大学職員の僕たち   作:房吉

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~26敗目~ 九百八十円の申告

(元日〜一月三日/温水視点)

 

「お兄様。お雑煮は、三杯までにしてください」

 

「なんでだ」

 

「四杯目からは、お腹に稲荷の席がなくなりますので」

 

 俺の胃には、どうやら座席表があるらしい。

 

 しかも指定席である。

 

「三杯目、いただきます」

 

「どうぞ。お代わりの前に、お汁だけお足しします」

 

 一月一日、実家の居間。

 

 雑煮の味は、何年空けても記憶と一致した。

 

 一致することに安心して、俺は結局、三杯食べた。

 

「両親は」

 

「伯母様のところに、二泊です。二日の夜まで、お帰りになりません」

 

「置いていかれたのか」

 

「佳樹が残りました。お兄様のお世話が発生しますので」

 

「発生って言うな」

 

「発生します」

 

 発生するらしい。

 

 こたつには、みかんと、テレビと、数えなかった年数ぶんの、少しぎこちない団欒があった。

 

 ぎこちなさは、二杯目の雑煮のあたりで、もうほとんど消えていた。

 

 実家というのは、そういう場所らしい。

 

 雑煮を下げて戻ってきた佳樹の手に、緑のマフラーがあった。

 

 玄関のフックに掛けておいたやつである。

 

「お兄様。玄関のこれですが」

 

「勝手に取るな」

 

「市販品では、ありませんね」

 

 俺は、みかんを剥く手を止めた。

 

「……なんで分かるんだ」

 

「編み目に、几帳面さが出ています。市販品の几帳面さは、機械のものです。これは、人のものです」

 

 うちの妹は、検品までできるらしい。

 

 編み手といい妹といい、俺の周りの検品率が高すぎる。

 

 佳樹は、マフラーに顔を近づけた。

 

「佳樹」

 

「スンスン」

 

「口で言うな」

 

「……香りは、無臭です」

 

「無臭」

 

「洗剤も、香水も、乗せない方ですね。用途に不要なものを、持ち歩かない」

 

「嗅ぐな」

 

「検品です」

 

 検品の範囲が、年々広がっている。

 

 広がった検品の結果が、だいたい正解なのが、この妹の恐ろしいところである。

 

 無香料の柔軟剤を選ぶ理由を、あの人は前に「業務上、香りは装備に含めない主義です」と説明していた。

 

 主義の話を、妹に伝える気はない。

 

 伝えると、たぶん、五分で家系図が更新される。

 

 

 

 

「佳樹」

 

「はい」

 

「編み物、教えて」

 

 こたつが、止まった。

 

 テレビの中だけが、正月をやっていた。

 

 佳樹が、みかんを置いた。

 

 置いてから、正座をし直した。

 

 正座をし直すときの妹は、たいてい、何かの儀式を始める。

 

「お兄様。ただいまのご発言を、もう一度」

 

「編み物、教えて」

 

「二回目、確認いたしました」

 

 佳樹は立ち上がって、押入れを開けて、菓子の空き缶を持ってきた。

 

 蓋を開ける。

 

 中に、小さいものが二つ入っていた。

 

 毛糸の、靴下である。

 

 片方は編み上がっていて、もう片方は、途中で止まっていた。

 

「これは」

 

「十六年前の、佳樹の作品です」

 

「…………」

 

「片方が仕上がったところで、用途の発生が見込めなくなりまして」

 

「見込めなくて本当によかったよ」

 

「保管しておりました。いつか用途が発生したときのために」

 

「用途の話はやめよう」

 

「十月十日といいますので」

 

「やめようって言ったよね?」

 

 言った。

 

 言ったのに、缶の蓋は閉まらなかった。

 

「で、いまも編めるのか」

 

「編めます。あれから十六年、編み物は花嫁修業の一環として、継続してまいりました」

 

「花嫁修業の一環に俺の子供の靴下が入ってるの、俺はいまだに納得してない」

 

「納得は、必須要件ではありませんので」

 

「必須にしてくれ」

 

「では、師範を務めさせていただきます」

 

「師範」

 

「本日ただいまより、佳樹は師範です」

 

「肩書きが早い」

 

「肩書きは、早いほうが動きやすいのです」

 

 役所の人みたいなことを言う。

 

 うちの妹に、そういう影響が出ていないことを祈る。

 

「何をお編みになりますか」

 

「小さいやつ。三日で編めるやつ」

 

「三日」

 

「三日しかないんだ」

 

 佳樹は、俺の顔を三秒見た。

 

 それから、玄関のほうを見た。

 

 正確には、玄関のフックの、緑があった位置を、である。

 

「承知しました」

 

「何も言ってないからな」

 

「はい」

 

「言ってないから」

 

「承知しました」

 

 承知された。

 

 何を承知されたのかは、聞かないほうが平和である。

 

「一点、ご提案があります」

 

「なに」

 

「師範一名では、工程が保ちません。監督を招聘いたします」

 

「招聘って、どこから」

 

「駅前です」

 

 佳樹はもうスマートフォンを耳に当てていた。

 

「もしもし、小鞠さん。あけましておめでとうございます。……はい。……はい、編み物です。……いえ、佳樹ではなく、兄が」

 

「おい」

 

「……はい。……四十分ですね。お待ちしております」

 

「勝手に呼ぶな」

 

「小鞠さんは、毎年二日にいらっしゃいます。一日早くなっただけです」

 

「毎年?」

 

「毎年です。おせちの残りと、お年賀の交換と、新刊のご報告です」

 

 毎年、である。

 

 俺が東京にいた十六回の正月、この家のこたつには、俺の知らない席が一つあったことになる。

 

 知らなかったのは、俺だけである。

 

 知らなかった、というより、知ろうとしなかった側である。

 

 東京に出てからの十六回、俺は元日にこの家の電話に出たことがない。

 

 出なかった十六回のうしろで、こたつの角が一つ、毎年きちんと使われていた。

 

 使っていたのは、俺が置いていった側の人である。

 

 こたつの天板を見ながら、俺はみかんを一つ剥いて、そのまま持て余した。

 

 

 

 

 四十分後、玄関の呼び鈴が鳴った。

 

「あ、あけまして……お、おめでとう」

 

「おめでとう。上がって」

 

「……い、家、か、変わってない」

 

「変わってないな」

 

「じゅ、十六年、か、変わってないの、す、すごい」

 

「褒めてないだろ、それ」

 

「ほ、褒めてない」

 

「二冊目、読んだよ。昨日の夜」

 

「は、早い」

 

「正月だからな」

 

「か、感想。ま、また、あ、赤、い、入れる」

 

「赤の量、減らしてくれ」

 

「へ、減らない」

 

 減らないらしい。

 

 十六年ぶんの遅れを取り戻す方法が赤入れだというなら、こちらに文句はない。

 

 小鞠は、廊下で一度、佳樹と何かを交換していた。

 

 紙袋と紙袋である。

 

 交換の手つきが、完全に手慣れていた。

 

 十六年ぶんの手慣れである。

 

 こたつに座った小鞠が、天板の上を見た。

 

 毛糸と、編み棒と、教本代わりに開かれた佳樹のスマートフォン。

 

「……な、なにこれ」

 

「兄が、編みます」

 

「…………」

 

 小鞠は、毛糸と、俺の顔を、三往復見た。

 

 三往復目で、目が細くなった。

 

 人見知りの目ではない。

 

 物語を書く人間の、観察の目である。

 

「……お、大晦日の」

 

「言ってない」

 

「い、言ってない人の、か、顔じゃない」

 

「顔の話はしてない」

 

「ふ、二日前に、と、隣に、す、座ってた人」

 

「言ってないって」

 

「う、うん。き、聞いてない」

 

 聞いていない人が、鞄からノートを出した。

 

「書くな」

 

「か、書く。し、資料」

 

「資料にするな」

 

「ぶ、文芸部だから」

 

 文芸部だから、で全部が通るのは、大晦日からの継続案件である。

 

「小鞠さん。監督をお願いできますか」

 

「か、監督」

 

「工程管理です。締切は、明後日の朝十時十分」

 

「じゅ、十時十分」

 

「豊橋駅の、新幹線ホームです」

 

「言ってないぞ」

 

「はい」

 

「なんでホームの時刻まで知ってるんだ」

 

「妹ですので」

 

 妹ですので、で全部が通ると思っている。

 

 思っているし、実際に通ってしまうのが、毎回悔しいところである。

 

「……や、やる」

 

「意外だな」

 

「し、締切を、や、破る側の、き、気持ちが、わ、分かるから」

 

「監督が締切を破る側なの、不安しかないんだけど」

 

「し、失礼な。……や、破ったことしか、な、ないけど」

 

「不安が確定した」

 

「し、死ね」

 

「十六年ぶりに会って、二日でもう出るんだな、それ」

 

「じゅ、十六年ぶんの、ざ、在庫がある」

 

 在庫を抱えた監督が、ノートを開いた。

 

 開いた頁の一行目に、日付と、時刻が書かれた。

 

 締切の管理だけは、本職らしい書き方だった。

 

 

 

 

「では、始めます。お兄様、まず作り目です。指にかけてください」

 

「こう?」

 

「逆です」

 

「こう」

 

「逆の逆です」

 

「同じだろ」

 

「同じではありません。……小鞠さん、記録をお願いします」

 

「さ、作り目。し、失敗、い、一回」

 

「記録すな」

 

 作り目に十五分かかった。

 

 十五分で、俺の左手の親指は、すでに一回つった。

 

 編み棒というのは、慣れないと、思ったより指に刺さる。

 

「一段目、参ります」

 

「一段目」

 

「一段目です。ここから百八段あります」

 

「百八」

 

「煩悩と同数です」

 

「なんで煩悩に合わせたんだ」

 

「合わせておりません。計算の結果です」

 

 計算の結果が煩悩と一致する正月というのも、なかなかない。

 

 一段目は、通った。

 

 二段目も、なんとか通った。

 

 三段目で、遭難した。

 

「お兄様。そこ、目が落ちています」

 

「落ちてない」

 

「落ちています。三段目です」

 

「……ほどく」

 

「ほどいてください」

 

「ほどきます」

 

「げ、現在三段目。こ、この地点で、か、過去二回、そ、遭難」

 

「実況するな」

 

「か、監督業務」

 

「監督って実況する仕事だったっけ」

 

「か、書く仕事」

 

「それは作家の仕事だろ」

 

「か、兼務」

 

 兼務らしい。

 

 三段目というのは、俺にとっての鬼門らしかった。

 

 ほどいて、編み直して、また落として、またほどく。

 

 ほどくというのは、失敗を消す作業ではない。

 

 自分がどこで間違えたかを、指で一目ずつ確認していく作業である。

 

 書類なら、間違えた行だけ直せばいい。

 

 編み物は、間違えた場所から先の全部を、一度なかったことにしないと直せない。

 

 この構造は、どこかで見たことがある。

 

 どこで見たかを考えかけて、俺はやめた。

 

 考えると、たぶん、手が止まる。

 

 その繰り返しのあいだ、師範は無言で手元を見ていて、監督は無言でノートを埋めていた。

 

 こたつの上だけが、やたらと真剣な正月だった。

 

「ところでお兄様。お相手の髪は、長い方ですか」

 

「なんでだ」

 

「サイズ感の確認です。師範として」

 

「……普通だ。まとめてることが多い」

 

「まとめて。承知しました」

 

「あ、あと、や、休みの日は、す、少し、ゆ、ゆるい」

 

「なんで小鞠が知ってるんだ」

 

「お、大晦日に、み、見た。……あ、あんたも、み、見てたでしょ」

 

「見てない」

 

「み、見てた。さ、三回」

 

「数えるな」

 

「か、書く」

 

「書くな」

 

 監督の観察力は、こちらの首を的確に絞めてくる。

 

 絞められながら、俺は三段目をほどいた。

 

 四回目である。

 

 

 

 

 夜になって、佳樹が風呂の湯を見に立った。

 

 こたつには、俺と、監督だけが残った。

 

 テレビでは、去年の総集編みたいなものが流れていた。

 

 去年の総集編に、俺の去年は、一秒も映っていない。

 

「ぬ、温水」

 

「うん」

 

「な、なんで、あ、編むの」

 

「……なんでって」

 

「か、買えば、い、いいのに。も、もっと、い、いいのが、う、売ってる」

 

 編み棒が、止まった。

 

 止まった理由を、うまく言葉にできなかった。

 

「……もらったから」

 

「う、うん」

 

「もらったものの、返し方が、わからなくて」

 

「か、買っても、か、返せる」

 

「買うと、たぶん、届かないんだ」

 

「ど、どこに」

 

「……どこだろうな」

 

 小鞠は、しばらく黙っていた。

 

 黙ったまま、ノートに一行、書いた。

 

「書くな」

 

「い、いま、い、いいこと、い、言った」

 

「言ってない」

 

「い、言った。……わ、私なら、そ、そう書く」

 

 書く人の「そう書く」は、たぶん、最上級の相槌である。

 

 最上級の相槌を、俺は十六年ぶりにもらった。

 

 もらったので、四段目を編んだ。

 

 

 

 

 風呂から戻ってきた師範が、みかんを俺の手元に置いた。

 

 置かれたみかんは、監督が食べた。

 

「兄は手が塞がっていますので」

 

「代わりに剥いてくれてもいいんだぞ」

 

「か、監督は、げ、現場に、て、手を出さない」

 

「主義か」

 

「し、主義」

 

 主義らしい。

 

 主義の人は、二つ目のみかんにも手を伸ばした。

 

「そういえばお兄様。高校のとき、プレゼントの受け取り方をお教えしたのは、私です」

 

「覚えてる」

 

「今度は、お渡しになる側の特訓ですね。感慨深いです」

 

「師範は黙っててくれ」

 

「あのときの台本、お役に立ちましたか」

 

「……立った」

 

「何点くらい」

 

「非公開だ」

 

「た、台本?」

 

「監督には関係ない」

 

「た、高校のとき、あ、あんたが、や、やたら、て、丁寧に、お、お礼、い、言ってた……あ、あれ」

 

「なんで小鞠が現場にいたことになってるんだ」

 

「ぶ、部室で、れ、練習、し、してた」

 

「見てたのか」

 

「み、見てた。……き、気持ち悪かった」

 

「言うなよ」

 

「い、言う。じゅ、十六年、が、我慢したから」

 

 我慢の在庫が、こちらにもあったらしい。

 

 妹の台本は、十六年かけて実話になった。

 

 今度のこれも、なってくれると、遭難している指が少しは報われる。

 

 元日の夜と、二日の朝と、二日の夜。

 

 こたつで、男が一人、無言で編み棒を動かし続ける正月だった。

 

 気づけば、一日六段どころではないペースで編んでいた。

 

 一日六段、と決めて三週間続けた誰かの、工程管理の気持ちが、少しだけ分かった。

 

 分かったところで、深夜、師範に止められた。

 

「お兄様。二十三時を過ぎました」

 

「あと二段」

 

「意地になっておられますね」

 

「なってない」

 

「なっておられます。……よいことです」

 

 よいことらしい。

 

 よいことなので、二段編んで、もう二段編んだ。

 

 

 

 

 二日の夜遅く、それは完成した。

 

 完成した瞬間、佳樹が拍手をした。

 

「完走、おめでとうございます。総遭難回数、五回でした」

 

「数えてたのか」

 

「か、監督が」

 

「監督が数えてたのか」

 

「か、書いた」

 

「書くな」

 

 五回の遭難と、二枚の絆創膏と、二晩ぶんの深夜の成果である。

 

 赤い毛糸の、シュシュである。

 

 小さくて、少しだけ形が不揃いで、三段目に、ほどいて編み直した跡がある。

 

 完成品を手の上に載せて、俺はしばらく黙っていた。

 

 二日前の俺は、これを編めなかった。

 

 二日たっても、まだ、うまくは編めない。

 

 うまくないものが、それでも、形になって手の上にある。

 

 工程管理をした人が、三週間、毎晩見ていたものは、たぶんこれである。

 

 小鞠が、それを手に取って、電灯にかざした。

 

「……し、初めてにしては、じょ、上出来」

 

「そう?」

 

「じょ、上出来だけど、ぶ、不格好」

 

「どっちだよ」

 

「り、両方」

 

 小鞠は、シュシュを俺の手に戻した。

 

「で、でも、ぶ、不格好な、ほ、ほうが、い、いい」

 

「なんでだよ」

 

「か、買ったんじゃないって、ひ、一目で、わ、分かるから」

 

「…………」

 

「わ、私なら、そ、そう書く」

 

 物語を書く人間は、たまに、核心だけ置いてみかんに戻る。

 

「師範として、講評を申し上げます」

 

「どうぞ」

 

「合格です。……ただし、一点」

 

「なに」

 

「お渡しになる際、高校でお教えした台本は、使わないでください」

 

「なんでだ」

 

「あれは、受け取る側の台本です。渡す側に、台本はありません」

 

「じゃあ、どうしろって」

 

「黙っていてください」

 

「黙る」

 

「相手の方が、何かおっしゃるまで」

 

「そ、それ、わ、私も、そ、そう思います」

 

「監督と師範の意見が、一致した」

 

「い、一致した」

 

「珍しいことです」

 

 珍しい一致を、俺は一応、頭に入れておいた。

 

 入れておいたのに、三日後に破ることになるとは、このときは思っていない。

 

 

 

 

 二十三時過ぎ、小鞠が帰り支度を始めた。

 

「か、監督、しゅ、終了」

 

「助かった。……ありがとう」

 

「べ、別に。……ね、ネタに、な、なったし」

 

「するなよ」

 

「す、する。……あ、あとがきに、か、書く」

 

「やめろ」

 

「じゅ、十六年ぶりに、と、友達が、こ、こたつで、あ、編み物してた、って」

 

「事実だけど、書くな」

 

「じ、事実って言えば、す、済むと思ってる」

 

「それ、誰かが言ってたな」

 

「い、言ってた」

 

 言っていた。

 

 二日前に、この人の目の前で、堂々と。

 

 小鞠は玄関で靴を履きながら、こちらを見ずに言った。

 

「ぬ、温水」

 

「うん」

 

「……こ、今度は、ち、ちゃんと、わ、渡しなよ」

 

「今度って」

 

「じゅ、十六年、お、遅れないで」

 

 

 

 

「……うん」

 

 

 

 

「じゃ、じゃあね。よ、良いお年……あ、も、もう、あ、明けてた」

 

「明けてる」

 

「あ、明けまして、お、おめでとう」

 

「二回目だぞ、それ」

 

「に、二回言うと、ほ、本当になる」

 

「三回じゃなかったっけ」

 

「じゅ、十六年ぶんで、わ、割引」

 

 割引が効くらしい。

 

 小さい背中が、正月二日の夜道に消えていった。

 

 消えるまで、俺は玄関に立っていた。

 

 大晦日にも、同じことをした気がする。

 

 二回続けて見送れた、というだけの話だが、二回目のほうが、少しだけ楽だった。

 

 楽になった理由は、たぶん、次があると分かっているからである。

 

 十六年前の春に、俺が自分から潰したのが、その「次がある」という前提だった。

 

 潰したものは、二日と、四十分と、こたつ一台で、わりとあっさり戻ってきた。

 

 あっさり戻ってきたぶん、戻さなかった十六年のほうが、よけいに間抜けに見える。

 

 

 

 

 居間に戻ると、佳樹が缶を仕舞うところだった。

 

 十六年前の靴下の、缶である。

 

「お兄様」

 

「なに」

 

「本日の作業で、佳樹は一つ、確信を得ました」

 

「聞きたくない」

 

「この缶は、まだ捨てません」

 

「捨てなさい」

 

「十月十日といいますので」

 

「今日の作業と何の関係もないだろ」

 

「関係の深さの話です」

 

 妹の関係図では、シュシュと靴下が、一本の線でつながっているらしい。

 

 その線の長さについては、考えないことにした。

 

 俺の指先には、絆創膏が二枚、貼ってあった。

 

 

 

 

 一月三日、土曜日、午前十時十分。

 

 豊橋駅の新幹線ホームに、彼女は先に立っていた。

 

「十時ちょうどから居ります」

 

「知ってた」

 

「聞く前に答える運用を、継続しています」

 

 コートに赤いマフラー、キャリーケース、そして紙袋が、来たときより一つ増えていた。

 

「復路の駅弁資料は」

 

「作っていませんっ」

 

 即答だった。

 

「……三が日は、資料を休みましたので」

 

「いい休み方だ」

 

「褒めないでくださいっ。癖になるので」

 

 資料を休んだことを申告してくる人は、資料を休めていない気もするが、指摘はしなかった。

 

「荷物、増えたね」

 

「実家から、持たされました。梅干しと、白菜と、あと言いたくないものが少々」

 

「言いたくないもの」

 

「……お見合い写真の、コピーですっ」

 

 言いたくないと言いながら、聞く前に言った。

 

「三年ぶりに帰った娘に、母が用意していたものが、それでした」

 

「……『あら』の中身、聞けたんだ」

 

「聞きたくない形で聞きましたっ!」

 

 沸点が、正月明けも通常運転だった。

 

「で、写真は」

 

「受け取りだけしました。受け取らないと、話が三時間になるので」

 

「見たの」

 

「見ていませんっ。見ませんっ。……なんで少し声が硬いんですか」

 

「硬くないよ」

 

「硬いですっ」

 

 硬かったかもしれない。

 

 硬かった理由は、分析しないことにした。

 

 分析すると、たぶん、九百八十円では済まなくなる。

 

「処分方法は、検討中です」

 

「持って帰ってきたんだ」

 

「置いてくると、母が『預かっているだけ』と主張し続けるので。手元で管理します」

 

「管理して、どうするの」

 

「東京で、適切に処理しますっ」

 

 適切な処理の内容は、聞かないことにした。

 

 聞かなくても、シュレッダーの音が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 上りのこだまは、定刻に発車した。

 

 座席に着くなり、彼女が言った。

 

「復路は、私が窓側です」

 

「どうぞ」

 

「……交代制は、公平の基本ですので」

 

「誰も文句言ってないよ」

 

「先に根拠を示しただけですっ」

 

 根拠つきで窓側に座った人は、浜松の手前から、もう富士山の方角を気にしていた。

 

 まだ見えるわけがない方角を、である。

 

「往路は、寝ていて半分見逃したので」

 

「見てたよ、ちゃんと。視認って言ってた」

 

「後半を見逃しましたっ。本日は完全視認を目指します」

 

 富士山に対しても、この人は工程を組む。

 

 掛川を過ぎたあたりで、俺は鞄から、包みを二つ出した。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「まず、これ。妹から」

 

 一つ目の包みを渡す。

 

「妹さんから?」

 

「羊羹のお礼だって。親の代理で選んだって言ってた。開けていいよ」

 

 包みの中身は、ちくわだった。

 

 豊橋の、ちゃんとしたちくわである。

 

「……羊羹のお返しが、ちくわ」

 

「うん」

 

「格が違いませんかっ」

 

「豊橋では等価だよ」

 

「その理論は……っ」

 

 彼女は、反論しかけて、止まった。

 

 止まって、ちくわの包みを見て、悔しそうに言った。

 

「……一理あります」

 

 豊橋の人間は、ちくわの格を知っているのである。

 

 彼女は包みの端を少し開けて、中を確認した。

 

「……このちくわ、駅の近くの」

 

「よく分かるね」

 

「豊橋人ですので」

 

 胸を張った。

 

 張るところが、いちいち豊橋だった。

 

「妹が、『お相手によろしく』って」

 

「お、お相手っ」

 

「訂正はしといた。同僚だって」

 

「……訂正、通りましたか」

 

「『承知しました』って言われた」

 

「通っていませんね、それは」

 

「通ってない。うちの妹の『承知しました』は、受理じゃなくて、記録なんだ」

 

「……こちらの家庭では、『あら』が同じ役割を果たします」

 

「どこの家庭にも一つはあるんだな、そういう語」

 

「ありますっ。……不本意ですが」

 

 不本意な語を共有できる相手というのは、意外と貴重である。

 

 訂正が通らない家に生まれた者同士にしか、通じない話がある。

 

 

 

 

「それで、こっちが本題」

 

 俺は、二つ目の包みを出した。

 

 白い紙袋である。

 

 持ち手は、揃えて折ってある。誰かの様式の、見よう見まねである。

 

「渡す前に、申告があります」

 

 彼女の目が、丸くなった。

 

「九百八十円です」

 

「な……っ」

 

「材料費の、です」

 

「様式の無断使用ですっ!」

 

「準用したんだよ。心の中で」

 

「準用は私の……っ、それも私のですっ!」

 

「今日は全部、返却する日なんだ」

 

 彼女は、口を開けて、閉じて、それから、紙袋を両手で受け取った。

 

 缶コーヒーの持ち方だった。

 

「……開けても、いいですか」

 

「どうぞ。できれば、その場で」

 

「その場で」

 

「感想を、その場で聞きたいから」

 

「それも私の……っ!」

 

 言いながら、彼女の手は、もう包みを開けていた。

 

 薄紙の中から、赤い毛糸のシュシュが出てきた。

 

 小さくて、少し不格好で、三段目に編み直しの跡があるやつである。

 

 彼女が、動かなくなった。

 

 動かない横で、俺は、待った。

 

 黙っていてください、相手の方が何かおっしゃるまで。

 

 師範と監督の、唯一一致した指示である。

 

 守れたのは、十秒だった。

 

 

 

 

「……編んだの、俺」

 

 

 

 

 シュシュを持ったまま、彼女の目が、ゆっくり上がった。

 

 俺の顔ではなく、俺の指先で止まった。

 

 絆創膏、二枚。

 

「……指」

 

「紙で切った」

 

「…………」

 

 彼女は、絆創膏を三秒見て、それから、小さく言った。

 

「……私も、十二月に、そう言いました」

 

「知ってる」

 

「嘘だと、分かっていましたか」

 

「紙で二枚は切らないよ」

 

「……あなたも、切っていませんよね」

 

「切ってない」

 

 お互いの嘘が、同じ文面で、時間差で並んだ。

 

 並んだ嘘を、どちらも訂正しなかった。

 

 訂正しなくていい嘘というのが、世の中には、たまにある。

 

「検品、しますか」

 

 俺が言うと、彼女は、我に返ったように姿勢を正した。

 

 シュシュを両手で持って、窓の光にかざして、編み目を端から確認していく。

 

 検品する側に回った横顔は、真剣だった。

 

「……三段目が、緩いです」

 

「そこ、三回ほどいて編み直したんだ。初心者に厳しくない?」

 

「三回」

 

「師範と監督が厳しくてね」

 

「師範と、監督」

 

「師範が、妹」

 

「妹さんが……」

 

「監督が、小鞠」

 

 彼女の手が、止まった。

 

 止まって、〇・五秒後に、跳ねた。

 

「く、久遠うさぎ先生がっ!?」

 

「声」

 

「先生が、監督をっ!? あの、雨の停電の章をお書きになった先生がっ、毛糸のっ!?」

 

「そこ結びつけるんだ」

 

「結びつきますっ! 同一人物ですのでっ!」

 

 同一人物ではあるが、章と毛糸のあいだには、まだ距離があると思う。

 

「……あの、では、先生は、ご存じなんですか。その、これを、どなたに」

 

「言ってない」

 

「言っていないんですか」

 

「言ってない。……書かれたけど」

 

「書かれ……!?」

 

「ノートに」

 

「作家先生の一次資料になっているじゃないですかっ!」

 

 彼女は、両手で顔を扇いで、それから、姿勢を正し直した。

 

 正した姿勢のまま、耳だけが、真っ赤だった。

 

「基準は、曲げませんっ。……ですが」

 

 彼女は、シュシュを膝の上に置いて、両手で軽く包んだ。

 

「大合格です」

 

「大合格」

 

「合格の上の等級です。いま作りました」

 

 等級を作られた。

 

 作られた等級の第一号が、この不格好な赤である。

 

「なんで、赤なんですか」

 

 彼女が、聞いた。

 

 聞かれると思っていた。

 

「……似合うと思ったから」

 

「なっ……それは、私のっ」

 

「返却だって言ったろ」

 

「か、返却の範囲が広すぎますっ!」

 

 広くて悪かった。

 

 悪かったが、後悔はしていない。

 

「使う場所は、指定しないよ。そっちの様式は、真似しないでおく」

 

「……」

 

「ただ、その、あれだ。休みの日、髪が少しゆるいときがあるから。そういう日に、もし」

 

「……見て、いたんですか」

 

「見えただけ」

 

「見えただけで、覚えているんですかっ」

 

「覚えてただけ」

 

 彼女は、何かを言いかけて、やめた。

 

 やめて、膝の上の赤を、しばらく見ていた。

 

 見てから、姿勢を正した。

 

「温水さん。一点、確認事項があります」

 

「うん」

 

「検品には、試着が含まれます」

 

「含まれるんだ」

 

「含まれますっ。……寸法の適合を実物で確認しない検品は、検品ではありませんので」

 

 根拠が、二秒で出てきた。

 

 この人は、やりたいことを見つけたとき、先に根拠を建てる。

 

 建ててから、やる。

 

 順番が逆な気もするが、本人の中では、たぶん正しい。

 

「じゃあ、どうぞ」

 

「……はい」

 

 返事のわりに、手は動かなかった。

 

 動かないまま、五秒たった。

 

「あの」

 

「うん」

 

「……こちらを、見ないでいただけますか」

 

「見ない」

 

「三十秒です」

 

「三十秒」

 

「三十秒で、完了しますので」

 

 俺は、通路側を向いた。

 

 通路の向こうの窓に、茶畑が流れていた。

 

 隣で、ゴムを外す音がした。

 

 それから、髪が落ちる、ほとんど音のしない音がした。

 

 音のしない音を聞き取っている自分に気づいて、俺は茶畑の畝を数えることにした。

 

 数えはじめて三畝で、時速二百キロが畝を消した。

 

「……完了しました」

 

 二十二秒だった。

 

 申告より、八秒早い。

 

 この人は、こういうところでも前倒しをする。

 

 振り返って、俺は、振り返ったことを後悔した。

 

 いつものひっつめではなかった。

 

 低い位置で、ゆるくまとめられていて、その根元に、赤があった。

 

 三段目が緩くて、形の少し不揃いな、九百八十円である。

 

 それが一つあるだけで、首から上の情報量が、二倍になっていた。

 

 まとめる位置が低いぶん、首筋が見えていた。

 

 見えている場所に、小さいホクロが一つある。

 

 十六年前と、同じ場所である。

 

 俺は、〇・五秒でそこから目を離した。

 

 離せた自分を、あとで褒めてやろうと思った。

 

 この人の髪がほどけたところを見るのは、これで三回目である。

 

 一回目は八月二十九日、二回目は九月十七日の病室。

 

 数えている時点で、こちらの負けはもう決まっている。

 

「……どう、ですか」

 

 声が、いつもの二割小さかった。

 

「どうって」

 

「……に、似合い、ますか」

 

 

 

 

 これは、ギャルゲーなら選択肢が出る場面である。

 

 三つのうち二つが地雷で、一つだけが正解の、あの画面である。

 

 ――出なかった。

 

 出なかったので、俺は、自分の口から出たものを、そのまま聞くことになった。

 

「似合う」

 

「……っ」

 

「思ったより、似合う」

 

「思ったよりっ!?」

 

「褒めてる」

 

「褒め方に、改善の余地がありますっ!」

 

「うん」

 

「うんじゃなくてっ、改善してくださいっ」

 

 改善を求められた。

 

 求められたので、改善した。

 

「訂正する。思ったより、じゃない」

 

「……はい」

 

「……編みながら、想像してたとおりだった」

 

 

 

 

 彼女の口が、開いた。

 

 開いたまま、何も出てこなかった。

 

 出てこないかわりに、耳から頬へ、赤が順番に上がっていった。

 

 三段階くらいに分かれて上がったので、途中経過が全部見えてしまった。

 

「……そ、そういうことを」

 

「うん」

 

「そういうことをっ、車内で、おっしゃらないでくださいっ!」

 

「小声だよ」

 

「小声でも、届きますっ! 距離が、四十センチしかありませんのでっ!」

 

「測ったの」

 

「測っていませんっ! ……ざ、座席の規格ですっ!」

 

「規格に助けられてるね」

 

「助けられていませんっ!」

 

 助けられていた。

 

 規格がなければ、この人はいま、何一つ言い訳ができていない。

 

 彼女は両手で頬を押さえて、その手のまま、窓のほうを向いた。

 

 向いた先に、ちょうど、富士山が出た。

 

「……富士山、視認しました」

 

 声が、少し湿っていた。

 

 湿っていることには、触れなかった。

 

 完全視認の工程は、たぶん、いま少し狂っている。

 

 狂った工程を、この人は今日だけは、直さない気がした。

 

 かわりに、俺も窓の外を見た。

 

 復路の富士山は、往路より、少しだけ大きく見えた。

 

 気のせいだと思う。

 

 気のせいでいいと思う。

 

 

 

 

 新横浜を過ぎたころ、彼女はもう一度、髪をほどいた。

 

 ほどいて、いつものひっつめに戻して、シュシュを両手で持った。

 

「戻すんだ」

 

「試着は、終了しましたので」

 

「似合ってたのに」

 

「そ、そういうことをっ……」

 

「はい」

 

「……使用開始日は、別に定めます」

 

「それも定めるんだ」

 

「定めますっ。装備の運用規程は、所有者が決めるものですので」

 

 所有者、と言った。

 

 いただいたもの、でも、お預かりしたもの、でもなく。

 

 言い方が一つ変わるだけで、こちらの胸のあたりが、少し忙しくなる。

 

 忙しくなった理由は、分析しないことにした。

 

 今日は、分析しないことにした項目が、多すぎる。

 

 

 

 

 東京駅には、定刻に着いた。

 

 ホームに降りると、都会の乾いた冷気が、豊橋よりも尖っていた。

 

 改札を出て、乗り換えの分岐で、立ち止まる。

 

 四日前、ここで待ち合わせたときは、まだ往路だった。

 

 同じ場所が、もう帰り道の途中になっている。

 

 四日間というのは、場所の意味を変えるくらいの長さらしい。

 

「では、温水さん」

 

「うん」

 

「月曜から、また、よろしくお願いします」

 

「よろしく。……それと、月曜の週の話だけど」

 

「はい」

 

「十六日の金曜、十六時から。時計、よろしく」

 

「百十四個ですね。承知しています」

 

 共通テスト前日の、時計の総点検である。

 

 十二月に決めた約束が、年をまたいで、二人の次の予定になっていた。

 

 業務の約束なのに、少しだけ、業務でない顔をしている予定である。

 

「あのさ」

 

「はい」

 

「往復とも、ありがとう。手配」

 

「二千百三十円、二回ぶんですので」

 

「金額の話じゃなくて」

 

「……存じております」

 

 存じております、が、いつもより二割やわらかかった。

 

 彼女は三十度の礼をして、それから、少しだけ迷って、言った。

 

「シュシュは」

 

「うん」

 

「大切に、しますので」

 

 そう言って、彼女はシュシュを、鞄ではなく、コートの内ポケットに入れた。

 

 鞄より、近い場所である。

 

 場所の選択については、何も言わなかった。

 

 使います、ではなかった。

 

 大切にします、だった。

 

 その差分については、分析しないことにした。

 

 分析しなくても、分かる差分というのも、あるのである。

 

「よい残り二日を」

 

「よい残り二日を」

 

 人混みの中に、赤いマフラーが遠ざかっていく。

 

 遠ざかる途中で、一度だけ、彼女の手がコートの胸元に触れた。

 

 内ポケットの位置である。

 

 確認したのだと思う。

 

 落としていないかどうかの、ただの確認だと思う。

 

 思うことにして、俺は、見えなくなる三秒前まで見てから、反対のホームに向かった。

 

 

 

 

 アパートに帰って、荷物を解いた。

 

 実家から持たされた米と、みかんと、佳樹の追加のちくわ。

 

 スマートフォンが、二回鳴った。

 

 一件目は、佳樹からである。

 

『お兄様、無事にお渡しできましたか』

 

『渡した』

 

『先方のご反応を、五段階で』

 

『非公開だ』

 

『では、五ですね』

 

『なんでだ』

 

『非公開とおっしゃるときのお兄様は、満点のときです』

 

 妹の採点基準に、俺の様式が組み込まれている。

 

 二件目は、監督からだった。

 

『ど、どうだった』

 

『非公開だ』

 

『……じゃあ、か、書く』

 

『書くな』

 

『か、感想は、な、長文で。ぶ、文芸部だから』

 

 感想を要求される側になるとは、思っていなかった。

 

 返信は、しなかった。

 

 しないことが、答えになっている気もしたが、両方とも既読のまま逃げた。

 

 鞄の底に、赤い毛糸の余りが、少しだけ残っていた。

 

 九百八十円の一玉は、シュシュ一つを編んでも、まだ半分以上あった。

 

 半分以上あるということは、まだ何か編める、ということである。

 

 編めるかどうかは、俺の腕の問題ではなく、たぶん、来年の冬の問題である。

 

 捨てなかった。

 

 理由は、説明しない。

 

 説明しないものが、うちの棚には、また一つ増えた。

 

 玄関のフックには、緑が一本。

 

 高校のときのやつは、まだ、修繕の出張から帰っていない。

 

 帰ってくる日は、一月十六日と指定されている。

 

 時計の点検と、同じ日である。

 

 指定の理由は、聞いていない。

 

 聞かなくても、あの人の工程表のどこかに、根拠の欄があるのだと思う。

 

 月曜から、また一年でいちばん忙しい三か月が始まる。

 

 始まる前の夜に、俺は、月曜の彼女の髪型のことを、少しだけ考えた。

 

 考えた理由は、説明しない。

 

 しないが、楽しみであることだけは、否定しないでおく。

 

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