

 結論は、こうだった。

 

 

 

 

 『趣旨は妥当。ただし、次年度予算及び人員配置との整合を確認のうえ、改めて協議することとし、継続審議とする』

 

 

 

 

 継続審議。

 

 会議室を出たとき、俺は自分の顔を確認した。

 

 顔は、普通だったと思う。

 

 継続審議というのは、事務局では、そんなに悪い言葉ではない。

 

 「否決」ではないからだ。

 

 次年度の予算編成と一緒に、もう一度出せばいい。

 四月からなら、たぶん通る。

 

 実質的には、通っている。

 

 ……と、俺は思った。

 

 思ったが、四か月遅れる。

 

 四か月というのは、事務局の感覚では短い。

 

 三年動かない案件を、俺は五つくらい知っている。

 十年動いていないものもある。

 

 四か月なら、上出来である。

 

 ……上出来だが。

 

 この人が入職して、八か月である。

 

 八か月で企画を出して、四か月待たされる。

 

 合計十二か月。

 

 一年である。

 

 一年で結果を出そうとして、出せなくて、それを自分の能力の問題だと思う人を、俺は一人知っている。

 

 

 

 

 課に戻って、俺は報告した。

 

「継続審議でした」

 

「はい」

 

「四月からなら、たぶん通ります」

 

「はい」

 

「今年度は、動かないです」

 

「はい」

 

「あと、人事課の担当の方が、六枚目の一文をそのまま読みました」

 

「……六枚目」

 

「『外部から知見を輸入するのではなく、内部の経験を言語化することにある』ってやつです」

 

 天愛星さんの手が、止まった。

 

「一字一句、同じでした」

 

「……そうですか」

 

「はい」

 

「……そうですか」

 

 二回、同じことを言った。

 

 二回目のとき、この人はペンを持ち直した。

 

 持ち直しただけである。

 

 持ち直しただけだが、指の関節が、白かった。

 

 この人が同じ言葉を二回言うのを、俺は初めて見た。

 

 天愛星さんは、三回「はい」と言った。

 

 落ちこまなかった。

 

「あの、馬剃さん」

 

「はい」

 

「大丈夫ですか」

 

「大丈夫です」

 

「本当に」

 

「本当です。継続審議は、否決ではありません」

 

「そうですけど」

 

「四月に、もう一度出せます」

 

「出せますね」

 

「では、問題ありません」

 

 天愛星さんは、そう言って、次の作業に移った。

 

 ――四月に、もう一度。

 

 その言い方に、俺は一瞬、引っかかった。

 

 引っかかった理由が、そのときは分からなかった。

 

 ――落ちこまなかった。

 

 俺は、その日の夜、電車の中でそのことを考えていた。

 

 落ちこまないのは、いいことである。

 

 普通なら、そう思う。

 

 思えなかった。

 

 病院にいたころ、俺は、辞める人を何人か見た。

 

 辞める人は、辞める三か月前から、落ちこまなくなる。

 

 怒らなくなって、落ちこまなくなって、そのかわり、身の回りのものが減っていく。

 

 机の上の私物が減る。

 

 マグカップが紙コップになる。

 引き出しの奥のものが、少しずつ持ち帰られる。

 

 誰も気づかない。

 

 辞表が出てから、はじめて、みんなが「そういえば」と言う。

 

 天愛星さんの机の上には、もともと私物がほとんどない。

 

 手帳と、筆箱と、名刺入れだけである。

 

 減りようがない。

 

 ……減りようがないから、分からない。

 

 それが、いちばん怖かった。

 

 

 

 

 十二月十九日、金曜日。

 

 守衛室から、内線が来た。

 

『入試広報課の馬剃さんに、お客様です』

 

 天愛星さんは、外出中だった。

 

「あ、いま外出してます。何時ごろの約束ですか」

 

『いや、それが、約束はしてないみたいで』

 

「え」

 

『……えっと、なんて言うか、その』

 

 守衛さんが、明らかに困っていた。

 

 俺は、一階に降りた。

 

 守衛室の前に、女性が一人、立っていた。

 

 黒い、丈の長いコートを着ていた。

 

 髪が、明るい色である。

 肌が、白い。というより、日光に当たっていない色だった。

 

 立ち方が、少し傾いていた。

 

 ――嘘だろ。

 

 

 

 

「……少年」

 

 

 

 

 志喜屋夢子先輩だった。

 

「……お久しぶりです」

 

「……うん……」

 

「あの、なんで」

 

「……天愛星ちゃんに……会いに……」

 

「約束は」

 

「……してない……」

 

「してないんですか」

 

「……したら……断られる……から……」

 

「断られますか」

 

「……断る……」

 

 ――強い。

 

 この人は、十六年前から、この方法で人に会っている。

 

 中庭のベンチで動かなくなったり、体育館の照明を落としたり、

 断られる前に来たりする。

 

 全部、同じ理屈である。

 

 この人は、相手に断る機会を与えない。

 

 ……九月に、俺も同じことをした。

 

 『九月七日の日曜、空いてる?』とだけ送った。

 

 あれは、この人のやり方だった。

 

 俺は、たぶん、十六年前に見て、覚えていた。

 

「馬剃さん、いま外出してます。十七時には戻ります」

 

「……待つ……」

 

「あ、じゃあ、中で」

 

「……ここでいい……」

 

「十二月ですよ」

 

「……大丈夫……」

 

「大丈夫じゃないです」

 

 俺は、志喜屋さんを、一階のロビーの椅子に座らせた。

 

 自販機で、ホットのミルクティーを買って渡した。

 

 この人には、ホットミルクティーである。

 

 十六年前に、そう学習している。

 

 高一の十二月、中庭のベンチで、この人は日陰で動けなくなっていた。

 

 あのとき俺は、冷たいジュースを買おうとして、途中でホットミルクティーに変えた。

 

 十六年経って、俺はまだ、同じボタンを押している。

 

 ……人間の学習というのは、こういう形でしか残らないのかもしれない。

 

「……少年……」

 

「はい」

 

「……覚えてた……」

 

「覚えてました」

 

「……えらい……」

 

 俺は、その隣に座った。

 

 座って、二分くらい、二人とも黙っていた。

 

「……天愛星ちゃん……」

 

「はい」

 

「……前より……喋る……」

 

 俺は、缶を持つ手を止めた。

 

「……そうですか」

 

「……うん……」

 

「電話で、ですか」

 

「……月に……一回……」

 

「十六年」

 

「……十六年……」

 

 この人は、十六年、月に一回、あの人と電話をしている。

 

 誰にも言わずに。

 

「……四月から……変わった……」

 

「変わりましたか」

 

「……うん……」

 

「どう変わりました」

 

 志喜屋さんは、ミルクティーを一口飲んだ。

 

「……仕事の話……する……」

 

「はい」

 

「……前は……しなかった……」

 

「そうですか」

 

「……前は……天気の話……しかしなかった……」

 

 ――一年半、天気の話しかしなかった人が、いる。

 

 俺は、その事実を、たぶん一生忘れない。

 

「……でも……」

 

 志喜屋さんが、そう言った。

 

「……最近……また……」

 

「また?」

 

「……荷物の話……する……」

 

「荷物」

 

「……うん……」

 

 俺は、そちらを見た。

 

「荷物の話って、なんですか」

 

 志喜屋さんは、しばらく、正面のガラスを見ていた。

 

「……天愛星ちゃんね……」

 

「はい」

 

 

 

 

「……逃げるとき……先に……荷物を……減らすの……」

 

 

 

 

 志喜屋さんの喋り方は、十六年前と同じである。

 

 言葉と言葉のあいだが、異常に長い。

 

 この人と話していると、こっちが先に埋めたくなる。

 埋めたくなるのを我慢していると、必ず、こっちが聞きたくないことが出てくる。

 

 十六年前も、そうだった。

 

 俺は、動けなかった。

 

「……文科省を……辞めるときも……」

 

「はい」

 

「……その三か月前に……本を……全部……売った……」

 

「……段ボールで……十一箱……」

 

「十一箱」

 

「……うん……」

 

「なんで、箱の数まで」

 

「……手伝ったから……」

 

 俺は、そこで一度、目を閉じた。

 

 この人は、一年半前、名古屋まで行っている。

 

 行って、十一箱を運んだ。

 

 誰にも言わずに。

 

 九月七日。

 

 俺は、あの部屋から、二十七袋の可燃ごみと、九袋の不燃と、十一束の資源を出した。

 

 あれは。

 

「……志喜屋さん」

 

「……うん……」

 

「あれは、俺が言い出したんです」

 

「……そう……」

 

「片付けようって言ったのは、俺です」

 

「……うん……」

 

「……でも……」

 

 

 

 

「……天愛星ちゃん……断らなかった……」

 

 

 

 

 十七時四分に、天愛星さんが戻ってきた。

 

 ロビーで志喜屋さんを見つけたときの、あの人の顔を、俺は初めて見た。

 

「……志喜屋先輩」

 

「……天愛星ちゃん……」

 

「なぜ、いらっしゃるんですか」

 

「……会いに……」

 

「ご連絡を」

 

「……したら……断るでしょ……」

 

「……断りません」

 

「……嘘……」

 

 天愛星さんは、そこで、言葉に詰まった。

 

 詰まって、それから、頭を下げた。

 

「……断ります」

 

「……でしょ……」

 

 

 

 

 二人は、そのまま出ていった。

 

 俺は、ロビーに残った。

 

 空になったミルクティーの缶が、椅子の上に置いてあった。

 

 俺は、それをゴミ箱に捨てた。

 

 捨ててから、しばらく、そこに立っていた。

 

 二人が出ていくとき、天愛星さんは、俺のほうを一度も見なかった。

 

 見なかったのは、たぶん、意図的である。

 

 四月から八か月半、俺はこの人のことを、たぶん誰よりも見ている。

 

 見ているのに、月に一回の電話のことを、今日まで知らなかった。

 

 ……誰よりも、ではないのかもしれない。

 

 

 

 

 ――荷物を、減らす。

 

 

 

 

 九月に、俺は、あの人の荷物を減らした。

 

 業者を呼んで、三万八千円払って、四時間かけて。

 

 俺が、減らした。

 

 ――違う。

 

 俺は、そう思い直した。

 

 あれは、俺が言い出したことである。

 

 言い出したが、決めたのは、全部あの人だった。

 

 一つずつ、手に取って、一秒で決めた。

 

 俺は、運んだだけである。

 

 ……そう決めたのは、誰のためだったのか。

 

 ここで暮らすためか。

 

 それとも。

 

 俺は、ロビーの自動ドアの向こうを見た。

 

 十二月の夕方で、正門のあたりはもう暗かった。

 

 

 

 

 二人の姿は、もうなかった。

 

 

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