(元日〜一月三日/温水視点)
「お兄様。お雑煮は、三杯までにしてください」
「なんでだ」
「四杯目からは、お腹に稲荷の席がなくなりますので」
俺の胃には、どうやら座席表があるらしい。
しかも指定席である。
「三杯目、いただきます」
「どうぞ。お代わりの前に、お汁だけお足しします」
一月一日、実家の居間。
雑煮の味は、何年空けても記憶と一致した。
一致することに安心して、俺は結局、三杯食べた。
「両親は」
「伯母様のところに、二泊です。二日の夜まで、お帰りになりません」
「置いていかれたのか」
「佳樹が残りました。お兄様のお世話が発生しますので」
「発生って言うな」
「発生します」
発生するらしい。
こたつには、みかんと、テレビと、数えなかった年数ぶんの、少しぎこちない団欒があった。
ぎこちなさは、二杯目の雑煮のあたりで、もうほとんど消えていた。
実家というのは、そういう場所らしい。
雑煮を下げて戻ってきた佳樹の手に、緑のマフラーがあった。
玄関のフックに掛けておいたやつである。
「お兄様。玄関のこれですが」
「勝手に取るな」
「市販品では、ありませんね」
俺は、みかんを剥く手を止めた。
「……なんで分かるんだ」
「編み目に、几帳面さが出ています。市販品の几帳面さは、機械のものです。これは、人のものです」
うちの妹は、検品までできるらしい。
編み手といい妹といい、俺の周りの検品率が高すぎる。
佳樹は、マフラーに顔を近づけた。
「佳樹」
「スンスン」
「口で言うな」
「……香りは、無臭です」
「無臭」
「洗剤も、香水も、乗せない方ですね。用途に不要なものを、持ち歩かない」
「嗅ぐな」
「検品です」
検品の範囲が、年々広がっている。
広がった検品の結果が、だいたい正解なのが、この妹の恐ろしいところである。
無香料の柔軟剤を選ぶ理由を、あの人は前に「業務上、香りは装備に含めない主義です」と説明していた。
主義の話を、妹に伝える気はない。
伝えると、たぶん、五分で家系図が更新される。
「佳樹」
「はい」
「編み物、教えて」
こたつが、止まった。
テレビの中だけが、正月をやっていた。
佳樹が、みかんを置いた。
置いてから、正座をし直した。
正座をし直すときの妹は、たいてい、何かの儀式を始める。
「お兄様。ただいまのご発言を、もう一度」
「編み物、教えて」
「二回目、確認いたしました」
佳樹は立ち上がって、押入れを開けて、菓子の空き缶を持ってきた。
蓋を開ける。
中に、小さいものが二つ入っていた。
毛糸の、靴下である。
片方は編み上がっていて、もう片方は、途中で止まっていた。
「これは」
「十六年前の、佳樹の作品です」
「…………」
「片方が仕上がったところで、用途の発生が見込めなくなりまして」
「見込めなくて本当によかったよ」
「保管しておりました。いつか用途が発生したときのために」
「用途の話はやめよう」
「十月十日といいますので」
「やめようって言ったよね?」
言った。
言ったのに、缶の蓋は閉まらなかった。
「で、いまも編めるのか」
「編めます。あれから十六年、編み物は花嫁修業の一環として、継続してまいりました」
「花嫁修業の一環に俺の子供の靴下が入ってるの、俺はいまだに納得してない」
「納得は、必須要件ではありませんので」
「必須にしてくれ」
「では、師範を務めさせていただきます」
「師範」
「本日ただいまより、佳樹は師範です」
「肩書きが早い」
「肩書きは、早いほうが動きやすいのです」
役所の人みたいなことを言う。
うちの妹に、そういう影響が出ていないことを祈る。
「何をお編みになりますか」
「小さいやつ。三日で編めるやつ」
「三日」
「三日しかないんだ」
佳樹は、俺の顔を三秒見た。
それから、玄関のほうを見た。
正確には、玄関のフックの、緑があった位置を、である。
「承知しました」
「何も言ってないからな」
「はい」
「言ってないから」
「承知しました」
承知された。
何を承知されたのかは、聞かないほうが平和である。
「一点、ご提案があります」
「なに」
「師範一名では、工程が保ちません。監督を招聘いたします」
「招聘って、どこから」
「駅前です」
佳樹はもうスマートフォンを耳に当てていた。
「もしもし、小鞠さん。あけましておめでとうございます。……はい。……はい、編み物です。……いえ、佳樹ではなく、兄が」
「おい」
「……はい。……四十分ですね。お待ちしております」
「勝手に呼ぶな」
「小鞠さんは、毎年二日にいらっしゃいます。一日早くなっただけです」
「毎年?」
「毎年です。おせちの残りと、お年賀の交換と、新刊のご報告です」
毎年、である。
俺が東京にいた十六回の正月、この家のこたつには、俺の知らない席が一つあったことになる。
知らなかったのは、俺だけである。
知らなかった、というより、知ろうとしなかった側である。
東京に出てからの十六回、俺は元日にこの家の電話に出たことがない。
出なかった十六回のうしろで、こたつの角が一つ、毎年きちんと使われていた。
使っていたのは、俺が置いていった側の人である。
こたつの天板を見ながら、俺はみかんを一つ剥いて、そのまま持て余した。
四十分後、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、あけまして……お、おめでとう」
「おめでとう。上がって」
「……い、家、か、変わってない」
「変わってないな」
「じゅ、十六年、か、変わってないの、す、すごい」
「褒めてないだろ、それ」
「ほ、褒めてない」
「二冊目、読んだよ。昨日の夜」
「は、早い」
「正月だからな」
「か、感想。ま、また、あ、赤、い、入れる」
「赤の量、減らしてくれ」
「へ、減らない」
減らないらしい。
十六年ぶんの遅れを取り戻す方法が赤入れだというなら、こちらに文句はない。
小鞠は、廊下で一度、佳樹と何かを交換していた。
紙袋と紙袋である。
交換の手つきが、完全に手慣れていた。
十六年ぶんの手慣れである。
こたつに座った小鞠が、天板の上を見た。
毛糸と、編み棒と、教本代わりに開かれた佳樹のスマートフォン。
「……な、なにこれ」
「兄が、編みます」
「…………」
小鞠は、毛糸と、俺の顔を、三往復見た。
三往復目で、目が細くなった。
人見知りの目ではない。
物語を書く人間の、観察の目である。
「……お、大晦日の」
「言ってない」
「い、言ってない人の、か、顔じゃない」
「顔の話はしてない」
「ふ、二日前に、と、隣に、す、座ってた人」
「言ってないって」
「う、うん。き、聞いてない」
聞いていない人が、鞄からノートを出した。
「書くな」
「か、書く。し、資料」
「資料にするな」
「ぶ、文芸部だから」
文芸部だから、で全部が通るのは、大晦日からの継続案件である。
「小鞠さん。監督をお願いできますか」
「か、監督」
「工程管理です。締切は、明後日の朝十時十分」
「じゅ、十時十分」
「豊橋駅の、新幹線ホームです」
「言ってないぞ」
「はい」
「なんでホームの時刻まで知ってるんだ」
「妹ですので」
妹ですので、で全部が通ると思っている。
思っているし、実際に通ってしまうのが、毎回悔しいところである。
「……や、やる」
「意外だな」
「し、締切を、や、破る側の、き、気持ちが、わ、分かるから」
「監督が締切を破る側なの、不安しかないんだけど」
「し、失礼な。……や、破ったことしか、な、ないけど」
「不安が確定した」
「し、死ね」
「十六年ぶりに会って、二日でもう出るんだな、それ」
「じゅ、十六年ぶんの、ざ、在庫がある」
在庫を抱えた監督が、ノートを開いた。
開いた頁の一行目に、日付と、時刻が書かれた。
締切の管理だけは、本職らしい書き方だった。
「では、始めます。お兄様、まず作り目です。指にかけてください」
「こう?」
「逆です」
「こう」
「逆の逆です」
「同じだろ」
「同じではありません。……小鞠さん、記録をお願いします」
「さ、作り目。し、失敗、い、一回」
「記録すな」
作り目に十五分かかった。
十五分で、俺の左手の親指は、すでに一回つった。
編み棒というのは、慣れないと、思ったより指に刺さる。
「一段目、参ります」
「一段目」
「一段目です。ここから百八段あります」
「百八」
「煩悩と同数です」
「なんで煩悩に合わせたんだ」
「合わせておりません。計算の結果です」
計算の結果が煩悩と一致する正月というのも、なかなかない。
一段目は、通った。
二段目も、なんとか通った。
三段目で、遭難した。
「お兄様。そこ、目が落ちています」
「落ちてない」
「落ちています。三段目です」
「……ほどく」
「ほどいてください」
「ほどきます」
「げ、現在三段目。こ、この地点で、か、過去二回、そ、遭難」
「実況するな」
「か、監督業務」
「監督って実況する仕事だったっけ」
「か、書く仕事」
「それは作家の仕事だろ」
「か、兼務」
兼務らしい。
三段目というのは、俺にとっての鬼門らしかった。
ほどいて、編み直して、また落として、またほどく。
ほどくというのは、失敗を消す作業ではない。
自分がどこで間違えたかを、指で一目ずつ確認していく作業である。
書類なら、間違えた行だけ直せばいい。
編み物は、間違えた場所から先の全部を、一度なかったことにしないと直せない。
この構造は、どこかで見たことがある。
どこで見たかを考えかけて、俺はやめた。
考えると、たぶん、手が止まる。
その繰り返しのあいだ、師範は無言で手元を見ていて、監督は無言でノートを埋めていた。
こたつの上だけが、やたらと真剣な正月だった。
「ところでお兄様。お相手の髪は、長い方ですか」
「なんでだ」
「サイズ感の確認です。師範として」
「……普通だ。まとめてることが多い」
「まとめて。承知しました」
「あ、あと、や、休みの日は、す、少し、ゆ、ゆるい」
「なんで小鞠が知ってるんだ」
「お、大晦日に、み、見た。……あ、あんたも、み、見てたでしょ」
「見てない」
「み、見てた。さ、三回」
「数えるな」
「か、書く」
「書くな」
監督の観察力は、こちらの首を的確に絞めてくる。
絞められながら、俺は三段目をほどいた。
四回目である。
夜になって、佳樹が風呂の湯を見に立った。
こたつには、俺と、監督だけが残った。
テレビでは、去年の総集編みたいなものが流れていた。
去年の総集編に、俺の去年は、一秒も映っていない。
「ぬ、温水」
「うん」
「な、なんで、あ、編むの」
「……なんでって」
「か、買えば、い、いいのに。も、もっと、い、いいのが、う、売ってる」
編み棒が、止まった。
止まった理由を、うまく言葉にできなかった。
「……もらったから」
「う、うん」
「もらったものの、返し方が、わからなくて」
「か、買っても、か、返せる」
「買うと、たぶん、届かないんだ」
「ど、どこに」
「……どこだろうな」
小鞠は、しばらく黙っていた。
黙ったまま、ノートに一行、書いた。
「書くな」
「い、いま、い、いいこと、い、言った」
「言ってない」
「い、言った。……わ、私なら、そ、そう書く」
書く人の「そう書く」は、たぶん、最上級の相槌である。
最上級の相槌を、俺は十六年ぶりにもらった。
もらったので、四段目を編んだ。
風呂から戻ってきた師範が、みかんを俺の手元に置いた。
置かれたみかんは、監督が食べた。
「兄は手が塞がっていますので」
「代わりに剥いてくれてもいいんだぞ」
「か、監督は、げ、現場に、て、手を出さない」
「主義か」
「し、主義」
主義らしい。
主義の人は、二つ目のみかんにも手を伸ばした。
「そういえばお兄様。高校のとき、プレゼントの受け取り方をお教えしたのは、私です」
「覚えてる」
「今度は、お渡しになる側の特訓ですね。感慨深いです」
「師範は黙っててくれ」
「あのときの台本、お役に立ちましたか」
「……立った」
「何点くらい」
「非公開だ」
「た、台本?」
「監督には関係ない」
「た、高校のとき、あ、あんたが、や、やたら、て、丁寧に、お、お礼、い、言ってた……あ、あれ」
「なんで小鞠が現場にいたことになってるんだ」
「ぶ、部室で、れ、練習、し、してた」
「見てたのか」
「み、見てた。……き、気持ち悪かった」
「言うなよ」
「い、言う。じゅ、十六年、が、我慢したから」
我慢の在庫が、こちらにもあったらしい。
妹の台本は、十六年かけて実話になった。
今度のこれも、なってくれると、遭難している指が少しは報われる。
元日の夜と、二日の朝と、二日の夜。
こたつで、男が一人、無言で編み棒を動かし続ける正月だった。
気づけば、一日六段どころではないペースで編んでいた。
一日六段、と決めて三週間続けた誰かの、工程管理の気持ちが、少しだけ分かった。
分かったところで、深夜、師範に止められた。
「お兄様。二十三時を過ぎました」
「あと二段」
「意地になっておられますね」
「なってない」
「なっておられます。……よいことです」
よいことらしい。
よいことなので、二段編んで、もう二段編んだ。
二日の夜遅く、それは完成した。
完成した瞬間、佳樹が拍手をした。
「完走、おめでとうございます。総遭難回数、五回でした」
「数えてたのか」
「か、監督が」
「監督が数えてたのか」
「か、書いた」
「書くな」
五回の遭難と、二枚の絆創膏と、二晩ぶんの深夜の成果である。
赤い毛糸の、シュシュである。
小さくて、少しだけ形が不揃いで、三段目に、ほどいて編み直した跡がある。
完成品を手の上に載せて、俺はしばらく黙っていた。
二日前の俺は、これを編めなかった。
二日たっても、まだ、うまくは編めない。
うまくないものが、それでも、形になって手の上にある。
工程管理をした人が、三週間、毎晩見ていたものは、たぶんこれである。
小鞠が、それを手に取って、電灯にかざした。
「……し、初めてにしては、じょ、上出来」
「そう?」
「じょ、上出来だけど、ぶ、不格好」
「どっちだよ」
「り、両方」
小鞠は、シュシュを俺の手に戻した。
「で、でも、ぶ、不格好な、ほ、ほうが、い、いい」
「なんでだよ」
「か、買ったんじゃないって、ひ、一目で、わ、分かるから」
「…………」
「わ、私なら、そ、そう書く」
物語を書く人間は、たまに、核心だけ置いてみかんに戻る。
「師範として、講評を申し上げます」
「どうぞ」
「合格です。……ただし、一点」
「なに」
「お渡しになる際、高校でお教えした台本は、使わないでください」
「なんでだ」
「あれは、受け取る側の台本です。渡す側に、台本はありません」
「じゃあ、どうしろって」
「黙っていてください」
「黙る」
「相手の方が、何かおっしゃるまで」
「そ、それ、わ、私も、そ、そう思います」
「監督と師範の意見が、一致した」
「い、一致した」
「珍しいことです」
珍しい一致を、俺は一応、頭に入れておいた。
入れておいたのに、三日後に破ることになるとは、このときは思っていない。
二十三時過ぎ、小鞠が帰り支度を始めた。
「か、監督、しゅ、終了」
「助かった。……ありがとう」
「べ、別に。……ね、ネタに、な、なったし」
「するなよ」
「す、する。……あ、あとがきに、か、書く」
「やめろ」
「じゅ、十六年ぶりに、と、友達が、こ、こたつで、あ、編み物してた、って」
「事実だけど、書くな」
「じ、事実って言えば、す、済むと思ってる」
「それ、誰かが言ってたな」
「い、言ってた」
言っていた。
二日前に、この人の目の前で、堂々と。
小鞠は玄関で靴を履きながら、こちらを見ずに言った。
「ぬ、温水」
「うん」
「……こ、今度は、ち、ちゃんと、わ、渡しなよ」
「今度って」
「じゅ、十六年、お、遅れないで」
「……うん」
「じゃ、じゃあね。よ、良いお年……あ、も、もう、あ、明けてた」
「明けてる」
「あ、明けまして、お、おめでとう」
「二回目だぞ、それ」
「に、二回言うと、ほ、本当になる」
「三回じゃなかったっけ」
「じゅ、十六年ぶんで、わ、割引」
割引が効くらしい。
小さい背中が、正月二日の夜道に消えていった。
消えるまで、俺は玄関に立っていた。
大晦日にも、同じことをした気がする。
二回続けて見送れた、というだけの話だが、二回目のほうが、少しだけ楽だった。
楽になった理由は、たぶん、次があると分かっているからである。
十六年前の春に、俺が自分から潰したのが、その「次がある」という前提だった。
潰したものは、二日と、四十分と、こたつ一台で、わりとあっさり戻ってきた。
あっさり戻ってきたぶん、戻さなかった十六年のほうが、よけいに間抜けに見える。
居間に戻ると、佳樹が缶を仕舞うところだった。
十六年前の靴下の、缶である。
「お兄様」
「なに」
「本日の作業で、佳樹は一つ、確信を得ました」
「聞きたくない」
「この缶は、まだ捨てません」
「捨てなさい」
「十月十日といいますので」
「今日の作業と何の関係もないだろ」
「関係の深さの話です」
妹の関係図では、シュシュと靴下が、一本の線でつながっているらしい。
その線の長さについては、考えないことにした。
俺の指先には、絆創膏が二枚、貼ってあった。
一月三日、土曜日、午前十時十分。
豊橋駅の新幹線ホームに、彼女は先に立っていた。
「十時ちょうどから居ります」
「知ってた」
「聞く前に答える運用を、継続しています」
コートに赤いマフラー、キャリーケース、そして紙袋が、来たときより一つ増えていた。
「復路の駅弁資料は」
「作っていませんっ」
即答だった。
「……三が日は、資料を休みましたので」
「いい休み方だ」
「褒めないでくださいっ。癖になるので」
資料を休んだことを申告してくる人は、資料を休めていない気もするが、指摘はしなかった。
「荷物、増えたね」
「実家から、持たされました。梅干しと、白菜と、あと言いたくないものが少々」
「言いたくないもの」
「……お見合い写真の、コピーですっ」
言いたくないと言いながら、聞く前に言った。
「三年ぶりに帰った娘に、母が用意していたものが、それでした」
「……『あら』の中身、聞けたんだ」
「聞きたくない形で聞きましたっ!」
沸点が、正月明けも通常運転だった。
「で、写真は」
「受け取りだけしました。受け取らないと、話が三時間になるので」
「見たの」
「見ていませんっ。見ませんっ。……なんで少し声が硬いんですか」
「硬くないよ」
「硬いですっ」
硬かったかもしれない。
硬かった理由は、分析しないことにした。
分析すると、たぶん、九百八十円では済まなくなる。
「処分方法は、検討中です」
「持って帰ってきたんだ」
「置いてくると、母が『預かっているだけ』と主張し続けるので。手元で管理します」
「管理して、どうするの」
「東京で、適切に処理しますっ」
適切な処理の内容は、聞かないことにした。
聞かなくても、シュレッダーの音が聞こえた気がした。
上りのこだまは、定刻に発車した。
座席に着くなり、彼女が言った。
「復路は、私が窓側です」
「どうぞ」
「……交代制は、公平の基本ですので」
「誰も文句言ってないよ」
「先に根拠を示しただけですっ」
根拠つきで窓側に座った人は、浜松の手前から、もう富士山の方角を気にしていた。
まだ見えるわけがない方角を、である。
「往路は、寝ていて半分見逃したので」
「見てたよ、ちゃんと。視認って言ってた」
「後半を見逃しましたっ。本日は完全視認を目指します」
富士山に対しても、この人は工程を組む。
掛川を過ぎたあたりで、俺は鞄から、包みを二つ出した。
「馬剃さん」
「はい」
「まず、これ。妹から」
一つ目の包みを渡す。
「妹さんから?」
「羊羹のお礼だって。親の代理で選んだって言ってた。開けていいよ」
包みの中身は、ちくわだった。
豊橋の、ちゃんとしたちくわである。
「……羊羹のお返しが、ちくわ」
「うん」
「格が違いませんかっ」
「豊橋では等価だよ」
「その理論は……っ」
彼女は、反論しかけて、止まった。
止まって、ちくわの包みを見て、悔しそうに言った。
「……一理あります」
豊橋の人間は、ちくわの格を知っているのである。
彼女は包みの端を少し開けて、中を確認した。
「……このちくわ、駅の近くの」
「よく分かるね」
「豊橋人ですので」
胸を張った。
張るところが、いちいち豊橋だった。
「妹が、『お相手によろしく』って」
「お、お相手っ」
「訂正はしといた。同僚だって」
「……訂正、通りましたか」
「『承知しました』って言われた」
「通っていませんね、それは」
「通ってない。うちの妹の『承知しました』は、受理じゃなくて、記録なんだ」
「……こちらの家庭では、『あら』が同じ役割を果たします」
「どこの家庭にも一つはあるんだな、そういう語」
「ありますっ。……不本意ですが」
不本意な語を共有できる相手というのは、意外と貴重である。
訂正が通らない家に生まれた者同士にしか、通じない話がある。
「それで、こっちが本題」
俺は、二つ目の包みを出した。
白い紙袋である。
持ち手は、揃えて折ってある。誰かの様式の、見よう見まねである。
「渡す前に、申告があります」
彼女の目が、丸くなった。
「九百八十円です」
「な……っ」
「材料費の、です」
「様式の無断使用ですっ!」
「準用したんだよ。心の中で」
「準用は私の……っ、それも私のですっ!」
「今日は全部、返却する日なんだ」
彼女は、口を開けて、閉じて、それから、紙袋を両手で受け取った。
缶コーヒーの持ち方だった。
「……開けても、いいですか」
「どうぞ。できれば、その場で」
「その場で」
「感想を、その場で聞きたいから」
「それも私の……っ!」
言いながら、彼女の手は、もう包みを開けていた。
薄紙の中から、赤い毛糸のシュシュが出てきた。
小さくて、少し不格好で、三段目に編み直しの跡があるやつである。
彼女が、動かなくなった。
動かない横で、俺は、待った。
黙っていてください、相手の方が何かおっしゃるまで。
師範と監督の、唯一一致した指示である。
守れたのは、十秒だった。
「……編んだの、俺」
シュシュを持ったまま、彼女の目が、ゆっくり上がった。
俺の顔ではなく、俺の指先で止まった。
絆創膏、二枚。
「……指」
「紙で切った」
「…………」
彼女は、絆創膏を三秒見て、それから、小さく言った。
「……私も、十二月に、そう言いました」
「知ってる」
「嘘だと、分かっていましたか」
「紙で二枚は切らないよ」
「……あなたも、切っていませんよね」
「切ってない」
お互いの嘘が、同じ文面で、時間差で並んだ。
並んだ嘘を、どちらも訂正しなかった。
訂正しなくていい嘘というのが、世の中には、たまにある。
「検品、しますか」
俺が言うと、彼女は、我に返ったように姿勢を正した。
シュシュを両手で持って、窓の光にかざして、編み目を端から確認していく。
検品する側に回った横顔は、真剣だった。
「……三段目が、緩いです」
「そこ、三回ほどいて編み直したんだ。初心者に厳しくない?」
「三回」
「師範と監督が厳しくてね」
「師範と、監督」
「師範が、妹」
「妹さんが……」
「監督が、小鞠」
彼女の手が、止まった。
止まって、〇・五秒後に、跳ねた。
「く、久遠うさぎ先生がっ!?」
「声」
「先生が、監督をっ!? あの、雨の停電の章をお書きになった先生がっ、毛糸のっ!?」
「そこ結びつけるんだ」
「結びつきますっ! 同一人物ですのでっ!」
同一人物ではあるが、章と毛糸のあいだには、まだ距離があると思う。
「……あの、では、先生は、ご存じなんですか。その、これを、どなたに」
「言ってない」
「言っていないんですか」
「言ってない。……書かれたけど」
「書かれ……!?」
「ノートに」
「作家先生の一次資料になっているじゃないですかっ!」
彼女は、両手で顔を扇いで、それから、姿勢を正し直した。
正した姿勢のまま、耳だけが、真っ赤だった。
「基準は、曲げませんっ。……ですが」
彼女は、シュシュを膝の上に置いて、両手で軽く包んだ。
「大合格です」
「大合格」
「合格の上の等級です。いま作りました」
等級を作られた。
作られた等級の第一号が、この不格好な赤である。
「なんで、赤なんですか」
彼女が、聞いた。
聞かれると思っていた。
「……似合うと思ったから」
「なっ……それは、私のっ」
「返却だって言ったろ」
「か、返却の範囲が広すぎますっ!」
広くて悪かった。
悪かったが、後悔はしていない。
「使う場所は、指定しないよ。そっちの様式は、真似しないでおく」
「……」
「ただ、その、あれだ。休みの日、髪が少しゆるいときがあるから。そういう日に、もし」
「……見て、いたんですか」
「見えただけ」
「見えただけで、覚えているんですかっ」
「覚えてただけ」
彼女は、何かを言いかけて、やめた。
やめて、膝の上の赤を、しばらく見ていた。
見てから、姿勢を正した。
「温水さん。一点、確認事項があります」
「うん」
「検品には、試着が含まれます」
「含まれるんだ」
「含まれますっ。……寸法の適合を実物で確認しない検品は、検品ではありませんので」
根拠が、二秒で出てきた。
この人は、やりたいことを見つけたとき、先に根拠を建てる。
建ててから、やる。
順番が逆な気もするが、本人の中では、たぶん正しい。
「じゃあ、どうぞ」
「……はい」
返事のわりに、手は動かなかった。
動かないまま、五秒たった。
「あの」
「うん」
「……こちらを、見ないでいただけますか」
「見ない」
「三十秒です」
「三十秒」
「三十秒で、完了しますので」
俺は、通路側を向いた。
通路の向こうの窓に、茶畑が流れていた。
隣で、ゴムを外す音がした。
それから、髪が落ちる、ほとんど音のしない音がした。
音のしない音を聞き取っている自分に気づいて、俺は茶畑の畝を数えることにした。
数えはじめて三畝で、時速二百キロが畝を消した。
「……完了しました」
二十二秒だった。
申告より、八秒早い。
この人は、こういうところでも前倒しをする。
振り返って、俺は、振り返ったことを後悔した。
いつものひっつめではなかった。
低い位置で、ゆるくまとめられていて、その根元に、赤があった。
三段目が緩くて、形の少し不揃いな、九百八十円である。
それが一つあるだけで、首から上の情報量が、二倍になっていた。
まとめる位置が低いぶん、首筋が見えていた。
見えている場所に、小さいホクロが一つある。
十六年前と、同じ場所である。
俺は、〇・五秒でそこから目を離した。
離せた自分を、あとで褒めてやろうと思った。
この人の髪がほどけたところを見るのは、これで三回目である。
一回目は八月二十九日、二回目は九月十七日の病室。
数えている時点で、こちらの負けはもう決まっている。
「……どう、ですか」
声が、いつもの二割小さかった。
「どうって」
「……に、似合い、ますか」
これは、ギャルゲーなら選択肢が出る場面である。
三つのうち二つが地雷で、一つだけが正解の、あの画面である。
――出なかった。
出なかったので、俺は、自分の口から出たものを、そのまま聞くことになった。
「似合う」
「……っ」
「思ったより、似合う」
「思ったよりっ!?」
「褒めてる」
「褒め方に、改善の余地がありますっ!」
「うん」
「うんじゃなくてっ、改善してくださいっ」
改善を求められた。
求められたので、改善した。
「訂正する。思ったより、じゃない」
「……はい」
「……編みながら、想像してたとおりだった」
彼女の口が、開いた。
開いたまま、何も出てこなかった。
出てこないかわりに、耳から頬へ、赤が順番に上がっていった。
三段階くらいに分かれて上がったので、途中経過が全部見えてしまった。
「……そ、そういうことを」
「うん」
「そういうことをっ、車内で、おっしゃらないでくださいっ!」
「小声だよ」
「小声でも、届きますっ! 距離が、四十センチしかありませんのでっ!」
「測ったの」
「測っていませんっ! ……ざ、座席の規格ですっ!」
「規格に助けられてるね」
「助けられていませんっ!」
助けられていた。
規格がなければ、この人はいま、何一つ言い訳ができていない。
彼女は両手で頬を押さえて、その手のまま、窓のほうを向いた。
向いた先に、ちょうど、富士山が出た。
「……富士山、視認しました」
声が、少し湿っていた。
湿っていることには、触れなかった。
完全視認の工程は、たぶん、いま少し狂っている。
狂った工程を、この人は今日だけは、直さない気がした。
かわりに、俺も窓の外を見た。
復路の富士山は、往路より、少しだけ大きく見えた。
気のせいだと思う。
気のせいでいいと思う。
新横浜を過ぎたころ、彼女はもう一度、髪をほどいた。
ほどいて、いつものひっつめに戻して、シュシュを両手で持った。
「戻すんだ」
「試着は、終了しましたので」
「似合ってたのに」
「そ、そういうことをっ……」
「はい」
「……使用開始日は、別に定めます」
「それも定めるんだ」
「定めますっ。装備の運用規程は、所有者が決めるものですので」
所有者、と言った。
いただいたもの、でも、お預かりしたもの、でもなく。
言い方が一つ変わるだけで、こちらの胸のあたりが、少し忙しくなる。
忙しくなった理由は、分析しないことにした。
今日は、分析しないことにした項目が、多すぎる。
東京駅には、定刻に着いた。
ホームに降りると、都会の乾いた冷気が、豊橋よりも尖っていた。
改札を出て、乗り換えの分岐で、立ち止まる。
四日前、ここで待ち合わせたときは、まだ往路だった。
同じ場所が、もう帰り道の途中になっている。
四日間というのは、場所の意味を変えるくらいの長さらしい。
「では、温水さん」
「うん」
「月曜から、また、よろしくお願いします」
「よろしく。……それと、月曜の週の話だけど」
「はい」
「十六日の金曜、十六時から。時計、よろしく」
「百十四個ですね。承知しています」
共通テスト前日の、時計の総点検である。
十二月に決めた約束が、年をまたいで、二人の次の予定になっていた。
業務の約束なのに、少しだけ、業務でない顔をしている予定である。
「あのさ」
「はい」
「往復とも、ありがとう。手配」
「二千百三十円、二回ぶんですので」
「金額の話じゃなくて」
「……存じております」
存じております、が、いつもより二割やわらかかった。
彼女は三十度の礼をして、それから、少しだけ迷って、言った。
「シュシュは」
「うん」
「大切に、しますので」
そう言って、彼女はシュシュを、鞄ではなく、コートの内ポケットに入れた。
鞄より、近い場所である。
場所の選択については、何も言わなかった。
使います、ではなかった。
大切にします、だった。
その差分については、分析しないことにした。
分析しなくても、分かる差分というのも、あるのである。
「よい残り二日を」
「よい残り二日を」
人混みの中に、赤いマフラーが遠ざかっていく。
遠ざかる途中で、一度だけ、彼女の手がコートの胸元に触れた。
内ポケットの位置である。
確認したのだと思う。
落としていないかどうかの、ただの確認だと思う。
思うことにして、俺は、見えなくなる三秒前まで見てから、反対のホームに向かった。
アパートに帰って、荷物を解いた。
実家から持たされた米と、みかんと、佳樹の追加のちくわ。
スマートフォンが、二回鳴った。
一件目は、佳樹からである。
『お兄様、無事にお渡しできましたか』
『渡した』
『先方のご反応を、五段階で』
『非公開だ』
『では、五ですね』
『なんでだ』
『非公開とおっしゃるときのお兄様は、満点のときです』
妹の採点基準に、俺の様式が組み込まれている。
二件目は、監督からだった。
『ど、どうだった』
『非公開だ』
『……じゃあ、か、書く』
『書くな』
『か、感想は、な、長文で。ぶ、文芸部だから』
感想を要求される側になるとは、思っていなかった。
返信は、しなかった。
しないことが、答えになっている気もしたが、両方とも既読のまま逃げた。
鞄の底に、赤い毛糸の余りが、少しだけ残っていた。
九百八十円の一玉は、シュシュ一つを編んでも、まだ半分以上あった。
半分以上あるということは、まだ何か編める、ということである。
編めるかどうかは、俺の腕の問題ではなく、たぶん、来年の冬の問題である。
捨てなかった。
理由は、説明しない。
説明しないものが、うちの棚には、また一つ増えた。
玄関のフックには、緑が一本。
高校のときのやつは、まだ、修繕の出張から帰っていない。
帰ってくる日は、一月十六日と指定されている。
時計の点検と、同じ日である。
指定の理由は、聞いていない。
聞かなくても、あの人の工程表のどこかに、根拠の欄があるのだと思う。
月曜から、また一年でいちばん忙しい三か月が始まる。
始まる前の夜に、俺は、月曜の彼女の髪型のことを、少しだけ考えた。
考えた理由は、説明しない。
しないが、楽しみであることだけは、否定しないでおく。