「四十七件、来てます」
「四十七」
「で、出るのは二十二件です」
五月八日、午前十時。
俺は机の上に積み上がった封筒の山を、両手で二つに分けた。
左が「出る」。右が「出ない」。
右のほうが、わずかに高い。
「……なぜ、半分にするんですか」
天愛星さんが、封筒の山を見ていた。
――天愛星さん、と。
歓迎会の夜から、頭の中の呼び方だけが十六年前に戻っている。口に出す予定はない。職場である。
「全部に出るという選択は」
「ないです。金と人が足りないです」
「不参加の二十五件へのご連絡は」
「しないです。申込書を出さないだけなんで」
「……省庁ですと、無回答には督促が三回来ます」
「来ないのが民間です」
「静かですね」
「静かなんですよ」
俺は左の山から一通抜いて、中身を出した。
A4三枚。
主催者名、実施校名、日程、開催形式、想定参加生徒数、参加費、申込締切。
「これ、業者さんからの案内です。うちの場合、ユニネクストさんと、あと三社くらいから来ます」
「業者」
「進学ガイダンスの運営会社です。高校と一緒に企画して、大学を集めて、当日全部仕切ってくれます」
天愛星さんが、案内をじっと見た。
その目が、いつもと少し違った。
「……高校に、直接お願いに行くのではないんですか」
「行かないですね」
「え」
「アポ取って一校ずつ回るのは、ほぼやらないです。先生方が忙しすぎるんで」
俺は椅子を回して、彼女のほうを向いた。
「高校からすると、大学が一校ずつ来るのって、地獄なんですよ。全国に大学が八百校近くあるんで」
「……八百」
「なので、業者さんが間に入ります。高校側と『今年は理系志望が多いので系統別でやりましょう』みたいに設計して、それに合う大学を集める」
「集める基準は」
「その高校から過去に進学実績がある大学が中心です。あとは高校側の要望」
天愛星さんの手が、ぴたりと止まった。
「――つまり」
「はい」
「呼ばれない大学は、そもそも、その高校に行けないということですか」
……そこに気づくのか。
俺は少し考えてから答えた。
「行けないですね」
「では、実績のない高校には」
「入れないです。基本は」
「新規開拓は」
「難しいです。だから、いま呼んでもらえてる高校を、絶対に落とさないようにする」
天愛星さんは、しばらく黙っていた。
それから、手帳を開いて、書きはじめた。
「……私は、この仕組みを知りませんでした」
声が、少し低かった。
「十年、高等教育行政におりました」
ぱらり、とページが鳴る。
「大学と高校の接続について、報告書を何本も書きました。……現場で誰と誰が、どうやって会っているのかを、私は一度も見ていません」
「まあ、そういうもんですよ」
俺はマグカップを持ち上げた。
「俺だって、文科省が何やってるか、いまだによく分かってないですし」
「それは、私の責任です」
「重いな」
天愛星さんは、書き取る手を止めなかった。
選定の理屈は、単純である。
過去五年、その高校から何人受験して、何人入学したか。
当日、うちのブースに何人座ったか。
参加費に見合うか。
この三つを並べて、上から二十二件を取る。
「参加費は、一件いくらですか」
「三万から八万です。会場と回数で変わります」
「二十二件で」
「今年度、百二十万ちょっとですね」
天愛星さんが電卓を叩いた。
叩いてから、顔を上げた。
「安いですね」
「そう思います?」
「はい。一人入学すれば、四年間で四百万近い納付金です」
「……馬剃さん、それ会議で言ってください」
「なぜですか」
「毎年、予算で削られそうになるんで」
五月十二日、月曜日。
庶務課から、二つの荷物が届いた。
一つは、天愛星さんの名刺。
もう一つは、大学案内の段ボールが十二箱だった。
「馬剃さん、これ、名刺です」
「あ」
彼女は箱を受け取って、自席に置いて、そこで手が止まった。
開けない。
「……どうしました?」
「いえ」
彼女は蓋に指をかけて、ゆっくりと開けた。
中には、真新しい名刺が百枚。
大学のロゴ、部署名、そして名前。
天愛星さんは、一枚を抜き取って、目の高さで見ていた。
しばらく、そのままだった。
「……久しぶりに見ました」
「なにを」
「自分の名前が、印刷されているものを」
じん、と何かがこみ上げるのを、彼女は表情のどこにも出さなかった。
出さないから、余計にこっちに伝わってくる。
俺は自分の作業に戻るふりをした。
戻るふりをして、視界の端で見ていた。
天愛星さんは名刺を三十枚数えて、真新しい名刺入れに入れた。
入れてから、内ポケットに収めて、それから――右手を、そこに当てた。
抜く動作の練習をしていた。
一回、二回。
誰も見ていないと思っている。
俺は完全に見ていた。隣の席なので、見ないほうが難しい。
「で、こっちが大学案内です」
俺はもう一つの荷物を指した。
段ボール十二箱。壁際に積み上がっている。
「これを、当日持っていくんですか」
「持っていかないです」
「え」
「一箱八キロです。十二箱で九十六キロですよ」
天愛星さんが、箱を見た。
「宅配で送ります。開催日の一週間前必着で、業者さん指定の宛先に。会場の高校に直接送ることもあります」
「では、当日は」
「手ぶらです。名刺と、あとは筆記用具くらい」
「手ぶら」
「厳密には、ノートパソコンとモバイルバッテリー持ちます。あと、飴」
「飴?」
「五十分喋ると、喉が死ぬんで」
装備一覧、名刺、パソコン、バッテリー、飴。
RPGなら明らかに初期装備の村人だが、これで五十分のボス戦を二回やるのである。
「のど飴は、経費で落ちるんですか」
「落ちますよ。科目は会議費で。……落ちるか。自腹です」
「自腹」
「五年分で、たぶん幕の内弁当くらいは買えてます」
天愛星さんが手帳に何かを書こうとしたので、俺は「書かなくていいです」と先に言った。
五月十四日、水曜日。
開催校は、都内の私立高校だった。
集合は十三時、開始は十三時三十分。
俺は十一時に大学を出た。
「温水主任」
「はい」
「集合は十三時です」
「そうですね」
「現地までは、乗り換えを含めて四十八分です」
「そうですね」
「いま、十一時二分です」
「そうですね」
「余裕時間が、七十分発生します」
「そうですね」
天愛星さんの眉が、じりじりと下がっていくのが分かった。
俺は、駅前のアーケードのほうへ歩きだした。
「昼にしましょう」
「ファミリーレストランでしたら、駅の反対側に」
「そっちじゃないです」
アーケードを北に抜けて、二本目の角。
タイル張りの、細長い建物である。
一階が眼鏡屋で、その脇の階段を上がると、二階に喫茶店がある。
看板は、電球で縁取りされたやつだった。
電球の三つが、切れている。切れたのは去年で、まだ替わっていない。
「……喫茶店、ですか」
「喫茶店です」
「よくいらっしゃるんですか」
「この会場のときは、毎回です。五年目です」
窓際の四人席に、俺は先に座った。
この席は、通りに面していて、ブラインドが半分下りている。
外からは、まず見えない。
「ナポリタンと、あと」
俺は、メニューを開かずに言った。
「ぶどうジュース、二つください」
「あれ、温水さん。いつものコーヒーじゃなくていいの? 豆、挽いちゃったけど」
カウンターの奥から、マスターが顔を出した。
「あー……、今日はそういう気分なんです」
マスターが、目を細めた。
細めたまま、視線を、俺の向かいへ、ゆっくり移動させる。
見られた天愛星さんの背筋が、ぴん、と伸びた。
三秒。
マスターは、何かを深く察した顔になった。
「なるほどね」
うなずいて、奥に引っこんだ。
……なるほどね、じゃないんですよ。
絶対に誤解している。しかも、たぶん、いちばん面倒な方向に。
弁明しようと口を開いたときには、もう暖簾が揺れているだけだった。
五年通っているが、この店の引き際の速さにだけは、いまだに勝てない。
「……あの」
「はい」
「温水主任は、いつもコーヒーを頼まれるんですね」
「頼みますね」
「では、なぜ今日はジュースなんですか」
「そういう気分なんです」
「しかも、私のぶんまで、勝手に」
おしぼりを握る手に、ぎゅう、と力がこもっていた。
「……だって馬剃さん、コーヒー苦手でしょう」
ぴしり、と音がしそうな勢いで、天愛星さんが固まった。
二秒。
それから、ばっと顔を上げた。
「あれは、高校時代の話ですっ!」
「え」
「今は飲めます! 毎朝、飲んでおります!」
「そうなんですか」
「豆から挽いております! 湯温は九十度、蒸らしは三十秒!」
「手順まで」
「手順どおりに淹れると、おいしいんですっ!」
ぐいぐい身を乗りだしてくる。
テーブルのグラスが、かたん、と鳴った。
――ああ、そうか。
思い出した。
十六年前の冬、ときわ通りのコーヒー屋から、この人が出てきたことがあった。
紙袋を提げて、やけに嬉しそうに笑っていた。
すっかり教えこまれちゃいました、と、たしかそう言った。
教えこんだ覚えは、こちらには一切ない。
ないのに、その人はいま、湯温を九十度で管理している。
「すいません。俺の情報が、十六年ぶん古かったです」
「……古いです。とても古いです」
「更新します」
「更新してください」
天愛星さんは、ふん、と鼻から息を抜いて、椅子に座り直した。
勝った顔をしている。
ブラックコーヒーが飲めるというだけでここまで誇らしげになれる三十四歳を、俺は他に知らない。
「でも、今日はジュースでいいと思います」
「なぜですか」
「馬剃さん、今日たぶん十七時半まで帰れないですよ」
「はい」
「五十分喋って、十分休んで、また五十分喋ります」
「二回転、ですね」
「二回転です。で、そのあと控室で名刺交換の列に並びます」
「……なるほど」
「慣れない仕事で、もうけっこう疲れてるでしょ」
「疲れておりません」
「顔に出てます」
「出ていませんっ」
「疲れたときは、甘いもののほうがいいかなって」
俺は、水のグラスを持ち上げた。
「俺もいつもはコーヒーですけど、久しぶりに頼んでみました」
天愛星さんは、しばらく黙っていた。
黙って、それから、おしぼりを四つに畳んだ。
ジュースが来た。
背の高いグラスに、濃い赤が入っている。
一口飲むと、砂糖の味がしない。ぶどうの味しかしない。
「山梨のワイナリーのやつです。赤のほう。ここにしか置いてないんですよ」
「ここで一時間座っておかないと、二回転目でヘラヘラできなくなるんですよ」
「へら」
「ヘラヘラです。あれ、体力使うんで」
天愛星さんは、グラスに口をつけて、そこで動きを止めた。
止まって、二秒。
それから、グラスを置いて、まっすぐこちらを見た。
顔が、耳まで真っ赤だった。
「……温水主任」
「はい」
「あなた、弱った女性の扱いが、やけに慣れてますよね」
「え」
「外から見えない、落ち着いた喫茶店に連れこんで」
「連れこんでないです」
「甘いもので籠絡するとか」
「籠絡もしてないです」
「しています」
目が、じとっ、と細くなっていた。
顔は真っ赤なのに、目だけが完全に容疑者を見る目である。
「……ジュース頼んだだけなんですけど」
「温水主任。さきほど、疲れたときは甘いもの、とおっしゃいましたね」
「言いましたね」
「では、伺います」
天愛星さんが、テーブルの端のメニュー立てを、こつ、と指先で叩いた。
「この店の甘い飲み物は、ぶどうを除いて五種類あります。オレンジ、パイン、メロンソーダ、レモンスカッシュ、クリームソーダ」
「……いつ数えたんですか」
「座って三分以内です」
この人は、席に着いてから最初の三分で、店の全メニューを暗記していたのだ。
そのうえで飲み放題の規約を精読する。器の使い道が完全に間違っている。
「あなたは、その五つを飛ばしました」
「飛ばしましたね」
「メニューを、開かずに」
「開かなかったですね」
「甘ければよいのであれば、いちばん上のオレンジで足ります」
俺は、返事をしなかった。
「甘い飲み物、というのは条件です」
天愛星さんが、まっすぐこちらを見た。
「赤ぶどう、というのは、条件ではありません」
……この人、詰め方が完全に本職だ。
「条件からは、そこまで決まりません。決まっているということは、条件の外に、なにか根拠があるということです」
「……はい」
「……なぜ、赤ぶどうなんですか」
俺は、グラスの底を見た。
答えは、十六年前にある。
あのとき、俺は駅前の喫茶店で、この人の前に赤ぶどうジュースを置いた。
置いた理由は、その少し前に、砂糖を三つ入れて一気に飲む人を見ていたからである。
理由は、それだけだ。
それだけのことが、十六年、消えなかった。
消えないまま、今日、俺の口が勝手に注文した。
いま言うと、たぶん、この人は黙る。
黙ったあと、たぶん、俺のほうが困る。
「……俺が、飲みたかったんで」
「短いですね」
「短いです」
「本当に隠したいときだけ、短くなりますよね」
「その運用、ほんとにやめてほしい」
「やめませんっ」
天愛星さんは、ストローを咥えて、そっぽを向いた。
向いたまま、半分くらい飲んでいた。
……減るのが、速い。
俺は、それを見なかったことにして、ナポリタンを待った。
しばらくして、彼女は鞄から――なぜか――規程の冊子を取りだした。
「読むんですか、それ」
「読みます」
「休憩ですよ」
「これが休憩です」
俺はジュースを噴きそうになった。
「規程を読むのが休憩って、じゃあ馬剃さんにとって仕事は何なんですか」
「規程どおりに動くことです」
「……一貫してるなあ」
天愛星さんは、冊子を開いたまま、動かなくなった。
……そのページ、さっきから同じところですけど。
控室は、その高校の会議室だった。
十二時五十分に入ると、もう二十人ほどいた。
長机が四列。
スーツの男女が、それぞれの席で名札を確認したり、資料を出したり、スマホを見たりしている。
「今日、何校ですか」
「二十六校ですね」
俺は壁に貼られた座席表を指した。
「国公立が三、あとは私大です。うちは第二教室、二回転」
「二十六校」
天愛星さんが、部屋を見回した。
――知っている顔が、三つある。
「あ、温水さん。お久しぶりです」
声をかけてきたのは、隣の席に座った男性だった。
都内の別の私大の、入試広報の人である。名刺交換は、たぶん四年前だ。
「どうも。今日、教室どこですか」
「第五です。うち、去年ここ二人しか座らなくて」
「うわ、きつい」
「きついですよ。今年もたぶん二人です」
彼は乾いた笑いを浮かべて、それから思い出したように言った。
「そうだ温水さん、例の飴、今日も持ってます?」
「持ってますよ」
「一個いいですか。うち今日、二会場掛け持ちで四回転なんで」
「四回転」
俺は袋ごと差しだした。
「三個持ってってください」
「恩に着ます」
彼は拝むように受け取って、自分の資料に戻った。
「……いまのは」
天愛星さんが、小声で聞いてきた。
「喉の相互扶助です。この業界、飴は通貨なんで」
天愛星さんが、配られた進行表の余白に「飴=通貨」と書いた。
書くんだ、それ。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、書くんですか」
「書きます」
「進行表に」
「余白です」
「あとで人に見られたら、けっこう怖いですよ、それ」
「……」
天愛星さんが、進行表を伏せた。
伏せてから、二秒で裏返して、もう一度その行を見た。
「消さないんだ」
「消しませんっ」
「なんで」
「……記録は、あとから意味が分かるものです」
「格好いいこと言ってごまかしましたね」
「ごまかしていませんっ」
馬剃さんは、進行表を伏せて、裏返して、また伏せた。
三往復した。
――チョロい。
いや、違う。この人はチョロいのではなく、嘘が致命的に下手なだけだ。十六年前から、そこは変わっていない。
「それより、いまの方は」
「他大学の職員さんです」
「競合、ですよね」
「競合ですね」
「あんなに、普通に話されるんですか」
「話しますよ」
俺は椅子に座り直した。
「毎週どこかで顔合わせるんで。年に三十回とか会います。うちの課より会ってるかもしれない」
天愛星さんが、目をしばたかせた。
「……独特ですね」
「独特ですね」
控室というのは、独特の場所である。
全国から集まった二十六校が、同じ部屋で、同じ弁当のかわりに同じお茶のペットボトルをもらって、同じ椅子に座っている。
全員が競合で、全員が同業者だ。
情報交換もする。
「今年、あそこの高校は文系が増えたらしい」「あの業者さん、来年から料金上げるって」。そういう話が、あちこちで小声で交わされている。
嘘は、あまりない。
嘘をつくと、来週の別の会場で会ったときに気まずいからだ。
……この感じは、少し、部室に似ている。
俺はそう思って、すぐに思うのをやめた。
三十四歳が、業務中に思い出すことではない。
十三時ちょうど。
業者の担当者が前に立った。
ユニネクストの三隅さんという、三十代前半の女性である。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。株式会社ユニネクストの三隅です」
部屋が静かになった。
「本日の流れをご説明します。十三時十分より校長先生よりご挨拶、十三時二十分から各教室へご案内、十三時三十分より第一回、十四時三十分より第二回となります」
三隅さんは慣れた口調で続けた。
「教室にはあらかじめ資料を配架しております。生徒は事前の希望調査に基づいて分かれておりますので、各回で人数が変動いたします」
天愛星さんが、猛烈な速さで書き取っていた。
「なお、本日は三年生と二年生の合同開催です。第一回が三年生中心、第二回が二年生中心となります」
――第一回が三年、第二回が二年。
俺はそれを聞いて、頭の中で話の順番を組み替えた。
三年の五月は、もう志望校がだいたい決まっている。
だから欲しいのは「決め手」だ。
二年の五月は、まだ何も決まっていない。
欲しいのは「そもそも大学って何が違うのか」である。
同じ五十分でも、まったく別の話になる。
「馬剃さん」
「はい」
「一回目と二回目、内容変えます」
「え」
「三年と二年なんで」
「……いま、決めたんですか」
「いま決めました」
天愛星さんが、明らかに動揺していた。
校長先生の挨拶が五分あり、三隅さんの誘導で、俺たちは第二教室へ移動した。
普通の教室だった。
机が四十。黒板。窓際に学級目標の紙。後ろの壁に、進路だよりが貼ってある。
俺は入るなり、その進路だよりを読んだ。
「温水主任、それは」
「読みます」
「読むんですか」
「読みます」
五月号だった。
三年生向けで、見出しが「オープンキャンパスに行こう」。
その下に、去年の卒業生の合格体験記が三本。
三本のうち二本が、理系だった。
――理系が強いのか。
俺は自分の話の順番を、もう一度、頭の中で入れ替えた。
十三時三十分。
チャイムが鳴って、生徒が入ってきた。
二十二人。
思ったより多い。前の三列がほぼ埋まった。
俺は教壇に立って、名札を見て、それから黒板の前に出た。
資料は持っていない。
持っているのは、名刺と、ポケットの中の飴だけである。
「こんにちは。今日は来てくれてありがとうございます」
俺はそう言って、少し間を置いた。
「三年生ですよね。……五月にオープンキャンパスの説明を聞くの、正直しんどくないですか」
前列の女子が、ふ、と笑った。
「僕、去年もこの高校に来てるんですけど、五月って、まだ実感ないんですよね。夏になると急に来ます。八月にみんな一気に焦ります」
何人かが顔を上げた。
「なので、今日は焦らせないようにします。四十分で終わらせて、あと十分は質問の時間にします」
空気が、すこし緩んだ。
あとは、いつもどおりだった。
いつもどおり、というのは、決めた話をするという意味ではない。
その逆である。
俺は喋りながら、教室を見ている。
高校生というのは、正直な生き物だ。
つまらないと、目が下を向く。分からないと、眉が寄る。飽きると、指がペンを回しはじめる。
全部、顔に出る。大人みたいに、聞いているふりをしてくれない。
だから、こっちは楽である。
答えが全部、前を向いて並んでいるようなものだ。
三列目の右から二番目の男子が、机の下でスマホを触りかけた。
――ここで一回、顔を上げさせる。
「あ、そうだ。去年うちに入った学生で、面白いやつがいて」
俺は本題を止めて、去年の学生の話をした。
入学式の日に電車を乗り間違えて、隣県まで行った学生の話である。実話だ。
「その子、いま二年でうちの学生広報スタッフやってます。オープンキャンパスで道案内する係です」
笑いが起きた。
スマホが、机の下に戻っていった。
――戻った。
ここで大事なのは、笑わせることじゃない。
笑ったあと、次の一分だけ、こっちの話が入るようになる。その一分に、いちばん大事なことを置く。
次に、二列目の女子が眉を寄せた。
――いまの説明、分からなかったな。
「あ、いま『学部と学科』って言いましたけど、これ最初、全員意味分かんないですよね。僕も分からなかったです」
俺は黒板にチョークで、大きな四角と小さな四角を描いた。
女子の眉が、戻った。
喋る内容は、三つだけと決めている。
一つ、うちの大学がどういう場所か。
二つ、うちを選んだ学生が、入学後にどうなっているか。
三つ、いま何をしておくといいか。
残りは全部、資料に書いてある。
「大学案内、みんなの教室に届いてると思います。うち、けっこう厚いやつ出してて」
俺は指を三本立てた。
「全部読まなくていいです。百二十三ページだけ読んでください。百二十三ページ」
何人かが、メモを取った。
「そこに、日本文学科を出た先輩のインタビューが載ってます。去年、うちの大学案内でいちばん読まれたページです」
――そして、二つ目。
「あと、これは今日いちばん言いたいことなんですけど」
俺は少し声を落とした。
教室が、静かになる。
「みんな、たぶんこれから『指定校は楽だ』って言われることがあると思います」
顔が、いくつか上がった。
「うち、指定校で入った学生の入学後の成績を、三年ぶん追いかけてます。……一般で入った学生より、平均が上です。退学も少ないです」
俺は黒板に、数字を三つ書いた。
「どの入り方で入っても、入ってからどう過ごすかで全部変わります。それだけです」
――使わせてもらった。
この数字は、先週、隣の人が作ったものである。
俺は、そのとき初めて、隣を見た。
天愛星さんは、教室の後ろに立っていた。
手帳を、開いていた。
開いたまま、持っていた。
ペンが、動いていなかった。
五十分が終わって、チャイムが鳴った。
「はい、じゃあ終わります。ありがとうございました」
拍手が起きた。
生徒が出ていって、教室が空になる。
俺は黒板を消して、それから振り返った。
「馬剃さん」
「……はい」
「メモ、大丈夫でした?」
天愛星さんは、手帳を見た。
白紙だった。
「……申し訳ありません」
「いや、別にいいですけど」
「一行も、取っておりません」
「うん」
「私、五十分、何をしていたんでしょうか」
彼女の声が、かすかに震えていた。
俺はチョークを箱に戻しながら答えた。
「聞いてたんじゃないですか」
十分の休憩があって、二回目が始まった。
二年生が入ってきた。十六人。
顔つきが、さっきとまるで違う。まだ、他人事の顔をしている。
俺は最初の一言を変えた。
「二年生ですよね。じゃあ今日は、大学の話しません」
顔が、いくつか上がった。
「大学って何なのか、の話をします。うちの大学に来なくていいんで」
――掴んだ。
二年生に大学の宣伝をしても、まず入らない。
彼らはまだ、自分が受験する側だと思っていない。
だから、先に「売り込まない」と宣言する。
宣言した瞬間、こっちの話は宣伝じゃなくなる。
俺はそこから五十分、学部の違いと、文系理系の分かれ方と、あとは自分が大学一年のときにやらかした話をした。
うちの大学の名前は、最後の三分にしか出さなかった。
終わってから、二人が前に来て質問をした。
二年生の五月に、大学の職員に質問しに来る子は、めったにいない。
二回転終わって、控室に戻ったのは、十五時三十五分だった。
控室には、もう列ができていた。
前のほうに、この高校の先生方が三人並んで立っている。
その前に、二十六校の職員が、順番に並んで名刺を出していく。
「これ、なんですか」
「名刺交換です」
「並ぶんですか」
「並びます。一人一分くらいです」
天愛星さんが、列の長さを目で測った。
「一分」
「一分ですね。ゆっくり話せる場じゃないんで」
列が進む。
俺たちの番が来た。
俺は名刺を出しながら、顔を上げた。
――あ。
立っていたのは、綾野光希だった。
うわ、と喉の奥で声が潰れた。
綾野の手が、名刺を出したまま止まっている。
「……温水?」
「綾野」
「え、待って」
後ろに、二十校ぶんの列がある。
俺は名刺を差しだした。
綾野が、反射的に受け取った。
「本日はありがとうございました。入試広報課の温水です」
「……あ、はい。進路指導部の綾野です」
俺の後ろから、天愛星さんが一歩出た。
「同じく、馬剃と申します」
綾野が名刺を受け取って、目を落として、固まった。
「馬剃……天愛星さん?」
「はい」
「えっ」
後ろの人が、待っている。
綾野が、名刺の裏を見て、それから顔を上げた。
「……あとで連絡する」
「うん」
それだけだった。
俺たちは頭を下げて、列を抜けた。
外に出ると、五月の夕方だった。
「一分でしたね」
「一分でしたね」
天愛星さんが、鞄を持ち直した。
「……心臓に、悪いです」
「悪いですね」
「あの、温水主任」
「はい」
「五十分の件ですが」
彼女が、こちらを見た。
「二回目、一回目とまったく別の内容でした」
「まあ」
「私、二回目もメモを取りませんでした」
「そうですか」
「……なぜでしょうか」
俺は駅までの道を歩きだした。
「馬剃さん」
「はい」
「メモ、二回目からでいいですよ」
「……二回目」
「今日じゃなくて、次の会場です。今日は見るだけでよかったんで」
天愛星さんが、足を止めた。
「では、最初からそう言ってください」
「言うと、見なくなるんですよ」
彼女は、それきり何も言わなかった。
言わずに、半歩後ろを歩いていた。
綾野から連絡が来たのは、その日の夜だった。
メッセージアプリに、いきなり三人のグループが作られていた。
『温水/馬剃さん/綾野』
『今日はお疲れ様でした。仕事の顔で名刺出されて、こっちが泣きそうになった』
『土曜、時間ある? 飲みでも飯でもいいので』
俺は画面を見て、しばらく指を止めていた。
既読が、二つついた。
『ぜひ、伺います』
天愛星さんが、先に返していた。
土曜日の夜、俺たちは新宿の居酒屋の個室にいた。
綾野は私服で来た。
ネクタイのない綾野は、十六年前とほとんど同じに見えた。
「いや、ほんとに驚いた」
乾杯してすぐ、綾野が言った。
「うちの高校でガイダンスやるってのは知ってたけど、参加校の一覧って進路指導部に来るのは前日なんだよ。しかも大学名だけ」
「そうなんだ」
「そう。で、当日、名刺交換の列に立ってて、温水って書いてある名刺出されて」
綾野がジョッキを置いた。
「心臓止まるかと思った」
「悪い」
「謝るなよ」
天愛星さんは、烏龍茶を飲んでいた。
今日は飲まないらしい。
理由は、たぶん、綾野がいるからだと思う。この人は、二人までしか気を許せない。
「馬剃さんもすごいな。文科省でしょ」
「……十年おりました」
「で、いま大学職員」
「はい」
「なんか、すごい遠回りだね」
綾野が、悪気なく言った。
俺は横を見た。
天愛星さんは、少しだけ笑っていた。
「そうですね。遠回りです」
「あ、ごめん」
「いえ。事実ですので」
二時間くらい、いろんな話をした。
朝雲千早は綾野の妻で、教育系のシステム会社にいるらしい。
子どもが二人。上が小四で、下が幼稚園。
「上の子が最近、千早と同じやり方で勉強しはじめてさ」
「教科書全部覚えるやつ?」
「そう。俺、止めてるんだけど」
「止めたほうがいいと思います」
天愛星さんが真顔で言って、綾野が笑った。
「馬剃さん、変わんないな」
「変わりました」
「どこが」
「校則を暗記しなくなりました」
「就業規則を暗記してるんですよ、この人」
俺が言うと、天愛星さんが横から睨んできた。
「余計なことを言わないでください」
「事実だろ」
「事実ですが、初対面に近い方に開示する情報ではありません」
「初対面じゃないだろ、十六年ぶりなだけで」
綾野が、げらげら笑った。
「なにこれ。お前ら、そんな喋る仲だったっけ」
空気が、一瞬だけ、とん、と沈んだ。
俺はビールを飲んだ。
天愛星さんは烏龍茶を飲んだ。
「……職場が同じなので」
天愛星さんが言った。
「席も隣ですから」
「隣!?」
「隣です」
綾野が、俺のほうを見た。
なにか言いたそうな顔をしていた。
言いたそうな顔のまま、こいつは何も言わずに、枝豆に手を伸ばした。
……こういうところが、この男の一番怖いところである。
二軒目には行かなかった。
駅までの道で、綾野が急に足を止めた。
「温水」
「うん」
「お前さ」
綾野は、少し困ったような顔をしていた。
怒っていなかった。
怒ってくれていたら、たぶん、もっと楽だった。
胃の底のあたりが、ずしりと重くなる。
「連絡くらい、くれよ」
「……悪い」
「いや、いいんだけど」
綾野は頭をかいた。
「なんかさ、あのころ、いろいろあったじゃん。お前がしんどかったのも、なんとなく分かってたし」
「うん」
「だから、誰も追いかけなかったんだよ。追いかけないほうがいいと思って」
俺は、道路のアスファルトを見ていた。
「でもさ」
綾野が言った。
「みんな、お前が元気にしてるかだけ、知りたかったんだよ」
ぐさ、と来た。
返す言葉が、なかった。
喉のあたりが、詰まって、ふさがって、何も通らない。
俺は口を開いて、何か言おうとして、結局「ああ」とだけ言った。
綾野は気にしたふうもなく、俺の肩を軽く叩いた。
「まあ、また飲もう。今度は千早も連れてくる」
「うん」
「馬剃さんも、ぜひ」
「はい。ありがとうございます」
改札の前で、綾野が思い出したように振り返った。
「あ、そうだ」
「なに」
「文芸部のグループ、まだ残ってるからな」
俺は足を止めた。
「お前、まだ入ってるぞ」
帰りの電車は、意外と空いていた。
俺と天愛星さんは、同じ路線で三駅だけ一緒になる。
ドアの横に並んで立って、しばらく何も喋らなかった。
「温水さん」
天愛星さんが言った。
今日は「温水主任」ではなかった。
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「水曜日の、五十分」
電車が揺れた。
「あの話し方は、いつからですか」
「いつから、って言われると」
「高校のときの、あなたではありませんでした」
俺はつり革を握り直した。
「まあ、十二年もやってれば」
「そうでしょうか」
天愛星さんが、こちらを見た。
「私は、少し、面影があると思いました」
「面影?」
「一言目です」
――五月にオープンキャンパスの説明を聞くの、正直しんどくないですか。
「相手が嫌がっていることを、先に自分から言うんです」
天愛星さんは、前を向いていた。
「先に言って、相手を楽にする。……あれは、昔からのあなたです」
俺は、返事をしなかった。
「あの」
「はい」
「先ほど、綾野さんに肩を叩かれたとき」
「うん」
「なにか、言おうとされてましたよね」
「言おうとしてないよ」
「口が開いていました」
「開いてないって」
「一・五秒ほど」
「なんで測ってるんだよ」
天愛星さんは、答えなかった。
次の駅で、彼女は降りた。
降りる前に、いつもより浅く頭を下げて、「お疲れさまでした」と言った。
一人になってから、俺はスマホを取りだした。
メッセージアプリを開いて、下にスクロールする。
仕事のグループ、家族のグループ、同人関係のグループ。
その、ずっと下。
アーカイブの中に、それはあった。
『ツワブキ文芸部』
通知はオフになっていた。
いつオフにしたのか、覚えていない。たぶん、東京に来た最初の年だ。
最初のうちは、通知が鳴るたびに画面を見ていた。
見て、開かずに戻していた。それを何度か繰り返して、ある夜に通知を切った。
切ったときのことは、はっきり覚えている。
大学の狭い部屋で、蛍光灯が一本切れかけていて、俺はそれを直すのが面倒で、暗いまま指を動かした。
あれで終わりにしたつもりだった。
終わりにしたつもりの人間が、十六年後の五月に、まだ同じアプリを持っている。
とん、と親指が止まった。
俺は、それから開いた。
最後のメッセージは、八年前だった。
『温水君、生きてる?』
送り主は、八奈見杏菜。
その下には、何もなかった。
誰も、それ以上は何も送っていなかった。
八年間、誰も。
スクロールを上げると、その前のやり取りがあった。
誰かの結婚の報告。誰かの引っ越し。焼き肉の写真。日付は九年前で、十年前で、十二年前だった。
どこにも、俺の発言はなかった。
――返事を待ってたのか。
そう思ってから、俺は自分に呆れた。
待たせてたんだよ。
みぞおちのあたりが、きゅっと縮んだ。
電車が駅に着いて、ドアが開く。
ホームに降りて、階段を上って、改札を抜けた。
スマホをしまおうとして、俺は一度、画面を見た。
入力欄が、そこにある。
カーソルが点滅している。
なにか打てば、八年ぶりにこのグループが動く。
……なにを打つんだ。
『生きてる』か?
三十四歳が、八年前の『生きてる?』に。
俺は画面を消した。
駅前の坂を上りながら、俺はふと、水曜日の教室のことを思い出していた。
白紙の手帳。
開いたまま、動かなかったペン。
あの人は、五十分間、たぶん一度も、俺から目を離さなかった。
……いや。
それは、俺が見ていたということでもある。
俺は、五十分、生徒を見ていたはずだった。
なのに、教室の後ろに立っていた人が、いつペンを止めたかを覚えている。
――OJTだからな。
俺は自分にそう言った。
言ってから、坂の上で一度、立ち止まった。