大学職員の僕たち   作:房吉

43 / 43
~29敗目~ 十七時十五分の業務命令

 (一月二十六日〜二十九日/馬剃視点)

 

 一月二十六日、月曜日、十二時五十分。

 

 私の手帳には、先週から、新しい頁がある。

 

 頁の見出しは『業務日誌・補遺』である。

 

 補遺の中身は、こうだ。

 

 水曜、昼食未摂取の疑い。木曜、ネクタイの結び目、九時から十三時まで曲がったまま。金曜、書類を取りに立って、手ぶらで戻る、二回。

 

 記録している対象の名前は、書いていない。

 

 書かなくても、分かるからである。

 

「馬剃さん、それ何の帳簿ですか」

 

 大貫さんが、弁当を持ったまま覗きこんできた。

 

「業務日誌です」

 

「絶対違うでしょ。さっき温水さんのほう見ながら書いてましたよね」

 

「業務日誌です」

 

「二回言った……あ、でも俺も気になってたんですよ。温水さん、今日お昼食べました?」

 

「確認してください」

 

「なんで俺が」

 

「私が聞くと、大事になりますので」

 

「なりますかね」

 

「なります」

 

 私が「食べましたか」と聞くと、あの人は「食べた」と答える。

 

 答えてから、食べていないことに自分で気づく顔をする。

 

 その顔を見ると、私の何かが決壊しかねないので、確認は大貫さんの担当である。

 

「温水さん、お昼、食べました?」

 

「食べた」

 

「何を」

 

「……何か」

 

「何かって何ですか!」

 

「思い出してるから待て」

 

「思い出す時点でアウトですよ!」

 

 鞄から、未開封のカロリー補助食品が二本、出てきた。

 

「温水さん、それ昨日も同じの出してきましたよ」

 

「昨日のは食べた」

 

「今それ、二本目が出てきましたけど」

 

「……二本目は、予備だ」

 

「一本目も未開封なんですよなあ」

 

「食えと言われても、入らないときがあるんだ」

 

「入れてください。俺、そこにいますんで」

 

「どこにいるんだ」

 

「隣です。ずっと隣にいますよ」

 

 

 

 

 ――ばちん。

 

 

 

 

 頭の中で、何かのブレーカーが落ちた。

 

 冬の島。細くなった先輩の背中。差し出される、後輩の手。ずっと隣にいますよ。

 

 ……いけない。

 

 いけません。業務中です。ここは職場で、私は主任です。

 

 鼻の奥が、つん、とした。

 

 私は、鞄から予備の手帳を出した。

 

 業務用ではないほうである。

 

 出して、一行、書き殴った。

 

 『二十四歳、押しが強い。三十四歳、受け流す。よくない。非常によくない』

 

 書いた。

 

 書くと、収まる。

 

 これは治療である。認知の、修正である。

 

「馬剃さん、いま何書きました?」

 

「業務日誌ですっ」

 

「三冊目出てきましたけど」

 

「予備ですっ! 予備は、業務の基本ですっ!」

 

「温水さんの予備は、あんなに責めてたのに……」

 

「あれは食糧ですっ! これは記録ですっ!」

 

 ばん、と机が鳴った。

 

 鳴らしてから、鳴らした手を、そっと膝に下ろした。

 

 ……声量が、不適切だった。

 

 私はティッシュを一枚取って、鼻を押さえた。

 

 押さえながら、平静な顔をした。

 

 平静な顔は、鏡で練習してある。

 

 

 

 

 私は手帳に書いた。

 

 『月曜。昼食、実質未摂取。在庫二本、共に未開封』

 

 書きながら、胸の奥が、きゅう、と音を立てた。

 

「馬剃さん、その補遺、俺、見ていいですか」

 

「よくありませんっ」

 

「一頁だけ」

 

「一行も駄目ですっ」

 

「じゃあ、俺のことも書いてます?」

 

 私は、手帳を、ぱたん、と閉じた。

 

「……書いていません」

 

「いま閉じましたよね」

 

「閉じておりませんっ」

 

「閉じた音、しましたよ」

 

「風ですっ」

 

「無風ですよ、ここ」

 

 ……書いてある。

 

 『大貫。飴の減りを把握。声が大きい。悪くない』

 

 悪くない、まで書いたのは、先週の日曜の夜である。

 

 

 

 

 先週の土曜と日曜、私たちは共通テストをやった。

 

 二日間で、三件。

 

 開始時刻の繰り下げ、リスニングの中断と再開テスト、不正行為の認定。

 

 三件とも、手順の中で処理した。再試験にも、しなかった。

 

 報告書の三行を書き終えたのが、日曜の二十時五十分である。

 

 月曜、あの人は会計課に出勤した。

 

 火曜からは、一日を二つに割る生活に戻った。

 

 午前は会計課、午後はこちら。

 

 私は、そのことを、三枚の紙を受け取った日から知っていたはずだった。

 

 知っていたはずなのに、考えていなかったことがある。

 

 三枚の紙を受け取ったとき、私は、渡された側の重さだけを数えていた。

 

 渡した側が、そのぶん軽くなるわけではない。

 

 一般入試の主担当が私になったぶん、あの人の一日から仕事が減ったわけではないのである。

 

 減ったのは、昼休みだけだった。

 

「そういえば温水さん、会計課でなんて言われてるか知ってます?」

 

「知りません」

 

「『戻ってきた感想は』って聞かれて『浦島太郎です』って。『竜宮城はどっちだ』『両方です』って答えたらしいですよ」

 

「……両方」

 

「両方だそうです」

 

 両方の竜宮城で玉手箱を抱えている人の観察記録が、私の手帳で、頁を増やしていく。

 

 増やしても、記録は、何も止めない。

 

 それが、記録の限界である。

 

 限界であることは、九年前に、いやというほど学んだ。

 

 

 

 

 火曜日は、片面でいい資料が、両面で三百枚刷られた。

 

「温水さん、これ裏、白でよかったんじゃ」

 

「……裏は、メモ欄だ」

 

「今決めましたよね!?」

 

「昔から決まってる」

 

「じゃあ去年のは」

 

「去年は……去年だ」

 

「答えになってないんですよなあ」

 

「三百枚ぶんのメモ欄だ。豊かだろ」

 

「豊かって言い方でごまかしましたね」

 

 今決めた顔だった。

 

 私は、その顔を、島の反対側から見ていた。

 

 見ながら、ペンの尻を、こつ、こつ、と机に当てていた。

 

 当てていることに気づいて、止めた。

 

 止めて、それから、三センチだけ腰を浮かせた。

 

 浮かせて、座り直した。

 

 立ち上がって何を言うのか、決めていなかったからである。

 

 決めないまま立つのは、九年前に一度やって、一行で消された。

 

 私は、ペンを持ち直して、手帳に書いた。

 

 『火曜。両面三百枚。判断の速度、低下』

 

 判断の速度が落ちる人ではない。

 

 落ちない人が落ちているとき、原因は、判断の外にある。

 

 睡眠か、血糖か、その両方かである。

 

 私は、その両方を管轄していない。

 

 管轄していないので、書くしかない。

 

 書いても止まらないことは、もう分かっている。

 

 分かっているのに、書く手が止まらないのは、たぶん、書いていないと、立ち上がってしまうからである。

 

 

 

 

 火曜の夜、私は一つ、起案を書いた。

 

 件名は『事務分掌の一部変更について(伺い)』である。

 

 内容は、三行で書けた。

 

 併任者の業務量が、両課の合計で標準を超えていること。会計課側の一部を、他の職員に振り替えたいこと。効力の発生は、可及的速やかに、ということ。

 

 書いて、決裁欄を見て、手が止まった。

 

 部長決裁である。

 

 部長決裁の案件は、部長が押せば動く。

 

 動くが、動いた先に受け取る人がいなければ、紙は紙のまま止まる。

 

 会計課の職員数は、四月から二名減っている。

 

 私は、その数字を知っていた。知っていて、書いた。

 

 ……知っていて書くのは、九年前に、私が役所でやったことである。

 

 通らない起案を、それでも書く。

 

 書かないと、翌年の議論が、またゼロから始まるからだ。

 

 私は、その紙を印刷して、クリアファイルに入れた。

 

 ファイルの背に、付箋を貼った。

 

 『四月一日から』

 

 いまは、通らない。

 

 通らないが、四月一日には、私はまだこの島にいる。

 

 いる予定である。

 

 

 

 

 水曜日の朝は、自販機の前で、事件が起きた。

 

 彼の手元に、ごとん、と落ちてきたのは、ココアだった。

 

「……押し間違いですか」

 

「かじかんでました」

 

「一月十七日と、同じ言い訳です」

 

「……手癖で」

 

「ココアのボタンは、ブラックの二段上です。かじかんで届く距離では、ありません」

 

「……ココア、飲むよ。買ったから」

 

「飲むんですね」

 

「もったいないから」

 

「そうですか」

 

「馬剃さんは」

 

「私は、ブラックです」

 

「じゃあ、これ半分いる?」

 

 

 

 

 ぴしっ、と背筋が伸びた。

 

 

 

 

「い、いただきませんっ」

 

「そう」

 

「そういう、その、共有は、業務外ですっ」

 

「共有って言った? 俺、飲む? って聞いただけだけど」

 

「……っ」

 

 顔が、かあ、と熱くなった。

 

 缶を半分、というのは、つまり、そういうことである。

 

 そういうことが何なのかは、非公開とする。

 

 彼は、私の返事を待たずに、ココアを飲みはじめた。

 

 待たれなくて、よかった。

 

 待たれていたら、私は、たぶん、いただいてしまっていた。

 

 ココアを両手で持って飲む姿を、私は横目で記録した。

 

 記録項目に『甘いもの、実は拒否しない』が追加された。

 

 言いながら、私は自分の声が検品の音をしていることに気づいていた。

 

 心配です、と言えないので、検品をしている。

 

 私の心配は、いつも、検品の形で出荷される。

 

 形が不器用なのは、自覚している。

 

 自覚しているが、他の形の在庫が、私にはないのである。

 

 

 

 

 一月二十八日、水曜日、十時四十分。

 

 水曜は、終日こちらの日である。

 

 彼の席の内線が鳴った。

 

 聞くつもりは、なかった。

 

 なかったが、「一列ずれてない?」という単語が、島の空気を斜めに横切ってきた。

 

 彼の背中が、止まった。

 

 止まり方で、内容が分かった。

 

 会計課からである。

 

 私の手から、ペンが滑った。

 

 かつん、と机で跳ねて、床に落ちた。

 

 落ちた音が島の端まで届いた気がして、私は椅子の上で固まった。

 

 固まったまま、拾わなかった。

 

 拾うために屈むと、彼の背中が視界から消えるからである。

 

「……申し訳ありません。すぐ修正して、再送します」

 

 受話器を置く音が、いつもより、静かだった。

 

 静かな音ほど、大きく聞こえるものはない。

 

 

 

 

 どくん、と心臓が、内側から一度、机を叩いた。

 

 二度目は、もっと大きかった。

 

 指の先が、すう、と冷たくなっていく。

 

 

 

 

 あの人が、数字を一列ずらす。

 

 五年ぶんの引き継ぎを二十二枚に書いた人が、列を、一本。

 

 私はペンを持ったまま、画面を見るふりをして、視界の端に彼を置いた。

 

 置いた視界の端で、彼の背中は、昼を抜いて、動き続けた。

 

 昼を抜いた、という事実を、私は手帳に書かなかった。

 

 書く手が、震えて、まっすぐにならなかったからである。

 

 十三時すぎ、大貫さんが小声で言った。

 

「温水さん、手、止まってますよ」

 

「動いてる」

 

「五分前から同じセルにカーソルあります」

 

「……観察するな」

 

「心配してるんですって」

 

 大貫さんが席に戻ってきて、私に小さく首を振った。

 

「馬剃さん、あれ、まずいやつです」

 

「分かっています」

 

「俺、チョコ渡してきましょうか」

 

「まだです」

 

「まだ?」

 

「糖分の投入は、山場の後です。いまは本人が、山場の中にいます」

 

「詳しいですね、投入のタイミング」

 

「……経験則です」

 

「誰のときの経験です?」

 

「業務日誌に、記載はありません」

 

「またそれだ」

 

 大貫さんは、そこで一度、島の向こうを見た。

 

 見てから、こちらに向き直った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「先週の日曜、俺、市道で九十分立ってたじゃないですか」

 

「立っていただきました」

 

「あのとき、温水さんが二枚、カイロくれたんですよ」

 

「……はい」

 

「自分の背中から剥がして、くれたんですよなあ」

 

 私は、ペンを置いた。

 

 置いた音が、思ったより、大きかった。

 

「行きます」

 

「馬剃さんが動くと大事に……いえ、何でもないです。お願いします」

 

 私は立ち上がった。

 

 立ち上がる前に、引き出しから飴を一つと、クリアファイルを一枚、鞄に移した。

 

 準備は、月曜からしてあった。

 

 観察記録は、このためにあったのである。

 

 記録は何も止めない。

 

 止めないが、動く日の手順書には、なる。

 

 

 

 

「温水さん」

 

 声をかけると、彼の肩が、跳ねた。

 

 跳ねた肩を見た瞬間、胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 

「顔色が、白いです」

 

「……大丈夫です」

 

 

 

 

 どくん、と心臓が、嫌な音を立てた。

 

 

 

 

 その嘘は、私のである。

 

 十二月二十四日に、三枚の資料を前にして、私が使った嘘である。

 

 自分の嘘を、他人の口から聞くと、人はこんなに冷たい音を胸で聞くのかと、私は初めて知った。

 

 知った上で、言った。

 

「その『大丈夫です』の、再提出を求めます」

 

「……」

 

「事実と異なる書類は、受理できません」

 

 彼は、画面と私を順番に見て、それから、肩から力を抜いた。

 

「……大丈夫じゃ、ないです。列を一本ずらして、日付を一個またいで、あとどこを落としてるか、自分で分からない」

 

「受理します」

 

「……早いね、受理」

 

「正直な申告は、即日受理が原則です」

 

「その原則、いつできたの」

 

「いま作りましたっ」

 

 立法は、三秒で済んだ。

 

 非常時の立法権は、私にあることにした。

 

 再提出を求めながら、私は、知っていた。

 

 私にも、再提出していない『大丈夫です』が、一枚、残っていることを。

 

 十二月二十四日の、あの一枚である。

 

 人に求めた様式は、いつか自分にも適用しなければならない。

 

 その期日を、私はこのとき、心のどこかで決めはじめていたのだと思う。

 

 

 

 

 私はクリアファイルから、A4を出した。

 

 『再発防止・三案』

 

「作ったの、これ。いつ」

 

「昼休みにです」

 

「昼休みに人の再発防止策を」

 

「一案、読み合わせによる全件確認。二案、業務量の再配分。三案、睡眠時間の是正」

 

「三案目、業務じゃないよね」

 

「業務の土台ですっ」

 

「……で、どれでいくの」

 

「全部ですっ」

 

「三案から選ぶんじゃないんだ」

 

「選ぶ余裕がある事案と、ない事案がありますっ」

 

「資料は判断を変えるためにあるんじゃなかったっけ」

 

「今日は、変えさせないためにありますっ」

 

 言い切った勢いで、A4が手から離れかけた。

 

 慌ててつかんで、つかんだ拍子に、角が折れた。

 

 折れた角を、私は指で、そっと伸ばした。

 

 伸びなかった。

 

 全部、と言い切ったら、彼が少しだけ笑った。

 

 今日はじめての、笑いだった。

 

 はじめての笑いを見たら、A4を持つ手に、じわりと熱が戻った。

 

 戻った熱が、そのまま、耳のほうまで上がってきた。

 

 上がってきたので、私はA4を顔の高さに持ち上げた。

 

 資料は、こういうときにも使える。

 

「読み合わせ、します。あなたの先週分と今週分、全部です」

 

「馬剃さんも、出願データが」

 

「本日の私の分は、終わっています」

 

 嘘である。

 

 嘘だが、この嘘は、再提出の対象にしない。

 

 対象にしない嘘の枠を、私はいま、また一つ立法した。

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ、何時間かかると思ってる?」

 

「二時間二十分です」

 

「計算したの」

 

「三百四十七行を、一行あたり二十四秒で見積もりました」

 

「二十四秒って」

 

「読み上げと、復唱と、確認です」

 

「……それ、いつ計った」

 

「先週の金曜に、リハーサルをしました」

 

「誰と」

 

「一人で、声を出して」

 

 言ってから、しまった、と思った。

 

 金曜の夜の島で、一人で数字を読み上げていた人間の絵面は、説明のしようがない。

 

「……何やってんの」

 

「準備ですっ」

 

「そう」

 

 それだけだった。

 

 それだけだったが、彼の耳が、ほんの少し赤かった気がして、私はA4に目を落とした。

 

 落とした先の数字が、一行も頭に入らなかった。

 

 

 

 

 読み合わせは、十四時に始まった。

 

「旅費、二万三千四百六十円」

 

「二万三千四百六十円」

 

「次。印刷製本費、八万九千百円」

 

「八万九千百円」

 

「次。会議費、六千六百円」

 

「六千六百円」

 

 彼の復唱の声を、私は数字と一緒に聴いていた。

 

 最初の十件は、声が細かった。

 

 三十件を過ぎたあたりから、少しずつ、太くなった。

 

 声が太くなるというのは、たぶん、息が戻るということである。

 

「次。通信運搬費、一万二千九百六十円」

 

「一万二千九百六十円」

 

「次。消耗品費……温水さん」

 

「はい」

 

「復唱の声が、最初より大きくなっています」

 

「……そう?」

 

「いい傾向です。次。消耗品費、四万四百二十円」

 

「四万四百二十円」

 

「最終行。予備費、ゼロ円」

 

「ゼロ円」

 

「以上、全件です」

 

「……ゼロ円まで読むんだ」

 

「ゼロも数字ですっ。省略した行から、事故は起きます」

 

 いい声だった。

 

 本日いちばんの復唱である、と手帳に書きたくなって、やめた。

 

 やめたが、指がペンのほうへ二センチ動いていたので、たぶん、大貫さんには見えていた。

 

 途中、その大貫さんが無言で近づいてきて、チョコレートを二枚置いて、無言で去った。

 

「……大貫さんが、気配を消しました」

 

「消せるんだ、あの気配」

 

「非常事態ですので」

 

 五分後、また来た。

 

 今度は、ホットのお茶を二本置いて、去った。

 

 十分後、また来た。

 

 三度目は、何も持っていなかった。

 

「大貫さん」

 

「はい」

 

「三度目は、何を」

 

「……見に来ただけです」

 

「見ないでください」

 

「はい」

 

 去った。

 

 去り際に、島の入口で一度だけ振り返って、親指を立てた。

 

 何に対しての親指なのかは、分からなかった。

 

 分からなかったが、悪い気は、しなかった。

 

 一度だけ、彼の指が、合っている箇所で三回止まった。

 

「温水さん」

 

「……はい」

 

「そこは、合っています。三回見ても、合っているものは合っています」

 

「……うん」

 

「慌てずに」

 

 彼の手が、止まった。

 

「……その言葉」

 

「はい」

 

「いや。……効くなと思って」

 

「効きます。実績がありますので」

 

 実績の出所は、言わなかった。

 

 言ってから、しまった、と思った。

 

 その言葉の出典を、私は知っている。

 

 先週、画面越しに見えてしまった、彼の下書きの中の言葉である。

 

 受験生向けの文面の最後に、まだ誰にも見せずに、あの人が足そうとしていた一言。

 

 出典は、あなたです。

 

 言わなかった。

 

 言うと、今日の私が、朝から何を返却して回っているのか、全部ばれてしまうからである。

 

 飴も、この後の缶コーヒーも、慌てずに、も。

 

 今日の私は、九か月ぶんの借りを、様式ごと返却して回っているのである。

 

 

 

 

 十六時二十分、全件が終わった。

 

 落ちていたのは、二件だけだった。

 

 二件。

 

 三百四十七行のうち、二件である。

 

 列を一本ずらした人が、その状態で、三百四十五行を合わせていた。

 

 その事実を、私は、たぶん一生、忘れない。

 

 彼が再送のボタンを押して、長い息を吐いた。

 

 吐いた息の長さで、朝からの重さが分かって、胸が、ぎゅうっとなった。

 

「温水さん。糖分です」

 

 飴を、机に置いた。

 

「脳が止まっているときの、通貨です」

 

「……それ、俺の台詞の使い回しだよね」

 

「準用ですっ。心の中でではなく、正式にです」

 

 それから、買っておいた缶コーヒーを、両手で置いた。

 

 黒の、百三十円のである。

 

「……これも使い回しだ」

 

「利子ですっ。クレープの」

 

「利子は三月って言ってなかった?」

 

「前倒ししましたっ。前倒しは、得意ですので」

 

「両手で持つんですね」

 

「……どなたかの持ち方が、うつりましたので」

 

「どなたの」

 

「非公開ですっ」

 

「一月十七日の朝の人?」

 

「……っ」

 

 当てられた。

 

 当てられて、缶を持つ手が、ぴく、と動いた。

 

「ひ、非公開ですっ!」

 

「二回言ったね」

 

「三回でも言いますっ!」

 

 両手の中の缶の温度と、同じ温度が、頬にも来ていた。

 

 来ていたが、業務時間中につき、認定はしない。

 

 

 

 

 十七時十分、私は立ち上がって、彼の机の前に立った。

 

「温水さんに、業務命令があります」

 

「……業務命令」

 

「本日、十七時十五分に退勤してください」

 

「いや、まだ出願データの」

 

「明日の私と、明日のあなたでやります。本日のあなたは、信用区間の外です」

 

「……そもそも、俺に業務命令する権限、ある?」

 

「あります。一般入試の主担当は、私ですので」

 

 三枚の紙の効力を、こんな形で行使する日が来るとは、受け取った日の私は思っていなかった。

 

「命令書は、要りますか」

 

「口頭でいい」

 

「では、復唱してください」

 

「復唱!?」

 

「様式ですっ」

 

「その様式、誰が決めたの」

 

「私ですっ」

 

「さっきから立法しすぎでしょ」

 

「非常時ですっ! 非常時の立法は、速いんですっ!」

 

「速すぎない?」

 

「三秒ですっ」

 

「自覚あるんだ」

 

「……本日、十七時十五分に退勤します」

 

 復唱した。

 

 言い負けて復唱したのではない。

 

 私が正しかったから、彼が従ったのである。

 

 ……たぶん。

 

「よろしい。帰って、六時間寝てください」

 

「明日、何時に来ればいい」

 

「定時ですっ」

 

「早めに来て、今日の分を取り返そうかと」

 

「命令違反ですっ。取り返す分は、計画に織り込み済みですっ」

 

「織り込み済みなんだ」

 

「三案の裏面に、書いてありますっ」

 

「裏面あったんだ、あれ」

 

「あります。両面ですっ」

 

「……片面でよかったんじゃない、それ」

 

「裏は、メモ欄ですっ」

 

 言ってから、二秒、遅れて気づいた。

 

 昨日、私が記録した台詞である。

 

 彼が、口の端を、ふ、と上げた。

 

「六時間は多くない?」

 

「多くありませんっ! 四時間半の人に言われたくありませんっ!」

 

「それ、自分のことでは」

 

「私のことは、いいんですっ!」

 

 よくないことは、知っている。

 

 知っているが、本日の議題ではない。

 

 彼はコートを着て、島の電気を半分消して、振り返った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「……ありがとう。今日の、全部」

 

 

 

 

 まっすぐ言われて、心臓が、どきん、と跳ねた。

 

 

 

 

 跳ねた勢いで、私は、なぜか一歩、後ろに下がった。

 

 下がった踵が、椅子の脚に当たった。

 

 がたん、と椅子が鳴った。

 

 鳴らしておいて、私は、何事もなかったような顔をした。

 

 九か月、私が言う側だった台詞である。

 

 言われる側に回ると、こんなに、胸のまんなかが熱くなるものだったのか。

 

 熱いのを悟られないように、私は三十度の礼をした。

 

「フォローは、業務です」

 

「業務の顔、してなかったけどね。読み合わせのとき」

 

「し、していましたっ!」

 

「数字読むとき、ちょっと楽しそうだった」

 

「数字は楽しいものですっ!」

 

「あと、俺が復唱間違えたとき、笑ったよね」

 

「笑っていませんっ! 肩は揺れましたが!」

 

「揺れたんだ」

 

「……っ」

 

 耳が、かっと熱くなった。

 

 熱くなった耳を、手で押さえようとして、押さえたら認めたことになると気づいて、行き場のなくなった手が、鞄の持ち手を、きゅっ、と握った。

 

「……七割は、業務です」

 

「三割は」

 

「非公開ですっ!」

 

 彼が帰ってから、私は椅子に座り直して、比率の計算をした。

 

 するまでもなかった。

 

 また、逆である。

 

 訂正は、しない。期限の定めは、ないのである。

 

 

 

 

 夜の島で、私は自分の出願データを片付けた。

 

 終わっています、と言った嘘の在庫を、一枚ずつ、事実に変えていく作業である。

 

 付箋を貼りながら、鼻歌が出そうになって、二回、危なかった。

 

 三回目は、出た。

 

 出た瞬間に、自分で自分の口を、両手で塞いだ。

 

 誰もいない。

 

 誰もいないのに、両手で塞いだ。

 

 塞いだまま、三秒、動かなかった。

 

 列を一本ずらされた日の夜に鼻歌が出るのは、主担当として、明らかに何かがおかしい。

 

 おかしいが、この件も、監査の対象外とする。

 

 二十時四十分に終わった。

 

 終わってから、机の引き出しを開けた。

 

 引き出しの奥に、コピー用紙が一枚、伏せてある。

 

 先週の日曜、彼が「じゃあ、書いといてください」と言ったので、その夜に書いた紙である。

 

 右上に、小さく番号を振ってある。

 

 『二十三』

 

 二十二枚のあとに、私が足した一枚である。

 

 中身は、二行しかない。

 

 『確定しない情報で決めるときは、決める順番だけを先に決める』

 

 『いちばん動かせないところから決める』

 

 私は、そこに、三行目を足した。

 

 『判断の速度が落ちた者には、判断をさせない。読み上げさせる』

 

 書いてから、しばらく、その三行を見ていた。

 

 二十二枚を五年で書いた人がいて、その続きを、十か月の私が書いている。

 

 三年後に読む誰かは、どこからが誰の一枚かを、たぶん、分からない。

 

 分からなくていい。

 

 紙は、書いた人のためにあるのではないのである。

 

 帰り際、手帳に一行書いた。

 

 『一月二十八日。読み合わせ、一式』

 

 少し迷って、その下に、小さくもう一行。

 

 『※本日の私は、役に立った』

 

 書いてから、頬が、かあ、と熱くなって、手帳を勢いよく閉じた。

 

 ぱんっ、と音が鳴って、誰もいない島に響いた。

 

 閉じても、書いた事実は変わらないのが、記録の困ったところである。

 

 

 

 

 翌朝、彼は定時の十五分前に来た。

 

「おはようございます。睡眠時間の報告を求めます」

 

「六時間半」

 

「超過達成です。大合格です」

 

「そこにも等級があるんだ」

 

「あります。……あなたの顔色も、本日は合格です」

 

「馬剃さんは」

 

「私は」

 

「顔色。合格?」

 

「……」

 

 鏡は、見ていない。

 

 見ていないが、四時間半で、鼻歌を歌って帰った人間の顔色が、合格であるはずがない。

 

「……審査対象外ですっ」

 

「都合いいなあ、その制度」

 

「制度は、運用する者のためにありますっ」

 

「いま作ったよね、それも」

 

「作りましたっ!」

 

「じゃあ、今日の読み合わせは」

 

「本日は、通常運用に戻します」

 

「大丈夫。……いや、違うな」

 

 彼が、言い直した。

 

「今日は、大丈夫です。事実として」

 

「受理します」

 

「あと、昨日の借りだけど」

 

「フォローに、貸し借りは発生しません」

 

「する。俺の帳簿では、する」

 

「では、そちらの帳簿の問題ですっ。私の帳簿は、受け付けませんっ」

 

「固いなあ、窓口」

 

「窓口は固くて、いいんですっ」

 

 受け付けない、と言いながら、彼の帳簿に私の行が増えたことを、胸のどこかが、勝手に喜んでいた。

 

 受理しながら、胸の奥が、じん、とあたたかかった。

 

 事実の『大丈夫です』は、こんなにいい音がする。

 

 私の未提出の一枚も、いつか、この音で出し直したい。

 

 

 

 

 九時ちょうど、大貫さんが出勤してきた。

 

「おはようございます! 温水さん、顔色いいですね!」

 

「寝たからな」

 

「何時間ですか」

 

「六時間半」

 

「勝ちましたね」

 

「何にだ」

 

「昨日の温水さんにです」

 

 妙な言い方をする人である。

 

 妙な言い方だが、勝ち負けの定義としては、正しい気がした。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「進行表、印刷しときました。三十部。片面です」

 

「……片面ですか」

 

「はい。裏、要らなかったんで」

 

 私は、手帳を開いた。

 

 開いて、『大貫。判断、適正』と書こうとして、やめた。

 

 書くほどのことではない。

 

 書くほどのことではないというのは、当たり前になったということである。

 

 当たり前になるまでに、十か月かかった。

 

 私の手元の進行表には、二月一日から六日間の、四千二百人ぶんの予定が並んでいる。

 

 本部は本学。外部会場が二つ。三か所を同時に見るのは、私である。

 

 二月一日まで、あと三日。

 

 勝負の装備の点検は、昨夜、済ませてある。

 

 三日後の雪のことを、このときの私は、まだ知らない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

卍解までは転生者の嗜み。(作者:点差惨敗)(原作:BLEACH)

ナチュラルボーンド畜生主人公が無双する話


総合評価:37910/評価:8.88/連載:16話/更新日時:2026年09月22日(火) 12:17 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>