大学職員の僕たち   作:房吉

46 / 50
~31敗目~ 補欠通知書

(二月十日〜三月六日/温水視点)

 

「温水さん、なんで俺、確認メンバーじゃないんですか」

 

「お前は数字を盛る」

 

「盛らないですよ!」

 

「去年、出願の速報で」

 

「あれは! 興奮してたんです!」

 

「四百二十件を、四千二十件って課長に報告しただろ」

 

「け、桁が躍動しただけです」

 

「速報を勝手に躍動させるな」

 

 二月十日、火曜日、十七時。

 

 一般入試が終わって、三日である。

 

 三日のあいだに、採点が進み、判定会議が開かれ、番号が決まった。

 

 決まった番号は、いま、会議室の机の上にいる。

 

 合格者番号の一覧が、三部、並んでいた。

 

 金曜の十時に、掲示とサイトで同時公開される紙である。

 

 確認は、三人。

 

 私と桑原主査と、火曜日のあなたです、と彼女が言った、その三人だった。

 

 部屋に入る前に、馬剃さんが手順を三つ言った。

 

「携帯は箱の中へ。内線は抜きます。終わるまで、誰も入れません」

 

「厳重ですね」

 

「番号は、公開の十時まで、この部屋の外に存在しません」

 

 存在しません、の言い方が、条文だった。

 

 大貫は、箱に携帯を入れる俺たちを、廊下から羨ましそうに見ていた。

 

「では、始めます」

 

 馬剃さんが、一部を手に取った。

 

「読み上げは私。突き合わせは温水さんと桑原主査。学部ごとに、番号を全部読みます」

 

「全部」

 

「全部です。飛ばした一つが、誰かの人生の一つです」

 

 読み上げが始まった。

 

 彼女の声は、一定だった。

 

 番号と番号のあいだに、同じ長さの間が入る。

 

「一〇二三」

 

「一致」

 

「一致」

 

「一〇二七」

 

「一致」

 

「一致」

 

 数字と、一致が二つ。

 

 それだけの往復が、何百回も続く。

 

 数字は、噛みません、と言った人である。

 

 本当に、一度も噛まなかった。

 

 三十分たったところで、桑原主査が無言で飴を差し出した。

 

 馬剃さんは、無言で受け取った。

 

 喉の相互扶助である。この業界、飴は通貨なのだ。

 

 四十分を過ぎたあたりで、桑原主査がもう一度だけ手を挙げた。

 

「二桁、逆」

 

 四文字だった。

 

 見ると、俺の持つ版で、一箇所だけ番号の下二桁が入れ替わっていた。

 

 印刷会社の版ずれである。

 

「……確認します」

 

 馬剃さんが、原簿と三回突き合わせた。

 

「原簿が正。印刷が誤。修正して、再印刷は明日の朝一です」

 

 声が、そこだけ少し低くなった。

 

 もしこのまま出ていたら、存在しない番号が一つ掲示され、存在する番号が一つ消えていた。

 

 消えた番号の子は、受かったのに、落ちたと思う。

 

 四文字が、それを止めた。

 

「桑原主査」

 

「はい」

 

「ありがとうございました」

 

「仕事です」

 

 三文字で返して、主査はお茶を飲んだ。

 

 休憩は、途中で一度、五分だけだった。

 

 彼女は水を一口だけ飲んで、残りの六百番台に備えた。

 

 読み上げは、全部で一時間十分かかった。

 

 終わって部屋を出ると、大貫が廊下の椅子に座っていた。

 

「終わりました? 俺、外で素数数えてました」

 

「なんでだ」

 

「数字の練習です。来年こそメンバー入りするんで」

 

「ちなみにいくつまで数えた」

 

「四十七です」

 

「一時間十分で?」

 

「途中で寝ました」

 

 方向も途中経過も間違っているが、志だけは買うことにした。

 

「一定でしたね、最後まで。声」

 

 帰り支度をしながら、俺は言った。

 

「っ」

 

 ボールペンが、こつん、と机の縁に当たった。

 

「……ば、番号に、感情をつけないためですっ」

 

「褒めたつもりだったんですけど」

 

「存じておりますっ」

 

「じゃあ、なんで怒るんですか」

 

「怒っていませんっ。……ペンが、滑っただけですっ」

 

 滑らせたのは、ペンではない。

 

「番号に、感情をつけないためです」

 

「つくものですか」

 

「つきます。特に、後ろのほうの番号は」

 

「後ろ」

 

「補欠です」

 

 一覧の最後に、別枠の番号が並んでいた。

 

 補欠者番号。

 

 欠員が生じた場合に、繰上げ合格の対象となる番号である。

 

「この番号は、三月三十一日まで生きています」

 

 馬剃さんは、その枠を指で押さえて言った。

 

「なので、読み間違えていい番号は、一つもありません」

 

 

 

 

 前日の木曜、再印刷の版を、もう一度三人で全部読んだ。

 

「一〇二三」

 

「一致」

 

「一致」

 

 今度は、二桁の逆は、一つもなかった。

 

 読み終わって、馬剃さんは版に日付印を捺した。

 

「これで、番号は確定です」

 

 確定、という言葉に、部屋の空気が少しだけ重くなった。

 

 確定した瞬間から、この紙は、九百人ぶんの明日である。

 

 

 

 

 二月十三日、金曜日。

 

 これがラブコメなら、二月十四日前後は最重要イベント期間である。

 

 現実の二月十三日は、合格発表だった。

 

 朝、駅からの道で、髪を直しながら歩く受験生を三人見た。

 

 発表を見に来る子は、試験の日と同じ服を着てくることが多い。

 

 験ではなく、たぶん、勝負服である。

 

 九時、本部で会った馬剃さんの髪には、赤があった。

 

「二つ目ですね」

 

「二つ目ですっ」

 

「先回りされました」

 

「先回りしましたっ」

 

 言ってから、自分の言い方の妙な勢いに気づいたらしい。

 

「……本日は、掲示物の水平確認がありますので。集中のための、装備ですっ」

 

 装備の使途が、三つくらい後付けされた。

 

 二つ目の勝負、である。

 

 残りの一つは、三月と聞いている。

 

 俺のコートの内ポケットにも、緑の端数が入っていた。

 

 装備は、今日も相互である。

 

 本部に集まったのは五人。

 

 馬剃さん、俺、大貫、桑原主査、それから広報担当の職員が一人。

 

「サイトの公開は十時ちょうど。掲示も同時です」

 

 馬剃さんが、進行表を読み上げる。

 

「アクセス集中の対策は、三重にしてあります。回線の増強、待機ページ、それから紙の掲示です」

 

「紙が対策なんですか」

 

「サイトが落ちても、掲示板は落ちません」

 

 十月に出願サイトが落ちた大学は、言うことが違う。

 

 あの夜の十九分を、この人は対策三つに変換して持ってきた。

 

 掲示板には、朝のうちにビニールがかけてあった。

 

「雨、降りませんよ。今日」

 

「降らなくても、かけます」

 

「出典は」

 

「一月の雪です」

 

 天気に一度裏切られた人の出典は、強い。

 

 九時四十分、鷲尾課長が本部に顔を出した。

 

「今年は落とさないでよ、サイト」

 

「三重にしてあります」

 

「頼もしくなっちゃって」

 

 課長は笑って、それから掲示板のほうを見た。

 

「あたし、この日が一番苦手なのよね」

 

「意外です」

 

「受かった子の顔しか、こっちからは見えないでしょ。見えない側を数えるのが、こっちの仕事なのに」

 

 言うだけ言って、課長は自分の持ち場に行った。

 

 単刀直入の人は、たまに単刀直入に痛いことを言う。

 

 九時十五分、再印刷済みの番号一覧を、掲示板の裏で枠に留めた。

 

 留めたのは俺で、水平を確認したのは馬剃さんである。

 

「二ミリ、右が下がっています」

 

「見て分かるんですか」

 

「分かります」

 

「じゃあ、直します」

 

 留め直すと、彼女は三歩下がって、首を五度くらい傾けた。

 

「一ミリです」

 

「まだあるんですか」

 

「あります」

 

 もう一度直した。

 

「〇・五ミリです」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「十時まで、あと四十分です」

 

「…………許容します」

 

 許容された。

 

 巾木の人は、掲示板でも巾木の人だった。

 

 九時五十分、掲示板の前に、人が集まりはじめた。

 

 コートの受験生と、保護者と、たぶん高校の先生。

 

 みんな、まだ何も貼られていないビニールを、じっと見ている。

 

 何も貼られていない板を見る顔が、いちばん祈りに近い。

 

「温水さん」

 

 隣に、馬剃さんが立った。

 

「はい」

 

「五年間、この十時を、どんな顔で見てました?」

 

「……どんな顔だろう。考えたことないです」

 

「私は今日、初めてです。この十時」

 

「はい」

 

「顔の作り方が、分かりません」

 

「作らなくていいと思いますよ」

 

 九時五十九分三十秒、彼女は腕時計を見た。

 

 見て、それきり、掲示板から目を離さなかった。

 

 九時五十九分、大貫がノートパソコンの前で言った。

 

「温水さん、俺、緊張してきました」

 

「お前が受かるわけじゃない」

 

「そうなんですけど、番号って、あれ全部、顔があるじゃないですか」

 

「……たまに正しいこと言うな」

 

「たまにってなんですか」

 

 十時ちょうど。

 

 掲示板の紙がめくられ、サイトが公開された。

 

『つながります! つながってます! 表示、二秒です!』

 

『アクセス、いま三千超えました! でも余裕です!』

 

『待機ページ、出番なしです!』

 

『あ、SNSで「サイト軽い」って書かれてます! 褒められてます!』

 

「エゴサするな」

 

『「去年は落ちたのに」とも書かれてます』

 

「歴史は消えないな」

 

『あと、掲示板のことも書かれてます』

 

「なんて」

 

『「紙が水平すぎて笑った」って』

 

「……見る人は、見るんだな」

 

 隣で、誰かが小さく息を吸う音がした。

 

 振り向いたら、馬剃さんが画面から目を逸らしていた。

 

 逸らしていたが、耳が赤い。

 

「褒められてますよ」

 

「掲示物の水平は、業務ですっ」

 

「その業務が褒められてるんですよ」

 

「……っ」

 

 大貫の実況が、今日は少し頼もしい。

 

 掲示板の前で、歓声が上がった。

 

 跳ねる子がいて、電話をかける子がいて、保護者と抱き合う子がいた。

 

 そして、静かに離れていく背中が、同じ数だけあった。

 

 番号を三度見して、四度目に写真を撮る子がいた。

 

 番号を一度だけ見て、静かにスマートフォンをしまう子がいた。

 

 同じ板の前で、時間の流れる速さが、人によって違っていた。

 

 歓声は、聞こえる。

 

 沈黙は、聞こえない。

 

 聞こえないだけで、そこにある。

 

 

 

 

 午後は、電話だった。

 

 問い合わせが百二十件。

 

 番号の見方、入学手続きの書類、補欠の意味。

 

 馬剃さんは受話器を持ったまま、最初の三秒だけ、ゆっくり喋った。

 

「はい。――こちら、入試広報課です」

 

 三秒である。

 

 電話の向こうの息が、その三秒で一段落ち着くのが、隣にいると分かる。

 

「補欠は、不合格ではありません。……はい。欠員が出た場合、三月三十一日までのあいだに、順次ご連絡します。連絡は、お電話です。……はい。留守番電話には残しませんので、お手数ですが、知らない番号からでも、お出になってください」

 

 高校の進路の先生からの電話もあった。

 

「はい。――補欠の順位は、申し訳ありません、開示していません。……はい。過去の繰上げ実績も、お伝えできない決まりです。……先生、一つだけ。生徒さんに、電話に出るよう、お伝えください。それだけは、確実にお願いします」

 

 言える一つを、この人は必ず最後に置く。

 

 同じ説明を、今日、何回したのだろう。

 

 何回目でも、三秒は三秒のままだった。

 

 十六時前、俺は掲示板の様子を見に出た。

 

 人はもう、まばらだった。

 

 帰っていく親子連れとすれ違った。

 

「ね、だから言ったでしょ、受かるって」

 

「言ってないだろ、昨日まで無理かもって」

 

「言ってない。記憶にない」

 

 母親の記憶は、十時に上書きされたらしい。

 

 いい上書きである。

 

 その中に、一人だけ、動かない背中があった。

 

 見覚えのある子だった。

 

 自転車のパンクで走ってきて、前泊するようになった、あの子である。

 

 掲示板の前で、三十秒、動かなかった。

 

 それから、合格者番号の枠ではなく、その下の小さな枠を、もう一度指でなぞった。

 

 補欠者番号の枠だった。

 

 振り返って、俺に気づいた。

 

「……門の、人」

 

「はい」

 

「今日も、いるんですね」

 

「発表の日も、仕事なので」

 

「そっか。……そうですよね」

 

 彼女は、一度掲示板を見て、それから戻ってきた。

 

「私、補欠でした」

 

 泣きそうな顔で、泣かなかった。

 

 泣かないために、たぶん、事実だけを言った。

 

 どこかで見た工法である。

 

「補欠って」

 

 彼女は、一度言葉を切って、続けた。

 

「繰上げ、どのくらい、ありますか」

 

 言えない、が答えである。

 

 繰上げの人数は年によって違い、見込みを個別に伝えることは、規程でできない。

 

 できないが、規程どおりの言葉だけを渡して帰すには、この子は二回、この門をくぐりすぎている。

 

「人数は、言えないんです。本当に、年によって全然違うので」

 

「……はい」

 

「ただ、一つだけ」

 

「はい」

 

「三月の末まで、電話に出られるようにしておいてください」

 

「電話」

 

「知らない番号からでも、出てください。繰上げの連絡は、電話で来ます。うちは、留守番電話には残しません」

 

 彼女は、二秒くらい俺を見て、それから、深く頭を下げた。

 

「出ます。知らない番号でも、全部出ます」

 

「……はい」

 

「カレー、まだ食べてないので」

 

 顔を上げた彼女は、少しだけ笑っていた。

 

「……あの、最後に一つだけ」

 

「はい」

 

「三月って、長いですか」

 

「長いです」

 

 嘘は、つけなかった。

 

「長いですけど、番号は初日から最終日まで、同じ強さで生きてます。うちの補欠に、鮮度はないです」

 

「鮮度」

 

「三月三十一日の電話も、三月二日の電話も、同じ合格です」

 

 彼女は、二秒考えて、深くうなずいた。

 

 笑って、門を出ていった。

 

 番号は、見なかった。

 

 見なかったが、補欠者の枠のどこかに、あの子の番号がある。

 

 三月三十一日まで、生きている番号である。

 

 掲示板の前に戻ると、ビニールの端が風で小さく鳴っていた。

 

 合格者の番号は、来週には剥がされる。

 

 補欠の番号だけが、あとひと月半、事務室の名簿の中で息をしている。

 

 この仕事の三月は、待つ仕事である。

 

 

 

 

 電話が途切れたのは、十七時半だった。

 

 百二十件ぶんの受話器を置いた腕で、馬剃さんが紙袋を持って島を回った。

 

 机に一つずつ、小さな包みが置かれていく。

 

「な、なんですかこれ」

 

「明日は二月十四日で、土曜です。本日、配布します」

 

「チョコじゃないですか! 経費ですか!?」

 

「私費です」

 

「全員同じやつですか」

 

「同一規格です。公平を期しました」

 

「ちなみに、去年までは」

 

「ありません。今年からです」

 

「今年から! 何が変わったんですか」

 

「……気分です」

 

 気分、と言った。規程の人が。

 

「気分!? 馬剃さんが、気分!?」

 

「気分ですっ! 人間には、気分がありますっ!」

 

「知ってましたけど、口から出たの、はじめて聞きました」

 

「聞かなかったことにしてくださいっ」

 

「記録しますね」

 

「しないでくださいっ!」

 

 ばん、と机が鳴った。

 

 鳴らしてから、鳴らした手をそっと膝に下ろすところまで、もう様式である。

 

「……失礼しました。声量が」

 

「不適切でした、ですね」

 

「先に言わないでくださいっ!」

 

「俺、職場でもらうの十年ぶりです」

 

「泣かないでください」

 

「泣いてないです!」

 

 泣いていた。

 

 桑原主査は、包みを両手で受け取って、二文字で返した。

 

「恐縮」

 

 大貫と桑原主査と広報の人の机に、同じ包みが置かれた。

 

 俺のところには、置かれなかった。

 

 置かれずに、手渡しだった。

 

「規格は同一です」

 

「でしょうね」

 

「同一です」

 

 二回言った。

 

 三回目を言いかけて、やめた。

 

 やめたかわりに、包みを置く手が、〇・五秒だけ長く机に残った。

 

 二回言うと、本人がそれを信じてしまうと、誰かが言っていた気がする。

 

 包みは、たしかに同じだった。

 

 同じだったが、俺のだけ、付箋が一枚貼ってあった。

 

『二月十三日分の労務への対価です』

 

 対価らしい。

 

 労務の日付が今日である理由は、聞かないことにした。

 

 聞くと、たぶん、規程が三つくらい引用される。

 

 帰りの電車で包みを開けたら、中身は本当に全員と同じチョコだった。

 

 同じチョコを、俺は妙にゆっくり食べた。

 

 規格同一の味は、悪くなかった。

 

 

 

 

 二月十七日、火曜日。

 

 島の机を二つ寄せて、補欠通知書の発送作業をした。

 

 封筒と、通知書と、宛名ラベル。

 

 通知書の一行目は、こうである。

 

『あなたは補欠者です。これは不合格の通知ではありません』

 

「この一行目、去年までなかったですよね」

 

 封入しながら、俺は言った。

 

「ありませんでした。今年、私が足しました」

 

「決裁、通ったんですね」

 

「三往復しました」

 

「三往復」

 

「『不合格ではありませんは言い過ぎではないか』というご意見と、三往復です」

 

「なんて返したんですか」

 

「事実です、と」

 

 事実は変わらない、の人である。

 

 補欠は、不合格ではない。

 

 その事実を、一行目に置くために、この人は紙を三往復させた。

 

「二行目からは、規程どおりです。繰上げの連絡方法、期限、注意事項」

 

「電話に出てください、も書いてありますね」

 

「太字にしました。そこだけ」

 

 封筒は、全部で二百六十四通だった。

 

 三つ折り担当は、大貫である。

 

「温水さん、折り目で人生が変わると思うと、手が震えるんですけど」

 

「震えると曲がる」

 

「事実は変わらないでほしい!」

 

「変わらないから折れ」

 

 三十通目あたりで、隣に馬剃さんが座った。

 

 座って、大貫の手元を、じっと見た。

 

「あの、馬剃さん」

 

「はい」

 

「見られると、余計に震えるんですけど」

 

「見ておりません」

 

「見てますよね」

 

「確認です。疑ってはいません」

 

「その確認がいちばん刺さるって、温水さんが言ってました!」

 

「……では、隣の通しの折り目を見ています」

 

 見る先を三センチずらして、監視は続いた。

 

 二百六十四回、折り目は曲がらなかった。

 

「宛名も、読み合わせします」

 

「名前もですか」

 

「名前もです。名前を間違えた通知は、届いても、届いていません」

 

 封筒の宛名を、一枚ずつ、住所と突き合わせる。

 

 番号ではなく、名前と住所である。

 

 番号に顔があると言ったのは大貫だが、封筒には、名前がある。

 

 その中のどこかに、あの子の名前もあるはずだった。

 

 探さなかった。

 

 探さない程度の分別は、この仕事の制服みたいなものである。

 

 昼休み、弁当のあとで文庫を開いたら、大貫が覗いてきた。

 

「温水さん、最近ずっとその作家読んでますよね」

 

「宿題なんだ」

 

「宿題? 誰の」

 

「読書会がある」

 

「読書会!? 誰とですか」

 

「非公開だ」

 

「この島、ほんとにそればっかり!」

 

 栞は、星の砂のやつを使っている。

 

 十六年ぶりに現役復帰した栞は、いま、七冊目に挟まっている。

 

 感想の返信には、今週も赤が入った。

 

 赤の数は、少しずつ、減ってきている。

 

 

 

 

 二月二十日、金曜日の夕方、馬剃さんが一枚の紙を持ってきた。

 

「温水さん、お願いがあります」

 

「はい」

 

「繰上げ連絡の、電話の台本を作りました。確認をお願いします」

 

 A4一枚に、電話の流れが書いてあった。

 

 名乗り、本人確認、繰上げ合格の伝達、入学意思の確認、手続き期限、復唱。

 

「よくできてます。……この、入学意思の確認のところ、『考える時間がほしい』って言われたら」

 

「明日の十七時まで、とお答えします。即答は求めません」

 

「一晩あるんですね」

 

「人生なので」

 

 人生なので、で決裁が通る書類を、俺ははじめて見た。

 

「それと、この冒頭の『三秒』っていう書き込みは」

 

「最初の三秒は、ゆっくり喋ります」

 

「資料の二枚目ですね」

 

「二枚目です。それで、確認なんですが」

 

 彼女は、少し姿勢を正した。

 

「一度、通しでやらせてください。温水さんが、受験生役で」

 

「俺がですか」

 

「本番の一回目を、本番にしたくないんです」

 

 断る理由が、見つからなかった。

 

 俺は自分の席に戻って、内線を鳴らしてもらった。

 

「……もしもし」

 

『もしもし。わたくし――』

 

 ゆっくりだった。

 

 思っていたより、ずっとゆっくりだった。

 

『――の大学の、入試広報課、馬剃と申します。あの、突然のお電話で恐れ入ります。落ち着いて聞いていただきたいのですが』

 

「……あの、ゆっくりすぎません?」

 

『三秒です』

 

「三秒が長いんですよ、電話だと」

 

『計測します』

 

 電話越しに、ストップウォッチの音がした。

 

 持ってるのか。

 

 というより、島の端と端で内線をつないでいる距離である。

 

 押した音が、受話器と空気の両方から、〇・一秒ずれて聞こえた。

 

 肉声のほうが速い。

 

 速いが、それを言うと本番の意味がなくなるので、言わなかった。

 

『再開します。――このたび、欠員が生じましたので、あなたを繰上げ合格と、』

 

 声が、止まった。

 

「馬剃さん?」

 

『……失礼しました。繰上げ合格と、いたしました。おめでとう、ございます』

 

 おめでとうございます、のところで、声に何かがついた。

 

 番号に感情をつけない人の声に、そこだけ、ついた。

 

 台本の続きを、彼女は最後まで読んだ。

 

 読み終わってから、内線の向こうで言った。

 

『……今の箇所、練習し直します。声が』

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「そこは、ついてていいと思いますよ」

 

『……規程には』

 

「規程には、声の温度までは書いてないです」

 

 内線の向こうで、三秒、沈黙があった。

 

『――では、そのままにします』

 

 受話器を置いたところに、大貫が戻ってきた。

 

「え、お二人、内線で何してたんですか。島の端と端で」

 

「練習だ」

 

「何のですか」

 

「三月の」

 

「……あ」

 

 大貫は、それだけで察して、静かに自分の席に座った。

 

 察する技術も、この一年で上がっている。

 

 そのままになった。

 

 三月の電話を受ける誰かは、三秒のゆっくりのあとに、少しだけ感情のついた「おめでとうございます」を聞くことになる。

 

 悪くない電話だと思う。

 

 返した台本の隅に、彼女の字で小さくメモがあった。

 

『相手が泣いた場合→待つ』

 

 待つ、の二文字に、俺は決裁の印を捺したい気分になった。

 

 

 

 

 二月の残りは、書類の山だった。

 

 入学手続きの封筒が毎日届いて、開封して、確認して、名簿に落とす。

 

「温水さん、手続きって、全員するんじゃないんですか」

 

「しない。合格しても、他の大学に行く子がいる」

 

「あ、そうか。それで空いた席に」

 

「補欠が繰り上がる」

 

「じゃあ、この封筒が来ないことが」

 

「誰かの電話になる」

 

 その日の午後、辞退の電話が一本あった。

 

 他の大学に決めました、という電話である。

 

 馬剃さんは、最初の三秒をゆっくり喋って、それから言った。

 

「承知しました。手続きは、こちらで進めます。――ご縁がなかったのではなく、ご縁を選ばれたのだと思います。お元気で」

 

 受話器を置いた彼女に、大貫が小声で聞いた。

 

「今の、規程にあるんですか。最後の」

 

「ありません」

 

「じゃあ、なんで」

 

「うちを選ばなかった子も、三年間、どこかの受験生だったからです」

 

 大貫は、それを進行表の余白に書こうとして、やめた。

 

 書かなくても、覚えていられる言葉はある。

 

 大貫は、開封の手を止めて、封筒の束を見た。

 

「……なんか、入試って、最後までシーソーなんですね」

 

「シーソーだ」

 

「俺、今、いいこと言いました?」

 

「言ったけど自分で聞くな」

 

 手続き締切の夜、名簿の空欄を数えたのは、馬剃さんだった。

 

 二回、数えた。

 

 二回目のほうが、ゆっくりだった。

 

「いくつでした」

 

「三月二日の朝、正式な数字として共有します」

 

「今は」

 

「今は、まだ鉛筆の数字です」

 

 鉛筆の数字は口にしない主義らしい。

 

 彼女は手帳に何かを書いて、それ以上は何も言わなかった。

 

 空欄の数は、三月の電話の数である。

 

 電話の数だけ、どこかで誰かの三月三十一日が動く。

 

 

 

 

 三月三日、火曜日、後期試験。

 

 朝の本部で、彼女の髪に、三つ目の赤があった。

 

「宣言どおりだね」

 

「三月は、勝負ですので」

 

「三月って、今日だけ?」

 

「……三月中は、随時ですっ」

 

「拡大解釈じゃないですか」

 

「運用ですっ」

 

「運用って、便利な言葉ですね」

 

「便利ですっ! ……いえ。訂正します。適正ですっ」

 

 訂正のほうが、たぶん本音から遠い。

 

 随時になった。

 

 装備の運用規程が、いつの間にか拡大している。

 

 志願者は三百十二人。会場は本学のみ。

 

 一般入試の十分の一の規模で、そして、今年度最後の試験である。

 

 三百人の朝は、四千二百人の朝より、一人一人の顔が見える。

 

 見えるぶん、緊張の種類が濃い。

 

 後期は、多くの子にとって、今年最後の受験なのである。

 

「温水さん、後期ってなんか、雰囲気違いますよね」

 

 受付の準備をしながら、大貫が言った。

 

「違うな」

 

「なんていうか、静かで」

 

「最終回だからだ」

 

「……ドラマみたいに言いますね」

 

「三百十二人ぶんの、最終回だ」

 

 開門の列に、一月のあの子の顔を探して、いないことを確かめた。

 

 後期を受けないのは、待つと決めたということかもしれないし、そうでないかもしれない。

 

 分からないままでいい仕事だと、もう一度だけ、自分に言った。

 

 朝六時十分、正門前の自販機で、俺は小銭を入れた。

 

 ボタンを、よく見て、押した。

 

 黒いラベルの缶コーヒーが、二本。

 

「学習しましたね」

 

「一月の敗北は記録されてるんで」

 

「されています。手帳の一月十七日です」

 

「本当に書いたんですか」

 

「『おしるこ。目は覚めたとのこと』」

 

「後半いらないでしょ」

 

「記録は正確を期します」

 

「じゃあ、馬剃さんの一月十七日は、なんて書いてあるんですか」

 

「……その日は、記録がありません」

 

「毎日つけてますよね」

 

「……業務外の記述が多く、削除しましたっ」

 

「削除」

 

「削除ですっ」

 

 削除した記録の中身は、たぶん、削除した本人がいちばん覚えている。

 

 馬剃さんは、両手で缶を包んだ。

 

 共通テストの朝と、同じ持ち方だった。

 

 あれから、四十五日である。

 

 四十五日で、三つ目の試験だった。

 

 一つ目は隣で、二つ目は八キロ離れて、三つ目は、また隣である。

 

「本日の配置ですが」

 

「はい」

 

「温水さんは正門。私は本部です」

 

「はい」

 

「変更点が一つ。無線の定時連絡を、三十分ごとから一時間ごとに減らします」

 

「理由を聞いても」

 

「もう、三十分ごとに確認しなくても、回るからです」

 

 さらりと言った。

 

 四月に机の距離を測っていた島が、一年かけて、一時間ごとで回る島になった。

 

 六時半の朝礼で、彼女の諸注意は、一言だった。

 

「いつもどおり、お願いします」

 

 共通テストのときは、決められたとおりに、だった。

 

 いつもどおり、が言える組織に、この一年でなったのである。

 

 決められたとおりが、いつもどおりになるまでの距離を、俺はこの島で見てきた。

 

 試験は、定刻に始まった。

 

 監督で来ていた権田先生が、開始直後の廊下で言った。

 

「後期の問題は、俺が委員長だ。いい問題だぞ」

 

「自分で言いますか」

 

「事実だ」

 

 事実は変わらないの人が、もう一人いた。

 

 途中、大貫が受験生の質問に答えているのが聞こえた。

 

「トイレは挙手です。監督補助の人がつきます。要領の、後ろから三番目の章です」

 

 章で答えるようになっている。

 

 誰の影響かは、考えるまでもなかった。

 

 本部に戻って、それを報告した。

 

「大貫さんが、育ちましたね」

 

「育ちました。章で答えてました」

 

「誰に似たんでしょうね」

 

「さあ」

 

「さあ、とは」

 

「世の中には、出典を明かせない情報もあるんです」

 

「出典は私では」

 

「自分で言うんですね」

 

 試験は、定刻に終わった。

 

 事故ゼロ。遅刻ゼロ。

 

 今年度、うちの大学の入試で走った受験生は、結局、一月のあの子だけだった。

 

 十六時、最後の受験生が門を出ていくのを、俺と馬剃さんは正門で見送った。

 

『本部より正門。……以上で、今年度の全試験日程、終了です』

 

 無線に入れたのは、本部に残った大貫の声だった。

 

 声が、ちょっと震えていた。

 

「泣くなよ」

 

『泣いてないです!』

 

 泣いていると思う。

 

 隣で、馬剃さんが正門の外に向かって、深く頭を下げた。

 

 誰に、というわけでもない。

 

 今年度、この門をくぐった全員に、である。

 

 俺も、下げた。

 

 撤収は、一時間で終わった。

 

 三つ目の試験の撤収は、もう手が覚えている。

 

 帰り際、島の壁に、新しい紙が一枚貼られているのに気づいた。

 

『繰上げ連絡記録票』

 

 日付と、時刻と、担当者と、結果を書く欄が並んでいる。

 

 欄は、まだ全部、白い。

 

「明日から、ですか」

 

「手続きの状況次第です。早ければ、来週から」

 

「電話は、誰が」

 

「一本目は、私がかけます」

 

 一本目、という言い方に、二本目以降の準備がすでに入っていた。

 

 白い欄の一つ一つが、これから誰かの三月になる。

 

 

 

 

 三月六日、金曜日。

 

 朝、会計課で、田島主任が九日から時短で復帰すると聞いた。

 

 俺の併任の理由が、一つ、静かに消えようとしている。

 

 消えたあとに俺がどこにいるのかは、辞令が決める。

 

 そして辞令は、いつも突然に来るのである。

 

 午前中、彼女の机の上に、起案書が一枚のっているのが見えた。

 

 件名は『次年度オープンキャンパス実施日程(案)』。

 

 起案者の欄に、彼女の印が捺してある。

 

 来年の八月の話である。

 

「来年のオープンキャンパス、もう起案ですか」

 

「大講堂の予約が、四月で埋まりますので」

 

「手が早い」

 

「準備を担ぎますので」

 

 験は担がない人の、いつもの答えだった。

 

 来年の話をする人は、来年もいる人だと、俺は勝手に安心しかけた。

 

 午後、馬剃さんが内線で呼ばれた。

 

「はい。……はい。すぐ伺います」

 

 立ち上がって、上着を直して、彼女は言った。

 

「事務局長室に、行ってきます」

 

「はい」

 

 三十分後、彼女は戻ってきた。

 

 戻ってきて、自分の席に座って、キーボードを打ちはじめた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「局長室、何でした」

 

「後期の報告です」

 

 四文字と、二文字だった。

 

 この人の返事は、本当に隠したいことがあるときだけ、短くなる。

 

 俺は、それ以上聞かなかった。

 

 聞かないまま、隣の席で、湯呑みが一度、こと、と鳴った。

 

 置く音にしては、少しだけ強かった。

 

 定時後、大貫が帰り支度をしながら、小声で聞いてきた。

 

「馬剃さん、なんかありました?」

 

「後期の報告だそうだ」

 

「へえ。……報告って、三十分もかかるもんですか」

 

「かかるときは、かかる」

 

「そうすか」

 

 大貫は、それ以上聞かなかった。

 

 聞かない技術だけは、この一年で全員うまくなった。

 

 うまくなったぶん、聞きたいことは、島の空気の中に積もっていく。

 

 積もった雪は、いつか誰かが、かかなければならない。

 

 融雪剤は、たぶん、効かない種類の雪である。

 

 窓の外は、もう春の色をしはじめている。

 

 三月三十一日まで、生きている番号が、まだたくさんある。

 

 生きているのは、番号だけではない気がした。

 

 気がしただけで、確かめる方法を、俺はまだ持っていなかった。

 

---

 

---

 

## ~32敗目~ 二月十四日の督促状

 

 (二月十四日/温水視点/31敗目の二月十三日と十七日の間)

 

 二月十四日、土曜日、朝八時四十五分。

 

 駅からの道は、赤い袋を提げた人が、平日より多かった。

 

 世間はバレンタインである。

 

 俺は意識していない。

 

 意識していない、と駅から大学までのあいだに三回思った時点で、たぶん、していた。

 

 今日は、休日出勤である。

 

 合格発表が昨日で、補欠通知書の発送準備が来週。あいだの土曜に、資材の確認と繰上げ台本の素案を進めておく。そういう、地味で正しい理由の出勤だった。

 

 島には、俺と馬剃さんの二人だけである。

 

「おはようございます。七時五十分から居ります」

 

「早いよ。土曜だよ」

 

「土曜でも、資材は待ってくれませんので」

 

「駅、赤い袋の人が多かったね」

 

「統計を取りましたか」

 

「取ってないけど」

 

「私は取りました。体感で、平日比三割増です」

 

「取ったんだ」

 

「目に入ったものは、数えてしまう性分ですのでっ」

 

 数えたのは、たぶん、性分だけのせいではない。

 

 ないと思うが、追及は、お互いのためにやめておいた。

 

 待つと思う。資材だし。

 

 思ったが、言わなかった。

 

 言わなかった理由の一つは、彼女の鞄の横に、見慣れない紙袋が置いてあったからである。

 

 白い、小さめの紙袋。

 

 持ち手は、きれいに揃えて折ってある。

 

 見なかったことにして、俺は封筒の在庫を数え始めた。

 

 数えながら、視線が三回、紙袋に行った。

 

 三回目のとき、彼女が紙袋の向きを、さりげなく直した。

 

 持ち手をこちらに向けた、ようにも見えたし、隠した、ようにも見えた。

 

 どちらにしても、午前中ずっと、紙袋はそこにいた。

 

 いる、というのが正しい気がする存在感だった。

 

 

 

 

 午前の業務は、静かに進んだ。

 

「封筒、二百八十。うち予備、二十」

 

「予備、多くない?」

 

「折り損じの実績値ですっ」

 

「誰の」

 

「……月曜に来る方の、です」

 

 不在の大貫が、実績値でディスられていた。

 

 宛名ラベル三百、予備の通知書用紙、確認済み。

 

「台本の素案ですが、冒頭の名乗りで三案あります」

 

「三案」

 

「丁寧、簡潔、中間です」

 

「丁寧はどのくらい丁寧なの」

 

「『お忙しいところ恐れ入ります。突然のお電話にて大変恐縮ではございますが』から始まります」

 

「切られるよ、それ」

 

「簡潔案は『大学です。繰上げです』」

 

「怖いよ」

 

「ですので、中間です」

 

「中間で」

 

「私も中間だと思っていました」

 

 中間で一致した。

 

 一致したのに、彼女は三案とも、読み上げた。

 

「採用された案以外も、聞いてほしいんです。比較して選んだと、記録に残したいので」

 

「記録に残すんだ、それも」

 

「残しますっ」

 

 残すらしい。

 

 昼は、それぞれの席で弁当を食べた。

 

 途中、彼女が箸を止めて、言った。

 

「そういえば、世間は、その、行事のようですが」

 

「らしいね」

 

「……」

 

「……」

 

「か、会話が終了しましたっ!」

 

「振ったの、そっちだよ」

 

「振りましたけど、う、受けの角度が浅いんですっ!」

 

「どう受ければよかったの」

 

「じ、自分で考えてくださいっ」

 

 自分で振って、自分でキレて、自分で打ち切った。

 

 打ち切ったあとの弁当を、彼女はいつもより速く食べた。

 

 食べながら、二回、壁の時計を見た。

 

 午後は、三回見た。

 

 時計の点検をする人が、時計に急かされている。

 

 めずらしい光景を、俺は封筒を数えるふりで、数えていた。

 

 

 

 

 十六時五十分、資材の確認が終わった。

 

 定時の二十五分前である。

 

 あとから思えば、あれは計画された時刻だった。

 

 渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。撤退線つきの申告時刻である。

 

 終わって、島に、区切りの空気が流れた。

 

 彼女が、立ち上がった。

 

 立ち上がって、座った。

 

 もう一回、立ち上がった。

 

 二回目の立ち上がりで、椅子を入れて、紙袋を持って、俺の机の前に来た。

 

 姿勢が、朝礼のときのそれだった。

 

「温水さん。お渡しするものが、あります」

 

「……うん」

 

「お渡しする前に、申告があります」

 

「聞きます」

 

「五百六十円です」

 

「材料費」

 

「材料費です」

 

 紙袋の中には、小さな箱が入っていた。

 

 箱の中には、生チョコが九粒。

 

 大きさが、九粒とも、そろっていた。

 

「作ったの? これ」

 

「教本を一冊、買いました」

 

「またそろえたね、大きさ」

 

「型を使いましたので。……テンパリングは、二回失敗しています」

 

「失敗の報告までしなくていいよ」

 

「正確な申告が原則ですっ」

 

 原則らしい。

 

 九粒の生チョコの後ろに、二回分の失敗作が存在する。

 

 存在するが、目の前には、成功だけが並んでいる。

 

 誰かの十二月の、毛糸と同じ構造だった。

 

「……ありがとう。もらうよ。それで、あの」

 

 聞くべきか、三秒迷った。

 

 迷ったが、世間が世間なので、区分の確認は避けて通れなかった。

 

「これは、その、どういう区分?」

 

「区分」

 

「今日、二月十四日だし」

 

「……ぎ、義理ですっ」

 

 

 

 

 〇・五秒、間があった。

 

 

 

 

「今、間があったよね」

 

「ありませんっ!」

 

「あった。〇・五秒」

 

「計測しないでくださいっ!」

 

 計測は、お互い様である。

 

 彼女は、口を一度結んで、それから、深呼吸をした。

 

 深呼吸の長さが、いつもより長かった。

 

「……訂正します」

 

「うん」

 

「区分は、義理ではありません」

 

 彼女は、まっすぐ俺を見た。

 

 目の縁が、少し赤かった。

 

「督促状です」

 

「……督促状」

 

「じゅ、十六年前の申請の、です」

 

「申請」

 

「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」

 

「ごめん。確認しただけ」

 

「か、確認は、……い、いえ、確認は、正しいです。手続きなので」

 

 キレかけて、様式に救われて、着地した。

 

 

 

 

 島の空気が、止まった。

 

 

 

 

 十六年前の申請。

 

 向山大池の、橋の上。

 

 告白と、返事に詰まった俺と、彼女が差し出した手。

 

 まずは、友達から始めませんか。

 

 あの日から、審査は、止まったままだった。

 

 止めたのは、逃げた俺である。

 

「……覚えてるよ。橋の上の。全部」

 

「…………」

 

「返事を、しないまま消えて、しないまま十六年たって、しないまま同僚になって。……ごめん」

 

「い、急かしては、いませんっ」

 

 彼女の声が、少しだけ震えて、すぐ様式に戻った。

 

「督促は、催促ではなく、様式ですっ。債権の存在を、定期的に確認する手続きです」

 

「存在確認」

 

「はい。……存在、していますので。あの申請は、まだ」

 

 彼女は、一度目を伏せて、続けた。

 

「じゅ、十六年前、『いつか好きになってもらえたら』と、言いました。……『いつか』に期限を切らなかったのは、わ、私の様式ミスですっ」

 

「ミスじゃないよ」

 

「ミスですっ! 期限のない債権は、じ、時効の危険がありますっ」

 

「……時効には、しない」

 

「っ」

 

「じゃあ、期限、今つけよう」

 

 存在している。

 

 十六年、取り下げられていない。

 

 その事実を、彼女はチョコの箱一つで、正式に文書化してみせた。

 

 督促状という様式は、たぶん、発明である。

 

 同じ告白をもう一度やり直す勇気を、誰にも要求しない。

 

 債権の存在だけを、そっと机に置く。

 

 置かれた側の俺は、逃げた側のくせに、その発明に救われていた。

 

 救われながら、上着のポケットに、指が触れた。

 

 定期入れの、いちばん奥。

 

 十六年前の書類が、こっちにも一枚ある。

 

 あの紙を机に置く日を、俺はまだ、決めていない。

 

 決めていないが、期限のほうは、いま決まったところである。

 

 俺は、箱を机に置いて、姿勢を正した。

 

 正してから、言った。

 

「……年度内に、返事する」

 

 

 

 

 彼女が、止まった。

 

 

 

 

「ね、年度内」

 

「三月三十一日まで、だよね。年度」

 

「……はい」

 

「それまでに、ちゃんと答える。十六年前のに」

 

 彼女は、口を開けて、閉じて、もう一度開けた。

 

「……番号と、同じですね」

 

「番号」

 

「補欠の番号は、三月三十一日まで生きています。……では、その返事も、同じ期限で、生きているものとして扱いますっ」

 

「扱ってください」

 

「じゅ、受理しますっ」

 

 受理された。

 

「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」

 

「数えるの早いよ」

 

「か、簡単な算数ですっ」

 

 算数の答えを言う声が、少しだけ、潤んでいた。

 

 潤んだ声のまま、彼女は咳払いを一つして、様式に戻った。

 

 手帳が、すっと出て、何かが書かれた。

 

「何て書いたの」

 

「き、記録の閲覧には、け、権限が必要ですっ」

 

「権限、どうやったら取れるの」

 

「……ね、年度内に、分かりますっ」

 

 書いている手が、少しだけ震えているのが見えたが、指摘はしなかった。

 

 指摘できるほど、俺の心臓も、平常運転ではなかった。

 

 どく、どく、と速い音が、さっきから胸の中で続いている。

 

 締切を、自分で切った。

 

 切った瞬間から、この件は、俺の中で「いつか」ではなく「案件」になった。

 

 案件には、必ず期限が来る。

 

 来ることが、怖くて、少しだけ、ほっとしていた。

 

 

 

 

「り、利子の話ですが」

 

 彼女が、手帳から顔を上げた。

 

「チョコの?」

 

「申請の、です。十六年ぶんの」

 

「利子つくんだ、あれ」

 

「つきますっ。複利ですっ」

 

「十六年の複利は怖いな」

 

「怖がってくださいっ」

 

「ちなみに、元本は」

 

「げ、元本っ……」

 

 彼女の顔が、一段赤くなった。

 

「こ、告白一件、ですっ。げ、元本の確認までさせないでくださいっ!」

 

 させてしまった。

 

 反省はしているが、確認できた元本は、俺の中で、今日いちばん重い数字になった。

 

 怖がることにした。

 

 怖がりながら、生チョコを一粒、食べた。

 

「……うまい」

 

「二回の失敗の上に、立っていますので」

 

「失敗も含めて、ごちそうさま」

 

「っ……ど、どういたしまして、です」

 

 どういたしまして、が少し崩れた。

 

 崩れた様式を、俺は聞かなかったことにしなかった。

 

 しっかり、聞いた。

 

「あと、ホワイトデーの様式は」

 

「一か月後に、私が検品しますっ」

 

「お返しに検品が入るんだ」

 

「入りますっ。基準は、当日までに作りますっ」

 

「参考までに、減点項目は」

 

「教えませんっ。事前に教えたら、検品の意味がなくなりますっ」

 

「厳しいな、抜き打ちか」

 

「一か月、準備期間がありますっ。抜き打ちではありませんっ」

 

「基準書、また増えるね」

 

「この島は、基準書で回っていますのでっ」

 

 回っているのは基準書ではなく、たぶん、別のものだと思う。

 

 思ったが、それこそ、年度内の案件である。

 

 

 

 

 十七時十五分、二人で島の電気を消した。

 

 正門までの道で、彼女が言った。

 

「箱は、常温で。本日中に召し上がらない分は、冷蔵庫へ」

 

「取説が来た」

 

「様式ですので」

 

「メールでも来る?」

 

「……送っておきますっ」

 

「件名は」

 

「『生チョコの保存について(重要)』ですっ」

 

「重要までつくんだ」

 

「重要ですのでっ」

 

 来るらしい。しかも重要付きで。

 

 人類二人目の、チョコの取説メール受信者である。一人目も俺だが。

 

「今日、出てきてよかった」

 

「し、資材のため、ですかっ」

 

「資材のため」

 

「……」

 

「三割くらいは」

 

「……のこりの七割は、き、聞かないでおいてあげますっ」

 

 比率の様式が、彼女の側から運用された。

 

 運用の手つきが、堂に入っていた。

 

 正門で別れて、俺は箱を、鞄ではなく、コートの内ポケットに入れた。

 

 緑の端数の、隣である。

 

 狭い内ポケットが、今日は、少し混んでいた。

 

 混んでいる理由を、帰りの電車で考えないようにして、ずっと考えていた。

 

 

 

 

 アパートに帰って、もう一粒食べた。

 

 やっぱり、うまかった。

 

 スマートフォンが鳴った。

 

 小鞠からである。

 

『八冊目の感想は』

 

『今夜送る』

 

『チョコ食べながらでいいから』

 

『……なんで分かるんだ』

 

『作家だから』

 

 作家の観察眼は、画面越しにも届くらしい。

 

 続けて、もう一件鳴った。

 

 佳樹である。

 

『お兄様、本日の戦果は』

 

『非公開だ』

 

『チョコの匂いのする非公開ですね』

 

『なんで分かるんだ』

 

『妹ですので』

 

 妹ですので、が、今年も通ってしまった。

 

 通知を閉じて、俺はカレンダーを見た。

 

 三月三十一日まで、あと四十五日。

 

 十六年、動かなかった案件に、初めて、期限がついた夜だった。

 

 期限のある案件を、俺は仕事で、落としたことがない。

 

 仕事では、だ。

 

 仕事では、というただし書きを、今回は、外すと決めた。

 

 決めた夜の生チョコは、二粒目のほうが、少しだけ甘かった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。