大学職員の僕たち   作:房吉

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~28敗目~ 特記事項なし(後編)

 (一月十七日〜二十日/温水視点)

 

 十時十四分だった。

 

 坂の下から、走ってくる子がいた。

 

 女子が一人。鞄が背中で暴れている。

 

 転びかけて、持ち直して、また走る。

 

 俺は、無線を取った。

 

「本部、正門です。遅刻者一名、第一時限、女子一名」

 

『本部、馬剃です。現在十時十四分。繰り下げ後の入室限度は、十時二十分です』

 

「了解」

 

 女の子が、門の前で止まった。

 

 止まって、何か言おうとして、息だけが出た。

 

「大丈夫、間に合います。受験票見せてください」

 

 差し出された受験票は、手ごと震えていた。

 

「……電車が」

 

「途中から走ってきた?」

 

「はい……っ」

 

「偉い。正解です」

 

 試験場の欄を見る。第三試験場、二号館の三階。

 

「本部、正門。受験票確認。第三試験場です」

 

『第三試験場、二号館三階。正門から徒歩四分です』

 

「三分で行かせます。誘導、大貫」

 

「任せてください!」

 

 大貫が、女の子の横に並んだ。

 

「よし、走るよ! 俺についてきて! この先、渡り廊下抜けて階段三十六段! 手すりは右! 息はそこで整える!」

 

「は、はいっ」

 

「大丈夫、余裕で間に合う! 昨日、俺が計ったから!」

 

 二人が、渡り廊下の角に消えた。

 

『本部より第三試験場。遅刻者一名、入室予定。監督者への連絡、完了しました』

 

「正門、了解」

 

 俺は、門の前に立ったままだった。

 

 走っていきたい足を、靴の中で丸めて、立っていた。

 

 持ち場を離れないことも、要領のうちである。

 

 十時十九分。

 

『入室を確認しました。十時十九分です』

 

 無線の向こうの声は、いつもの速さだった。

 

 いつもの速さのまま、最後に一拍だけ、間があった。

 

『……間に合いましたね』

 

「はい」

 

 俺は、それだけ返した。

 

 三十分繰り下げたことで、あの子は間に合った。

 

 繰り下げなければ、四十四分の遅刻である。

 

 制度上は、どうにもならない数字だった。

 

 ――たまたま、である。

 

 三十分を選んだ理由に、あの子は入っていない。

 

 入っていないのに、結果として拾われた。

 

 俺は、五年のあいだに、この種の「たまたま」を何度か見ている。

 

 見るたびに思うのは、たまたまを増やす方法は一つしかない、ということだ。

 

 前日までに、全部やっておく。

 

 

 

 

 昼、監督の教員が交代で控室に降りてくる。

 

 俺も交代で一度、本部に上がった。

 

「飴、もらうぞ」

 

 権田先生だった。

 

 午前は一〇二にいたはずである。

 

「どうぞ。今年から経費です」

 

「いいぞ」

 

 即決だった。

 

 何がいいのかは分からないが、この人の「いいぞ」に理由を求めてはいけない。

 

 先生は、袋から三個取った。

 

「三個ですか」

 

「一個は鵜飼のぶんだ」

 

「あと一個は」

 

「予備だ」

 

「飴に、予備が要りますか」

 

「要る」

 

 即決だった。

 

 ……ちなみに、二日間で三袋、という俺の見積もりは、この日の夕方に破られた。

 

 四袋目を出したのは、桑原主査である。

 

 付箋には、こう書いてあった。

 

 『飴、想定外』

 

 六文字だった。

 

 この人は、想定外まで六文字で報告してくる。

 

「先生、一〇二はどうですか」

 

「順調だ」

 

「それだけですか」

 

「それだけだ。……ああ、一つあった」

 

 権田先生は、飴の袋を胸ポケットに入れた。

 

「机、もう一つ要る」

 

「足りませんか」

 

「分冊が乗り切らん。隣に一つ、並べてくれ」

 

「わかりました。休憩時間に入れます」

 

 俺は無線を取ろうとして、その前に馬剃さんが動いた。

 

 動いて、台車を押していった。

 

 押していくのが、いつもより少し速かった。

 

 

 

 

 戻ってきた馬剃さんは、控室の隅で弁当を食べていた。

 

 俺が味噌汁の蓋を開けるあいだに、もう箸が止まっていた。

 

「早くないですか」

 

「七分です」

 

「測ったんですか」

 

「本部を空ける時間は、短いほうがいいので」

 

「……せめて十分にしません?」

 

「善処します」

 

 善処、と言うときのこの人は、だいたい善処しない。

 

 大貫が、握り飯を片手に隣に座ってきた。

 

「温水さん、あの封筒、毎時間やるんですか」

 

「毎時間だ」

 

「全部まとめて先に渡したら、一回で済みません?」

 

「済む。そして、たぶん事故る」

 

「なんでですか」

 

「机の上に、次の時間の問題があるからだ」

 

「……あー」

 

「あー、で済んでるうちは平和だ」

 

 時限が変わるたびに、本部は同じことをする。

 

 その時限ぶんだけを出す。教室ごとに仕分ける。連絡員が運ぶ。

 

 終わったら答案を回収して、袋に入れて、枚数を書いて、封をして、本部へ戻す。

 

 数えるのは、必ず二人で、声に出す。

 

「二十八」

 

「二十八」

 

 控室の隅から、その声が聞こえてくる。

 

 何かの祈りみたいだった。

 

 実際、祈りに近い。

 

「馬剃さんって、明日終わったら何するんですか」

 

「供給の整理を」

 

「供給?」

 

 箸が、止まった。

 

 二秒、完全に止まった。

 

 止まった二秒のあいだに、首から上が、かあ、と一段階、色を変えた。

 

「……蔵書の、整理です。訂正します。趣味の書籍の、在庫確認です」

 

「在庫って言い方します? 本に」

 

「します。私はしますっ」

 

「なんで怒るんですか」

 

「怒っていませんっ! これは、説明ですっ!」

 

 ぱたん、と弁当箱の蓋が閉まった。

 

 閉まる音が、控室の端まで届いた。

 

 権田先生が、飴を舐めながら、こっちを見た。

 

「揉めとるのか」

 

「揉めておりませんっ」

 

「そうか」

 

「揉めて、おりませんっ!」

 

 二回言った。

 

 二回言うときは、たいてい、その人の中でもう決まっている――というのは、木曜に俺が学んだことである。

 

 今日の場合は、たぶん、決まっていない。

 

 彼女は、弁当箱を布に包んで、包み終わってから、いま自分がどれだけの声を出したかに気づいたらしい。

 

 肩が、す、と下がった。

 

「……失礼しました。休憩時間中に、業務外の話題を」

 

「振ったの、大貫ですよ」

 

「振られたのは、私です」

 

 そこは、譲らなかった。

 

 段ボール五箱の中身を、俺は知っている。

 

 知っているが、味噌汁を飲んだ。

 

 飲んでいるあいだは、何も言わなくて済む。

 

 

 

 

 十四時過ぎ、俺は一〇二の前を通った。

 

 通ったのは、報道対応の窓口を確認しに行った帰りで、つまり業務上の理由がある。

 

 あった、ということにしておく。

 

 扉は閉まっていた。

 

 中から、かすかに、点字盤を打つ音が漏れていた。

 

 こつ、こつ、こつ、と、規則的な音である。

 

 俺は、その音を、たぶん五秒くらい聞いていた。

 

 五秒聞いて、離れた。

 

 廊下の突き当たりに、馬剃さんが立っていた。

 

 立って、腕時計を見ていた。

 

「……何してるんですか」

 

「休憩時間の開始まで、あと四分です」

 

「そうですか」

 

「四分後に、扉を開けます。開ける前に、廊下の物を全部どかします」

 

「もうどかしてありますよ」

 

「二回目です」

 

「一回目、いつやったんですか」

 

「……一時間前です」

 

「一時間で、物は増えないですよ」

 

「増えます」

 

「増えますか」

 

「増えるかもしれません。増えない保証は、ありませんっ」

 

 語尾が跳ねた。

 

 跳ねてから、はっとした顔で、口を、きゅ、と結んだ。

 

「……失礼しました。廊下です。声量が」

 

「誰もいないですよ」

 

「一〇二に、いらっしゃいます」

 

 ――ああ。

 

 俺は、口を閉じた。

 

 二回目だそうである。

 

 俺は何も言わずに、彼女の隣に立った。

 

 立って、二人で四分待った。

 

 待っているあいだ、こつ、こつ、という音が、扉の向こうで続いていた。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「あの音は、何を書いている音ですか」

 

「答えです」

 

「……はい」

 

「点字盤で打つと、あの音がします」

 

 馬剃さんは、扉のほうを見たまま、言った。

 

「私、あの音を、二日間、忘れないと思います」

 

 

 

 

 夕方が来た。

 

 繰り下げのぶん、日が落ちるのが早く感じる。

 

 十七時四十分から、最終時限。

 

 外国語のリスニングである。

 

 構内から、音が消える。

 

 放送も、足音も、無線も止まる。

 

 千百人が同じ音声を聴いている建物は、外から見ると、ただの静かな建物である。

 

 俺は正門で、その静けさを聴いていた。

 

 五年やっても、この一時間だけは慣れない。

 

 一〇二はまだ、一つ前の時限をやっている。

 

 あの部屋のリスニングは、十九時四十分からだ。

 

 

 

 

 十七時五十三分だった。

 

 最初に聞こえたのは、音楽ではなく、拡声器の割れた声だった。

 

 

 

 

『――ご声援を、ありがとうございます。〇〇でございます。〇〇でございます』

 

 

 

 

 俺は、坂の下を見た。

 

 白いワゴンが、大学の敷地に沿った市道を、こちらに向かって走ってくる。

 

 屋根の上に、拡声器。

 

 選挙カーである。

 

 ――そうだ。

 

 市議会議員の補欠選挙が、明後日だった。

 

 告示から一週間、この一週間、俺は一度もその車を構内で聞いていない。

 

 聞いていなかったので、頭から抜けていた。

 

 抜けていた、では済まない。

 

「本部、正門! 試験場外に選挙カー。市道を東進中。拡声器、使用中」

 

『本部、馬剃です。……いま、こちらでも聞こえました』

 

 無線の向こうで、椅子の音がした。

 

『第四試験場より本部。挙手、三名。外の音声が聞こえると』

 

『第五試験場より本部。挙手、多数。数えます』

 

『第十二試験場、挙手、かなりの数です』

 

 番号が、次々に上がってきた。

 

 二号館の西側は、市道に面している。

 

 窓を閉めていても、拡声器は入る。

 

 リスニングは、受験生が一人ずつICプレーヤーで音声を聴く試験である。

 

 全体を止めるボタンは、どこにもない。

 

 あるのは、挙手と、筆談と、監督者の指示だけだ。

 

『……本部、了解しました。監督者は、挙手した受験者と筆談で、再開解答番号を確認してください。指示は、本部から出します』

 

 彼女の声は、まだ、平らだった。

 

 平らだったが、語尾が〇・二秒だけ短かった。

 

 俺は正門を守衛さんに預けて、走った。

 

 

 

 

 本部に入ったとき、馬剃さんは実施要領を開いていた。

 

 開いて、指で頁を押さえて、口が動いていた。

 

 声は出ていない。

 

 条文を、読んでいた。

 

 この人が、いちばん怖いときにやることである。

 

「馬剃さん」

 

「……解答時間中に、解答が続行できないような不慮の事故等があった場合には、監督者の指示で試験を中断することがある。この場合、試験終了後、別のICプレーヤーを使って、中断した設問から試験を再開する」

 

「再開テストですね」

 

「再開テストです。……ですが、温水さん」

 

 彼女は、頁を一枚めくった。

 

 めくった先を、指で押さえた。

 

「同じ頁の、下から三行目です。『解答時間中に日常的な生活騒音等が発生し、解答に支障があったと申し出ても、再開テストの対象とはならない』」

 

「……ああ」

 

「日常的な生活騒音です」

 

「はい」

 

「選挙運動用自動車の拡声機による音声は、日常的な生活騒音に、当たりますか」

 

 俺は、答えられなかった。

 

 答えられなかった〇・五秒のあいだに、彼女の指が、要領の頁を三枚めくって、三枚戻した。

 

 しゅ、しゅ、と紙が鳴った。

 

 同じ場所を、三回読んでいる。

 

 三回読んでも、条文は増えない。

 

「当たるなら、中断させてはいけません。中断させても、再開テストは実施できません。実施できないのに中断させたら、その受験生の三十分が、消えます」

 

「はい」

 

「当たらないなら、中断させなければなりません。させなければ、聞こえない音声のまま、解答が進みます」

 

「はい」

 

「……協議しないと、決まりません。協議には、時間が、かかります」

 

 最後の「かかります」で、語尾が、ひゅ、と細くなった。

 

 息が、足りていない。

 

 ――そこが、この人の詰まるところである。

 

 どちらを選んでも損が出る問題を、この人は、うまく扱えない。

 

 文科省時代、三年かけて通した仕組みが五年目に消えたときも、たぶん、同じ顔をしていたのだと思う。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「順番を、決めましょう」

 

 彼女が、顔を上げた。

 

 昨日と、今朝と、同じ言い方をした。

 

 同じ言い方をすると、この人は、少し戻る。

 

「一つ。中断を指示するかどうか。……これは、本部長です」

 

「はい」

 

「二つ。センターに何を伝えるか。……これは、馬剃さんです」

 

「はい」

 

「三つ。外の車を、どうにかする。……これは、俺と大貫です」

 

 俺は、そこで一度、言葉を切った。

 

「あと、一つだけ言います」

 

「はい」

 

「先に、中断を指示してください。協議の前です」

 

「……根拠は」

 

「中断を指示された受験者は、再開テストを受けられます。指示されなかった受験者は、あとから申し出ても、受けられません」

 

「……はい」

 

「中断させたあとで、本人が『要りません』と言うことはできます。中断させなかったのを、あとから戻すことは、こっちにはできないです」

 

 馬剃さんが、動いた。

 

「……順番が、逆でした」

 

「逆じゃないです。慎重なだけです」

 

「いいえ」

 

 彼女は、要領を閉じた。

 

「逆でした。私は、決まってから動く癖があります。今日は、動いてから決めます」

 

 

 

 

 十七時五十六分。

 

 学長が、席から立った。

 

「中断を指示する」

 

「承知しました」

 

「センターへは」

 

「私が、直ちに」

 

「協議が通らなかったら、どうなる」

 

 馬剃さんは、〇・五秒で答えた。

 

「再開テストを実施できません。その場合、当該受験者は、正常に受験できなかったことになります」

 

「つまり」

 

「再試験です。一週間後、この会場で」

 

 部屋の空気が、下がった。

 

 鷲尾課長が、腕を組んだのが見えた。

 

 柏木部長が、椅子の背から離れた。

 

 この部屋にいる十一人のうち、九人が、その言葉の意味を身体で知っている。

 

「……通してこい」

 

「通してまいります」

 

 学長が、椅子に座り直した。

 

 二日間で、ゼロか一件と言われた事案の、一件目である。

 

 

 

 

 中断の指示は、監督者から、当該試験室の受験者に対して出た。

 

 文言は、決められている。

 

 ここは、大学が作る部分ではない。

 

 二号館の西側、三室。

 

 その三室だけが、静かになった。

 

 止まった瞬間、廊下から見ると、変な景色だった。

 

 同じ建物の東側では、まだ全員がイヤホンをつけている。

 

 西側では、全員が手を膝に置いて、待っている。

 

 外では、まだ拡声器が鳴っていた。

 

 

 

 

「大貫!」

 

「はい!」

 

「市道に出るぞ。走れ」

 

「相手、選挙カーですよね!?」

 

「そうだ」

 

「止められるんですか!? あれ、法律で守られてるやつじゃ」

 

「守られてる」

 

「じゃあ、どうすんですか!」

 

「頼む」

 

 俺は、走りながら言った。

 

「命令はできない。お願いしかできない。だから、走って、頭を下げる」

 

 構内の坂を下って、正門を出て、市道の歩道に立った。

 

 白いワゴンは、五十メートル先で、ゆっくり走っていた。

 

 俺は、両手を大きく上げた。

 

 大貫も、隣で上げた。

 

 二人の大学職員が、夕方の市道で、選挙カーに向かって手を振っている。

 

 傍から見たら、たぶん、熱心な支持者である。

 

 ワゴンが、止まった。

 

 窓が開いて、たすきをかけた候補者と、運転席のスタッフが顔を出した。

 

「あ、どうも! ありがとうございます!」

 

「すみません、大学の職員です」

 

「はい」

 

「いま、大学入学共通テストをやっています」

 

 候補者の顔が、変わった。

 

 変わり方が、速かった。

 

 速かったので、俺は少しだけ、この人を信用した。

 

「……英語の、聞くやつですか」

 

「それです。いま、まさに、それです」

 

「止めますか」

 

「はい。……お願いします」

 

 俺は、頭を下げた。

 

 大貫も、隣で下げた。

 

 候補者は、運転席のほうを向いて、二言だけ言った。

 

 拡声器が、切れた。

 

 夕方の市道に、車のエンジンの音だけが残った。

 

「大学の裏の道、通りますんで。あと、ここから南は、明後日まで、この時間は入りません」

 

「……助かります」

 

「うちの娘も、来年です」

 

 それだけ言って、窓が閉まった。

 

 ワゴンは、静かに走り去った。

 

 大貫が、しばらく、その後ろ姿を見ていた。

 

「……温水さん」

 

「うん」

 

「頼むと、止まるんですね」

 

「止まらないこともある」

 

「今日は止まりました」

 

「今日は止まった」

 

 俺は、無線のスイッチを入れた。

 

「本部、正門。騒音源、停止しました。十八時六分です」

 

『本部、馬剃です。……十八時六分。了解しました』

 

 

 

 

 構内に戻ったのは、十八時十分だった。

 

 二号館の西側の廊下を歩くと、扉の向こうが、静かだった。

 

 六十二人が、手を膝に置いて、待っている。

 

 問題冊子は、机の上に伏せたままだ。

 

 中断中の教室というのは、試験中よりも静かだ。

 

 試験中の静けさには、鉛筆の音がある。

 

 中断中の静けさには、それがない。

 

 俺は、その廊下を、たぶん必要以上にゆっくり歩いた。

 

 あと三十分は、外にいる人間には三十分だが、あの椅子に座っている人間には、たぶん、そうではない。

 

 第十二試験場の扉が、少しだけ開いた。

 

 中から、監督補助の職員が顔を出した。

 

「温水さん」

 

「どうしました」

 

「……なんて言えばいいですかね、あれ」

 

「なにをですか」

 

「『あとで受け直せます』って、まだ言えないですよね」

 

「言えないです。協議中なんで」

 

「じゃあ、黙ってるしかないんですか」

 

「黙っててください」

 

 俺は、そこで一つだけ足した。

 

「ただ、五分に一回、教室の前に立ってください」

 

「立つだけですか」

 

「立つだけです。誰かが前にいると、部屋は落ち着きます」

 

「……それ、要領に書いてます?」

 

「書いてないです」

 

「じゃあ、なんでですか」

 

「前に一度、俺が黙って座ってて、後ろの子が泣いたんで」

 

 扉が、静かに閉まった。

 

 閉まってから、五分後に、その職員は、ちゃんと前に立った。

 

 

 

 

 センターとの協議は、十四分で終わった。

 

 俺は、隣で聞いていた。

 

 彼女が向こうに伝えたのは、八つだった。

 

 事象。発生時刻。音源の種類。試験場との距離。影響を受けた試験室数。中断を指示した受験者数。中断時刻。騒音の停止時刻。

 

 途中、一度だけ、彼女は言い方を変えた。

 

「――失礼しました。『おおむね六十名』ではなく、六十二名です。実数です」

 

 おおむね、を取り下げた。

 

 そして、いちばん重い一言は、最後に来た。

 

「本件は、選挙運動用自動車の拡声機によるものです。公職選挙法上、適法な行為ですが、発生源、音圧、継続時間のいずれの点でも、日常的に発生する生活騒音とは性質を異にすると考えます」

 

 向こうから、確認が三つ来た。

 

 三つとも、即答だった。

 

「――はい。中断の指示は、協議前に行っております。理由は、指示を受けていない受験者は、事後に救済できないためです」

 

 俺は、その十四分を、隣で全部聞いていた。

 

 途中、一度も、この人は事情を説明しなかった。

 

 説明の代わりに出したのは、数字と、条文の語と、判断の理由だけである。

 

 ――大学入試センターは、文部科学省所管の独立行政法人だ。

 

 九年間、この人が向こう側で聞いていた様式が、そのまま、こちら側で通じている。

 

 俺が同じことを頼まれたら、まず「実はですね」から始める。

 

 始めた時点で、たぶん、負けている。

 

 

 

 

 協議は、通った。

 

 中断三室、対象六十二名。当該者について、リスニング試験終了後、別のICプレーヤーにより、中断した設問から再開テストを実施する。

 

 俺が本部に戻ったとき、彼女は再開試験室の座席表を作っているところだった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「六十二名、どこでやりますか」

 

「三室に分けます。第二、第三、第六です。西側から離れています」

 

「ICプレーヤーは」

 

「予備が七十四台あります。全部、別の個体に交換します」

 

「同じ個体は使わないんですね」

 

「使いません。同じ個体を使って、また止まったら、そのときは、もう再試験です」

 

 彼女は、そこで手を止めた。

 

「一〇二は、これから始まります」

 

「……そうですね」

 

「同じ音声を、二時間後に、あの部屋で流します」

 

「終了時刻は、変わりますか」

 

「変わりません。二十一時十分のままです」

 

「変わらないんですか」

 

「変わりません。中断を指示したのは、一般教室の三室です。一〇二は、まだ前の時限でしたので」

 

「……ああ」

 

「ですので、あの部屋だけ、本日、二回、時刻表を作りました」

 

「二回」

 

「朝、繰り下げのときに一回。……いま、変わらないことを確認するために、もう一回」

 

「変わらないのに、作ったんですか」

 

「変わらないことは、作ってみないと、分かりません」

 

 俺は、その意味に、二秒遅れて追いついた。

 

 選挙カーは、大学の裏を通ると言った。

 

 言ったが、それは今日の話で、あの車一台の話である。

 

 十九時四十分に、別の車が来ないという保証は、どこにもない。

 

「大貫」

 

「はい」

 

「一〇二のリスニング中、外に立ってろ」

 

「外って、市道ですか」

 

「市道だ。九十分」

 

「……九十分」

 

 大貫が、自分の背中に手を回した。

 

「カイロ、三枚しか貼ってないんですよなあ」

 

「二枚やる」

 

「五枚になりました」

 

「行け」

 

「了解です!」

 

 あいつは走っていった。

 

 馬剃さんが、その背中を見ていた。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「あれは、手順書に書いてありますか」

 

「書いてないです」

 

「……はい」

 

「今日、書きます」

 

 

 

 

 十八時四十分、リスニングが終わった。

 

 千百人ぶんの椅子の音と、伸びをする気配と、誰かの小さな咳。

 

 二日間のうち、俺がいちばん好きなのは、たぶんこの瞬間である。

 

 今日は、いつもより三十分遅れて来た。

 

 遅れて来ても、ちゃんと来た。

 

 ただし、今日は、六十二人だけが、まだ帰らない。

 

 

 

 

 再開テストは、十八時五十五分に始まった。

 

 三室に分かれた六十二人が、新しいICプレーヤーを渡されて、中断した設問から、もう一度、同じ問題を解く。

 

 三十分弱である。

 

 俺は、第三試験場の廊下に立っていた。

 

 立っていて、たぶん、この二日間でいちばん、何もしていなかった。

 

 中では、六十二人のうちの二十一人が、イヤホンをつけている。

 

 外の市道は、静かだった。

 

 十九時二十六分、再開テスト終了。

 

 答案が、三室ぶん、本部に上がってきた。

 

 枚数を数えるのは、二人で、声に出す。

 

「二十一」

 

「二十一」

 

「十九」

 

「十九」

 

「二十二」

 

「二十二」

 

 合計、六十二。

 

 馬剃さんが、袋の口を閉じた。

 

 閉じてから、一度だけ、目を閉じた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「再試験、なしですね」

 

「……なしです」

 

 

 

 

 退場の列が、門から駅のほうへ流れていく。

 

 電車は、十一時過ぎに復旧している。

 

 

 

 

 二十時三十分、俺は市道に出た。

 

 大貫が、街灯の下に立っていた。

 

 立って、市道の東西を、交互に見ていた。

 

「どうだ」

 

「静かです」

 

「寒いか」

 

「寒いです」

 

「代わろうか」

 

「いや、いいです」

 

 あいつは、そこで少し笑った。

 

「俺、この五十分で、車を三十一台数えました」

 

「数えたのか」

 

「暇なんで。……で、そのうち二十九台が、大学の前で速度を落としました」

 

「落とすか」

 

「落としますよ。人が立ってると、落とすんですよ」

 

「ほかには」

 

「三台、窓開けて『何かあったんですか』って聞いてきました」

 

「なんて答えた」

 

「『試験中です』って言ったら、みんな、こう、静かに閉めてくれました」

 

「そうか」

 

「一台だけ、『がんばれー』って、小声で言って行きました」

 

「小声か」

 

「小声です。ちゃんと小声でした」

 

 俺は、少し黙った。

 

 黙ってから、無線をしまった。

 

「大貫」

 

「はい」

 

「それ、あとで書いといてくれ」

 

「え、俺がですか」

 

「お前が数えたんだから、出典はお前だ」

 

「……出典、俺なんですか」

 

「お前だ」

 

 二十四歳が、街灯の下で、少しだけ背を伸ばした。

 

 

 

 

 一〇二の最終時限が終わったのは、二十一時十分だった。

 

 予定どおりである。

 

 繰り下げを三十分にしたことで、あの部屋は、予定どおりに終わった。

 

 俺は、正門に立っていた。

 

 構内は、もう暗い。

 

 街灯が、正門から駅までの道を、点々と照らしている。

 

 一〇二から出てきたのは、三人だった。

 

 白杖を持った受験生と、その母親と、権田先生である。

 

 権田先生は、扉のところで足を止めて、それ以上は付いてこなかった。

 

 監督者は、試験室の外までである。

 

 正門までの誘導は、馬剃さんがやった。

 

 肘を貸して、掴んでもらって、半歩前を歩いていた。

 

「正門まで、あと十四歩です。途中、六歩目の右側に、三センチの段差があります」

 

「はい」

 

「段差は、避けられます。四十センチ、左に寄ります」

 

「はい」

 

 二人が、正門を出た。

 

 母親が、俺のほうに頭を下げた。

 

 俺も下げた。

 

 それだけである。

 

 受験生は、白杖を持ち直して、それから、こちらのほうを向いて言った。

 

「あの」

 

「はい」

 

「明日も、よろしくお願いします」

 

「……はい。お待ちしています」

 

 三人が、駅のほうへ歩いていった。

 

 街灯は、全部点いていた。

 

 十二月に、俺が一つずつ確認したやつである。

 

 確認した理由は、そのときは、なんとなくだった。

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「歩幅、聞きました?」

 

「伺いました。……朝、正門で」

 

「何歩でした」

 

「私の歩幅より、七センチ大きかったです。ですので、全部、引き直しました」

 

「いつ」

 

「昼休みです」

 

 ――昼休み。

 

 弁当を七分で食べる人の、その残りの時間である。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日、二十時四十分の予定が、二十一時十分になりました」

 

「なりました」

 

「三十分ぶん、あの人の一日が長くなってます」

 

「……はい」

 

「それでも、あの人は、明日も来ます」

 

「来ます」

 

 彼女は、駅のほうを見たまま、言った。

 

「明日は、十九時五十分の予定です。……予定どおりに、終わらせます」

 

 

 

 

 二十一時四十分、一日目の報告が終わった。

 

 特記事項が、二件あった。

 

 開始時刻の繰り下げ。リスニングの中断指示と、再開テストの実施。

 

 五年間、俺はこの欄に、一度も何も書かなかった。

 

 大貫は、パイプ椅子の上で溶けていた。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「明日も、六時十分ですよね」

 

「六時十分だ」

 

「昨日も同じこと聞きました」

 

「事実は変わらない」

 

「それ、もう課の公用語になってません?」

 

「なってるな」

 

「元祖の人、なんか言ってくださいよ」

 

 元祖の人は、明日の名簿を確認していて、顔も上げなかった。

 

「事実は変わりません」

 

「公用語だ……」

 

「大貫」

 

「はい」

 

「九十分、寒かったか」

 

「寒かったです」

 

「車、来たか」

 

「一台も来ませんでした」

 

「そうか」

 

「……立ってて、意味あったんですかね、あれ」

 

 俺は、名簿を閉じた。

 

「来なかったことは、お前が立ってたことの成果じゃない」

 

「ですよね」

 

「ただ、来たときに止められる人間が外にいたのは、事実だ」

 

 大貫は、パイプ椅子の上で、少しだけ背筋を戻した。

 

 戻して、こう言った。

 

「……それ、手順書に書いといてください」

 

「書く」

 

 

 

 

 二日目は、朝から晴れた。

 

 電車も、動いていた。

 

「温水さん、おはようございます」

 

「カイロは」

 

「七枚です」

 

「増えたな」

 

「昨日、市道で九十分立ったんで、学習しました」

 

「どこに貼った」

 

「背中に三枚、腹に二枚、腰に二枚です」

 

「動けるのか」

 

「動けます。ただ、若干、熱いです」

 

「若干か」

 

「……正直、けっこう熱いです」

 

 二十四歳の学習は、いつも、方向が正しくて量が正しくない。

 

 二日目の受験生は、一日目より、少しだけ歩くのが速い。

 

 理由は分からないが、毎年そうである。

 

 七時半の門で、昨日の女の子が立ち止まった。

 

 立ち止まって、俺に小さく頭を下げた。

 

「昨日は、ありがとうございました」

 

「電車、動いてました?」

 

「今日は、始発で来ました」

 

「正解です」

 

 女の子は、もう一度頭を下げて、歩いていった。

 

 名前は知らない。

 

 知らないままでいい仕事である。

 

 七時四十分、一〇二の受験生が、母親と一緒に門を入ってきた。

 

 馬剃さんが、正門で待っていた。

 

 肘を貸して、掴んでもらって、半歩前を歩く。

 

「おはようございます。本日は、風がありません。地面は乾いています」

 

「はい」

 

「一〇二まで、五十一歩です。昨日と、同じ道です」

 

 昨日と同じ道です、という一言が、たぶん、いちばん要る一言だった。

 

 この人は、要る一言を、だいたい当てる。

 

 

 

 

 八時過ぎ、昨日とは別の保護者が、門の前で俺に声をかけてきた。

 

「すみません、付き添いはどこまで入れますか」

 

「建物の手前までです」

 

「ありがとうございます。……あの、もう一つ」

 

 ――来る。

 

「ここの学食のカレーって」

 

「話題のカレーです」

 

「そうですか。よかった」

 

 二日で、二回である。

 

 うちの大学は、入試広報のパンフレットを、毎年四万部刷っている。

 

 四万部より、あのカレーのほうが、たぶん強い。

 

 

 

 

 九時前、一〇二の前を通った。

 

 鵜飼先生が、扉の外で、資料を読んでいた。

 

「先生、昨日はお疲れさまでした」

 

「うん」

 

「二十一時十分まで、すみませんでした」

 

「いや」

 

 鵜飼先生は、資料から目を上げなかった。

 

「読み上げ文言がね、あの部屋は、他より三か所多い」

 

「そうですね」

 

「三か所多いのを、三か所多いまま読むのは、悪くない」

 

「……はい」

 

「昨日、私は一度も、間違えなかった」

 

 それだけ言って、先生は、また資料に戻った。

 

 この人が自分の仕事の話をするのを、俺ははじめて聞いた。

 

 

 

 

 十時三十五分だった。

 

 本部の固定電話が鳴ったらしい。

 

 俺は正門にいたので、鳴った音は聞いていない。

 

 聞いたのは、そのあとの無線である。

 

『本部より各試験場。大学入試センターから、問題訂正の指示が入電しました』

 

『第二時限、問題冊子一箇所です。ただいま文面を確定します。連絡員は、本部前で待機してください』

 

『二号館、大貫、待機します』

 

『三号館、待機します』

 

 文面は、本部で二人が復唱して確定する。

 

 電話を取ったのが鷲尾課長で、書き取ったのが馬剃さんだ。

 

 書き取って、読み上げて、もう一度読み上げて、それから印刷する。

 

 二号館ぶんと三号館ぶんは、分けて刷る。

 

 金曜のリハーサルで、彼女が「印刷です」と言って一分半を削った、あの一手である。

 

『文面、確定しました。連絡員は、紙を受け取るまで動かないでください。口頭では伝えません』

 

『了解』

 

 紙を持って、走る。

 

 十五室。

 

 目標は、三分。

 

『第一試験場、伝達完了』

 

『第二試験場、伝達完了』

 

『第四試験場、伝達完了』

 

 番号が、順番に潰れていく。

 

 俺は、正門で腕時計を見ていた。

 

 二分四十秒で、十四室が潰れた。

 

 残り、一室。

 

 第十一試験場、三号館四階。

 

 報告が、来ない。

 

 

 

 

『本部より第十一試験場。……応答がありません』

 

『本部、馬剃です。もう一度お願いします』

 

『……出ません』

 

『大貫さん』

 

『はい!』

 

『第十一試験場へ。走ってください』

 

『了解!』

 

 

 

 

 俺は、門のところで、靴の中の足を丸めた。

 

 紙は届いている。届いたことは、走った連絡員が確認している。

 

 届いているのに、報告が来ない。

 

 それは、いちばん気持ちの悪い種類の空白である。

 

 二十秒。

 

 三十秒。

 

『大貫、第十一試験場に到着! ……実施済みです!』

 

『詳細を』

 

『読み上げ、完了。板書、完了。受験生全員が、書き写しを終えています』

 

『報告が入らなかった理由は』

 

『監督者が、報告のために内線を上げたら、音が出なかったそうです』

 

『受話器の不良ですね』

 

『不良です。いま、先生が受話器を振ってます』

 

『振っても直りません』

 

『振っても直らないそうです!』

 

 無線の向こうで、一拍だけ、間があった。

 

『……第十一試験場、伝達完了。三分十秒です』

 

 

 

 

 あとで聞いた話だと、そのとき第十一試験場に立っていたのは、蓑田先生だった。

 

 三十年の人である。

 

 紙を受け取って、太字を読み上げて、板書して、それから、全員が書き写すのを待った。

 

 書き写す音がやむまで待って、顔を上げた子の数を数えて、それから報告しようとした。

 

 受話器を上げた。音がしなかった。

 

 いちばん遅くて、いちばん正しい。

 

 水曜に「読まなくても分かりますよ」と言った人が、今年の三点を守った上で、三十年ぶんの余計なことを一つだけ足していた。

 

 余計なことのほうが、俺は好きだった。

 

 

 

 

 昼過ぎ、交代で本部に立ち寄った。

 

 馬剃さんは、記録の欄にペンを走らせていた。

 

「三分十秒でしたね」

 

「三分十秒です」

 

「目標は、三分でした」

 

「十秒、超過しました」

 

「規定内ですよ」

 

「規定内です。ですが、十秒は」

 

「誤差じゃない」

 

 先回りした。

 

 馬剃さんが、こちらを見た。

 

 見て、二秒くらい、何も言わなかった。

 

「……はい」

 

「来年、縮めますか」

 

「縮めます」

 

 彼女は、ペンを持ち直した。

 

 持ち直してから、少しだけ、言い直した。

 

「……いえ。訂正します。縮めるのは、伝達の時間です」

 

「うん」

 

「書き写す時間は、縮めません」

 

 

 

 

 十五時四十八分。

 

 最終時限が始まって、八分後だった。

 

『第七試験場より本部。監督者から、不正行為に関する申し出があります』

 

 俺は、正門で無線を握り直した。

 

『本部、馬剃です。……試験は』

 

『継続しています』

 

『継続してください。監督者は、当該受験生の解答を止めないでください』

 

 いい判断だった。

 

 水曜の三点の、二つ目である。

 

 判断が必要になったことは、すべて本部に上げる。

 

 上げられた本部は、まず、試験を止めない。

 

『事象の内容を、簡潔にお願いします』

 

『机の上に、時計以外の電子機器。腕時計型の端末と思われます。監督者が二度、注意しました。二度目のあと、机の下で操作していたとのことです』

 

『二度目のあと』

 

『はい』

 

 俺は、正門を守衛さんに預けた。

 

 今日は、二度目である。

 

 

 

 

 本部に着いたとき、馬剃さんは実施要領を開いていた。

 

 開いていたが、今日は、口は動いていなかった。

 

 代わりに、指が震えていた。

 

「馬剃さん」

 

「……温水さん」

 

「はい」

 

「認定は、本部長です」

 

「そうです」

 

「私は、何をしますか」

 

 いい質問だった。

 

 昨日までのこの人なら、たぶん、自分で全部やろうとした。

 

「三つあります」

 

 俺は、指を三本立てた。

 

「一つ。当該時限が終わるまで、何もしない」

 

「……何も」

 

「終わってから、事実確認をします。試験中に受験生を呼び出すことは、しないです」

 

「はい」

 

「二つ。監督者から、経過を書面で取ります。時刻と、回数と、監督者が見たことだけ。推測は書かせないでください」

 

「はい」

 

「三つ。本人から、話を聞きます。本部で、二人以上で」

 

「……その場で、取り上げないのですか」

 

「取り上げます。ただし、試験が終わってからです」

 

 馬剃さんは、要領の頁を指で押さえた。

 

 押さえて、ゆっくり読み上げた。

 

「試験時間中は、当該受験生の受験を継続させ、当該時限終了後、速やかに事実の確認を行うものとする」

 

「速やかに、ですね」

 

「……速やかに、です」

 

 彼女の指の震えが、止まった。

 

 条文を読むと、この人は戻る。

 

 十六年前からそうだった。

 

 

 

 

 十六時五十分、最終時限が終わった。

 

 事実確認は、十七時五分から、本部の隣の小部屋でやった。

 

 入ったのは、学長と、鷲尾課長と、馬剃さんの三人である。

 

 俺は外にいた。

 

 外にいて、廊下の壁に背中を預けていた。

 

 大貫が、廊下の反対側から歩いてきた。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「あれ、ほんとに、あったんですか」

 

「あったらしい」

 

「……なんでですかね」

 

「知らん」

 

「俺、あの子のこと、ちょっとだけ知ってるんですよ」

 

 大貫は、壁にもたれた。

 

「今朝、俺が誘導したんです。第七の場所が分からないっていうんで」

 

「そうか」

 

「普通の子でしたよ」

 

「普通の子だ」

 

「……普通の子が、なんでですかね」

 

 俺は、答えなかった。

 

 答えを持っていなかったし、持っていたとしても、この廊下で言うことではなかった。

 

 大貫も、それ以上は聞かなかった。

 

 二人で、閉まった扉を見ていた。

 

 十九分かかった。

 

 出てきた馬剃さんは、書面を三枚持っていた。

 

 持ったまま、俺の前で止まった。

 

「……認めました」

 

「本人が、ですか」

 

「本人がです」

 

「そうですか」

 

「本部長が、認定しました。当該時限の解答は、無効です。センターに報告します」

 

 彼女の声は、平らだった。

 

 平らすぎた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「あの子の、今日の残りは」

 

「ありません」

 

 書面を持つ手が、少しだけ、下がった。

 

「今日で、終わりです」

 

 

 

 

 俺は、しばらく何も言わなかった。

 

 言うことは、たぶん、二つある。

 

 一つは慰めで、一つは事実で、この人に効くのは事実のほうだけである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「あれ、俺たちが決めたことじゃないです」

 

「……はい」

 

「決めたのは、あの子です」

 

「はい」

 

「ただ」

 

 俺は、そこで言い方を選んだ。

 

「あの子が、来年、また来たときに、うちが同じ手順でやってるってことのほうが、大事です」

 

 馬剃さんが、顔を上げた。

 

「……来年」

 

「来年も、再来年も、同じ手順でやります。あの子にも、隣の席の子にも、同じ手順で」

 

「……はい」

 

「同じ手順でやらないと、あの子だけが、特別に許されなかったことになります」

 

 彼女は、書面を胸に抱えた。

 

 抱えて、少しのあいだ、廊下の床を見ていた。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「私、十月に、こう申し上げました」

 

「はい」

 

「『受験生が、一人も不利にならない状態を作る』と」

 

「言いましたね」

 

「今日、一人、不利になりました」

 

 俺は、首を振らなかった。

 

 振らずに、こう言った。

 

「不利じゃないです。あの子は、同じ手順の中にいました」

 

「……はい」

 

「同じ手順の中にいて、自分で外に出た。それは、不利とは言わないです」

 

 馬剃さんは、二秒くらい、動かなかった。

 

 動かないまま、こう言った。

 

「……分かりました。分かりましたが」

 

「はい」

 

「……分かるのに、少し、時間をください」

 

「どうぞ」

 

「明日まででいいですか」

 

「いいです」

 

 この人は、分からないことを分かったふりで済ませない。

 

 済ませないので、たまに、こういう時間の要求が出る。

 

 俺は、その要求の仕方が、四月からずっと好きだった。

 

 

 

 

 十七時四十分、正門。

 

 その子は、一人で出ていった。

 

 鞄の持ち方は、朝、大貫が誘導したときと、たぶん同じだった。

 

 俺は、門の内側に立っていた。

 

 声はかけなかった。

 

 かける言葉が、規程にも、要領にも、二十二枚にも、どこにも書いていない。

 

 書いていないので、俺は、ただ立っていた。

 

 その子は、こちらを見なかった。

 

 見ないまま、坂を下りていった。

 

 ――来年、来るだろうか。

 

 来るかどうかは、俺たちの管轄ではない。

 

 管轄なのは、来たときに、去年と同じ手順が待っていることだけである。

 

 

 

 

 一〇二の最終時限が終わったのは、十九時五十分だった。

 

 予定どおりである。

 

 正門までの誘導は、また馬剃さんがやった。

 

 昨日より、少し歩くのが速かった。

 

 速かったのは、二人とも道を覚えたからである。

 

「正門です。段差はありません。この先、三歩で歩道です」

 

「はい」

 

「本日は、以上です。……お疲れさまでした」

 

 受験生は、白杖を持ち直して、少しのあいだ、動かなかった。

 

 動かないまま、こう言った。

 

「昨日と、同じでした」

 

「はい」

 

「昨日と、今日と、同じでした。……それが、いちばん、ありがたかったです」

 

 

 

 

 馬剃さんは、返事をしなかった。

 

 

 

 

 返事の代わりに、深く、頭を下げた。

 

 角度は、三十度より、少し深かった。

 

 相手には、見えていない。

 

 見えていないのを承知で、下げていた。

 

 

 

 

 撤収は、設営の逆再生である。

 

 矢印を剥がし、掲示板をたたみ、机の配置を月曜の授業に戻す。

 

「温水さん、これ、全部剥がすんですか」

 

「全部剥がす」

 

「千百枚」

 

「千百一枚だ」

 

「……二日前に千百一枚貼って、いま千百一枚剥がしてます」

 

「そういう仕事だ」

 

「温水さん、これ、来年も貼るんですよね」

 

「貼る」

 

「じゃあ、貼ったままにしとけば」

 

「番号が変わる」

 

「……あ、そうか」

 

「毎年、千百人が違う」

 

「……そうですよね」

 

 大貫は、剥がした番号票を、袋に落とした。

 

 落として、こう言った。

 

「なんか、それ、いいですね」

 

「いいか」

 

「いいですよ。毎年、全部違うって」

 

 二十四歳が、二日間の最後に、いちばんまともなことを言った。

 

 剥がした番号票は、袋一つに収まった。

 

 あんなに数えたものが、最後は袋一つである。

 

 一〇二の机は、二つ並べたまま、月曜に戻した。

 

 並べたのは権田先生の要望で、戻すのは俺たちの仕事だった。

 

 

 

 

 二十時五十分、本部。

 

 撤収の途中で、馬剃さんが実施報告書を書いていた。

 

 遅刻者数、二。途中退室者数、一。機器不良、一。答案、全時限、枚数一致。

 

 問題訂正、一件。所定の手順により、全試験場において規定時間内に伝達完了。

 

 そして、特記事項の欄である。

 

 今年は、白紙ではなかった。

 

 一、第一時限の開始を三十分繰り下げた。交通機関の遅延による。センター報告済。

 

 二、外国語(リスニング)において、試験場外の騒音により三試験室に中断を指示し、対象者六十二名に再開テストを実施した。センター協議済。

 

 三、不正行為一件を認定した。本部長認定。センター報告済。

 

 三行、書いた。

 

 三行書いて、彼女のペンが止まった。

 

 止まった先に、もう一つの欄があった。

 

 別室受験に関する特記事項、と印字された欄である。

 

 

 

 

 二秒くらい止まって、それから、動いた。

 

 

 

 

『特記事項なし』

 

 

 

 

「……書かないんですか」

 

「書きません」

 

「二日で、二時間半、押しました」

 

「押しました」

 

 馬剃さんは、ペンを置いた。

 

「押しましたが、あの方の解答時間は、一分も減っていません」

 

「……はい」

 

「所定の時間を、所定どおり確保しました。特記すべき事項では、ありません」

 

 

 

 

 四文字と、ひらがなが二つ。

 

 これを書くために、四十五分の説明会と、四百ページを二周した人と、六十二枚を三つに分けた紙と、机を二つ並べた教室と、五十一歩の道と、九十分外に立った男と、街灯の点灯時刻があった。

 

 何も起きなかった、というのは、報告書の中でいちばん短くて、いちばん作るのが難しい一行である。

 

 俺は、思い出して、伝言を渡した。

 

「蓑田先生から、伝言です」

 

「はい」

 

「『三点だけだった』だそうです」

 

 馬剃さんは、二秒くらい、動かなかった。

 

 動かないまま、手帳を開いて、閉じた。

 

 開いて、閉じただけだった。

 

 

 

 

「馬剃さん、お疲れさま」

 

 鷲尾課長だった。

 

 二日間、副本部長席の後ろに立っていた人である。

 

「初回でこれなら、上等よ」

 

「恐れ入ります」

 

「……三つも来て、三つとも手順どおりに返した。上等どころじゃないわね」

 

「私は、返しておりません」

 

「じゃあ誰が返したの」

 

 馬剃さんは、少しのあいだ、答えなかった。

 

 答えないで、報告書の三行を見ていた。

 

「……三十七人と、四十二人と、選挙カーの運転席の方です」

 

「あんたね」

 

 鷲尾課長は、笑った。

 

「そういうところが、いちばん厄介なのよ」

 

「恐れ入ります」

 

「褒めてないわよ」

 

 課長は、報告書の二行目を、指で一度叩いた。

 

「再開テスト、通したでしょう」

 

「センターが、認めてくださいました」

 

「認めさせたのよ、あんたが」

 

「……」

 

「あれ、通らなかったら再試験。一週間後の二十四日、ここでもう一回、朝の六時十分からやってたわ」

 

 馬剃さんは、報告書を見たままだった。

 

「二十四日の予定は」

 

「一般入試の準備だけです」

 

「そう。……それだけよ」

 

 馬剃さんは、そこではじめて、少しだけ息を吐いた。

 

 吐いた息が、少し長かった。

 

 二日間で、この人が息を吐いたのを、俺は三回しか見ていない。

 

「で、休む間もなくて悪いんだけど」

 

「はい」

 

「二月一日、一般入試。六日間で延べ四千二百人。会場は三つ。で、温水君は、いない」

 

「存じております」

 

 即答だった。

 

 鷲尾課長は、俺のほうをちらりと見て、それから戻した。

 

「……頼んだわよ」

 

「はい」

 

 

 

 

 二十二時十分、正門を二人で出た。

 

 二日間立ちっぱなしだった足に、駅までの道は少し長い。

 

 信号待ちで、隣の肩が、一度だけ下がった。

 

 下がって、すぐ戻った。

 

 緊張の糸というのは、切れるときに音がしない。

 

 肩が一度下がるだけである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日の記録、もう書きました?」

 

「書きました」

 

「長そうですね」

 

「一行です」

 

「……珍しい」

 

 馬剃さんは、鞄から手帳を出さなかった。

 

 出さないで、言った。

 

「『誰も、工夫しませんでした』」

 

 

 

 

 俺は、少し考えて、言った。

 

「一人、いませんでしたか」

 

「おります」

 

「誰ですか」

 

「本日の前日、七時四十分に、確定しないまま決めた方です」

 

「……それ、工夫ですか」

 

「工夫です」

 

 彼女は、前を向いたまま言った。

 

「あれだけは、二十二枚のどこにも、書いてありませんでした」

 

「じゃあ、書いといてください」

 

「書きました」

 

「早いですね」

 

「二十三枚目です」

 

 

 

 

 ――二十三枚目。

 

 俺が五年かけて二十二枚にしたものに、この人が、十か月で一枚足した。

 

 足された一枚には、たぶん、こう書いてある。

 

 確定しないまま決める方法。

 

 三年後の誰かが読んだとき、それが誰の手口だったかは、もう分からない。

 

 分からなくていい。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「来年は」

 

「うん」

 

「来年も、三〇四から始めましょう」

 

 ――来年。

 

 俺は、その二文字を、胸の中で一回だけ繰り返した。

 

 信号が、青になった。

 

 俺は、今度は、ちゃんと渡った。

 

 

 

 

 一月二十日、火曜日。

 

 月曜を会計課で潰して、二日ぶりに入試広報の島に戻った。

 

 机の上に、付箋はなかった。

 

 メールも、落ちていなかった。

 

 落ちる前に、下書きが二件、共有フォルダに置いてあっただけである。

 

 俺は、給湯室にお茶を淹れに立った。

 

 立って、戻る途中で、足が止まった。

 

 馬剃さんの机の上である。

 

 湯呑みが、一つ置いてあった。

 

 白地に、青い線が一本入った湯呑みだ。

 

 備品ではない。

 

 備品の湯呑みは、全部同じ柄で、棚に伏せてある。

 

 私物である。

 

 この島で、あの人の私物を見たのは、はじめてだった。

 

 十か月、あの机の上には、業務に必要なものしかなかった。

 

 引き出しの中も、たぶんそうだ。噂になるくらい、そうだった。

 

 その机に、湯呑みが一つ、増えた。

 

 

 

 

 ――荷物は、減るだけではない。

 

 

 

 

 俺は、そのことを、誰にも言わなかった。

 

 言わないまま、自分の席に戻って、お茶を一口飲んだ。

 

「温水さん」

 

 大貫だった。

 

「なんか、いいことありました?」

 

「ない」

 

「顔が『ある』って言ってます」

 

「気のせいだ」

 

「あ、また言った。それ、絶対あるやつです」

 

「仕事しろ」

 

「あ、そうだ。温水さん」

 

「まだあるのか」

 

「『本日は晴天なり』、調べてもらいました」

 

「誰に」

 

「馬剃さんです。昨日の朝、俺の机に紙が置いてありました」

 

「なんて書いてあった」

 

 大貫が、紙を広げた。

 

「『マイクロホン試験用の慣用句。子音の分布が均等で、明瞭度の判定に適する。出典、諸説あり』」

 

「……諸説ありまで書いたのか」

 

「書いてました。あと、下に一行」

 

「なんて」

 

「『次回は、使用を許可します』」

 

 大貫は、その紙をひらひらさせた。

 

「俺、許可されました」

 

「よかったな」

 

「よかったです」

 

 隣の席の人は、こちらを見なかった。

 

 見ないで、一般入試の座席表を作っていた。

 

 俺は、金曜日の自分に、賭け金を払いたい気分だった。

 

 窓の外は、よく晴れていた。

 

 一昨日の夕方、あの人は「分かるのに、少し時間をください」と言った。

 

 明日まででいいですか、と聞かれて、いいです、と俺は答えた。

 

 その明日は昨日で、昨日は、もう終わっている。

 

 終わったあとの顔で、いま、二月の千二百人ぶんの番号を並べている。

 

 二月一日まで、あと十二日である。

 

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