大学職員の僕たち   作:房吉

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~26敗目・裏~ 実価値算定不能

(同時期/馬剃視点)

 

 一月一日、実家。

 

 到着から三十分で、私は茶封筒を渡された。

 

 厚みで、中身の見当がついた。

 

 三年ぶりに帰った娘のために、三年ぶんが用意されていたのである。

 

 お見合い写真である。

 

 私は「預かるだけです」とだけ申し上げて、二階に上がった。

 

 受け取らないと、話が三時間になる家系である。

 

 上がってから、封筒は開けずに、鞄の底に入れた。

 

 開けない理由を、私は自分で分かっていた。

 

 分かっているものを、正月の午前中から言語化する必要は、ない。

 

 鞄の底のほうが保管条件として適切である、という整理を、私は三秒で作った。

 

 三秒で作った整理は、たいてい、整理ではない。

 

 

 

 

 午後、貴司の一家が来た。

 

 三年前、下の子に「知らない人」と泣かれた私は、今年、対策を立ててきた。

 

 二人が好きなアニメを、十二話まで視聴済みである。

 

 結果を報告する。

 

 下の子は、泣かなかった。

 

 泣かないどころか、三十六番目の必殺技の話で、四十分持った。

 

 上の子には「詳しすぎて怖い」と言われた。

 

 調査は、時に、やりすぎるのである。

 

 帰り際、貴司が言った。

 

「姉ちゃん、なんか変わった?」

 

「変わってません」

 

「そう? 前より、その、普通になった」

 

「普通で悪かったですね」

 

「褒めてんだよ」

 

「褒め方を勉強してください」

 

「姉ちゃんにだけは言われたくない」

 

 正論だった。

 

 弟に普通と言われて腹が立たなかったのは、たぶん、褒められていることが分かったからである。

 

 普通、というのは、私が十六年、なりたかったものの一つだった。

 

 

 

 

 二十一時、電話が鳴った。

 

 画面に『志喜屋先輩』と出ていた。

 

 月に一回の電話は、十二月にもう済んでいる。

 

 済んでいるのに、鳴った。

 

 この方が二回鳴らすときは、済んでいない用件があるときである。

 

「はい、馬剃です」

 

「……あけまして……」

 

「おめでとうございます」

 

「……よかった…… つづき……わからなかった……」

 

「毎年おっしゃっていますよね、それ」

 

「……うん……」

 

 この方は十六年、同じ場所で言葉を落とす。

 

「……あした……」

 

「はい」

 

「……あえる……?」

 

「明日、ですか」

 

「……三人で……」

 

「三人」

 

「……会長には……もう……言った……」

 

「順番がっ!」

 

「……じゅんばん……?」

 

「私の返事より先に、会長へご連絡なさっていますよねっ!」

 

「……したら……断るでしょ……」

 

「……断りません」

 

「……嘘……」

 

 嘘であった。

 

 断ろうとしていた。

 

 断ろうとした自分を、私は毎回、この方に先回りされる。

 

 十六年、この方は私に、断る機会を与えない。

 

 与えられないことに文句を言い続けている自分が、そのぶん楽をしているのも、私は知っている。

 

「……時間と場所を、伺えますか」

 

「……十四時…… 駅の……ちかく…… 会長が……きめた……」

 

「会長が」

 

「……ロボットのいる店……」

 

 嫌な予感がした。

 

 予感は、翌日、十四時七分に的中する。

 

 

 

 

 一月二日、十三時三十分。

 

 私は指定されたファミリーレストランに、三十分前に着いた。

 

 三十分前行動である。

 

 着いてみると、先客が一名いた。

 

 背が高い。

 

 姿勢が、十六年前と一ミリも変わっていない。

 

 紺のコートを椅子の背に掛けて、水の入ったグラスを両手で持っている。

 

 持たれているグラスに、ひびが入っていた。

 

「放虎原先輩」

 

「馬剃君」

 

 名字で呼ばれた。

 

 この方は昔から、私を名字で呼ぶ。

 

 十六年ぶりの「馬剃君」は、思っていたより、ちゃんと私に届いた。

 

「お久しぶりです。……そのグラスは」

 

「割れていた」

 

「いま割れましたね」

 

「元から入っていたひびが、育っただけだ」

 

「育ちませんっ、ガラスはっ」

 

「そうか」

 

 そうか、で全部が終わった。

 

 終わらせてから、この方は店員さんを呼んで、丁寧に謝罪し、代金を申し出て、断られていた。

 

 十六年前と、完全に同じ手順である。

 

「まずは、これを」

 

 名刺が出てきた。

 

 県立高校、教諭、陸上競技部顧問。

 

 私は反射で名刺入れを開き、開いてから、本日が正月であることを思い出した。

 

「……申し訳ありません、本日は所持しておりません」

 

「正月に名刺を持ち歩く人間がいたら、私は心配する」

 

「持ち歩いております。……本日は、鞄が違うだけです」

 

「持っているんじゃないか」

 

「所持と携帯は、別の概念ですっ」

 

「相変わらずだな」

 

 相変わらず、と言われた。

 

 言われて、胸の奥が、ふ、と軽くなった。

 

 十六年ぶりに会った人に相変わらずと言われるのは、たぶん、褒め言葉である。

 

 褒め言葉として受領しておくことにした。

 

「御校の進路指導室に、弊学の資料は届いておりますでしょうか」

 

「馬剃君」

 

「はい」

 

「今日は、仕事の話は禁止だ」

 

「……禁止が早すぎませんか」

 

「先手を打った。君は放っておくと、大学案内を出す」

 

 出すつもりだった。

 

 鞄に、三部入っている。

 

 

 

 

 十四時七分、志喜屋先輩が来た。

 

 入口から席までの二十メートルを、一分半かけて歩いてきた。

 

「……さむい……」

 

「一月ですので」

 

「……しんだ……」

 

「生きておられます」

 

「……いま……しんだ……」

 

「生きておられますっ」

 

 この方は気温が十二度を下回ると、動作が三割落ちる。

 

 本日の豊橋の最高気温は、九度である。

 

 三割では済まない。

 

 私はドリンクバーに立って、ホットミルクティーと、自分の紅茶を作って戻った。

 

 置いた瞬間、志喜屋先輩の両手が、ミルクティーのカップを包んだ。

 

「……天愛星ちゃん……」

 

「はい」

 

「……おぼえてた……」

 

「十六年、同じものしか召し上がりませんので」

 

「……えらい……」

 

 えらい、と言われた。

 

 十六年、同じボタンを押しているだけである。

 

 押しているだけのことを、この方は毎回、えらい、と言う。

 

 言われるたびに、私は次の一年も同じボタンを押す。

 

 構造としては、単純すぎる。

 

 単純なので、十六年もった。

 

 カップを包んだまま、志喜屋先輩の左手が動いた。

 

 テーブルの下を通って、私の背中のほうへ、である。

 

「阻止しますっ!」

 

 私は椅子ごと三十センチ下がった。

 

「……はやい……」

 

「十六年、備えてまいりましたのでっ」

 

「……せいちょう……」

 

「褒めていませんよねそれっ!」

 

「……ほめてる……」

 

「褒め方に、重大な問題がありますっ!」

 

「馬剃君。志喜屋も、正月くらいは大目に見てやりたまえ」

 

「先輩は、いつも大目に見すぎですっ!」

 

「そうか。……しかし、私は嬉しいぞ」

 

「なにがですか」

 

「十六年たっても、二人が続いていることがだ」

 

 

 

 

 紅茶が、喉の途中で止まった。

 

 

 

 

「続いておりませんっ!」

 

「隠さなくてもいい」

 

「隠していませんっ! 始まってすらおりませんっ!」

 

「私は、二人の嗜好を尊重している」

 

「尊重の対象が存在しませんっ!」

 

「うむ」

 

 うむ、が出た。

 

 この方の「うむ」は、了解ではない。

 

 記録でもない。

 

 議事録に残らないまま、原案どおり可決される、あの音である。

 

 十六年前から、私はこの音に一度も勝てていない。

 

「志喜屋先輩っ、先輩からも訂正をっ」

 

「……うん……」

 

「うん、ではなくっ」

 

「……ながいこと……いってない……」

 

「なぜですかっ」

 

「……たのしいから……」

 

「先輩っ!」

 

 十六年分の誤解の原因が、たったいま、判明した。

 

 判明したところで、訂正が通らないのが、この卓である。

 

 

 

 

 注文が来て、話は近況になった。

 

 近況は、三分で尽きた。

 

 尽きた三分の先で、私は自分から、鞄の底の封筒を出した。

 

 出した理由は、いまでも分からない。

 

 分からないが、この卓でなら出せる、と思ったのだと思う。

 

「これは」

 

「……お見合い写真です」

 

「ほう」

 

「昨日、実家で渡されました」

 

「見たのか」

 

「見ておりませんっ」

 

「では、見よう」

 

「なぜですかっ」

 

 放虎原先輩は、封を丁寧に開けた。

 

 丁寧に開けて、中身を一枚ずつ、真剣に検分しはじめた。

 

 真剣であった。

 

 真剣であることが、いちばん困った。

 

「……この方は、走りそうだな」

 

「走りませんっ、写真ですっ」

 

「腸腰筋がいい」

 

「どこをご覧になっているんですかっ」

 

「私は人を見るとき、まず走れるかどうかを見る」

 

「見ないでくださいっ、そこはっ」

 

 志喜屋先輩が、写真を一枚だけ、指で引き寄せた。

 

 引き寄せて、三秒見て、戻した。

 

「……ちがう……」

 

「……何がですか」

 

「……天愛星ちゃんの……すきなかたち……じゃない……」

 

「そういう情報を、お持ちにならないでくださいっ!」

 

「……もってる……」

 

 持っているらしい。

 

 十六年、月に一回、私はこの方に何を喋ってきたのか。

 

 電話の議事録を、いまさら開示請求したい気分になった。

 

 放虎原先輩が、写真を封筒に戻した。

 

 戻して、封をきちんと折り直してから、私のほうへ滑らせた。

 

「馬剃君。これは、君が決めることだ」

 

「……はい」

 

「私は、君が決めたことなら、何でも支持する」

 

「……はい」

 

「ただし、決めていないことを、決めたことにするのは、やめたまえ」

 

 

 

 

 グラスの水面が、揺れた。

 

 揺らしたのは、私の手である。

 

 

 

 

「……天愛星ちゃん……」

 

「はい」

 

 

 

 

「……いい人……いるの……?」

 

 

 

 

 答えられなかった。

 

 います、とは言えない。

 

 事実ではないからである。

 

 事実ではないことが、こんなに悔しいのは、生まれて初めてだった。

 

 いません、とも言えない。

 

 こちらは、嘘だからである。

 

 私は公文書に嘘を書いたことがない。

 

 書いたことがないので、口頭でも、書けない。

 

 結果として、私は黙った。

 

 黙るというのは、私の様式では、最大級の情報開示である。

 

「……そう……」

 

 志喜屋先輩は、それだけ言った。

 

 言ってから、ミルクティーを一口飲んだ。

 

「……いるけど……」

 

 喉が、鳴った。

 

「……まだ……じぶんのじゃない……」

 

 

 

 

 胸の真ん中を、正確に貫かれた。

 

 

 

 

 どく、と心臓が一つ、痛いくらいに鳴った。

 

 鳴った音が、耳の奥まで届いた。

 

 この方は十六年前からそうである。

 

 誰も言語化していないものに、いちばん短い言葉で名前をつける。

 

 つけられた名前は、取り消せない。

 

「……先輩」

 

「……なに……」

 

「……その、透視を、おやめくださいっ」

 

「……とうし……?」

 

「見えているじゃないですかっ!」

 

「……みえてない……」

 

「見えていますっ!」

 

「……天愛星ちゃんの顔に……かいてある……」

 

「書いていませんっ!」

 

 書いてあった。

 

 顔に書いてあるものを消す技術を、私は十六年、一度も習得できていない。

 

「志喜屋。馬剃君が困っている」

 

「……こまってる顔……すき……」

 

「先輩っ!」

 

 

 

 

 放虎原先輩が、コーヒーカップを置いた。

 

 置いた音が、思ったより大きかった。

 

 カップの取っ手が、取れていた。

 

「……先輩」

 

「これは元からだ」

 

「元からではありませんっ」

 

 この方の周囲では、器物が定期的に短命を迎える。

 

 迎えるたびに、この方は元からだと言い張る。

 

 言い張るところまで含めて、十六年、変わっていない。

 

「馬剃君。一つ、白状することがある」

 

「白状」

 

「私は十年ほど前から、志喜屋に君のことを聞いていた」

 

 

 

 

 私は、顔を上げた。

 

 

 

 

「電話をするたびに、馬剃君はどうしているか、と聞いていた」

 

「……なぜ、私に直接」

 

「君は、心配されるのを嫌うだろう」

 

「……嫌いません」

 

「嘘だな」

 

「……嘘です」

 

 即答した。

 

 即答したあとで、目の奥が、じわりと熱くなった。

 

「文科省を辞めたと聞いたときは、電話をかけようとした」

 

「……かけて、くださればよかったのに」

 

「三回かけようとして、三回やめた」

 

「三回」

 

「君がまだ、誰にも言っていない時期だったからだ」

 

 

 

 

 私は、テーブルの木目を見た。

 

 

 

 

 あの一年半、私は誰にも言わなかった。

 

 言わなかったことをこの方は知っていて、知ったうえで、待っていた。

 

 待たれていたことを、私はいま、十六年ぶりの卓で、初めて聞かされている。

 

「……先輩」

 

「なんだ」

 

「……ずるいです」

 

「そうか」

 

「そうか、で終わらせないでくださいっ」

 

「うむ」

 

 うむ、が出た。

 

 私の抗議は今日も、可決されずに、原案どおり通っていった。

 

 

 

 

 十六時、店を出た。

 

 外は九度だった。

 

 志喜屋先輩は、出て三歩で、動作がさらに二割落ちた。

 

 落ちた歩幅に合わせて、私たちは駅まで、ゆっくり歩いた。

 

「……天愛星ちゃん……」

 

「はい」

 

「……しばらく……でんわ……できない……」

 

「なぜですか」

 

「……とおいから……」

 

「どちらがですか」

 

「……ないしょ……」

 

 内緒であった。

 

 内緒にされると、私は聞き返せない。

 

 この方の内緒は、たいてい、あとから重い意味を持って戻ってくる。

 

 戻ってくるまで、私はそれを手帳に書けない。

 

 書けないものが、この冬、少しずつ増えている。

 

「馬剃君。また会おう」

 

「……はい」

 

「次は、十六年空けるな」

 

「空けませんっ」

 

「うむ」

 

 最後の「うむ」だけは、ありがたく可決された。

 

 改札で二人と別れて、私は一人になった。

 

 一人になってから、耳の奥に、まだあの一言が残っていた。

 

 いるけど、まだ、じぶんのじゃない。

 

 読点を除いて、十四文字である。

 

 数えてしまったので、たぶん、一生忘れない。

 

 忘れないものを、私は手帳に書かなかった。

 

 書くと、事実として確定してしまうからである。

 

 確定していないことにしておきたい項目が、この冬、一つだけある。

 

 

 

 

 一月三日、九時五十分。

 

 私は豊橋駅の新幹線ホームに立っていた。

 

 集合は十時十分である。

 

 二十分前は、三十分前行動の私としては、むしろ遅刻に近い。

 

 遅れた理由は、家を出る直前まで、鞄に入れるものを迷っていたからである。

 

 迷っていたのは、お見合い写真の封筒だった。

 

 実家に置いていくか、持って帰るか。

 

 置いていくと、母が「預かっているだけ」と言い続ける。

 

 持って帰ると、処分の決定権が私に来る。

 

 決定権は、自分で持つ主義である。

 

 昨日、あの卓で、封は一度開けられている。

 

 開けられたうえで、封筒は私のほうへ戻ってきた。

 

 戻ってきたものの処分先は、所有者が決める。

 

 封筒を鞄の底に入れて、私は家を出た。

 

 ……車中で、この封筒の存在を白状することになるとは、このときは思っていなかった。

 

 白状したのは、聞かれたからではない。

 

 言いたくないもの、と自分から言った。

 

 言いたくないなら黙っていればいいのに、あの人の前だと、私の申告制度は自動で作動するのである。

 

 制度の欠陥だと思う。

 

 欠陥の修正予定は、ない。

 

 

 

 

 十時十分、彼がホームに来た。

 

 鞄のほかに、紙袋を提げていた。

 

 紙袋の中身の予感は、なかった。

 

 なかった、と記録しておく。

 

 予感があったと記録すると、あの十秒の破壊力の説明がつかなくなるからである。

 

 掛川を過ぎたあたりで、彼が包みを二つ出した。

 

 一つ目は、妹さんからのちくわだった。

 

 羊羹のお返しが、ちくわ。

 

 格が違う、と抗議しかけて、私は豊橋人としての己に負けた。

 

 あのちくわは、格が違わないのである。

 

 駅の近くの、あの店のである。

 

 悔しいが、一理あるどころか、二理くらいある。

 

「妹が、『お相手によろしく』って」

 

 お相手。

 

 訂正は「承知しました」で記録されたと聞いた。

 

 訂正が通らない語を、私はいま、三つ知っている。

 

 母の「あら」、妹さんの「承知しました」、そして先輩の「うむ」。

 

 三つとも否定の語を一つも含んでいないのに、こちらの否定を全部無効にする。

 

 日本語には、そういう音がある。

 

 つまり、あちらのご家族の中で、私は「羊羹の人」であり「お相手」なのである。

 

 出席した覚えのない家族会議に、私の議題が、二件も上がっていた。

 

 欠席裁判である。

 

 欠席裁判なのに、判決に控訴する気が起きないのは、どうしたことか。

 

「それで、こっちが本題」

 

 二つ目の包みが出てきたとき、彼は言った。

 

「渡す前に、申告があります」

 

 ……申告。

 

「九百八十円です」

 

 心臓が、どきり、と大きく鳴った。

 

 鳴った直後に、息が、止まった。

 

 それは、私の様式である。

 

 十二月二十四日に、私が鎧として着たものである。

 

 鎧を、この人は、覚えていた。

 

 覚えていて、同じ場面で、着てみせた。

 

 盗まれた、のではない。

 

 覚えられていた、のである。

 

 その違いの大きさを、私は、様式の持ち主として、誰よりも正確に理解してしまった。

 

 理解した結果、出た言葉が「様式の無断使用ですっ!」だったのは、我ながら情けない。

 

 情けないが、ああでも言わないと、掛川と静岡のあいだで、目の防波堤が決壊するところだった。

 

 

 

 

 包みの中から、赤が出てきた。

 

 毛糸の、シュシュだった。

 

 小さくて、少し不格好で、三段目に、編み直しの跡がある。

 

 私は、動けなくなった。

 

 胸が、いっぱいになった。

 

 いっぱいになったものが喉までせり上がってきて、言葉が、一つも通れなくなった。

 

 シュシュを持つ自分の手が、小さく震えているのが見えた。

 

 見えたのに、止められなかった。

 

 動けない十秒のあいだに、編み目が、全部を教えてくれた。

 

 初心者の目である。

 

 揃えようとして、揃いきっていない。

 

 三段目の跡は、一度ではない。二度、いや三度、ほどいている。

 

 ほどいて、編み直して、それでも完成させた誰かの、十二月の私と同じ形の時間が、そこに編み込まれていた。

 

「……編んだの、俺」

 

 知っていた。

 

 編み目を見た瞬間から、知っていた。

 

 知っていたのに、言葉にされた瞬間、心臓を、正面から射抜かれた。

 

 どく、どく、と速くなる鼓動の奥で、目の奥が、じわりと熱くなった。

 

 知っていて、言葉にされたら、駄目だった。

 

 駄目だったので、私は彼の指先に、視線を逃がした。

 

 逃がした先に、絆創膏が二枚あった。

 

「……指」

 

「紙で切った」

 

 同じ嘘だった。

 

 十二月に、私がついたのと、一言一句、同じ嘘。

 

「……私も、十二月に、そう言いました」

 

 声が震えないように、一音ずつ、置くように言った。

 

 置き終えた息が、少しだけ、揺れた。

 

 自分の嘘を、私は初めて、自分から明かした。

 

 明かせたのは、目の前に、同じ嘘の持ち主がいたからである。

 

 同じ嘘を持つ者同士は、訂正をしなくていい。

 

 その免除規定を、私たちはあの車内で、無言のうちに制定した。

 

 

 

 

 師範は妹さん、監督は久遠うさぎ先生、と聞いた。

 

 聞いた瞬間、私の思考は、二秒ほど停止した。

 

 停止した二秒のうち、一秒は「先生が」であり、もう一秒は「先生に知られている」であった。

 

 二日前、私は精文館書店の隅で、あの方に家宝を作っていただいた。

 

 その同じ手が、翌日から、この人の三段目を監督していたのである。

 

 世間の狭さの問題ではない。

 

 私の周辺の密度の問題である。

 

 密度が高すぎて、逃げ場がない。

 

 逃げ場がないまま、こたつで編み棒を持つ彼の姿が、頭に浮かんだ。

 

 浮かんだ画は、危険物だった。

 

 妹さんと先生に挟まれて、指に絆創膏を貼って、三段目で遭難しながら、それでも編み続けた三が日。

 

 私の十二月と、同じ形の時間である。

 

 同じ形の時間を、今度は私が受け取る側になっている。

 

 受け取る側が、こんなに、息が苦しいとは知らなかった。

 

 検品は、した。

 

 させてもらった、というのが正確である。

 

 三段目の緩みを指摘したのは、基準を曲げないためであり、それから、この編み目をもう少し近くで見ていたかったからである。

 

 後者は、帳簿に載せない。

 

「大合格です」

 

 合格、では、足りなかった。

 

 私の等級表に、この赤を格納できる欄が、なかったのである。

 

 なかったので、新設した。

 

 等級の新設は、本来、規程改正を要する。

 

 要するが、あの瞬間の私は、立法も改正も、独断で執行できる気がしていた。

 

「なんで、赤なんですか」

 

 聞いたのは、答えの予感があったからである。

 

 予感どおりの答えが、来た。

 

「……似合うと思ったから」

 

 どきん、と、今日いちばん大きく、心臓が跳ねた。

 

 跳ねた勢いのまま、頬が、燃えるように熱くなった。

 

 それは、私の言葉である。

 

 十二月に、私が緑に対して使った言葉である。

 

 自分の言葉の威力を、私は、発射された側で初めて知った。

 

 知った結果、返却の範囲が広すぎる、と抗議した。

 

 抗議しながら、返却されたすべてを、一つも返す気がなかった。

 

「ただ、その、あれだ。休みの日、髪が少しゆるいときがあるから。そういう日に、もし」

 

 見られていた。

 

 休みの日の髪を、である。

 

 いつのことか、私は三候補まで特定を試みた。

 

 十一月の休日出勤。十月の代休明けの土曜。それとも――

 

 特定は、途中でやめた。

 

 三候補もあること自体が、答えだったからである。

 

 三回も見られていて、三回とも、気づかなかった。

 

 検知器の感度が、聞いて呆れる。

 

 

 

 

 試着を申し出たのは、私である。

 

 検品には試着が含まれる、という規定を、その場で二秒で作った。

 

 二秒で作った規定の下で、私は自分の髪をほどいた。

 

 新幹線の座席で、である。

 

 正気ではない。

 

 正気ではないと分かっていたのに、手のほうが先に動いていた。

 

「見ないでください」と言えたのは、私の理性が、その日最後に果たした仕事である。

 

 仕事を終えた理性は、そのあと三十分ほど、席を外していた。

 

 三十秒と申告して、二十二秒で完了した。

 

 前倒しは、得意である。

 

 得意なのに、最後の一結びだけ、二回やり直した。

 

 鏡がなかったからである。

 

 ……鏡がなかったから、ということにしておく。

 

 

 

 

「似合う」

 

 と、あの人は言った。

 

 言われた瞬間、頭の中が、白くなった。

 

 白くなった場所に、遅れて、じん、と熱が広がった。

 

「思ったより」の五文字に噛みついたのは、防衛反応である。

 

 噛みつかなければ、あの車内で、私は音を出していた。

 

 どういう音かは、書かない。

 

 噛みついた結果、返ってきたのが「編みながら、想像してたとおりだった」であった。

 

 防衛が、裏目に出た。

 

 裏目どころではない。

 

 自分で地雷を掘り出して、自分で踏んだのである。

 

 踏んだ瞬間の私の顔は、記録しない。

 

 記録しないが、四十センチ先で、一部始終が観測されていた。

 

 距離を座席の規格のせいにしたのは、我ながら苦しい弁明だった。

 

 苦しかったが、あれ以外に、逃げ道が一つもなかったのである。

 

 新横浜で、私は髪を元に戻した。

 

 戻したのは、東京駅の人混みに、あの状態で降りたくなかったからである。

 

 あの状態で降りると、たぶん、道の途中で立ち止まる。

 

 立ち止まる自分を、私は今日、すでに何度も目撃している。

 

 これ以上の目撃は、精神衛生上、好ましくない。

 

 

 

 

 シュシュは、コートの内ポケットに入れた。

 

 鞄は、網棚に上げる可能性がある。網棚は、視界の外である。

 

 ……という理屈を三秒で組み立てたが、本当のところは、単純である。

 

 近い場所に、置きたかった。

 

 内ポケットは、ちょうど、心臓の上である。

 

 布一枚の下で、速いままの鼓動と、不格好な赤が、隣り合っていた。

 

 理屈の訂正は、しない。

 

 窓の外に、富士山が出た。

 

「……富士山、視認しました」

 

 完全視認の工程は、失敗した。

 

 視界に、水分の問題が生じたからである。

 

 水分の原因については、調査を行わない。

 

 行わなくても、分かっているからである。

 

 

 

 

 東京駅が近づいたころ、彼が言った。

 

「往復とも、ありがとう。手配」

 

「二千百三十円、二回ぶんですので」

 

「金額の話じゃなくて」

 

「……存じております」

 

 存じております、は、私の防具の中で、いちばん使用頻度が高い。

 

 高いのに、あのときだけ、防具の硬度が、二割落ちた。

 

 落としたのは、わざとである。

 

 金額の話ではないことくらい、最初から、存じていたのである。

 

 東京駅の分岐で、別れ際に、私は言った。

 

「大切に、しますので」

 

 使います、では、足りなかった。

 

 使う、という動詞には、消耗が含まれる。

 

 大切にする、には、含まれない。

 

 含まれない動詞を選ぶのに、ホームから改札までの三分を、まるまる使った。

 

 三分かけた甲斐のある選語だったと、思っている。

 

 別れて歩き出してから、私は一度、コートの胸元に触れた。

 

 確認したのは、シュシュの存在ではない。

 

 存在は、疑っていない。

 

 確認したのは、今日という日が現実かどうか、である。

 

 胸元の小さな凹凸が、現実だと答えた。

 

 

 

 

 部屋に帰って、手帳を開いた。

 

 受領の頁に、一行書く。

 

 『一月三日。受領。九百八十円。』

 

 書いてから、金額の横に、注記を足した。

 

 『※価格は参考値。実価値は、算定不能。』

 

 算定不能、と書くのは、会計を志す者として、敗北である。

 

 敗北だが、この項目に関しては、生涯、再計算の予定がない。

 

 最後に、使用開始日の欄を、しばらく睨んだ。

 

 休みの日用、と彼は言った。

 

 言ったが、装備の運用規程は、所有者が決めるものである。

 

 私は、欄にこう書いた。

 

 『使用開始日:勝負の日』

 

 書き終えてから、私はもう一度、髪にシュシュを着けて、鏡の前に立った。

 

 車内には、鏡がなかった。

 

 鏡がなかったので、あのとき自分がどんな顔で「どうですか」と聞いたのかを、私は知らない。

 

 知らないまま、鏡の前に立った。

 

 着けた瞬間、胸の奥が、とくん、と小さく鳴った。

 

 鳴ったまま、しばらく、鏡の前から動けなかった。

 

 鏡の中の自分が、どんな顔をしていたかは、記録しない。

 

 記録しない項目が、この冬、帳簿に増え続けている。

 

 増え続けているのに、帳簿が軽くなっていく気がするのは、会計として、実に不思議な現象である。

 

 それから、修繕の工程表も、確認した。

 

 預かっている十六年物は、帰省には連れて行かなかった。

 

 実家で家族に見られたら、説明が三時間では済まないからである。

 

 工程は、ほつれの補修、毛玉の除去、端の始末。

 

 切り詰める端は、捨てない。

 

 捨てないで、何にするかは、もう決めてある。

 

 採寸の結果、二つ、作れる分量だった。

 

 一つ目の行き先は、決まっている。

 

 二つ目の行き先は、帳簿に書かない。

 

 書かないが、私用の鞄の、内側のファスナーの寸法だけは、もう測ってある。

 

 職場には、持ち込まない。

 

 持ち込むと、装備の出所を、私の顔が申告してしまうからである。

 

 勝負の日は、さっそく、二週間後に来る。

 

 一月十七日。

 

 百十四個の時計と、四百ページの要領と、私の最初の共通テストの朝である。

 

 その朝の装備が、たったいま、決まった。

 

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