大学職員の僕たち   作:房吉

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~22敗目~ 二千八百円の申告

 (十二月二日〜二十五日/温水視点)

 

 十二月二日、火曜日の朝は、今年いちばんの冷え込みだった。

 

 天気予報が「真冬並み」と言った日である。

 

 俺は、玄関のフックから、緑のマフラーを取った。

 

 毛玉が、たぶん百個くらいついている。

 

 端のところが、少しほつれている。

 

 高校のとき、もらったものである。

 

 もらってから、冬になると出してくる。

 

 理由は、あたたかいからである。

 

 他に理由はない。

 

 ……ないことにしている。

 

 

 

 

 八時二十五分、島に着いた。

 

「おはようございます」

 

「おはようござ――」

 

 馬剃さんの挨拶が、途中で止まった。

 

 止まった視線の先は、俺の首元だった。

 

 俺は、コートを脱ぎながら、マフラーをほどいた。

 

 ほどいてから、気づいた。

 

 

 

 

 ――あ。

 

 

 

 

 緑である。

 

 この人が入職したのは、四月である。

 

 俺が最後にこれを巻いたのは、三月である。

 

 つまり、この人がこれを見るのは、高校の卒業以来だった。

 

 馬剃さんは、動かなかった。

 

 目が、マフラーにあった。

 

 それから、目だけが上がって、俺の顔に来た。

 

 そして、また下がった。

 

 三往復くらいした。

 

「……馬剃さん?」

 

「…………」

 

「どうしました」

 

「……いえ」

 

 彼女は、それだけ言って、画面に向き直った。

 

 向き直った姿勢のまま、手が、キーボードの上で止まっていた。

 

 十秒くらい、止まっていた。

 

「……今日は、冷えますね」

 

 やがて、彼女は画面を見たまま、そう言った。

 

「冷えますね」

 

「マフラーが、要る季節です」

 

「要りますね」

 

 主語のない会話が、二往復した。

 

 主語は、俺の椅子の背に掛かっている。

 

 毛玉百個の主語である。

 

 俺は、そこで、何か言うべきだった気がする。

 

 「これ、まだ持ってます」か。

 

 今さら、それを言うのか。

 

 あるいは、「あの日の言葉、台本だったけど、台本どおりになりました」か。

 

 今さら、なんの報告だ。

 

 報告するタイミングとしても、朝の始業前は、最悪の部類だと思う。

 

 沈黙を破ったのは、出勤してきた大貫だった。

 

「うー、寒い! あ、温水さん、そのマフラー、年季入ってますね!」

 

「……まあな」

 

「物持ちいいなあ。何年物ですか、それ」

 

「さあな」

 

「さあって。自分のことでしょ」

 

「さあな」

 

 隣の席で、ペンの音が止まっているのが、見なくても分かった。

 

 結局、それ以上は何も言わないまま、朝礼が始まった。

 

 言えばよかった、という気持ちだけが、マフラーと一緒に、椅子の背に掛かったままになった。

 

 ちなみに午前中、脳内で「あのマフラー、まだ使ってて」と切り出す練習を三回した。

 

 三回とも、脳内の馬剃さんに「主語と目的語を整理してからどうぞ」と差し戻された。

 

 脳内ですら決裁が通らない案件を、現実に出せるわけがないのである。

 

 

 

 

 その週から、馬剃さんに、小さな変化があった。

 

 定時で帰るのである。

 

 十二月の入試広報課で、である。

 

「温水さん、気づいてます?」

 

 十二月十二日、金曜日。

 

 大貫が、声をひそめて言った。

 

「馬剃さん、今週ずっと十七時十五分ぴったり上がりですよ。あの馬剃さんが」

 

「仕事が早く終わってるんだろ」

 

「終わってないですよ、十二月ですよ? 絶対なんかあります」

 

「詮索するな」

 

「習い事とか始めたんですかね。それとも――」

 

「詮索するな」

 

「俺の推理では、料理教室です」

 

「するなと言ってるだろ」

 

「根拠あるんですよ。馬剃さんの指、絆創膏貼ってあったの見ました? あれ、包丁ですって」

 

「……詮索するな」

 

「第二の推理は、ボルダリングです」

 

「根拠は」

 

「指先の絆創膏!」

 

「お前の推理、指先しか見てないだろ」

 

「指先は口ほどに物を言うんですよ」

 

「言わない。あと詮索するな」

 

 四回言った。

 

 推理は外れている気がしたが、観察だけは正しいのが、この男の厄介なところである。

 

 その日の十七時十五分、馬剃さんは今日も定時で立ち上がった。

 

「お先に、失礼します」

 

「お疲れさまでーす。……温水さん、馬剃さんが先に帰るの、俺まだ慣れないっす」

 

「慣れろ」

 

「慣れますけど。なんか、シーズン二って感じしません?」

 

「しない」

 

 二回言ったが、俺も、気にはなっていた。

 

 気になっていた理由は、もう一つある。

 

 その日の昼、書類を受け渡すときに、彼女の左手の指先に、絆創膏が二枚、貼ってあったのだ。

 

「怪我、したんですか」

 

「紙で切りました」

 

 短かった。

 

 この人の返事は、本当に隠したいことがあるときだけ、短くなる。

 

 紙で二枚は、切らないだろう、とは言わなかった。

 

 言わない話は、島に、静かに積もっていく。

 

 

 

 

「温水さんって、誕生日いつなんですか」

 

「なんでだ」

 

「いや、なんとなくです。年末だし」

 

 十二月十九日、金曜日、十七時。

 

「教える理由がない」

 

「えー。あ、でも俺、知ってる気がするんですよな。去年の忘年会で言ってましたよね」

 

「言ってない」

 

「言いました。『クリスマスが誕生日だと、世間がケーキを値上げしてくる』って」

 

「……」

 

「あと『クリスマスケーキと誕生日ケーキの兼用は、経費の二重計上に似ている』とも」

 

「……言ったかもしれん」

 

「言いました。俺、名言だと思ってメモしたんで」

 

 酒の席の発言は、翌年の十二月に回収される。

 

 会計と同じで、記録は残るのである。

 

「てことは温水さん、二十五日じゃないですか! クリスマス誕生日! 実質主人公ですよ!」

 

「実質もなにも、ただの木曜だ」

 

「じゃあ今年は、盛大にやりましょうよ!」

 

「するか。誕生日は、静かに通過するのが正しい」

 

「通過って、駅みたいに言いますね」

 

 視界の端で、隣の席の手が動いた。

 

 馬剃さんが、手帳を開いて、何かを書いている。

 

 書き終えて、少しだけページを睨んで、それから何事もなかったように画面に戻った。

 

 ……いや、今、何を書いた。

 

 聞かなかった。

 

 聞くと、たぶん「業務メモです」と返ってきて、それ以上は進まないのである。

 

 

 

 

 十二月二十五日、木曜日、十七時四十分。

 

 窓の外は、もう真っ暗だった。

 

 昨日、三枚の紙で、三か月を渡した。

 

 今日はその引き継ぎの初日で、オープンキャンパスの企画部分を、一日かけて口頭で埋めた。

 

 渡したものの重さは、渡した俺が一番わかっている。

 

 わかっているから、夕方の島は、いつもより少しだけ静かだった。

 

「よし! 俺、あがります!」

 

 静けさを破ったのは、当然、大貫だった。

 

「早いな」

 

「クリスマスなんで!」

 

「予定あるのか」

 

「ないですけど!? 夜は半額のケーキを狩りに行くだけですけど!?」

 

「何号だ」

 

「五号です! 半額なら六号もありです!」

 

「計画的だな。気をつけて帰れ」

 

「温水さんも、その、あの。……誕生日、おめでとうございます! 言えた! じゃ!」

 

 言うだけ言って、走っていった。

 

 言えた、じゃないんだよ、と思ったが、悪い気はしなかった。

 

 島には、俺と馬剃さんだけが残った。

 

 俺が帰り支度を始めたタイミングで、隣の椅子が回った。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「お渡しするものが、あります」

 

 馬剃さんが、机の下から、四角い紙袋を出した。

 

 白い紙袋で、持ち手のところが、きっちり揃えて折られている。

 

「……えっと」

 

「お誕生日と、伺いましたので」

 

「聞いてたんだ、金曜の」

 

「聞こえていました。島ですので」

 

 島ですので、は便利な言葉である。

 

 彼女は紙袋を両手で持って、それから、姿勢を正した。

 

「お渡しする前に、申告があります」

 

「申告」

 

「二千八百円です」

 

「……なんの金額?」

 

「材料費のです」

 

「初めて見たよ、贈り物の値段を先に言う人」

 

「正式な手続きですっ! 何がおかしいんですか!」

 

「笑ってないよ」

 

「口元が笑っていますっ!」

 

 彼女の抗議は、高校のときと同じ角度で飛んでくる。

 

「材料費」

 

 物品費ではなく、材料費と言った。

 

「開けても、いい?」

 

「どうぞ。……あの、できれば、その場で」

 

「その場で?」

 

「感想を、その場で伺いたいので」

 

 正直な要求だった。

 

 正直すぎて、断れる人間はいないと思う。

 

 材料費、の意味は、開けてから分かった。

 

 ――手編みのマフラー。

 

 これがギャルゲーなら、個別ルート確定の証である。エンディング目前の重要アイテムである。

 

 確定していない。

 

 ここは職場で、今日はただの誕生日で、これは材料費二千八百円の申告案件である。

 

 深呼吸を一つして、俺は袋を開けた。

 

 紙袋の中は、白い箱で、箱の中の薄紙まで、きっちり折り畳まれていた。

 

 薄紙をめくる俺の手を、彼女がじっと見ていた。

 

 検品される側の気持ちが、開ける前から少しわかった。

 

 薄紙を開くと、緑が出てきた。

 

 マフラーだった。

 

 新しい、緑のマフラーである。

 

 編み目が、端から端まで、定規で測ったようにそろっている。

 

 手に取ると、見た目より重くて、見た目よりやわらかかった。

 

「……これ」

 

「編みました」

 

 即答だった。

 

 即答してから、彼女の耳が、ゆっくり赤くなった。

 

「編んだの? これ」

 

「編みました。十二月に入ってから、一日六段と決めて」

 

「六段」

 

「工程管理をしました」

 

「そもそも編み物、できたんだ」

 

「できませんでした」

 

「え」

 

「十一月末に、教本を三冊買いました」

 

「三冊」

 

「一冊目で基礎、二冊目で応用、三冊目で答え合わせです」

 

「教本に答え合わせって概念、あるの?」

 

「私の運用です。特に三冊目は、装丁が尊……堅牢でした」

 

「いま、尊いって言いかけた?」

 

「言ってませんっ!」

 

「言いかけたって」

 

「堅牢と言いましたっ! 最初から堅牢ですっ!」

 

「うん」

 

 声量で押し切られた。

 

 声量で押し切るのも、高校のときと同じ工法である。

 

 教本の装丁に尊さを見出す読書歴については、掘らないのが島の平和である。

 

 独学まで、様式が決まっている。

 

 できなかったことを、一か月で、この完成度まで持ってきたわけである。

 

 指先の絆創膏二枚の出所も、つまり、そういうことだった。

 

 マフラーに工程管理をした人を、俺は初めて見た。

 

 定時退勤の謎と、指先の絆創膏の謎が、この瞬間、一度に解けた。

 

 解けた答えを、俺はしばらく、手の上で見ていた。

 

「色は」

 

 彼女が、先に言った。

 

「高校のときのものと、同じ色を探しました。……完全一致は、廃番でした」

 

「廃番」

 

「これは、近似色です。彩度が、二段階ほど落ち着いています。申し訳ありません」

 

「謝るとこ? そこ」

 

「一致しなかったんですっ! ……悔しいじゃないですか、二段階も」

 

 言ってから、彼女ははっとして、咳払いを一つした。

 

「訂正します。一致しなかったので、報告しました」

 

 訂正しても、悔しさは記録に残ってしまった。

 

「長さも、ちょうどいいね」

 

「百六十センチです。前のものと、同じ長さにしました」

 

「測ったの? あれ」

 

「目測です」

 

「またそれ」

 

「私の目測は正確ですっ! 現に、合っているでしょう!」

 

 勝ち誇った。

 

「勝ち誇らないでよ」

 

「勝ちましたので!」

 

 正確だった。

 

 反論の材料が、首元にあるので、こちらの負けである。

 

 高校時代の毛糸の品番を探した人が、ここにいる。

 

 探して、廃番を確認して、近似色で妥協して、その妥協を謝罪している。

 

 俺は、何から言えばいいのか、分からなくなった。

 

 分からないまま、一番手前にあった言葉が出た。

 

「……いいの? もらって。これ、その」

 

「お誕生日ですので」

 

「いや、そうなんだけど。手間が、その、二千八百円どころじゃ」

 

「手間は、申告の対象外です」

 

 対象外らしい。

 

 この人の会計基準では、手間は計上されないのである。

 

 されないだけで、消えるわけではないのだが。

 

「それと、一つ、申し上げておきます」

 

 馬剃さんは、そこで、俺の椅子の背を見た。

 

 今日も掛かっている、毛玉百個の緑を、である。

 

「古いほうを、捨てろとは申しません」

 

「……」

 

「むしろ」

 

 彼女は、一度、言葉を切った。

 

「捨てたら、怒ります」

 

 静かな声だった。

 

 静かな声のまま、目だけが、真剣だった。

 

「……捨てないよ」

 

「確認しました」

 

 手帳が、すっと出て、一行書かれた。

 

 『捨てない。確認済』だと思う。

 

 書くことか、それは。

 

 書くことなのだろう、この人には。

 

「その上で、ご相談があります」

 

「うん」

 

「古いほうを、回収させてください」

 

「回収」

 

「修繕します。ほつれと、毛玉と、直せるところを直して、返却します」

 

「返却して、それから」

 

「現役に、戻します」

 

 捨てない、の最上級が来た。

 

「預かり期間は、年末年始を挟んで、一月中旬までです」

 

「……分かった。頼みます」

 

 俺は、椅子の背から古い緑を取って、渡した。

 

 彼女はそれを、両手で受け取って、白い紙袋に、丁寧に畳んで入れた。

 

 二千八百円の新品が俺に来て、十六年物が彼女に行く。

 

 等価交換にしては、向こうの荷のほうが、重い気がする。

 

 

 

 

 俺は、新しいマフラーを、もう一度手の上で広げた。

 

 緑の近似色は、電灯の下で、高校のときより少しだけ深い色をしていた。

 

 いまの俺の首に、たぶん、合う色である。

 

 そして、言うなら、今しかなかった。

 

 朝の始業前でもなく、高校の卒業式でもなく、今である。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「高校のとき、これをもらった日、俺、ちゃんとお礼言ったよね」

 

「……言われました。過剰なほど」

 

「あれ、妹仕込みの台本だったんだ」

 

「台本っ!?」

 

 彼女の声が、夜の島に響いた。

 

「『すごく暖かいよ、ありがとう』も」

 

「言われましたっ」

 

「『これを見るたびに思いだして大切にするね』も」

 

「い、言われましたっ! 一言一句っ! あれで私がどれだけ……っ、台本だったんですかっ!?」

 

「台本だった。妹に前日、叩きこまれた」

 

「妹さんっ……!」

 

 彼女は、拳を握って、震えた。

 

 十六年前の被害を、いま追認された人の震えである。

 

「で、ここからが本題なんだけど」

 

 俺は、椅子の背の、毛玉百個を見た。

 

「台本どおりに、なった」

 

 

 

 

 彼女が、動かなくなった。

 

 

 

 

「見るたびに思いだして、大切にした。十六年。……台本を書いた妹も、たぶんそこまでは想定してない」

 

「……」

 

「その報告を、ずっとしないできた。あたたかかったから使ってる、ってことにして」

 

 彼女は、動かないまま、三秒たって、目元だけが下を向いた。

 

「……遅いです」

 

「うん」

 

「報告が、高校から数えて、十六年遅いですっ」

 

「うん」

 

「でも」

 

 顔が上がった。

 

 目のふちが、少しだけ赤かった。

 

「受理します」

 

 受理、と言った。

 

 十六年遅れの報告を受理する制度を、この人は今、作った。

 

 作った制度の第一号が、俺である。

 

 俺が黙って見ていると、彼女の目元の赤が、耳まで広がった。

 

「な、なんですかその顔は!」

 

「どんな顔」

 

「じっと見る顔ですっ! やめてくださいっ」

 

「見るよ、それは」

 

「やめてくださいっ!」

 

 制度を作った直後に崩れるのも、この人の様式である。

 

「……気づいてたんだよね、これのこと。今月の頭から」

 

「存じております、ではなく……はい。十二月二日に、拝見しました」

 

「やっぱり」

 

「毛玉の数まで、数えそうになりました」

 

 数えなかったのか、と聞きかけて、やめた。

 

 数えなかったのではなく、数えられなかったのだと思う。

 

 あの朝の、十秒止まった手を、俺は覚えている。

 

「……私も、一つ、言っていないことがありました」

 

「はい」

 

「高校のときの、自分の買い物を」

 

 彼女は、椅子の背の毛玉百個を、もう一度見た。

 

「今日、はじめて、正解だったと思いました」

 

 高校時代の買い物の決裁が、いま、下りた。

 

 決裁者は、本人である。

 

 下りるまで十六年かかる決裁も、世の中にはあるらしい。

 

「本当は、仕事納めにお渡しする予定でした」

 

 彼女は、紙袋を畳みながら言った。

 

「金曜に、お誕生日と伺ったので。……四日、前倒しました」

 

「工程管理を」

 

「前倒しは、得意です」

 

 省で実証済みなのだと思う。

 

 実証のされ方は、今日は、心配しないことにした。

 

 

 

 

 帰り支度を終えて、二人で島の電気を消した。

 

 玄関を出ると、外は冷えていた。

 

 息が白い。

 

 俺は、新しいマフラーを、その場で巻いた。

 

 編み目が、首に、まっすぐ触れた。

 

「……巻き方が、緩いです。左が」

 

「え」

 

 彼女の手が、一瞬だけ伸びかけて、止まって、引っ込んだ。

 

「……ご自分で、直してください。左を、一巻きぶん」

 

「うん」

 

 直した。

 

「どう?」

 

「……右も、半巻きぶん、詰めてください」

 

「厳しくない?」

 

「出荷基準ですっ!」

 

「基準書、あるの?」

 

「いま作っていますっ! 文句があるなら完成後に受け付けます!」

 

「受付があるんだ」

 

「ありますっ!」

 

 直した。

 

「どう?」

 

「合格です」

 

 検品に通った。

 

「お手入れですが、洗濯は手洗いです。中性洗剤で」

 

「うん」

 

「陰干しです。ハンガーには掛けず、平干しで」

 

「うん」

 

「詳細は、あとで取扱説明をメールします」

 

「マフラーの取説がメールで届くの、人類初だと思うよ」

 

「二人目がいたら教えてくださいっ! 参考にしますので!」

 

「怒るとこ? 今の」

 

「怒っていませんっ!」

 

 怒っていた。

 

 怒りながら、口元だけは、ずっとゆるんでいたのだが。

 

 編み手の検品は、たぶん、これから毎冬ある。

 

 毎冬、と考えて、俺は自分の思考の射程に、少しだけ驚いた。

 

「では、温水さん」

 

 正門のところで、彼女は立ち止まった。

 

「明日も、引き継ぎの続きです。よろしくお願いします」

 

「うん。よろしく」

 

「それと、お誕生日、おめでとうございます。……申し上げる順番が、また最後になりました」

 

「申告と検品が先だったからね」

 

「手順に、問題がありました」

 

「なかったよ。今日の手順は、全部正しかった」

 

 彼女は、瞬きを二回して、それから三十度より深い礼をした。

 

「お気をつけて、お帰りください」

 

 駅までの分かれ道で、もう一度会釈をして、俺たちは別々の夜に入った。

 

 首元が、あたたかかった。

 

 高校の冬から、ずっとそうである。

 

 今夜から、あたたかさの形が、新しくなった。

 

 

 

 

 アパートに帰って、俺は玄関のフックに、新しい緑を掛けた。

 

 フックの隣は、今夜から、空いている。

 

 十六年ぶりの、空席である。

 

 空席の主は、いま、修繕のために、編み手の家にいる。

 

 外の仕事は明日から新しいほうに引き継ぎ、古いほうは、直って帰ってくる。

 

 引き継ぎ、という言葉が、今年は俺の周りで大流行である。

 

 スマートフォンが鳴った。

 

 佳樹からだった。

 

『お兄様、お誕生日おめでとうございます。半額のケーキは確保されました?』

 

『買ってない』

 

『二十五日の夜だけの特権ですのに』

 

『戦場に行く元気がなかった』

 

『不戦敗という言葉がございます。お母様が、今年こそお正月は帰ってきなさいと』

 

『帰るよ。三十日に』

 

『…………』

 

『どうした』

 

『いえ。歴史的事件ですので、日記に書いておきます』

 

『大げさだ』

 

『では、何年ぶりかご自分でおっしゃれますか?』

 

『……』

 

『逃げましたね、お兄様』

 

 数えると負ける気がするので、数えていないのである。

 

『ところでお兄様、何かいいことがありました?』

 

 画面の前で、俺は少し止まった。

 

『なんでだ』

 

『文面のご機嫌がよろしいので』

 

 妹というのは、文面で機嫌を読んでくる。

 

 丁寧語で読んでくるぶん、余計に恐ろしい生き物である。

 

『気のせいだ』

 

『さようですか。よいお年を、お兄様』

 

 俺はスマートフォンを置いて、もう一度、玄関の二本を見た。

 

 十二月二十五日である。

 

 高校のとき、彼女がくれたのは、二十四日の橋の上だった。

 

 誕生日の、前日である。

 

 前日にもらったものを、誕生日から使いはじめて、十六年。

 

 十六年後の誕生日当日に、新しいのをもらった。

 

 日付が一日ずれて、隣り合って、続いている。

 

 あのあたりの日付は、どうやら、俺とマフラーの季節であるらしい。

 

 

 

 

 翌朝、引き継ぎ二日目の島で、大貫が俺を二度見した。

 

「温水さん、マフラー新しくないですか!?」

 

「……買った」

 

「どこでですか! その緑、いい色ですね」

 

「非公開だ」

 

「役所か!」

 

「元、じゃなくて、ただの非公開だ」

 

「えー。あ、もしかして、彼女さんとかから」

 

「大貫」

 

「はい」

 

「今日の引き継ぎ、お前の担当分から始めるぞ」

 

「話そらした! 今、あからさまにそらしましたよね!?」

 

「始めるぞ」

 

 隣の席で、キーボードの音が、〇・五秒だけ止まった。

 

 止まって、何事もなかったように、再開した。

 

 再開した横顔の口元が、少しだけ動いた気がしたが、確認はできなかった。

 

 言わない話が、また一つ増えた。

 

 増えるばかりの九か月だが、不思議と、首元は軽いのである。

 

 

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