(十二月二十四日〜一月九日/温水視点)
「また温水さんですか」
「また俺だ」
「なんでですか」
「去年やったからだ」
十二月二十四日、水曜日、十時二十分。
大貫が、心の底から納得のいかない顔をしていた。
「それ、罰ゲームじゃないですか」
「罰ゲームだな」
「なんで一回やった人がまたやるんですか」
「一回やった人は、二回目が速いからだ」
「理不尽です」
「理不尽だ」
「じゃあ、俺が去年やってたら、今年は俺だったんですか」
「そうなるな」
「絶対やりません」
「賢明だ」
「でも、俺が言うのもなんですけど」
「うん」
「二年連続で罰ゲームって、くじ運悪すぎません?」
「くじじゃないんだよなあ」
「くじのほうがマシですよ」
「それもそうだな」
「あと、一個いいですか」
「うん」
「温水さん、去年の一月から三月で、『大丈夫』って十二回言いました」
「言ったかもな」
「十二回目だけ、声が裏返りました」
「数えないでくれ」
――言ってしまった。
この言い方は、この課ではもう、俺のものではない。
四月からの九か月で、俺は自分の語彙を、少しずつ入れ替えられている。
入れ替えられていることに気づいたのは、たぶん、十一月くらいだった。
「あ、いま馬剃さんのやつ出ました」
「出てないです」
「出ましたって。イントネーションまで一緒でした」
「……出てないです」
大貫は、そこで椅子を回して、こちらに向き直った。
「温水さん」
「うん」
「一月から三月って、うちも死ぬやつじゃないですか」
「死ぬな」
「温水さん、いないんですよね」
「半分いる」
「半分って、要するに、いないってことですよ」
――こいつ、たまに正しい。
「じゃあ、誰が回すんですか」
「馬剃さんだ」
「馬剃さんが」
「主でやってもらう」
大貫は、そこで三秒くらい黙った。
「……あ、なるほど」
「なんだ、その顔」
「いや、なんでも」
「言って」
「言わないです」
「言ってよ」
大貫は、椅子ごと後ろに下がった。
「温水さん、それ、たぶん、めちゃくちゃ考えて出した案ですよね」
「まあ、考えたな」
「何時間かけました?」
「……三時間くらい」
「三時間!」
「うるさい」
実際は、四時間半である。
二十二日の夜、俺は白紙にまず十七通り書いた。
外部から人を借りる。派遣を入れる。会計課の査定を三月に後ろ倒しにする。
入試広報の三か月を、課長が直接見る。
十七通りのうち十五通りは、一時間で消えた。
消えた理由は、全部同じである。
――人がいない。
残った二通りのうちの一つは、俺が両方を全部やる、というものだった。
これは、二時間持った。
二時間持ったが、去年の一月から三月の自分の記録を見て、消した。
去年、俺は十件落としている。
両方を全部やると、今年は二十件になる。
二十件のうち何件かは、誰かが困る。
二十二日の夜から、二十三日の朝までかけて、俺は他の案を全部潰した。
潰した結果、これしかなかった。
――と、自分では思っている。
俺は、机の上の内示の紙を、二つ折りにして鞄に入れた。
三日前の、十二月二十二日、月曜日の朝である。
会計課の田島主任が、出勤直後に倒れた。
救急車が入って、そのまま附属病院に運ばれた。
命に別状はない。
ただ、復帰は三月以降になる見込みだと、その日の夕方に聞いた。
五十四歳である。
俺は、その人と三年、同じ島にいた。
会計課にいたころである。
伝票の書き方を、いちばん最初に教えてくれた人だった。
二十二歳の俺は、旅費の精算で三回続けて同じミスをした。
三回目のとき、あの人はこう言った。
――温水君、間違うのはいいんだよ。同じ間違いを三回するのは、覚え方が悪いんだ。
そのあと、覚え方を教えてくれた。
いま俺が『99_温水メモ』をやっているのは、たぶん、あのときが原点である。
去年、俺が併任したときも、あの人は隣にいた。
隣にいて、「悪いな、来年は倒れないようにするわ」と笑っていた。
倒れた。
会計課の一月から三月は、死ぬ。
次年度の予算編成がある。
各部署から要求が上がってきて、それを査定して、削って、理事会に出す資料を作る。
二月に理事会があって、三月に補正予算と、年度末の支払い処理が全部来る。
その全部を、会計課は七人で回している。
いま、六人になった。
六人のうち、二人は入って三年目である。
三年目というのは、伝票が切れるようになった、という段階だ。
伝票が切れるのと、予算を削れるのは、まったく別の技能である。
前者は半年で覚える。後者は、たぶん十年かかる。
六人で回らないのは、算数の問題ではない。
予算の査定というのは、各部署と交渉する仕事である。
交渉というのは、相手のことを知っていないとできない。
どの部署がどこで嘘をつくかを、知っている必要がある。
その知識は、人についている。
田島主任の頭の中には、二十年ぶんのそれが入っていた。
入ったまま、病室にある。
「事務局長から、直接お話がありました」
鷲尾課長は、そう言った。
打ち合わせブースである。扉が閉まる、この課で唯一の場所だ。
「温水君を、会計課主任と併任で。一月一日付」
「はい」
「去年と同じね」
「同じですね」
「私、反対したのよ」
俺は、顔を上げた。
「うちも、一月から三月は死ぬの」
「死にますね」
「共通テスト、一般入試、繰上げ合格。三か月で全部来るのよ」
「来ます」
「そこにあなたがいないのは、正直、きつい」
この人は、こういうときに嘘をつかない。
「で、事務局長になんて言われたんですか」
「『他に誰がいる』って」
「……」
「腹立つでしょ」
「腹立ちますね」
「でも、事実なのよね」
――事実である。
会計課の実務を知っていて、いま動ける人間は、この大学に三人しかいない。
一人は倒れた。
一人は定年でいない。
残りが、俺である。
「課長」
「はい」
「一つ、提案があります」
俺は、そこで背筋を伸ばした。
「一月から三月の入試広報、馬剃さんを主にしてください」
鷲尾課長が、湯呑みを置いた。
「主に」
「はい」
「あの人、入って九か月よ」
「九か月です」
「共通テストの本部、やったことないのよ」
「ないです」
「じゃあ、なんで」
俺は、そこで少し考えた。
考えて、事実だけを並べた。
「六月の相談会、十七件中八件をあの人が一人で回してます」
「回したわね」
「八月のオープンキャンパスは、全体説明会の司会です。停電のとき、俺は何もしてません」
「してなかったわね」
「十月の出願障害のとき、看護学部の突破口を出したのは、あの人です」
「そうなの?」
「事務決裁規程の別表第三です。俺は知らなかったです」
鷲尾課長は、しばらく黙っていた。
「温水君」
「はい」
「それ、全部、あなたが横にいたときの話よね」
――そこか。
俺は、少しだけ、言葉に詰まった。
「はい」
「一月から三月は、いないのよ、あなた」
「週の半分はいます」
「半分でしょ」
「半分です」
課長は、湯呑みを両手で持った。
「……分かった。やらせましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、条件が一つ」
「はい」
「温水君、倒れないでね」
「倒れないです」
「四年前、十二キロ痩せたわよね」
「痩せました」
「あれ、オープンキャンパスの年でしょ。今年の一月から三月は、それより重いのよ」
「はい」
「三月三十一日に、あなたが立ってなかったら、私は事務局長を殴るから」
「殴らないでください」
「殴るわよ」
「懲戒になります」
「なるわね」
「就業規則の第何条か、馬剃さんに聞いておきます」
「聞かなくていいの」
鷲尾課長は、湯呑みを置いて立ち上がった。
「温水君」
「はい」
「あなた、去年もこの部屋で同じこと言われたの、覚えてる?」
「……覚えてます」
「なんて言われた?」
「『倒れないでね』です」
「で、あなたはなんて答えた?」
「『倒れないです』です」
「今年も、同じ答えなのね」
「同じです」
「じゃあ、私も同じことを言うわ」
課長は、扉に手をかけた。
「信じてないから」
俺は、その言い方が好きだった。
この人は、部下を守るときに、必ず上を殴ると言う。
十二月二十四日、十四時。
俺は、天愛星さんを打ち合わせブースに呼んだ。
「一月一日付で、会計課主任を併任します」
天愛星さんの手が、止まった。
止まって、それから、ボールペンのノックを、かちり、と一回押した。
書くものは、何もなかった。
押したことに、たぶん本人は気づいていない。
「……併任」
「はい」
「会計課の方が、倒れられたそうですね」
「聞いてましたか」
「庶務課の方から。昨日」
この人は、情報が早い。
「で、一月から三月の入試広報を、馬剃さんが主でやってください」
「やります」
即答だった。
〇・五秒くらいだったと思う。
「馬剃さん」
「はい」
「いま、内容を聞いてないですよね」
「聞いておりません」
「聞きます?」
「聞きます」
「聞いてから、断ってもいいですよ」
「断りません」
俺は、そこで、資料を出した。
A4で二十二枚である。
昨日の夜と、今朝の五時から作った。
「一月から三月の、入試広報課の全業務です」
「二十二枚」
「二十二枚です。多いです」
「はい」
俺は、一枚目をめくった。
「一月十七日と十八日が、共通テストです」
「はい」
「うちは、試験場になります。監督は教員がやりますが、本部の運営は事務局です」
「本部の人数は」
「四十二人。うちの課からは、三人」
「二日間、通しですか」
「通しです。前日の設営から入るんで、実質三日間」
俺は、二枚目をめくった。
「共通テストというのは、要するに、全国で同じ日に同じ問題を解かせる仕組みです」
「はい」
「五十万人が、同じ日の同じ時刻に、同じページを開きます」
「はい」
「一分でもずれると、成立しません」
俺は、そこで指を一本立てた。
「なので、うちの大学がやることは、一つだけです」
「はい」
「決められたとおりに、やる」
天愛星さんが、ペンを止めた。
「……工夫の余地は」
「ないです」
「一切」
「一切ないです」
この人は、たぶん、そこがいちばん驚くだろうと思っていた。
四月から九か月、俺はこの人に、いろんなものを工夫して見せてきた。
議題の順番も、告知文の一行目も、電話の順序も、全部、工夫である。
共通テストには、それがない。
「実施要領が、四百ページあります」
「四百」
「そのとおりにやります。読み上げる文言まで決まってます」
「アドリブは」
「禁止です」
「では、あなたの得意分野は」
俺は、そこで少し笑った。
「ないです」
「……ないんですか」
「共通テストの日だけは、俺、なんの役にも立たないです」
「そんなことは」
「ないんですよ、本当に」
俺は、資料の余白を指で叩いた。
「あの二日間に必要なのは、四百ページを間違えずに実行することです。それだけです」
「……はい」
「だから、馬剃さんのほうが向いてます」
天愛星さんが、こちらを見た。
「……いま、なんと」
「向いてます」
「もう一度」
「向いてます。四百ページを間違えずに実行するのは、俺より馬剃さんです」
彼女は、そこで、二秒くらい止まった。
止まって、それから、手帳を開いた。
「書くんですか、それ」
「書きます」
「なんて書くんですか」
「……『向いている』と」
「主語は」
「……主語は、要りませんっ」
「要るでしょ」
「要りませんっ。私が読むので、私が分かりますっ」
耳が、赤かった。
三分前まで、この人は四百ページの話をしていた。
四百ページで動じなかった人が、五文字で崩れる。
この落差を、俺は九か月見ている。
九か月見ていて、まだ、慣れない。
「……承知しました」
「はい」
「四百ページ、読みます」
「今日中にとは言ってないです」
「今日中に読みます」
「共通テストは、事故が起きる前提で作られてます」
「事故」
「毎年、全国のどこかで必ず起きます。リスニングの機器不良、開始時刻の誤り、監督者の説明ミス」
「はい」
「うちも、五年前に一回やってます」
「なにが起きたんですか」
俺は、そこで少し口を閉じた。
「時計が、止まりました」
「時計」
「試験室の壁の時計が、一つだけ止まってたんです。三十七分間、誰も気づかなかった」
「……三十七分」
「気づいたのは、受験生でした」
天愛星さんが、ペンを止めた。
「……その受験生は」
「試験時間を、正しく確保しました。追試験の対象にもしてます」
「はい」
「ただ」
俺は、二枚目を指で叩いた。
「三十七分間、その子は、間違った時計を見ながら問題を解いてます」
しばらく、二人とも黙っていた。
「馬剃さん」
「はい」
「あの日から、うちの試験場の時計は、前日に全部、電池を新品に替えます」
「全部」
「百十四個です」
「……百十四」
「一つずつ、動いてるのを目視で確認します。俺、五年やってます」
「今年は、私がやります」
天愛星さんは、そう言った。
その言い方に、迷いがなかった。
「百十四個です」
「はい」
「前日の、たぶん十六時から十八時のあいだです」
「はい」
「一人でやると、二時間かかります」
「一人でやります」
「二人でやると、一時間です」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「一月十六日は、金曜です」
「はい」
「俺、その日は会計課です」
「はい」
「……ただ、十六時からは、抜けられます」
天愛星さんが、顔を上げた。
「よろしいのですか」
「二時間を一時間にするのは、業務上、合理的なんで」
「……はい」
「あと、俺、五年やってるんで。目視のコツがあります」
「コツ」
「秒針が動いてるかどうかを、一個につき三秒見ます。二秒だと、見落とします」
天愛星さんは、それを書き取った。
書き取ってから、小さく言った。
「……三秒ですね」
「三秒です」
「電話と、同じですね」
――あ。
四月に、俺はこの人に言った。
受験生からの電話は、最初の三秒だけゆっくり喋る、と。
この人は、それを九か月、覚えている。
三枚目からは、二月の一般入試だった。
「二月一日から七日までが、うちの一般入試の本番です」
「六日間」
「六日間で、延べ四千二百人来ます」
「四千二百」
「試験場が三つに分かれます。本学と、外部会場が二つ」
「移動は」
「本部は動かないです。動かないので、本部にいる人間が、三か所を同時に把握します」
天愛星さんが、ペンを止めた。
「その、本部にいる人間というのは」
「今年は、馬剃さんです」
「……はい」
「俺は、本部にいないです」
「……どちらに」
「二月三日と四日は、理学部の試験日なんで、そっちにいます。あとの四日間は、会計課です」
天愛星さんは、そこで一度、深く息を吸った。
「……承知しました」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「本当に」
「本当です」
――嘘だな。
俺は、そう思った。
思ったが、言わなかった。
言うと、この人は「大丈夫です」ともう一回言う。
二回言わせると、たぶん、本人がそれを信じてしまう。
引き継ぎは、五日かかった。
十二月二十五日から、二十九日まで。
うち二日は、休みだった。
休みだったが、二人とも来た。
二十七日の朝、守衛さんに「お二人とも、年末ですよ」と言われた。
「存じております」
隣が、即答した。
「いや、そうじゃなくて。年末は休むもんですよ」
「本学の閉庁期間は、十二月三十日からです」
「……よくご存じで」
「規程です」
「規程で来てるんですか」
「規程では、来なくてよいことになっております」
「じゃあ、なんで来てるんですか」
「……業務が、残っておりますので」
「それ、規程と関係ないでしょ」
「……関係ありませんっ」
守衛さんが、笑っていた。
俺は、笑えなかった。
この人は、規程で武装して、規程が使えないところだけ、素で出てくる。
四月から、ずっとそうである。
素で出てくるところが、いつも、いちばん短い。
二十二枚のうち、十四枚は、俺の頭の中にしかなかったものである。
書きながら、俺は何度か手が止まった。
止まった理由は、単純だ。
言語化されていないからである。
たとえば、共通テスト当日の朝、正門に立つ職員の配置。
あれは、毎年、俺が「なんとなく」決めていた。
バスの降車位置と、雨のときの動線と、遅刻者の受付動線が交差しない場所。
それを、俺は五年ぶん、頭の中で持っていた。
紙に落とすと、三枚かかった。
「温水さん」
「はい」
「これ、五年間、どこにも書いてなかったんですか」
「書いてなかったです」
「……なぜですか」
「書く時間がなかったのと、あとは」
俺は、そこで正直に言った。
「必要になると思ってなかったです」
「……はい」
「俺がずっとやるつもりだったんで」
天愛星さんは、それを聞いて、少し黙った。
「温水さん」
「はい」
「SDの企画書に、私が書いたことを、覚えていらっしゃいますか」
――ああ。
『その経験は個人に属したまま、組織に蓄積されていない』
「覚えてます」
「あれ、あなたのことを書きました」
「知ってます」
「知っていらしたんですか」
「六枚目を読んだときに、分かりました」
天愛星さんは、二十二枚の束を両手で持ち直した。
「……四月に継続審議が解けても、間に合いませんでした」
「間に合わなかったですね」
「間に合わなかったので、いま、私が受け取ります」
俺は、そのとき、たぶん少し変な顔をした。
二十二枚のうち、いちばん薄いのが、最後の一枚だった。
表題は『判断に迷ったときの連絡先』である。
一行しか書いていない。
俺の携帯番号である。
書いたとき、俺は少し迷った。
迷った理由は、はっきりしている。
これを書くと、この人は、たぶん、かけてこない。
かけてこない人ほど、番号を渡しておかないといけない。
……そういう理屈にして、俺は書いた。
この二十二枚は、引き継ぎ資料である。
引き継ぎ資料というのは、要するに、いなくなる人が残すものだ。
俺は、いなくならない。
週の半分は、この島にいる。
……いるのに、この人は、いなくなる人から受け取るみたいな顔をしている。
俺は、その顔を、十二月にもう一度見ていた。
十九日の夕方である。
ロビーで、志喜屋先輩と出ていくときの顔だ。
――逃げるとき、先に荷物を減らす。
あの日から、俺はその言葉を、たぶん一日に一回は思い出している。
思い出して、そのたびに、なんでもないことにしている。
九月に減らしたのは、俺である。
いま、二十二枚を渡しているのも、俺である。
……渡し方が、まずいのかもしれない。
俺は、そう思った。
思ったが、渡さないわけにはいかなかった。
十二月二十六日、金曜日。
会計課に、挨拶に行った。
会計課の島は、本部棟の二階である。
三年いた場所だ。
机の配置が、七年前とほとんど変わっていない。
窓際の三番目が、俺の席だった。
いまは、別の人が座っている。
「温水君、悪いね」
会計課長が、そう言った。
五十八歳で、来年定年の人である。
「いえ」
「田島がね、十二月に入ってから、ずっと顔色悪くてさ」
「そうでしたか」
「俺が止めればよかった」
俺は、そこで何も言わなかった。
止められたかどうかは、分からない。
止めても、仕事は減らない。
減らないから、誰かがやる。誰かがやると、その誰かが倒れる。
これは、人格の問題ではない。
「一月からの査定、去年と同じでいい?」
「同じでいけます」
「早いな」
「去年のファイル、全部残ってるんで」
「引き継ぎの手間が省けるよ」
「省けます。俺、俺に引き継いでるんで」
「なんだそれ」
「去年の俺から、今年の俺への引き継ぎです」
「……変わってんな、君」
「よく言われます」
「誰に」
「……最近は、一人に」
「一人」
「はい」
「その一人、うちに来ないかな」
「来ないです」
「なんで」
「うちの課で、いま、いちばん忙しいんで」
言ってから、俺は少し黙った。
いちばん忙しくしているのは、一月から三月にかけて、俺である。
俺は、鞄からノートパソコンを出した。
去年の査定資料は、全部取ってある。
各部署の要求額と、査定後の額と、削った理由。
削った理由は、部署ごとに書き分けてある。
同じ理由で二年連続で削ると、必ず揉めるからだ。
「温水君」
「はい」
「これ、去年も思ったんだけどさ」
「はい」
「なんで、削った理由まで残してんの」
俺は、そこで、一瞬答えに詰まった。
「……次にやる人が、困るからです」
「次にやる人」
「はい」
「君、次もやるだろ」
「やりますね」
「じゃあ、いらないじゃん」
――そうなんですよね。
俺は、そう思った。
思って、口には出さなかった。
一月五日、月曜日。
仕事始めである。
俺の一週間は、こうなった。
月曜と木曜が、会計課。
火曜と金曜が、入試広報課。
水曜が、午前会計、午後入試広報。
紙に書くと、きれいに割れている。
実際は、割れない。
最初の一週間で、俺は自分の間違いに気づいた。
去年の併任と、今年は、条件が一つ違う。
去年は、入試広報課に俺がいた。
会計課に行っていても、入試広報の判断は全部、俺が出していた。
「あとで俺が見る」でよかった。
今年は、俺が主ではない。
「あとで俺が見る」をやると、あの人が主でなくなる。
つまり、去年より、俺の側の仕事が減っている。
減っているのに、去年よりしんどい。
理由は、たぶん、はっきりしている。
――見えないからだ。
会計課の島にいると、入試広報課の島が見えない。
電話がかかってきたかどうか、誰がどんな顔をしているか、
あの人が何時に帰ったか。
全部、見えない。
見えないと、俺は落ち着かない。
……これは、たぶん、仕事の話ではない。
会計課にいる日に入試広報の電話が来るし、入試広報にいる日に会計の決裁が回ってくる。
どっちにいても、もう片方の仕事が視界に入っている。
一週目の金曜、一月九日。
俺は、入試広報課の島に戻った。
四日ぶりである。
自分の机の上に、ふせんが七枚貼ってあった。
六枚は、大貫と桑原主査からだった。
桑原主査のは、一枚に用件が三つ入っていた。
合計十九文字である。あの人の燃費は、正月を越えても変わらない。
七枚目が、几帳面な角ばった字だった。
『十二月二十六日付、県立三峰高校の宮野先生からの依頼メールに、ご返信がありません。先方は一月十五日までの回答を希望されています。私のほうで下書きを作成しましたので、ご確認ください』
――あ。
俺は、メールを開いた。
あった。
十二月二十六日、十六時四十分。
あの日、俺は会計課に挨拶に行っていた。
戻ってきて、引き継ぎ資料の続きを作って、そのまま帰った。
開いた記憶はある。
開いて、「あとで返す」と思った記憶もある。
あとが、来なかった。
二週間、来なかった。
これは、去年もあった。
去年は、三件だった。
三件のうち二件は、翌週に自分で気づいた。
一件は、相手から催促が来た。
今年は、一件目である。
まだ一月九日だ。三月三十一日まで、あと八十一日ある。
……八十一日で、何件落とすんだろうか。
去年のペースだと、たぶん十件くらいである。
十件のうち、何件かは、誰かが拾う。
拾ってもらえなかったものは、誰かが困る。
困るのは、たいてい、いちばん立場の弱い人である。
俺は、下書きを開いた。
完璧だった。
三年ぶんの経緯が入っていて、宮野先生の言い回しに合わせた文体になっていて、
最後に「温水が確認のうえ、追ってご連絡いたします」と逃げ道が作ってある。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、ありがとうございます」
「いえ」
「助かりました」
「いえ」
「……あの」
俺は、そこで一度、言葉を探した。
「すいませんでした」
天愛星さんが、こちらを見た。
「なぜ、謝られるんですか」
「落としたんで」
「落としていません」
「落としました」
「四日間、ご不在でした」
彼女は、そう言って、画面に戻った。
「不在の日に届いたメールを、不在の方が処理できないのは、当然です」
「まあ、そうですけど」
「ですので、それは私の担当業務です」
「……」
「私が主ですので」
――強い。
俺は、そこで少し笑ってしまった。
九か月前、この人は、俺の間違いをその場で指摘できずに、翌朝ふせんを貼った。
いま、七枚目のふせんを、堂々と机の上に貼っている。
しかも、下書きつきである。
「馬剃さん」
「はい」
「一個だけ、言っていいですか」
「どうぞ」
「そのふせん、あとで俺の机から剥がしてください」
「なぜですか」
「大貫が見ると、一年言われるんで」
「事実の記録です」
「記録は要らないです」
「記録は取ります」
ふせんは、剥がされなかった。
三日後に見たら、二枚に増えていた。
二枚目は、これである。
『一月八日付、広報委員会の日程調整メールに、ご返信がありません。下書きを作成しました』
「馬剃さん」
「はい」
「二枚目、貼りましたよね」
「貼りました」
「一枚目、剥がしてくださいって言いましたよね」
「一枚目については、承りました」
「二枚目は」
「承っておりませんっ」
「屁理屈だ」
「様式が違いますっ」
「様式」
「一枚目は依頼、二枚目は督促です」
「督促されてるんだ、俺」
「されております」
「三枚目は」
「……三枚目は、報告になります」
「誰への」
「課長へです」
「勘弁してください」
「では、ご返信ください」
一月九日、十七時十五分。
俺は、席を立たなかった。
立たなくなって、たぶん二か月になる。
「温水さん」
「はい」
「本日は、金曜日です」
「知ってる」
「定時です」
「知ってる」
「二か月前と、同じ会話をしています」
「してるな」
天愛星さんが、椅子を回した。
「あの、温水さん」
「はい」
「体調は」
「悪くないです」
「本当ですか」
「本当です」
「……短いですね」
俺は、キーボードから手を離した。
九か月前の四月に、この人は俺に言った。
――あなたは、そういう嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしないんです。
言われたときは、面白いことを言うな、くらいに思っていた。
いま、使われている。
「……三時間くらいしか寝てないです」
俺は、そう言った。
「昨日、査定の資料が二十件たまってて」
「二十件」
「あと、来週の月曜に理事会の資料の一次案を出さないといけないです」
「はい」
「共通テストの本部要員の割り振りも、今週中です」
「はい」
「あと、理学部の入試の願書のチェックが、来週です」
俺は、そこまで言って、口を閉じた。
言いすぎた、と思った。
この人は、こういうのを聞くと、全部拾いにくる。
拾いすぎると死ぬ、と、鷲尾課長が言っていた。
「馬剃さん」
「はい」
「いま言ったの、全部、俺の仕事なんで」
「はい」
「拾わないでください」
「拾いません」
即答だった。
「……即答ですね」
「はい」
「珍しくないですか」
「珍しくありません」
天愛星さんは、画面に向き直った。
「拾うと、あなたが遠慮します」
「はい」
「遠慮されると、次に言ってくださらなくなります」
「……」
「ですので、拾いません」
――この人。
俺は、そこで、たぶん十秒くらい何も言えなかった。
九か月前、俺はこの人に言った。
「聞かれたら嫌でしょ」と。
いま、同じことを、逆からやられている。
「ただ」
天愛星さんが、そう言った。
「三時間は、少なすぎます」
「まあ」
「四時間半にしてください」
「一時間半増えただけですけど」
「一時間半で、人は変わります」
「変わりますかね」
「変わります。文科省で、実証済みです」
「誰で実証したんですか」
「……被験者は、一名です」
「馬剃さんですよね」
「守秘義務がありますっ」
「守秘義務」
「あります」
「自分の睡眠時間に、守秘義務はないでしょ」
「……ありますっ」
……その実証のされ方が、いちばん心配なのだが。
十八時四十分に、俺は帰り支度をした。
天愛星さんも、同時に立った。
コートを取って、袖を通して、椅子の背から緑を取る。
巻いてから、左を一巻きぶん、直す。
今年から増えた工程である。
直さないと、検品に引っかかる。
「合格です」
「毎回やるんですか、これ」
「毎回です」
「基準書は」
「作成中ですっ」
「作成するんだ」
エレベーターで、彼女が言った。
「温水さん」
「はい」
「二十二枚の、最後の一枚について」
――来たな。
あの一枚は、いちばん先に聞かれると思っていた。
「はい」
「あれは、様式ですか」
「様式じゃないです」
「では、何でしょうか」
「連絡先です」
「そう書いてあります」
「じゃあ、連絡先です」
彼女は、階数の表示を見ていた。
「……使用の想定が、できません」
「判断に迷ったときです」
「私は、判断に迷いません」
「迷いますよ」
「迷いませんっ」
「じゃあ、迷わない日は、かけなくていいです」
扉が開いた。
「……承知しました」
この人は、かけてこない。
三月三十一日まで、たぶん一度もかけてこない。
俺は、そう思っている。
思っているのに、書いた。
書いた理由は、二十二枚のどこにも書いていない。
正門で、別れた。
「では、失礼いたします」
「お疲れさまでした」
「温水さん」
「はい」
「一月十六日は」
「十六時から抜けます」
「百十四個です」
「百十四個ですね」
「……十六日です」
「十六日ね」
日付を確認し合うのが、この冬の様式である。
この人は、来週の金曜のことを、今夜もう一度確認してから帰る。
確認しないと、たぶん、眠れない。
……人のことは、言えない。
俺は、コートの襟を立てて、駅に向かって歩いた。
一月の夜は、乾いていて、冷たい。
首元だけが、あたたかい。
今年のこれは、二週間前からである。
もう一本は、来週の金曜に帰ってくる。
――八十一日。
三月三十一日まで、あと八十一日ある。
その八十一日で、俺は会計課の査定を終わらせて、理事会の資料を出して、
理学部の入試を回して、あの人が主で回す三か月を、横から支える。
……支える、というのは、正確ではない。
俺は、いない。
週の半分、いない。
いないまま、あの人が、一人で三か月を通す。
通したら、どうなるんだろうか。
俺は、そこまで考えて、足を止めた。
止めた場所は、駅前の横断歩道の手前だった。
信号は、青だった。
渡らずに、赤になるまで立っていた。