(一月二十六日〜二十九日/馬剃視点)
一月二十六日、月曜日、十二時五十分。
私の手帳には、先週から、新しい頁がある。
頁の見出しは『業務日誌・補遺』である。
補遺の中身は、こうだ。
水曜、昼食未摂取の疑い。木曜、ネクタイの結び目、九時から十三時まで曲がったまま。金曜、書類を取りに立って、手ぶらで戻る、二回。
記録している対象の名前は、書いていない。
書かなくても、分かるからである。
「馬剃さん、それ何の帳簿ですか」
大貫さんが、弁当を持ったまま覗きこんできた。
「業務日誌です」
「絶対違うでしょ。さっき温水さんのほう見ながら書いてましたよね」
「業務日誌です」
「二回言った……あ、でも俺も気になってたんですよ。温水さん、今日お昼食べました?」
「確認してください」
「なんで俺が」
「私が聞くと、大事になりますので」
「なりますかね」
「なります」
私が「食べましたか」と聞くと、あの人は「食べた」と答える。
答えてから、食べていないことに自分で気づく顔をする。
その顔を見ると、私の何かが決壊しかねないので、確認は大貫さんの担当である。
「温水さん、お昼、食べました?」
「食べた」
「何を」
「……何か」
「何かって何ですか!」
「思い出してるから待て」
「思い出す時点でアウトですよ!」
鞄から、未開封のカロリー補助食品が二本、出てきた。
「温水さん、それ昨日も同じの出してきましたよ」
「昨日のは食べた」
「今それ、二本目が出てきましたけど」
「……二本目は、予備だ」
「一本目も未開封なんですよなあ」
「食えと言われても、入らないときがあるんだ」
「入れてください。俺、そこにいますんで」
「どこにいるんだ」
「隣です。ずっと隣にいますよ」
――ばちん。
頭の中で、何かのブレーカーが落ちた。
冬の島。細くなった先輩の背中。差し出される、後輩の手。ずっと隣にいますよ。
……いけない。
いけません。業務中です。ここは職場で、私は主任です。
鼻の奥が、つん、とした。
私は、鞄から予備の手帳を出した。
業務用ではないほうである。
出して、一行、書き殴った。
『二十四歳、押しが強い。三十四歳、受け流す。よくない。非常によくない』
書いた。
書くと、収まる。
これは治療である。認知の、修正である。
「馬剃さん、いま何書きました?」
「業務日誌ですっ」
「三冊目出てきましたけど」
「予備ですっ! 予備は、業務の基本ですっ!」
「温水さんの予備は、あんなに責めてたのに……」
「あれは食糧ですっ! これは記録ですっ!」
ばん、と机が鳴った。
鳴らしてから、鳴らした手を、そっと膝に下ろした。
……声量が、不適切だった。
私はティッシュを一枚取って、鼻を押さえた。
押さえながら、平静な顔をした。
平静な顔は、鏡で練習してある。
私は手帳に書いた。
『月曜。昼食、実質未摂取。在庫二本、共に未開封』
書きながら、胸の奥が、きゅう、と音を立てた。
「馬剃さん、その補遺、俺、見ていいですか」
「よくありませんっ」
「一頁だけ」
「一行も駄目ですっ」
「じゃあ、俺のことも書いてます?」
私は、手帳を、ぱたん、と閉じた。
「……書いていません」
「いま閉じましたよね」
「閉じておりませんっ」
「閉じた音、しましたよ」
「風ですっ」
「無風ですよ、ここ」
……書いてある。
『大貫。飴の減りを把握。声が大きい。悪くない』
悪くない、まで書いたのは、先週の日曜の夜である。
先週の土曜と日曜、私たちは共通テストをやった。
二日間で、三件。
開始時刻の繰り下げ、リスニングの中断と再開テスト、不正行為の認定。
三件とも、手順の中で処理した。再試験にも、しなかった。
報告書の三行を書き終えたのが、日曜の二十時五十分である。
月曜、あの人は会計課に出勤した。
火曜からは、一日を二つに割る生活に戻った。
午前は会計課、午後はこちら。
私は、そのことを、三枚の紙を受け取った日から知っていたはずだった。
知っていたはずなのに、考えていなかったことがある。
三枚の紙を受け取ったとき、私は、渡された側の重さだけを数えていた。
渡した側が、そのぶん軽くなるわけではない。
一般入試の主担当が私になったぶん、あの人の一日から仕事が減ったわけではないのである。
減ったのは、昼休みだけだった。
「そういえば温水さん、会計課でなんて言われてるか知ってます?」
「知りません」
「『戻ってきた感想は』って聞かれて『浦島太郎です』って。『竜宮城はどっちだ』『両方です』って答えたらしいですよ」
「……両方」
「両方だそうです」
両方の竜宮城で玉手箱を抱えている人の観察記録が、私の手帳で、頁を増やしていく。
増やしても、記録は、何も止めない。
それが、記録の限界である。
限界であることは、九年前に、いやというほど学んだ。
火曜日は、片面でいい資料が、両面で三百枚刷られた。
「温水さん、これ裏、白でよかったんじゃ」
「……裏は、メモ欄だ」
「今決めましたよね!?」
「昔から決まってる」
「じゃあ去年のは」
「去年は……去年だ」
「答えになってないんですよなあ」
「三百枚ぶんのメモ欄だ。豊かだろ」
「豊かって言い方でごまかしましたね」
今決めた顔だった。
私は、その顔を、島の反対側から見ていた。
見ながら、ペンの尻を、こつ、こつ、と机に当てていた。
当てていることに気づいて、止めた。
止めて、それから、三センチだけ腰を浮かせた。
浮かせて、座り直した。
立ち上がって何を言うのか、決めていなかったからである。
決めないまま立つのは、九年前に一度やって、一行で消された。
私は、ペンを持ち直して、手帳に書いた。
『火曜。両面三百枚。判断の速度、低下』
判断の速度が落ちる人ではない。
落ちない人が落ちているとき、原因は、判断の外にある。
睡眠か、血糖か、その両方かである。
私は、その両方を管轄していない。
管轄していないので、書くしかない。
書いても止まらないことは、もう分かっている。
分かっているのに、書く手が止まらないのは、たぶん、書いていないと、立ち上がってしまうからである。
火曜の夜、私は一つ、起案を書いた。
件名は『事務分掌の一部変更について(伺い)』である。
内容は、三行で書けた。
併任者の業務量が、両課の合計で標準を超えていること。会計課側の一部を、他の職員に振り替えたいこと。効力の発生は、可及的速やかに、ということ。
書いて、決裁欄を見て、手が止まった。
部長決裁である。
部長決裁の案件は、部長が押せば動く。
動くが、動いた先に受け取る人がいなければ、紙は紙のまま止まる。
会計課の職員数は、四月から二名減っている。
私は、その数字を知っていた。知っていて、書いた。
……知っていて書くのは、九年前に、私が役所でやったことである。
通らない起案を、それでも書く。
書かないと、翌年の議論が、またゼロから始まるからだ。
私は、その紙を印刷して、クリアファイルに入れた。
ファイルの背に、付箋を貼った。
『四月一日から』
いまは、通らない。
通らないが、四月一日には、私はまだこの島にいる。
いる予定である。
水曜日の朝は、自販機の前で、事件が起きた。
彼の手元に、ごとん、と落ちてきたのは、ココアだった。
「……押し間違いですか」
「かじかんでました」
「一月十七日と、同じ言い訳です」
「……手癖で」
「ココアのボタンは、ブラックの二段上です。かじかんで届く距離では、ありません」
「……ココア、飲むよ。買ったから」
「飲むんですね」
「もったいないから」
「そうですか」
「馬剃さんは」
「私は、ブラックです」
「じゃあ、これ半分いる?」
ぴしっ、と背筋が伸びた。
「い、いただきませんっ」
「そう」
「そういう、その、共有は、業務外ですっ」
「共有って言った? 俺、飲む? って聞いただけだけど」
「……っ」
顔が、かあ、と熱くなった。
缶を半分、というのは、つまり、そういうことである。
そういうことが何なのかは、非公開とする。
彼は、私の返事を待たずに、ココアを飲みはじめた。
待たれなくて、よかった。
待たれていたら、私は、たぶん、いただいてしまっていた。
ココアを両手で持って飲む姿を、私は横目で記録した。
記録項目に『甘いもの、実は拒否しない』が追加された。
言いながら、私は自分の声が検品の音をしていることに気づいていた。
心配です、と言えないので、検品をしている。
私の心配は、いつも、検品の形で出荷される。
形が不器用なのは、自覚している。
自覚しているが、他の形の在庫が、私にはないのである。
一月二十八日、水曜日、十時四十分。
水曜は、終日こちらの日である。
彼の席の内線が鳴った。
聞くつもりは、なかった。
なかったが、「一列ずれてない?」という単語が、島の空気を斜めに横切ってきた。
彼の背中が、止まった。
止まり方で、内容が分かった。
会計課からである。
私の手から、ペンが滑った。
かつん、と机で跳ねて、床に落ちた。
落ちた音が島の端まで届いた気がして、私は椅子の上で固まった。
固まったまま、拾わなかった。
拾うために屈むと、彼の背中が視界から消えるからである。
「……申し訳ありません。すぐ修正して、再送します」
受話器を置く音が、いつもより、静かだった。
静かな音ほど、大きく聞こえるものはない。
どくん、と心臓が、内側から一度、机を叩いた。
二度目は、もっと大きかった。
指の先が、すう、と冷たくなっていく。
あの人が、数字を一列ずらす。
五年ぶんの引き継ぎを二十二枚に書いた人が、列を、一本。
私はペンを持ったまま、画面を見るふりをして、視界の端に彼を置いた。
置いた視界の端で、彼の背中は、昼を抜いて、動き続けた。
昼を抜いた、という事実を、私は手帳に書かなかった。
書く手が、震えて、まっすぐにならなかったからである。
十三時すぎ、大貫さんが小声で言った。
「温水さん、手、止まってますよ」
「動いてる」
「五分前から同じセルにカーソルあります」
「……観察するな」
「心配してるんですって」
大貫さんが席に戻ってきて、私に小さく首を振った。
「馬剃さん、あれ、まずいやつです」
「分かっています」
「俺、チョコ渡してきましょうか」
「まだです」
「まだ?」
「糖分の投入は、山場の後です。いまは本人が、山場の中にいます」
「詳しいですね、投入のタイミング」
「……経験則です」
「誰のときの経験です?」
「業務日誌に、記載はありません」
「またそれだ」
大貫さんは、そこで一度、島の向こうを見た。
見てから、こちらに向き直った。
「馬剃さん」
「はい」
「先週の日曜、俺、市道で九十分立ってたじゃないですか」
「立っていただきました」
「あのとき、温水さんが二枚、カイロくれたんですよ」
「……はい」
「自分の背中から剥がして、くれたんですよなあ」
私は、ペンを置いた。
置いた音が、思ったより、大きかった。
「行きます」
「馬剃さんが動くと大事に……いえ、何でもないです。お願いします」
私は立ち上がった。
立ち上がる前に、引き出しから飴を一つと、クリアファイルを一枚、鞄に移した。
準備は、月曜からしてあった。
観察記録は、このためにあったのである。
記録は何も止めない。
止めないが、動く日の手順書には、なる。
「温水さん」
声をかけると、彼の肩が、跳ねた。
跳ねた肩を見た瞬間、胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「顔色が、白いです」
「……大丈夫です」
どくん、と心臓が、嫌な音を立てた。
その嘘は、私のである。
十二月二十四日に、三枚の資料を前にして、私が使った嘘である。
自分の嘘を、他人の口から聞くと、人はこんなに冷たい音を胸で聞くのかと、私は初めて知った。
知った上で、言った。
「その『大丈夫です』の、再提出を求めます」
「……」
「事実と異なる書類は、受理できません」
彼は、画面と私を順番に見て、それから、肩から力を抜いた。
「……大丈夫じゃ、ないです。列を一本ずらして、日付を一個またいで、あとどこを落としてるか、自分で分からない」
「受理します」
「……早いね、受理」
「正直な申告は、即日受理が原則です」
「その原則、いつできたの」
「いま作りましたっ」
立法は、三秒で済んだ。
非常時の立法権は、私にあることにした。
再提出を求めながら、私は、知っていた。
私にも、再提出していない『大丈夫です』が、一枚、残っていることを。
十二月二十四日の、あの一枚である。
人に求めた様式は、いつか自分にも適用しなければならない。
その期日を、私はこのとき、心のどこかで決めはじめていたのだと思う。
私はクリアファイルから、A4を出した。
『再発防止・三案』
「作ったの、これ。いつ」
「昼休みにです」
「昼休みに人の再発防止策を」
「一案、読み合わせによる全件確認。二案、業務量の再配分。三案、睡眠時間の是正」
「三案目、業務じゃないよね」
「業務の土台ですっ」
「……で、どれでいくの」
「全部ですっ」
「三案から選ぶんじゃないんだ」
「選ぶ余裕がある事案と、ない事案がありますっ」
「資料は判断を変えるためにあるんじゃなかったっけ」
「今日は、変えさせないためにありますっ」
言い切った勢いで、A4が手から離れかけた。
慌ててつかんで、つかんだ拍子に、角が折れた。
折れた角を、私は指で、そっと伸ばした。
伸びなかった。
全部、と言い切ったら、彼が少しだけ笑った。
今日はじめての、笑いだった。
はじめての笑いを見たら、A4を持つ手に、じわりと熱が戻った。
戻った熱が、そのまま、耳のほうまで上がってきた。
上がってきたので、私はA4を顔の高さに持ち上げた。
資料は、こういうときにも使える。
「読み合わせ、します。あなたの先週分と今週分、全部です」
「馬剃さんも、出願データが」
「本日の私の分は、終わっています」
嘘である。
嘘だが、この嘘は、再提出の対象にしない。
対象にしない嘘の枠を、私はいま、また一つ立法した。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、何時間かかると思ってる?」
「二時間二十分です」
「計算したの」
「三百四十七行を、一行あたり二十四秒で見積もりました」
「二十四秒って」
「読み上げと、復唱と、確認です」
「……それ、いつ計った」
「先週の金曜に、リハーサルをしました」
「誰と」
「一人で、声を出して」
言ってから、しまった、と思った。
金曜の夜の島で、一人で数字を読み上げていた人間の絵面は、説明のしようがない。
「……何やってんの」
「準備ですっ」
「そう」
それだけだった。
それだけだったが、彼の耳が、ほんの少し赤かった気がして、私はA4に目を落とした。
落とした先の数字が、一行も頭に入らなかった。
読み合わせは、十四時に始まった。
「旅費、二万三千四百六十円」
「二万三千四百六十円」
「次。印刷製本費、八万九千百円」
「八万九千百円」
「次。会議費、六千六百円」
「六千六百円」
彼の復唱の声を、私は数字と一緒に聴いていた。
最初の十件は、声が細かった。
三十件を過ぎたあたりから、少しずつ、太くなった。
声が太くなるというのは、たぶん、息が戻るということである。
「次。通信運搬費、一万二千九百六十円」
「一万二千九百六十円」
「次。消耗品費……温水さん」
「はい」
「復唱の声が、最初より大きくなっています」
「……そう?」
「いい傾向です。次。消耗品費、四万四百二十円」
「四万四百二十円」
「最終行。予備費、ゼロ円」
「ゼロ円」
「以上、全件です」
「……ゼロ円まで読むんだ」
「ゼロも数字ですっ。省略した行から、事故は起きます」
いい声だった。
本日いちばんの復唱である、と手帳に書きたくなって、やめた。
やめたが、指がペンのほうへ二センチ動いていたので、たぶん、大貫さんには見えていた。
途中、その大貫さんが無言で近づいてきて、チョコレートを二枚置いて、無言で去った。
「……大貫さんが、気配を消しました」
「消せるんだ、あの気配」
「非常事態ですので」
五分後、また来た。
今度は、ホットのお茶を二本置いて、去った。
十分後、また来た。
三度目は、何も持っていなかった。
「大貫さん」
「はい」
「三度目は、何を」
「……見に来ただけです」
「見ないでください」
「はい」
去った。
去り際に、島の入口で一度だけ振り返って、親指を立てた。
何に対しての親指なのかは、分からなかった。
分からなかったが、悪い気は、しなかった。
一度だけ、彼の指が、合っている箇所で三回止まった。
「温水さん」
「……はい」
「そこは、合っています。三回見ても、合っているものは合っています」
「……うん」
「慌てずに」
彼の手が、止まった。
「……その言葉」
「はい」
「いや。……効くなと思って」
「効きます。実績がありますので」
実績の出所は、言わなかった。
言ってから、しまった、と思った。
その言葉の出典を、私は知っている。
先週、画面越しに見えてしまった、彼の下書きの中の言葉である。
受験生向けの文面の最後に、まだ誰にも見せずに、あの人が足そうとしていた一言。
出典は、あなたです。
言わなかった。
言うと、今日の私が、朝から何を返却して回っているのか、全部ばれてしまうからである。
飴も、この後の缶コーヒーも、慌てずに、も。
今日の私は、九か月ぶんの借りを、様式ごと返却して回っているのである。
十六時二十分、全件が終わった。
落ちていたのは、二件だけだった。
二件。
三百四十七行のうち、二件である。
列を一本ずらした人が、その状態で、三百四十五行を合わせていた。
その事実を、私は、たぶん一生、忘れない。
彼が再送のボタンを押して、長い息を吐いた。
吐いた息の長さで、朝からの重さが分かって、胸が、ぎゅうっとなった。
「温水さん。糖分です」
飴を、机に置いた。
「脳が止まっているときの、通貨です」
「……それ、俺の台詞の使い回しだよね」
「準用ですっ。心の中でではなく、正式にです」
それから、買っておいた缶コーヒーを、両手で置いた。
黒の、百三十円のである。
「……これも使い回しだ」
「利子ですっ。クレープの」
「利子は三月って言ってなかった?」
「前倒ししましたっ。前倒しは、得意ですので」
「両手で持つんですね」
「……どなたかの持ち方が、うつりましたので」
「どなたの」
「非公開ですっ」
「一月十七日の朝の人?」
「……っ」
当てられた。
当てられて、缶を持つ手が、ぴく、と動いた。
「ひ、非公開ですっ!」
「二回言ったね」
「三回でも言いますっ!」
両手の中の缶の温度と、同じ温度が、頬にも来ていた。
来ていたが、業務時間中につき、認定はしない。
十七時十分、私は立ち上がって、彼の机の前に立った。
「温水さんに、業務命令があります」
「……業務命令」
「本日、十七時十五分に退勤してください」
「いや、まだ出願データの」
「明日の私と、明日のあなたでやります。本日のあなたは、信用区間の外です」
「……そもそも、俺に業務命令する権限、ある?」
「あります。一般入試の主担当は、私ですので」
三枚の紙の効力を、こんな形で行使する日が来るとは、受け取った日の私は思っていなかった。
「命令書は、要りますか」
「口頭でいい」
「では、復唱してください」
「復唱!?」
「様式ですっ」
「その様式、誰が決めたの」
「私ですっ」
「さっきから立法しすぎでしょ」
「非常時ですっ! 非常時の立法は、速いんですっ!」
「速すぎない?」
「三秒ですっ」
「自覚あるんだ」
「……本日、十七時十五分に退勤します」
復唱した。
言い負けて復唱したのではない。
私が正しかったから、彼が従ったのである。
……たぶん。
「よろしい。帰って、六時間寝てください」
「明日、何時に来ればいい」
「定時ですっ」
「早めに来て、今日の分を取り返そうかと」
「命令違反ですっ。取り返す分は、計画に織り込み済みですっ」
「織り込み済みなんだ」
「三案の裏面に、書いてありますっ」
「裏面あったんだ、あれ」
「あります。両面ですっ」
「……片面でよかったんじゃない、それ」
「裏は、メモ欄ですっ」
言ってから、二秒、遅れて気づいた。
昨日、私が記録した台詞である。
彼が、口の端を、ふ、と上げた。
「六時間は多くない?」
「多くありませんっ! 四時間半の人に言われたくありませんっ!」
「それ、自分のことでは」
「私のことは、いいんですっ!」
よくないことは、知っている。
知っているが、本日の議題ではない。
彼はコートを着て、島の電気を半分消して、振り返った。
「馬剃さん」
「はい」
「……ありがとう。今日の、全部」
まっすぐ言われて、心臓が、どきん、と跳ねた。
跳ねた勢いで、私は、なぜか一歩、後ろに下がった。
下がった踵が、椅子の脚に当たった。
がたん、と椅子が鳴った。
鳴らしておいて、私は、何事もなかったような顔をした。
九か月、私が言う側だった台詞である。
言われる側に回ると、こんなに、胸のまんなかが熱くなるものだったのか。
熱いのを悟られないように、私は三十度の礼をした。
「フォローは、業務です」
「業務の顔、してなかったけどね。読み合わせのとき」
「し、していましたっ!」
「数字読むとき、ちょっと楽しそうだった」
「数字は楽しいものですっ!」
「あと、俺が復唱間違えたとき、笑ったよね」
「笑っていませんっ! 肩は揺れましたが!」
「揺れたんだ」
「……っ」
耳が、かっと熱くなった。
熱くなった耳を、手で押さえようとして、押さえたら認めたことになると気づいて、行き場のなくなった手が、鞄の持ち手を、きゅっ、と握った。
「……七割は、業務です」
「三割は」
「非公開ですっ!」
彼が帰ってから、私は椅子に座り直して、比率の計算をした。
するまでもなかった。
また、逆である。
訂正は、しない。期限の定めは、ないのである。
夜の島で、私は自分の出願データを片付けた。
終わっています、と言った嘘の在庫を、一枚ずつ、事実に変えていく作業である。
付箋を貼りながら、鼻歌が出そうになって、二回、危なかった。
三回目は、出た。
出た瞬間に、自分で自分の口を、両手で塞いだ。
誰もいない。
誰もいないのに、両手で塞いだ。
塞いだまま、三秒、動かなかった。
列を一本ずらされた日の夜に鼻歌が出るのは、主担当として、明らかに何かがおかしい。
おかしいが、この件も、監査の対象外とする。
二十時四十分に終わった。
終わってから、机の引き出しを開けた。
引き出しの奥に、コピー用紙が一枚、伏せてある。
先週の日曜、彼が「じゃあ、書いといてください」と言ったので、その夜に書いた紙である。
右上に、小さく番号を振ってある。
『二十三』
二十二枚のあとに、私が足した一枚である。
中身は、二行しかない。
『確定しない情報で決めるときは、決める順番だけを先に決める』
『いちばん動かせないところから決める』
私は、そこに、三行目を足した。
『判断の速度が落ちた者には、判断をさせない。読み上げさせる』
書いてから、しばらく、その三行を見ていた。
二十二枚を五年で書いた人がいて、その続きを、十か月の私が書いている。
三年後に読む誰かは、どこからが誰の一枚かを、たぶん、分からない。
分からなくていい。
紙は、書いた人のためにあるのではないのである。
帰り際、手帳に一行書いた。
『一月二十八日。読み合わせ、一式』
少し迷って、その下に、小さくもう一行。
『※本日の私は、役に立った』
書いてから、頬が、かあ、と熱くなって、手帳を勢いよく閉じた。
ぱんっ、と音が鳴って、誰もいない島に響いた。
閉じても、書いた事実は変わらないのが、記録の困ったところである。
翌朝、彼は定時の十五分前に来た。
「おはようございます。睡眠時間の報告を求めます」
「六時間半」
「超過達成です。大合格です」
「そこにも等級があるんだ」
「あります。……あなたの顔色も、本日は合格です」
「馬剃さんは」
「私は」
「顔色。合格?」
「……」
鏡は、見ていない。
見ていないが、四時間半で、鼻歌を歌って帰った人間の顔色が、合格であるはずがない。
「……審査対象外ですっ」
「都合いいなあ、その制度」
「制度は、運用する者のためにありますっ」
「いま作ったよね、それも」
「作りましたっ!」
「じゃあ、今日の読み合わせは」
「本日は、通常運用に戻します」
「大丈夫。……いや、違うな」
彼が、言い直した。
「今日は、大丈夫です。事実として」
「受理します」
「あと、昨日の借りだけど」
「フォローに、貸し借りは発生しません」
「する。俺の帳簿では、する」
「では、そちらの帳簿の問題ですっ。私の帳簿は、受け付けませんっ」
「固いなあ、窓口」
「窓口は固くて、いいんですっ」
受け付けない、と言いながら、彼の帳簿に私の行が増えたことを、胸のどこかが、勝手に喜んでいた。
受理しながら、胸の奥が、じん、とあたたかかった。
事実の『大丈夫です』は、こんなにいい音がする。
私の未提出の一枚も、いつか、この音で出し直したい。
九時ちょうど、大貫さんが出勤してきた。
「おはようございます! 温水さん、顔色いいですね!」
「寝たからな」
「何時間ですか」
「六時間半」
「勝ちましたね」
「何にだ」
「昨日の温水さんにです」
妙な言い方をする人である。
妙な言い方だが、勝ち負けの定義としては、正しい気がした。
「馬剃さん」
「はい」
「進行表、印刷しときました。三十部。片面です」
「……片面ですか」
「はい。裏、要らなかったんで」
私は、手帳を開いた。
開いて、『大貫。判断、適正』と書こうとして、やめた。
書くほどのことではない。
書くほどのことではないというのは、当たり前になったということである。
当たり前になるまでに、十か月かかった。
私の手元の進行表には、二月一日から六日間の、四千二百人ぶんの予定が並んでいる。
本部は本学。外部会場が二つ。三か所を同時に見るのは、私である。
二月一日まで、あと三日。
勝負の装備の点検は、昨夜、済ませてある。
三日後の雪のことを、このときの私は、まだ知らない。