大学職員の僕たち   作:房吉

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~22敗目・裏~ 一日六段

 

 (同時期/馬剃視点)

 

 十二月二日、火曜日、八時二十五分。

 

 私は「おはようございます」を、最後まで言えなかった。

 

 温水さんの首元に、緑があったからである。

 

 緑のマフラー。

 

 毛玉だらけの、端のほつれた、緑のマフラー。

 

 視界に入った瞬間、心臓が、どくん、と一つ、大きく鳴った。

 

 鳴ったきり、次の一拍が、来なかった。

 

 十六年前の十二月二十四日に、橋の上で、私が渡したものと、同じ緑だった。

 

 同じ、ではない。

 

 同じもの、だった。

 

 息の吸い方を、忘れた。

 

 思い出したときには、吸った息が震えていて、震えた息を、誰にも聞かれないように、ゆっくり吐いた。

 

 持っていた。

 

 この人は、あれを、まだ持っていた。

 

 持っていただけではない。今朝、家を出るときに、あの毛玉だらけの緑を手に取って、首に巻いて、ここまで来たのである。

 

 十六年。

 

 十六年、という数字が、数字のまま、胸に流れ込んできた。

 

 流れ込んできた場所が、熱かった。

 

 熱くて、痛くて、私はキーボードの上に置いた自分の指が、小さく震えているのに気づいた。

 

 打てなかった。

 

 一文字も、打てなかった。

 

 叫びたいのか、泣きたいのか、それすら判定できないものが喉元まで来ていて、ここが朝の島でなかったら、私はたぶん、どちらかをしていた。

 

 だから、数えた。

 

 毛玉の数を、数えた。

 

 数を数えているあいだだけは、溺れずに済むからである。

 

 毛玉は、浮き輪だった。

 

 三十個まで数えたところで、自分が何をしているのかに気づいて、やめた。

 

 やめて、画面を見た。

 

 画面には、書きかけの入試要項の修正案があった。

 

 修正案の文字が、一文字も読めなかった。

 

 読めない画面の中で、緑の残像だけが、いつまでも、じんじんと明るかった。

 

「……今日は、冷えますね」

 

 私の口から出たのは、それだった。

 

「冷えますね」

 

「マフラーが、要る季節です」

 

「要りますね」

 

 主語のない会話を、二往復した。

 

 主語は、彼の椅子の背に掛かっていた。

 

 会話をしているあいだも、心臓は、どくどくと、迷惑なほど正直に鳴り続けていた。

 

 十六年、と思うたびに、胸の奥のどこかが、きゅう、と音を立てて縮んだ。

 

 縮んだ場所は、縮んだまま、一日中、熱を持っていた。

 

 その日の私の業務効率は、体感で平常の六割だった。

 

 六割の自分に苛立ちながら、それでも視界の端に緑が入るたび、効率はさらに一割落ちた。

 

 落ちる理由を分析しようとして、やめた。

 

 分析するまでもないことを分析するのは、時間の無駄である。

 

 帰りの電車で、私は吊り革につかまったまま、自分の手のひらを見ていた。

 

 この手で、何かを返したい、と思った。

 

 思ってしまったものは、もう、取り消せなかった。

 

 

 

 

 その夜、私は帳簿を開いた。

 

 手帳の後ろのほうにある、貸し借りの頁である。

 

 四月からの九か月で、借りの欄は、もう二頁目に入っていた。

 

 クレープの奢りから始まって、模擬プレゼンの特訓、演説の原稿、数え切れない助言。

 

 返済の手段は、十一月末から検討していた。

 

 検討の結果、候補に「手製のもの」と書いて、教本を三冊買った。

 

 買っただけで、何を編むかは、決めていなかった。

 

 決めていなかったものが、今朝、決まった。

 

 毛玉百個の緑を、彼は捨てない。

 

 捨てないことは、今朝の三往復の視線で分かった。

 

 捨てないでほしい、と思っている自分のことも、同時に分かってしまった。

 

 だから、買い替えを提案する権利は、私にはない。

 

 ないが、あのほつれのまま、この人に冬を越させる気も、私にはない。

 

 長さは、百六十センチと決めた。

 

 根拠は、目測である。

 

 十一月のいつだったか、廊下ですれ違ったときに、古いマフラーの端の位置を、目が勝手に測っていた。

 

 測る予定はなかった。

 

 目が勝手に、である。

 

 勝手に測ったものが役に立つ日が来るとは、目も思っていなかっただろう。

 

 結論。

 

 作り直す。私の手で。

 

 帳簿の返済欄に、私は一行書いた。

 

 『マフラー(緑・近似色可)。仕事納めまでに』

 

 仕事納めまで、二十七日。

 

 教本によると、マフラーの標準所要は、初心者で百二十時間である。

 

 無理である。

 

 無理なので、対象をマフラーにするのは諦め――

 

 諦めなかった。

 

 諦めるくらいなら、最初から帳簿などつけていない。

 

 工程を組んだ。

 

 一日六段。毎日、必ず、六段。

 

 定時で上がって、夕食を三十分で済ませて、二十三時まで編む。

 

 週末は倍。

 

 計算上、二十七日で、ぎりぎり間に合う。

 

 ぎりぎり、という言葉に、久しぶりに胸が高鳴った。

 

 省にいたころの、締切前夜の高鳴りと、種類が少し違うのが、自分でも分かった。

 

 

 

 

 毛糸は、三軒回って選んだ。

 

 十六年前の緑と同じ品番は、廃番になっていた。

 

 店員さんに在庫台帳まで確認してもらったので、間違いない。

 

 十六年は、毛糸が廃番になる長さなのである。

 

 近似色を、蛍光灯の下と、店の外の日光の下と、両方で確認して買った。

 

 彩度が二段階、落ち着いている。

 

 落ち着いているぶん、今の彼に合う気がした。

 

 合う気がした、という判断基準を帳簿にどう書くべきか、三分迷って、書かなかった。

 

 書けない判断基準というものが、私にも、あるのである。

 

 三軒目の店員さんに、聞かれた。

 

「贈り物ですか」

 

「……備品です」

 

「備品」

 

「私用の、備品です」

 

 嘘が下手なのは、自覚している。

 

 店員さんは、それ以上聞かずに、緑をきれいに包んでくれた。

 

 聞かない技術は、毛糸屋にもあるのである。

 

 ついでに、一つ白状しておく。

 

 高校のとき、「アピタではこれしか扱っていなかった」と言ったのは、嘘である。

 

 あの日も、三軒回って選んだ。

 

 今回も、三軒。

 

 十六年たっても、軒数と、嘘の様式だけは、変わっていないのである。

 

 それから、近似色の毛糸と一緒に、私はもう一玉、別の毛糸を買った。

 

 古いほうの、ほつれに合う色である。

 

 修繕の許可は、まだ、もらっていなかった。

 

 もらっていないのに、買った。

 

 工程表の最終行には、最初から、こう書いてあったからである。

 

 『回収。修繕。返却。』

 

 言えるかどうかは、当日の彼の様子次第だった。

 

 

 

 

 編み物は、思っていたより、指に刺さる仕事だった。

 

 三段目で、二回、目を落とした。

 

 二回目に落としたとき、二十三時を過ぎていたので、私は声を出さずに、枕に顔を押しつけた。

 

 押しつけてから、ほどいて、編み直した。

 

 工程は、守る。

 

 六段は、六段である。

 

 教本三冊の運用は、こうである。

 

 一冊目で手順を確認し、二冊目で失敗の原因を調べ、三冊目で正解の写真と見比べる。

 

 ちなみに三冊目は、装丁が本当に見事だった。

 

 見事だったせいで、贈呈の席で「尊……堅牢でした」という事故を起こした。

 

 堅牢で押し切ったが、あの〇・五秒の自分を、私はその夜、正座で反省した。

 

 反省したところで、装丁が尊いという事実は変わらないのだが。

 

 三冊目の写真と自分の編み目の差を直視する時間が、いちばん、精神に来た。

 

 気づけば、就寝が二十四時を回る日が続いた。

 

 人には四時間半と言っておいて、自分がこれである。

 

 この矛盾は、帳簿に書かなかった。

 

 書くと、返済の前に自己査定で赤字になる。

 

 金曜、書類の受け渡しのときに、指先の絆創膏を見られた。

 

「怪我、したんですか」

 

「紙で切りました」

 

 嘘をついた。

 

 短く答えたのは、長く答えると、嘘が増えるからである。

 

 嘘は、最小限が原則である。

 

 原則と引き換えに、彼が一瞬、何か言いたそうな顔をしたのを、私は見なかったことにした。

 

 見なかったことにする技術だけが、この十二月、異様に上達している。

 

 

 

 

 十二月十九日、金曜日、十七時。

 

「てことは温水さん、二十五日じゃないですか! クリスマス誕生日! 実質主人公ですよ!」

 

 大貫さんの声が、島に響いた。

 

 私は、ペンを持ったまま、止まった。

 

 十二月二十五日。

 

 十六年前、私がマフラーを渡したのは、二十四日の、橋の上である。

 

 つまり私は、あの人の誕生日の前日に、何も知らずに、贈り物を渡していた。

 

 一日、早かった。

 

 一日早い贈り物を、あの人は誕生日から使いはじめて、十六年になる。

 

 ……惜しい。

 

 何が惜しいのかは、上手く言語化できないが、とにかく一日ぶん、惜しい。

 

 今年は、当日に渡せる。

 

 十六年越しの、日付の訂正である。

 

 訂正の様式に期限はない、と私は知っている。

 

 私は手帳に書いた。

 

 『十二月二十五日 温水主任 誕生日』

 

 書いてから、工程表の頁を開いた。

 

 完成予定は、仕事納めの二十九日だった。

 

 二十九日を、二十五日にする。

 

 四日の前倒し。残り六日で、あと四十二段。

 

 一日六段が、七段になる。

 

 できるかどうかは、問題ではなかった。

 

 その日に渡さない理由が、もう、どこにもなかった。

 

 その夜から、七段の日々が始まった。

 

 二十三時の指は、六段の日より正直に痛んだ。

 

 痛むたび、十六年前の橋の上の、渡した瞬間の彼の顔を思い出した。

 

 思い出すと、胸の真ん中が、じわりとあたたかくなった。

 

 あたたかさは、指先まで届いて、あと二段、編めた。

 

 燃料の仕組みとしては、単純すぎて、少し腹が立った。

 

 腹が立つのに、燃料の補給を、私は一度も断らなかった。

 

 

 

 

 十二月二十五日、木曜日。

 

 朝、鏡の前で、私は自分に言い聞かせた。

 

 渡すのは、夕方。大貫さんが帰ったあと。

 

 言うことは、三つ。金額。取り扱い。それから、古いほうのこと。

 

 三つとも、昨夜、声に出して練習した。

 

 練習は、鏡の前で三回した。

 

 三回とも、脳内の温水さんは「うん」としか言わなかった。

 

 参考にならない脳内である。

 

 本物は、脳内より、ずっと予測がつかないのに。

 

 練習したのに、引き継ぎ初日のあいだじゅう、鞄の中の紙袋のことばかり考えていた。

 

 前日、三枚の資料で三か月を渡された。

 

 今日はその中身を口頭で受け取る初日で、オープンキャンパスの企画を書き取りながら、頭の三割を紙袋に取られていた。

 

 三割は、業務中としては、過去最大の私的流用である。

 

 反省は、夜にすることにした。

 

 

 

 

 十七時四十分すぎ、大貫さんが帰った。

 

 島に、二人になった。

 

 彼が帰り支度を始めるのが見えて、私は、椅子を回した。

 

 回してから、心臓が、一段階速くなった。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「お渡しするものが、あります」

 

 紙袋を、机の下から出した。

 

 持ち手は、今朝、三回折り直してある。

 

「お渡しする前に、申告があります」

 

「申告」

 

「二千八百円です」

 

 金額を先に言うのは、鎧である。

 

 これは高価なものではありません、重い意味はありません、受け取っても負担はありません――そういう鎧を先に着せておかないと、私は、この紙袋を渡せなかった。

 

 鎧の下で、心臓は速いままだった。

 

「開けても、いい?」

 

「どうぞ。……あの、できれば、その場で」

 

「その場で?」

 

「感想を、その場で伺いたいので」

 

 正直に言えば、あれは要求ではなく、自衛だった。

 

 家に帰って一人で感想を待つ夜に、私の心臓が耐えられる確証が、なかったのである。

 

 彼は、袋を開けて、緑を手に取って、少しのあいだ、黙った。

 

 黙っている数秒が、七段の夜より長かった。

 

「編んだの? これ」

 

「編みました。十二月に入ってから、一日六段と決めて」

 

 一日六段、の裏の七段の日々は、言わなかった。

 

 工程の変更履歴まで開示する義務は、ない。

 

「色は」

 

 聞かれる前に、言った。

 

「高校のときのものと、同じ色を探しました。……完全一致は、廃番でした」

 

「廃番」

 

「これは、近似色です。彩度が、二段階ほど落ち着いています。申し訳ありません」

 

「謝るとこ? そこ」

 

「一致しなかったんですっ! ……悔しいじゃないですか、二段階も」

 

 本音が、鎧の隙間から出た。

 

 出てから、慌てて咳払いをして、訂正した。

 

 訂正したが、彼の口元が少し動いたのは、見えてしまった。

 

 

 

 

 三つ目の、いちばん大事なことを、言う番だった。

 

「それと、一つ、申し上げておきます」

 

 私は、彼の椅子の背を見た。

 

 毛玉百個の、十六年の緑を。

 

「古いほうを、捨てろとは申しません」

 

「……」

 

「むしろ」

 

 一度、息を整えた。

 

「捨てたら、怒ります」

 

 あのマフラーは、十六年前の私の、たぶん唯一の正解である。

 

 成績も要領も悪くて、意地ばかり張っていた高校生の私が、一つだけ正しく選べたもの。

 

 それを十六年使い続けた人がいるという事実ごと、捨てさせるわけには、いかないのである。

 

「……捨てないよ」

 

「確認しました」

 

 手帳に書いた。

 

 『捨てない。確認済』

 

 書く必要のないことを書いたのは、手を動かしていないと、目のあたりが危なかったからである。

 

 

 

 

「あれ、妹仕込みの台本だったんだ」

 

 台本。

 

 あの日の『これを見るたびに思いだして大切にするね』は、私の十六年の、要注意保管箱のいちばん奥にある言葉である。

 

 社交辞令として処理した。

 

 処理しないと、危険な言葉だったからである。

 

 その言葉が、台本だったと明かされ――

 

「台本どおりに、なった」

 

 

 

 

 そして、台本どおりに十六年、実行されていたと、知らされた。

 

 

 

 

 心臓を、素手でつかまれたのかと思った。

 

 息が、詰まった。

 

 詰まった息の奥で、どっ、と熱いものが噴き上がって、視界の輪郭が、一瞬だけ滲んだ。

 

 二段構えである。

 

 一段目で膝の下が消え、二段目で、危なかった目のあたりが、決壊しかけた。

 

 社交辞令だと思って封印してきた言葉が、十六年かけて、実話になっていた。

 

 実話に、私のマフラーが、ずっと出演していた。

 

「……遅いです」

 

「うん」

 

「報告が、高校から数えて、十六年遅いですっ」

 

「うん」

 

「でも」

 

 顔を上げた。

 

 上げた顔が、どうなっていたかは、記録しない。

 

「受理します」

 

 喉の奥が、焼けるように熱かった。

 

 胸は、いっぱいで、痛くて、それなのに、この痛さを手放したくなかった。

 

 受理、という言葉を選んだのは、それ以外の言葉だと、声が最後まで持たない計算だったからである。

 

 計算は、ぎりぎり合った。

 

 合ったのに、そのあと、彼が黙って私を見た。

 

 じっと、である。

 

「な、なんですかその顔は!」

 

「どんな顔」

 

「じっと見る顔ですっ! やめてくださいっ」

 

「見るよ、それは」

 

「やめてくださいっ!」

 

 見ないでほしかった。

 

 見ていてほしかった。

 

 両立しない二つの要望を、私は、キレることで処理した。

 

 キレるという処理方法は、原始的だが、確実である。

 

 確実だが、耳の温度までは処理できないのが、欠点だった。

 

 

 

 

 帰り道、一人になってから、私は手帳を開いた。

 

 工程表の最終行に、完了の印を入れる。

 

 入れてから、その下に、一行だけ書いた。

 

 『十二月二十五日。受理された。』

 

 その下に、もう一行。

 

 『同日。十六年物、回収。』

 

 捨てたら怒ります、が受理されたので、私は工程表の最終行に進んだ。

 

 最終行まで進めた夜の帰り道、鞄の中の十六年物は、静かだった。

 

 静かなのに、鞄が、あたたかい気がした。

 

 気のせいである。

 

 気のせいだが、訂正しない。

 

 受理したのは私のはずなのに、手帳の最初の文章は、逆になった。

 

 逆のまま、訂正しなかった。

 

 訂正の様式が適用できない文章というものが、年に数回、私にもある。

 

 帰り際、正門の前で、彼が新しい緑を巻いた。

 

 巻き方の、左が緩かった。

 

 直してあげようとして、手が、勝手に持ち上がった。

 

 持ち上がった手を、〇・五秒で引っ込めた。

 

 引っ込めた理由は、三つ数えられる。職場の門前であること。手の距離が近すぎること。三つ目は、数えないことにする。

 

「……ご自分で、直してください。左を、一巻きぶん」

 

 声だけは、いつもの検品の声が出た。

 

 出たことに、自分でいちばん安心した。

 

 彼が直して、「どう?」と聞いた。

 

 右も緩かったので、右も直させた。

 

 出荷基準ですっ、と言ったが、基準書はまだ存在しない。

 

 存在しない基準で人を二回も直させたのは、たぶん、あの巻き姿をもう少し見ていたかったからである。

 

 この分析結果は、帳簿には載せない。

 

 載せない項目が、今夜だけで三つ増えた。

 

「合格です」

 

 合格、と言ったとき、私の中では、別の言葉が鳴っていた。

 

 似合う、である。

 

 近似色は、正解だった。

 

 十六年前の私と、今年の私の、二人ぶんの正解である。

 

 翌朝の島で、大貫さんが彼を二度見した。

 

「温水さん、マフラー新しくないですか!?」

 

「……買った」

 

 買った、と彼は言った。

 

 嘘である。

 

 材料費二千八百円の申告を受けた側が、断言する。あれは購入品ではない。

 

「どこでですか! その緑、いい色ですね」

 

「非公開だ」

 

 非公開、まで使った。

 

 私の様式で、私を守った。

 

 守られたのだと理解した瞬間、胸の奥が、ぎゅっとつかまれたように熱くなった。

 

 熱くなったせいで、私のキーボードは、〇・五秒、打ち損ねた。

 

 打ち損ねたことは、誰にも気づかれていないはずである。

 

 気づかれていないはずだが、口元の管理までは、正直、自信がなかった。

 

 部屋の隅には、余った緑の毛糸が、少しだけ残っている。

 

 捨てる予定は、ない。

 

 理由の欄は、空白のままにしておく。

 

 空白の多い帳簿になってきたが、この帳簿は、たぶん、そういう帳簿なのである。

 

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