大学職員の僕たち   作:房吉

4 / 13
~4敗目~ 五十分、二回転

「四十七件、来てます」

 

「四十七」

 

「で、出るのは二十二件です」

 

 五月八日、午前十時。

 俺は机の上に積み上がった封筒の山を、両手で二つに分けた。

 

 左が「出る」。右が「出ない」。

 右のほうが、わずかに高い。

 

「……なぜ、半分にするんですか」

 

 天愛星さんが、封筒の山を見ていた。

 

 ――天愛星さん、と。

 

 歓迎会の夜から、頭の中の呼び方だけが十六年前に戻っている。口に出す予定はない。職場である。

 

「全部に出るという選択は」

 

「ないです。金と人が足りないです」

 

「不参加の二十五件へのご連絡は」

 

「しないです。申込書を出さないだけなんで」

 

「……省庁ですと、無回答には督促が三回来ます」

 

「来ないのが民間です」

 

「静かですね」

 

「静かなんですよ」

 

 俺は左の山から一通抜いて、中身を出した。

 

 A4三枚。

 主催者名、実施校名、日程、開催形式、想定参加生徒数、参加費、申込締切。

 

「これ、業者さんからの案内です。うちの場合、ユニネクストさんと、あと三社くらいから来ます」

 

「業者」

 

「進学ガイダンスの運営会社です。高校と一緒に企画して、大学を集めて、当日全部仕切ってくれます」

 

 天愛星さんが、案内をじっと見た。

 

 その目が、いつもと少し違った。

 

「……高校に、直接お願いに行くのではないんですか」

 

「行かないですね」

 

「え」

 

「アポ取って一校ずつ回るのは、ほぼやらないです。先生方が忙しすぎるんで」

 

 俺は椅子を回して、彼女のほうを向いた。

 

「高校からすると、大学が一校ずつ来るのって、地獄なんですよ。全国に大学が八百校近くあるんで」

 

「……八百」

 

「なので、業者さんが間に入ります。高校側と『今年は理系志望が多いので系統別でやりましょう』みたいに設計して、それに合う大学を集める」

 

「集める基準は」

 

「その高校から過去に進学実績がある大学が中心です。あとは高校側の要望」

 

 天愛星さんの手が、ぴたりと止まった。

 

「――つまり」

 

「はい」

 

「呼ばれない大学は、そもそも、その高校に行けないということですか」

 

 ……そこに気づくのか。

 

 俺は少し考えてから答えた。

 

「行けないですね」

 

「では、実績のない高校には」

 

「入れないです。基本は」

 

「新規開拓は」

 

「難しいです。だから、いま呼んでもらえてる高校を、絶対に落とさないようにする」

 

 天愛星さんは、しばらく黙っていた。

 

 それから、手帳を開いて、書きはじめた。

 

「……私は、この仕組みを知りませんでした」

 

 声が、少し低かった。

 

「十年、高等教育行政におりました」

 

 ぱらり、とページが鳴る。

 

「大学と高校の接続について、報告書を何本も書きました。……現場で誰と誰が、どうやって会っているのかを、私は一度も見ていません」

 

「まあ、そういうもんですよ」

 

 俺はマグカップを持ち上げた。

 

「俺だって、文科省が何やってるか、いまだによく分かってないですし」

 

「それは、私の責任です」

 

「重いな」

 

 天愛星さんは、書き取る手を止めなかった。

 

 

 

 

 選定の理屈は、単純である。

 

 過去五年、その高校から何人受験して、何人入学したか。

 当日、うちのブースに何人座ったか。

 参加費に見合うか。

 

 この三つを並べて、上から二十二件を取る。

 

「参加費は、一件いくらですか」

 

「三万から八万です。会場と回数で変わります」

 

「二十二件で」

 

「今年度、百二十万ちょっとですね」

 

 天愛星さんが電卓を叩いた。

 叩いてから、顔を上げた。

 

「安いですね」

 

「そう思います?」

 

「はい。一人入学すれば、四年間で四百万近い納付金です」

 

「……馬剃さん、それ会議で言ってください」

 

「なぜですか」

 

「毎年、予算で削られそうになるんで」

 

 

 

 

 五月十二日、月曜日。

 

 庶務課から、二つの荷物が届いた。

 

 一つは、天愛星さんの名刺。

 もう一つは、大学案内の段ボールが十二箱だった。

 

「馬剃さん、これ、名刺です」

 

「あ」

 

 彼女は箱を受け取って、自席に置いて、そこで手が止まった。

 

 開けない。

 

「……どうしました?」

 

「いえ」

 

 彼女は蓋に指をかけて、ゆっくりと開けた。

 

 中には、真新しい名刺が百枚。

 大学のロゴ、部署名、そして名前。

 

 天愛星さんは、一枚を抜き取って、目の高さで見ていた。

 

 しばらく、そのままだった。

 

「……久しぶりに見ました」

 

「なにを」

 

「自分の名前が、印刷されているものを」

 

 じん、と何かがこみ上げるのを、彼女は表情のどこにも出さなかった。

 出さないから、余計にこっちに伝わってくる。

 

 俺は自分の作業に戻るふりをした。

 戻るふりをして、視界の端で見ていた。

 

 天愛星さんは名刺を三十枚数えて、真新しい名刺入れに入れた。

 入れてから、内ポケットに収めて、それから――右手を、そこに当てた。

 

 抜く動作の練習をしていた。

 

 一回、二回。

 

 誰も見ていないと思っている。

 俺は完全に見ていた。隣の席なので、見ないほうが難しい。

 

 

 

 

「で、こっちが大学案内です」

 

 俺はもう一つの荷物を指した。

 

 段ボール十二箱。壁際に積み上がっている。

 

「これを、当日持っていくんですか」

 

「持っていかないです」

 

「え」

 

「一箱八キロです。十二箱で九十六キロですよ」

 

 天愛星さんが、箱を見た。

 

「宅配で送ります。開催日の一週間前必着で、業者さん指定の宛先に。会場の高校に直接送ることもあります」

 

「では、当日は」

 

「手ぶらです。名刺と、あとは筆記用具くらい」

 

「手ぶら」

 

「厳密には、ノートパソコンとモバイルバッテリー持ちます。あと、飴」

 

「飴?」

 

「五十分喋ると、喉が死ぬんで」

 

 装備一覧、名刺、パソコン、バッテリー、飴。

 RPGなら明らかに初期装備の村人だが、これで五十分のボス戦を二回やるのである。

 

「のど飴は、経費で落ちるんですか」

 

「落ちますよ。科目は会議費で。……落ちるか。自腹です」

 

「自腹」

 

「五年分で、たぶん幕の内弁当くらいは買えてます」

 

 天愛星さんが手帳に何かを書こうとしたので、俺は「書かなくていいです」と先に言った。

 

 

 

 

 五月十四日、水曜日。

 

 開催校は、都内の私立高校だった。

 集合は十三時、開始は十三時三十分。

 

 俺は十一時に大学を出た。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「集合は十三時です」

 

「そうですね」

 

「現地までは、乗り換えを含めて四十八分です」

 

「そうですね」

 

「いま、十一時二分です」

 

「そうですね」

 

「余裕時間が、七十分発生します」

 

「そうですね」

 

 天愛星さんの眉が、じりじりと下がっていくのが分かった。

 

 俺は、駅前のアーケードのほうへ歩きだした。

 

「昼にしましょう」

 

「ファミリーレストランでしたら、駅の反対側に」

 

「そっちじゃないです」

 

 アーケードを北に抜けて、二本目の角。

 

 タイル張りの、細長い建物である。

 一階が眼鏡屋で、その脇の階段を上がると、二階に喫茶店がある。

 

 看板は、電球で縁取りされたやつだった。

 電球の三つが、切れている。切れたのは去年で、まだ替わっていない。

 

「……喫茶店、ですか」

 

「喫茶店です」

 

「よくいらっしゃるんですか」

 

「この会場のときは、毎回です。五年目です」

 

 

 

 

 窓際の四人席に、俺は先に座った。

 

 この席は、通りに面していて、ブラインドが半分下りている。

 外からは、まず見えない。

 

「ナポリタンと、あと」

 

 俺は、メニューを開かずに言った。

 

「ぶどうジュース、二つください」

 

「あれ、温水さん。いつものコーヒーじゃなくていいの? 豆、挽いちゃったけど」

 

 カウンターの奥から、マスターが顔を出した。

 

「あー……、今日はそういう気分なんです」

 

 マスターが、目を細めた。

 

 細めたまま、視線を、俺の向かいへ、ゆっくり移動させる。

 見られた天愛星さんの背筋が、ぴん、と伸びた。

 

 三秒。

 

 マスターは、何かを深く察した顔になった。

 

「なるほどね」

 

 うなずいて、奥に引っこんだ。

 

 ……なるほどね、じゃないんですよ。

 

 絶対に誤解している。しかも、たぶん、いちばん面倒な方向に。

 

 弁明しようと口を開いたときには、もう暖簾が揺れているだけだった。

 五年通っているが、この店の引き際の速さにだけは、いまだに勝てない。

 

「……あの」

 

「はい」

 

「温水主任は、いつもコーヒーを頼まれるんですね」

 

「頼みますね」

 

「では、なぜ今日はジュースなんですか」

 

「そういう気分なんです」

 

「しかも、私のぶんまで、勝手に」

 

 おしぼりを握る手に、ぎゅう、と力がこもっていた。

 

「……だって馬剃さん、コーヒー苦手でしょう」

 

 ぴしり、と音がしそうな勢いで、天愛星さんが固まった。

 

 二秒。

 

 それから、ばっと顔を上げた。

 

「あれは、高校時代の話ですっ!」

 

「え」

 

「今は飲めます! 毎朝、飲んでおります!」

 

「そうなんですか」

 

「豆から挽いております! 湯温は九十度、蒸らしは三十秒!」

 

「手順まで」

 

「手順どおりに淹れると、おいしいんですっ!」

 

 ぐいぐい身を乗りだしてくる。

 テーブルのグラスが、かたん、と鳴った。

 

 ――ああ、そうか。

 

 思い出した。

 

 十六年前の冬、ときわ通りのコーヒー屋から、この人が出てきたことがあった。

 紙袋を提げて、やけに嬉しそうに笑っていた。

 

 すっかり教えこまれちゃいました、と、たしかそう言った。

 

 教えこんだ覚えは、こちらには一切ない。

 ないのに、その人はいま、湯温を九十度で管理している。

 

「すいません。俺の情報が、十六年ぶん古かったです」

 

「……古いです。とても古いです」

 

「更新します」

 

「更新してください」

 

 天愛星さんは、ふん、と鼻から息を抜いて、椅子に座り直した。

 

 勝った顔をしている。

 ブラックコーヒーが飲めるというだけでここまで誇らしげになれる三十四歳を、俺は他に知らない。

 

「でも、今日はジュースでいいと思います」

 

「なぜですか」

 

「馬剃さん、今日たぶん十七時半まで帰れないですよ」

 

「はい」

 

「五十分喋って、十分休んで、また五十分喋ります」

 

「二回転、ですね」

 

「二回転です。で、そのあと控室で名刺交換の列に並びます」

 

「……なるほど」

 

「慣れない仕事で、もうけっこう疲れてるでしょ」

 

「疲れておりません」

 

「顔に出てます」

 

「出ていませんっ」

 

「疲れたときは、甘いもののほうがいいかなって」

 

 俺は、水のグラスを持ち上げた。

 

「俺もいつもはコーヒーですけど、久しぶりに頼んでみました」

 

 天愛星さんは、しばらく黙っていた。

 

 黙って、それから、おしぼりを四つに畳んだ。

 

 ジュースが来た。

 

 背の高いグラスに、濃い赤が入っている。

 一口飲むと、砂糖の味がしない。ぶどうの味しかしない。

 

「山梨のワイナリーのやつです。赤のほう。ここにしか置いてないんですよ」

 

「ここで一時間座っておかないと、二回転目でヘラヘラできなくなるんですよ」

 

「へら」

 

「ヘラヘラです。あれ、体力使うんで」

 

 天愛星さんは、グラスに口をつけて、そこで動きを止めた。

 

 止まって、二秒。

 

 それから、グラスを置いて、まっすぐこちらを見た。

 

 顔が、耳まで真っ赤だった。

 

「……温水主任」

 

「はい」

 

「あなた、弱った女性の扱いが、やけに慣れてますよね」

 

「え」

 

「外から見えない、落ち着いた喫茶店に連れこんで」

 

「連れこんでないです」

 

「甘いもので籠絡するとか」

 

「籠絡もしてないです」

 

「しています」

 

 目が、じとっ、と細くなっていた。

 顔は真っ赤なのに、目だけが完全に容疑者を見る目である。

 

「……ジュース頼んだだけなんですけど」

 

「温水主任。さきほど、疲れたときは甘いもの、とおっしゃいましたね」

 

「言いましたね」

 

「では、伺います」

 

 天愛星さんが、テーブルの端のメニュー立てを、こつ、と指先で叩いた。

 

「この店の甘い飲み物は、ぶどうを除いて五種類あります。オレンジ、パイン、メロンソーダ、レモンスカッシュ、クリームソーダ」

 

「……いつ数えたんですか」

 

「座って三分以内です」

 

 この人は、席に着いてから最初の三分で、店の全メニューを暗記していたのだ。

 そのうえで飲み放題の規約を精読する。器の使い道が完全に間違っている。

 

「あなたは、その五つを飛ばしました」

 

「飛ばしましたね」

 

「メニューを、開かずに」

 

「開かなかったですね」

 

「甘ければよいのであれば、いちばん上のオレンジで足ります」

 

 俺は、返事をしなかった。

 

「甘い飲み物、というのは条件です」

 

 天愛星さんが、まっすぐこちらを見た。

 

「赤ぶどう、というのは、条件ではありません」

 

 ……この人、詰め方が完全に本職だ。

 

「条件からは、そこまで決まりません。決まっているということは、条件の外に、なにか根拠があるということです」

 

「……はい」

 

「……なぜ、赤ぶどうなんですか」

 

 俺は、グラスの底を見た。

 

 答えは、十六年前にある。

 

 あのとき、俺は駅前の喫茶店で、この人の前に赤ぶどうジュースを置いた。

 置いた理由は、その少し前に、砂糖を三つ入れて一気に飲む人を見ていたからである。

 

 理由は、それだけだ。

 

 それだけのことが、十六年、消えなかった。

 消えないまま、今日、俺の口が勝手に注文した。

 

 いま言うと、たぶん、この人は黙る。

 

 黙ったあと、たぶん、俺のほうが困る。

 

「……俺が、飲みたかったんで」

 

「短いですね」

 

「短いです」

 

「本当に隠したいときだけ、短くなりますよね」

 

「その運用、ほんとにやめてほしい」

 

「やめませんっ」

 

 天愛星さんは、ストローを咥えて、そっぽを向いた。

 

 向いたまま、半分くらい飲んでいた。

 

 ……減るのが、速い。

 

 俺は、それを見なかったことにして、ナポリタンを待った。

 

 しばらくして、彼女は鞄から――なぜか――規程の冊子を取りだした。

 

「読むんですか、それ」

 

「読みます」

 

「休憩ですよ」

 

「これが休憩です」

 

 俺はジュースを噴きそうになった。

 

「規程を読むのが休憩って、じゃあ馬剃さんにとって仕事は何なんですか」

 

「規程どおりに動くことです」

 

「……一貫してるなあ」

 

 天愛星さんは、冊子を開いたまま、動かなくなった。

 

 ……そのページ、さっきから同じところですけど。

 

 

 

 

 控室は、その高校の会議室だった。

 

 十二時五十分に入ると、もう二十人ほどいた。

 

 長机が四列。

 スーツの男女が、それぞれの席で名札を確認したり、資料を出したり、スマホを見たりしている。

 

「今日、何校ですか」

 

「二十六校ですね」

 

 俺は壁に貼られた座席表を指した。

 

「国公立が三、あとは私大です。うちは第二教室、二回転」

 

「二十六校」

 

 天愛星さんが、部屋を見回した。

 

 ――知っている顔が、三つある。

 

「あ、温水さん。お久しぶりです」

 

 声をかけてきたのは、隣の席に座った男性だった。

 都内の別の私大の、入試広報の人である。名刺交換は、たぶん四年前だ。

 

「どうも。今日、教室どこですか」

 

「第五です。うち、去年ここ二人しか座らなくて」

 

「うわ、きつい」

 

「きついですよ。今年もたぶん二人です」

 

 彼は乾いた笑いを浮かべて、それから思い出したように言った。

 

「そうだ温水さん、例の飴、今日も持ってます?」

 

「持ってますよ」

 

「一個いいですか。うち今日、二会場掛け持ちで四回転なんで」

 

「四回転」

 

 俺は袋ごと差しだした。

 

「三個持ってってください」

 

「恩に着ます」

 

 彼は拝むように受け取って、自分の資料に戻った。

 

「……いまのは」

 

 天愛星さんが、小声で聞いてきた。

 

「喉の相互扶助です。この業界、飴は通貨なんで」

 

 天愛星さんが、配られた進行表の余白に「飴=通貨」と書いた。

 

 書くんだ、それ。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、書くんですか」

 

「書きます」

 

「進行表に」

 

「余白です」

 

「あとで人に見られたら、けっこう怖いですよ、それ」

 

「……」

 

 天愛星さんが、進行表を伏せた。

 

 伏せてから、二秒で裏返して、もう一度その行を見た。

 

「消さないんだ」

 

「消しませんっ」

 

「なんで」

 

「……記録は、あとから意味が分かるものです」

 

「格好いいこと言ってごまかしましたね」

 

「ごまかしていませんっ」

 

 馬剃さんは、進行表を伏せて、裏返して、また伏せた。

 三往復した。

 

 ――チョロい。

 

 いや、違う。この人はチョロいのではなく、嘘が致命的に下手なだけだ。十六年前から、そこは変わっていない。

 

「それより、いまの方は」

 

「他大学の職員さんです」

 

「競合、ですよね」

 

「競合ですね」

 

「あんなに、普通に話されるんですか」

 

「話しますよ」

 

 俺は椅子に座り直した。

 

「毎週どこかで顔合わせるんで。年に三十回とか会います。うちの課より会ってるかもしれない」

 

 天愛星さんが、目をしばたかせた。

 

「……独特ですね」

 

「独特ですね」

 

 

 

 

 控室というのは、独特の場所である。

 

 全国から集まった二十六校が、同じ部屋で、同じ弁当のかわりに同じお茶のペットボトルをもらって、同じ椅子に座っている。

 

 全員が競合で、全員が同業者だ。

 

 情報交換もする。

 「今年、あそこの高校は文系が増えたらしい」「あの業者さん、来年から料金上げるって」。そういう話が、あちこちで小声で交わされている。

 

 嘘は、あまりない。

 嘘をつくと、来週の別の会場で会ったときに気まずいからだ。

 

 ……この感じは、少し、部室に似ている。

 

 俺はそう思って、すぐに思うのをやめた。

 三十四歳が、業務中に思い出すことではない。

 

 

 

 

 十三時ちょうど。

 

 業者の担当者が前に立った。

 ユニネクストの三隅さんという、三十代前半の女性である。

 

「本日はお集まりいただきありがとうございます。株式会社ユニネクストの三隅です」

 

 部屋が静かになった。

 

「本日の流れをご説明します。十三時十分より校長先生よりご挨拶、十三時二十分から各教室へご案内、十三時三十分より第一回、十四時三十分より第二回となります」

 

 三隅さんは慣れた口調で続けた。

 

「教室にはあらかじめ資料を配架しております。生徒は事前の希望調査に基づいて分かれておりますので、各回で人数が変動いたします」

 

 天愛星さんが、猛烈な速さで書き取っていた。

 

「なお、本日は三年生と二年生の合同開催です。第一回が三年生中心、第二回が二年生中心となります」

 

 ――第一回が三年、第二回が二年。

 

 俺はそれを聞いて、頭の中で話の順番を組み替えた。

 

 三年の五月は、もう志望校がだいたい決まっている。

 だから欲しいのは「決め手」だ。

 

 二年の五月は、まだ何も決まっていない。

 欲しいのは「そもそも大学って何が違うのか」である。

 

 同じ五十分でも、まったく別の話になる。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「一回目と二回目、内容変えます」

 

「え」

 

「三年と二年なんで」

 

「……いま、決めたんですか」

 

「いま決めました」

 

 天愛星さんが、明らかに動揺していた。

 

 

 

 

 校長先生の挨拶が五分あり、三隅さんの誘導で、俺たちは第二教室へ移動した。

 

 普通の教室だった。

 机が四十。黒板。窓際に学級目標の紙。後ろの壁に、進路だよりが貼ってある。

 

 俺は入るなり、その進路だよりを読んだ。

 

「温水主任、それは」

 

「読みます」

 

「読むんですか」

 

「読みます」

 

 五月号だった。

 三年生向けで、見出しが「オープンキャンパスに行こう」。

 

 その下に、去年の卒業生の合格体験記が三本。

 三本のうち二本が、理系だった。

 

 ――理系が強いのか。

 

 俺は自分の話の順番を、もう一度、頭の中で入れ替えた。

 

 

 

 

 十三時三十分。

 

 チャイムが鳴って、生徒が入ってきた。

 

 二十二人。

 思ったより多い。前の三列がほぼ埋まった。

 

 俺は教壇に立って、名札を見て、それから黒板の前に出た。

 

 資料は持っていない。

 持っているのは、名刺と、ポケットの中の飴だけである。

 

「こんにちは。今日は来てくれてありがとうございます」

 

 俺はそう言って、少し間を置いた。

 

「三年生ですよね。……五月にオープンキャンパスの説明を聞くの、正直しんどくないですか」

 

 前列の女子が、ふ、と笑った。

 

「僕、去年もこの高校に来てるんですけど、五月って、まだ実感ないんですよね。夏になると急に来ます。八月にみんな一気に焦ります」

 

 何人かが顔を上げた。

 

「なので、今日は焦らせないようにします。四十分で終わらせて、あと十分は質問の時間にします」

 

 空気が、すこし緩んだ。

 

 あとは、いつもどおりだった。

 

 いつもどおり、というのは、決めた話をするという意味ではない。

 その逆である。

 

 俺は喋りながら、教室を見ている。

 

 高校生というのは、正直な生き物だ。

 

 つまらないと、目が下を向く。分からないと、眉が寄る。飽きると、指がペンを回しはじめる。

 全部、顔に出る。大人みたいに、聞いているふりをしてくれない。

 

 だから、こっちは楽である。

 答えが全部、前を向いて並んでいるようなものだ。

 

 三列目の右から二番目の男子が、机の下でスマホを触りかけた。

 ――ここで一回、顔を上げさせる。

 

「あ、そうだ。去年うちに入った学生で、面白いやつがいて」

 

 俺は本題を止めて、去年の学生の話をした。

 入学式の日に電車を乗り間違えて、隣県まで行った学生の話である。実話だ。

 

「その子、いま二年でうちの学生広報スタッフやってます。オープンキャンパスで道案内する係です」

 

 笑いが起きた。

 

 スマホが、机の下に戻っていった。

 

 ――戻った。

 

 ここで大事なのは、笑わせることじゃない。

 笑ったあと、次の一分だけ、こっちの話が入るようになる。その一分に、いちばん大事なことを置く。

 

 次に、二列目の女子が眉を寄せた。

 ――いまの説明、分からなかったな。

 

「あ、いま『学部と学科』って言いましたけど、これ最初、全員意味分かんないですよね。僕も分からなかったです」

 

 俺は黒板にチョークで、大きな四角と小さな四角を描いた。

 

 女子の眉が、戻った。

 

 喋る内容は、三つだけと決めている。

 

 一つ、うちの大学がどういう場所か。

 二つ、うちを選んだ学生が、入学後にどうなっているか。

 三つ、いま何をしておくといいか。

 

 残りは全部、資料に書いてある。

 

「大学案内、みんなの教室に届いてると思います。うち、けっこう厚いやつ出してて」

 

 俺は指を三本立てた。

 

「全部読まなくていいです。百二十三ページだけ読んでください。百二十三ページ」

 

 何人かが、メモを取った。

 

「そこに、日本文学科を出た先輩のインタビューが載ってます。去年、うちの大学案内でいちばん読まれたページです」

 

 ――そして、二つ目。

 

「あと、これは今日いちばん言いたいことなんですけど」

 

 俺は少し声を落とした。

 

 教室が、静かになる。

 

「みんな、たぶんこれから『指定校は楽だ』って言われることがあると思います」

 

 顔が、いくつか上がった。

 

「うち、指定校で入った学生の入学後の成績を、三年ぶん追いかけてます。……一般で入った学生より、平均が上です。退学も少ないです」

 

 俺は黒板に、数字を三つ書いた。

 

「どの入り方で入っても、入ってからどう過ごすかで全部変わります。それだけです」

 

 ――使わせてもらった。

 

 この数字は、先週、隣の人が作ったものである。

 

 俺は、そのとき初めて、隣を見た。

 

 天愛星さんは、教室の後ろに立っていた。

 

 手帳を、開いていた。

 開いたまま、持っていた。

 

 ペンが、動いていなかった。

 

 

 

 

 五十分が終わって、チャイムが鳴った。

 

「はい、じゃあ終わります。ありがとうございました」

 

 拍手が起きた。

 生徒が出ていって、教室が空になる。

 

 俺は黒板を消して、それから振り返った。

 

「馬剃さん」

 

「……はい」

 

「メモ、大丈夫でした?」

 

 天愛星さんは、手帳を見た。

 

 

 

 

 白紙だった。

 

 

 

 

「……申し訳ありません」

 

「いや、別にいいですけど」

 

「一行も、取っておりません」

 

「うん」

 

「私、五十分、何をしていたんでしょうか」

 

 彼女の声が、かすかに震えていた。

 

 俺はチョークを箱に戻しながら答えた。

 

「聞いてたんじゃないですか」

 

 

 

 

 十分の休憩があって、二回目が始まった。

 

 二年生が入ってきた。十六人。

 顔つきが、さっきとまるで違う。まだ、他人事の顔をしている。

 

 俺は最初の一言を変えた。

 

「二年生ですよね。じゃあ今日は、大学の話しません」

 

 顔が、いくつか上がった。

 

「大学って何なのか、の話をします。うちの大学に来なくていいんで」

 

 ――掴んだ。

 

 二年生に大学の宣伝をしても、まず入らない。

 彼らはまだ、自分が受験する側だと思っていない。

 

 だから、先に「売り込まない」と宣言する。

 宣言した瞬間、こっちの話は宣伝じゃなくなる。

 

 俺はそこから五十分、学部の違いと、文系理系の分かれ方と、あとは自分が大学一年のときにやらかした話をした。

 うちの大学の名前は、最後の三分にしか出さなかった。

 

 終わってから、二人が前に来て質問をした。

 二年生の五月に、大学の職員に質問しに来る子は、めったにいない。

 

 

 

 

 二回転終わって、控室に戻ったのは、十五時三十五分だった。

 

 控室には、もう列ができていた。

 

 前のほうに、この高校の先生方が三人並んで立っている。

 その前に、二十六校の職員が、順番に並んで名刺を出していく。

 

「これ、なんですか」

 

「名刺交換です」

 

「並ぶんですか」

 

「並びます。一人一分くらいです」

 

 天愛星さんが、列の長さを目で測った。

 

「一分」

 

「一分ですね。ゆっくり話せる場じゃないんで」

 

 列が進む。

 

 俺たちの番が来た。

 

 俺は名刺を出しながら、顔を上げた。

 

 

 

 

 ――あ。

 

 

 

 

 立っていたのは、綾野光希だった。

 

 うわ、と喉の奥で声が潰れた。

 

 綾野の手が、名刺を出したまま止まっている。

 

「……温水?」

 

「綾野」

 

「え、待って」

 

 後ろに、二十校ぶんの列がある。

 

 俺は名刺を差しだした。

 綾野が、反射的に受け取った。

 

「本日はありがとうございました。入試広報課の温水です」

 

「……あ、はい。進路指導部の綾野です」

 

 俺の後ろから、天愛星さんが一歩出た。

 

「同じく、馬剃と申します」

 

 綾野が名刺を受け取って、目を落として、固まった。

 

「馬剃……天愛星さん?」

 

「はい」

 

「えっ」

 

 後ろの人が、待っている。

 

 綾野が、名刺の裏を見て、それから顔を上げた。

 

「……あとで連絡する」

 

「うん」

 

 それだけだった。

 

 俺たちは頭を下げて、列を抜けた。

 

 

 

 

 外に出ると、五月の夕方だった。

 

「一分でしたね」

 

「一分でしたね」

 

 天愛星さんが、鞄を持ち直した。

 

「……心臓に、悪いです」

 

「悪いですね」

 

「あの、温水主任」

 

「はい」

 

「五十分の件ですが」

 

 彼女が、こちらを見た。

 

「二回目、一回目とまったく別の内容でした」

 

「まあ」

 

「私、二回目もメモを取りませんでした」

 

「そうですか」

 

「……なぜでしょうか」

 

 俺は駅までの道を歩きだした。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「メモ、二回目からでいいですよ」

 

「……二回目」

 

「今日じゃなくて、次の会場です。今日は見るだけでよかったんで」

 

 天愛星さんが、足を止めた。

 

「では、最初からそう言ってください」

 

「言うと、見なくなるんですよ」

 

 彼女は、それきり何も言わなかった。

 言わずに、半歩後ろを歩いていた。

 

 

 

 

 綾野から連絡が来たのは、その日の夜だった。

 

 メッセージアプリに、いきなり三人のグループが作られていた。

 

 『温水/馬剃さん/綾野』

 

 『今日はお疲れ様でした。仕事の顔で名刺出されて、こっちが泣きそうになった』

 『土曜、時間ある? 飲みでも飯でもいいので』

 

 俺は画面を見て、しばらく指を止めていた。

 

 既読が、二つついた。

 

 『ぜひ、伺います』

 

 天愛星さんが、先に返していた。

 

 

 

 

 土曜日の夜、俺たちは新宿の居酒屋の個室にいた。

 

 綾野は私服で来た。

 ネクタイのない綾野は、十六年前とほとんど同じに見えた。

 

「いや、ほんとに驚いた」

 

 乾杯してすぐ、綾野が言った。

 

「うちの高校でガイダンスやるってのは知ってたけど、参加校の一覧って進路指導部に来るのは前日なんだよ。しかも大学名だけ」

 

「そうなんだ」

 

「そう。で、当日、名刺交換の列に立ってて、温水って書いてある名刺出されて」

 

 綾野がジョッキを置いた。

 

「心臓止まるかと思った」

 

「悪い」

 

「謝るなよ」

 

 

 

 

 天愛星さんは、烏龍茶を飲んでいた。

 

 今日は飲まないらしい。

 理由は、たぶん、綾野がいるからだと思う。この人は、二人までしか気を許せない。

 

「馬剃さんもすごいな。文科省でしょ」

 

「……十年おりました」

 

「で、いま大学職員」

 

「はい」

 

「なんか、すごい遠回りだね」

 

 綾野が、悪気なく言った。

 

 俺は横を見た。

 天愛星さんは、少しだけ笑っていた。

 

「そうですね。遠回りです」

 

「あ、ごめん」

 

「いえ。事実ですので」

 

 

 

 

 二時間くらい、いろんな話をした。

 

 朝雲千早は綾野の妻で、教育系のシステム会社にいるらしい。

 子どもが二人。上が小四で、下が幼稚園。

 

「上の子が最近、千早と同じやり方で勉強しはじめてさ」

 

「教科書全部覚えるやつ?」

 

「そう。俺、止めてるんだけど」

 

「止めたほうがいいと思います」

 

 天愛星さんが真顔で言って、綾野が笑った。

 

「馬剃さん、変わんないな」

 

「変わりました」

 

「どこが」

 

「校則を暗記しなくなりました」

 

「就業規則を暗記してるんですよ、この人」

 

 俺が言うと、天愛星さんが横から睨んできた。

 

「余計なことを言わないでください」

 

「事実だろ」

 

「事実ですが、初対面に近い方に開示する情報ではありません」

 

「初対面じゃないだろ、十六年ぶりなだけで」

 

 綾野が、げらげら笑った。

 

「なにこれ。お前ら、そんな喋る仲だったっけ」

 

 空気が、一瞬だけ、とん、と沈んだ。

 

 俺はビールを飲んだ。

 天愛星さんは烏龍茶を飲んだ。

 

「……職場が同じなので」

 

 天愛星さんが言った。

 

「席も隣ですから」

 

「隣!?」

 

「隣です」

 

 綾野が、俺のほうを見た。

 

 なにか言いたそうな顔をしていた。

 言いたそうな顔のまま、こいつは何も言わずに、枝豆に手を伸ばした。

 

 ……こういうところが、この男の一番怖いところである。

 

 

 

 

 二軒目には行かなかった。

 

 駅までの道で、綾野が急に足を止めた。

 

「温水」

 

「うん」

 

「お前さ」

 

 綾野は、少し困ったような顔をしていた。

 

 怒っていなかった。

 怒ってくれていたら、たぶん、もっと楽だった。

 

 胃の底のあたりが、ずしりと重くなる。

 

「連絡くらい、くれよ」

 

「……悪い」

 

「いや、いいんだけど」

 

 綾野は頭をかいた。

 

「なんかさ、あのころ、いろいろあったじゃん。お前がしんどかったのも、なんとなく分かってたし」

 

「うん」

 

「だから、誰も追いかけなかったんだよ。追いかけないほうがいいと思って」

 

 俺は、道路のアスファルトを見ていた。

 

「でもさ」

 

 綾野が言った。

 

「みんな、お前が元気にしてるかだけ、知りたかったんだよ」

 

 ぐさ、と来た。

 

 返す言葉が、なかった。

 

 喉のあたりが、詰まって、ふさがって、何も通らない。

 

 俺は口を開いて、何か言おうとして、結局「ああ」とだけ言った。

 

 綾野は気にしたふうもなく、俺の肩を軽く叩いた。

 

「まあ、また飲もう。今度は千早も連れてくる」

 

「うん」

 

「馬剃さんも、ぜひ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 

 

 

 改札の前で、綾野が思い出したように振り返った。

 

「あ、そうだ」

 

「なに」

 

「文芸部のグループ、まだ残ってるからな」

 

 俺は足を止めた。

 

「お前、まだ入ってるぞ」

 

 

 

 

 帰りの電車は、意外と空いていた。

 

 俺と天愛星さんは、同じ路線で三駅だけ一緒になる。

 ドアの横に並んで立って、しばらく何も喋らなかった。

 

「温水さん」

 

 天愛星さんが言った。

 

 今日は「温水主任」ではなかった。

 

「はい」

 

「一つ、伺ってもよろしいですか」

 

「はい」

 

「水曜日の、五十分」

 

 電車が揺れた。

 

「あの話し方は、いつからですか」

 

「いつから、って言われると」

 

「高校のときの、あなたではありませんでした」

 

 俺はつり革を握り直した。

 

「まあ、十二年もやってれば」

 

「そうでしょうか」

 

 天愛星さんが、こちらを見た。

 

「私は、少し、面影があると思いました」

 

「面影?」

 

「一言目です」

 

 ――五月にオープンキャンパスの説明を聞くの、正直しんどくないですか。

 

「相手が嫌がっていることを、先に自分から言うんです」

 

 天愛星さんは、前を向いていた。

 

「先に言って、相手を楽にする。……あれは、昔からのあなたです」

 

 俺は、返事をしなかった。

 

「あの」

 

「はい」

 

「先ほど、綾野さんに肩を叩かれたとき」

 

「うん」

 

「なにか、言おうとされてましたよね」

 

「言おうとしてないよ」

 

「口が開いていました」

 

「開いてないって」

 

「一・五秒ほど」

 

「なんで測ってるんだよ」

 

 天愛星さんは、答えなかった。

 

 次の駅で、彼女は降りた。

 降りる前に、いつもより浅く頭を下げて、「お疲れさまでした」と言った。

 

 

 

 

 一人になってから、俺はスマホを取りだした。

 

 メッセージアプリを開いて、下にスクロールする。

 仕事のグループ、家族のグループ、同人関係のグループ。

 

 その、ずっと下。

 

 アーカイブの中に、それはあった。

 

 『ツワブキ文芸部』

 

 通知はオフになっていた。

 いつオフにしたのか、覚えていない。たぶん、東京に来た最初の年だ。

 

 最初のうちは、通知が鳴るたびに画面を見ていた。

 見て、開かずに戻していた。それを何度か繰り返して、ある夜に通知を切った。

 

 切ったときのことは、はっきり覚えている。

 大学の狭い部屋で、蛍光灯が一本切れかけていて、俺はそれを直すのが面倒で、暗いまま指を動かした。

 

 あれで終わりにしたつもりだった。

 終わりにしたつもりの人間が、十六年後の五月に、まだ同じアプリを持っている。

 

 とん、と親指が止まった。

 

 俺は、それから開いた。

 

 最後のメッセージは、八年前だった。

 

 『温水君、生きてる?』

 

 送り主は、八奈見杏菜。

 

 その下には、何もなかった。

 誰も、それ以上は何も送っていなかった。

 

 八年間、誰も。

 

 スクロールを上げると、その前のやり取りがあった。

 誰かの結婚の報告。誰かの引っ越し。焼き肉の写真。日付は九年前で、十年前で、十二年前だった。

 

 どこにも、俺の発言はなかった。

 

 ――返事を待ってたのか。

 

 そう思ってから、俺は自分に呆れた。

 

 待たせてたんだよ。

 

 みぞおちのあたりが、きゅっと縮んだ。

 

 

 

 

 電車が駅に着いて、ドアが開く。

 

 ホームに降りて、階段を上って、改札を抜けた。

 

 スマホをしまおうとして、俺は一度、画面を見た。

 

 入力欄が、そこにある。

 カーソルが点滅している。

 

 なにか打てば、八年ぶりにこのグループが動く。

 

 ……なにを打つんだ。

 

 『生きてる』か?

 三十四歳が、八年前の『生きてる?』に。

 

 俺は画面を消した。

 

 駅前の坂を上りながら、俺はふと、水曜日の教室のことを思い出していた。

 

 白紙の手帳。

 開いたまま、動かなかったペン。

 

 あの人は、五十分間、たぶん一度も、俺から目を離さなかった。

 

 ……いや。

 

 それは、俺が見ていたということでもある。

 

 俺は、五十分、生徒を見ていたはずだった。

 なのに、教室の後ろに立っていた人が、いつペンを止めたかを覚えている。

 

 ――OJTだからな。

 

 俺は自分にそう言った。

 

 言ってから、坂の上で一度、立ち止まった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。