(二月九日/温水視点)
「温水さん、おはようございます。……あ」
「あ、じゃない」
「いや、あ、しか出なくて」
「なにが」
「顔です」
「顔がどうした」
「顔が、なんか、ちょっと、その」
「はっきり言え」
「……死んでます」
「生きてる」
「声が死んでます」
「生きてる」
「二回とも同じイントネーションでした」
「同じでいいんだよ」
「よくないです。人間って、二回目は変わるんですよ」
「変わるか?」
「変わります。俺、いま二回目のほうが心配になりましたし」
「……理屈は分かった」
「分かっても顔は死んでます」
二月九日、月曜日、午前八時三十四分。
俺は入試広報の島で、椅子に座ったまま、コートを脱ぐ手順を三つに分けてやっていた。
右腕を抜く。休む。左腕を抜く。休む。畳む。畳めなかったので、椅子の背にかけた。
「大貫」
「はい」
「コートって、いつもこんなに重かったか」
「重くないです」
「そうか」
「温水さんが軽くなってるんだと思います」
……妙にうまいことを言うようになった。
言われたほうは、返す言葉が一つも出てこなかった。
一般入試は、二月一日から七日までの、実施六日間だった。
延べ四千二百人。会場は三つ。
本部は本学で、外部会場が二つ。
その六日間、俺はどこにいたかというと、会計課である。
二月というのは、会計課にとって、決算の助走が始まる月だ。
入試広報がいちばん忙しい六日間と、会計課がいちばん締め切りに追われる六日間が、正確に重なる。
重なった結果として、俺は先週、六日連続で二つの課の椅子に座った。
午前は会計課、午後は入試広報、夜は両方である。
夜が両方というのは、日本語としておかしいが、事実としては合っている。
「温水さん、先週、何時間寝ました?」
「日によるな」
「いちばん短い日で」
「……三時間くらい」
「いちばん長い日は」
「三時間半」
「幅がないんですよなあ!」
「安定してるだろ」
「安定して死んでます!」
大貫が、自分の机から未開封の栄養ドリンクを一本持ってきて、俺の机に置いた。
「これ、飲んでください」
「経費か」
「私費です」
「……最近、この課、私費で回ってないか」
「回ってます」
「よくないな、それ」
「よくないですけど、経費で落とすと、稟議が三日かかるんですよ」
「三日は、今日の役に立たないな」
「立たないです。だから私費です」
「誰に教わったんだ、それ」
「馬剃さんです」
「……あの人、稟議の人だぞ」
「『稟議は正しい。ただし、間に合わない場合がある』って言ってました」
「後半だけ覚えたな」
「後半が実務なんで」
二十四歳が、二年目にして、いちばん危ない部分を先に習得している。
習得させたのは、たぶん、この島である。
九時三分、隣の島の主が出勤してきた。
馬剃さんは、コートを脱いで、椅子を引いて、座って、それから一度も俺のほうを見なかった。
見ないまま、キーボードを打ちはじめた。
……見ない、というのが、いちばん怖い。
この人は、見るときは見る。じっと見る。無遠慮なくらい見る。
見ないときは、たいてい、もう何かを決めている。
「温水主任」
「はい」
「先週分の実施報告書です。ご確認をお願いします」
束が、机の上に置かれた。
厚い。
「何枚ですか」
「四十一枚です」
「六日間で四十一枚」
「一日あたり六・八枚です」
「割らなくていいです」
「割ると、少なく見えますので」
少なく見せようとしていたらしい。
俺は一枚目をめくった。
実施日、会場、志願者数、受験者数、欠席者数、遅刻者数、事故等の有無。
六日ぶん、同じ様式で並んでいる。
三枚目で、手が止まった。
二月一日、日曜日。第一日。
備考の欄が、他の日より長い。
「これ」
「はい」
「初日、雪ですよね」
「雪でした」
「開始、十分繰り下げてますね」
「繰り下げました」
「三十分じゃなくて、十分」
「十分です」
俺は、その数字を二度見た。
繰り下げというのは、ふつう三十分単位でやる。
交通機関の遅れは三十分刻みで戻ってくるからで、それは俺が一月に、根拠のない勘として彼女に渡した数字である。
「なんで十分にしたんですか」
「交通機関は、動いていました」
「じゃあ、なんで繰り下げたんですか」
「一人です」
馬剃さんは、画面から目を離さずに言った。
「正門の手前で、自転車ごと転んだ受験生が、一人おりました」
俺は、報告書を持ったまま、少しのあいだ、何も言えなかった。
「膝から、血が出ていました」
「はい」
「本人は『受けさせてください』と言いました」
「はい」
「保健室で処置をして、試験室まで付き添うのに、九分かかりました。大貫さんが付き添っています」
「九分」
「九分です。十分繰り下げれば、その方は、遅刻になりません」
「……他の四千二百人は」
「十分、待っていただきました」
彼女は、そこではじめて、こちらを見た。
「一人のために四千二百人を待たせるのか、と、本部で言われました」
「誰にですか」
「事務局長です」
「なんて返したんですか」
「『四千二百一人のうち、一人が受けられない状態を、私は正常と呼べません』と」
……この人は、一月十七日にも、似たことを学長に言っている。
あのときは千百一名だった。
数え方が、ずっと同じである。
「通ったんですか」
「通りました。学長が、十秒で」
「十秒」
「『前も似た話を聞いた』とおっしゃって、それだけです」
「……効いてますね、一月が」
「効いています」
俺は、報告書の次の頁をめくった。
当日の構内放送の文面が、写しで綴じてある。
定型の文言が並んでいて、最後に一行、規程のどこにもない言葉が足してあった。
――慌てずに。
「三回目ですね」
「……三回目です」
「一回目が共通テストで、二回目が」
「二月一日です」
「三回目は」
「二月三日です。バスが遅れましたので」
「増えてますね、回数」
「増えました」
「怒られました?」
「三回目で、事務局長に『またそれか』と言われました」
「怒られてるじゃないですか」
「『またそれか、まあいい』でしたので、後半を採用しました」
都合のいいところだけ切り取るのを、この人は最近、覚えた。
覚えさせたのは、たぶん、この島である。
「他の会場は」
「第二会場は、初日に暖房が止まりました」
「うわ」
「三十分で復旧しています。復旧までのあいだ、監督者が読み上げ文言のあとに、一言だけ足しました」
「なんて」
「『寒いですが、時間は減りません』です」
「……いい一言ですね」
「私が用意した文言では、ありません」
「じゃあ誰が」
「蓑田先生です」
「三十年の人だ」
「三十年の人です」
「第三会場は」
「第三会場は、なにもありませんでした」
「なにも」
「なにもです。……ですので、私は三日目の夜、第三会場の主任にお電話して、なにもないことを二回確認しました」
「疑ったんですか」
「疑っておりません。確認です」
「二回」
「二回です。一回目で『ありません』と言われて、二回目で『本当にありません』と言われました」
「その人、たぶんいまごろ、話のネタにしてますよ」
「……しているそうです」
「聞いたんですか」
「大貫さんが、聞いてきました」
「あいつ、どこにでもいるな」
「どこにでもおります」
「六日間、事故ゼロですね」
「ゼロです」
「再試験も、追試験の申請も」
「ありません」
「……すごいですよ、それ」
「っ」
キーボードの音が、一瞬、止まった。
「す、すごくありませんっ。所定の手順を、所定どおりに実施しただけですっ」
「その所定どおりが、いちばん難しいんですけど」
「難しくありませんっ」
「難しいです」
「……難しかったですっ」
三往復で折れた。
折れてから、彼女は画面に向き直って、耳だけをこちらに残した。
赤い耳だった。
十時十五分、俺は共有プリンタの前で、五秒、目を閉じた。
閉じたつもりはなかった。
気がついたら閉じていて、開いたら、紙が二枚、排紙トレイからはみ出して落ちていた。
拾おうとしてしゃがんだら、立ち上がるのに、思ったより時間がかかった。
振り返ったら、島の向こうで、馬剃さんが立っていた。
立って、こっちを見ていた。
……見ている。
見るときの、この人の目である。
「温水主任」
「はい」
「いま、何秒でしたか」
「なにがですか」
「目を閉じていた時間です」
「……数えてないです」
「四秒です」
「数えてるじゃないですか」
「数えました」
彼女は、机の引き出しを閉めた。
閉める音が、いつもより硬かった。
「温水主任」
「はい」
「本日の午前中の予定を、確認させてください」
「十一時から会計課の打ち合わせがあります」
「先ほど、延期になりました」
「え」
「私が延期していただきました」
「勝手に!?」
「勝手にではありません。会計課の松崎主査に、事情をご説明しました」
「事情ってなんですか」
「『そちらの主任が、共有プリンタの前で四秒間、意識を手放していました』です」
「言い方!」
「事実です」
「事実の切り取り方の話をしてるんですよ」
「切り取っておりません。全文です」
全文だったらしい。
松崎主査は、たぶん、いま会計課で腹を抱えている。
「では、行きましょう」
「どこにですか」
「ついてきてください」
「いや、どこに」
答えは、来なかった。
答えのかわりに、腕が来た。
手首を、掴まれた。
――ぎゅっ、と。
力が、思っていたより、ずっと強い。
小柄な人が、体重を後ろにかけて引くと、こんなに動かされるのかと思うくらい、動かされた。
「え、ちょっと」
「歩いてください」
「歩いてますって」
「速度、上げます」
「上げなくていいです!」
上げられた。
島を出て、廊下を右に曲がって、階段を降りる。
降りながら、俺は、妙な既視感に襲われていた。
――これ、前にもあった。
十六年前の秋。グラウンド。全校生徒。
あのときも、この人は、俺の返事を待たずに走り出した。
あのときも、「速度上げます」と言った。
十六年たって、場所が構内の廊下になって、掴まれているのが手のひらから手首になっただけである。
握力は、たぶん、変わっていない。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、廊下で見られたら」
「見られておりません」
「いま、経理課の人とすれ違いました」
「……見られました」
「認めるの早いな」
「事実は、変わりませんのでっ」
階段を降りきったところで、大貫と正面から鉢合わせした。
あいつは、俺の手首と、それを掴んでいる手と、その先にいる人を、順番に見た。
見て、口を開いて、閉じて、それから、道の端に寄った。
「……どうぞ」
「どうもっ」
「大貫さん。十一時からの打ち合わせは、延期です」
「はい」
「理由は、聞かないでください」
「聞きません」
聞きません、と言ったやつの顔は、明らかに、あとで聞く顔だった。
言いながら、彼女は速度を落とさなかった。
落とさないまま、二階の突き当たりの、小さな部屋の前で止まった。
扉に、プレートが下がっている。
『休憩室』
その下に、もう一枚。
『空室/使用中』の、裏返せる札である。
馬剃さんは、俺を先に押しこんで、それから札をひっくり返した。
『使用中』
扉が、静かに閉まった。
休憩室は、四畳半くらいの部屋である。
窓が一つ。ブラインドが半分下りている。
流し台と、電気ポットと、パイプ椅子が二脚。
そして、壁際に、いつからあるのか誰も知らない二人掛けのソファがある。
色は、たぶん、昔は緑だった。
「このソファ、いつからあるんですか」
「不明です」
「不明」
「備品台帳に、記載がありません」
「台帳にないんですか」
「ありません。……四月に、全件照合しました」
「じゃあ、幽霊備品だ」
「幽霊ではありませんっ。所在は明らかですっ」
「出どころが不明なだけで」
「……不明ですっ」
備品台帳と戦って、この人が負けた、数少ない相手である。
馬剃さんは、その負けた相手に座った。
座って、こちらを見て、隣を、ぽん、ぽん、と手のひらで叩いた。
――ぽん、ぽん。
俺の頭の中で、警報が鳴った。
鳴った警報の名前は、ハラスメント防止規程第四条である。
夏にこの人自身が、東ホールの一番奥で、指を四本立てて宣言したやつだ。
「あの」
「はい」
「座れと」
「座ってください」
「……はい」
俺は、座った。
ソファの、いちばん端に。
肘掛けに、右腕が半分乗るくらいの位置である。
人と人の間に、四十センチくらいの空白ができた。
馬剃さんが、ため息をついた。
深い、腹の底からのため息だった。
「温水さん」
「はい」
「なぜ、そんなに離れて座るんですかっ!」
「え」
「傷つきますっ!」
「傷つく!?」
「傷つきますっ! こちらは、隣を叩いたんですっ! 叩いた意味を、汲んでくださいっ!」
「い、いや、その、規程が」
「規程は、私が管理していますっ」
「管理者の裁量で動く規程は、規程じゃないんですよ」
「本日は動きますっ」
彼女が、ずいっ、と寄ってきた。
ソファのスプリングが、きし、と鳴る。
四十センチが、十センチになった。
それから、五センチになった。
……近い。
肩と肩の間に、指が二本入るかどうかである。
柔軟剤の匂いが、はっきり分かる距離だった。
俺は、こういうとき、いつも同じことを考える。
――これ、ラブコメだったらイベント発生の距離だ。
現実は、月曜の午前十時二十分の、休憩室である。
ラブコメの神様は、たぶん、この部屋の札を見て帰った。
「あの、馬剃さん」
「はい」
「いったい、何」
「……はい」
馬剃さんは、そこで、自分の膝に視線を落とした。
紺のスカートの、膝の上。
そして、その膝を、ぽん、ぽん、と叩いた。
――ぽん、ぽん。
「どうぞ」
俺は、固まった。
完全に、固まった。
「……えっと」
「はい」
「ごめん、どうしたらいいの」
「膝枕を、してさしあげます」
「ひざ」
「膝枕です。さあ、どうぞ」
「いや、でも、ここ職場だし……」
「職場でも、そんなフラフラなあなたを、見ていられませんっ」
「フラフラ」
「フラフラですっ。今のあなたは、役立たずですっ」
「ガーン」
「声に出しましたね、いま」
「出るんですよ、そういうのは」
馬剃さんは、こほん、と咳払いをした。
咳払いのあと、姿勢を正した。
正しすぎて、逆に落ち着きがなかった。
「だから、その、同僚として、私はあなたを休息させる義務がありますっ」
「義務」
「義務ですっ。あらゆる方策を比較検討した結果、これが最良だと結論づけましたっ」
「比較検討したんだ」
「しましたっ」
「何と何を比較したんですか」
「……仮眠室の使用、パイプ椅子二脚を並べての横臥、机への突っ伏し、そして本案です」
「本案が最下位じゃないですか、普通」
「一位ですっ!」
「なんでですか」
「仮眠室は三階で、階段が二十六段あります。いまのあなたには危険です。パイプ椅子は落ちます。突っ伏しは、首を痛めますっ」
「消去法じゃないですか」
「消去法は、比較検討の一種ですっ」
一種らしい。
俺は、頭を抱えたい気持ちを、なんとか声のほうに逃がした。
「あの、でも」
「はい」
「どこの馬の骨とも分からない男の頭が触れるのは、嫌でしょ」
馬剃さんの眉が、ぴくり、と動いた。
「あなたは、温水家の骨でしょうっ!」
「その返し、十六年ぶりに聞きました」
「何度でも申し上げますっ! さあ、どうぞ! がばっといってくださいっ! 覚悟はできていますっ!」
「そもそも、覚悟が必要なことは求めてないんだよなあ」
「ほら、早くっ! 時間は有限ですっ! 仕事も、まだ残っていますっ! 早くしてくださいっ!」
「急かされる膝枕って、この世にあるんだ」
「ありますっ! ここにありますっ!」
膝が、また、ぽん、ぽん、と鳴った。
鳴らすたび、スカートの布が、少しだけ動く。
俺は、目のやり場を、天井のシミに固定した。
「えっと」
「はい」
「女性の太ももに触れるのは、セクシャルハラスメントに該当すると思うんだけど」
「今は、私がいいと言っているので無効ですっ」
「無効の理屈が雑!」
「雑ではありませんっ! 同意の有無が構成要件ですっ!」
「そこだけ急に法学部!」
「本日は、法学部ですっ」
「じゃあ聞きますけど」
「どうぞ」
「同意があっても、業務時間中に、休憩室で、上司の頭を膝に乗せるのは」
「上司ではありません。同僚ですっ」
「役職の話じゃないんですよ」
「役職の話ですっ。指揮命令関係がなければ、優越的関係を背景とした言動には該当しませんっ」
「条文が出てきた」
「出しますっ」
「馬剃さん、それ、四条の何項ですか」
「……二項ですっ」
「いま考えましたね」
「考えておりませんっ! ……帰って、確認しますっ」
「確認するんだ」
「確認しますっ。事実は、変わりませんのでっ」
変わらないのは事実で、変わるのはこの人の解釈である。
だめだ。
この人は、規程で来たら規程で返ってくるし、感情で来たら感情で返ってくる。
どこから攻めても、返ってくる速度が変わらない。
「でも」
俺が、そう言った瞬間だった。
馬剃さんの目が、揺れた。
「……これだけ言っているのに、やってくれないんですか」
声が、半音下がった。
睫毛が、二回、速く動いた。
目の縁が、じわ、と光った。
――ずるい。
俺は、内心で、そう言った。
言ったが、声には出さなかった。
出したら、たぶん、もっとまずいことになる。
この人は、条文では負けるが、涙目では絶対に負けない。
十六年前から、そこだけは、まったく変わっていない。
「……わかったよ」
「っ」
馬剃さんの背筋が、ぴん、と伸びた。
「わ、わかりましたか」
「わかりました」
「では、どうぞっ」
「言われたとおりにやるので、動かないでくださいね」
「動きませんっ」
「震えてますよ」
「震えていませんっ! これは、その、ソファのスプリングですっ!」
ソファは、無実だった。
俺は、恐る恐る、身体を横に倒した。
後頭部が、着地した。
柔らかかった。
思っていたより、ずっと柔らかくて、そして、あたたかかった。
スカートの布ごしに、柔軟剤の匂いがした。
その上に、化粧の匂いが、うっすら重なっている。
二種類の匂いが混ざって、鼻から入って、頭の中で、ぱん、と弾けた。
……くらくらする。
三時間睡眠の頭に、この情報量は多すぎる。
俺は、目を開けた。
開けたら、真上に、顔があった。
真っ赤な顔だった。
「ど、どうですか」
「え」
「私の、その、太ももは……あまり、自信はないのですが」
心臓が、跳ねた。
跳ねた音が、後頭部を通して、向こうに伝わっていないか本気で心配になった。
「い、いやその、なんていうか」
「はい」
「いい匂いがして、あと、柔らかいなと思いました」
「へ、変態っ!!」
「馬剃さんが感想がほしいって言ったんでしょ」
「い、言いましたが、その答えは求めていませんっ! もう一回ですっ!」
「もう一回あるの!?」
「ありますっ! やり直しですっ!」
「ええ……えっと、き、気持ちいいです」
「……まぁ、温水さんにしては、まずまずですね」
まずまずらしい。
評価基準が、まったく分からない。
「では、しばらく貸してあげますから、どうぞ、寝てください」
「いや、この状況で寝られるわけが」
――ない、と言おうとした。
言おうとしたところで、頭に、何かが触れた。
手だった。
髪の上を、そっと、一回。
それから、もう一回。
撫でているというより、確認しているような手つきだった。
置いた場所が正しいかどうか、毎回確かめている。
……この人は、人を撫でるのも、検品の手つきでやる。
やるのだが。
やるのだが、それが、妙に、効いた。
どこか懐かしい感触だった。
どこで、と考えて、思い出せなかった。
思い出せないまま、天井のシミが、ぼやけた。
ブラインドの隙間の光が、細く、横に伸びていった。
窓の外で、誰かが台車を押していく音がした。
その音が、遠くなった。
――ああ。
これ、寝るやつだ。
最後に見たのは、真上から降りてくる、赤い顔の輪郭だった。
目が覚めたとき、部屋は、さっきと同じ明るさだった。
時計を見たら、十時五十二分。
三十分と、少しである。
俺は、まだ、同じ場所に頭を乗せていた。
……乗せたままだった。
「起きましたか」
「……起きました」
「二十九分です」
「数えてたんですか」
「計測しました」
「馬剃さん」
「はい」
「三十分、その姿勢でいたんですか」
「……はい」
「足、しびれてません?」
「しびれていませんっ」
俺は、そっと頭を上げた。
上げた瞬間、馬剃さんが、ソファの上で、〇・五センチくらい飛び上がった。
「馬剃さん」
「しびれていませんっ!」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っていますっ!」
「顔は、寝起きなだけです」
彼女は、立ち上がろうとして、失敗した。
膝から下が、完全に、言うことをきいていない。
「……対策を、講じていたはずなのですが」
「対策」
「正座のしびれの予防法について、事前に調査を行いました」
「調査」
「三回、検索しました」
「三回」
「……はい。三回です」
三回、と言うときに、目が泳いだ。
泳いだので、俺は聞かなかった。
聞かないほうが、この人のためになることが、たまにある。
「掴まってください」
「い、いえ、自分で」
「立てないでしょ」
「……立てませんっ」
俺は、手を差し出した。
彼女は、二秒くらい、その手を見た。
見てから、掴んだ。
さっき廊下で掴まれたのと、たぶん、同じ握力だった。
立ち上がって、彼女は、スカートの皺を三回、手で伸ばした。
三回目でも、皺は同じところに残っていた。
「馬剃さん」
「はい」
「あの天井のシミ、猫に見えません?」
「……どこがですか」
「耳のところ」
「あれは、雨漏りの跡です」
「夢がないなあ」
「夢は要りません。修繕依頼は、四月に出します」
「猫、消えるんですね」
「……」
「馬剃さん?」
「……六月にします」
二か月、猫が延命された。
「温水さん」
「はい」
「本日の件は」
「はい」
「記録に、残しません」
「……いいんですか。記録は文化じゃなかったですか」
「文化ですっ。ですが、公文書には、なじみませんっ」
「じゃあ、私文書には」
「……っ」
「残すんですね」
「残しませんっ! 残しませんが、その、消せないものは、ありますっ!」
言ってから、彼女は、自分で自分の言ったことに気づいたらしい。
顔が、耳まで、一気に赤くなった。
なった顔のまま、扉のほうへ、歩幅の狭い早足で向かった。
向かって、札に手をかけて、それから止まった。
「……温水さん」
「はい」
「一分、待ってから出てください」
「なんでですか」
「同時に出ると、その、いろいろとっ」
「わかりました」
「一分ですっ」
「一分ですね」
扉が開いて、閉まった。
俺は、ソファの上で、一分、数えた。
数えているあいだ、天井のシミを見ていた。
さっきまで、これを見ながら寝ていたらしい。
シミの形は、なんとなく、猫に見えた。
島に戻ったのは、十一時ちょうどである。
戻った瞬間、大貫が椅子ごとこちらを向いた。
「あれあれ。お二人さん、どこ行っていたんですか」
「打ち合わせだ」
「二人で?」
「二人で」
「三十分も?」
「三十分だ」
「休憩室で?」
俺は、そこで一度、手を止めた。
「なんで場所を知ってる」
「札です」
「札」
「『使用中』になってたんで。あの札、この一年で三回しか裏返ったの見たことないです」
「……三回目か」
「三回目です。ちなみに一回目と二回目は、電気工事の人でした」
記録の精度が、この課に染まってきている。
「あと、あの札」
「なんだ」
「裏返すの、けっこう勇気いるらしいですよ」
「誰が言ってた」
「桑原主査です。『二十年で一回』って」
「二十年で一回」
「『二回目を、今日見た』だそうです」
桑原主査の観測範囲には、この大学のどこにも死角がない。
「で、何の打ち合わせだったんですか」
「合格発表の、読み合わせの段取りだ」
「へえ。それ、俺も入ります?」
「入らない」
「なんでですか!」
「お前は数字を盛る」
「盛らないですよ!」
隣の島で、馬剃さんが、キーボードを打ちはじめた。
打つ速度が、いつもより、三割くらい速かった。
「あ、馬剃さん」
「なんですか」
「顔、赤くないですか」
「……暖房ですっ」
「今日、暖房、朝から止まってますよ。ボイラーの点検で」
打鍵音が、止まった。
「……では、私の体温の問題ですっ」
「体温」
「体温は、個人差ですっ」
「個人差、今週で二回目ですね」
「数えないでくださいっ!」
大貫が、俺のほうを見た。
見て、何も言わずに、自分の画面に戻った。
……察する技術が上がると、聞かなくなる。
聞かないぶん、たぶん、全部わかっている。
午後、俺は会計課の資料を三本片付けた。
三時間睡眠の日に、三本である。
自分でも、少し驚いた。
驚いたが、原因は、はっきりしている。
二十九分である。
二十九分の昼寝で、人間はここまで戻る。
……いや。
二十九分の昼寝が、というより。
――そこまでは、考えないことにした。
定時前、机の端に、飴が一つ置かれた。
りんご味である。
「これは」
「糖分ですっ」
「経費ですか」
「私費ですっ」
「この課、私費で回ってるんですよ」
「回しますっ」
回すらしい。
飴の下に、付箋が一枚あった。
『明日十七時、読み合わせ。三名。携帯は箱の中』
十九文字だった。
業務連絡である。
完全に、業務連絡である。
業務連絡なのだが、付箋の右下の隅に、小さく、もう三文字あった。
『しびれた』
しびれていた、らしい。
俺は、その付箋を、財布ではなく、手帳の裏に挟んだ。
記録に残さない、と言った人の記録が、いま、俺の手帳に一枚増えた。
窓の外は、もう暗い。
明日は、九百人ぶんの番号を、三人で読む。
その前に、今日は、六時間寝ようと思った。
誰かに命令される前に、自分で決めた。
……決めたのだが。
命令されたほうが早い気がしたのは、たぶん、疲れているせいである。