(二月十日〜三月六日/温水視点)
「温水さん、なんで俺、確認メンバーじゃないんですか」
「お前は数字を盛る」
「盛らないですよ!」
「去年、出願の速報で」
「あれは! 興奮してたんです!」
「四百二十件を、四千二十件って課長に報告しただろ」
「け、桁が躍動しただけです」
「速報を勝手に躍動させるな」
二月十日、火曜日、十七時。
一般入試が終わって、三日である。
三日のあいだに、採点が進み、判定会議が開かれ、番号が決まった。
決まった番号は、いま、会議室の机の上にいる。
合格者番号の一覧が、三部、並んでいた。
金曜の十時に、掲示とサイトで同時公開される紙である。
確認は、三人。
私と桑原主査と、火曜日のあなたです、と彼女が言った、その三人だった。
部屋に入る前に、馬剃さんが手順を三つ言った。
「携帯は箱の中へ。内線は抜きます。終わるまで、誰も入れません」
「厳重ですね」
「番号は、公開の十時まで、この部屋の外に存在しません」
存在しません、の言い方が、条文だった。
大貫は、箱に携帯を入れる俺たちを、廊下から羨ましそうに見ていた。
「では、始めます」
馬剃さんが、一部を手に取った。
「読み上げは私。突き合わせは温水さんと桑原主査。学部ごとに、番号を全部読みます」
「全部」
「全部です。飛ばした一つが、誰かの人生の一つです」
読み上げが始まった。
彼女の声は、一定だった。
番号と番号のあいだに、同じ長さの間が入る。
「一〇二三」
「一致」
「一致」
「一〇二七」
「一致」
「一致」
数字と、一致が二つ。
それだけの往復が、何百回も続く。
数字は、噛みません、と言った人である。
本当に、一度も噛まなかった。
三十分たったところで、桑原主査が無言で飴を差し出した。
馬剃さんは、無言で受け取った。
喉の相互扶助である。この業界、飴は通貨なのだ。
四十分を過ぎたあたりで、桑原主査がもう一度だけ手を挙げた。
「二桁、逆」
四文字だった。
見ると、俺の持つ版で、一箇所だけ番号の下二桁が入れ替わっていた。
印刷会社の版ずれである。
「……確認します」
馬剃さんが、原簿と三回突き合わせた。
「原簿が正。印刷が誤。修正して、再印刷は明日の朝一です」
声が、そこだけ少し低くなった。
もしこのまま出ていたら、存在しない番号が一つ掲示され、存在する番号が一つ消えていた。
消えた番号の子は、受かったのに、落ちたと思う。
四文字が、それを止めた。
「桑原主査」
「はい」
「ありがとうございました」
「仕事です」
三文字で返して、主査はお茶を飲んだ。
休憩は、途中で一度、五分だけだった。
彼女は水を一口だけ飲んで、残りの六百番台に備えた。
読み上げは、全部で一時間十分かかった。
終わって部屋を出ると、大貫が廊下の椅子に座っていた。
「終わりました? 俺、外で素数数えてました」
「なんでだ」
「数字の練習です。来年こそメンバー入りするんで」
「ちなみにいくつまで数えた」
「四十七です」
「一時間十分で?」
「途中で寝ました」
方向も途中経過も間違っているが、志だけは買うことにした。
「一定でしたね、最後まで。声」
帰り支度をしながら、俺は言った。
「っ」
ボールペンが、こつん、と机の縁に当たった。
「……ば、番号に、感情をつけないためですっ」
「褒めたつもりだったんですけど」
「存じておりますっ」
「じゃあ、なんで怒るんですか」
「怒っていませんっ。……ペンが、滑っただけですっ」
滑らせたのは、ペンではない。
「番号に、感情をつけないためです」
「つくものですか」
「つきます。特に、後ろのほうの番号は」
「後ろ」
「補欠です」
一覧の最後に、別枠の番号が並んでいた。
補欠者番号。
欠員が生じた場合に、繰上げ合格の対象となる番号である。
「この番号は、三月三十一日まで生きています」
馬剃さんは、その枠を指で押さえて言った。
「なので、読み間違えていい番号は、一つもありません」
前日の木曜、再印刷の版を、もう一度三人で全部読んだ。
「一〇二三」
「一致」
「一致」
今度は、二桁の逆は、一つもなかった。
読み終わって、馬剃さんは版に日付印を捺した。
「これで、番号は確定です」
確定、という言葉に、部屋の空気が少しだけ重くなった。
確定した瞬間から、この紙は、九百人ぶんの明日である。
二月十三日、金曜日。
これがラブコメなら、二月十四日前後は最重要イベント期間である。
現実の二月十三日は、合格発表だった。
朝、駅からの道で、髪を直しながら歩く受験生を三人見た。
発表を見に来る子は、試験の日と同じ服を着てくることが多い。
験ではなく、たぶん、勝負服である。
九時、本部で会った馬剃さんの髪には、赤があった。
「二つ目ですね」
「二つ目ですっ」
「先回りされました」
「先回りしましたっ」
言ってから、自分の言い方の妙な勢いに気づいたらしい。
「……本日は、掲示物の水平確認がありますので。集中のための、装備ですっ」
装備の使途が、三つくらい後付けされた。
二つ目の勝負、である。
残りの一つは、三月と聞いている。
俺のコートの内ポケットにも、緑の端数が入っていた。
装備は、今日も相互である。
本部に集まったのは五人。
馬剃さん、俺、大貫、桑原主査、それから広報担当の職員が一人。
「サイトの公開は十時ちょうど。掲示も同時です」
馬剃さんが、進行表を読み上げる。
「アクセス集中の対策は、三重にしてあります。回線の増強、待機ページ、それから紙の掲示です」
「紙が対策なんですか」
「サイトが落ちても、掲示板は落ちません」
十月に出願サイトが落ちた大学は、言うことが違う。
あの夜の十九分を、この人は対策三つに変換して持ってきた。
掲示板には、朝のうちにビニールがかけてあった。
「雨、降りませんよ。今日」
「降らなくても、かけます」
「出典は」
「一月の雪です」
天気に一度裏切られた人の出典は、強い。
九時四十分、鷲尾課長が本部に顔を出した。
「今年は落とさないでよ、サイト」
「三重にしてあります」
「頼もしくなっちゃって」
課長は笑って、それから掲示板のほうを見た。
「あたし、この日が一番苦手なのよね」
「意外です」
「受かった子の顔しか、こっちからは見えないでしょ。見えない側を数えるのが、こっちの仕事なのに」
言うだけ言って、課長は自分の持ち場に行った。
単刀直入の人は、たまに単刀直入に痛いことを言う。
九時十五分、再印刷済みの番号一覧を、掲示板の裏で枠に留めた。
留めたのは俺で、水平を確認したのは馬剃さんである。
「二ミリ、右が下がっています」
「見て分かるんですか」
「分かります」
「じゃあ、直します」
留め直すと、彼女は三歩下がって、首を五度くらい傾けた。
「一ミリです」
「まだあるんですか」
「あります」
もう一度直した。
「〇・五ミリです」
「馬剃さん」
「はい」
「十時まで、あと四十分です」
「…………許容します」
許容された。
巾木の人は、掲示板でも巾木の人だった。
九時五十分、掲示板の前に、人が集まりはじめた。
コートの受験生と、保護者と、たぶん高校の先生。
みんな、まだ何も貼られていないビニールを、じっと見ている。
何も貼られていない板を見る顔が、いちばん祈りに近い。
「温水さん」
隣に、馬剃さんが立った。
「はい」
「五年間、この十時を、どんな顔で見てました?」
「……どんな顔だろう。考えたことないです」
「私は今日、初めてです。この十時」
「はい」
「顔の作り方が、分かりません」
「作らなくていいと思いますよ」
九時五十九分三十秒、彼女は腕時計を見た。
見て、それきり、掲示板から目を離さなかった。
九時五十九分、大貫がノートパソコンの前で言った。
「温水さん、俺、緊張してきました」
「お前が受かるわけじゃない」
「そうなんですけど、番号って、あれ全部、顔があるじゃないですか」
「……たまに正しいこと言うな」
「たまにってなんですか」
十時ちょうど。
掲示板の紙がめくられ、サイトが公開された。
『つながります! つながってます! 表示、二秒です!』
『アクセス、いま三千超えました! でも余裕です!』
『待機ページ、出番なしです!』
『あ、SNSで「サイト軽い」って書かれてます! 褒められてます!』
「エゴサするな」
『「去年は落ちたのに」とも書かれてます』
「歴史は消えないな」
『あと、掲示板のことも書かれてます』
「なんて」
『「紙が水平すぎて笑った」って』
「……見る人は、見るんだな」
隣で、誰かが小さく息を吸う音がした。
振り向いたら、馬剃さんが画面から目を逸らしていた。
逸らしていたが、耳が赤い。
「褒められてますよ」
「掲示物の水平は、業務ですっ」
「その業務が褒められてるんですよ」
「……っ」
大貫の実況が、今日は少し頼もしい。
掲示板の前で、歓声が上がった。
跳ねる子がいて、電話をかける子がいて、保護者と抱き合う子がいた。
そして、静かに離れていく背中が、同じ数だけあった。
番号を三度見して、四度目に写真を撮る子がいた。
番号を一度だけ見て、静かにスマートフォンをしまう子がいた。
同じ板の前で、時間の流れる速さが、人によって違っていた。
歓声は、聞こえる。
沈黙は、聞こえない。
聞こえないだけで、そこにある。
午後は、電話だった。
問い合わせが百二十件。
番号の見方、入学手続きの書類、補欠の意味。
馬剃さんは受話器を持ったまま、最初の三秒だけ、ゆっくり喋った。
「はい。――こちら、入試広報課です」
三秒である。
電話の向こうの息が、その三秒で一段落ち着くのが、隣にいると分かる。
「補欠は、不合格ではありません。……はい。欠員が出た場合、三月三十一日までのあいだに、順次ご連絡します。連絡は、お電話です。……はい。留守番電話には残しませんので、お手数ですが、知らない番号からでも、お出になってください」
高校の進路の先生からの電話もあった。
「はい。――補欠の順位は、申し訳ありません、開示していません。……はい。過去の繰上げ実績も、お伝えできない決まりです。……先生、一つだけ。生徒さんに、電話に出るよう、お伝えください。それだけは、確実にお願いします」
言える一つを、この人は必ず最後に置く。
同じ説明を、今日、何回したのだろう。
何回目でも、三秒は三秒のままだった。
十六時前、俺は掲示板の様子を見に出た。
人はもう、まばらだった。
帰っていく親子連れとすれ違った。
「ね、だから言ったでしょ、受かるって」
「言ってないだろ、昨日まで無理かもって」
「言ってない。記憶にない」
母親の記憶は、十時に上書きされたらしい。
いい上書きである。
その中に、一人だけ、動かない背中があった。
見覚えのある子だった。
自転車のパンクで走ってきて、前泊するようになった、あの子である。
掲示板の前で、三十秒、動かなかった。
それから、合格者番号の枠ではなく、その下の小さな枠を、もう一度指でなぞった。
補欠者番号の枠だった。
振り返って、俺に気づいた。
「……門の、人」
「はい」
「今日も、いるんですね」
「発表の日も、仕事なので」
「そっか。……そうですよね」
彼女は、一度掲示板を見て、それから戻ってきた。
「私、補欠でした」
泣きそうな顔で、泣かなかった。
泣かないために、たぶん、事実だけを言った。
どこかで見た工法である。
「補欠って」
彼女は、一度言葉を切って、続けた。
「繰上げ、どのくらい、ありますか」
言えない、が答えである。
繰上げの人数は年によって違い、見込みを個別に伝えることは、規程でできない。
できないが、規程どおりの言葉だけを渡して帰すには、この子は二回、この門をくぐりすぎている。
「人数は、言えないんです。本当に、年によって全然違うので」
「……はい」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「三月の末まで、電話に出られるようにしておいてください」
「電話」
「知らない番号からでも、出てください。繰上げの連絡は、電話で来ます。うちは、留守番電話には残しません」
彼女は、二秒くらい俺を見て、それから、深く頭を下げた。
「出ます。知らない番号でも、全部出ます」
「……はい」
「カレー、まだ食べてないので」
顔を上げた彼女は、少しだけ笑っていた。
「……あの、最後に一つだけ」
「はい」
「三月って、長いですか」
「長いです」
嘘は、つけなかった。
「長いですけど、番号は初日から最終日まで、同じ強さで生きてます。うちの補欠に、鮮度はないです」
「鮮度」
「三月三十一日の電話も、三月二日の電話も、同じ合格です」
彼女は、二秒考えて、深くうなずいた。
笑って、門を出ていった。
番号は、見なかった。
見なかったが、補欠者の枠のどこかに、あの子の番号がある。
三月三十一日まで、生きている番号である。
掲示板の前に戻ると、ビニールの端が風で小さく鳴っていた。
合格者の番号は、来週には剥がされる。
補欠の番号だけが、あとひと月半、事務室の名簿の中で息をしている。
この仕事の三月は、待つ仕事である。
電話が途切れたのは、十七時半だった。
百二十件ぶんの受話器を置いた腕で、馬剃さんが紙袋を持って島を回った。
机に一つずつ、小さな包みが置かれていく。
「な、なんですかこれ」
「明日は二月十四日で、土曜です。本日、配布します」
「チョコじゃないですか! 経費ですか!?」
「私費です」
「全員同じやつですか」
「同一規格です。公平を期しました」
「ちなみに、去年までは」
「ありません。今年からです」
「今年から! 何が変わったんですか」
「……気分です」
気分、と言った。規程の人が。
「気分!? 馬剃さんが、気分!?」
「気分ですっ! 人間には、気分がありますっ!」
「知ってましたけど、口から出たの、はじめて聞きました」
「聞かなかったことにしてくださいっ」
「記録しますね」
「しないでくださいっ!」
ばん、と机が鳴った。
鳴らしてから、鳴らした手をそっと膝に下ろすところまで、もう様式である。
「……失礼しました。声量が」
「不適切でした、ですね」
「先に言わないでくださいっ!」
「俺、職場でもらうの十年ぶりです」
「泣かないでください」
「泣いてないです!」
泣いていた。
桑原主査は、包みを両手で受け取って、二文字で返した。
「恐縮」
大貫と桑原主査と広報の人の机に、同じ包みが置かれた。
俺のところには、置かれなかった。
置かれずに、手渡しだった。
「規格は同一です」
「でしょうね」
「同一です」
二回言った。
三回目を言いかけて、やめた。
やめたかわりに、包みを置く手が、〇・五秒だけ長く机に残った。
二回言うと、本人がそれを信じてしまうと、誰かが言っていた気がする。
包みは、たしかに同じだった。
同じだったが、俺のだけ、付箋が一枚貼ってあった。
『二月十三日分の労務への対価です』
対価らしい。
労務の日付が今日である理由は、聞かないことにした。
聞くと、たぶん、規程が三つくらい引用される。
帰りの電車で包みを開けたら、中身は本当に全員と同じチョコだった。
同じチョコを、俺は妙にゆっくり食べた。
規格同一の味は、悪くなかった。
二月十七日、火曜日。
島の机を二つ寄せて、補欠通知書の発送作業をした。
封筒と、通知書と、宛名ラベル。
通知書の一行目は、こうである。
『あなたは補欠者です。これは不合格の通知ではありません』
「この一行目、去年までなかったですよね」
封入しながら、俺は言った。
「ありませんでした。今年、私が足しました」
「決裁、通ったんですね」
「三往復しました」
「三往復」
「『不合格ではありませんは言い過ぎではないか』というご意見と、三往復です」
「なんて返したんですか」
「事実です、と」
事実は変わらない、の人である。
補欠は、不合格ではない。
その事実を、一行目に置くために、この人は紙を三往復させた。
「二行目からは、規程どおりです。繰上げの連絡方法、期限、注意事項」
「電話に出てください、も書いてありますね」
「太字にしました。そこだけ」
封筒は、全部で二百六十四通だった。
三つ折り担当は、大貫である。
「温水さん、折り目で人生が変わると思うと、手が震えるんですけど」
「震えると曲がる」
「事実は変わらないでほしい!」
「変わらないから折れ」
三十通目あたりで、隣に馬剃さんが座った。
座って、大貫の手元を、じっと見た。
「あの、馬剃さん」
「はい」
「見られると、余計に震えるんですけど」
「見ておりません」
「見てますよね」
「確認です。疑ってはいません」
「その確認がいちばん刺さるって、温水さんが言ってました!」
「……では、隣の通しの折り目を見ています」
見る先を三センチずらして、監視は続いた。
二百六十四回、折り目は曲がらなかった。
「宛名も、読み合わせします」
「名前もですか」
「名前もです。名前を間違えた通知は、届いても、届いていません」
封筒の宛名を、一枚ずつ、住所と突き合わせる。
番号ではなく、名前と住所である。
番号に顔があると言ったのは大貫だが、封筒には、名前がある。
その中のどこかに、あの子の名前もあるはずだった。
探さなかった。
探さない程度の分別は、この仕事の制服みたいなものである。
昼休み、弁当のあとで文庫を開いたら、大貫が覗いてきた。
「温水さん、最近ずっとその作家読んでますよね」
「宿題なんだ」
「宿題? 誰の」
「読書会がある」
「読書会!? 誰とですか」
「非公開だ」
「この島、ほんとにそればっかり!」
栞は、星の砂のやつを使っている。
十六年ぶりに現役復帰した栞は、いま、七冊目に挟まっている。
感想の返信には、今週も赤が入った。
赤の数は、少しずつ、減ってきている。
二月二十日、金曜日の夕方、馬剃さんが一枚の紙を持ってきた。
「温水さん、お願いがあります」
「はい」
「繰上げ連絡の、電話の台本を作りました。確認をお願いします」
A4一枚に、電話の流れが書いてあった。
名乗り、本人確認、繰上げ合格の伝達、入学意思の確認、手続き期限、復唱。
「よくできてます。……この、入学意思の確認のところ、『考える時間がほしい』って言われたら」
「明日の十七時まで、とお答えします。即答は求めません」
「一晩あるんですね」
「人生なので」
人生なので、で決裁が通る書類を、俺ははじめて見た。
「それと、この冒頭の『三秒』っていう書き込みは」
「最初の三秒は、ゆっくり喋ります」
「資料の二枚目ですね」
「二枚目です。それで、確認なんですが」
彼女は、少し姿勢を正した。
「一度、通しでやらせてください。温水さんが、受験生役で」
「俺がですか」
「本番の一回目を、本番にしたくないんです」
断る理由が、見つからなかった。
俺は自分の席に戻って、内線を鳴らしてもらった。
「……もしもし」
『もしもし。わたくし――』
ゆっくりだった。
思っていたより、ずっとゆっくりだった。
『――の大学の、入試広報課、馬剃と申します。あの、突然のお電話で恐れ入ります。落ち着いて聞いていただきたいのですが』
「……あの、ゆっくりすぎません?」
『三秒です』
「三秒が長いんですよ、電話だと」
『計測します』
電話越しに、ストップウォッチの音がした。
持ってるのか。
というより、島の端と端で内線をつないでいる距離である。
押した音が、受話器と空気の両方から、〇・一秒ずれて聞こえた。
肉声のほうが速い。
速いが、それを言うと本番の意味がなくなるので、言わなかった。
『再開します。――このたび、欠員が生じましたので、あなたを繰上げ合格と、』
声が、止まった。
「馬剃さん?」
『……失礼しました。繰上げ合格と、いたしました。おめでとう、ございます』
おめでとうございます、のところで、声に何かがついた。
番号に感情をつけない人の声に、そこだけ、ついた。
台本の続きを、彼女は最後まで読んだ。
読み終わってから、内線の向こうで言った。
『……今の箇所、練習し直します。声が』
「馬剃さん」
「はい」
「そこは、ついてていいと思いますよ」
『……規程には』
「規程には、声の温度までは書いてないです」
内線の向こうで、三秒、沈黙があった。
『――では、そのままにします』
受話器を置いたところに、大貫が戻ってきた。
「え、お二人、内線で何してたんですか。島の端と端で」
「練習だ」
「何のですか」
「三月の」
「……あ」
大貫は、それだけで察して、静かに自分の席に座った。
察する技術も、この一年で上がっている。
そのままになった。
三月の電話を受ける誰かは、三秒のゆっくりのあとに、少しだけ感情のついた「おめでとうございます」を聞くことになる。
悪くない電話だと思う。
返した台本の隅に、彼女の字で小さくメモがあった。
『相手が泣いた場合→待つ』
待つ、の二文字に、俺は決裁の印を捺したい気分になった。
二月の残りは、書類の山だった。
入学手続きの封筒が毎日届いて、開封して、確認して、名簿に落とす。
「温水さん、手続きって、全員するんじゃないんですか」
「しない。合格しても、他の大学に行く子がいる」
「あ、そうか。それで空いた席に」
「補欠が繰り上がる」
「じゃあ、この封筒が来ないことが」
「誰かの電話になる」
その日の午後、辞退の電話が一本あった。
他の大学に決めました、という電話である。
馬剃さんは、最初の三秒をゆっくり喋って、それから言った。
「承知しました。手続きは、こちらで進めます。――ご縁がなかったのではなく、ご縁を選ばれたのだと思います。お元気で」
受話器を置いた彼女に、大貫が小声で聞いた。
「今の、規程にあるんですか。最後の」
「ありません」
「じゃあ、なんで」
「うちを選ばなかった子も、三年間、どこかの受験生だったからです」
大貫は、それを進行表の余白に書こうとして、やめた。
書かなくても、覚えていられる言葉はある。
大貫は、開封の手を止めて、封筒の束を見た。
「……なんか、入試って、最後までシーソーなんですね」
「シーソーだ」
「俺、今、いいこと言いました?」
「言ったけど自分で聞くな」
手続き締切の夜、名簿の空欄を数えたのは、馬剃さんだった。
二回、数えた。
二回目のほうが、ゆっくりだった。
「いくつでした」
「三月二日の朝、正式な数字として共有します」
「今は」
「今は、まだ鉛筆の数字です」
鉛筆の数字は口にしない主義らしい。
彼女は手帳に何かを書いて、それ以上は何も言わなかった。
空欄の数は、三月の電話の数である。
電話の数だけ、どこかで誰かの三月三十一日が動く。
三月三日、火曜日、後期試験。
朝の本部で、彼女の髪に、三つ目の赤があった。
「宣言どおりだね」
「三月は、勝負ですので」
「三月って、今日だけ?」
「……三月中は、随時ですっ」
「拡大解釈じゃないですか」
「運用ですっ」
「運用って、便利な言葉ですね」
「便利ですっ! ……いえ。訂正します。適正ですっ」
訂正のほうが、たぶん本音から遠い。
随時になった。
装備の運用規程が、いつの間にか拡大している。
志願者は三百十二人。会場は本学のみ。
一般入試の十分の一の規模で、そして、今年度最後の試験である。
三百人の朝は、四千二百人の朝より、一人一人の顔が見える。
見えるぶん、緊張の種類が濃い。
後期は、多くの子にとって、今年最後の受験なのである。
「温水さん、後期ってなんか、雰囲気違いますよね」
受付の準備をしながら、大貫が言った。
「違うな」
「なんていうか、静かで」
「最終回だからだ」
「……ドラマみたいに言いますね」
「三百十二人ぶんの、最終回だ」
開門の列に、一月のあの子の顔を探して、いないことを確かめた。
後期を受けないのは、待つと決めたということかもしれないし、そうでないかもしれない。
分からないままでいい仕事だと、もう一度だけ、自分に言った。
朝六時十分、正門前の自販機で、俺は小銭を入れた。
ボタンを、よく見て、押した。
黒いラベルの缶コーヒーが、二本。
「学習しましたね」
「一月の敗北は記録されてるんで」
「されています。手帳の一月十七日です」
「本当に書いたんですか」
「『おしるこ。目は覚めたとのこと』」
「後半いらないでしょ」
「記録は正確を期します」
「じゃあ、馬剃さんの一月十七日は、なんて書いてあるんですか」
「……その日は、記録がありません」
「毎日つけてますよね」
「……業務外の記述が多く、削除しましたっ」
「削除」
「削除ですっ」
削除した記録の中身は、たぶん、削除した本人がいちばん覚えている。
馬剃さんは、両手で缶を包んだ。
共通テストの朝と、同じ持ち方だった。
あれから、四十五日である。
四十五日で、三つ目の試験だった。
一つ目は隣で、二つ目は八キロ離れて、三つ目は、また隣である。
「本日の配置ですが」
「はい」
「温水さんは正門。私は本部です」
「はい」
「変更点が一つ。無線の定時連絡を、三十分ごとから一時間ごとに減らします」
「理由を聞いても」
「もう、三十分ごとに確認しなくても、回るからです」
さらりと言った。
四月に机の距離を測っていた島が、一年かけて、一時間ごとで回る島になった。
六時半の朝礼で、彼女の諸注意は、一言だった。
「いつもどおり、お願いします」
共通テストのときは、決められたとおりに、だった。
いつもどおり、が言える組織に、この一年でなったのである。
決められたとおりが、いつもどおりになるまでの距離を、俺はこの島で見てきた。
試験は、定刻に始まった。
監督で来ていた権田先生が、開始直後の廊下で言った。
「後期の問題は、俺が委員長だ。いい問題だぞ」
「自分で言いますか」
「事実だ」
事実は変わらないの人が、もう一人いた。
途中、大貫が受験生の質問に答えているのが聞こえた。
「トイレは挙手です。監督補助の人がつきます。要領の、後ろから三番目の章です」
章で答えるようになっている。
誰の影響かは、考えるまでもなかった。
本部に戻って、それを報告した。
「大貫さんが、育ちましたね」
「育ちました。章で答えてました」
「誰に似たんでしょうね」
「さあ」
「さあ、とは」
「世の中には、出典を明かせない情報もあるんです」
「出典は私では」
「自分で言うんですね」
試験は、定刻に終わった。
事故ゼロ。遅刻ゼロ。
今年度、うちの大学の入試で走った受験生は、結局、一月のあの子だけだった。
十六時、最後の受験生が門を出ていくのを、俺と馬剃さんは正門で見送った。
『本部より正門。……以上で、今年度の全試験日程、終了です』
無線に入れたのは、本部に残った大貫の声だった。
声が、ちょっと震えていた。
「泣くなよ」
『泣いてないです!』
泣いていると思う。
隣で、馬剃さんが正門の外に向かって、深く頭を下げた。
誰に、というわけでもない。
今年度、この門をくぐった全員に、である。
俺も、下げた。
撤収は、一時間で終わった。
三つ目の試験の撤収は、もう手が覚えている。
帰り際、島の壁に、新しい紙が一枚貼られているのに気づいた。
『繰上げ連絡記録票』
日付と、時刻と、担当者と、結果を書く欄が並んでいる。
欄は、まだ全部、白い。
「明日から、ですか」
「手続きの状況次第です。早ければ、来週から」
「電話は、誰が」
「一本目は、私がかけます」
一本目、という言い方に、二本目以降の準備がすでに入っていた。
白い欄の一つ一つが、これから誰かの三月になる。
三月六日、金曜日。
朝、会計課で、田島主任が九日から時短で復帰すると聞いた。
俺の併任の理由が、一つ、静かに消えようとしている。
消えたあとに俺がどこにいるのかは、辞令が決める。
そして辞令は、いつも突然に来るのである。
午前中、彼女の机の上に、起案書が一枚のっているのが見えた。
件名は『次年度オープンキャンパス実施日程(案)』。
起案者の欄に、彼女の印が捺してある。
来年の八月の話である。
「来年のオープンキャンパス、もう起案ですか」
「大講堂の予約が、四月で埋まりますので」
「手が早い」
「準備を担ぎますので」
験は担がない人の、いつもの答えだった。
来年の話をする人は、来年もいる人だと、俺は勝手に安心しかけた。
午後、馬剃さんが内線で呼ばれた。
「はい。……はい。すぐ伺います」
立ち上がって、上着を直して、彼女は言った。
「事務局長室に、行ってきます」
「はい」
三十分後、彼女は戻ってきた。
戻ってきて、自分の席に座って、キーボードを打ちはじめた。
「馬剃さん」
「はい」
「局長室、何でした」
「後期の報告です」
四文字と、二文字だった。
この人の返事は、本当に隠したいことがあるときだけ、短くなる。
俺は、それ以上聞かなかった。
聞かないまま、隣の席で、湯呑みが一度、こと、と鳴った。
置く音にしては、少しだけ強かった。
定時後、大貫が帰り支度をしながら、小声で聞いてきた。
「馬剃さん、なんかありました?」
「後期の報告だそうだ」
「へえ。……報告って、三十分もかかるもんですか」
「かかるときは、かかる」
「そうすか」
大貫は、それ以上聞かなかった。
聞かない技術だけは、この一年で全員うまくなった。
うまくなったぶん、聞きたいことは、島の空気の中に積もっていく。
積もった雪は、いつか誰かが、かかなければならない。
融雪剤は、たぶん、効かない種類の雪である。
窓の外は、もう春の色をしはじめている。
三月三十一日まで、生きている番号が、まだたくさんある。
生きているのは、番号だけではない気がした。
気がしただけで、確かめる方法を、俺はまだ持っていなかった。
---
---
## ~32敗目~ 二月十四日の督促状
(二月十四日/温水視点/31敗目の二月十三日と十七日の間)
二月十四日、土曜日、朝八時四十五分。
駅からの道は、赤い袋を提げた人が、平日より多かった。
世間はバレンタインである。
俺は意識していない。
意識していない、と駅から大学までのあいだに三回思った時点で、たぶん、していた。
今日は、休日出勤である。
合格発表が昨日で、補欠通知書の発送準備が来週。あいだの土曜に、資材の確認と繰上げ台本の素案を進めておく。そういう、地味で正しい理由の出勤だった。
島には、俺と馬剃さんの二人だけである。
「おはようございます。七時五十分から居ります」
「早いよ。土曜だよ」
「土曜でも、資材は待ってくれませんので」
「駅、赤い袋の人が多かったね」
「統計を取りましたか」
「取ってないけど」
「私は取りました。体感で、平日比三割増です」
「取ったんだ」
「目に入ったものは、数えてしまう性分ですのでっ」
数えたのは、たぶん、性分だけのせいではない。
ないと思うが、追及は、お互いのためにやめておいた。
待つと思う。資材だし。
思ったが、言わなかった。
言わなかった理由の一つは、彼女の鞄の横に、見慣れない紙袋が置いてあったからである。
白い、小さめの紙袋。
持ち手は、きれいに揃えて折ってある。
見なかったことにして、俺は封筒の在庫を数え始めた。
数えながら、視線が三回、紙袋に行った。
三回目のとき、彼女が紙袋の向きを、さりげなく直した。
持ち手をこちらに向けた、ようにも見えたし、隠した、ようにも見えた。
どちらにしても、午前中ずっと、紙袋はそこにいた。
いる、というのが正しい気がする存在感だった。
午前の業務は、静かに進んだ。
「封筒、二百八十。うち予備、二十」
「予備、多くない?」
「折り損じの実績値ですっ」
「誰の」
「……月曜に来る方の、です」
不在の大貫が、実績値でディスられていた。
宛名ラベル三百、予備の通知書用紙、確認済み。
「台本の素案ですが、冒頭の名乗りで三案あります」
「三案」
「丁寧、簡潔、中間です」
「丁寧はどのくらい丁寧なの」
「『お忙しいところ恐れ入ります。突然のお電話にて大変恐縮ではございますが』から始まります」
「切られるよ、それ」
「簡潔案は『大学です。繰上げです』」
「怖いよ」
「ですので、中間です」
「中間で」
「私も中間だと思っていました」
中間で一致した。
一致したのに、彼女は三案とも、読み上げた。
「採用された案以外も、聞いてほしいんです。比較して選んだと、記録に残したいので」
「記録に残すんだ、それも」
「残しますっ」
残すらしい。
昼は、それぞれの席で弁当を食べた。
途中、彼女が箸を止めて、言った。
「そういえば、世間は、その、行事のようですが」
「らしいね」
「……」
「……」
「か、会話が終了しましたっ!」
「振ったの、そっちだよ」
「振りましたけど、う、受けの角度が浅いんですっ!」
「どう受ければよかったの」
「じ、自分で考えてくださいっ」
自分で振って、自分でキレて、自分で打ち切った。
打ち切ったあとの弁当を、彼女はいつもより速く食べた。
食べながら、二回、壁の時計を見た。
午後は、三回見た。
時計の点検をする人が、時計に急かされている。
めずらしい光景を、俺は封筒を数えるふりで、数えていた。
十六時五十分、資材の確認が終わった。
定時の二十五分前である。
あとから思えば、あれは計画された時刻だった。
渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。撤退線つきの申告時刻である。
終わって、島に、区切りの空気が流れた。
彼女が、立ち上がった。
立ち上がって、座った。
もう一回、立ち上がった。
二回目の立ち上がりで、椅子を入れて、紙袋を持って、俺の机の前に来た。
姿勢が、朝礼のときのそれだった。
「温水さん。お渡しするものが、あります」
「……うん」
「お渡しする前に、申告があります」
「聞きます」
「五百六十円です」
「材料費」
「材料費です」
紙袋の中には、小さな箱が入っていた。
箱の中には、生チョコが九粒。
大きさが、九粒とも、そろっていた。
「作ったの? これ」
「教本を一冊、買いました」
「またそろえたね、大きさ」
「型を使いましたので。……テンパリングは、二回失敗しています」
「失敗の報告までしなくていいよ」
「正確な申告が原則ですっ」
原則らしい。
九粒の生チョコの後ろに、二回分の失敗作が存在する。
存在するが、目の前には、成功だけが並んでいる。
誰かの十二月の、毛糸と同じ構造だった。
「……ありがとう。もらうよ。それで、あの」
聞くべきか、三秒迷った。
迷ったが、世間が世間なので、区分の確認は避けて通れなかった。
「これは、その、どういう区分?」
「区分」
「今日、二月十四日だし」
「……ぎ、義理ですっ」
〇・五秒、間があった。
「今、間があったよね」
「ありませんっ!」
「あった。〇・五秒」
「計測しないでくださいっ!」
計測は、お互い様である。
彼女は、口を一度結んで、それから、深呼吸をした。
深呼吸の長さが、いつもより長かった。
「……訂正します」
「うん」
「区分は、義理ではありません」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
目の縁が、少し赤かった。
「督促状です」
「……督促状」
「じゅ、十六年前の申請の、です」
「申請」
「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」
「ごめん。確認しただけ」
「か、確認は、……い、いえ、確認は、正しいです。手続きなので」
キレかけて、様式に救われて、着地した。
島の空気が、止まった。
十六年前の申請。
向山大池の、橋の上。
告白と、返事に詰まった俺と、彼女が差し出した手。
まずは、友達から始めませんか。
あの日から、審査は、止まったままだった。
止めたのは、逃げた俺である。
「……覚えてるよ。橋の上の。全部」
「…………」
「返事を、しないまま消えて、しないまま十六年たって、しないまま同僚になって。……ごめん」
「い、急かしては、いませんっ」
彼女の声が、少しだけ震えて、すぐ様式に戻った。
「督促は、催促ではなく、様式ですっ。債権の存在を、定期的に確認する手続きです」
「存在確認」
「はい。……存在、していますので。あの申請は、まだ」
彼女は、一度目を伏せて、続けた。
「じゅ、十六年前、『いつか好きになってもらえたら』と、言いました。……『いつか』に期限を切らなかったのは、わ、私の様式ミスですっ」
「ミスじゃないよ」
「ミスですっ! 期限のない債権は、じ、時効の危険がありますっ」
「……時効には、しない」
「っ」
「じゃあ、期限、今つけよう」
存在している。
十六年、取り下げられていない。
その事実を、彼女はチョコの箱一つで、正式に文書化してみせた。
督促状という様式は、たぶん、発明である。
同じ告白をもう一度やり直す勇気を、誰にも要求しない。
債権の存在だけを、そっと机に置く。
置かれた側の俺は、逃げた側のくせに、その発明に救われていた。
救われながら、上着のポケットに、指が触れた。
定期入れの、いちばん奥。
十六年前の書類が、こっちにも一枚ある。
あの紙を机に置く日を、俺はまだ、決めていない。
決めていないが、期限のほうは、いま決まったところである。
俺は、箱を机に置いて、姿勢を正した。
正してから、言った。
「……年度内に、返事する」
彼女が、止まった。
「ね、年度内」
「三月三十一日まで、だよね。年度」
「……はい」
「それまでに、ちゃんと答える。十六年前のに」
彼女は、口を開けて、閉じて、もう一度開けた。
「……番号と、同じですね」
「番号」
「補欠の番号は、三月三十一日まで生きています。……では、その返事も、同じ期限で、生きているものとして扱いますっ」
「扱ってください」
「じゅ、受理しますっ」
受理された。
「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」
「数えるの早いよ」
「か、簡単な算数ですっ」
算数の答えを言う声が、少しだけ、潤んでいた。
潤んだ声のまま、彼女は咳払いを一つして、様式に戻った。
手帳が、すっと出て、何かが書かれた。
「何て書いたの」
「き、記録の閲覧には、け、権限が必要ですっ」
「権限、どうやったら取れるの」
「……ね、年度内に、分かりますっ」
書いている手が、少しだけ震えているのが見えたが、指摘はしなかった。
指摘できるほど、俺の心臓も、平常運転ではなかった。
どく、どく、と速い音が、さっきから胸の中で続いている。
締切を、自分で切った。
切った瞬間から、この件は、俺の中で「いつか」ではなく「案件」になった。
案件には、必ず期限が来る。
来ることが、怖くて、少しだけ、ほっとしていた。
「り、利子の話ですが」
彼女が、手帳から顔を上げた。
「チョコの?」
「申請の、です。十六年ぶんの」
「利子つくんだ、あれ」
「つきますっ。複利ですっ」
「十六年の複利は怖いな」
「怖がってくださいっ」
「ちなみに、元本は」
「げ、元本っ……」
彼女の顔が、一段赤くなった。
「こ、告白一件、ですっ。げ、元本の確認までさせないでくださいっ!」
させてしまった。
反省はしているが、確認できた元本は、俺の中で、今日いちばん重い数字になった。
怖がることにした。
怖がりながら、生チョコを一粒、食べた。
「……うまい」
「二回の失敗の上に、立っていますので」
「失敗も含めて、ごちそうさま」
「っ……ど、どういたしまして、です」
どういたしまして、が少し崩れた。
崩れた様式を、俺は聞かなかったことにしなかった。
しっかり、聞いた。
「あと、ホワイトデーの様式は」
「一か月後に、私が検品しますっ」
「お返しに検品が入るんだ」
「入りますっ。基準は、当日までに作りますっ」
「参考までに、減点項目は」
「教えませんっ。事前に教えたら、検品の意味がなくなりますっ」
「厳しいな、抜き打ちか」
「一か月、準備期間がありますっ。抜き打ちではありませんっ」
「基準書、また増えるね」
「この島は、基準書で回っていますのでっ」
回っているのは基準書ではなく、たぶん、別のものだと思う。
思ったが、それこそ、年度内の案件である。
十七時十五分、二人で島の電気を消した。
正門までの道で、彼女が言った。
「箱は、常温で。本日中に召し上がらない分は、冷蔵庫へ」
「取説が来た」
「様式ですので」
「メールでも来る?」
「……送っておきますっ」
「件名は」
「『生チョコの保存について(重要)』ですっ」
「重要までつくんだ」
「重要ですのでっ」
来るらしい。しかも重要付きで。
人類二人目の、チョコの取説メール受信者である。一人目も俺だが。
「今日、出てきてよかった」
「し、資材のため、ですかっ」
「資材のため」
「……」
「三割くらいは」
「……のこりの七割は、き、聞かないでおいてあげますっ」
比率の様式が、彼女の側から運用された。
運用の手つきが、堂に入っていた。
正門で別れて、俺は箱を、鞄ではなく、コートの内ポケットに入れた。
緑の端数の、隣である。
狭い内ポケットが、今日は、少し混んでいた。
混んでいる理由を、帰りの電車で考えないようにして、ずっと考えていた。
アパートに帰って、もう一粒食べた。
やっぱり、うまかった。
スマートフォンが鳴った。
小鞠からである。
『八冊目の感想は』
『今夜送る』
『チョコ食べながらでいいから』
『……なんで分かるんだ』
『作家だから』
作家の観察眼は、画面越しにも届くらしい。
続けて、もう一件鳴った。
佳樹である。
『お兄様、本日の戦果は』
『非公開だ』
『チョコの匂いのする非公開ですね』
『なんで分かるんだ』
『妹ですので』
妹ですので、が、今年も通ってしまった。
通知を閉じて、俺はカレンダーを見た。
三月三十一日まで、あと四十五日。
十六年、動かなかった案件に、初めて、期限がついた夜だった。
期限のある案件を、俺は仕事で、落としたことがない。
仕事では、だ。
仕事では、というただし書きを、今回は、外すと決めた。
決めた夜の生チョコは、二粒目のほうが、少しだけ甘かった。