大学職員の僕たち   作:房吉

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~24敗目・裏~ 経済合理性七割

(同時期/馬剃視点)

 

 引き継ぎの五日間は、二十五日から二十九日まで、休みの二日を含んでいた。

 

 含んでいたが、二人とも出た。

 

 二十七日の朝、守衛さんに「お二人とも、年末ですよ」と言われた。

 

「存じております」

 

 即答したのは、存じていたからである。

 

 存じた上で来ている、ということまでは、守衛さんには言わなかった。

 

 引き継ぎの相手が、新しい緑のマフラーで毎朝現れる年末を、私は、悪くない年末だと思っていた。

 

 思っていたところに、金曜の昼休みが来た。

 

 十二月二十六日、金曜日の昼休み。

 

「温水さん、何年ぶりですか」

 

「……さあ」

 

「さあ!? 自分のことですよ!?」

 

「さあ」

 

 大貫さんと温水さんのやり取りを、私は卵焼きを割りながら聞いていた。

 

 さあ、と二回言った。

 

 この人の「さあ」は、知らないの意味ではない。

 

 数えたくない、の意味である。

 

 九か月隣にいれば、それくらいは分かる。

 

 何年も帰っていない人が、ここにもいた。

 

 三年帰っていない私の、斜め向かいに。

 

 その事実を、私は昼休みのあいだ、卵焼きと一緒に、ゆっくり消化した。

 

 消化しながら、一つの考えが、芽を出した。

 

 芽を出した考えに、私はまだ、名前をつけなかった。

 

 名前をつけると、実行しなければならなくなるからである。

 

 

 

 

 午後、名前をつけた。

 

 つけた名前は、『移動効率の最適化』である。

 

 ……我ながら、往生際の悪い命名だった。

 

 十五時の休憩の十分間で、エクスプレス予約の商品一覧を確認した。

 

 確認して、見つけた。

 

 二名以上、こだま限定、割引。

 

 商品説明を三回読んで、規約を二回読んで、それでも不安だったので、コールセンターに電話をかけた。

 

「あの、『ファミリー』とありますが、家族でなくても」

 

『同一行程の二名様以上であれば、ご利用いただけます』

 

「同僚でも」

 

『ご利用いただけます』

 

「本当に、同僚でもですか」

 

『……ご利用いただけます』

 

 オペレーターの方の声に、二回目から、少し困惑が混ざった。

 

 混ざっても、確認はする。

 

 私はこれから、この商品名を盾に、同僚を年末の新幹線に誘うのである。

 

 盾に穴があっては、戦えない。

 

 駅弁の比較資料も、この日の休憩の残りで作った。

 

 評価項目に「においの強度」を入れたのは、過去に出張の車内で実害を被ったからである。

 

 被害者の知見は、次の計画に活かす。それが資料というものである。

 

 定時までの残り時間で、移動のA4一枚に三案をまとめた。

 

 まとめながら、自分に言い聞かせた。

 

 これは、経済合理性の話である。

 

 二千百三十円の話である。

 

 一緒に帰りたい、という話では――

 

 ……順番だけ、白状しておく。

 

 一緒に帰りたい、が先だった。

 

 二千百三十円は、あとから見つけた。

 

 見つけたときの安堵は、二千百三十円では買えない種類のものだった。

 

 

 

 

 十八時過ぎ、島に二人になった。

 

 私はA4を持って、立ち上がった。

 

 立ち上がるまでに、座ったまま三回、呼吸を整えた。

 

 省で大臣説明に入るときより、整えた回数が多かった。

 

「温水さん。三十日の移動計画を伺います」

 

「計画ってほどのものはないよ。昼までに着けばいいから、適当に」

 

「適当」

 

 適当、と聞いた瞬間、用意していた説得の一枚目が、怒りに変わった。

 

 変わってくれて、助かった。

 

 怒っているあいだは、緊張が引っ込むのである。

 

「適当!? 年末の東海道新幹線を、適当で乗り切れると思っているんですか!」

 

 乗車率百三十パーセントも、繁忙期のリスク分散も、手土産の運搬効率も、全部本当のことである。

 

 本当のことだけで塗り固めた提案書の、いちばん下の一行だけが、書いていない本音だった。

 

 彼は、途中で「分かった。一緒に行くよ」と言った。

 

 言われた瞬間、提案書の残りの理由が、宙に浮いた。

 

「まだ理由が二つありますっ」

 

 浮いた理由を、私は最後まで読み上げた。

 

 承諾のあとに理由を聞かせるのは、非効率である。

 

 非効率だと分かっていて、やめられなかったのは、読み上げているあいだ、頷いてくれた事実を噛みしめていられるからだった。

 

 最後に、私は言った。

 

「……訂正します。七割が、経済合理性です」

 

「残りの三割は」

 

「非公開ですっ!」

 

 その夜、帰宅してから、私は比率を計算し直した。

 

 計算の結果は、七対三の、逆だった。

 

 訂正は、していない。

 

 訂正の様式には、期限の定めがないのである。

 

 

 

 

 十二月二十九日の夜、母に電話をした。

 

「三十日の昼に着くから」

 

『あら』

 

 三回目の「あら」だった。

 

 あら、の三回目は、一回目より、含有物が濃い。

 

 濃い含有物の正体に、私は薄々、見当がついていた。

 

 ついていたので、荷造りをしながら、帰省の憂鬱を、キャリーケースの底に一緒に詰めた。

 

 詰めても、翌朝は五時に目が覚めた。

 

 目覚ましは六時に設定してあった。

 

 一時間ぶんの覚醒を、私は、東京駅で消化することにした。

 

 七時三十三分にホームに着いたのは、そういう経緯である。

 

 三十分前行動、と彼には言ったが、実態は、六十分前行動の残りだった。

 

 七時四十六分、彼が来た。

 

 首元に、六日目の緑があった。

 

 巻き方は、完璧だった。

 

 完璧だったので、検品の指摘は、何もせずに済んだ。

 

 済んだのに、私の目は、三秒、そこにいた。

 

 三秒のあいだ、胸のあたりが、ぽかぽかと勝手にあたたかかった。

 

 私の編んだものが、この人の朝の一部になっている。

 

 その事実は、何度確認しても、確認のたびに、胸のどこかがふわりと浮いた。

 

 三秒は、時計の点検で覚えた長さである。

 

 覚えた長さの、私的流用だった。

 

 羊羹は、前日に三候補から選んだ。

 

 羊羹、最中、カステラ。日持ちと、好みの分散と、切り分けの手間で採点して、羊羹が勝った。

 

 のし紙は、三十分迷った。

 

 御歳暮は違う。御礼も重い。結論、無地。

 

 無地ののしに三十分かける人間の帰省が、軽いはずがないのである。

 

 

 

 

 駅弁は、資料の三案を捨てて、売店で深川めしにした。

 

 資料は、判断を変えるためにある。

 

 昔、資料どおりに買って後悔した弁当が、私には一つある。

 

 後悔の再発防止策が「現物を見て決める」である。対策として正しい。

 

 正しいが、彼に「名言かな」と言われて、なぜか腹が立った。

 

 褒められて腹が立つ自分の仕組みは、いまだに解明できていない。

 

 車中のことは、正確に記録できる自信がない。

 

 正確でない記録は残さない主義だが、あの区間だけは、例外とする。

 

「馬剃さんは、結婚とか、考えてないの」

 

 質問が来た瞬間、心臓が、どきん、と跳ねた。

 

 跳ねた音が、相手に聞こえたのではないかと思うほど、大きかった。

 

 私は、水筒の蓋を閉めていた。

 

 閉め終わっていたのに、手が勝手に、もう一周回した。

 

 一周ぶんの時間で、心拍数を数えようとして、速すぎて数えられなかった。

 

 耳の奥で、どっどっど、と自分の鼓動だけが鳴っていた。

 

 なんで、そういうことを聞くのか。

 

 聞いた本人に聞いたが、本当に聞きたかったのは、質問の意図ではない。

 

 質問の先である。

 

 先を聞く勇気は、私にはなかった。

 

 なかったので、キレた。

 

 キレたあとに、静かになった車内で、私は答えを絞り出した。

 

「考えて、いなくも、ない、です。人並みには」

 

 人並みには、と付けたのは、保険である。

 

 保険を付けても、声は蚊になった。

 

 蚊になった声の借りを返すために、私は反撃した。双務契約は、あの瞬間に立法した。

 

 立法の甲斐は、あった。

 

「考えてなくも、ない。……最近は」

 

 最近。

 

 最近、である。

 

 その二文字が耳に入った瞬間、心臓が、跳ねた。

 

 跳ねて、そのまま、速いままになった。

 

 頬が、かっと熱くなって、私は窓の外を見るふりで顔の角度を変えた。

 

 最近、という副詞を、私は熱海から三島まで、頭の中で再生し続けた。

 

 再生するたびに、副詞の指す範囲を検討した。

 

 最近とは、いつからか。九か月か。三か月か。それとも――

 

 検討は、結論に達しなかった。

 

 達しなかったが、検討している自分の口元が緩んでいることだけは、窓の反射で確認できた。

 

 確認できたので、熱海の到着を宣言して、誤魔化した。

 

 時刻の共有は基本である。

 

 基本は、こういうときのためにある。

 

 

 

 

 その前の、おばの件も記録する。

 

「え、じゃあ馬剃さん、おばなんだ」

 

 彼の返事に、〇・五秒の間があった。

 

 間を、私の検知器が拾った。

 

 拾ってしまったので、キレた。

 

 検知器の感度を恨んだのは、キレたあとである。

 

 感度が悪ければ、気づかないふりの選択肢もあったのに、私の検知器は、彼に関してだけ、異様に高性能なのである。

 

 眠気が来たのは、緊張の反動だと思う。

 

 反動で傾いた頭の、五センチ手前で、私は三回、姿勢を戻した。

 

 五センチは、私が設定した距離ではない。

 

 あれは、理性の残量だった。

 

 五センチ手前で目が覚めるたび、心臓が、どきりと冷たく鳴った。

 

 鳴ったあとに、鳴った理由を考えると、今度は頬が熱くなった。

 

 忙しい心臓である。

 

 三回目に戻したあと、私は頭の傾く方向を、通路側に変更した。

 

 安全策である。

 

 安全とは、彼にとってではなく、私にとっての安全である。

 

 窓側に傾け続けたら、四回目の残量が保証できなかった。

 

 

 

 

 豊橋のときわ通りで、クレープ屋は、まだそこにあった。

 

 三年前の年末、夜行バスの乗り場に向かう夜道で、私は閉まったこの店の前を、通った。

 

 通って、三分、立ち止まった。

 

 シャッターの前で、高校の冬の、チョコバナナの味を思い出していた。

 

 思い出しながら、あのとき隣にいた人が、いまどこで何をしているのかを、考えないようにして、考えた。

 

 三年後に、その本人と、開いている店の前に立つことになるとは、シャッターの前の私は、思ってもいなかった。

 

「覚えてるよ。えらい勢いで食べてたから」

 

「わーっ! わーっ!」

 

 わーっ、と言ったのは、勢いの記憶の先に、もっと危険な記憶が繋がっているからである。

 

 あの日の私は、クレープを頬張りながら、生まれて初めて、人前で弱音を吐いた。

 

 空腹と、甘さと、隣の人の聞き方が、全部反則だった。

 

 勢いを掘られると、その先まで掘られる。

 

 だから、抹消を要求した。

 

 要求は、事実は変わらない、で棄却された。

 

 棄却された瞬間、悔しさと一緒に、胸の奥が、じん、と熱くなった。

 

 覚えていてくれたことが、抹消したいほど恥ずかしくて、抹消したくないほど、嬉しかった。

 

 両立しない二つを抱えて、私はクレープの角度を直した。

 

 嬉しかったほうは、内緒である。

 

 クレープの重心を、私は工学で処理した。

 

 包み紙を九十度回して、バナナの角度を調整して、真剣な顔で食べた。

 

 工学で処理したのは、構造のためではない。

 

 高校の味と同じ味を、素の顔で味わったら、防波堤が保たない予感があったからである。

 

 工学は、感情の応急処置に使える。

 

 この知見は、どの教本にも載っていない。

 

 店先で「同僚です」と先回りしたことは、夜、少しだけ反省した。

 

 先回りは、時に、しないほうが自然である。

 

 自然にできない理由が、同僚です、の四文字の側にあるのか、私の側にあるのかは、審議を保留した。

 

 会計は、先を越された。

 

「ずるいですっ! 高校のときもそうやって……っ」

 

 そうやって、の先は、こうである。

 

 そうやって、先に優しくする。

 

 先に優しくされると、返す側は、利子の計算が一生終わらない。

 

 言えなかったので、ご馳走さまでした、に着地した。

 

 着地の技術だけは、この九か月で上達した。

 

 

 

 

 帰り道の、あの言葉のことも、記録しておく。

 

「……誰かさんが、三年ぶりに帰るって言うから。負けてられない気がして」

 

「わ、私のせいですかっ」

 

「せい、じゃなくて、おかげ」

 

 おかげ。

 

 その二文字が、胸の真ん中に、まっすぐ落ちてきた。

 

 落ちた場所から、熱いものが、ぶわ、と広がった。

 

 広がった熱で、足が止まった。

 

 私は、二歩、歩けなかった。

 

 歩けなかった二歩ぶんの時間で、私の三年ぶりの帰省が、意味を一つ増やした。

 

 憂鬱だった帰省が、誰かの何年ぶりかの、理由になっていた。

 

 理由に、なれていた。

 

 二歩遅れて歩き出したとき、前を向いていたのは、顔の温度の問題である。

 

 温度の問題は、豊橋の冬の風でも、解決しなかった。

 

 

 

 

 駅の東口で、彼と別れた。

 

 復路の予約のことは、最後に言った。

 

 最初から言わなかったのは、確信犯である。

 

 往路の車中で言えば、復路までの四日間、彼に断る時間を与えてしまう。

 

 別れ際に言えば、既成事実である。

 

 省で覚えた技術の中で、いちばん私的に流用された事例だと思う。

 

 反省は、していない。

 

 東口で別れて、バス乗り場まで歩くあいだ、振り返りたい衝動が三回来た。

 

 三回とも、振り返らなかった。

 

 振り返らなかった自分を、三回とも、少しだけ恨んだ。

 

 実家の玄関で、母が言った。

 

「あら、天愛星。……あんた、なんか顔が違うね」

 

「疲れてるだけ」

 

「あら」

 

 四回目の、あら、だった。

 

 四回目は、追及しない、の合図である。

 

 合図に甘えて、私は三年ぶりの自分の部屋に、荷物を置いた。

 

 その夜、赤いマフラーを畳みながら、手帳に一行書いた。

 

 『十二月三十日。二千百三十円、二名分。』

 

 金額の下に、比率の訂正は、書かなかった。

 

 期限の定めのない訂正は、急がなくていいのである。

 

 

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