大学職員の僕たち   作:房吉

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~30敗目~ 使用中

 (二月九日/温水視点)

 

「温水さん、おはようございます。……あ」

 

「あ、じゃない」

 

「いや、あ、しか出なくて」

 

「なにが」

 

「顔です」

 

「顔がどうした」

 

「顔が、なんか、ちょっと、その」

 

「はっきり言え」

 

「……死んでます」

 

「生きてる」

 

「声が死んでます」

 

「生きてる」

 

「二回とも同じイントネーションでした」

 

「同じでいいんだよ」

 

「よくないです。人間って、二回目は変わるんですよ」

 

「変わるか?」

 

「変わります。俺、いま二回目のほうが心配になりましたし」

 

「……理屈は分かった」

 

「分かっても顔は死んでます」

 

 二月九日、月曜日、午前八時三十四分。

 

 俺は入試広報の島で、椅子に座ったまま、コートを脱ぐ手順を三つに分けてやっていた。

 

 右腕を抜く。休む。左腕を抜く。休む。畳む。畳めなかったので、椅子の背にかけた。

 

「大貫」

 

「はい」

 

「コートって、いつもこんなに重かったか」

 

「重くないです」

 

「そうか」

 

「温水さんが軽くなってるんだと思います」

 

 ……妙にうまいことを言うようになった。

 

 言われたほうは、返す言葉が一つも出てこなかった。

 

 

 

 

 一般入試は、二月一日から七日までの、実施六日間だった。

 

 延べ四千二百人。会場は三つ。

 

 本部は本学で、外部会場が二つ。

 

 その六日間、俺はどこにいたかというと、会計課である。

 

 二月というのは、会計課にとって、決算の助走が始まる月だ。

 

 入試広報がいちばん忙しい六日間と、会計課がいちばん締め切りに追われる六日間が、正確に重なる。

 

 重なった結果として、俺は先週、六日連続で二つの課の椅子に座った。

 

 午前は会計課、午後は入試広報、夜は両方である。

 

 夜が両方というのは、日本語としておかしいが、事実としては合っている。

 

「温水さん、先週、何時間寝ました?」

 

「日によるな」

 

「いちばん短い日で」

 

「……三時間くらい」

 

「いちばん長い日は」

 

「三時間半」

 

「幅がないんですよなあ!」

 

「安定してるだろ」

 

「安定して死んでます!」

 

 大貫が、自分の机から未開封の栄養ドリンクを一本持ってきて、俺の机に置いた。

 

「これ、飲んでください」

 

「経費か」

 

「私費です」

 

「……最近、この課、私費で回ってないか」

 

「回ってます」

 

「よくないな、それ」

 

「よくないですけど、経費で落とすと、稟議が三日かかるんですよ」

 

「三日は、今日の役に立たないな」

 

「立たないです。だから私費です」

 

「誰に教わったんだ、それ」

 

「馬剃さんです」

 

「……あの人、稟議の人だぞ」

 

「『稟議は正しい。ただし、間に合わない場合がある』って言ってました」

 

「後半だけ覚えたな」

 

「後半が実務なんで」

 

 二十四歳が、二年目にして、いちばん危ない部分を先に習得している。

 

 習得させたのは、たぶん、この島である。

 

 

 

 

 九時三分、隣の島の主が出勤してきた。

 

 馬剃さんは、コートを脱いで、椅子を引いて、座って、それから一度も俺のほうを見なかった。

 

 見ないまま、キーボードを打ちはじめた。

 

 ……見ない、というのが、いちばん怖い。

 

 この人は、見るときは見る。じっと見る。無遠慮なくらい見る。

 

 見ないときは、たいてい、もう何かを決めている。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「先週分の実施報告書です。ご確認をお願いします」

 

 束が、机の上に置かれた。

 

 厚い。

 

「何枚ですか」

 

「四十一枚です」

 

「六日間で四十一枚」

 

「一日あたり六・八枚です」

 

「割らなくていいです」

 

「割ると、少なく見えますので」

 

 少なく見せようとしていたらしい。

 

 俺は一枚目をめくった。

 

 実施日、会場、志願者数、受験者数、欠席者数、遅刻者数、事故等の有無。

 

 六日ぶん、同じ様式で並んでいる。

 

 三枚目で、手が止まった。

 

 二月一日、日曜日。第一日。

 

 備考の欄が、他の日より長い。

 

「これ」

 

「はい」

 

「初日、雪ですよね」

 

「雪でした」

 

「開始、十分繰り下げてますね」

 

「繰り下げました」

 

「三十分じゃなくて、十分」

 

「十分です」

 

 俺は、その数字を二度見た。

 

 繰り下げというのは、ふつう三十分単位でやる。

 

 交通機関の遅れは三十分刻みで戻ってくるからで、それは俺が一月に、根拠のない勘として彼女に渡した数字である。

 

「なんで十分にしたんですか」

 

「交通機関は、動いていました」

 

「じゃあ、なんで繰り下げたんですか」

 

「一人です」

 

 馬剃さんは、画面から目を離さずに言った。

 

「正門の手前で、自転車ごと転んだ受験生が、一人おりました」

 

 

 

 

 俺は、報告書を持ったまま、少しのあいだ、何も言えなかった。

 

 

 

 

「膝から、血が出ていました」

 

「はい」

 

「本人は『受けさせてください』と言いました」

 

「はい」

 

「保健室で処置をして、試験室まで付き添うのに、九分かかりました。大貫さんが付き添っています」

 

「九分」

 

「九分です。十分繰り下げれば、その方は、遅刻になりません」

 

「……他の四千二百人は」

 

「十分、待っていただきました」

 

 彼女は、そこではじめて、こちらを見た。

 

「一人のために四千二百人を待たせるのか、と、本部で言われました」

 

「誰にですか」

 

「事務局長です」

 

「なんて返したんですか」

 

「『四千二百一人のうち、一人が受けられない状態を、私は正常と呼べません』と」

 

 

 

 

 ……この人は、一月十七日にも、似たことを学長に言っている。

 

 あのときは千百一名だった。

 

 数え方が、ずっと同じである。

 

「通ったんですか」

 

「通りました。学長が、十秒で」

 

「十秒」

 

「『前も似た話を聞いた』とおっしゃって、それだけです」

 

「……効いてますね、一月が」

 

「効いています」

 

 俺は、報告書の次の頁をめくった。

 

 当日の構内放送の文面が、写しで綴じてある。

 

 定型の文言が並んでいて、最後に一行、規程のどこにもない言葉が足してあった。

 

 

 

 

 ――慌てずに。

 

 

 

 

「三回目ですね」

 

「……三回目です」

 

「一回目が共通テストで、二回目が」

 

「二月一日です」

 

「三回目は」

 

「二月三日です。バスが遅れましたので」

 

「増えてますね、回数」

 

「増えました」

 

「怒られました?」

 

「三回目で、事務局長に『またそれか』と言われました」

 

「怒られてるじゃないですか」

 

「『またそれか、まあいい』でしたので、後半を採用しました」

 

 都合のいいところだけ切り取るのを、この人は最近、覚えた。

 

 覚えさせたのは、たぶん、この島である。

 

「他の会場は」

 

「第二会場は、初日に暖房が止まりました」

 

「うわ」

 

「三十分で復旧しています。復旧までのあいだ、監督者が読み上げ文言のあとに、一言だけ足しました」

 

「なんて」

 

「『寒いですが、時間は減りません』です」

 

「……いい一言ですね」

 

「私が用意した文言では、ありません」

 

「じゃあ誰が」

 

「蓑田先生です」

 

「三十年の人だ」

 

「三十年の人です」

 

「第三会場は」

 

「第三会場は、なにもありませんでした」

 

「なにも」

 

「なにもです。……ですので、私は三日目の夜、第三会場の主任にお電話して、なにもないことを二回確認しました」

 

「疑ったんですか」

 

「疑っておりません。確認です」

 

「二回」

 

「二回です。一回目で『ありません』と言われて、二回目で『本当にありません』と言われました」

 

「その人、たぶんいまごろ、話のネタにしてますよ」

 

「……しているそうです」

 

「聞いたんですか」

 

「大貫さんが、聞いてきました」

 

「あいつ、どこにでもいるな」

 

「どこにでもおります」

 

「六日間、事故ゼロですね」

 

「ゼロです」

 

「再試験も、追試験の申請も」

 

「ありません」

 

「……すごいですよ、それ」

 

「っ」

 

 キーボードの音が、一瞬、止まった。

 

「す、すごくありませんっ。所定の手順を、所定どおりに実施しただけですっ」

 

「その所定どおりが、いちばん難しいんですけど」

 

「難しくありませんっ」

 

「難しいです」

 

「……難しかったですっ」

 

 三往復で折れた。

 

 折れてから、彼女は画面に向き直って、耳だけをこちらに残した。

 

 赤い耳だった。

 

 

 

 

 十時十五分、俺は共有プリンタの前で、五秒、目を閉じた。

 

 閉じたつもりはなかった。

 

 気がついたら閉じていて、開いたら、紙が二枚、排紙トレイからはみ出して落ちていた。

 

 拾おうとしてしゃがんだら、立ち上がるのに、思ったより時間がかかった。

 

 振り返ったら、島の向こうで、馬剃さんが立っていた。

 

 立って、こっちを見ていた。

 

 ……見ている。

 

 見るときの、この人の目である。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「いま、何秒でしたか」

 

「なにがですか」

 

「目を閉じていた時間です」

 

「……数えてないです」

 

「四秒です」

 

「数えてるじゃないですか」

 

「数えました」

 

 彼女は、机の引き出しを閉めた。

 

 閉める音が、いつもより硬かった。

 

 

 

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「本日の午前中の予定を、確認させてください」

 

「十一時から会計課の打ち合わせがあります」

 

「先ほど、延期になりました」

 

「え」

 

「私が延期していただきました」

 

「勝手に!?」

 

「勝手にではありません。会計課の松崎主査に、事情をご説明しました」

 

「事情ってなんですか」

 

「『そちらの主任が、共有プリンタの前で四秒間、意識を手放していました』です」

 

「言い方!」

 

「事実です」

 

「事実の切り取り方の話をしてるんですよ」

 

「切り取っておりません。全文です」

 

 全文だったらしい。

 

 松崎主査は、たぶん、いま会計課で腹を抱えている。

 

「では、行きましょう」

 

「どこにですか」

 

「ついてきてください」

 

「いや、どこに」

 

 答えは、来なかった。

 

 答えのかわりに、腕が来た。

 

 

 

 

 手首を、掴まれた。

 

 

 

 

 ――ぎゅっ、と。

 

 

 

 

 力が、思っていたより、ずっと強い。

 

 小柄な人が、体重を後ろにかけて引くと、こんなに動かされるのかと思うくらい、動かされた。

 

「え、ちょっと」

 

「歩いてください」

 

「歩いてますって」

 

「速度、上げます」

 

「上げなくていいです!」

 

 上げられた。

 

 島を出て、廊下を右に曲がって、階段を降りる。

 

 降りながら、俺は、妙な既視感に襲われていた。

 

 ――これ、前にもあった。

 

 十六年前の秋。グラウンド。全校生徒。

 

 あのときも、この人は、俺の返事を待たずに走り出した。

 

 あのときも、「速度上げます」と言った。

 

 十六年たって、場所が構内の廊下になって、掴まれているのが手のひらから手首になっただけである。

 

 握力は、たぶん、変わっていない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ、廊下で見られたら」

 

「見られておりません」

 

「いま、経理課の人とすれ違いました」

 

「……見られました」

 

「認めるの早いな」

 

「事実は、変わりませんのでっ」

 

 階段を降りきったところで、大貫と正面から鉢合わせした。

 

 あいつは、俺の手首と、それを掴んでいる手と、その先にいる人を、順番に見た。

 

 見て、口を開いて、閉じて、それから、道の端に寄った。

 

「……どうぞ」

 

「どうもっ」

 

「大貫さん。十一時からの打ち合わせは、延期です」

 

「はい」

 

「理由は、聞かないでください」

 

「聞きません」

 

 聞きません、と言ったやつの顔は、明らかに、あとで聞く顔だった。

 

 言いながら、彼女は速度を落とさなかった。

 

 落とさないまま、二階の突き当たりの、小さな部屋の前で止まった。

 

 扉に、プレートが下がっている。

 

 『休憩室』

 

 その下に、もう一枚。

 

 『空室/使用中』の、裏返せる札である。

 

 馬剃さんは、俺を先に押しこんで、それから札をひっくり返した。

 

 

 

 

 『使用中』

 

 

 

 

 扉が、静かに閉まった。

 

 

 

 

 休憩室は、四畳半くらいの部屋である。

 

 窓が一つ。ブラインドが半分下りている。

 

 流し台と、電気ポットと、パイプ椅子が二脚。

 

 そして、壁際に、いつからあるのか誰も知らない二人掛けのソファがある。

 

 色は、たぶん、昔は緑だった。

 

「このソファ、いつからあるんですか」

 

「不明です」

 

「不明」

 

「備品台帳に、記載がありません」

 

「台帳にないんですか」

 

「ありません。……四月に、全件照合しました」

 

「じゃあ、幽霊備品だ」

 

「幽霊ではありませんっ。所在は明らかですっ」

 

「出どころが不明なだけで」

 

「……不明ですっ」

 

 備品台帳と戦って、この人が負けた、数少ない相手である。

 

 馬剃さんは、その負けた相手に座った。

 

 座って、こちらを見て、隣を、ぽん、ぽん、と手のひらで叩いた。

 

 

 

 

 ――ぽん、ぽん。

 

 

 

 

 俺の頭の中で、警報が鳴った。

 

 鳴った警報の名前は、ハラスメント防止規程第四条である。

 

 夏にこの人自身が、東ホールの一番奥で、指を四本立てて宣言したやつだ。

 

「あの」

 

「はい」

 

「座れと」

 

「座ってください」

 

「……はい」

 

 俺は、座った。

 

 ソファの、いちばん端に。

 

 肘掛けに、右腕が半分乗るくらいの位置である。

 

 人と人の間に、四十センチくらいの空白ができた。

 

 

 

 

 馬剃さんが、ため息をついた。

 

 

 

 

 深い、腹の底からのため息だった。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「なぜ、そんなに離れて座るんですかっ!」

 

「え」

 

「傷つきますっ!」

 

「傷つく!?」

 

「傷つきますっ! こちらは、隣を叩いたんですっ! 叩いた意味を、汲んでくださいっ!」

 

「い、いや、その、規程が」

 

「規程は、私が管理していますっ」

 

「管理者の裁量で動く規程は、規程じゃないんですよ」

 

「本日は動きますっ」

 

 彼女が、ずいっ、と寄ってきた。

 

 ソファのスプリングが、きし、と鳴る。

 

 四十センチが、十センチになった。

 

 それから、五センチになった。

 

 

 

 

 ……近い。

 

 

 

 

 肩と肩の間に、指が二本入るかどうかである。

 

 柔軟剤の匂いが、はっきり分かる距離だった。

 

 俺は、こういうとき、いつも同じことを考える。

 

 ――これ、ラブコメだったらイベント発生の距離だ。

 

 現実は、月曜の午前十時二十分の、休憩室である。

 

 ラブコメの神様は、たぶん、この部屋の札を見て帰った。

 

「あの、馬剃さん」

 

「はい」

 

「いったい、何」

 

「……はい」

 

 馬剃さんは、そこで、自分の膝に視線を落とした。

 

 紺のスカートの、膝の上。

 

 そして、その膝を、ぽん、ぽん、と叩いた。

 

 

 

 

 ――ぽん、ぽん。

 

 

 

 

「どうぞ」

 

 

 

 

 俺は、固まった。

 

 

 

 

 完全に、固まった。

 

「……えっと」

 

「はい」

 

「ごめん、どうしたらいいの」

 

「膝枕を、してさしあげます」

 

「ひざ」

 

「膝枕です。さあ、どうぞ」

 

「いや、でも、ここ職場だし……」

 

「職場でも、そんなフラフラなあなたを、見ていられませんっ」

 

「フラフラ」

 

「フラフラですっ。今のあなたは、役立たずですっ」

 

「ガーン」

 

「声に出しましたね、いま」

 

「出るんですよ、そういうのは」

 

 馬剃さんは、こほん、と咳払いをした。

 

 咳払いのあと、姿勢を正した。

 

 正しすぎて、逆に落ち着きがなかった。

 

「だから、その、同僚として、私はあなたを休息させる義務がありますっ」

 

「義務」

 

「義務ですっ。あらゆる方策を比較検討した結果、これが最良だと結論づけましたっ」

 

「比較検討したんだ」

 

「しましたっ」

 

「何と何を比較したんですか」

 

「……仮眠室の使用、パイプ椅子二脚を並べての横臥、机への突っ伏し、そして本案です」

 

「本案が最下位じゃないですか、普通」

 

「一位ですっ!」

 

「なんでですか」

 

「仮眠室は三階で、階段が二十六段あります。いまのあなたには危険です。パイプ椅子は落ちます。突っ伏しは、首を痛めますっ」

 

「消去法じゃないですか」

 

「消去法は、比較検討の一種ですっ」

 

 一種らしい。

 

 俺は、頭を抱えたい気持ちを、なんとか声のほうに逃がした。

 

「あの、でも」

 

「はい」

 

「どこの馬の骨とも分からない男の頭が触れるのは、嫌でしょ」

 

 

 

 

 馬剃さんの眉が、ぴくり、と動いた。

 

 

 

 

「あなたは、温水家の骨でしょうっ!」

 

「その返し、十六年ぶりに聞きました」

 

「何度でも申し上げますっ! さあ、どうぞ! がばっといってくださいっ! 覚悟はできていますっ!」

 

「そもそも、覚悟が必要なことは求めてないんだよなあ」

 

「ほら、早くっ! 時間は有限ですっ! 仕事も、まだ残っていますっ! 早くしてくださいっ!」

 

「急かされる膝枕って、この世にあるんだ」

 

「ありますっ! ここにありますっ!」

 

 膝が、また、ぽん、ぽん、と鳴った。

 

 鳴らすたび、スカートの布が、少しだけ動く。

 

 俺は、目のやり場を、天井のシミに固定した。

 

「えっと」

 

「はい」

 

「女性の太ももに触れるのは、セクシャルハラスメントに該当すると思うんだけど」

 

「今は、私がいいと言っているので無効ですっ」

 

「無効の理屈が雑!」

 

「雑ではありませんっ! 同意の有無が構成要件ですっ!」

 

「そこだけ急に法学部!」

 

「本日は、法学部ですっ」

 

「じゃあ聞きますけど」

 

「どうぞ」

 

「同意があっても、業務時間中に、休憩室で、上司の頭を膝に乗せるのは」

 

「上司ではありません。同僚ですっ」

 

「役職の話じゃないんですよ」

 

「役職の話ですっ。指揮命令関係がなければ、優越的関係を背景とした言動には該当しませんっ」

 

「条文が出てきた」

 

「出しますっ」

 

「馬剃さん、それ、四条の何項ですか」

 

「……二項ですっ」

 

「いま考えましたね」

 

「考えておりませんっ! ……帰って、確認しますっ」

 

「確認するんだ」

 

「確認しますっ。事実は、変わりませんのでっ」

 

 変わらないのは事実で、変わるのはこの人の解釈である。

 

 だめだ。

 

 この人は、規程で来たら規程で返ってくるし、感情で来たら感情で返ってくる。

 

 どこから攻めても、返ってくる速度が変わらない。

 

「でも」

 

 

 

 

 俺が、そう言った瞬間だった。

 

 

 

 

 馬剃さんの目が、揺れた。

 

 

 

 

「……これだけ言っているのに、やってくれないんですか」

 

 

 

 

 声が、半音下がった。

 

 睫毛が、二回、速く動いた。

 

 目の縁が、じわ、と光った。

 

 

 

 

 ――ずるい。

 

 

 

 

 俺は、内心で、そう言った。

 

 言ったが、声には出さなかった。

 

 出したら、たぶん、もっとまずいことになる。

 

 この人は、条文では負けるが、涙目では絶対に負けない。

 

 十六年前から、そこだけは、まったく変わっていない。

 

「……わかったよ」

 

「っ」

 

 馬剃さんの背筋が、ぴん、と伸びた。

 

「わ、わかりましたか」

 

「わかりました」

 

「では、どうぞっ」

 

「言われたとおりにやるので、動かないでくださいね」

 

「動きませんっ」

 

「震えてますよ」

 

「震えていませんっ! これは、その、ソファのスプリングですっ!」

 

 ソファは、無実だった。

 

 

 

 

 俺は、恐る恐る、身体を横に倒した。

 

 

 

 

 後頭部が、着地した。

 

 

 

 

 柔らかかった。

 

 思っていたより、ずっと柔らかくて、そして、あたたかかった。

 

 スカートの布ごしに、柔軟剤の匂いがした。

 

 その上に、化粧の匂いが、うっすら重なっている。

 

 二種類の匂いが混ざって、鼻から入って、頭の中で、ぱん、と弾けた。

 

 

 

 

 ……くらくらする。

 

 

 

 

 三時間睡眠の頭に、この情報量は多すぎる。

 

 俺は、目を開けた。

 

 開けたら、真上に、顔があった。

 

 真っ赤な顔だった。

 

「ど、どうですか」

 

「え」

 

「私の、その、太ももは……あまり、自信はないのですが」

 

 

 

 

 心臓が、跳ねた。

 

 

 

 

 跳ねた音が、後頭部を通して、向こうに伝わっていないか本気で心配になった。

 

「い、いやその、なんていうか」

 

「はい」

 

「いい匂いがして、あと、柔らかいなと思いました」

 

 

 

 

「へ、変態っ!!」

 

 

 

 

「馬剃さんが感想がほしいって言ったんでしょ」

 

「い、言いましたが、その答えは求めていませんっ! もう一回ですっ!」

 

「もう一回あるの!?」

 

「ありますっ! やり直しですっ!」

 

「ええ……えっと、き、気持ちいいです」

 

「……まぁ、温水さんにしては、まずまずですね」

 

 まずまずらしい。

 

 評価基準が、まったく分からない。

 

「では、しばらく貸してあげますから、どうぞ、寝てください」

 

「いや、この状況で寝られるわけが」

 

 

 

 

 ――ない、と言おうとした。

 

 

 

 

 言おうとしたところで、頭に、何かが触れた。

 

 

 

 

 手だった。

 

 

 

 

 髪の上を、そっと、一回。

 

 それから、もう一回。

 

 撫でているというより、確認しているような手つきだった。

 

 置いた場所が正しいかどうか、毎回確かめている。

 

 ……この人は、人を撫でるのも、検品の手つきでやる。

 

 やるのだが。

 

 

 

 

 やるのだが、それが、妙に、効いた。

 

 

 

 

 どこか懐かしい感触だった。

 

 どこで、と考えて、思い出せなかった。

 

 思い出せないまま、天井のシミが、ぼやけた。

 

 ブラインドの隙間の光が、細く、横に伸びていった。

 

 窓の外で、誰かが台車を押していく音がした。

 

 その音が、遠くなった。

 

 

 

 

 ――ああ。

 

 

 

 

 これ、寝るやつだ。

 

 

 

 

 最後に見たのは、真上から降りてくる、赤い顔の輪郭だった。

 

 

 

 

 目が覚めたとき、部屋は、さっきと同じ明るさだった。

 

 時計を見たら、十時五十二分。

 

 三十分と、少しである。

 

 俺は、まだ、同じ場所に頭を乗せていた。

 

 

 

 

 ……乗せたままだった。

 

 

 

 

「起きましたか」

 

「……起きました」

 

「二十九分です」

 

「数えてたんですか」

 

「計測しました」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「三十分、その姿勢でいたんですか」

 

「……はい」

 

「足、しびれてません?」

 

「しびれていませんっ」

 

 俺は、そっと頭を上げた。

 

 上げた瞬間、馬剃さんが、ソファの上で、〇・五センチくらい飛び上がった。

 

「馬剃さん」

 

「しびれていませんっ!」

 

「まだ何も言ってない」

 

「顔が言っていますっ!」

 

「顔は、寝起きなだけです」

 

 彼女は、立ち上がろうとして、失敗した。

 

 膝から下が、完全に、言うことをきいていない。

 

「……対策を、講じていたはずなのですが」

 

「対策」

 

「正座のしびれの予防法について、事前に調査を行いました」

 

「調査」

 

「三回、検索しました」

 

「三回」

 

「……はい。三回です」

 

 三回、と言うときに、目が泳いだ。

 

 泳いだので、俺は聞かなかった。

 

 聞かないほうが、この人のためになることが、たまにある。

 

「掴まってください」

 

「い、いえ、自分で」

 

「立てないでしょ」

 

「……立てませんっ」

 

 俺は、手を差し出した。

 

 彼女は、二秒くらい、その手を見た。

 

 見てから、掴んだ。

 

 さっき廊下で掴まれたのと、たぶん、同じ握力だった。

 

 

 

 

 立ち上がって、彼女は、スカートの皺を三回、手で伸ばした。

 

 三回目でも、皺は同じところに残っていた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「あの天井のシミ、猫に見えません?」

 

「……どこがですか」

 

「耳のところ」

 

「あれは、雨漏りの跡です」

 

「夢がないなあ」

 

「夢は要りません。修繕依頼は、四月に出します」

 

「猫、消えるんですね」

 

「……」

 

「馬剃さん?」

 

「……六月にします」

 

 二か月、猫が延命された。

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「本日の件は」

 

「はい」

 

「記録に、残しません」

 

「……いいんですか。記録は文化じゃなかったですか」

 

「文化ですっ。ですが、公文書には、なじみませんっ」

 

「じゃあ、私文書には」

 

「……っ」

 

「残すんですね」

 

「残しませんっ! 残しませんが、その、消せないものは、ありますっ!」

 

 言ってから、彼女は、自分で自分の言ったことに気づいたらしい。

 

 顔が、耳まで、一気に赤くなった。

 

 なった顔のまま、扉のほうへ、歩幅の狭い早足で向かった。

 

 向かって、札に手をかけて、それから止まった。

 

「……温水さん」

 

「はい」

 

「一分、待ってから出てください」

 

「なんでですか」

 

「同時に出ると、その、いろいろとっ」

 

「わかりました」

 

「一分ですっ」

 

「一分ですね」

 

 扉が開いて、閉まった。

 

 俺は、ソファの上で、一分、数えた。

 

 数えているあいだ、天井のシミを見ていた。

 

 さっきまで、これを見ながら寝ていたらしい。

 

 シミの形は、なんとなく、猫に見えた。

 

 

 

 

 島に戻ったのは、十一時ちょうどである。

 

 戻った瞬間、大貫が椅子ごとこちらを向いた。

 

「あれあれ。お二人さん、どこ行っていたんですか」

 

「打ち合わせだ」

 

「二人で?」

 

「二人で」

 

「三十分も?」

 

「三十分だ」

 

「休憩室で?」

 

 俺は、そこで一度、手を止めた。

 

「なんで場所を知ってる」

 

「札です」

 

「札」

 

「『使用中』になってたんで。あの札、この一年で三回しか裏返ったの見たことないです」

 

「……三回目か」

 

「三回目です。ちなみに一回目と二回目は、電気工事の人でした」

 

 記録の精度が、この課に染まってきている。

 

「あと、あの札」

 

「なんだ」

 

「裏返すの、けっこう勇気いるらしいですよ」

 

「誰が言ってた」

 

「桑原主査です。『二十年で一回』って」

 

「二十年で一回」

 

「『二回目を、今日見た』だそうです」

 

 桑原主査の観測範囲には、この大学のどこにも死角がない。

 

「で、何の打ち合わせだったんですか」

 

「合格発表の、読み合わせの段取りだ」

 

「へえ。それ、俺も入ります?」

 

「入らない」

 

「なんでですか!」

 

「お前は数字を盛る」

 

「盛らないですよ!」

 

 隣の島で、馬剃さんが、キーボードを打ちはじめた。

 

 打つ速度が、いつもより、三割くらい速かった。

 

「あ、馬剃さん」

 

「なんですか」

 

「顔、赤くないですか」

 

「……暖房ですっ」

 

「今日、暖房、朝から止まってますよ。ボイラーの点検で」

 

 

 

 

 打鍵音が、止まった。

 

 

 

 

「……では、私の体温の問題ですっ」

 

「体温」

 

「体温は、個人差ですっ」

 

「個人差、今週で二回目ですね」

 

「数えないでくださいっ!」

 

 大貫が、俺のほうを見た。

 

 見て、何も言わずに、自分の画面に戻った。

 

 ……察する技術が上がると、聞かなくなる。

 

 聞かないぶん、たぶん、全部わかっている。

 

 

 

 

 午後、俺は会計課の資料を三本片付けた。

 

 三時間睡眠の日に、三本である。

 

 自分でも、少し驚いた。

 

 驚いたが、原因は、はっきりしている。

 

 二十九分である。

 

 二十九分の昼寝で、人間はここまで戻る。

 

 ……いや。

 

 二十九分の昼寝が、というより。

 

 

 

 

 ――そこまでは、考えないことにした。

 

 

 

 

 定時前、机の端に、飴が一つ置かれた。

 

 りんご味である。

 

「これは」

 

「糖分ですっ」

 

「経費ですか」

 

「私費ですっ」

 

「この課、私費で回ってるんですよ」

 

「回しますっ」

 

 回すらしい。

 

 飴の下に、付箋が一枚あった。

 

 『明日十七時、読み合わせ。三名。携帯は箱の中』

 

 十九文字だった。

 

 業務連絡である。

 

 完全に、業務連絡である。

 

 業務連絡なのだが、付箋の右下の隅に、小さく、もう三文字あった。

 

 

 

 

 『しびれた』

 

 

 

 

 しびれていた、らしい。

 

 俺は、その付箋を、財布ではなく、手帳の裏に挟んだ。

 

 記録に残さない、と言った人の記録が、いま、俺の手帳に一枚増えた。

 

 窓の外は、もう暗い。

 

 明日は、九百人ぶんの番号を、三人で読む。

 

 その前に、今日は、六時間寝ようと思った。

 

 誰かに命令される前に、自分で決めた。

 

 ……決めたのだが。

 

 

 

 

 命令されたほうが早い気がしたのは、たぶん、疲れているせいである。

 

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