(一月十三日〜十七日/温水視点)
「温水さん、質問です」
「はい」
「試験監督って、教員がやるんですよね」
「やる」
「じゃあ当日、俺たち事務は、なにをするんですか」
「それ以外の全部だ」
一月十三日、火曜日、十時十分。
大貫が、共通テストの本部要員名簿を片手に、俺の机の横に立っていた。
「全部って、なんですか」
「受付、誘導、連絡、問題冊子の仕分け、答案の回収、電話番、遅刻者対応、体調不良者対応、忘れ物、落とし物、報道対応、雪かき」
「雪かき!?」
「降ったらな」
「降るんですか」
「五年に一回くらい降る」
「今年は」
「知らん。天気予報に聞け」
大貫は、名簿を胸に抱えたまま、天井を見上げた。
「俺、本部要員って、もっとこう、司令室でヘッドセットつけて『各員、配置につけ』みたいなやつだと思ってました」
「つかない」
「つかないんですか」
「うちの無線は、肩から下げる紐付きのやつだ」
「夢がないです」
「夢は要らない。電池は要る」
俺は名簿を受け取って、赤ペンで一行を丸で囲った。
『大貫 連絡員(二号館・三号館)』の行である。
「連絡員って、なにをするんですか」
「走る」
「それだけですか」
「紙を持って走る。口では伝えない」
「なんでですか」
「口で伝えると、途中で変わる」
大貫が、少し黙った。
「……伝言ゲームってやつですか」
「あれの規模が、五十万人になったやつだ」
「温水さん、もう一個いいですか」
「なんだ」
「この二日間の、目標ってなんですか」
俺は、名簿から目を上げた。
「再試験にしないことだ」
「さいしけん」
「再試験だ。追試験じゃない」
「違うんですか」
「追試験は、受験生側のやむを得ない事情で受けられなかった人が、あとで別の会場で受けるやつだ。会場は、全国に二つしかない」
「はい」
「再試験は、こっちのせいだ」
「……こっちの」
「ICプレーヤーが壊れる。問題冊子の配り間違い。監督者が違う指示を出す。それで正常に受験できなかった場合、一週間後に、同じ会場で、もう一回やる」
「一週間後」
「一週間後だ」
大貫が、名簿を見た。
「一週間後って……二十四日ですよね」
「そうだ」
「一般入試の準備、真っ最中じゃないですか」
「真っ最中だ」
「同じ緊張感で、もう一回やるんですか」
「もう一回やる。四十二人で、同じ朝の六時十分から」
大貫が、名簿を胸に抱え直した。
「……絶対いやですね」
「絶対いやだ」
俺は、そこで少しだけ、言い方を足した。
「あと、それ以上に」
「はい」
「一週間、あの千百人が、もう一回、この二日間を待つことになる」
大貫が、口を閉じた。
背後で、椅子の回る音がした。
「大貫さん」
「……はい」
「監督要領は、お読みになりましたか」
馬剃さんだった。
膝の上に、四百ページの冊子が乗っている。
小口から付箋がはみ出して、冊子というより、もう生き物に近い。
「よ、読みました」
「何ページまでですか」
「……三十ページ、くらいです」
「四百ページあります」
「事実は、変わらないでほしかったです」
大貫は、その冊子を、しばらく眺めていた。
「馬剃さん、それ、付箋すごくないですか」
「色分けしております」
「なんの色ですか」
「青が手順。黄色が、昨年からの変更点です」
「赤は」
馬剃さんの手が、止まった。
「……赤は、業務外です」
「業務外の付箋が、なんで業務の本に貼ってあるんですか」
「貼っておりません。混入です」
「混入」
「先週、自宅で分類作業をしておりまして、その際に、混入しました」
「分類作業って、なんの」
「……業務外ですっ」
「いま二回言いましたね、業務外」
「二回でも三回でも申し上げますっ! 業務外は、業務外ですっ!」
ばん、と机が鳴った。
鳴らしてから、鳴らした自分の手をじっと見て、それから、そっと膝に戻した。
「……失礼しました。声量が、不適切でした」
「いえ」
「音量の管理は、業務スキルですので」
しれっと言い直した。
しれっと言い直しながら、赤い付箋を一枚だけ抜いて、鞄の内ポケットにしまった。
――二百六十七冊を、三色で分類している人の、赤である。
俺は、何も見なかったことにした。
見なかったことにするのは、この一年で身についた、いちばん重要な業務スキルである。
馬剃さんは、手帳を開いた。
「では、確認します。あなたの持ち場に、監督の先生から内線が入りました。『受験生が、問題の誤植を指摘している』と」
「え、えっと。……本部に、連絡!」
「正解です。では、そのあと、あなたは何をしますか」
「……待つ?」
「待ちません。動きません」
「動かないんですか!?」
「動かないことを、選んでください。連絡員がその場を離れると、本部からの折り返しが、どこにも届かなくなります」
「……それ、いちばん難しいやつじゃないですか」
「難しいです」
馬剃さんは、そこで一度うなずいた。
「ですので、当日ではなく、明日、全員に申し上げます」
「馬剃さん、なんかもう、完全に本部の人ですね」
大貫が言った。
言った瞬間、隣の椅子が、がたっ、と鳴った。
「……ほ、本部の人ですっ。私は。本部の人ですのでっ」
「はい」
「当然ですっ! 当然のことを、当然のように申し上げただけですっ!」
語尾が、ぴん、と跳ねた。
跳ねたあと、四百ページの冊子を胸に抱えこんで、顔だけ窓のほうに向けた。
耳が、じわ、と赤くなっていくのが、横から丸見えである。
……この人は、褒められると、必ず一回、怒る。
怒ってから照れるのではない。照れているのを隠すために、先に怒る。
順番を知っていると、けっこう可愛い。
知っていることは、言わないでおく。
「温水さん、二日間で、いちばん大事な日っていつですか」
「明日だ」
「明日? 試験、土曜と日曜ですよね」
「土曜と日曜だ。でも、いちばん大事なのは明日だ」
当日にやることは、四百ページに全部書いてある。
問題は、その四百ページが、当日その部屋に立っている人の頭に入っているかどうかで、そこだけは、紙が勝手にやってはくれない。
「監督やるの、うちの先生方ですよね」
「そうだ」
「先生方って、普段なにしてるんですか」
「講義して、論文書いて、学生の相談に乗ってる」
「……四百ページ、読む時間あります?」
「ない」
「ないんですか!?」
「ないから、明日、四十五分で頭に入れてもらう」
「四十五分」
「四十五分だ。誘導員と連絡員も、同じ部屋で聞く」
誘導員と連絡員は、うちの職員である。
こちらも普段は、窓口と電話と起案の人間だ。
つまり全員、素人ではないが、専門家でもない。
その全員に、大学入試センターの指示が、正しく、同じ形で届いているかどうか。
共通テストの第一の肝は、たぶん、そこにしかない。
昼前に、桑原主査が俺の机に付箋を一枚置いていった。
『電池発注済。予備マイク六本。飴補充要』
十六文字で、用件が三つである。
この人の燃費は、年が明けても変わらない。
「温水さん、最後の『飴補充要』ってなんですか」
「監督の控室に置くのど飴だ。二日間で三袋なくなる」
「飴、経費で落ちるんですか」
「落ちる。今年から」
「誰が通したんですか」
「俺が申請して、俺が査定した」
大貫が、三秒くらい止まった。
「それ、いいんですか」
「規程上は問題ない」
「出典は」
「規程だ」
隣の席で、馬剃さんが手帳に何かを書いたのが見えた。
たぶん『飴=経費(今年度から)』である。
四月に『飴=通貨』と書いた同じ手帳に、続きが増えていく。
その日の午後、馬剃さんが刷り上がりの束を持ってきた。
厚い。
「温水さん。資料の枚数ですが」
「何枚ですか」
「六十二枚です」
「多いです」
「削れる箇所はありません」
「去年の説明会で、寝てた先生が三人います」
馬剃さんの動きが、止まった。
「……三人」
「二列目に二人、後ろに一人。俺、後ろに座ってたんで、全部見えました」
「事実ですか」
「事実です」
彼女は、束を机に置いた。
置いて、二秒、たぶん本気で困っていた。
「削るのは、改変です」
「分かってます」
「センターの要項を、私の判断で要約するわけには、まいりません」
「要約しなくていいです」
俺は、束の背をとん、と指で叩いた。
「配り方を変えるだけです」
「配り方」
「監督者用、誘導員用、連絡員用。三つに分ける。それぞれ、その人が動く順番に並べ替える」
馬剃さんが、顔を上げた。
「……順番」
「五月に、会議の議題でやったやつです」
彼女の手が、手帳に伸びた。
伸びて、途中で止まった。
「あれは、あなたが教えてくださったことです」
「じゃあ、出典は俺ですね」
「……いいえ」
馬剃さんは、束を三つに分け始めた。
「順番を変えるのは、改変ではありません。同じ内容を、読める形にすることです。……出典は、私です」
「いま奪いました?」
「引用しただけです」
しれっと言った。
しれっと言いながら、耳の先だけが、少し赤い。
この人は、盗んだものを、必ず出典つきで返してくる。
「もう一つ、いいですか」
「はい」
「明日、先生方に『お願いします』を、最初と最後に置いてください」
「……手順の説明に、挨拶を挟むということですか」
「挟むというか、そこが本体です」
馬剃さんが、束を分ける手を止めた。
「本体」
「先生方は、業務命令で監督をやってるわけじゃないです。頼まれてやってます」
「規程上は、入試委員会の決定に基づく業務です」
「規程上はそうです。でも、人間は、頼まれたと思ってないと、四百ページを読みません」
馬剃さんは、二秒くらい、俺を見ていた。
それから、手帳を開いた。
「……存じませんでした」
「文科省では、違いましたか」
「役所では、通知を出せば、動きました。動かない場合は、督促を出しました」
「大学は督促が効かないんですよ。教員には教授会があるんで」
「……はい」
彼女は、そこで珍しく、素直に書いた。
書いてから、顔を上げずに言った。
「私、この規模の説明会は、はじめてです」
「はじめてですか」
「はい。……ですので、教えていただけると、助かります」
――助かります、と言った。
四月に来たときのこの人なら、たぶん言わなかった台詞である。
「じゃあ一つだけ。緊張したら、机の縁を持っててください」
「なぜですか」
「手が震えるより、机が震えるほうが、下からは見えないんで」
「……それは、どこの規程ですか」
「俺です」
「……承知しました」
彼女は、手帳に書いた。
書いてから、たぶん無意識に、机の縁を両手で握った。
「いま、練習しました?」
「してませんっ!」
ばっ、と手が離れた。
離れた手の置き場所がなくなって、結局、膝の上で、ぎゅっ、と組まれた。
「練習は、業務時間外に行いますっ」
「じゃあ、やるんですね」
「……やりますっ」
やるらしい。
一月十四日、水曜日、十三時二十五分。
大講義室に、教員が三十七人と、職員が四十二人。
開会は、柏木部長だった。
「えー、結論から言うと、二日間、よろしくお願いします」
結論だけで終わった。
この人の挨拶は、毎年これで、毎年これが一番評判がいい。
開会の五分前、廊下で会った。
馬剃さんは、三分冊を持って、立っていた。
立って、動いていなかった。
「馬剃さん」
「はいっ」
「顔、白いです」
「白くありませんっ」
「白いです」
「白くっ、ありませんっ。……血色は、平常ですっ」
平常の人は、廊下でその台詞を二回言わない。
彼女は、三分冊を持ち直した。
持ち直した拍子に、いちばん上の一冊が、ばさっ、と落ちた。
拾って、また落として、三回目でようやく持てた。
「……温水さん」
「はい」
「机の縁は、演台にも、ありますか」
「あります」
「……よかったです」
小さい声だった。
小さい声だったが、俺には聞こえた。
馬剃さんが、演台に立った。
紺のスーツ。手元に、六十二枚を分けた三分冊。
背が低いので、マイクの高さを、こつ、と一度だけ直した。
俺の位置からは、演台の縁を握った左手が見えた。
白くなっていた。
「入試広報課の馬剃です。……本日は、二日間のために、お集まりいただき、ありがとうございます」
最初に、それが来た。
昨日の午後に言ったことが、十八時間で実装されている。
「みなさんに覚えていただきたいことは、三つです」
声が、揺れなかった。
「一つ。太字は、そのまま読んでください。それ以外は、読まないでください」
「二つ。判断が必要になったことは、すべて本部に上げてください」
「三つ。迷ったときは、止めるのではなく、連絡してください」
彼女は、そこで三分冊を持ち上げた。
「以上です。残りの六十二枚は、この三つを実行するための手順です」
講義室が、少し静かになった。
毎年、この説明会は、開始十分で空気が緩む。
今年は、緩まなかった。
「では、昨年から変わった点を、先に申し上げます。三点です」
変更点を、先に言う。
去年までは、六十二枚を一枚目から順に読んでいた。
人は、変わったところだけを聞きたいのである。
「一点目。第二日の理科の解答時間の扱いが変わりました。読み上げ文言も変わっています。昨年の記憶で読み上げると、間違います」
三十七人が、いっせいに資料をめくった。
ばさ、ばさ、と紙の音が波になった。
「二点目。リスニングで、再開テストの対象となる申し出があった場合の、記録の様式が変わりました。再開解答番号の確認が、一段階増えています」
手が、一本上がった。
今年から監督に入った、若い先生だった。
「あの、再開テストというのは」
「解答時間中に、ICプレーヤーの不具合などで解答を続けられなくなった場合に、リスニングの試験終了後、別のICプレーヤーを使って、中断した設問から受け直していただく試験です」
「よくあるんですか」
「毎年、全国のどこかで、必ずあります」
「うちでは」
「五年間で、四件です」
馬剃さんは、そこで俺のほうを一度も見なかった。
五年間で四件、というのは、俺が二十二枚のどこにも書かなかった数字である。
どこかで、この人が自分で数えたのだと思う。
「三点目。体調不良の申し出があった場合、監督者のご判断で退室させることは、できません。本部が判断します」
手が、一本上がった。
鵜飼先生である。
文学部で、慎重で、文章を読む人だ。
「馬剃さん、いいかね」
「はい」
「二十二ページに『速やかに』とある。三十一ページには『直ちに』とある。これは、使い分けがあるのかね」
俺は、内心で、あ、と思った。
毎年、誰も聞かない箇所である。
馬剃さんは、〇・五秒で答えた。
「あります。『直ちに』は、他の一切に優先して、という意味です。『速やかに』は、当該時限の運営を止めない範囲で、可能な限り早く、です」
「ふむ」
「要項の中で、この二語が入れ替わっている箇所は、ありません。全部、確認しました」
鵜飼先生の眉が、上がった。
「……全部というのは」
「四百ページ、二周しました」
講義室が、ざわ、とした。
ざわ、のあとに、少しだけ、別の質の静けさが来た。
この人が「二周しました」と言ったとき、それは比喩ではない。
それを、いま、三十七人が同時に理解した。
「よろしい。使い分けが分かった」
鵜飼先生は、資料に何か書き込んだ。
書き込んでいるあいだに、もう一本、手が上がった。
情報学部の先生である。
「馬剃さん、一つ」
「はい」
「監督中に、トイレに行きたくなったら」
「補助の監督者に交代していただき、本部に連絡してください」
「連絡もですか」
「連絡もです」
「トイレにも、様式が」
「ございます。三十七ページです」
講義室の、あちこちで頁がめくられた。
三十七ページに何が書いてあるかを、今年、はじめて三十七人が知った。
その、めくる音がやんだころに、また別の手が上がった。
経済学部の蓑田先生である。
白髪で、監督歴が長い。
「あのね、馬剃さん」
「はい」
「私はね、この監督を三十年やってるんですよ」
……来た。
毎年、必ず一人はいる種類の発言である。
俺は、いつでも立てるように、椅子の上で少し重心を前にした。
「毎年、同じことでしょう。三十年、同じことをやってきた」
「はい」
「読まなくても、分かりますよ」
馬剃さんは、うなずいた。
否定しなかった。
「三十年ぶんのご経験を、今年の受験生のために使わせてください」
「……ん」
「ただし、手順は、今年のものでお願いします」
蓑田先生の目が、細くなった。
「今年のもの、ね」
「先ほど申し上げた三点は、いずれも昨年から変わっております。三十年のうち、二十九年は、いまと違う手順でした」
「……」
「先生の三十年は、本日、二十九年ぶん、無駄になりません。無駄になるのは、変わった三点だけです」
しばらく、誰も何も言わなかった。
蓑田先生が、鼻から息を吐いた。
「……三点だけね」
「三点だけです」
「覚えられる数だ」
先生は、資料を膝の上で開き直した。
俺は、椅子の重心を、そっと後ろに戻した。
出番が、なかった。
――そういえば、この人は、これが二度目である。
十六年前、体育館の壇上で、全校生徒を相手に一度やっている。
あのときは、鼻血を出しながらやった。
今日は出していない。
成長と呼んでいいのかどうか、判断が難しいところだった。
質疑が終わったところで、彼女は妙なことを言い出した。
「では、最後に、読み上げの確認をします」
「読み上げ?」
誰かが聞き返した。
「太字の箇所を、実際に、声に出していただきます」
講義室が、揺れた。
「……全員でですか」
「全員でです。三十秒で終わります」
三十七人の教員と、四十二人の職員が、資料の同じページを開いた。
馬剃さんが、合図をした。
そして、七十九人が、声をそろえて読んだ。
これから何の試験を始めるかを告げる、決められた文言である。
教える側になって二十年、三十年の人たちが、書いてあるとおりに、書いてある速さで読み上げる。
妙な迫力があった。
迫力があって、そして、少しだけ、可笑しかった。
権田先生が、一人だけ、二行ぶん速かった。
鵜飼先生が、一人だけ、句読点で必ず止まった。
蓑田先生は、三行目まで去年の文言で読んでいて、四行目で気づいて、そこから急に声が小さくなった。
読み終わったあと、その蓑田先生が小さく笑ったのが、後ろから見えた。
「ありがとうございました。……いま、二か所、速さが違いました」
「え」
「四行目と、六行目です。速いほうに合わせないでください。遅いほうが、正しいです」
「……誰が速かったのかね」
鵜飼先生が言った。
言い方が、明らかに、犯人を知っている言い方だった。
「申し上げません」
「なぜかね」
「本日、誰が速かったかは、業務に関係ありません。二日後、遅いほうで読んでいただければ、それで足ります」
権田先生が、後ろの席で、腕を組んだ。
「……いいぞ」
自白だった。
これも、去年まではやっていなかったことだった。
そして、たぶん、来年からは毎年やることになる。
「本日の資料は、当日、必ずお持ちください」
彼女は、最後にそう言った。
「お忘れの方のために、本部に予備を四十部、置いておきます」
――忘れる前提で、置くのか。
俺は、少しのあいだ、それを考えていた。
この人は、規則を信じている人ではない。
規則が守られなかった場合に何が起きるかを、いつも先に数えている人である。
「では、二日間、どうぞよろしくお願いいたします」
最後も、「お願い」だった。
三十七人が、資料を持って立ち上がった。
誰も、置いていかなかった。
説明会が終わって、名簿を突き合わせた。
欠席、三名。
「三名です。学会と、外勤と、体調不良です」
「資料、送っときますか」
「送ります。ですが、それだけでは、伝わったことになりません」
馬剃さんは、もう鞄を持っていた。
「本日中に、三名の研究室を回ります」
「三名とも?」
「三名ともです。同じ三点を、口頭で申し上げます」
「何分かかりますか」
「一人十五分、移動を含めて、六十分です」
俺は、時計を見た。
十五時十分。
窓口には、一般入試の願書が毎日届いている。
電話は鳴る。設営は明後日で、その準備も全部、この人の机の上にある。
「……六十分、ありますか」
「ありません」
「ないんですか」
「ありませんので、作ります」
作る、と言った。
この人は、時間を、探すものではなく作るものだと思っている節がある。
思っている節がある、どころではない。
九年前、文科省で三年かけて仕組みを一つ通した人の、それが手口だった。
「一人、手伝います」
「業務時間外になります」
「まだ十五時十分です」
「……あなたは、十五時十分から、会計課の案件が二件あります」
「よく知ってますね」
「共有フォルダを見ました」
「その調査力」
「配分に向かっています」
真顔だった。
結局、俺は行かなかった。
行かないほうが、六十分は六十分のまま使えるからである。
夕方、彼女が戻ってきた。
「どうでした」
「三名とも、在室でした」
「三点、伝えました?」
「伝えました。……一名は、四点目を質問されました」
「四点目」
「『去年と同じでいいんだろう』という質問です」
「……なんて答えたんですか」
馬剃さんは、鞄を置いた。
「『いいえ』と申し上げました」
二文字だった。
この人が本当に譲らないとき、返事は、いつも短い。
「あと、温水さん」
「はい」
「三名とも、最初に『お忙しいところ、恐れ入ります』と申し上げました」
「言えましたか」
「……言えました。三人目が、いちばん自然でした」
「上出来です」
「っ」
肩が、びくん、と跳ねた。
跳ねてから、椅子を引いて、座って、資料を持ち上げた。
持ち上げた資料が、上下逆さまだった。
「馬剃さん」
「なんですかっ」
「それ、逆です」
「……」
すう、と資料が下がって、くるり、と回って、また上がった。
「……気づいておりました」
「はい」
「確認の、一環ですっ」
「はい」
耳が、真っ赤だった。
この人は、称賛を受けると、まず装備から壊れる。
条文を一言一句間違えない人の装備が、褒め言葉四文字で壊れる。
……ちょろい、というやつである。
十六年前から、そこだけは、なにも変わっていない。
もちろん、言わない。
言ったら、たぶん、二時間くらい怒られる。
一月十五日、木曜日、九時。
俺は、封筒を一通、彼女の机に置いた。
センターから来た、受験上の配慮に関する決定通知の写しである。
十一月に届いて、十二月に部屋を押さえて、一月に人を割り当てた。
馬剃さんは、通知を最後まで読んで、それから顔を上げた。
「一名です」
「一名です」
「点字。時間延長、一・五倍。別室。専任の監督者二名」
「はい」
「全時限、一・五倍ですか」
「全時限です」
俺は、机の上に、もう一枚を置いた。
一号館一〇二号室、と書いた紙である。
「なので、あの部屋だけ、別の一日が走ります」
馬剃さんの手が、止まった。
「……別の、一日」
「時間割が、全部違います。開始も、休憩も、終わりも」
「終了予定は」
「一日目が二十時四十分。二日目が十九時五十分です」
「……二十時四十分」
「はい」
彼女は、二秒、通知を見ていた。
見てから、手帳を開いた。
「では、あの部屋の帰りの動線は、暗い中になります」
「なります」
「照明の点灯時刻と、正門から駅までの街灯を、確認します」
「確認してあります。十二月に」
「……はい」
「ただ」
俺は、そこで少し言い方を選んだ。
「今年は、確認する人が二人います」
馬剃さんが、顔を上げた。
上げて、何か言おうとして、やめて、手帳に書いた。
書いた文字は見えなかったが、たぶん短かった。
一〇二号室は、一号館の一階の、小さい教室である。
机は一つ。椅子は一つ。
その机だけが、他の教室のものより、二回りほど大きい。
「机、大きくないですか」
「点字の問題冊子は、分冊です。全部広げると、普通の机では載りません」
「何冊ですか」
「科目によります。多いときは、机の上が本棚みたいになります」
馬剃さんは、机の前に立って、天板の縁を指でなぞった。
「重さは」
「一科目で、二キロ超えるのもあります」
「……二キロ」
「なので、運ぶのは二人でやります。落とすと、たぶん、順番が分からなくなる」
彼女は、そこで手を止めた。
「順番が分からなくなると、どうなりますか」
「分冊の番号を、こっちが目で見て並べ直します。時間がかかる。……その時間は、あの人の解答時間から出ます」
馬剃さんは、何も言わなかった。
言わないで、机の縁から手を離して、両手で鞄を持ち直した。
「落としません」
「はい」
「私は、落としません」
二回言った。
二回言うときは、たいてい、その人の中でもう決まっている。
「あと、誘導の話をします」
「お願いします」
「手は、引かないでください」
「引かない」
「肘か肩を貸して、向こうから掴んでもらいます。掴む側が主導です」
「……はい」
「あと『こっち』と『そこ』は、使えないです」
「では、何を使いますか」
「数字です」
俺は、廊下のほうを指した。
「『三歩前に、五センチの段差があります』。それが正しい案内です」
馬剃さんは、手帳を開いた。
開いて、書かなかった。
「どうしました」
「……それは、私、できます」
「できますか」
「言葉で位置を示すのは、得意です」
真顔で言った。
真顔で言ったあと、たぶん自分で言いすぎたと思ったらしい。
「……いえ。得意というのは、言いすぎました。他人より、少し、慣れているだけです」
三秒で撤回した。
「慣れてるのは、すごいですよ」
「っ」
撤回した先に、褒め言葉が置いてあった。
彼女は、鞄の持ち手を、きゅっ、と握り直した。
「……業務の一環ですっ」
「はい」
「業務の、一環ですのでっ」
二回目のほうが、大きかった。
俺は少し黙った。
深夜二時に、文書の語尾を直していた人である。
十年、言葉の精度だけで飯を食っていた人の、その技能が、いま、はじめて誰かの足元に使われる。
「では、確認します」
彼女は、廊下に出た。
出て、正門のほうを向いて、目を閉じた。
「正門から、この部屋まで。……二十二歩、まっすぐ。左に九十度。四歩で自動扉。扉を抜けて七歩、右手に受付。受付から十四歩で、右手に一〇二」
「歩幅は」
「私の歩幅です。ですので、明日、もう一度、測ります」
「誰の歩幅で」
「……当日、伺います。ご本人に」
――伺う、と言った。
勝手に決めない。
この人は、たまに、ものすごく正しい。
「監督者は」
「権田先生と、鵜飼先生です」
「あの二人ですか」
「即決の人と、文章を読む人です。読み上げ文言の分量が、他の部屋より多いんで」
「……なるほど」
「あと、あの二人は、二十時四十分まで残ると言っても、嫌な顔をしないです」
「先に、確認されたんですか」
「十二月に」
馬剃さんは、手帳に一行書いた。
たぶん『権田・鵜飼=別室(十二月に内諾)』である。
「温水さん」
「はい」
「一つ、よろしいですか」
「どうぞ」
「あの部屋は、特別扱いになりますか」
俺は、少し考えて、言った。
「ならないです」
「はい」
「同じ試験を、同じ条件で受けてもらうために、手順だけが違います。それだけです」
馬剃さんは、しばらく一〇二の扉を見ていた。
見てから、扉の枠を、手のひらで一度だけ軽く押した。
建てつけの確認だった。
一月十六日、金曜日、十五時五十六分。
俺は、会計課から一号館に歩いていた。
今週は、木曜と金曜を入れ替えてもらってある。
理由は単純で、金曜の十六時に抜けるためだ。
入試広報の島にいて十六時に抜けようとすると、あの島は絶対に俺を抜けさせてくれない。会計課からのほうが、逃げ足が速い。
構内は、もう試験場の顔になっていた。
昼過ぎから、四十二人で設営をやっている。
掲示板が立ち、順路の矢印が貼られ、教室の机から余計なものが消えている。
毎年のことなのに、この景色になると、少しだけ空気が締まる。
一号館の一階に、馬剃さんが立っていた。
台車の上に、座席表の束と、赤ペンと、ストップウォッチ。
「十五時五十七分です」
「三分前です」
「存じております。私は十三時から居ります」
「三時間ですか」
「三時間です」
彼女は、束をこちらに差し出した。
「時計は」
俺が聞くと、馬剃さんは、束の角をこつ、とそろえた。
「大貫さんの班です。三名で、十七時までに終わります」
「百十四個、全部ですか」
「百十三個です」
「……一個は」
「あとで、ご一緒します」
「……今年は自分がやるって、言ってませんでした?」
「申し上げました」
「言いましたよね」
「……はい。言いました。ですので、先週、あなたに伺いました」
「なんて聞きましたっけ」
「『百十四個を一人で見るのと、百十四個を見る人を配置するのと、主任はどちらですか』と」
――ああ。
言われた。木曜の朝、給湯室の前で言われた。
俺はそのとき、たしか、こう答えた。
「後ろだって答えましたね」
「答えました。ですので、後ろにしました」
「素直ですね」
「一年目ですのでっ」
語尾が、ぴん、と跳ねた。
しれっと言ったつもりで、跳ねている。
この人が「一年目ですので」を使うときは、たいてい、こちらの言い分を全部飲んだあとだ。
飲んだあとで、飲んだのが少し悔しくて、語尾が跳ねる。
「それに」
「はい」
「時計は、些事です」
俺は、手を止めた。
「……些事、ですか」
「些事です」
馬剃さんは、こちらを見なかった。
座席表の束を、指で二度そろえた。
「些事ですので、五年前、三十七分、誰も見なかったのだと思います」
一号館の廊下が、少しだけ、静かになった気がした。
「些事は、些事のまま置いておくと、いちばん危ないです。ですので、担当を決めて、時刻を決めて、配置しました」
「……はい」
「本日、私が見ていなければならないのは、些事ではないほうです」
彼女は、束の一枚目をめくった。
「温水さんを十六時にお呼びしたのは、時計のためではありません」
「じゃあ、なんのために」
「貼っていない目が、必要でしたので」
「貼っていない目」
「十三時から、四十二人で受験番号票を貼りました。貼った人間は、もう、正しく見えます」
――ああ。
俺は、束を両手で受け取った。
貼った人間には、貼ったとおりに見える。
これは、五年やっても言語化できなかったことで、二十二枚にも書けなかったことである。
「……それ、どこで覚えたんですか」
「文科省です」
「文科省で貼るんですか、番号を」
「貼りません。ですが、自分が書いた条文を自分で校正すると、二回に一回は誤字が残ります」
「同じですね」
「同じです」
「順番は」
「十四室を、七組で回ります。組は、午後に貼った教室と入れ替えてあります」
「貼った教室は、自分で見ない」
「見ません。私たちは、第一、第七、第八、第十四です」
「一〇二は」
「一〇二は、最後です。あそこだけ、私が二回見ます」
第一試験場は、一号館の大教室だった。
机が八十六。左上の角に、受験番号票が一枚ずつ貼ってある。
俺が座席表を持ち、彼女が机の列を指でたどった。
「〇一〇一」
「〇一〇一」
「〇一〇二」
「〇一〇二」
数字が、二人ぶん、順番に廊下まで響く。
八十六回やって、次の教室に移る。
同じことを、七組が、十四室でやっている。
……これがラブコメなら、放課後の空き教室に二人きり、という札の立つ場面だ。
立たない。
こちらは片手に座席表、口からは四桁の数字が出続けている。
ラブコメの神様も、番号を読み上げている男には近寄らない。
「〇一四五」
「〇一四五」
「〇一四六」
「〇一四六」
「〇一四七」
「〇一……なな……よん……」
「温水さん」
「はい」
「〇一四七です」
「〇一四七です」
「大丈夫ですか」
「数字が、模様に見えてきました」
「二十四番目です。この教室は、あと六十二あります」
「……はい」
「交代しますか」
「します」
読み上げ役と、指差し役を替えた。
替えたら、直った。
人間の目は、四十分で壊れる。
壊れる前に替えるのが、たぶん、手順というものである。
「〇二一七」
「〇二一七」
「〇二一八」
「……〇二一八」
彼女の指が、一度だけ、止まった。
「温水さん」
「はい」
「この列、二十四番目の机に、番号票が貼られていません」
「予備は」
「持っています」
貼って、座席表に印を入れて、また続きを読み上げる。
こういうのが一枚出る。毎年、必ず出る。
四十二人で八時間貼れば、千百枚のうち一枚は、必ずどこかに落ちる。
落ちること自体は、事故ではない。
落ちたまま朝を迎えるのが、事故である。
第七試験場を出たところで、大貫の声がした。
「温水さん、ちょっといいですか」
時計の班のはずである。
「終わったのか」
「終わりました。百十三個、全部動いてます」
「早いな」
「三人でやったんで。……それより、第十が、なんか変なんですよなあ」
「第十?」
「午後、俺が貼った教室です」
馬剃さんが、廊下の先から戻ってきた。
「大貫さん。ご自分が貼った教室は、照合の担当から外してあります」
「知ってます。外されたんで、通っただけです」
「通って、何がありましたか」
「数、合ってるんですよ。八十のうち八十」
「合っているなら、よろしいのでは」
「でも、俺がさっき貼りながら読み上げた順番と、違うんですよなあ」
馬剃さんが、走った。
この人が構内で走るのを、俺は十か月ではじめて見た。
三人で、第十試験場の机の前に立った。
座席表と、机上の番号票を突き合わせる。
二列目の、三番目と四番目。
入れ替わっていた。
数は合っている。八十枚のうち、八十枚ある。
合っているから、数える確認では、絶対に見つからない。
「……こっちのほうが、こわいやつだな」
「こわいです」
馬剃さんが、赤ペンで座席表に印を入れた。
入れてから、大貫のほうを向いた。
「大貫さん」
「は、はい」
「なぜ、気づきましたか」
「……えっと。俺、数字で覚えてないんですよ」
「では、何で」
「順番で覚えてます。『ゼロ二三、ゼロ二四、ゼロ二五』って、リズムで」
「リズム」
「実況みたいなもんです」
馬剃さんは、手帳を開いた。
開いて、書いた。
『照合の読み上げ役は、数字を音で覚える者を充てる』
「え、俺、いま馬鹿にされました?」
「褒めています」
「褒め方が独特なんですよなあ」
褒め方は独特だが、来年の手順が、いま一行増えた。
増やしたのは、二十四歳の実況である。
貼った人間には、貼ったとおりに見える。
だから、貼った人間には見せない。
――というのが、原則である。
原則の外から一つ拾ってくるやつが、うちの課には一人いるらしい。
十六時四十分から、マイクと放送の確認をした。
十四室と一〇二、一室ずつ、電源を入れて、声を出す。
「ただいま、マイクの試験中です」
俺の声が、誰もいない八十六人ぶんの机に落ちた。
誰もいない教室で自分の声を聞くのは、五年やっても、少し変な気分である。
三室目で、事故が起きた。
『あー、あー。大貫でーす。えー、本日は晴天なり。本日は晴天なりー』
構内放送だった。
全館である。
俺は、廊下の窓から外を見た。
設営中の四十二人が、全員、動きを止めていた。
三十秒後、大貫が三号館から走って戻ってきた。
「すみませんでした! スイッチが! スイッチが二つあって!」
「二つある」
「知らなかったんですよ!」
「知っといてくれ」
馬剃さんが、無言で近づいてきた。
歩幅が、ふだんの一・五倍あった。
小柄な人が歩幅を広げると、ものすごく速い。
かつ、かつ、かつ、と廊下が鳴って、三秒で目の前に来た。
「大貫さん」
「はいっ」
「本日は晴天なり、というのは、なんですか」
「……マイクテストの、定番です」
「定番の出典は」
「知りません!」
「では、明日から、使わないでください」
「はいっ」
「……あの、馬剃さん」
「なんですか」
「怒ってます?」
「怒っていませんっ!」
怒っていた。
怒っていたが、三秒後には、もう次の教室のマイクの前に立っていた。
この人の怒りは、いつも、次の作業に上書きされて消える。
厳しい。
厳しいが、この人は、たぶん帰ってから「本日は晴天なり」の出典を調べる。
調べて、月曜に教えてくれる。
賭けてもいい。
「第九試験場、入りません」
馬剃さんの声が、隣から聞こえた。
「電池ですか」
「替えました。替えても入りません。本体です」
「予備は」
「六本あります。試験場は十五室ですので、四十パーセントです」
「多いですか、少ないですか」
「存じません。前例が、手元にありません」
「五年で、使ったのは二本です」
「では、六本で足ります」
彼女は、そこではじめて、丸めずに納得した。
数字を持っている人間の言うことは、素直に聞く人である。
予備マイクに交換して、もう一度、声を出した。
今度は入った。
不良のほうには、彼女が付箋を貼った。
『不良。廃棄禁止。修理検討』
「捨てないんですか」
「直るかもしれません」
「直らなかったら」
「そのときに、判断します」
この人は、マイクまで見捨てない。
十六時五十分から、問題冊子の仕分けを見た。
これが、たぶん、事前準備でいちばん地味で、いちばん間違えられない工程である。
教室ごと、時限ごとに、冊子と解答用紙を数えて、封をする。
当日は、時限が始まるたびに、本部からその時限のぶんだけを出す。
全部まとめて渡してはいけない。
数えるのは、必ず二人で、声に出す。
「二十八」
「二十八」
「三十一」
「三十一」
声だけを聞いていると、何かの祈りみたいである。
実際、祈りに近い。
一〇二のぶんだけは、別の台車に載っていた。
分冊の束が、時限ごとに紐で括ってある。
馬剃さんは、その台車の前でだけ、数え方を変えた。
「一、二、三、四……」
一冊ずつ、指で押さえて数えていた。
声には出さなかった。
出さないほうが、間違えないからだと思う。
答案の回収袋も、同じ数だけ用意してある。
袋の口には、回収した枚数を書く欄がある。
枚数が合わない状態で、袋は封じられない。
「答案は」
彼女が、袋の束を数えながら言った。
「一枚も、欠けてはいけません」
「はい」
「一枚欠けると、その一人の一年が、なかったことになります」
――十月に、この人が電話口で言った言葉を、俺は思い出しかけた。
思い出しかけて、やめた。
思い出さなくても、同じ人が、同じことを言っている。
十六時五十八分。
最後に、俺たちは三〇四に行った。
大貫さんの班の名簿に、この教室だけ、入っていない。
「なんで一個だけ残したんですか」
「十二月に、伺いましたので」
「効率は」
「二分、落ちます」
「落としていいんですか」
馬剃さんは、脚立を肩に担ぎ直した。
「本日、落としてよい二分は、ここだけです」
三〇四は、普通の教室である。
机が四十、椅子が四十。窓から西日が入って、床に長い影を作っていた。
時計は、黒板の上にある。
どこの教室にもある、白い文字盤の掛時計だ。
俺は脚立を立てて、時計を外して、彼女に渡した。
馬剃さんは、裏蓋を開けて、古い電池を抜いて、新しいのを入れた。
針を合わせて、俺に返す。
俺は、それを黒板の上に戻した。
二人で、秒針を見た。
「三秒です」
「三秒です」
秒針は、動いていた。
カチ、カチ、カチ、と三回動いて、四回目も動いた。
「動いています」
「動いてます」
それだけである。
それだけなのに、俺は毎年、この教室でだけ、少し長く時計を見る。
五年前、この時計の下で、一人の受験生が三十七分間、間違った時間を見ながら問題を解いた。
その子が正しかったことは、あとから制度が保証した。
でも、三十七分間の心細さは、たぶん、誰も保証していない。
馬剃さんは、何も言わずに脚立をたたんだ。
たたんでから、手帳に一行書いた。
本部に戻ったのは、十七時六分だった。
「馬剃さん」
「はい」
「予定、六十分でしたよね」
「六十六分です」
「六分、超えてますね」
「六分は、誤差ではありません」
「じゃあ、なんですか」
馬剃さんは、手帳を見なかった。
見ないで、言った。
「三〇四に、六分いました」
俺は、返事をしなかった。
彼女も、それ以上は言わなかった。
十七時三十分、本部。
長机が三つ、コの字に組んである。
電話が四台、無線機の充電器、名簿、館内図、実施要領、そして役割分担表。
人が入ってきた。
学長。事務局長。宮里副学長。学部長が三名。柏木部長。鷲尾課長。桑原主査。俺と、馬剃さんと、大貫。
試験本部員である。
この人たちが、二日間、この部屋で指揮を執る。
「では、役割の読み合わせをします」
馬剃さんが、分担表を配った。
「読み合わせ?」
事務局長が、聞き返した。
「配って終わりでは、伝わったことになりません」
――出た。
水曜と同じ台詞である。
この人は、相手が学長でも、同じ台詞を使う。
「一人ずつ、ご自分の欄を、声に出してお読みください」
コの字が、静まり返った。
最初に読んだのは、桑原主査だった。
「西門。誘導。八時から」
十一文字だった。
燃費が、本部でも変わらない。
全員がひととおり読み上げたところで、馬剃さんが、学長のほうを向いた。
「本部長に、お願いすることがあります」
「ん」
「二つです」
学長が、少し姿勢を直した。
この人は、十六年前に入試委員長として、四年待ってくれと会議のたびに頭を下げたと聞いている。
「一つ。試験の中断と、再開の判断」
「うん」
「二つ。不正行為の認定」
「うん」
「以上です」
学長が、まばたきをした。
「……以上かね」
「以上です」
「私は、それだけしかせんのか」
「それ以外は、本部長に上げません」
部屋の空気が、ぴん、と張った。
学部長の一人が、口を開きかけて、やめた。
馬剃さんは、続けた。
「上げないことを、あらかじめ、お許しいただきたく存じます」
「……なぜかね」
「本部長のご判断が必要な事案は、二日間で、ゼロか、一件です」
「うむ」
「ゼロであってほしい事案です。ですので、それ以外のことで本部長のお時間をいただくと、その一件のときに、遅れます」
学長は、しばらく、分担表を見ていた。
見てから、笑った。
「本部長というのは、座っているのが仕事だと思っていたが」
「座っていていただくことが、仕事です」
「即答だな」
「はい」
「……では、私は、何を読めばよいのかね」
「分担表の、ご自分の欄です」
「二行しかないぞ」
「二行です」
学長は、老眼鏡を上げて、分担表を持ち直した。
持ち直して、読んだ。
「試験の中断及び再開の判断。不正行為の認定」
二行で、二十三文字。
この大学でいちばん偉い人の欄が、この部屋で二番目に短い。
一番は、桑原主査の十一文字である。
燃費で、負けていた。
「……許す」
学長が、そう言った。
俺は、はじめて、この部屋で息を吐いた。
権限を制限する提案を、権限のある人に承認させる。
九年前に文科省でやろうとして、五年目に一行で消されたことの、たぶん、いちばん小さい成功例である。
「では、想定を一件、実施します」
「想定?」
柏木部長が言った。
「センターから、問題訂正の指示が入電した場合です」
「いまからやるの」
「一回、三分です」
馬剃さんは、ストップウォッチを机に置いた。
押した。
俺が本部の電話を取る係、彼女が文面を書き取る係、大貫たちが走る係である。
監督者役は、設営に残っていた職員が務めた。
書き取った文面を、二人で復唱する。
訂正文だけを一枚に印刷して、十五室ぶんに分ける。
連絡員が、紙を持って走る。
口頭では、伝えない。
紙が届いて、監督者が読み上げて、板書して、実施報告が返る。
そこまでで、一件である。
一回目は、四分二十秒だった。
「遅いです」
「どこがですか」
「二か所です。一つ、印刷。三号館ぶんを、二号館ぶんと一緒に刷りました。分けて刷ります」
「もう一つは」
「連絡員が、四人とも、私の後ろに立っていました」
「……立ってたら駄目なんですか」
「一枚の紙が出てくるのを、四人で見ていました。立っていてよいのは、一人です。残りは、階段の下で待ちます」
「だって、あれ、出てくるの見たいじゃないですか」
大貫だった。
「見たくないです」
「見たいですよ。プリンター、こう、うぃーんって」
「うぃーんは、四人で見なくても、うぃーんです」
「……たしかに」
納得しないでほしかった。
二回目をやった。
二分五十秒だった。
「二分五十秒です」
「速いですね」
「本番は、三分を目標にします」
「十秒、余らせるんですか」
「余らせます」
馬剃さんは、ストップウォッチを止めた。
「本番の廊下には、千百人の受験生がいます。人がいる廊下は、遅くなります」
誰も、何も言わなかった。
言わないまま、柏木部長が、椅子の背にもたれた。
「……結論から言うと、去年よりいいわ、これ」
十八時二十分、島に戻った。
帰り支度をしていると、彼女が紙袋を差し出してきた。
「温水さん。返却が、あります」
袋の中の緑を見て、俺は少しのあいだ、言葉が出なかった。
「……おかえり」
十六年物は、見違えていた。
ほつれは消え、毛玉は取られ、傷んでいた端が、きれいに始末されている。
「ほつれ二箇所、補修。毛玉、除去。端の傷んだ部分は、切り詰めて始末しました」
「プロの仕事だ」
「教本が、四冊目に入りましたので」
四冊目まで行ったのか。
「それと、切り詰めた端ですが」
「うん」
「端数処理の結果が、こちらです」
小さな包みから出てきたのは、緑のお守り袋だった。
あの生地で縫われた、手のひらに収まる袋である。
十六年が、形を変えて、まだ現役でいる。
「お守り」
「明日の、装備です」
「効能は」
「十六年の実績です。かなり効果があると思います」
「……最強じゃん」
「最強です」
即答だった。
窓の外は、もう暗かった。
明日の朝、この暗さの中を、千百人が歩いてくる。
歩いてくる千百人を迎える俺の内ポケットには、明日、十六年の実績が入っている。
一月十七日、土曜日、午前六時十分。
正門の前は、まだ夜だった。
自販機の光だけが、白く浮いている。
俺は小銭を入れて、ボタンを押した。
ごとん、と落ちてきたのは、おしるこだった。
「……」
「押し間違いですか」
「かじかんでました」
「事実の確認です。責めてはいません」
「その確認がいちばん刺さるんですよ」
馬剃さんが、コートのポケットから手帳を出しかけた。
「書かないでください」
「記録は文化です」
「敗北の記録は文化じゃないんです」
俺はもう一度小銭を入れて、今度こそ黒いラベルの缶コーヒーを二本買った。
一本を、隣に差し出した。
「まずいですよ」
「存じております」
馬剃さんは、両手で受け取った。
受け取って、飲まずに、まず手で包んだ。
一月の朝六時にあたたかいものを手で包む。それだけで、缶コーヒーは仕事の半分を終えている。
「眠れました?」
「四時間半です」
「人に言ったぶんは、守るんですね」
「出典が私ですので」
――出典に責任を持つ人である。
俺は、おしるこの蓋を開けた。
朝六時のおしるこは、甘さが凶器である。
目は覚めた。
覚めた目に、赤が入った。
コーヒーを両手で包む彼女の、髪をまとめた結び目のところに、見覚えのある赤があった。
小さくて、少し不格好で、三段目に編み直しの跡のある赤である。
「……それ」
「勝負のときの、装備ですっ」
先回りでキレられた。
「まだ何も言ってないです」
「顔が言っていますっ!」
「顔は緩んでるだけです」
「認めましたねっ!」
白い息が、ふわ、ふわ、と二回ぶん増えた。
缶を持った両手が、ぐっ、と胸の高さまで上がる。
小柄な人が全身で抗議すると、缶コーヒーが一緒に上下する。
朝六時の正門で、黒いラベルが二回、上下した。
「……装備、です」
三回目は、小さかった。
小さくなったのを聞いて、俺はおしるこの蓋を開けた。
これ以上見ていると、こっちが持たない。
装備らしい。
休みの日用、のつもりで渡した記憶があるが、装備の運用規程は、所有者が決めるものである。
材料費九百八十円の装備は、自販機の白い光の下で、ちゃんと勝負の顔をしていた。
俺のコートの内ポケットには、十六年物の端数がいる。
装備は、相互である。
六時半、本部に四十二人が集まった。
本部長は学長で、副本部長が事務局長。
でも、この部屋で一番前に立って諸注意を読み上げたのは、馬剃さんだった。
「開門は七時三十分。第一時限の開始は九時三十分です」
声は、揺れなかった。
「本日、みなさんにお願いすることは、一つだけです」
彼女は、そこで実施要領を持ち上げた。
「決められたとおりに、お願いします。工夫は、要りません。工夫が必要になる事態は、すべて本部が引き受けます」
四十二人が、静かにうなずいた。
十か月前、模擬プレゼンの三枚目で止まった人である。
俺は、その事実を、この部屋で一人だけ知っている。
解散間際、俺は隣に小声で言った。
「声、揺れなかったですね」
馬剃さんの手から、ペンが落ちた。
かつん、と床で跳ねた。
拾おうと屈んだ拍子に、今度は名簿が、ばさばさ、と三枚ぶん落ちた。
名簿を拾って、ペンを拾って、また落として、もう一回拾った。
最後は、ペンを両手で握っていた。
「……は、発声は。発声は、業務スキルです。研修で。研修とかで、やりますので」
「研修でやるんですね」
「やります。たぶん」
たぶん、と言った。
条文は一言一句間違えない人が、褒められた途端に「たぶん」を使う。
耳が、綺麗に赤い。
十六年前から思っていたが、この人は、規則には無敵で、称賛にだけ極端に弱い。
俺は名簿に目を戻した。
これ以上見ていると、こっちの耳まで巻き込まれる。
六時五十五分に、それは来た。
鷲尾課長のスマートフォンが鳴って、次に大貫の私物が鳴って、三番目に本部の固定電話が鳴った。
「温水さん。JR、止まってます」
「どこで」
「二つ隣の駅です。人身事故。運転見合わせ、再開見込み未定」
俺は、無線の電源を入れた。
入れながら、頭の中で線路を引いた。
うちの受験生の、およそ四割はその線に乗ってくる。
残りのうち二割がバスで、二割が自転車と徒歩、あとは保護者の車である。
「馬剃さん」
「はい」
「バスも遅れます。線路が止まると、道路に人が流れるんで」
「……はい」
「七時半の開門から、たぶん、いつもの三分の一しか来ません」
彼女は、館内図の前に立っていた。
立って、動かなくなった。
七時三十分、門を開けた。
人が、少なかった。
いつもなら、開門前に列ができる。
今日は、列がない。
自転車で来た子が数人と、保護者の車から降りた子が二人。
あとは、まばらである。
まばらな正門というのは、なんというか、見ていて胃に悪い。
「本部、正門です。開門しました。到着状況、およそ二割です」
『本部、馬剃です。……二割』
「はい」
『……確認します』
その「確認します」が、ふだんより〇・五秒遅かった。
俺は、それを聞いて、正門を守衛さんに預けた。
持ち場を離れないことは要領のうちだが、要領には、こうも書いてある。
本部の機能が損なわれるおそれがある場合は、この限りでない。
七時四十分、本部。
馬剃さんは、机の前に立っていた。
立って、手帳を開いて、ペンを持っていた。
持ったまま、一文字も書いていなかった。
ペン先が、白い頁の上で、かたかた、と細かく震えている。
「馬剃さん」
「っ、……温水さん」
振り向いた勢いで、机の角に腰がぶつかった。
ごつ、と鈍い音がして、館内図の画鋲が一本、床に落ちた。
落ちた画鋲を、彼女は拾わなかった。
拾えなかったのだと思う。
「確定しません」
声が、半音、上がっていた。
「何がですか」
「人数です。何名が、いま、どこにいて、何時に着くのか。……確定しません」
彼女は、手帳の白い頁を見ていた。
「鉄道の再開見込みが、未定です。未定ですので、到着時刻が出ません。到着時刻が出ないので、繰り下げ幅が出ません。繰り下げ幅が出ないと、別室の時間割が組めません。別室の時間割が組めないと、終了時刻が出ません。終了時刻が出ないと、帰りの動線が」
「馬剃さん」
「……はい」
「息、吸ってください」
彼女は、そこで一度、口を閉じた。
閉じて、すう、と吸った。
吸って、止めて、はく、と短く吐いた。
肩が、二回、上下した。
二回目のほうが、少し長かった。
この人が慌てると、説明が三割増える。
十六年前から変わっていない。
増えた三割は、全部、正しい。
正しいことを正しい順番でつなげているのに、いちばん前の一つが確定しないので、全部が動かない。
「確定、しないです」
「……確定、しないんですか」
「しないです。今日は、確定しないまま決めます」
馬剃さんが、顔を上げた。
目の縁が、少し赤い。
睫毛が、ぱち、ぱち、と二回、速く動いた。
「……そんな決め方が、ありますか」
「あります」
「ありませんっ」
逆だった。
この人は、いちばん不安なとき、いちばん要らないところで強く出る。
九年前の役所でも、たぶん、そうやって強く出て、そうやって一行で消されたのだと思う。
「馬剃さん」
「……はい」
「あります。俺が、五年やってます」
「……」
「根拠のない決め方です。すみません」
彼女は、二秒くらい、俺を見ていた。
見てから、ふ、と肩の力が落ちた。
落ちた肩の高さが、この人の平常である。
「……根拠は、あなたです」
「弱いですよ、それ」
「弱くありませんっ」
また跳ねた。
跳ねたが、今度は、声が震えていなかった。
俺は、館内図の前に立って、白紙を一枚、机に置いた。
「決める順番だけ、先に決めましょう」
「順番」
「一つ。繰り下げるかどうか。二つ。何分繰り下げるか。三つ。誰に、何を、どの順で伝えるか」
俺は、白紙に三つ、番号を書いた。
「このうち、一つ目は本部長が決めます。三つ目は手順書に書いてあります」
「では、私たちが決めるのは」
「二つ目だけです」
馬剃さんは、白紙の「二」を見た。
三分の一になった。
三分の一になっただけで、この人の呼吸は、少し戻る。
「温水さん」
「はい」
「繰り下げなかった場合、間に合わなかった受験生は、どうなりますか」
「追試験です」
「追試験」
「交通機関の遅延は、本人の責めに帰さない事由です。申し出れば、来週、別の会場で受けられます」
「……別の会場」
「全国に二つです。うちの受験生の場合、片道で三時間半かかります」
馬剃さんの手が、館内図の上で止まった。
「繰り下げれば、その方は、今日ここで受けられます」
「受けられます」
「では、繰り下げます」
「二つ目を、どう決めますか」
「五年ぶんの、俺の勘でよければ、三十分です」
「……根拠は」
「鉄道の遅れは、三十分刻みで戻ります。三十分繰り下げると、たいてい足ります」
「六十分では」
「六十分にすると、最終時限が押します。リスニングは、日没後の帰宅動線に直結します。それと」
俺は、そこで一〇二と書いた紙を指した。
「あの部屋が、二十一時を超えます」
馬剃さんが、動いた。
動いて、館内図の一〇二の上に、指を置いた。
「……一〇二を、先に組みますか」
「先に組みましょう」
「なぜですか」
「いちばん動かしにくいところから決めるからです。あそこが決まれば、あとは全部そのあとです」
彼女は、手帳を開いた。
開いて、今度は、書いた。
書く速度が、いつもの速度に戻っていた。
「三十分繰り下げの場合。一〇二の第一時限開始、十時。休憩、規定どおり。最終時限終了予定、二十一時十分」
「二十一時十分」
「日没から、四時間十五分後です」
「街灯は」
「点いています。十二月に確認しました。……確認したのは、あなたですが」
「今年は、二人ですね」
「……はい」
彼女は、そこでペンを一度置いた。
置いて、こう言った。
「三十分で、お願いします」
「本部長に上げるのは、馬剃さんです」
「はい」
「言い方、決まってますか」
「決まっています」
即答だった。
この人が本当に困っているとき、返事は短くなる。
いまの返事は、短くなかった。
七時五十二分。
馬剃さんが、学長の前に立った。
手には、白紙が一枚。三つの番号が書いてあるだけの紙である。
「本部長。ご判断を、一件お願いします」
「うん」
「交通機関の遅延により、第一時限の開始を繰り下げるべきか否か。事務局の意見は、繰り下げ、三十分です」
「根拠は」
「二つあります。一つ、現時点の到着率が二割であること。二つ、六十分にすると別室受験の終了が二十一時四十分となり、帰宅動線が確保できないことです」
学長は、白紙を受け取った。
受け取って、三秒くらい見た。
「別室は、一名か」
「一名です」
「……一名のために、三十分にするのか」
「いいえ」
馬剃さんは、そこで首を振らなかった。
振らずに、まっすぐ言った。
「千百一名のために、三十分にします」
学長が、白紙を机に置いた。
置いて、ペンを取った。
「繰り下げる。三十分」
「承知しました」
「センターへの報告は」
「私が、直ちに」
――直ちに、と言った。
昨日、鵜飼先生に説明したとおりの用法だった。
センターへの電話は、四分で終わった。
俺は隣で聞いていたが、彼女の言葉は、驚くほど短かった。
試験場番号。事象。発生時刻。到着率。判断内容。繰り下げ幅。変更後の各時限の時刻。別室の変更後時刻。連絡責任者名。
それだけを、順番どおりに言った。
向こうから確認が二つ来て、二つとも即答した。
電話を切ってから、彼女は受話器を見ていた。
「早かったですね」
「……向こうが、何を聞きたいかが、分かりましたので」
「分かるんですか」
「分かります」
――ああ、そうか。
俺は、受話器を置く彼女の手を見ながら、遅れて理解した。
大学入試センターは、文部科学省所管の独立行政法人である。
つまり、いまの電話の向こうにいるのは、この人が十年、同じ言葉で仕事をしてきた相手だった。
「速やかに」と「直ちに」を使い分ける相手。「おおむね」を嫌う相手。事象、時刻、件数、判断、根拠——その順で聞き、その順で書き取る相手である。
俺なら、まず状況を説明しようとする。
説明したうえで、相手の理解を確かめて、それから判断を言う。
それで、十五分かかる。
この人は、説明をしなかった。
最初から、向こうの様式で喋った。
――さすがは、元文部科学官僚である。
俺は、たぶん一生、あの電話を四分では終わらせられない。
八時二十分から、伝達が始まった。
順番は、手順書のとおりである。
監督者への連絡。掲示の差し替え。構内放送。正門と西門の口頭案内。保護者控室への掲示。ホームページの緊急告知。報道対応の窓口一本化。
大貫が、掲示物を抱えて走っていった。
「行ってきます!」
「走るな。……いや、走れ」
「どっちですか!?」
「廊下は走るな。外は走れ」
「了解です!」
外に出た瞬間、あいつは全力で走った。
人がいない朝の構内で、二十四歳が全力で走るのは、見ていて悪くない光景である。
九時十五分、構内放送。
馬剃さんが、放送室のマイクの前に座った。
原稿は、彼女が二十分で書いた。
定型がない部分だったからである。
繰り下げの案内は、大学が作る。
つまり、ここだけは、この二日間で唯一、文言が決められていない場所だった。
「受験生のみなさんに、お知らせします」
声が、構内に流れた。
千百一人が座っている建物に、この人の声が届いている。
「本日、公共交通機関の遅延により、本試験場では、第一時限の開始を三十分繰り下げます」
「変更後の開始時刻は、十時ちょうどです」
「各時限の解答時間は、変更ありません」
彼女は、そこで一拍置いた。
原稿には、たぶん、ここまでしか書いていない。
「繰り下げの理由は、みなさんの側には、ありません」
俺は、放送室の壁に背中を預けたまま、天井を見た。
――工夫は、要りません。
昨日そう言った人が、今日、たった一行だけ、工夫した。
工夫した一行は、手順書のどこにも載っていない。
載っていないが、たぶん、今日いちばん必要な一行だった。
「以上です。落ち着いて、いつもどおりに、お願いします」
放送が切れた。
馬剃さんは、マイクのスイッチを二度確認してから、椅子を引いた。
引いて、立って、それから、俺のほうを見た。
「……いま、原稿にない文を、一行入れました」
「入れましたね」
「報告します。事後報告になりますが」
「聞きます」
「……以上です」
「それだけですか」
「それだけです」
彼女は、原稿を四つに折った。
折り目の角が、定規で引いたようにそろっていた。
九時五十九分。
構内から、音が消えた。
千百一人が、同じ問題冊子を開いている。
外から見ると、ただの静かな建物である。
消えた音が、もう一度、外から戻ってくるまで、あと八時間なかった。