(二月九日/馬剃視点)
私は、四回、検索した。
二月九日、月曜日、午前六時十二分から六時四十一分までの、二十九分間である。
一回目――『膝枕 効果』
二回目――『膝枕 血流 医学的』
三回目――『正座 しびれ 予防』
三回目までは、説明ができる。
根拠を集めていた。根拠のない行為を、私は実行できない。
問題は、四回目である。
四回目については、あとで述べる。
六日間が終わったのは、二日前の土曜日である。
延べ四千二百人。会場三か所。事故ゼロ。再試験ゼロ。追試験の申請ゼロ。
最終日の夜、私は本部の椅子に座って、二十分ほど、立ち上がれなかった。
立てなかったのではない。立つ理由が、その二十分だけ、なかったのである。
日曜日は、十一時間眠った。
十一時間である。
目が覚めたとき、私はまず時計を二度見て、それから、自分が誰にも何も報告していないことに気づいて、少し慌てた。
休みの日に報告する先はないのだと理解するのに、三十秒かかった。
三十秒は、誤差ではない。
月曜の朝、私は五時三十分に起きた。
体温三十六度七分。血圧、上が百八。
六時から掃除をした。する必要は、まったくなかった。
六時十二分に、私は検索窓を開いた。
開いた理由は、土曜の夜に見た、あの人の顔である。
六日間、あの人は入試広報にいなかった。
午前は会計課、午後はこちら、夜は両方。
両方、というのは日本語としておかしいが、勤怠の記録としては合っている。
私は、その記録を六日間、毎晩見ていた。
見て、何も言わなかった。
言わなかったのは、私が言うと、あの人が「大丈夫です」と答えるからである。
あの返事は、私が作った様式である。
自分で作った様式に、自分が阻まれるというのは、なかなか、こたえる。
一回目の検索結果は、七件読んだ。
うち四件が個人の日記で、二件が広告で、一件だけ、循環器に関する記述があった。
膝の上に頭部を置くと、頸部の角度が変わり、呼吸が浅くなる場合がある。
……浅くなるのは、困る。
私は二回目を打った。
『膝枕 血流 医学的』
結果は、一回目とほぼ同じだった。
医学的、という語を足したところで、世界の側が医学的になってくれるわけではない。
当たり前である。
当たり前のことを、朝の六時十九分に、私は学んだ。
三回目は、実務的な問題だった。
『正座 しびれ 予防』
これは、有用だった。
足首を五度傾ける。体重を左右に配分する。十分ごとに重心を移す。
私は、その三点を手帳に書いた。
書いてから、自分が何の準備をしているのかを、はじめて言語化してしまった。
……準備。
私は、まだ何も決めていない。
決めていないのに、しびれの予防法だけ持っている人間が、この世にいる。
いま、ここにいる。
四回目を、私は打った。
打って、変換して、確定して、それから、検索ボタンを押さなかった。
三秒くらい、押さなかった。
押さないまま、文字を全部消した。
消した文字を、ここに書くつもりはない。
書かないが、消したという事実は、記録する。
記録しない事実は、なかったことになるからだ。
なかったことにしたい事実ほど、記録しなければならない。
……という規範を、私は自分で作った。
作らなければよかったと、六時四十一分に、少し思った。
九時三分に出勤して、私は一度も、あの人のほうを見なかった。
見ると、決めてしまうからである。
まだ、決めていない。
決めていないので、私は報告書を四十一枚、持っていった。
業務である。これは、完全に、業務である。
「これ、初日、雪ですよね」
「雪でした」
「開始、十分繰り下げてますね」
あの人は、三枚目で手を止めた。
三枚目で止まる人だと、私は思っていた。
思っていたので、三枚目に書いた。
膝から血を流した受験生が一人いて、九分かかって、十分繰り下げた。
その九分を、事務局長は「一人のために四千二百人を待たせるのか」と言った。
私が返した文は、一月十七日に学長へ申し上げた文の、数字を入れ替えたものである。
入れ替えただけの文が通ったのは、一月十七日に、学長が通してくださったからだ。
通ったことは、前例になる。
前例は、資産である。
資産を作ったのは学長で、使い方を教えたのは、この人である。
「すごいですよ、それ」
――出た。
この人は、いつも、いちばん不意打ちのところで、それを言う。
私の指が、キーボードの上で止まった。
「す、すごくありませんっ。所定の手順を、所定どおり実施しただけですっ」
「その所定どおりが、いちばん難しいんですけど」
「難しくありませんっ」
「難しいです」
「……難しかったですっ」
三往復で折れた。
折れたことは、記録しない。
耳が熱いのは、暖房のせいである。
本日の暖房は、ボイラー点検で止まっている。
……止まっている。
十時十五分。
共有プリンタの前で、あの人が、四秒、目を閉じた。
四秒である。
私は、その四秒を、机の上のペンを握ったまま数えた。
一、二、三、四。
四で開いた。
開いた目が、排紙トレイから落ちた紙を探して、それから、しゃがんだ。
しゃがんで、立ち上がるのに、二・八秒かかった。
健康な三十四歳が紙を拾って立ち上がるのに、二・八秒はかからない。
――決めました。
私は、引き出しを閉めた。
閉める音が、思ったより硬かった。
硬い音で、私は自分の決意を確認した。
確認したので、あとは実行するだけである。
実行は、得意である。
会計課の松崎主査への連絡は、四十秒で終わった。
事実を、そのまま申し上げた。
主査は「あー、はい、はい」と三回言って、それから小さく笑って、「延期しときます」と言った。
笑われた理由は、あとで考えることにした。
そして、私は、あの人の手首を掴んだ。
掴む前に、〇・五秒だけ、迷った。
迷ったのは、掴んでよいかどうかではない。
掴む場所である。
手のひらは、だめだ。
手のひらは、十六年前に一度やっている。
あれは、体育祭で、借り物競走で、全校生徒の前で、お題の紙を握りしめたまま走った日のことである。
あのときの私は、十七歳で、手のひらを掴んだ。
いまの私は、三十四歳で、職員で、廊下にいる。
……手首です。
手首は、業務上の誘導です。
そう決めて、掴んだ。
掴んだら、思ったより、細かった。
「え、ちょっと」
「歩いてください」
「歩いてますって」
「速度、上げます」
「上げなくていいです!」
上げた。
上げながら、私は、十六年前と同じ台詞を言っている自分に気づいていた。
気づいていたが、止まらなかった。
あのときも、止まらなかった。
止まらないほうが、たぶん、私は強い。
階段の下で、大貫さんとすれ違った。
大貫さんは、私の手と、その先の手首と、その先の人を、順番に見た。
見て、道の端に寄った。
……いい判断です。
あなたの本日の判断は、適正です。
記録します。
休憩室の札を裏返したとき、指が少し震えた。
震えた理由は、寒さである。
本日、暖房は止まっている。
止まっているので、寒さである。
ソファに座って、私は隣を叩いた。
二回、叩いた。
叩き方は、昨夜、鏡の前で三回練習した。
三回目がいちばん自然だったので、三回目のやつを採用した。
採用した動作を、私は正確に再現した。
あの人は、いちばん端に座った。
……四十センチ。
私は、ため息が出た。
出そうと思って出したのではない。腹の底から、勝手に出た。
この人は、いつもそうである。
十六年前、カラオケボックスの個室で、私が隣を叩いたときも、この人は一度、テーブルの向こうを見た。
高校の中庭でも、そうだった。
勧めれば座る。座るが、必ず、端に座る。
端に座って、こちらが詰めると、今度は逃げる。
……逃げるな、とは言えない。
言えないので、私は、こう言った。
「なぜ、そんなに離れて座るんですかっ!」
「え」
「傷つきますっ!」
言ってしまった。
言ってから、私は、自分の語彙に驚いた。
傷つく、という語を、私は業務で使ったことがない。
使ったことのない語が、口から先に出た。
出たあとで、それが本当だったことに、私は気づいた。
――傷ついていたのか。
十六年、私は、この人の「端に座る」を、性格として処理してきた。
性格として処理しておけば、傷つかないからである。
処理が甘かったらしい。
私は、寄った。
四十センチを、十センチにした。
十センチを、五センチにした。
五センチにしたところで、心臓が、どくん、と一度、大きく鳴った。
鳴った音が、隣に聞こえていないか、本気で心配した。
それから、私は、自分の膝を叩いた。
叩く動作は、練習していなかった。
練習していなかったので、一回目が小さすぎて、二回目で強すぎた。
「どうぞ」
あの人が、固まった。
固まった顔を見て、私は、ようやく理解した。
――伝わっていない。
私の頭の中では、朝六時十二分から、この動作の根拠が三件そろっている。
そろっているのは、私の頭の中だけである。
この人の頭の中には、いま、何も入っていない。
説明が要る。
説明なら、私の専門である。
私は、比較検討の結果を述べた。
仮眠室は三階で階段が二十六段。パイプ椅子二脚は落下の危険。机への突っ伏しは頸部への負荷。
三案を消去して、本案が残る。
残った本案を、私は「最良」と呼んだ。
「本案が最下位じゃないですか、普通」
「一位ですっ!」
一位です。
消去法で残ったものは、消去法で残ったという理由で、一位です。
……という論理が破綻していることは、承知している。
承知しているが、承知していると言うと負けるので、言わない。
「どこの馬の骨とも分からない男の頭が触れるのは、嫌でしょ」
――何をおっしゃっているのですか。
「あなたは、温水家の骨でしょうっ!」
「その返し、十六年ぶりに聞きました」
十六年ぶりでも、返します。
何度でも返します。
あなたは温水家の骨で、私はそれを知っていて、知っているから、こうしているのです。
……とまでは、言わなかった。
言うと、業務ではなくなる。
それでも、あの人は、まだ座っていた。
規程を持ち出してきた。
持ち出されたので、私も持ち出した。
持ち出しながら、条文の番号が出てこなくて、二項です、と言った。
二項があるかどうかは、帰って確認します。
そして、あの人は、また「でも」と言った。
……でも、が三回目である。
三回目で、私の中の何かが、限界を超えた。
超えた結果として、私の目に、勝手に水が来た。
これは、演技ではない。
演技ではないのだが、演技として使えることに、水が来てから気づいた。
気づいたので、そのまま使った。
卑怯である。
卑怯であるが、規程に、卑怯を禁ずる条項はない。
「……これだけ言っているのに、やってくれないんですか」
三秒だった。
「……わかったよ」
勝った。
勝った瞬間に、私は、勝ったあとのことを何も考えていなかったことに気づいた。
頭が、乗った。
重かった。
人間の頭というのは、こんなに重いのか、と思った。
四キロから六キロ、と、検索結果のどこかに書いてあった。
書いてあった数字と、実際の重さは、まったく別のものだった。
数字は、重くない。
数字が重くないことを、私はこの十か月で何度も学んだのに、まだ学び足りていなかったらしい。
温かかった。
布ごしに、体温が来た。
髪が、少し、湿っていた。
朝、洗ってきたのだと思う。
三時間しか寝ていない人が、朝に髪を洗う。
そういう人なのである。
そういう人だから、六日間、二つの課の椅子に座れる。
そういう人だから、こちらが、こうなる。
「ど、どうですか」
「え」
「私の、その、太ももは……あまり、自信はないのですが」
なぜ聞いたのか、自分でも分からない。
分からないまま、返事を待った。
「いい匂いがして、あと、柔らかいなと思いました」
――変態。
変態です。
変態ですが、私は、いま、その感想を全文、記憶しました。
記憶しましたので、削除できません。
削除できないものを、私はまた一つ、抱えることになった。
やり直しを要求した。
「き、気持ちいいです」
「……まぁ、温水さんにしては、まずまずですね」
まずまず、ではない。
ではないが、それ以上の語彙を、私は持っていなかった。
三分で、寝た。
三分である。
あれだけ抵抗した人が、三分で寝た。
寝顔を見て、私は、自分の判断が正しかったことを確認した。
確認したので、あとは、動かないだけである。
足首を五度傾ける。体重を左右に配分する。十分ごとに重心を移す。
三点のうち、実行できたのは一点だけだった。
重心を移すと、頭が動く。
頭が動くと、起きる。
起きたら、二十九分は、二十九分にならない。
私は、動かなかった。
動かないまま、二十九分、この人の呼吸を数えていた。
最初の五分で、呼吸が深くなった。
十分で、眉のあいだの皺が消えた。
十五分で、右手の指が開いた。
握っていたのだと、そのとき気づいた。
六日間、この人は、何かを握ったまま眠っていたのだと思う。
途中、一度だけ、私は手を動かした。
髪に、触れた。
触れる根拠は、検索結果のどこにもなかった。
なかったので、これは、根拠のない行為である。
根拠のない行為を、私は実行できない。
……できないはずだった。
二回、撫でた。
二回で、やめた。
三回目は、根拠がないどころか、たぶん、意味が変わる。
しびれは、十八分で来た。
予防法は、役に立たなかった。
役に立たなかったが、私は、そのしびれを、業務上の負傷として処理することにした。
処理区分を決めると、痛みは、扱いやすくなる。
二十九分。
起きたあと、この人は、私が立てないことを、〇・五秒で見抜いた。
見抜いて、手を差し出した。
私は、その手を、二秒見た。
二秒見たのは、迷ったからではない。
十六年前、私はこの手を、自分から掴んで走った。
今日は、差し出された。
順番が、逆になっている。
逆になるまでに、十六年と、十か月と、四回の検索がかかった。
掴んだ。
立った。
立ってから、私は、スカートの皺を三回伸ばした。
伸びなかった。
伸びない皺を、私は、消さないことにした。
島に戻って、私はキーボードを打った。
打鍵速度が、通常の一・三倍だった。
速度を上げると、他のことを考えなくて済む。
これは、九年前に役所で覚えた技術である。
役所で覚えた技術のうち、いまも使えるものは、そう多くない。
「あ、馬剃さん。顔、赤くないですか」
「……暖房ですっ」
「今日、暖房、朝から止まってますよ。ボイラーの点検で」
……大貫さん。
あなたの本日の判断は、二件目で、不適正です。
定時前、私は付箋を一枚書いた。
『明日十七時、読み合わせ。三名。携帯は箱の中』
十九文字である。
業務連絡である。
完全に、業務連絡である。
書き終えて、飴と一緒に置きに行こうとして、私は、右下の隅を三秒見た。
三秒見て、書いた。
『しびれた』
四文字である。
業務ではない。
業務ではないものを、私が付箋に書いたのは、これがはじめてだった。
書いてから、置きに行くまでに、十一分かかった。
十一分のあいだ、私は付箋を三回、伏せて、三回、めくった。
四回目で、置いた。
四回目である。
……今朝の四回目は、押さなかった。
夜の欄に、私は一行だけ書いた。
『押さなかった四回目と、押した四回目』
どちらのことかは、書かなかった。
書かなくても、書いた本人には、分かる。
分かるが、三年後の私が読んだら、たぶん分からない。
分からなくていい。
分からなくなるくらい、遠い場所まで行っている予定だからである。
予定である。
名前のついていない予定を、私は、これで二回目、手帳に書いた。