(十二月三十日〜三十一日/温水視点)
十二月三十日、下りのこだまが浜名湖に差しかかるころ、隣の席で、馬剃さんが文庫本を出した。
しばらく無言の区間が続いていたので、読書は自然な流れだった。
自然な流れの中で、俺の目が、表紙の著者名に引っかかった。
――久遠うさぎ。
心臓が、どくん、と鳴った。
鳴った音を、悟られないように、俺は窓の外の湖を見た。
「……それ、面白い?」
「はい」
即答だった。
「読み始めると、朝までコースの作家です。ですので、乗車中は一章だけと決めています」
「決めて、守れるの」
「守れませんでした。過去二回」
過去二回、朝まで読まされた作家の名前を、俺は知っている。
高校の文芸部で、部誌と、投稿サイト「文豪になろう」に、その名義で書いていた人がいた。
小鞠知花。
文芸部の同級生で、二年のときはクラスも同じだった。
人見知りで、口下手で、でも書くものだけは、誰よりも強かった。
そして俺が、十六年前に約束を破って逃げた、その相手である。
世間が狭いのか、この人の読書の射程が広いのか。
どちらにしても、言葉は出てこなかった。
出てこないまま、こだまは豊橋に着いた。
その夜、実家の居間で、みかんを剥いていた佳樹が、ふと言った。
「そういえばお兄様。小鞠さんは、いまは専業の作家さんですよ。五年前から」
「……なんで知ってるんだ」
「連絡を取り合っていますので。高校のときから、ずっと」
ずっと。
俺が破った側の言葉を、妹は、普通の顔で持っていた。
「チョコの作り方をお教えした仲です。お洋服のサイズも、いまだに同じですし」
「服のサイズの話は今関係ないだろ」
「関係の深さの話です」
関係の深さを、俺は十六年、自分から切った側である。
切った側の兄に、妹は続けた。
「小鞠さんは、お兄様の話を、なさいませんけれど」
「……そうか」
「なさらない、というのは」
佳樹は、みかんを一房、口に入れた。
「なさらないように、なさっている、ということです」
みかんの一房ぶんの間が、胸に刺さった。
自分の部屋に戻って、俺はスマートフォンを開いた。
連絡先は、消せなかった。
消せないまま、十六年、開かなかったトーク画面が、そこにある。
画面を遡れば、二年の秋がある。
部長になったばかりの小鞠が、一人になるのを恐れて泣いた夜、俺は送った。
『俺、ずっと一緒にいるから』
返ってきたのは、一行だった。
『言ったからには、責任とれ』
卒業間際には、部室で、こうも言われた。
「わ、私、書き続けるから。さ、作家になるまで」
「うん」
「ぬ、温水は、そ、卒業しても、よ、読み続けて」
「読むよ。ずっと」
ずっと、を俺は二回、あの人に使った。
使って、その春、誰にも告げずに東京へ逃げた。
責任は、卒業式の三週間後に、東京行きの切符と一緒に、置いていった。
最後のメッセージは、高三の三月の、小鞠からの一行だった。
『最後の部誌、できた。温水の分、預かってる。取りに来て』
返信は、していない。
取りにも、行っていない。
していないまま、俺は東京に消えた。
サイトを開けば、いつでも読めた。
筆名を、知っていたのだから。
一タップの距離を、俺は十六年、開かなかった。
開くと、書き続けている人が見つかって、読み続けなかった俺が、確定するからである。
画面を三回開いて、三回閉じた。
廊下から、佳樹が顔を出した。
「お兄様、明日のご予定は」
「……出かける」
「小鞠さんに、よろしくお伝えください」
「なんで分かるんだ」
「妹ですので」
妹ですので、で全部が通ると思っている。
思っているし、実際、通ってしまうのが悔しいところである。
十二月三十一日、朝九時。
俺は、馬剃さんに電話をかけた。
「はい、馬剃です」
「朝からごめん。温水です」
「存じております。登録されていますので」
「……今日の午後、空いてる?」
「大晦日ですが、はい」
「付き合ってほしい場所があるんだ。……同僚として、じゃなくて」
電話の向こうが、少し、静かになった。
「高校の、友達として」
「……一つ、確認です」
「うん」
「同僚としてと、友達としてで、何が変わりますか」
「断りやすさ、かな。仕事じゃないから、断っていい」
「では、友達として、行きます」
「行き先を聞く前に決めるんだ」
「友達は、そういうものだと聞いています」
聞いています、のところが、彼女らしかった。
俺は、事情を話した。
文芸部で一緒だった、小鞠のこと。
読み続けると約束して、読まないまま、黙って消えたこと。
十六年、会いに行けなかったこと。
一人では、店の前で引き返す自信しかないこと。
筆名のことだけは、言わなかった。
言わなかった理由は、うまく説明できない。
たぶん、世間の狭さを、先に種明かしするのがもったいなかったのだと思う。
「……それで、その方には、もう連絡を」
「まだ」
「まだ!?」
沸点が、電話越しに来た。
「会う約束より先に、同行者を確保したんですかっ」
「順番、おかしい?」
「おかしいですっ。……いえ」
彼女は、そこで少し、声を落とした。
「おかしくは、ないです。引き返さないための、確保ですね」
「……そういうこと」
「では、まず、送りましょう。いま」
「文面が、まだ」
「三案、作りますか」
クリアファイルの音が、電話の向こうでした。
大晦日の朝から、様式が出動しかけている。
「いや。……自分で書く」
「…………はい」
少しの間のあと、彼女は言った。
「それが、いいと思います。私は、送信ボタンの側を担当します」
「ボタンの側」
「押せたかどうかの、確認係です」
確認係を電話の向こうに置いて、俺は文面を書いた。
一案目は、詫びから始まる長文になった。重い。消した。
二案目は、「ひさしぶり!」で始まった。軽い。誰だお前は。消した。
三案目で、やっと、普通になった。
『温水です。豊橋に帰ってます。もしよかったら、会えませんか』
「送りました」
「確認しました。……あとは、待ちましょう」
既読は、九分後についた。
九分間、俺は畳の目を数えて過ごした。
返信は、既読の三十秒後に来た。
『誰?』
「……『誰?』って来た」
「十六年ですので」
『温水和彦です』
『知ってる。冗談』
『本物?』
『本物』
『明日じゃなくて、今日? じゃあ十三時。ときわ通りの昔の喫茶店。まだある』
場所と時間が、三十秒で決まった。
決まる速さに、俺は少しだけ、救われた気がした。
十六年待たせた側が言うことではないが、待っていてくれた速さ、という気がしたのである。
十三時、ときわ通りの外れの古い喫茶店。
小鞠は、窓際の席で、ノートに何か書きながら待っていた。
小柄なのは、そのままだった。
顔を上げて、俺を見て、ノートの上のペンが、転がり落ちた。
「うなっ」
独特の声が出た。
この声も、十六年前のままである。
「ぬ……」
「久しぶり」
「ぬ、温水……。ほ、本当に、い、生きてた……」
「さっき、本物って送ったろ」
「も、文字と、じ、実物は、べ、別……」
ぬ、から始まるのも、そのままだった。
そのままの人の視線が、俺の隣で止まった。
「……せ、生徒会の……!」
小鞠の体が、条件反射で、テーブルの下に三センチ沈んだ。
沈んでから、止まって、ゆっくり戻ってきた。
「……か、体が、か、勝手に」
「お久しぶりです。馬剃です」
馬剃さんが、礼をした。
三十度ではなかった。もっと、深かった。
「そ、その節は、お、お世話になりました」
「こちらこそ。その節は」
その節。
どの節だ。
俺の知っている二人の間には、部長会の、いい思い出とは言えない一件しかないはずである。
その一件なら、俺は現場にいた。
いたからこそ、いま目の前で交わされている礼の深さの出所が、分からなかった。
「その節って、いつの」
思わず聞いた。
「「昔の話」」
声が、揃った。
揃った二人は、それ以上、何も説明しなかった。
俺の知らないどこかで、この二人の距離は、一度縮んでいる。
縮んだ経緯は、たぶん、聞いても教えてもらえない。
二人とも、そういうところがある。
「ば、馬剃さんが、な、なんで、ぬ、温水と……。ど、同僚?」
「同僚です。同じ大学で働いています」
「ど、同僚……」
小鞠の目が、すっと細くなった。
人見知りの目ではない。
物語を書く人間の、観察の目である。
「ど、同僚で、お、大晦日に、と、豊橋に、ふ、二人……。……で、しんちょく、どこまで?」
「進捗って言うな」
「進捗とは、何のですか」
「ば、馬剃さんは、し、知らなくていい……」
俺は全力で流した。
流したが、観察の目は、何かを頭の中に書き留めた顔をした。
書き留めるな。
コーヒーが来て、近況の話になった。
「専業になったんだって。佳樹から聞いた」
「か、佳樹ちゃん……あ、相変わらず、な、なんでも知ってる……」
「仲いいんだって? いまも」
「た、たまに、ふ、服を、か、借りる」
「十六年たっても貸し借りできるんだ、服」
「さ、サイズが、か、変わらないから……お、お互い」
変わらない二人の間で、俺だけが十六年、留守にしていたわけである。
「ご、五年前から専業。そ、それまでは、と、図書館で働きながら、か、書いてた」
「ずっと豊橋で」
「と、豊橋から、か、書ける仕事だから。……に、逃げなくても、か、書けるし」
「ご家族は、お元気ですか」
馬剃さんが聞いた。
「げ、元気。い、妹も、こ、今年、は、二十歳」
「二十歳」
「も、もう、ま、迷子には、な、ならない」
馬剃さんの口元が、少しだけ動いた。
動いた意味は、俺には分からなかった。
分からない話が、この席には、時々流れてくる。
逃げなくても、のところで、俺のコーヒーが少し苦くなった。
苦いまま、俺は、狭い世間の種を明かすことにした。
「筆名、まだ『久遠うさぎ』なんだよね。なろうのころの」
がたん、と音がした。
馬剃さんが、立ち上がった音だった。
「久遠うさぎ先生っ!?」
店内の視線が、一斉にこちらを向いた。
「うぇっ!? ば、馬剃さん、こ、声……!」
「著作は全て拝読していますっ! 全作、初版で、二冊ずつ所持していますっ!」
「に、二冊……?」
「読む用と、保存用ですっ!」
「あ、あんた、そ、そういう買い方する人……」
馬剃さんは、鞄から文庫本を三冊、取り出した。
こだまの中で見た、あの表紙である。
「帰省の、旅の供ですっ」
「き、帰省に、わ、私の本を、さ、三冊……」
「昨年秋の新刊の、雨の停電の章はっ、三回読み返して、三回とも同じ行で息が止まりましたっ」
「ど、どの行……」
「『傘は、二人には小さかった』です」
「…………か、書いた本人の前で、い、一言一句、そ、そらで言わないで……」
「申し訳ありませんっ。ですが事実ですのでっ」
「じ、事実って言えば済むと思ってる……」
済むと思っているのである、この人は。
俺はといえば、完全に、蚊帳の外だった。
高校のころ、馬剃さんが部室に来るたび、小鞠はカウンターやテーブルの下に隠れて、俺を蹴って対応を押し付けてきたものである。
その二人がいま、作家とファンとして向かい合い、俺の知らない「その節」を共有している。
十六年は、人の距離を、俺の知らないところで編み直すらしい。
今日の俺は、再会の主役のはずだったのだが。
小鞠は、真っ赤になった顔を両手で半分覆って、その隙間から、俺を見た。
「ぬ、温水……な、なんで、へ、平然としてるの」
「俺は高校から知ってるから。その筆名」
「し、新規の顔で座ってて、こ、古参だった……」
古参である。
なろうの初投稿から知っている、最古参である。
最古参のくせに、この十六年の分だけ、一行も読んでいない。
「……で」
嵐がおさまって、小鞠が、静かに聞いた。
「ぬ、温水は。じゅ、十六年ぶん、よ、読んだ?」
来た。
隣には、全作を二冊ずつ持っている人がいる。
その隣で、約束をした側の俺が、答える番だった。
「読んでない」
「…………」
「筆名を知ってた。サイトを開けば、一タップだった。……開かなかったんだ。開くと、書き続けてる小鞠が見つかって、読み続けなかった俺が、確定するから」
「…………」
「ごめん。読み続けるって言って、読まなかった。ずっと文芸部だって言って、黙って消えた。返信もしないで」
「……な、なんで、き、消えたの」
「あのころの俺は、自分ごと、消えたかったんだ。誰の前からも」
「し、知ってた」
小鞠は、カップを見たまま、静かに言った。
「み、見てたから、ぶ、部室で。……だ、だから、お、怒りは、さ、三年で終わった」
「……三年」
「そ、そのあとは、し、心配してた。じゅ、十三年」
「…………」
「で、でも」
顔が、上がった。
「や、約束、わ、私は守ったから。か、書き続けた。……あ、あんたが、ど、どこかで、よ、読んでるかもって、お、思って」
「……読んでなかったのに」
「し、信用は、し、してなかった」
小鞠は、少しだけ笑った。
「で、でも、し、信じてた。じゅ、十六年」
信用してないけど、信じてる。
高校のとき、この人が俺にくれた言葉と、同じ組み立てだった。
同じ組み立てのまま、十六年、生きていた言葉だった。
喉の奥が、詰まった。
読んでいなかった十六年の向こうで、書き続けていた人がいた。
破った約束の片側だけが、ずっと、律儀に生きていた。
「……今から、読む。十六年分、全部」
「お、遅い」
「うん」
「じゅ、十六年、お、遅い」
「うん」
「……か、感想、い、一冊ずつ、お、送って。え、遠慮なく、ち、長文で」
「送る。全冊」
「な、なら」
小鞠は、鼻を一回すすって、言った。
「ぶ、文芸部は、そ、続行」
続行、が決まった。
十六年ぶりの、部活動再開である。
隣で、馬剃さんが、静かに言った。
「小鞠さん。……文芸部には、私も、忘れられない借りが一つあります」
「か、返してもらった。む、昔」
「いいえ。まだです」
「じ、じゃあ……ど、読書会で、へ、返して」
「承知しました」
何の話だ。
「「昔の話」」
また揃った。
揃うな。
間髪入れずに手帳が開いた。
「では、読書会の開催を提案しますっ。日程の三案は、後日」
「は、早い。あ、あんた、そ、そういう人……」
「そういう人です」
俺が答えた。
「ぬ、温水が、な、なんで得意げなの」
「いや、なんとなく」
「……し、死ね」
「十六年ぶりでも言うんだ、それ」
「じゅ、十六年ぶりだから、ご、五回くらい、し、死ね」
「増量された」
懐かしい毒が、利子つきで来た。
この毒が出るのは、心を許した証拠だと、俺は高校で学んでいる。
十六年ものの学習が、いま、役に立った。
喫茶店を出て、三人で精文館書店に寄った。
文庫の棚に、久遠うさぎの背表紙が並んでいて、棚の端に手書きのPOPが立っていた。
『地元出身の人気作家!』
「か、隠して、そ、それ……」
「隠しません。事実ですので」
「じ、事実って言えば……も、もういい……」
小鞠は、POPから一番遠い位置に移動した。
移動した先も、自分の棚の前だった。
俺はデビュー作を一冊、手に取った。
「い、一冊目から、じゅ、順番に読むの……?」
「順番に読む。飛ばすと、感想に穴があく」
「ぶ、文芸部の読み方だ……」
レジの前で、馬剃さんが、持参の文庫とペンを三本出した。
「先生。もし、ご迷惑でなければ」
「こ、ここで!?」
「油性と、耐水と、金です。お好きなものを」
「じゅ、準備がよすぎる……」
小鞠は店の隅で、真っ赤になりながら、小さくサインを書いた。
馬剃さんは本を両手で受け取って、深い礼をした。
「家宝が増えました」
「か、家宝……。ぬ、温水のには、か、書かない。よ、読み終わってから」
「宿題つきだ」
「ぶ、文芸部だから」
文芸部だから、で全部が通る大晦日だった。
店の外で、小鞠と別れた。
「ぬ、温水」
「うん」
「……む、昔より、い、いい顔してる」
「そう?」
「そ、そう。……な、なんかムカつくけど」
「なんでだよ」
「む、昔から、そ、そういうものだから」
そういうものらしい。
昔からのそれが、今日は、笑った顔で言われた。
「……こ、今度は、じゅ、十六年、あ、空けないで」
「空けない。感想があるから」
「そ、そう。……よ、よいお年を。ば、馬剃さんも」
「よいお年を。新刊、お待ちしていますっ」
「げ、原稿の話は、き、今日はしないで……」
小さい背中が、年の瀬の人混みに消えていった。
消えるまで、俺は見ていた。
十六年ぶんの、見送りである。
帰り道、馬剃さんと並んで歩いた。
「今日は、ありがとう。友達枠」
「……いつでも、どうぞ」
「缶コーヒー、結局出番なかったね。引き返し用の」
「使いました」
「え、いつ」
「お店の前で、あなたが二回、深呼吸したときです。鞄の中で、握っていました」
「……気づいてたんだ、深呼吸」
「装備は、使わずに済むのが、いちばんいい運用です」
鞄の中で握られていた缶のことを思ったら、胸の奥が、じん、とあたたかくなった。
装備は、持っているだけで効くことがある。
「一つ、確認です」
「うん」
「本日の私は、同僚でしたか、友達でしたか」
「友達。全面的に」
「……記録しますっ」
手帳が、すっと出た。
夜道で書かれた一行を、俺は覗かなかった。
覗かなくても、耳の赤で、だいたい分かる。
実家に帰って、こたつで一冊目を開いた。
栞は、机の抽斗の奥にいた、星の砂のやつを使った。
高校の誕生日に、小鞠がくれたものである。
十六年、挟む本を選び続けていた栞に、やっと仕事が来た。
開いたら、止まらなかった。
読み終えたのは、年が明ける少し前である。
感想は、長文で送った。
除夜の鐘と一緒に、返信が来た。
俺の感想の三箇所に、赤が入っていた。
『ここ、読みが浅い』
『どこが』
『自分で考えて。文芸部だから』
『続きは、明日読む』
『早く寝て。……よいお年を』
年が明けてすぐ、佳樹からもメッセージが来た。
『お兄様。小鞠さんから伺いました』
『何を』
『『温水が来た』と、五文字で』
『……そうか』
『十六年ぶりの偉業です。日記に書いておきます』
妹の日記が、また一頁、埋まったらしい。
感想に赤を入れられたのは、人生で初めてである。
初めてだが、悪くなかった。
文芸部は、まだ続いているらしい。
十六年、俺が留守にしていただけで。