大学職員の僕たち   作:房吉

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~23敗目~ 併任辞令

 (十二月二十四日〜一月九日/温水視点)

 

「また温水さんですか」

 

「また俺だ」

 

「なんでですか」

 

「去年やったからだ」

 

 十二月二十四日、水曜日、十時二十分。

 

 大貫が、心の底から納得のいかない顔をしていた。

 

「それ、罰ゲームじゃないですか」

 

「罰ゲームだな」

 

「なんで一回やった人がまたやるんですか」

 

「一回やった人は、二回目が速いからだ」

 

「理不尽です」

 

「理不尽だ」

 

「じゃあ、俺が去年やってたら、今年は俺だったんですか」

 

「そうなるな」

 

「絶対やりません」

 

「賢明だ」

 

「でも、俺が言うのもなんですけど」

 

「うん」

 

「二年連続で罰ゲームって、くじ運悪すぎません?」

 

「くじじゃないんだよなあ」

 

「くじのほうがマシですよ」

 

「それもそうだな」

 

「あと、一個いいですか」

 

「うん」

 

「温水さん、去年の一月から三月で、『大丈夫』って十二回言いました」

 

「言ったかもな」

 

「十二回目だけ、声が裏返りました」

 

「数えないでくれ」

 

 

 

 

 ――言ってしまった。

 

 

 

 

 この言い方は、この課ではもう、俺のものではない。

 

 四月からの九か月で、俺は自分の語彙を、少しずつ入れ替えられている。

 

 入れ替えられていることに気づいたのは、たぶん、十一月くらいだった。

 

「あ、いま馬剃さんのやつ出ました」

 

「出てないです」

 

「出ましたって。イントネーションまで一緒でした」

 

「……出てないです」

 

 大貫は、そこで椅子を回して、こちらに向き直った。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「一月から三月って、うちも死ぬやつじゃないですか」

 

「死ぬな」

 

「温水さん、いないんですよね」

 

「半分いる」

 

「半分って、要するに、いないってことですよ」

 

 ――こいつ、たまに正しい。

 

「じゃあ、誰が回すんですか」

 

「馬剃さんだ」

 

「馬剃さんが」

 

「主でやってもらう」

 

 大貫は、そこで三秒くらい黙った。

 

「……あ、なるほど」

 

「なんだ、その顔」

 

「いや、なんでも」

 

「言って」

 

「言わないです」

 

「言ってよ」

 

 大貫は、椅子ごと後ろに下がった。

 

「温水さん、それ、たぶん、めちゃくちゃ考えて出した案ですよね」

 

「まあ、考えたな」

 

「何時間かけました?」

 

「……三時間くらい」

 

「三時間!」

 

「うるさい」

 

 実際は、四時間半である。

 

 二十二日の夜、俺は白紙にまず十七通り書いた。

 

 外部から人を借りる。派遣を入れる。会計課の査定を三月に後ろ倒しにする。

 入試広報の三か月を、課長が直接見る。

 

 十七通りのうち十五通りは、一時間で消えた。

 

 消えた理由は、全部同じである。

 

 ――人がいない。

 

 残った二通りのうちの一つは、俺が両方を全部やる、というものだった。

 

 これは、二時間持った。

 

 二時間持ったが、去年の一月から三月の自分の記録を見て、消した。

 

 去年、俺は十件落としている。

 

 両方を全部やると、今年は二十件になる。

 

 二十件のうち何件かは、誰かが困る。

 

 二十二日の夜から、二十三日の朝までかけて、俺は他の案を全部潰した。

 

 潰した結果、これしかなかった。

 

 ――と、自分では思っている。

 

 俺は、机の上の内示の紙を、二つ折りにして鞄に入れた。

 

 

 

 

 三日前の、十二月二十二日、月曜日の朝である。

 

 会計課の田島主任が、出勤直後に倒れた。

 

 救急車が入って、そのまま附属病院に運ばれた。

 

 命に別状はない。

 ただ、復帰は三月以降になる見込みだと、その日の夕方に聞いた。

 

 五十四歳である。

 

 俺は、その人と三年、同じ島にいた。

 

 会計課にいたころである。

 伝票の書き方を、いちばん最初に教えてくれた人だった。

 

 二十二歳の俺は、旅費の精算で三回続けて同じミスをした。

 

 三回目のとき、あの人はこう言った。

 

 ――温水君、間違うのはいいんだよ。同じ間違いを三回するのは、覚え方が悪いんだ。

 

 そのあと、覚え方を教えてくれた。

 

 いま俺が『99_温水メモ』をやっているのは、たぶん、あのときが原点である。

 

 去年、俺が併任したときも、あの人は隣にいた。

 

 隣にいて、「悪いな、来年は倒れないようにするわ」と笑っていた。

 

 倒れた。

 

 会計課の一月から三月は、死ぬ。

 

 次年度の予算編成がある。

 

 各部署から要求が上がってきて、それを査定して、削って、理事会に出す資料を作る。

 二月に理事会があって、三月に補正予算と、年度末の支払い処理が全部来る。

 

 その全部を、会計課は七人で回している。

 

 いま、六人になった。

 

 六人のうち、二人は入って三年目である。

 

 三年目というのは、伝票が切れるようになった、という段階だ。

 

 伝票が切れるのと、予算を削れるのは、まったく別の技能である。

 

 前者は半年で覚える。後者は、たぶん十年かかる。

 

 六人で回らないのは、算数の問題ではない。

 

 予算の査定というのは、各部署と交渉する仕事である。

 

 交渉というのは、相手のことを知っていないとできない。

 どの部署がどこで嘘をつくかを、知っている必要がある。

 

 その知識は、人についている。

 

 田島主任の頭の中には、二十年ぶんのそれが入っていた。

 

 入ったまま、病室にある。

 

 

 

 

「事務局長から、直接お話がありました」

 

 鷲尾課長は、そう言った。

 

 打ち合わせブースである。扉が閉まる、この課で唯一の場所だ。

 

「温水君を、会計課主任と併任で。一月一日付」

 

「はい」

 

「去年と同じね」

 

「同じですね」

 

「私、反対したのよ」

 

 俺は、顔を上げた。

 

「うちも、一月から三月は死ぬの」

 

「死にますね」

 

「共通テスト、一般入試、繰上げ合格。三か月で全部来るのよ」

 

「来ます」

 

「そこにあなたがいないのは、正直、きつい」

 

 この人は、こういうときに嘘をつかない。

 

「で、事務局長になんて言われたんですか」

 

「『他に誰がいる』って」

 

「……」

 

「腹立つでしょ」

 

「腹立ちますね」

 

「でも、事実なのよね」

 

 ――事実である。

 

 会計課の実務を知っていて、いま動ける人間は、この大学に三人しかいない。

 

 一人は倒れた。

 一人は定年でいない。

 

 残りが、俺である。

 

「課長」

 

「はい」

 

「一つ、提案があります」

 

 俺は、そこで背筋を伸ばした。

 

「一月から三月の入試広報、馬剃さんを主にしてください」

 

 鷲尾課長が、湯呑みを置いた。

 

「主に」

 

「はい」

 

「あの人、入って九か月よ」

 

「九か月です」

 

「共通テストの本部、やったことないのよ」

 

「ないです」

 

「じゃあ、なんで」

 

 俺は、そこで少し考えた。

 

 考えて、事実だけを並べた。

 

「六月の相談会、十七件中八件をあの人が一人で回してます」

 

「回したわね」

 

「八月のオープンキャンパスは、全体説明会の司会です。停電のとき、俺は何もしてません」

 

「してなかったわね」

 

「十月の出願障害のとき、看護学部の突破口を出したのは、あの人です」

 

「そうなの?」

 

「事務決裁規程の別表第三です。俺は知らなかったです」

 

 鷲尾課長は、しばらく黙っていた。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「それ、全部、あなたが横にいたときの話よね」

 

 ――そこか。

 

 俺は、少しだけ、言葉に詰まった。

 

「はい」

 

「一月から三月は、いないのよ、あなた」

 

「週の半分はいます」

 

「半分でしょ」

 

「半分です」

 

 課長は、湯呑みを両手で持った。

 

「……分かった。やらせましょう」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、条件が一つ」

 

「はい」

 

「温水君、倒れないでね」

 

「倒れないです」

 

「四年前、十二キロ痩せたわよね」

 

「痩せました」

 

「あれ、オープンキャンパスの年でしょ。今年の一月から三月は、それより重いのよ」

 

「はい」

 

「三月三十一日に、あなたが立ってなかったら、私は事務局長を殴るから」

 

「殴らないでください」

 

「殴るわよ」

 

「懲戒になります」

 

「なるわね」

 

「就業規則の第何条か、馬剃さんに聞いておきます」

 

「聞かなくていいの」

 

 鷲尾課長は、湯呑みを置いて立ち上がった。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「あなた、去年もこの部屋で同じこと言われたの、覚えてる?」

 

「……覚えてます」

 

「なんて言われた?」

 

「『倒れないでね』です」

 

「で、あなたはなんて答えた?」

 

「『倒れないです』です」

 

「今年も、同じ答えなのね」

 

「同じです」

 

「じゃあ、私も同じことを言うわ」

 

 課長は、扉に手をかけた。

 

 

 

 

「信じてないから」

 

 

 

 

 俺は、その言い方が好きだった。

 

 この人は、部下を守るときに、必ず上を殴ると言う。

 

 

 

 

 十二月二十四日、十四時。

 

 俺は、天愛星さんを打ち合わせブースに呼んだ。

 

「一月一日付で、会計課主任を併任します」

 

 天愛星さんの手が、止まった。

 

 止まって、それから、ボールペンのノックを、かちり、と一回押した。

 

 書くものは、何もなかった。

 

 押したことに、たぶん本人は気づいていない。

 

「……併任」

 

「はい」

 

「会計課の方が、倒れられたそうですね」

 

「聞いてましたか」

 

「庶務課の方から。昨日」

 

 この人は、情報が早い。

 

「で、一月から三月の入試広報を、馬剃さんが主でやってください」

 

 

 

 

「やります」

 

 

 

 

 即答だった。

 

 〇・五秒くらいだったと思う。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いま、内容を聞いてないですよね」

 

「聞いておりません」

 

「聞きます?」

 

「聞きます」

 

「聞いてから、断ってもいいですよ」

 

「断りません」

 

 俺は、そこで、資料を出した。

 

 A4で二十二枚である。

 

 昨日の夜と、今朝の五時から作った。

 

「一月から三月の、入試広報課の全業務です」

 

「二十二枚」

 

「二十二枚です。多いです」

 

「はい」

 

 俺は、一枚目をめくった。

 

「一月十七日と十八日が、共通テストです」

 

「はい」

 

「うちは、試験場になります。監督は教員がやりますが、本部の運営は事務局です」

 

「本部の人数は」

 

「四十二人。うちの課からは、三人」

 

「二日間、通しですか」

 

「通しです。前日の設営から入るんで、実質三日間」

 

 俺は、二枚目をめくった。

 

「共通テストというのは、要するに、全国で同じ日に同じ問題を解かせる仕組みです」

 

「はい」

 

「五十万人が、同じ日の同じ時刻に、同じページを開きます」

 

「はい」

 

「一分でもずれると、成立しません」

 

 俺は、そこで指を一本立てた。

 

「なので、うちの大学がやることは、一つだけです」

 

「はい」

 

 

 

 

「決められたとおりに、やる」

 

 

 

 

 天愛星さんが、ペンを止めた。

 

「……工夫の余地は」

 

「ないです」

 

「一切」

 

「一切ないです」

 

 この人は、たぶん、そこがいちばん驚くだろうと思っていた。

 

 四月から九か月、俺はこの人に、いろんなものを工夫して見せてきた。

 

 議題の順番も、告知文の一行目も、電話の順序も、全部、工夫である。

 

 共通テストには、それがない。

 

「実施要領が、四百ページあります」

 

「四百」

 

「そのとおりにやります。読み上げる文言まで決まってます」

 

「アドリブは」

 

「禁止です」

 

「では、あなたの得意分野は」

 

 俺は、そこで少し笑った。

 

 

 

 

「ないです」

 

 

 

 

「……ないんですか」

 

「共通テストの日だけは、俺、なんの役にも立たないです」

 

「そんなことは」

 

「ないんですよ、本当に」

 

 俺は、資料の余白を指で叩いた。

 

「あの二日間に必要なのは、四百ページを間違えずに実行することです。それだけです」

 

「……はい」

 

「だから、馬剃さんのほうが向いてます」

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

「……いま、なんと」

 

「向いてます」

 

「もう一度」

 

「向いてます。四百ページを間違えずに実行するのは、俺より馬剃さんです」

 

 彼女は、そこで、二秒くらい止まった。

 

 止まって、それから、手帳を開いた。

 

「書くんですか、それ」

 

「書きます」

 

「なんて書くんですか」

 

「……『向いている』と」

 

「主語は」

 

「……主語は、要りませんっ」

 

「要るでしょ」

 

「要りませんっ。私が読むので、私が分かりますっ」

 

 

 

 

 耳が、赤かった。

 

 

 

 

 三分前まで、この人は四百ページの話をしていた。

 

 四百ページで動じなかった人が、五文字で崩れる。

 

 この落差を、俺は九か月見ている。

 

 九か月見ていて、まだ、慣れない。

 

「……承知しました」

 

「はい」

 

「四百ページ、読みます」

 

「今日中にとは言ってないです」

 

「今日中に読みます」

 

「共通テストは、事故が起きる前提で作られてます」

 

「事故」

 

「毎年、全国のどこかで必ず起きます。リスニングの機器不良、開始時刻の誤り、監督者の説明ミス」

 

「はい」

 

「うちも、五年前に一回やってます」

 

「なにが起きたんですか」

 

 俺は、そこで少し口を閉じた。

 

「時計が、止まりました」

 

「時計」

 

「試験室の壁の時計が、一つだけ止まってたんです。三十七分間、誰も気づかなかった」

 

「……三十七分」

 

「気づいたのは、受験生でした」

 

 天愛星さんが、ペンを止めた。

 

「……その受験生は」

 

「試験時間を、正しく確保しました。追試験の対象にもしてます」

 

「はい」

 

「ただ」

 

 俺は、二枚目を指で叩いた。

 

「三十七分間、その子は、間違った時計を見ながら問題を解いてます」

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「あの日から、うちの試験場の時計は、前日に全部、電池を新品に替えます」

 

「全部」

 

「百十四個です」

 

「……百十四」

 

「一つずつ、動いてるのを目視で確認します。俺、五年やってます」

 

 

 

 

「今年は、私がやります」

 

 

 

 

 天愛星さんは、そう言った。

 

 その言い方に、迷いがなかった。

 

「百十四個です」

 

「はい」

 

「前日の、たぶん十六時から十八時のあいだです」

 

「はい」

 

「一人でやると、二時間かかります」

 

「一人でやります」

 

「二人でやると、一時間です」

 

 俺は、そこで一度、言葉を切った。

 

「一月十六日は、金曜です」

 

「はい」

 

「俺、その日は会計課です」

 

「はい」

 

「……ただ、十六時からは、抜けられます」

 

 天愛星さんが、顔を上げた。

 

「よろしいのですか」

 

「二時間を一時間にするのは、業務上、合理的なんで」

 

「……はい」

 

「あと、俺、五年やってるんで。目視のコツがあります」

 

「コツ」

 

「秒針が動いてるかどうかを、一個につき三秒見ます。二秒だと、見落とします」

 

 天愛星さんは、それを書き取った。

 

 書き取ってから、小さく言った。

 

「……三秒ですね」

 

「三秒です」

 

「電話と、同じですね」

 

 

 

 

 ――あ。

 

 

 

 

 四月に、俺はこの人に言った。

 

 受験生からの電話は、最初の三秒だけゆっくり喋る、と。

 

 この人は、それを九か月、覚えている。

 

 三枚目からは、二月の一般入試だった。

 

「二月一日から七日までが、うちの一般入試の本番です」

 

「六日間」

 

「六日間で、延べ四千二百人来ます」

 

「四千二百」

 

「試験場が三つに分かれます。本学と、外部会場が二つ」

 

「移動は」

 

「本部は動かないです。動かないので、本部にいる人間が、三か所を同時に把握します」

 

 天愛星さんが、ペンを止めた。

 

「その、本部にいる人間というのは」

 

「今年は、馬剃さんです」

 

「……はい」

 

「俺は、本部にいないです」

 

「……どちらに」

 

「二月三日と四日は、理学部の試験日なんで、そっちにいます。あとの四日間は、会計課です」

 

 天愛星さんは、そこで一度、深く息を吸った。

 

「……承知しました」

 

「大丈夫ですか」

 

「大丈夫です」

 

「本当に」

 

「本当です」

 

 ――嘘だな。

 

 俺は、そう思った。

 

 思ったが、言わなかった。

 

 言うと、この人は「大丈夫です」ともう一回言う。

 二回言わせると、たぶん、本人がそれを信じてしまう。

 

 

 

 

 引き継ぎは、五日かかった。

 

 十二月二十五日から、二十九日まで。

 

 うち二日は、休みだった。

 休みだったが、二人とも来た。

 

 二十七日の朝、守衛さんに「お二人とも、年末ですよ」と言われた。

 

「存じております」

 

 隣が、即答した。

 

「いや、そうじゃなくて。年末は休むもんですよ」

 

「本学の閉庁期間は、十二月三十日からです」

 

「……よくご存じで」

 

「規程です」

 

「規程で来てるんですか」

 

「規程では、来なくてよいことになっております」

 

「じゃあ、なんで来てるんですか」

 

「……業務が、残っておりますので」

 

「それ、規程と関係ないでしょ」

 

「……関係ありませんっ」

 

 守衛さんが、笑っていた。

 

 

 

 

 俺は、笑えなかった。

 

 

 

 

 この人は、規程で武装して、規程が使えないところだけ、素で出てくる。

 

 四月から、ずっとそうである。

 

 素で出てくるところが、いつも、いちばん短い。

 

 二十二枚のうち、十四枚は、俺の頭の中にしかなかったものである。

 

 書きながら、俺は何度か手が止まった。

 

 止まった理由は、単純だ。

 

 言語化されていないからである。

 

 たとえば、共通テスト当日の朝、正門に立つ職員の配置。

 

 あれは、毎年、俺が「なんとなく」決めていた。

 

 バスの降車位置と、雨のときの動線と、遅刻者の受付動線が交差しない場所。

 それを、俺は五年ぶん、頭の中で持っていた。

 

 紙に落とすと、三枚かかった。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「これ、五年間、どこにも書いてなかったんですか」

 

「書いてなかったです」

 

「……なぜですか」

 

「書く時間がなかったのと、あとは」

 

 俺は、そこで正直に言った。

 

「必要になると思ってなかったです」

 

「……はい」

 

「俺がずっとやるつもりだったんで」

 

 天愛星さんは、それを聞いて、少し黙った。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「SDの企画書に、私が書いたことを、覚えていらっしゃいますか」

 

 ――ああ。

 

『その経験は個人に属したまま、組織に蓄積されていない』

 

「覚えてます」

 

「あれ、あなたのことを書きました」

 

「知ってます」

 

「知っていらしたんですか」

 

「六枚目を読んだときに、分かりました」

 

 天愛星さんは、二十二枚の束を両手で持ち直した。

 

「……四月に継続審議が解けても、間に合いませんでした」

 

「間に合わなかったですね」

 

「間に合わなかったので、いま、私が受け取ります」

 

 俺は、そのとき、たぶん少し変な顔をした。

 

 二十二枚のうち、いちばん薄いのが、最後の一枚だった。

 

 表題は『判断に迷ったときの連絡先』である。

 

 一行しか書いていない。

 

 俺の携帯番号である。

 

 書いたとき、俺は少し迷った。

 

 迷った理由は、はっきりしている。

 

 これを書くと、この人は、たぶん、かけてこない。

 

 かけてこない人ほど、番号を渡しておかないといけない。

 

 ……そういう理屈にして、俺は書いた。

 

 この二十二枚は、引き継ぎ資料である。

 

 引き継ぎ資料というのは、要するに、いなくなる人が残すものだ。

 

 俺は、いなくならない。

 

 週の半分は、この島にいる。

 

 ……いるのに、この人は、いなくなる人から受け取るみたいな顔をしている。

 

 俺は、その顔を、十二月にもう一度見ていた。

 

 十九日の夕方である。

 

 ロビーで、志喜屋先輩と出ていくときの顔だ。

 

 ――逃げるとき、先に荷物を減らす。

 

 あの日から、俺はその言葉を、たぶん一日に一回は思い出している。

 

 思い出して、そのたびに、なんでもないことにしている。

 

 九月に減らしたのは、俺である。

 

 いま、二十二枚を渡しているのも、俺である。

 

 ……渡し方が、まずいのかもしれない。

 

 俺は、そう思った。

 

 思ったが、渡さないわけにはいかなかった。

 

 

 

 

 十二月二十六日、金曜日。

 

 会計課に、挨拶に行った。

 

 会計課の島は、本部棟の二階である。

 

 三年いた場所だ。

 

 机の配置が、七年前とほとんど変わっていない。

 窓際の三番目が、俺の席だった。

 

 いまは、別の人が座っている。

 

「温水君、悪いね」

 

 会計課長が、そう言った。

 

 五十八歳で、来年定年の人である。

 

「いえ」

 

「田島がね、十二月に入ってから、ずっと顔色悪くてさ」

 

「そうでしたか」

 

「俺が止めればよかった」

 

 俺は、そこで何も言わなかった。

 

 止められたかどうかは、分からない。

 

 止めても、仕事は減らない。

 減らないから、誰かがやる。誰かがやると、その誰かが倒れる。

 

 これは、人格の問題ではない。

 

「一月からの査定、去年と同じでいい?」

 

「同じでいけます」

 

「早いな」

 

「去年のファイル、全部残ってるんで」

 

「引き継ぎの手間が省けるよ」

 

「省けます。俺、俺に引き継いでるんで」

 

「なんだそれ」

 

「去年の俺から、今年の俺への引き継ぎです」

 

「……変わってんな、君」

 

「よく言われます」

 

「誰に」

 

「……最近は、一人に」

 

「一人」

 

「はい」

 

「その一人、うちに来ないかな」

 

「来ないです」

 

「なんで」

 

「うちの課で、いま、いちばん忙しいんで」

 

 

 

 

 言ってから、俺は少し黙った。

 

 いちばん忙しくしているのは、一月から三月にかけて、俺である。

 

 俺は、鞄からノートパソコンを出した。

 

 去年の査定資料は、全部取ってある。

 

 各部署の要求額と、査定後の額と、削った理由。

 削った理由は、部署ごとに書き分けてある。

 

 同じ理由で二年連続で削ると、必ず揉めるからだ。

 

「温水君」

 

「はい」

 

「これ、去年も思ったんだけどさ」

 

「はい」

 

「なんで、削った理由まで残してんの」

 

 俺は、そこで、一瞬答えに詰まった。

 

「……次にやる人が、困るからです」

 

「次にやる人」

 

「はい」

 

「君、次もやるだろ」

 

「やりますね」

 

「じゃあ、いらないじゃん」

 

 ――そうなんですよね。

 

 俺は、そう思った。

 

 思って、口には出さなかった。

 

 

 

 

 一月五日、月曜日。

 

 仕事始めである。

 

 俺の一週間は、こうなった。

 

 月曜と木曜が、会計課。

 火曜と金曜が、入試広報課。

 水曜が、午前会計、午後入試広報。

 

 紙に書くと、きれいに割れている。

 

 実際は、割れない。

 

 最初の一週間で、俺は自分の間違いに気づいた。

 

 去年の併任と、今年は、条件が一つ違う。

 

 去年は、入試広報課に俺がいた。

 

 会計課に行っていても、入試広報の判断は全部、俺が出していた。

 「あとで俺が見る」でよかった。

 

 今年は、俺が主ではない。

 

 「あとで俺が見る」をやると、あの人が主でなくなる。

 

 つまり、去年より、俺の側の仕事が減っている。

 

 減っているのに、去年よりしんどい。

 

 理由は、たぶん、はっきりしている。

 

 ――見えないからだ。

 

 会計課の島にいると、入試広報課の島が見えない。

 

 電話がかかってきたかどうか、誰がどんな顔をしているか、

 あの人が何時に帰ったか。

 

 全部、見えない。

 

 見えないと、俺は落ち着かない。

 

 ……これは、たぶん、仕事の話ではない。

 

 会計課にいる日に入試広報の電話が来るし、入試広報にいる日に会計の決裁が回ってくる。

 

 どっちにいても、もう片方の仕事が視界に入っている。

 

 

 

 

 一週目の金曜、一月九日。

 

 俺は、入試広報課の島に戻った。

 

 四日ぶりである。

 

 自分の机の上に、ふせんが七枚貼ってあった。

 

 六枚は、大貫と桑原主査からだった。

 

 桑原主査のは、一枚に用件が三つ入っていた。

 合計十九文字である。あの人の燃費は、正月を越えても変わらない。

 

 七枚目が、几帳面な角ばった字だった。

 

 

 

 

 『十二月二十六日付、県立三峰高校の宮野先生からの依頼メールに、ご返信がありません。先方は一月十五日までの回答を希望されています。私のほうで下書きを作成しましたので、ご確認ください』

 

 

 

 

 ――あ。

 

 俺は、メールを開いた。

 

 あった。

 

 十二月二十六日、十六時四十分。

 

 あの日、俺は会計課に挨拶に行っていた。

 

 戻ってきて、引き継ぎ資料の続きを作って、そのまま帰った。

 

 開いた記憶はある。

 

 開いて、「あとで返す」と思った記憶もある。

 

 あとが、来なかった。

 

 二週間、来なかった。

 

 これは、去年もあった。

 

 去年は、三件だった。

 

 三件のうち二件は、翌週に自分で気づいた。

 一件は、相手から催促が来た。

 

 今年は、一件目である。

 

 まだ一月九日だ。三月三十一日まで、あと八十一日ある。

 

 ……八十一日で、何件落とすんだろうか。

 

 去年のペースだと、たぶん十件くらいである。

 

 十件のうち、何件かは、誰かが拾う。

 拾ってもらえなかったものは、誰かが困る。

 

 困るのは、たいてい、いちばん立場の弱い人である。

 

 俺は、下書きを開いた。

 

 完璧だった。

 

 三年ぶんの経緯が入っていて、宮野先生の言い回しに合わせた文体になっていて、

 最後に「温水が確認のうえ、追ってご連絡いたします」と逃げ道が作ってある。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ、ありがとうございます」

 

「いえ」

 

「助かりました」

 

「いえ」

 

「……あの」

 

 俺は、そこで一度、言葉を探した。

 

「すいませんでした」

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

「なぜ、謝られるんですか」

 

「落としたんで」

 

「落としていません」

 

「落としました」

 

「四日間、ご不在でした」

 

 彼女は、そう言って、画面に戻った。

 

「不在の日に届いたメールを、不在の方が処理できないのは、当然です」

 

「まあ、そうですけど」

 

「ですので、それは私の担当業務です」

 

「……」

 

 

 

 

「私が主ですので」

 

 

 

 

 ――強い。

 

 俺は、そこで少し笑ってしまった。

 

 九か月前、この人は、俺の間違いをその場で指摘できずに、翌朝ふせんを貼った。

 

 いま、七枚目のふせんを、堂々と机の上に貼っている。

 

 しかも、下書きつきである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「一個だけ、言っていいですか」

 

「どうぞ」

 

「そのふせん、あとで俺の机から剥がしてください」

 

「なぜですか」

 

「大貫が見ると、一年言われるんで」

 

「事実の記録です」

 

「記録は要らないです」

 

「記録は取ります」

 

 ふせんは、剥がされなかった。

 

 三日後に見たら、二枚に増えていた。

 

 二枚目は、これである。

 

 『一月八日付、広報委員会の日程調整メールに、ご返信がありません。下書きを作成しました』

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「二枚目、貼りましたよね」

 

「貼りました」

 

「一枚目、剥がしてくださいって言いましたよね」

 

「一枚目については、承りました」

 

「二枚目は」

 

「承っておりませんっ」

 

「屁理屈だ」

 

「様式が違いますっ」

 

「様式」

 

「一枚目は依頼、二枚目は督促です」

 

「督促されてるんだ、俺」

 

「されております」

 

「三枚目は」

 

「……三枚目は、報告になります」

 

「誰への」

 

「課長へです」

 

「勘弁してください」

 

「では、ご返信ください」

 

 

 

 

 一月九日、十七時十五分。

 

 俺は、席を立たなかった。

 

 立たなくなって、たぶん二か月になる。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「本日は、金曜日です」

 

「知ってる」

 

「定時です」

 

「知ってる」

 

「二か月前と、同じ会話をしています」

 

「してるな」

 

 天愛星さんが、椅子を回した。

 

「あの、温水さん」

 

「はい」

 

「体調は」

 

「悪くないです」

 

「本当ですか」

 

「本当です」

 

 

 

 

「……短いですね」

 

 

 

 

 俺は、キーボードから手を離した。

 

 九か月前の四月に、この人は俺に言った。

 

 ――あなたは、そういう嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしないんです。

 

 言われたときは、面白いことを言うな、くらいに思っていた。

 

 いま、使われている。

 

「……三時間くらいしか寝てないです」

 

 俺は、そう言った。

 

「昨日、査定の資料が二十件たまってて」

 

「二十件」

 

「あと、来週の月曜に理事会の資料の一次案を出さないといけないです」

 

「はい」

 

「共通テストの本部要員の割り振りも、今週中です」

 

「はい」

 

「あと、理学部の入試の願書のチェックが、来週です」

 

 俺は、そこまで言って、口を閉じた。

 

 言いすぎた、と思った。

 

 この人は、こういうのを聞くと、全部拾いにくる。

 

 拾いすぎると死ぬ、と、鷲尾課長が言っていた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いま言ったの、全部、俺の仕事なんで」

 

「はい」

 

「拾わないでください」

 

「拾いません」

 

 即答だった。

 

「……即答ですね」

 

「はい」

 

「珍しくないですか」

 

「珍しくありません」

 

 天愛星さんは、画面に向き直った。

 

「拾うと、あなたが遠慮します」

 

「はい」

 

「遠慮されると、次に言ってくださらなくなります」

 

「……」

 

「ですので、拾いません」

 

 

 

 

 ――この人。

 

 

 

 

 俺は、そこで、たぶん十秒くらい何も言えなかった。

 

 九か月前、俺はこの人に言った。

 

 「聞かれたら嫌でしょ」と。

 

 いま、同じことを、逆からやられている。

 

「ただ」

 

 天愛星さんが、そう言った。

 

「三時間は、少なすぎます」

 

「まあ」

 

「四時間半にしてください」

 

「一時間半増えただけですけど」

 

「一時間半で、人は変わります」

 

「変わりますかね」

 

「変わります。文科省で、実証済みです」

 

「誰で実証したんですか」

 

「……被験者は、一名です」

 

「馬剃さんですよね」

 

「守秘義務がありますっ」

 

「守秘義務」

 

「あります」

 

「自分の睡眠時間に、守秘義務はないでしょ」

 

「……ありますっ」

 

 ……その実証のされ方が、いちばん心配なのだが。

 

 

 

 

 十八時四十分に、俺は帰り支度をした。

 

 天愛星さんも、同時に立った。

 

 コートを取って、袖を通して、椅子の背から緑を取る。

 

 巻いてから、左を一巻きぶん、直す。

 

 今年から増えた工程である。

 

 直さないと、検品に引っかかる。

 

「合格です」

 

「毎回やるんですか、これ」

 

「毎回です」

 

「基準書は」

 

「作成中ですっ」

 

「作成するんだ」

 

 

 

 

 エレベーターで、彼女が言った。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「二十二枚の、最後の一枚について」

 

 

 

 

 ――来たな。

 

 

 

 

 あの一枚は、いちばん先に聞かれると思っていた。

 

「はい」

 

「あれは、様式ですか」

 

「様式じゃないです」

 

「では、何でしょうか」

 

「連絡先です」

 

「そう書いてあります」

 

「じゃあ、連絡先です」

 

 彼女は、階数の表示を見ていた。

 

「……使用の想定が、できません」

 

「判断に迷ったときです」

 

「私は、判断に迷いません」

 

「迷いますよ」

 

「迷いませんっ」

 

「じゃあ、迷わない日は、かけなくていいです」

 

 

 

 

 扉が開いた。

 

 

 

 

「……承知しました」

 

 

 

 

 この人は、かけてこない。

 

 三月三十一日まで、たぶん一度もかけてこない。

 

 俺は、そう思っている。

 

 思っているのに、書いた。

 

 書いた理由は、二十二枚のどこにも書いていない。

 

 

 

 

 正門で、別れた。

 

「では、失礼いたします」

 

「お疲れさまでした」

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「一月十六日は」

 

「十六時から抜けます」

 

「百十四個です」

 

「百十四個ですね」

 

「……十六日です」

 

「十六日ね」

 

 

 

 

 日付を確認し合うのが、この冬の様式である。

 

 

 

 

 この人は、来週の金曜のことを、今夜もう一度確認してから帰る。

 

 確認しないと、たぶん、眠れない。

 

 ……人のことは、言えない。

 

 俺は、コートの襟を立てて、駅に向かって歩いた。

 

 一月の夜は、乾いていて、冷たい。

 

 首元だけが、あたたかい。

 

 今年のこれは、二週間前からである。

 

 もう一本は、来週の金曜に帰ってくる。

 

 

 

 

 ――八十一日。

 

 

 

 

 三月三十一日まで、あと八十一日ある。

 

 その八十一日で、俺は会計課の査定を終わらせて、理事会の資料を出して、

 理学部の入試を回して、あの人が主で回す三か月を、横から支える。

 

 ……支える、というのは、正確ではない。

 

 俺は、いない。

 

 週の半分、いない。

 

 いないまま、あの人が、一人で三か月を通す。

 

 通したら、どうなるんだろうか。

 

 俺は、そこまで考えて、足を止めた。

 

 止めた場所は、駅前の横断歩道の手前だった。

 

 信号は、青だった。

 

 

 

 

 渡らずに、赤になるまで立っていた。

 

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