(一月十七日〜二十日/温水視点)
十時十四分だった。
坂の下から、走ってくる子がいた。
女子が一人。鞄が背中で暴れている。
転びかけて、持ち直して、また走る。
俺は、無線を取った。
「本部、正門です。遅刻者一名、第一時限、女子一名」
『本部、馬剃です。現在十時十四分。繰り下げ後の入室限度は、十時二十分です』
「了解」
女の子が、門の前で止まった。
止まって、何か言おうとして、息だけが出た。
「大丈夫、間に合います。受験票見せてください」
差し出された受験票は、手ごと震えていた。
「……電車が」
「途中から走ってきた?」
「はい……っ」
「偉い。正解です」
試験場の欄を見る。第三試験場、二号館の三階。
「本部、正門。受験票確認。第三試験場です」
『第三試験場、二号館三階。正門から徒歩四分です』
「三分で行かせます。誘導、大貫」
「任せてください!」
大貫が、女の子の横に並んだ。
「よし、走るよ! 俺についてきて! この先、渡り廊下抜けて階段三十六段! 手すりは右! 息はそこで整える!」
「は、はいっ」
「大丈夫、余裕で間に合う! 昨日、俺が計ったから!」
二人が、渡り廊下の角に消えた。
『本部より第三試験場。遅刻者一名、入室予定。監督者への連絡、完了しました』
「正門、了解」
俺は、門の前に立ったままだった。
走っていきたい足を、靴の中で丸めて、立っていた。
持ち場を離れないことも、要領のうちである。
十時十九分。
『入室を確認しました。十時十九分です』
無線の向こうの声は、いつもの速さだった。
いつもの速さのまま、最後に一拍だけ、間があった。
『……間に合いましたね』
「はい」
俺は、それだけ返した。
三十分繰り下げたことで、あの子は間に合った。
繰り下げなければ、四十四分の遅刻である。
制度上は、どうにもならない数字だった。
――たまたま、である。
三十分を選んだ理由に、あの子は入っていない。
入っていないのに、結果として拾われた。
俺は、五年のあいだに、この種の「たまたま」を何度か見ている。
見るたびに思うのは、たまたまを増やす方法は一つしかない、ということだ。
前日までに、全部やっておく。
昼、監督の教員が交代で控室に降りてくる。
俺も交代で一度、本部に上がった。
「飴、もらうぞ」
権田先生だった。
午前は一〇二にいたはずである。
「どうぞ。今年から経費です」
「いいぞ」
即決だった。
何がいいのかは分からないが、この人の「いいぞ」に理由を求めてはいけない。
先生は、袋から三個取った。
「三個ですか」
「一個は鵜飼のぶんだ」
「あと一個は」
「予備だ」
「飴に、予備が要りますか」
「要る」
即決だった。
……ちなみに、二日間で三袋、という俺の見積もりは、この日の夕方に破られた。
四袋目を出したのは、桑原主査である。
付箋には、こう書いてあった。
『飴、想定外』
六文字だった。
この人は、想定外まで六文字で報告してくる。
「先生、一〇二はどうですか」
「順調だ」
「それだけですか」
「それだけだ。……ああ、一つあった」
権田先生は、飴の袋を胸ポケットに入れた。
「机、もう一つ要る」
「足りませんか」
「分冊が乗り切らん。隣に一つ、並べてくれ」
「わかりました。休憩時間に入れます」
俺は無線を取ろうとして、その前に馬剃さんが動いた。
動いて、台車を押していった。
押していくのが、いつもより少し速かった。
戻ってきた馬剃さんは、控室の隅で弁当を食べていた。
俺が味噌汁の蓋を開けるあいだに、もう箸が止まっていた。
「早くないですか」
「七分です」
「測ったんですか」
「本部を空ける時間は、短いほうがいいので」
「……せめて十分にしません?」
「善処します」
善処、と言うときのこの人は、だいたい善処しない。
大貫が、握り飯を片手に隣に座ってきた。
「温水さん、あの封筒、毎時間やるんですか」
「毎時間だ」
「全部まとめて先に渡したら、一回で済みません?」
「済む。そして、たぶん事故る」
「なんでですか」
「机の上に、次の時間の問題があるからだ」
「……あー」
「あー、で済んでるうちは平和だ」
時限が変わるたびに、本部は同じことをする。
その時限ぶんだけを出す。教室ごとに仕分ける。連絡員が運ぶ。
終わったら答案を回収して、袋に入れて、枚数を書いて、封をして、本部へ戻す。
数えるのは、必ず二人で、声に出す。
「二十八」
「二十八」
控室の隅から、その声が聞こえてくる。
何かの祈りみたいだった。
実際、祈りに近い。
「馬剃さんって、明日終わったら何するんですか」
「供給の整理を」
「供給?」
箸が、止まった。
二秒、完全に止まった。
止まった二秒のあいだに、首から上が、かあ、と一段階、色を変えた。
「……蔵書の、整理です。訂正します。趣味の書籍の、在庫確認です」
「在庫って言い方します? 本に」
「します。私はしますっ」
「なんで怒るんですか」
「怒っていませんっ! これは、説明ですっ!」
ぱたん、と弁当箱の蓋が閉まった。
閉まる音が、控室の端まで届いた。
権田先生が、飴を舐めながら、こっちを見た。
「揉めとるのか」
「揉めておりませんっ」
「そうか」
「揉めて、おりませんっ!」
二回言った。
二回言うときは、たいてい、その人の中でもう決まっている――というのは、木曜に俺が学んだことである。
今日の場合は、たぶん、決まっていない。
彼女は、弁当箱を布に包んで、包み終わってから、いま自分がどれだけの声を出したかに気づいたらしい。
肩が、す、と下がった。
「……失礼しました。休憩時間中に、業務外の話題を」
「振ったの、大貫ですよ」
「振られたのは、私です」
そこは、譲らなかった。
段ボール五箱の中身を、俺は知っている。
知っているが、味噌汁を飲んだ。
飲んでいるあいだは、何も言わなくて済む。
十四時過ぎ、俺は一〇二の前を通った。
通ったのは、報道対応の窓口を確認しに行った帰りで、つまり業務上の理由がある。
あった、ということにしておく。
扉は閉まっていた。
中から、かすかに、点字盤を打つ音が漏れていた。
こつ、こつ、こつ、と、規則的な音である。
俺は、その音を、たぶん五秒くらい聞いていた。
五秒聞いて、離れた。
廊下の突き当たりに、馬剃さんが立っていた。
立って、腕時計を見ていた。
「……何してるんですか」
「休憩時間の開始まで、あと四分です」
「そうですか」
「四分後に、扉を開けます。開ける前に、廊下の物を全部どかします」
「もうどかしてありますよ」
「二回目です」
「一回目、いつやったんですか」
「……一時間前です」
「一時間で、物は増えないですよ」
「増えます」
「増えますか」
「増えるかもしれません。増えない保証は、ありませんっ」
語尾が跳ねた。
跳ねてから、はっとした顔で、口を、きゅ、と結んだ。
「……失礼しました。廊下です。声量が」
「誰もいないですよ」
「一〇二に、いらっしゃいます」
――ああ。
俺は、口を閉じた。
二回目だそうである。
俺は何も言わずに、彼女の隣に立った。
立って、二人で四分待った。
待っているあいだ、こつ、こつ、という音が、扉の向こうで続いていた。
「温水さん」
「はい」
「あの音は、何を書いている音ですか」
「答えです」
「……はい」
「点字盤で打つと、あの音がします」
馬剃さんは、扉のほうを見たまま、言った。
「私、あの音を、二日間、忘れないと思います」
夕方が来た。
繰り下げのぶん、日が落ちるのが早く感じる。
十七時四十分から、最終時限。
外国語のリスニングである。
構内から、音が消える。
放送も、足音も、無線も止まる。
千百人が同じ音声を聴いている建物は、外から見ると、ただの静かな建物である。
俺は正門で、その静けさを聴いていた。
五年やっても、この一時間だけは慣れない。
一〇二はまだ、一つ前の時限をやっている。
あの部屋のリスニングは、十九時四十分からだ。
十七時五十三分だった。
最初に聞こえたのは、音楽ではなく、拡声器の割れた声だった。
『――ご声援を、ありがとうございます。〇〇でございます。〇〇でございます』
俺は、坂の下を見た。
白いワゴンが、大学の敷地に沿った市道を、こちらに向かって走ってくる。
屋根の上に、拡声器。
選挙カーである。
――そうだ。
市議会議員の補欠選挙が、明後日だった。
告示から一週間、この一週間、俺は一度もその車を構内で聞いていない。
聞いていなかったので、頭から抜けていた。
抜けていた、では済まない。
「本部、正門! 試験場外に選挙カー。市道を東進中。拡声器、使用中」
『本部、馬剃です。……いま、こちらでも聞こえました』
無線の向こうで、椅子の音がした。
『第四試験場より本部。挙手、三名。外の音声が聞こえると』
『第五試験場より本部。挙手、多数。数えます』
『第十二試験場、挙手、かなりの数です』
番号が、次々に上がってきた。
二号館の西側は、市道に面している。
窓を閉めていても、拡声器は入る。
リスニングは、受験生が一人ずつICプレーヤーで音声を聴く試験である。
全体を止めるボタンは、どこにもない。
あるのは、挙手と、筆談と、監督者の指示だけだ。
『……本部、了解しました。監督者は、挙手した受験者と筆談で、再開解答番号を確認してください。指示は、本部から出します』
彼女の声は、まだ、平らだった。
平らだったが、語尾が〇・二秒だけ短かった。
俺は正門を守衛さんに預けて、走った。
本部に入ったとき、馬剃さんは実施要領を開いていた。
開いて、指で頁を押さえて、口が動いていた。
声は出ていない。
条文を、読んでいた。
この人が、いちばん怖いときにやることである。
「馬剃さん」
「……解答時間中に、解答が続行できないような不慮の事故等があった場合には、監督者の指示で試験を中断することがある。この場合、試験終了後、別のICプレーヤーを使って、中断した設問から試験を再開する」
「再開テストですね」
「再開テストです。……ですが、温水さん」
彼女は、頁を一枚めくった。
めくった先を、指で押さえた。
「同じ頁の、下から三行目です。『解答時間中に日常的な生活騒音等が発生し、解答に支障があったと申し出ても、再開テストの対象とはならない』」
「……ああ」
「日常的な生活騒音です」
「はい」
「選挙運動用自動車の拡声機による音声は、日常的な生活騒音に、当たりますか」
俺は、答えられなかった。
答えられなかった〇・五秒のあいだに、彼女の指が、要領の頁を三枚めくって、三枚戻した。
しゅ、しゅ、と紙が鳴った。
同じ場所を、三回読んでいる。
三回読んでも、条文は増えない。
「当たるなら、中断させてはいけません。中断させても、再開テストは実施できません。実施できないのに中断させたら、その受験生の三十分が、消えます」
「はい」
「当たらないなら、中断させなければなりません。させなければ、聞こえない音声のまま、解答が進みます」
「はい」
「……協議しないと、決まりません。協議には、時間が、かかります」
最後の「かかります」で、語尾が、ひゅ、と細くなった。
息が、足りていない。
――そこが、この人の詰まるところである。
どちらを選んでも損が出る問題を、この人は、うまく扱えない。
文科省時代、三年かけて通した仕組みが五年目に消えたときも、たぶん、同じ顔をしていたのだと思う。
「馬剃さん」
「はい」
「順番を、決めましょう」
彼女が、顔を上げた。
昨日と、今朝と、同じ言い方をした。
同じ言い方をすると、この人は、少し戻る。
「一つ。中断を指示するかどうか。……これは、本部長です」
「はい」
「二つ。センターに何を伝えるか。……これは、馬剃さんです」
「はい」
「三つ。外の車を、どうにかする。……これは、俺と大貫です」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「あと、一つだけ言います」
「はい」
「先に、中断を指示してください。協議の前です」
「……根拠は」
「中断を指示された受験者は、再開テストを受けられます。指示されなかった受験者は、あとから申し出ても、受けられません」
「……はい」
「中断させたあとで、本人が『要りません』と言うことはできます。中断させなかったのを、あとから戻すことは、こっちにはできないです」
馬剃さんが、動いた。
「……順番が、逆でした」
「逆じゃないです。慎重なだけです」
「いいえ」
彼女は、要領を閉じた。
「逆でした。私は、決まってから動く癖があります。今日は、動いてから決めます」
十七時五十六分。
学長が、席から立った。
「中断を指示する」
「承知しました」
「センターへは」
「私が、直ちに」
「協議が通らなかったら、どうなる」
馬剃さんは、〇・五秒で答えた。
「再開テストを実施できません。その場合、当該受験者は、正常に受験できなかったことになります」
「つまり」
「再試験です。一週間後、この会場で」
部屋の空気が、下がった。
鷲尾課長が、腕を組んだのが見えた。
柏木部長が、椅子の背から離れた。
この部屋にいる十一人のうち、九人が、その言葉の意味を身体で知っている。
「……通してこい」
「通してまいります」
学長が、椅子に座り直した。
二日間で、ゼロか一件と言われた事案の、一件目である。
中断の指示は、監督者から、当該試験室の受験者に対して出た。
文言は、決められている。
ここは、大学が作る部分ではない。
二号館の西側、三室。
その三室だけが、静かになった。
止まった瞬間、廊下から見ると、変な景色だった。
同じ建物の東側では、まだ全員がイヤホンをつけている。
西側では、全員が手を膝に置いて、待っている。
外では、まだ拡声器が鳴っていた。
「大貫!」
「はい!」
「市道に出るぞ。走れ」
「相手、選挙カーですよね!?」
「そうだ」
「止められるんですか!? あれ、法律で守られてるやつじゃ」
「守られてる」
「じゃあ、どうすんですか!」
「頼む」
俺は、走りながら言った。
「命令はできない。お願いしかできない。だから、走って、頭を下げる」
構内の坂を下って、正門を出て、市道の歩道に立った。
白いワゴンは、五十メートル先で、ゆっくり走っていた。
俺は、両手を大きく上げた。
大貫も、隣で上げた。
二人の大学職員が、夕方の市道で、選挙カーに向かって手を振っている。
傍から見たら、たぶん、熱心な支持者である。
ワゴンが、止まった。
窓が開いて、たすきをかけた候補者と、運転席のスタッフが顔を出した。
「あ、どうも! ありがとうございます!」
「すみません、大学の職員です」
「はい」
「いま、大学入学共通テストをやっています」
候補者の顔が、変わった。
変わり方が、速かった。
速かったので、俺は少しだけ、この人を信用した。
「……英語の、聞くやつですか」
「それです。いま、まさに、それです」
「止めますか」
「はい。……お願いします」
俺は、頭を下げた。
大貫も、隣で下げた。
候補者は、運転席のほうを向いて、二言だけ言った。
拡声器が、切れた。
夕方の市道に、車のエンジンの音だけが残った。
「大学の裏の道、通りますんで。あと、ここから南は、明後日まで、この時間は入りません」
「……助かります」
「うちの娘も、来年です」
それだけ言って、窓が閉まった。
ワゴンは、静かに走り去った。
大貫が、しばらく、その後ろ姿を見ていた。
「……温水さん」
「うん」
「頼むと、止まるんですね」
「止まらないこともある」
「今日は止まりました」
「今日は止まった」
俺は、無線のスイッチを入れた。
「本部、正門。騒音源、停止しました。十八時六分です」
『本部、馬剃です。……十八時六分。了解しました』
構内に戻ったのは、十八時十分だった。
二号館の西側の廊下を歩くと、扉の向こうが、静かだった。
六十二人が、手を膝に置いて、待っている。
問題冊子は、机の上に伏せたままだ。
中断中の教室というのは、試験中よりも静かだ。
試験中の静けさには、鉛筆の音がある。
中断中の静けさには、それがない。
俺は、その廊下を、たぶん必要以上にゆっくり歩いた。
あと三十分は、外にいる人間には三十分だが、あの椅子に座っている人間には、たぶん、そうではない。
第十二試験場の扉が、少しだけ開いた。
中から、監督補助の職員が顔を出した。
「温水さん」
「どうしました」
「……なんて言えばいいですかね、あれ」
「なにをですか」
「『あとで受け直せます』って、まだ言えないですよね」
「言えないです。協議中なんで」
「じゃあ、黙ってるしかないんですか」
「黙っててください」
俺は、そこで一つだけ足した。
「ただ、五分に一回、教室の前に立ってください」
「立つだけですか」
「立つだけです。誰かが前にいると、部屋は落ち着きます」
「……それ、要領に書いてます?」
「書いてないです」
「じゃあ、なんでですか」
「前に一度、俺が黙って座ってて、後ろの子が泣いたんで」
扉が、静かに閉まった。
閉まってから、五分後に、その職員は、ちゃんと前に立った。
センターとの協議は、十四分で終わった。
俺は、隣で聞いていた。
彼女が向こうに伝えたのは、八つだった。
事象。発生時刻。音源の種類。試験場との距離。影響を受けた試験室数。中断を指示した受験者数。中断時刻。騒音の停止時刻。
途中、一度だけ、彼女は言い方を変えた。
「――失礼しました。『おおむね六十名』ではなく、六十二名です。実数です」
おおむね、を取り下げた。
そして、いちばん重い一言は、最後に来た。
「本件は、選挙運動用自動車の拡声機によるものです。公職選挙法上、適法な行為ですが、発生源、音圧、継続時間のいずれの点でも、日常的に発生する生活騒音とは性質を異にすると考えます」
向こうから、確認が三つ来た。
三つとも、即答だった。
「――はい。中断の指示は、協議前に行っております。理由は、指示を受けていない受験者は、事後に救済できないためです」
俺は、その十四分を、隣で全部聞いていた。
途中、一度も、この人は事情を説明しなかった。
説明の代わりに出したのは、数字と、条文の語と、判断の理由だけである。
――大学入試センターは、文部科学省所管の独立行政法人だ。
九年間、この人が向こう側で聞いていた様式が、そのまま、こちら側で通じている。
俺が同じことを頼まれたら、まず「実はですね」から始める。
始めた時点で、たぶん、負けている。
協議は、通った。
中断三室、対象六十二名。当該者について、リスニング試験終了後、別のICプレーヤーにより、中断した設問から再開テストを実施する。
俺が本部に戻ったとき、彼女は再開試験室の座席表を作っているところだった。
「馬剃さん」
「はい」
「六十二名、どこでやりますか」
「三室に分けます。第二、第三、第六です。西側から離れています」
「ICプレーヤーは」
「予備が七十四台あります。全部、別の個体に交換します」
「同じ個体は使わないんですね」
「使いません。同じ個体を使って、また止まったら、そのときは、もう再試験です」
彼女は、そこで手を止めた。
「一〇二は、これから始まります」
「……そうですね」
「同じ音声を、二時間後に、あの部屋で流します」
「終了時刻は、変わりますか」
「変わりません。二十一時十分のままです」
「変わらないんですか」
「変わりません。中断を指示したのは、一般教室の三室です。一〇二は、まだ前の時限でしたので」
「……ああ」
「ですので、あの部屋だけ、本日、二回、時刻表を作りました」
「二回」
「朝、繰り下げのときに一回。……いま、変わらないことを確認するために、もう一回」
「変わらないのに、作ったんですか」
「変わらないことは、作ってみないと、分かりません」
俺は、その意味に、二秒遅れて追いついた。
選挙カーは、大学の裏を通ると言った。
言ったが、それは今日の話で、あの車一台の話である。
十九時四十分に、別の車が来ないという保証は、どこにもない。
「大貫」
「はい」
「一〇二のリスニング中、外に立ってろ」
「外って、市道ですか」
「市道だ。九十分」
「……九十分」
大貫が、自分の背中に手を回した。
「カイロ、三枚しか貼ってないんですよなあ」
「二枚やる」
「五枚になりました」
「行け」
「了解です!」
あいつは走っていった。
馬剃さんが、その背中を見ていた。
「温水さん」
「はい」
「あれは、手順書に書いてありますか」
「書いてないです」
「……はい」
「今日、書きます」
十八時四十分、リスニングが終わった。
千百人ぶんの椅子の音と、伸びをする気配と、誰かの小さな咳。
二日間のうち、俺がいちばん好きなのは、たぶんこの瞬間である。
今日は、いつもより三十分遅れて来た。
遅れて来ても、ちゃんと来た。
ただし、今日は、六十二人だけが、まだ帰らない。
再開テストは、十八時五十五分に始まった。
三室に分かれた六十二人が、新しいICプレーヤーを渡されて、中断した設問から、もう一度、同じ問題を解く。
三十分弱である。
俺は、第三試験場の廊下に立っていた。
立っていて、たぶん、この二日間でいちばん、何もしていなかった。
中では、六十二人のうちの二十一人が、イヤホンをつけている。
外の市道は、静かだった。
十九時二十六分、再開テスト終了。
答案が、三室ぶん、本部に上がってきた。
枚数を数えるのは、二人で、声に出す。
「二十一」
「二十一」
「十九」
「十九」
「二十二」
「二十二」
合計、六十二。
馬剃さんが、袋の口を閉じた。
閉じてから、一度だけ、目を閉じた。
「馬剃さん」
「はい」
「再試験、なしですね」
「……なしです」
退場の列が、門から駅のほうへ流れていく。
電車は、十一時過ぎに復旧している。
二十時三十分、俺は市道に出た。
大貫が、街灯の下に立っていた。
立って、市道の東西を、交互に見ていた。
「どうだ」
「静かです」
「寒いか」
「寒いです」
「代わろうか」
「いや、いいです」
あいつは、そこで少し笑った。
「俺、この五十分で、車を三十一台数えました」
「数えたのか」
「暇なんで。……で、そのうち二十九台が、大学の前で速度を落としました」
「落とすか」
「落としますよ。人が立ってると、落とすんですよ」
「ほかには」
「三台、窓開けて『何かあったんですか』って聞いてきました」
「なんて答えた」
「『試験中です』って言ったら、みんな、こう、静かに閉めてくれました」
「そうか」
「一台だけ、『がんばれー』って、小声で言って行きました」
「小声か」
「小声です。ちゃんと小声でした」
俺は、少し黙った。
黙ってから、無線をしまった。
「大貫」
「はい」
「それ、あとで書いといてくれ」
「え、俺がですか」
「お前が数えたんだから、出典はお前だ」
「……出典、俺なんですか」
「お前だ」
二十四歳が、街灯の下で、少しだけ背を伸ばした。
一〇二の最終時限が終わったのは、二十一時十分だった。
予定どおりである。
繰り下げを三十分にしたことで、あの部屋は、予定どおりに終わった。
俺は、正門に立っていた。
構内は、もう暗い。
街灯が、正門から駅までの道を、点々と照らしている。
一〇二から出てきたのは、三人だった。
白杖を持った受験生と、その母親と、権田先生である。
権田先生は、扉のところで足を止めて、それ以上は付いてこなかった。
監督者は、試験室の外までである。
正門までの誘導は、馬剃さんがやった。
肘を貸して、掴んでもらって、半歩前を歩いていた。
「正門まで、あと十四歩です。途中、六歩目の右側に、三センチの段差があります」
「はい」
「段差は、避けられます。四十センチ、左に寄ります」
「はい」
二人が、正門を出た。
母親が、俺のほうに頭を下げた。
俺も下げた。
それだけである。
受験生は、白杖を持ち直して、それから、こちらのほうを向いて言った。
「あの」
「はい」
「明日も、よろしくお願いします」
「……はい。お待ちしています」
三人が、駅のほうへ歩いていった。
街灯は、全部点いていた。
十二月に、俺が一つずつ確認したやつである。
確認した理由は、そのときは、なんとなくだった。
「馬剃さん」
「はい」
「歩幅、聞きました?」
「伺いました。……朝、正門で」
「何歩でした」
「私の歩幅より、七センチ大きかったです。ですので、全部、引き直しました」
「いつ」
「昼休みです」
――昼休み。
弁当を七分で食べる人の、その残りの時間である。
「馬剃さん」
「はい」
「今日、二十時四十分の予定が、二十一時十分になりました」
「なりました」
「三十分ぶん、あの人の一日が長くなってます」
「……はい」
「それでも、あの人は、明日も来ます」
「来ます」
彼女は、駅のほうを見たまま、言った。
「明日は、十九時五十分の予定です。……予定どおりに、終わらせます」
二十一時四十分、一日目の報告が終わった。
特記事項が、二件あった。
開始時刻の繰り下げ。リスニングの中断指示と、再開テストの実施。
五年間、俺はこの欄に、一度も何も書かなかった。
大貫は、パイプ椅子の上で溶けていた。
「温水さん」
「うん」
「明日も、六時十分ですよね」
「六時十分だ」
「昨日も同じこと聞きました」
「事実は変わらない」
「それ、もう課の公用語になってません?」
「なってるな」
「元祖の人、なんか言ってくださいよ」
元祖の人は、明日の名簿を確認していて、顔も上げなかった。
「事実は変わりません」
「公用語だ……」
「大貫」
「はい」
「九十分、寒かったか」
「寒かったです」
「車、来たか」
「一台も来ませんでした」
「そうか」
「……立ってて、意味あったんですかね、あれ」
俺は、名簿を閉じた。
「来なかったことは、お前が立ってたことの成果じゃない」
「ですよね」
「ただ、来たときに止められる人間が外にいたのは、事実だ」
大貫は、パイプ椅子の上で、少しだけ背筋を戻した。
戻して、こう言った。
「……それ、手順書に書いといてください」
「書く」
二日目は、朝から晴れた。
電車も、動いていた。
「温水さん、おはようございます」
「カイロは」
「七枚です」
「増えたな」
「昨日、市道で九十分立ったんで、学習しました」
「どこに貼った」
「背中に三枚、腹に二枚、腰に二枚です」
「動けるのか」
「動けます。ただ、若干、熱いです」
「若干か」
「……正直、けっこう熱いです」
二十四歳の学習は、いつも、方向が正しくて量が正しくない。
二日目の受験生は、一日目より、少しだけ歩くのが速い。
理由は分からないが、毎年そうである。
七時半の門で、昨日の女の子が立ち止まった。
立ち止まって、俺に小さく頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました」
「電車、動いてました?」
「今日は、始発で来ました」
「正解です」
女の子は、もう一度頭を下げて、歩いていった。
名前は知らない。
知らないままでいい仕事である。
七時四十分、一〇二の受験生が、母親と一緒に門を入ってきた。
馬剃さんが、正門で待っていた。
肘を貸して、掴んでもらって、半歩前を歩く。
「おはようございます。本日は、風がありません。地面は乾いています」
「はい」
「一〇二まで、五十一歩です。昨日と、同じ道です」
昨日と同じ道です、という一言が、たぶん、いちばん要る一言だった。
この人は、要る一言を、だいたい当てる。
八時過ぎ、昨日とは別の保護者が、門の前で俺に声をかけてきた。
「すみません、付き添いはどこまで入れますか」
「建物の手前までです」
「ありがとうございます。……あの、もう一つ」
――来る。
「ここの学食のカレーって」
「話題のカレーです」
「そうですか。よかった」
二日で、二回である。
うちの大学は、入試広報のパンフレットを、毎年四万部刷っている。
四万部より、あのカレーのほうが、たぶん強い。
九時前、一〇二の前を通った。
鵜飼先生が、扉の外で、資料を読んでいた。
「先生、昨日はお疲れさまでした」
「うん」
「二十一時十分まで、すみませんでした」
「いや」
鵜飼先生は、資料から目を上げなかった。
「読み上げ文言がね、あの部屋は、他より三か所多い」
「そうですね」
「三か所多いのを、三か所多いまま読むのは、悪くない」
「……はい」
「昨日、私は一度も、間違えなかった」
それだけ言って、先生は、また資料に戻った。
この人が自分の仕事の話をするのを、俺ははじめて聞いた。
十時三十五分だった。
本部の固定電話が鳴ったらしい。
俺は正門にいたので、鳴った音は聞いていない。
聞いたのは、そのあとの無線である。
『本部より各試験場。大学入試センターから、問題訂正の指示が入電しました』
『第二時限、問題冊子一箇所です。ただいま文面を確定します。連絡員は、本部前で待機してください』
『二号館、大貫、待機します』
『三号館、待機します』
文面は、本部で二人が復唱して確定する。
電話を取ったのが鷲尾課長で、書き取ったのが馬剃さんだ。
書き取って、読み上げて、もう一度読み上げて、それから印刷する。
二号館ぶんと三号館ぶんは、分けて刷る。
金曜のリハーサルで、彼女が「印刷です」と言って一分半を削った、あの一手である。
『文面、確定しました。連絡員は、紙を受け取るまで動かないでください。口頭では伝えません』
『了解』
紙を持って、走る。
十五室。
目標は、三分。
『第一試験場、伝達完了』
『第二試験場、伝達完了』
『第四試験場、伝達完了』
番号が、順番に潰れていく。
俺は、正門で腕時計を見ていた。
二分四十秒で、十四室が潰れた。
残り、一室。
第十一試験場、三号館四階。
報告が、来ない。
『本部より第十一試験場。……応答がありません』
『本部、馬剃です。もう一度お願いします』
『……出ません』
『大貫さん』
『はい!』
『第十一試験場へ。走ってください』
『了解!』
俺は、門のところで、靴の中の足を丸めた。
紙は届いている。届いたことは、走った連絡員が確認している。
届いているのに、報告が来ない。
それは、いちばん気持ちの悪い種類の空白である。
二十秒。
三十秒。
『大貫、第十一試験場に到着! ……実施済みです!』
『詳細を』
『読み上げ、完了。板書、完了。受験生全員が、書き写しを終えています』
『報告が入らなかった理由は』
『監督者が、報告のために内線を上げたら、音が出なかったそうです』
『受話器の不良ですね』
『不良です。いま、先生が受話器を振ってます』
『振っても直りません』
『振っても直らないそうです!』
無線の向こうで、一拍だけ、間があった。
『……第十一試験場、伝達完了。三分十秒です』
あとで聞いた話だと、そのとき第十一試験場に立っていたのは、蓑田先生だった。
三十年の人である。
紙を受け取って、太字を読み上げて、板書して、それから、全員が書き写すのを待った。
書き写す音がやむまで待って、顔を上げた子の数を数えて、それから報告しようとした。
受話器を上げた。音がしなかった。
いちばん遅くて、いちばん正しい。
水曜に「読まなくても分かりますよ」と言った人が、今年の三点を守った上で、三十年ぶんの余計なことを一つだけ足していた。
余計なことのほうが、俺は好きだった。
昼過ぎ、交代で本部に立ち寄った。
馬剃さんは、記録の欄にペンを走らせていた。
「三分十秒でしたね」
「三分十秒です」
「目標は、三分でした」
「十秒、超過しました」
「規定内ですよ」
「規定内です。ですが、十秒は」
「誤差じゃない」
先回りした。
馬剃さんが、こちらを見た。
見て、二秒くらい、何も言わなかった。
「……はい」
「来年、縮めますか」
「縮めます」
彼女は、ペンを持ち直した。
持ち直してから、少しだけ、言い直した。
「……いえ。訂正します。縮めるのは、伝達の時間です」
「うん」
「書き写す時間は、縮めません」
十五時四十八分。
最終時限が始まって、八分後だった。
『第七試験場より本部。監督者から、不正行為に関する申し出があります』
俺は、正門で無線を握り直した。
『本部、馬剃です。……試験は』
『継続しています』
『継続してください。監督者は、当該受験生の解答を止めないでください』
いい判断だった。
水曜の三点の、二つ目である。
判断が必要になったことは、すべて本部に上げる。
上げられた本部は、まず、試験を止めない。
『事象の内容を、簡潔にお願いします』
『机の上に、時計以外の電子機器。腕時計型の端末と思われます。監督者が二度、注意しました。二度目のあと、机の下で操作していたとのことです』
『二度目のあと』
『はい』
俺は、正門を守衛さんに預けた。
今日は、二度目である。
本部に着いたとき、馬剃さんは実施要領を開いていた。
開いていたが、今日は、口は動いていなかった。
代わりに、指が震えていた。
「馬剃さん」
「……温水さん」
「はい」
「認定は、本部長です」
「そうです」
「私は、何をしますか」
いい質問だった。
昨日までのこの人なら、たぶん、自分で全部やろうとした。
「三つあります」
俺は、指を三本立てた。
「一つ。当該時限が終わるまで、何もしない」
「……何も」
「終わってから、事実確認をします。試験中に受験生を呼び出すことは、しないです」
「はい」
「二つ。監督者から、経過を書面で取ります。時刻と、回数と、監督者が見たことだけ。推測は書かせないでください」
「はい」
「三つ。本人から、話を聞きます。本部で、二人以上で」
「……その場で、取り上げないのですか」
「取り上げます。ただし、試験が終わってからです」
馬剃さんは、要領の頁を指で押さえた。
押さえて、ゆっくり読み上げた。
「試験時間中は、当該受験生の受験を継続させ、当該時限終了後、速やかに事実の確認を行うものとする」
「速やかに、ですね」
「……速やかに、です」
彼女の指の震えが、止まった。
条文を読むと、この人は戻る。
十六年前からそうだった。
十六時五十分、最終時限が終わった。
事実確認は、十七時五分から、本部の隣の小部屋でやった。
入ったのは、学長と、鷲尾課長と、馬剃さんの三人である。
俺は外にいた。
外にいて、廊下の壁に背中を預けていた。
大貫が、廊下の反対側から歩いてきた。
「温水さん」
「うん」
「あれ、ほんとに、あったんですか」
「あったらしい」
「……なんでですかね」
「知らん」
「俺、あの子のこと、ちょっとだけ知ってるんですよ」
大貫は、壁にもたれた。
「今朝、俺が誘導したんです。第七の場所が分からないっていうんで」
「そうか」
「普通の子でしたよ」
「普通の子だ」
「……普通の子が、なんでですかね」
俺は、答えなかった。
答えを持っていなかったし、持っていたとしても、この廊下で言うことではなかった。
大貫も、それ以上は聞かなかった。
二人で、閉まった扉を見ていた。
十九分かかった。
出てきた馬剃さんは、書面を三枚持っていた。
持ったまま、俺の前で止まった。
「……認めました」
「本人が、ですか」
「本人がです」
「そうですか」
「本部長が、認定しました。当該時限の解答は、無効です。センターに報告します」
彼女の声は、平らだった。
平らすぎた。
「馬剃さん」
「はい」
「あの子の、今日の残りは」
「ありません」
書面を持つ手が、少しだけ、下がった。
「今日で、終わりです」
俺は、しばらく何も言わなかった。
言うことは、たぶん、二つある。
一つは慰めで、一つは事実で、この人に効くのは事実のほうだけである。
「馬剃さん」
「はい」
「あれ、俺たちが決めたことじゃないです」
「……はい」
「決めたのは、あの子です」
「はい」
「ただ」
俺は、そこで言い方を選んだ。
「あの子が、来年、また来たときに、うちが同じ手順でやってるってことのほうが、大事です」
馬剃さんが、顔を上げた。
「……来年」
「来年も、再来年も、同じ手順でやります。あの子にも、隣の席の子にも、同じ手順で」
「……はい」
「同じ手順でやらないと、あの子だけが、特別に許されなかったことになります」
彼女は、書面を胸に抱えた。
抱えて、少しのあいだ、廊下の床を見ていた。
「温水さん」
「はい」
「私、十月に、こう申し上げました」
「はい」
「『受験生が、一人も不利にならない状態を作る』と」
「言いましたね」
「今日、一人、不利になりました」
俺は、首を振らなかった。
振らずに、こう言った。
「不利じゃないです。あの子は、同じ手順の中にいました」
「……はい」
「同じ手順の中にいて、自分で外に出た。それは、不利とは言わないです」
馬剃さんは、二秒くらい、動かなかった。
動かないまま、こう言った。
「……分かりました。分かりましたが」
「はい」
「……分かるのに、少し、時間をください」
「どうぞ」
「明日まででいいですか」
「いいです」
この人は、分からないことを分かったふりで済ませない。
済ませないので、たまに、こういう時間の要求が出る。
俺は、その要求の仕方が、四月からずっと好きだった。
十七時四十分、正門。
その子は、一人で出ていった。
鞄の持ち方は、朝、大貫が誘導したときと、たぶん同じだった。
俺は、門の内側に立っていた。
声はかけなかった。
かける言葉が、規程にも、要領にも、二十二枚にも、どこにも書いていない。
書いていないので、俺は、ただ立っていた。
その子は、こちらを見なかった。
見ないまま、坂を下りていった。
――来年、来るだろうか。
来るかどうかは、俺たちの管轄ではない。
管轄なのは、来たときに、去年と同じ手順が待っていることだけである。
一〇二の最終時限が終わったのは、十九時五十分だった。
予定どおりである。
正門までの誘導は、また馬剃さんがやった。
昨日より、少し歩くのが速かった。
速かったのは、二人とも道を覚えたからである。
「正門です。段差はありません。この先、三歩で歩道です」
「はい」
「本日は、以上です。……お疲れさまでした」
受験生は、白杖を持ち直して、少しのあいだ、動かなかった。
動かないまま、こう言った。
「昨日と、同じでした」
「はい」
「昨日と、今日と、同じでした。……それが、いちばん、ありがたかったです」
馬剃さんは、返事をしなかった。
返事の代わりに、深く、頭を下げた。
角度は、三十度より、少し深かった。
相手には、見えていない。
見えていないのを承知で、下げていた。
撤収は、設営の逆再生である。
矢印を剥がし、掲示板をたたみ、机の配置を月曜の授業に戻す。
「温水さん、これ、全部剥がすんですか」
「全部剥がす」
「千百枚」
「千百一枚だ」
「……二日前に千百一枚貼って、いま千百一枚剥がしてます」
「そういう仕事だ」
「温水さん、これ、来年も貼るんですよね」
「貼る」
「じゃあ、貼ったままにしとけば」
「番号が変わる」
「……あ、そうか」
「毎年、千百人が違う」
「……そうですよね」
大貫は、剥がした番号票を、袋に落とした。
落として、こう言った。
「なんか、それ、いいですね」
「いいか」
「いいですよ。毎年、全部違うって」
二十四歳が、二日間の最後に、いちばんまともなことを言った。
剥がした番号票は、袋一つに収まった。
あんなに数えたものが、最後は袋一つである。
一〇二の机は、二つ並べたまま、月曜に戻した。
並べたのは権田先生の要望で、戻すのは俺たちの仕事だった。
二十時五十分、本部。
撤収の途中で、馬剃さんが実施報告書を書いていた。
遅刻者数、二。途中退室者数、一。機器不良、一。答案、全時限、枚数一致。
問題訂正、一件。所定の手順により、全試験場において規定時間内に伝達完了。
そして、特記事項の欄である。
今年は、白紙ではなかった。
一、第一時限の開始を三十分繰り下げた。交通機関の遅延による。センター報告済。
二、外国語(リスニング)において、試験場外の騒音により三試験室に中断を指示し、対象者六十二名に再開テストを実施した。センター協議済。
三、不正行為一件を認定した。本部長認定。センター報告済。
三行、書いた。
三行書いて、彼女のペンが止まった。
止まった先に、もう一つの欄があった。
別室受験に関する特記事項、と印字された欄である。
二秒くらい止まって、それから、動いた。
『特記事項なし』
「……書かないんですか」
「書きません」
「二日で、二時間半、押しました」
「押しました」
馬剃さんは、ペンを置いた。
「押しましたが、あの方の解答時間は、一分も減っていません」
「……はい」
「所定の時間を、所定どおり確保しました。特記すべき事項では、ありません」
四文字と、ひらがなが二つ。
これを書くために、四十五分の説明会と、四百ページを二周した人と、六十二枚を三つに分けた紙と、机を二つ並べた教室と、五十一歩の道と、九十分外に立った男と、街灯の点灯時刻があった。
何も起きなかった、というのは、報告書の中でいちばん短くて、いちばん作るのが難しい一行である。
俺は、思い出して、伝言を渡した。
「蓑田先生から、伝言です」
「はい」
「『三点だけだった』だそうです」
馬剃さんは、二秒くらい、動かなかった。
動かないまま、手帳を開いて、閉じた。
開いて、閉じただけだった。
「馬剃さん、お疲れさま」
鷲尾課長だった。
二日間、副本部長席の後ろに立っていた人である。
「初回でこれなら、上等よ」
「恐れ入ります」
「……三つも来て、三つとも手順どおりに返した。上等どころじゃないわね」
「私は、返しておりません」
「じゃあ誰が返したの」
馬剃さんは、少しのあいだ、答えなかった。
答えないで、報告書の三行を見ていた。
「……三十七人と、四十二人と、選挙カーの運転席の方です」
「あんたね」
鷲尾課長は、笑った。
「そういうところが、いちばん厄介なのよ」
「恐れ入ります」
「褒めてないわよ」
課長は、報告書の二行目を、指で一度叩いた。
「再開テスト、通したでしょう」
「センターが、認めてくださいました」
「認めさせたのよ、あんたが」
「……」
「あれ、通らなかったら再試験。一週間後の二十四日、ここでもう一回、朝の六時十分からやってたわ」
馬剃さんは、報告書を見たままだった。
「二十四日の予定は」
「一般入試の準備だけです」
「そう。……それだけよ」
馬剃さんは、そこではじめて、少しだけ息を吐いた。
吐いた息が、少し長かった。
二日間で、この人が息を吐いたのを、俺は三回しか見ていない。
「で、休む間もなくて悪いんだけど」
「はい」
「二月一日、一般入試。六日間で延べ四千二百人。会場は三つ。で、温水君は、いない」
「存じております」
即答だった。
鷲尾課長は、俺のほうをちらりと見て、それから戻した。
「……頼んだわよ」
「はい」
二十二時十分、正門を二人で出た。
二日間立ちっぱなしだった足に、駅までの道は少し長い。
信号待ちで、隣の肩が、一度だけ下がった。
下がって、すぐ戻った。
緊張の糸というのは、切れるときに音がしない。
肩が一度下がるだけである。
「馬剃さん」
「はい」
「今日の記録、もう書きました?」
「書きました」
「長そうですね」
「一行です」
「……珍しい」
馬剃さんは、鞄から手帳を出さなかった。
出さないで、言った。
「『誰も、工夫しませんでした』」
俺は、少し考えて、言った。
「一人、いませんでしたか」
「おります」
「誰ですか」
「本日の前日、七時四十分に、確定しないまま決めた方です」
「……それ、工夫ですか」
「工夫です」
彼女は、前を向いたまま言った。
「あれだけは、二十二枚のどこにも、書いてありませんでした」
「じゃあ、書いといてください」
「書きました」
「早いですね」
「二十三枚目です」
――二十三枚目。
俺が五年かけて二十二枚にしたものに、この人が、十か月で一枚足した。
足された一枚には、たぶん、こう書いてある。
確定しないまま決める方法。
三年後の誰かが読んだとき、それが誰の手口だったかは、もう分からない。
分からなくていい。
「温水さん」
「はい」
「来年は」
「うん」
「来年も、三〇四から始めましょう」
――来年。
俺は、その二文字を、胸の中で一回だけ繰り返した。
信号が、青になった。
俺は、今度は、ちゃんと渡った。
一月二十日、火曜日。
月曜を会計課で潰して、二日ぶりに入試広報の島に戻った。
机の上に、付箋はなかった。
メールも、落ちていなかった。
落ちる前に、下書きが二件、共有フォルダに置いてあっただけである。
俺は、給湯室にお茶を淹れに立った。
立って、戻る途中で、足が止まった。
馬剃さんの机の上である。
湯呑みが、一つ置いてあった。
白地に、青い線が一本入った湯呑みだ。
備品ではない。
備品の湯呑みは、全部同じ柄で、棚に伏せてある。
私物である。
この島で、あの人の私物を見たのは、はじめてだった。
十か月、あの机の上には、業務に必要なものしかなかった。
引き出しの中も、たぶんそうだ。噂になるくらい、そうだった。
その机に、湯呑みが一つ、増えた。
――荷物は、減るだけではない。
俺は、そのことを、誰にも言わなかった。
言わないまま、自分の席に戻って、お茶を一口飲んだ。
「温水さん」
大貫だった。
「なんか、いいことありました?」
「ない」
「顔が『ある』って言ってます」
「気のせいだ」
「あ、また言った。それ、絶対あるやつです」
「仕事しろ」
「あ、そうだ。温水さん」
「まだあるのか」
「『本日は晴天なり』、調べてもらいました」
「誰に」
「馬剃さんです。昨日の朝、俺の机に紙が置いてありました」
「なんて書いてあった」
大貫が、紙を広げた。
「『マイクロホン試験用の慣用句。子音の分布が均等で、明瞭度の判定に適する。出典、諸説あり』」
「……諸説ありまで書いたのか」
「書いてました。あと、下に一行」
「なんて」
「『次回は、使用を許可します』」
大貫は、その紙をひらひらさせた。
「俺、許可されました」
「よかったな」
「よかったです」
隣の席の人は、こちらを見なかった。
見ないで、一般入試の座席表を作っていた。
俺は、金曜日の自分に、賭け金を払いたい気分だった。
窓の外は、よく晴れていた。
一昨日の夕方、あの人は「分かるのに、少し時間をください」と言った。
明日まででいいですか、と聞かれて、いいです、と俺は答えた。
その明日は昨日で、昨日は、もう終わっている。
終わったあとの顔で、いま、二月の千二百人ぶんの番号を並べている。
二月一日まで、あと十二日である。