(十二月二十六日〜三十日/温水視点)
「みなさん、年末どこ帰るんですかー」
十二月二十六日、金曜日の昼休み。
弁当を広げながら、大貫が島に投げた。
「俺は実家です。電車で二十分の」
「近いな」
「近いんで、逆に正月しか帰らないんですよ。温水さんは」
「豊橋。実家」
「お二人とも豊橋かー。新幹線の距離の帰省、憧れます」
「憧れるもんでもない」
「温水さん、何年ぶりですか」
「……さあ」
「さあ!? 自分のことですよ!?」
「さあ」
「二回目だ……」
数えると負ける気がするので、数えていないのである。
「馬剃さんは、いつ帰るんですか」
「三十日です。三年ぶりに帰ります」
「三年ぶり! ご家族、喜びますね」
「……どうでしょうか」
どうでしょうか、のところで、彼女は弁当の卵焼きを、必要以上に丁寧に割った。
あら、をためている母親の顔が、俺の頭に、まだ会ったこともないのに浮かんだ。
その日の十八時過ぎ、島には俺と馬剃さんだけが残っていた。
仕事納め前の、最後の金曜である。
帰り支度を始めた俺の机に、A4が一枚、置かれた。
『十二月三十日 東京→豊橋方面 移動比較・三案』
……なんだこれは。
「温水さん。三十日の移動計画を伺います」
「計画ってほどのものはないよ。昼までに着けばいいから、適当に」
「適当」
〇・五秒、静止した。
「適当!? 年末の東海道新幹線を、適当で乗り切れると思っているんですか!」
「思ってるけど」
「三十日の下り自由席は、乗車率百三十パーセントですっ!」
「立てばいいかなと」
「二時間立つ気ですか! この繁忙期を越えたばかりの人が!」
「立つのは得意だよ。正門で鍛えてるから」
「入試の立ち仕事をそこで使わないでくださいっ!」
彼女は、A4の二段目を指した。
「本題です。エクスプレス予約に、二名以上で申し込むと割引になる商品があります。こだま限定です」
「二名以上」
「二名以上です。一人あたり、二千百三十円浮きます」
「……それは、つまり」
「経済合理性の話ですっ!」
先回りでキレられた。
「まだ何も言ってないよ」
「顔が言っていますっ!」
「顔は何も」
「言っていますっ!」
彼女は、A4の三段目を指した。
商品名の欄に『EXファミリー早特』と印字されている。
「あの、この『ファミリー』っていうのは」
「規約上、同一行程の二名以上を指しますっ! 家族要件はありませんっ! 確認済みですっ!」
「そこまで確認したんだ」
「しますっ! 誤解されると困りますので!」
「誰に」
「……JRにです」
JRに誤解される心配をする人を、俺は初めて見た。
JRは、たぶん、何も思っていない。
「分かった。一緒に行くよ」
「まだ理由が二つありますっ」
「もう頷いたけど」
「聞いてくださいっ! 第二に、繁忙期の単独移動は、体調不良時のリスク分散の観点から二名が望ましく」
「うん」
「第三に、手土産の運搬効率が」
「聞く聞く」
全部聞いた。
頷いたあとに理由を三つ聞かされる契約は、世の中に、たぶんこれだけである。
「では、手配します。往復です」
「往復」
「復路は一月三日。同じくこだまです。ファミリー早特は、片道ずつより往復のほうが」
「もう分かった。分かったから」
「まだ説明の途中ですっ!」
「精算は一円単位で、でしょ」
「……先に言わないでくださいっ」
「割り勘の誤差は、関係の誤差、だっけ」
「覚えてなくていいですっ!」
彼女はA4を回収して、鞄にしまって、それから、少しだけ小さい声で言った。
「……訂正します。七割が、経済合理性です」
「残りの三割は」
「非公開ですっ!」
非公開の三割を抱えたまま、俺の年末に、往路の同行者が一人増えた。
増やしたのは、二千百三十円である。
……ということに、二人でしておいた。
十二月三十日、火曜日、午前七時五十分。
東京駅の新幹線ホームは、帰省の荷物で膨らんだ人で埋まっていた。
スーツケースと、紙袋と、子供の泣き声と、アナウンス。
年末のホームは、全員がどこかへ帰る顔をしている。
帰る顔、というのは、出勤の顔と、眉のあたりが違うのである。
待ち合わせは七時五十分、十四番線の七号車乗車口。
俺が着いたのは七時四十六分で、彼女はすでにそこにいた。
「七時三十三分から居ります」
「聞く前に言うようになったね」
「あなたが毎回聞くからですっ!」
「毎回早いからだよ」
「早くて何が悪いんですか!」
「悪くないよ」
「……なら、いいです」
朝七時五十分から、沸点が通常運転だった。
馬剃さんは、小さめのキャリーケースと、紙袋を二つ持っていた。
コートに、赤いマフラー。
仕事のときと同じ、隙のない立ち方である。
俺の首には、六日目の緑がある。
彼女の目が、挨拶より先に、一度だけそこに寄った。
寄って、何も言わずに戻った。
検品は、通ったらしい。
ただ、髪がいつもより、ほんの少しだけゆるくまとめてあった。
休暇仕様、なのだと思う。
指摘はしない。指摘すると、明日から元に戻る気がする。
「ご利用票です」
渡された紙には、こだま七〇三号、七号車、と印字されていた。
「予約は、あの日の夜、二十二時四分に確定しました」
「時刻まで言わなくていいよ」
「記録ですのでっ」
「窓側と通路側です。温水さんが窓側」
「いいの? 窓側」
「進行方向右側の窓は、富士山です」
富士山を、俺に割り当てたらしい。
割り当ての根拠は、聞かなかった。
聞くと「調査の結果です」で終わる予感がした。
「あと、これを」
紙袋の一つが、差し出された。
「なに、これ」
「羊羹です。お父様とお母様に」
「……うちの親に?」
「同行者の礼儀です。ご挨拶はできませんので、せめて品物で。調べたところ、羊羹は好みの分散が最小です」
「手土産にデータを使うんだ」
「使いますっ! 外したくないので!」
ついでの範囲が、この人はいつも広い。
俺のほうも、彼女の実家用に東京の菓子を用意してあったので、そこでお互いの紙袋が一往復した。
ホームの上で、羊羹と最中が交換される。
帰省の朝の取引としては、悪くない内容である。
「朝食は、お済みですか」
「まだだけど」
「では」
クリアファイルから、A4が一枚出てきた。
『駅弁比較・三案』と書いてある。
価格、品数、食べやすさ、においの強度、の四項目で表になっていた。
「においの強度って、なに」
「車内の外部性です。隣席への」
「駅弁に経済用語、使わないでほしいんだけど」
「使いますっ! 閉鎖空間ですので!」
「そんな強く主張すること?」
「大事なことですっ!」
俺は三案から幕の内を選んだ。
彼女は、三案のどれでもない深川めしを買った。
「三案作って、四案目買うんだ」
「売店で、実物を見て判断が変わりました」
「資料の意味は」
「判断を変えるためにありますっ! 何がおかしいんですか!」
「いや、名言かなと思って」
「な……っ、茶化さないでくださいっ!」
名言と言われて怒る人を、俺は初めて見た。
資料の哲学まで、この人は持っているのだが、褒めると怒るので運用が難しい。
こだま七〇三号は、定刻に発車した。
七号車は、ほどよく埋まっていた。
弁当を食べ終えたころ、ワゴンの来ない通路を見て、彼女が言った。
「車内販売は、もうありません」
「なくなったね、いつだったか」
「令和五年です」
「即答」
「調べました。……最後にコーヒーを買いそびれたのが、心残りでしたので」
心残りの粒度が、細かい。
隣の席で、馬剃さんは鞄から水筒とクリアファイルを出した。
ファイルの中身が、ちらりと見えた。
……時刻表のコピーと、豊橋駅の構内図である。
「馬剃さん」
「はい」
「地元だよね、豊橋」
「三年ぶりですので。駅の改装状況を、確認しておきました」
「改装、されてた?」
「南口の店舗が三割入れ替わっています」
三年ぶりの帰省に、資料を作ってくる人だった。
「実家には、なんて言ってあるの。その、今日のこと」
聞いてから、少し後悔した。
藪である。
「同僚と同一方面のため、同乗すると」
「正確だね」
「正確で何が悪いんですかっ!」
「悪いって言ってないよ」
「顔が言っていますっ!」
「顔は何も言ってないって」
「……正確に伝えました。そうしたら母が」
馬剃さんは、そこで水筒の蓋を、必要以上にきっちり閉めた。
「母が」
「……『あら』と」
「あら」
「『あら』と言ったきり、三日、続きを言いません」
「三日」
「昨夜も電話で『あら』でした。累計三回です」
「数えてるんだ」
「不気味ですのでっ! ……笑わないでください」
「笑ってないよ」
「肩が揺れていますっ!」
揺れていたかもしれない。
あら、を三回ためている母親を想像して、俺は窓の外を見た。
見ないと、顔がゆるむからである。
「温水さんは、ご実家に」
「『友達と一緒に帰る』って言った」
「友達」
「……同僚と、だと説明が長くなるから」
「友達」
彼女は、その二文字を、手帳に書きそうな顔で二回言った。
書かれる前に、俺は話題を変えた。
「弟さん、元気なの」
「元気です」
「サッカーは」
「今は観る側です。息子二人を、少年団に入れて」
「え、じゃあ馬剃さん、おばなんだ」
「おばです。……今、〇・五秒、間がありましたね」
「なかったよ」
「ありましたっ! 何の間ですかっ!」
「イメージの更新に時間がかかっただけだよ」
「どういうイメージですかっ! 更新前を言ってくださいっ!」
「非公開で」
「私の様式を使わないでくださいっ!」
彼女の検知センサーは、精密である。
精密なので、押すと鳴る。
鳴り方まで、高校のときと同じだった。
「甥っ子たち、会うの楽しみだね」
「はい。……前回、三年前は、下の子に泣かれました」
「なんで」
「『知らない人』と」
「……三年は、子供には長いから」
「今回は、対策を立てました」
「対策」
「二人の好きなアニメを、十二話まで視聴済みです」
紙袋の二つ目の口から、そのアニメのキャラクターの箱が、ちらりと見えていた。
十二話ぶんの調査の、実弾である。
おば力の使い方が、完全に仕事のそれだった。
「ご両親は、その、お孫さんの話とか」
「弟の子で、間に合っています。……母は、そう思っていないようですが」
「……」
ここで、やめておけばよかった。
やめておけなかった。
「馬剃さんは、結婚とか、考えてないの」
口から出た〇・五秒後に、気づいた。
新幹線の隣の席で、二人きりで、この質問である。
文脈というものを完全に無視した場合にのみ許される質問であり、そして文脈は、いま隣に座っている。
馬剃さんが、止まった。
水筒の蓋を閉める手が、閉め終わった蓋を、もう一周回した。
「な……っ」
出た声が、裏返っていた。
「なんで、そういうことを、聞くんですかっ」
「いや、深い意味は」
「深い意味がないほうが失礼ですっ!」
「……ごめん」
「あ、謝らないでくださいっ! 謝られると、その、深い意味があったみたいに、なるじゃないですかっ」
どっちなんだ。
どっちなんだと思ったが、俺の心拍も、人のことを言えない速さになっていた。
沈黙が来た。
気まずい沈黙ではあるのだが、種類が、朝の会議室のそれとは違う。
空調の音と、レールの継ぎ目の音と、隣の耳が赤いのとが、全部同時に、やけに大きい。
「……か、考えて」
彼女が、小さい声で言った。
「考えて?」
「考えて、いなくも、ない、です。人並みには」
蚊の鳴くような声だった。
蚊の鳴くような声で、この人は、それでも正確を期していた。
「そ、それより温水さんはどうなんですかっ!」
声量が、急に戻ってきた。
「え」
「聞いたからには、答える義務がありますっ! 双務契約ですっ!」
「契約だったのか、今の」
「今、なりましたっ!」
遡及適用である。
元役人が一番やってはいけないやつだと思う。
「……俺も、その」
「その」
「考えてなくも、ない。……最近は」
「さ、最近っ」
最近、のところで、彼女の耳の赤が、首まで届いた。
最近の中身は、聞かれなかった。
聞かれなかったことに、たぶん、お互い助かっていた。
二人とも、前を向いた。
前を向いたまま、しばらく、どちらも喋らなかった。
窓の外を、のぞみがまた一本、追い抜いていった。
気まずさは、抜いていってくれなかった。
かわりに、心拍だけが、二席ぶん、車内に置いていかれた。
「つ、次は熱海に停まりますっ」
彼女が、車内放送より先に宣言した。
「知ってる」
「し、知っていても言いますっ! 時刻の共有は基本ですっ!」
基本らしい。
基本に逃げ込んだ人の横顔は、熱海を過ぎるまで、赤いままだった。
母親の「あら」三回の中身が、もし今の話題の前置きなのだとしたら。
彼女の帰省の憂鬱の輪郭が、少しだけ見えた気がしたが、それはお互い、口にしなかった。
でも、悪くない準備だと思う。
知らない人、と言われないための十二話である。
こだまは、各駅に停まる。
駅に停まるごとに、のぞみに抜かれる運用である。
「また抜かれましたね」
「抜かれる前提の価格ですっ」
「怒らなくても」
「怒っていませんっ」
三本目に抜かれたときは、もう何も言わなかった。
二千百三十円は、抜かれるたびに、少しずつ重みを増していく。
三島を過ぎたあたりで、隣が静かになった。
見ると、馬剃さんの頭が、ゆっくり傾いていた。
四時間睡眠を続けた年末の、当然の結果である。
頭は俺の肩の五センチ手前まで傾いて、そこで、彼女の背筋が反射的に戻った。
戻って、また傾いて、五センチ手前で戻る。
三回、繰り返した。
寝ていても姿勢を管理する人を、俺は初めて見た。
――隣で眠る同僚。
これがラノベなら、肩に頭が乗って甘い空気になる定番イベントである。
現実は、五センチ手前の緊急停止装置を三回見守る仕事だった。
安全装置つきの居眠りに、甘い空気の出る幕はない。
窓の外に、富士山が出た。
冬の富士山は、輪郭がやけにはっきりしている。
「馬剃さん、富士山」
小声で言うと、彼女は〇・三秒で覚醒した。
「……視認しました」
視認、と言って、手帳を出して、一行書いた。
たぶん『富士山、視認』である。
書いてから、彼女はしばらく、窓の外を見ていた。
見ている横顔が、仕事のときより、少しだけやわらかかった。
富士山が過ぎて、しばらくして、彼女はまた眠くなったらしい。
今度は、頭が通路側に傾いた。
俺と反対側である。
傾く方向まで、管理していた。
管理の徹底に感心するべきか、反対側であることに少しだけ思うところを持つべきか、三河安城まで考えて、結論は出なかった。
「三年前は、夜行バスでした」
ぽつりと、彼女が言った。
「帰省が?」
「はい。省にいたころは、休みが読めなくて。取れた休みが夜だけで、夜行バスで帰って、一泊して、夜行バスで戻りました」
「富士山、見えないね、それだと」
「見えませんでした。十三年、一度も」
十三年、富士山の横を夜だけ通っていた人が、いま、窓の外を見ている。
「今日は、見えたね」
「はい」
それだけの会話だった。
それだけの会話に、十三年ぶんの何かが、少しだけ混ざっていた。
十時三十六分、こだま七〇三号は豊橋に着いた。
ホームに降りると、空気が東京より少しだけ湿っていて、少しだけ緩かった。
駅名標の「とよはし」の文字は、高校のころより新しくなっていた。
文字は新しくなるが、ホームの風の向きは変わらない。
高校を出て十六年経っても、駅の匂いは覚えているものである。
覚えているものが体の中にあることを、降りた瞬間に思い知らされるのが、帰省というものらしい。
「バスは、何時のに乗られますか」
「急がないよ。実家には昼過ぎって言ってあるから」
「そうですか」
馬剃さんは、そこで、改札の先を見た。
見て、戻って、もう一度見た。
何かを言うかどうか、迷っている顔だった。
この人が迷うのは、規程のないことだけである。
「……四十分だけ、時間はありますか」
「あるよ」
即答した。
即答してから、行き先を聞いた。
「どこ?」
「ときわ通りです」
その名前で、高校時代が一気に立ち上がった。
駅前大通の先の、アーケードの商店街。
高校の冬、勉強会の帰りに、腹を空かせた生徒会役員に、俺がクレープを奢った通りである。
「……まだ、あるのかな。高校のときの、あの店」
「あります。営業時間も、確認済みです」
「調べたんだ」
「三年前に、前を通りました。夜行バスの、乗り場に行く途中に」
夜の商店街の、閉まったクレープ屋の前を通る彼女を、俺は一瞬想像した。
想像して、やめた。
今日は、開いている時間に来たのである。
ときわ通りは、年末の買い出しの人で、ほどよく賑わっていた。
アーケードの下を歩くと、店の三割は入れ替わっていて、七割は覚えているままだった。
文房具屋だった場所が、スマートフォンの修理屋になっていた。
「時代です」
「時代ですね」
時代、で片付く変化と、片付かない変化がある。
クレープ屋が残っていたのは、後者が無事だったということである。
クレープ屋は、七割のほうにいた。
看板が新しくなって、メニューの札が増えている。
「何にする?」
「チョコバナナを」
即答だった。
「高校のときと同じだ」
「……覚えているんですか」
「覚えてるよ。えらい勢いで食べてたから」
「わーっ! わーっ!」
商店街に、彼女の「わーっ」が響いた。
「その記憶は抹消ですっ! 抹消を要求しますっ!」
「事実は変わらない」
「その言葉をそこで使わないでくださいっ!」
顔が、クレープのいちごより赤い。
高校のときの猛抗議と、角度も音量も、同じだった。
店先のおばちゃんが、注文を受けながら、俺と彼女を一回ずつ見た。
見て、何かを言いかけた。
「同僚です」
馬剃さんが、先回りした。
「はいはい」
おばちゃんは、まったく信じていない「はいはい」で、鉄板にクレープ生地を広げた。
先回りは、時に、しないほうが自然なのである。
俺はチョコバナナと、自分のカスタードを注文した。
これも、高校のときと同じである。
同じにした理由は、自分に説明していない。
店先で受け取って、アーケードの端に寄って、二人で立って食べた。
勤め人二人が、年末の商店街でクレープを立ち食いしている。
これがラブコメなら、回想シーンと現在が重なる感動の場面である。
現実は、チョコバナナの端からバナナがずり落ちそうになって、彼女が真顔で角度を調整していた。
「構造上の欠陥です」
「クレープに構造を求めないでよ」
「求めます。具材の重心が、包装の中心軸から」
「いいから食べなって。落ちるよ」
「重心の再配分をします」
彼女は、包み紙を九十度回して、バナナの角度を調整した。
調整は、成功した。
成功したが、クレープを工学で食べる横顔は、高校のときと同じ真剣さだった。
彼女は、一口食べた。
食べて、二口目の前に、少しだけ黙った。
「……二回目です」
「ん?」
「このクレープ。人生で、二回目です」
「一回目は、高校のときだったね」
「高校のときです。あなたが奢りました」
「そうでしたね」
「ですので、今回は私が」
「もう払ったよ、俺」
「……っ、先に言ってください!」
「先に払っただけだよ」
「ずるいですっ! 高校のときもそうやって……っ」
「そうやって?」
「……ご馳走さまでした」
途中で敬語に着地した。
着地の直前に何があったのかは、お互い、追及しないことにした。
彼女は、財布を出しかけた手を止めて、それから、諦めたように手帳を出した。
何かを書いている。
たぶん、貸し借りの帳簿である。
「利子をつけて、返します」
「クレープに利子をつけないでください」
「つけます。三月に」
三月、と彼女は言った。
三月の、あの忙しさの中のどこかに、クレープの利子の欄が作られたらしい。
悪くない予定である。
食べ終わって、駅に戻る道で、会話が少しだけ途切れた。
途切れたまま、アーケードの切れ目まで歩いた。
切れ目から、冬の空が見えた。
「温水さん」
「はい」
「この街に帰るのは、平気ですか」
主語の大きい質問が、来た。
いや、違う。
主語を、俺に譲った質問である。
自分のことを聞きたいときに、この人はたまに、こうする。
「……実は、何年も帰ってなかったんだ。実家」
「何年ですか」
「数えると負ける気がするから、数えてない」
「私は三年です」
「知ってる」
「先に、申告しておきました」
申告の様式が、こんなところでも使われている。
「なぜ、今年は帰る気になったんですか」
「……誰かさんが、三年ぶりに帰るって言うから。負けてられない気がして」
「わ、私のせいですかっ」
「せい、じゃなくて、おかげ」
彼女が、止まった。
止まって、二歩ぶん遅れて、また歩き出した。
歩き出した横顔は、まっすぐ前を向いたままだった。
向いたまま、耳だけが赤かった。
彼女は、少ししてから、前を向いたまま言った。
「私は、今日、駅に降りたとき」
「はい」
「平気でした。……三年前より、ずっと」
「そっか」
「理由は、分析中です」
分析中、のままでいいと思う。
分析が終わらない理由も、たぶん、あの人の帳簿のどこかに、もう書いてある。
豊橋駅の東口で、俺たちは立ち止まった。
同じ駅で降りて、ここから、実家の方向だけが分かれる。
「では、温水さん」
「うん」
「よいお年を」
「よいお年を。……『あら』の続き、聞けるといいね」
「聞きたくありません」
即答だった。
即答の耳が、赤かった。
「一月五日に」
「うん。一月五日に」
彼女は三十度の礼をして、バス乗り場のほうへ歩いていった。
赤いマフラーが、人混みの中で、しばらく見えていた。
見えなくなるまで見ていたわけではない。
……見えなくなる三秒前まで、である。
実家までは、駅からバスで十五分である。
何年ぶりかは、数えないと決めたまま、乗った。
バスの窓の外の景色は、七割が覚えているままで、三割が知らない店になっていた。
商店街と、同じ比率である。
玄関の呼び鈴を押すと、母が出てきた。
「あら、和彦。……荷物、増えたね」
「羊羹。もらいもの」
「あら、誰から」
「……友達から」
「あら」
あら、が出た。
母親という生き物は、東西を問わず、あら、で会話するらしい。
廊下の奥から、佳樹が顔を出した。
「お帰りなさいませ、お兄様。……いま、お友達と聞こえましたが」
「友達だ」
「ご本人がそう二回おっしゃるなら、そういうことにしておきますね」
妹は、にっこり笑って、それ以上は聞かなかった。
聞かない技術と、聞かないふりの技術は、別物である。
うちの妹のは、後者だった。
居間に入ると、こたつと、みかんと、テレビの位置が、記憶のままだった。
記憶のままの部屋に、記憶より小さくなった気がする両親がいて、俺は、数えなかった年数のぶんだけ、少し黙った。
「まあ、座りなさい」
父が、それだけ言った。
それだけで、十分だった。
こたつの脇、居間の隅に、編みかけの何かと毛糸の籠が置いてあった。
母の趣味である。
毛糸、という単語が、この冬はやけに俺の周りにいる。
三が日は、長い。
長いので、思いつくことが、一つあった。
※現実の「EXファミリー早特」には、年末年始に設定除外日があります。
12月30日は利用できない可能性が高いです。また、往復でとっても特にメリットはありません。馬剃さんが焦っていっているだけなのでご注意ください。