(二月十四日/温水視点/31敗目の二月十三日と十七日の間)
二月十四日、土曜日、朝八時四十五分。
駅からの道は、赤い袋を提げた人が、平日より多かった。
世間はバレンタインである。
俺は意識していない。
意識していない、と駅から大学までのあいだに三回思った時点で、たぶん、していた。
今日は、休日出勤である。
合格発表が昨日で、補欠通知書の発送準備が来週。あいだの土曜に、資材の確認と繰上げ台本の素案を進めておく。そういう、地味で正しい理由の出勤だった。
島には、俺と馬剃さんの二人だけである。
「おはようございます。七時五十分から居ります」
「早いよ。土曜だよ」
「土曜でも、資材は待ってくれませんので」
「駅、赤い袋の人が多かったね」
「統計を取りましたか」
「取ってないけど」
「私は取りました。体感で、平日比三割増です」
「取ったんだ」
「目に入ったものは、数えてしまう性分ですのでっ」
数えたのは、たぶん、性分だけのせいではない。
ないと思うが、追及は、お互いのためにやめておいた。
待つと思う。資材だし。
思ったが、言わなかった。
言わなかった理由の一つは、彼女の鞄の横に、見慣れない紙袋が置いてあったからである。
白い、小さめの紙袋。
持ち手は、きれいに揃えて折ってある。
見なかったことにして、俺は封筒の在庫を数え始めた。
数えながら、視線が三回、紙袋に行った。
三回目のとき、彼女が紙袋の向きを、さりげなく直した。
持ち手をこちらに向けた、ようにも見えたし、隠した、ようにも見えた。
どちらにしても、午前中ずっと、紙袋はそこにいた。
いる、というのが正しい気がする存在感だった。
午前の業務は、静かに進んだ。
「封筒、二百八十。うち予備、二十」
「予備、多くない?」
「折り損じの実績値ですっ」
「誰の」
「……月曜に来る方の、です」
不在の大貫が、実績値でディスられていた。
宛名ラベル三百、予備の通知書用紙、確認済み。
「台本の素案ですが、冒頭の名乗りで三案あります」
「三案」
「丁寧、簡潔、中間です」
「丁寧はどのくらい丁寧なの」
「『お忙しいところ恐れ入ります。突然のお電話にて大変恐縮ではございますが』から始まります」
「切られるよ、それ」
「簡潔案は『大学です。繰上げです』」
「怖いよ」
「ですので、中間です」
「中間で」
「私も中間だと思っていました」
中間で一致した。
一致したのに、彼女は三案とも、読み上げた。
「採用された案以外も、聞いてほしいんです。比較して選んだと、記録に残したいので」
「記録に残すんだ、それも」
「残しますっ」
残すらしい。
昼は、それぞれの席で弁当を食べた。
途中、彼女が箸を止めて、言った。
「そういえば、世間は、その、行事のようですが」
「らしいね」
「……」
「……」
「か、会話が終了しましたっ!」
「振ったの、そっちだよ」
「振りましたけど、う、受けの角度が浅いんですっ!」
「どう受ければよかったの」
「じ、自分で考えてくださいっ」
自分で振って、自分でキレて、自分で打ち切った。
打ち切ったあとの弁当を、彼女はいつもより速く食べた。
食べながら、二回、壁の時計を見た。
午後は、三回見た。
時計の点検をする人が、時計に急かされている。
めずらしい光景を、俺は封筒を数えるふりで、数えていた。
十六時五十分、資材の確認が終わった。
定時の二十五分前である。
あとから思えば、あれは計画された時刻だった。
渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。撤退線つきの申告時刻である。
終わって、島に、区切りの空気が流れた。
彼女が、立ち上がった。
立ち上がって、座った。
もう一回、立ち上がった。
二回目の立ち上がりで、椅子を入れて、紙袋を持って、俺の机の前に来た。
姿勢が、朝礼のときのそれだった。
「温水さん。お渡しするものが、あります」
「……うん」
「お渡しする前に、申告があります」
「聞きます」
「五百六十円です」
「材料費」
「材料費です」
紙袋の中には、小さな箱が入っていた。
箱の中には、生チョコが九粒。
大きさが、九粒とも、そろっていた。
「作ったの? これ」
「教本を一冊、買いました」
「またそろえたね、大きさ」
「型を使いましたので。……テンパリングは、二回失敗しています」
「失敗の報告までしなくていいよ」
「正確な申告が原則ですっ」
原則らしい。
九粒の生チョコの後ろに、二回分の失敗作が存在する。
存在するが、目の前には、成功だけが並んでいる。
誰かの十二月の、毛糸と同じ構造だった。
「……ありがとう。もらうよ。それで、あの」
聞くべきか、三秒迷った。
迷ったが、世間が世間なので、区分の確認は避けて通れなかった。
「これは、その、どういう区分?」
「区分」
「今日、二月十四日だし」
「……ぎ、義理ですっ」
〇・五秒、間があった。
「今、間があったよね」
「ありませんっ!」
「あった。〇・五秒」
「計測しないでくださいっ!」
計測は、お互い様である。
彼女は、口を一度結んで、それから、深呼吸をした。
深呼吸の長さが、いつもより長かった。
「……訂正します」
「うん」
「区分は、義理ではありません」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
目の縁が、少し赤かった。
「督促状です」
「……督促状」
「じゅ、十六年前の申請の、です」
「申請」
「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」
「ごめん。確認しただけ」
「か、確認は、……い、いえ、確認は、正しいです。手続きなので」
キレかけて、様式に救われて、着地した。
島の空気が、止まった。
十六年前の申請。
向山大池の、橋の上。
告白と、返事に詰まった俺と、彼女が差し出した手。
まずは、友達から始めませんか。
あの日から、審査は、止まったままだった。
止めたのは、逃げた俺である。
「……覚えてるよ。橋の上の。全部」
「…………」
「返事を、しないまま消えて、しないまま十六年たって、しないまま同僚になって。……ごめん」
「い、急かしては、いませんっ」
彼女の声が、少しだけ震えて、すぐ様式に戻った。
「督促は、催促ではなく、様式ですっ。債権の存在を、定期的に確認する手続きです」
「存在確認」
「はい。……存在、していますので。あの申請は、まだ」
彼女は、一度目を伏せて、続けた。
「じゅ、十六年前、『いつか好きになってもらえたら』と、言いました。……『いつか』に期限を切らなかったのは、わ、私の様式ミスですっ」
「ミスじゃないよ」
「ミスですっ! 期限のない債権は、じ、時効の危険がありますっ」
「……時効には、しない」
「っ」
「じゃあ、期限、今つけよう」
存在している。
十六年、取り下げられていない。
その事実を、彼女はチョコの箱一つで、正式に文書化してみせた。
督促状という様式は、たぶん、発明である。
同じ告白をもう一度やり直す勇気を、誰にも要求しない。
債権の存在だけを、そっと机に置く。
置かれた側の俺は、逃げた側のくせに、その発明に救われていた。
救われながら、上着のポケットに、指が触れた。
定期入れの、いちばん奥。
十六年前の書類が、こっちにも一枚ある。
あの紙を机に置く日を、俺はまだ、決めていない。
決めていないが、期限のほうは、いま決まったところである。
俺は、箱を机に置いて、姿勢を正した。
正してから、言った。
「……年度内に、返事する」
彼女が、止まった。
「ね、年度内」
「三月三十一日まで、だよね。年度」
「……はい」
「それまでに、ちゃんと答える。十六年前のに」
彼女は、口を開けて、閉じて、もう一度開けた。
「……番号と、同じですね」
「番号」
「補欠の番号は、三月三十一日まで生きています。……では、その返事も、同じ期限で、生きているものとして扱いますっ」
「扱ってください」
「じゅ、受理しますっ」
受理された。
「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」
「数えるの早いよ」
「か、簡単な算数ですっ」
算数の答えを言う声が、少しだけ、潤んでいた。
潤んだ声のまま、彼女は咳払いを一つして、様式に戻った。
手帳が、すっと出て、何かが書かれた。
「何て書いたの」
「き、記録の閲覧には、け、権限が必要ですっ」
「権限、どうやったら取れるの」
「……ね、年度内に、分かりますっ」
書いている手が、少しだけ震えているのが見えたが、指摘はしなかった。
指摘できるほど、俺の心臓も、平常運転ではなかった。
どく、どく、と速い音が、さっきから胸の中で続いている。
締切を、自分で切った。
切った瞬間から、この件は、俺の中で「いつか」ではなく「案件」になった。
案件には、必ず期限が来る。
来ることが、怖くて、少しだけ、ほっとしていた。
「り、利子の話ですが」
彼女が、手帳から顔を上げた。
「チョコの?」
「申請の、です。十六年ぶんの」
「利子つくんだ、あれ」
「つきますっ。複利ですっ」
「十六年の複利は怖いな」
「怖がってくださいっ」
「ちなみに、元本は」
「げ、元本っ……」
彼女の顔が、一段赤くなった。
「こ、告白一件、ですっ。げ、元本の確認までさせないでくださいっ!」
させてしまった。
反省はしているが、確認できた元本は、俺の中で、今日いちばん重い数字になった。
怖がることにした。
怖がりながら、生チョコを一粒、食べた。
「……うまい」
「二回の失敗の上に、立っていますので」
「失敗も含めて、ごちそうさま」
「っ……ど、どういたしまして、です」
どういたしまして、が少し崩れた。
崩れた様式を、俺は聞かなかったことにしなかった。
しっかり、聞いた。
「あと、ホワイトデーの様式は」
「一か月後に、私が検品しますっ」
「お返しに検品が入るんだ」
「入りますっ。基準は、当日までに作りますっ」
「参考までに、減点項目は」
「教えませんっ。事前に教えたら、検品の意味がなくなりますっ」
「厳しいな、抜き打ちか」
「一か月、準備期間がありますっ。抜き打ちではありませんっ」
「基準書、また増えるね」
「この島は、基準書で回っていますのでっ」
回っているのは基準書ではなく、たぶん、別のものだと思う。
思ったが、それこそ、年度内の案件である。
十七時十五分、二人で島の電気を消した。
正門までの道で、彼女が言った。
「箱は、常温で。本日中に召し上がらない分は、冷蔵庫へ」
「取説が来た」
「様式ですので」
「メールでも来る?」
「……送っておきますっ」
「件名は」
「『生チョコの保存について(重要)』ですっ」
「重要までつくんだ」
「重要ですのでっ」
来るらしい。しかも重要付きで。
人類二人目の、チョコの取説メール受信者である。一人目も俺だが。
「今日、出てきてよかった」
「し、資材のため、ですかっ」
「資材のため」
「……」
「三割くらいは」
「……のこりの七割は、き、聞かないでおいてあげますっ」
比率の様式が、彼女の側から運用された。
運用の手つきが、堂に入っていた。
正門で別れて、俺は箱を、鞄ではなく、コートの内ポケットに入れた。
緑の端数の、隣である。
狭い内ポケットが、今日は、少し混んでいた。
混んでいる理由を、帰りの電車で考えないようにして、ずっと考えていた。
アパートに帰って、もう一粒食べた。
やっぱり、うまかった。
スマートフォンが鳴った。
小鞠からである。
『八冊目の感想は』
『今夜送る』
『チョコ食べながらでいいから』
『……なんで分かるんだ』
『作家だから』
作家の観察眼は、画面越しにも届くらしい。
続けて、もう一件鳴った。
佳樹である。
『お兄様、本日の戦果は』
『非公開だ』
『チョコの匂いのする非公開ですね』
『なんで分かるんだ』
『妹ですので』
妹ですので、が、今年も通ってしまった。
通知を閉じて、俺はカレンダーを見た。
三月三十一日まで、あと四十五日。
十六年、動かなかった案件に、初めて、期限がついた夜だった。
期限のある案件を、俺は仕事で、落としたことがない。
仕事では、だ。
仕事では、というただし書きを、今回は、外すと決めた。
決めた夜の生チョコは、二粒目のほうが、少しだけ甘かった。
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## ~32敗目・裏~ 督促、送達
(同時期/馬剃視点)
発明は、二月十二日の深夜に生まれた。
布団の中で、私は三日間、同じ問題を解けずにいた。
二月十四日に、渡すか、渡さないか。
渡すなら、区分をどう申告するか。
義理と言えば、安全である。
安全だが、虚偽の申告である。様式違反である。私の帳簿が、それを許さない。
本命と言えば、正確である。
正確だが、それは実質、二度目の告白である。
十六年前の橋の上を、もう一度やる勇気が、私にあるか。
……ない、とは言いたくないが、あの日の心拍数を再現して生き延びられる保証も、ない。
三日目の深夜、天井を見ていたら、ふいに、答えが降ってきた。
二度目の告白は、しなくていい。
一度目が、まだ、生きているのだから。
取り下げていない。時効にもしていない。
あの申請は、十六年間、ずっと有効なままである。
有効なものは、告白し直す必要がない。
存在を、確認すればいい。
債権の存在確認。すなわち――督促である。
「……督促」
声に出したら、ストン、と胸に収まった。
「督促です。督促なら、できますっ」
深夜の部屋に、自分の宣言が響いた。
響いてから、隣の部屋に聞こえていないかを三秒心配して、布団の上に、一人で正座した。
「告白は、二度しません。一度目が、有効ですので」
正座のまま、誰もいない部屋に規程を読み上げた。
読み上げるほどの発明だった。
告白の勇気を要求せず、嘘の申告もせず、それでいて、債権の存在だけを正式に机に置ける。
我ながら、行政経験の正しい私的流用である。
流用ついでに、翌日の帰りに、製菓の教本を一冊買った。
テンパリングは、二回失敗した。
一回目は温度計を疑い、二回目で自分を疑い、三回目で教本に従った。
最初から従えばいいのに、疑ってからでないと従えないのが、私という人間である。
「……なぜ、分離するんですかっ」
二十二時四十分、ボウルの中身に抗議した。
チョコレートは、抗議を受理しなかった。
受理しない相手との交渉は、文科省でも経験がある。条件を変えて、再提案するのみである。
二十三時の台所で、チョコレートを混ぜながら、十二月の毛糸の夜を思い出した。
一日六段の夜と、テンパリング三回の夜は、たぶん、同じ棚に並ぶ夜である。
型は、使った。
大きさが揃っていることは、私にとっての誠意だからである。
粒の数は、九にした。
理由は、帳簿に書かない。
書かないが、四月からの月の数と一致するのは、偶然ではない。
二月十四日、朝。
駅からの道で、赤い袋の人を数えた。
平日比、体感三割増。
数えたのは、統計のためではない。
数えているあいだは、鞄の中の紙袋のことを考えなくて済むからである。
毛玉と同じ、浮き輪だった。
島に着いて、紙袋を鞄の横に置いた。
置いてから、午前中に、彼の視線が三回、袋に来たのを検知した。
三回目のとき、私は袋の向きを直した。
直した理由は、自分でも分からない。
見てほしいのと、見ないでほしいのが、同時に成立していた。
両立しない要望の処理方法を、私はまだ、キレる以外に開発できていない。
昼の自爆についても、記録する。
「そういえば、世間は、その、行事のようですが」
あれは、午後の本番のための、予行のつもりだった。
話題に一度触れておけば、夕方の導入が滑らかになる、という計画だった。
「らしいね」
計画は、二文字で終了した。
終了した会話の残骸を前に、私は弁当を平常の一・四倍速で食べた。
速く食べても、時間は速く進まないことを、午後の時計が教えてくれた。
途中、給湯室で一人になったとき、口から出た。
「……受けの角度が浅い、じゃありませんっ。投げの角度が浅かったんですっ」
自分の投球への抗議である。
抗議しても、午後の予定は変わらなかった。
時計を見た回数、五回。
時計の点検係が、時計に急かされていた。
渡す時刻は、三案あった。
朝一。昼休み。定時二十五分前。
朝一は、渡したあとの八時間が長すぎる。
昼休みは、午後の業務に支障が出る。私に。
定時二十五分前なら、渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。
「温水さん。お渡しするものが、あります」
「……うん」
「お渡しする前に、申告があります」
「聞きます」
「五百六十円です」
金額を先に言う鎧は、十二月と同じ運用である。
鎧の在庫が一種類しかないのは、装備品として課題だが、実績はある。
撤退線を確保して、私は十六時五十分に、立ち上がったのだった。
立ち上がって、一度、座った。
膝が、勝手に椅子に戻ったのである。
膝に発言権はない。
「……行きますっ」
声には出さずに、口の中だけで言った。
言ってから、口の中の宣言に効力があるのかを疑ったが、あった。
二回目の立ち上がりで、私は膝を却下して、彼の机の前に立った。
立った五歩ぶんのあいだ、心臓は、どく、どく、どく、と三歩ぶん余計に打った。
「……ぎ、義理ですっ」
聞かれた瞬間、口が、安全策を選んだ。
選んだ〇・五秒後に、胸の中で警報が鳴った。
虚偽申告、と警報は言った。
この箱は、義理ではない。
義理と申告して受け取られたら、この箱は、義理として保管されてしまう。
十六年の督促状が、義理の棚に入る。
それだけは、駄目だった。
駄目なので、深呼吸をした。
いつもより長い深呼吸の中で、心拍を四つ数えて、深夜の発明を、机に置いた。
「督促状です」
「督促状」
「じゅ、十六年前の申請の、です」
「申請」
「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」
全部言わされかけたのは、私の説明の順序が悪かったからだが、それを認める余裕は、あの瞬間にはなかった。
言えた。
言えた瞬間、心臓が、どっどっどっ、と走り出した。
走り出した心臓の向こうで、彼が言った。
「……覚えてるよ。橋の上の。全部」
全部。
その二文字で、目の防波堤に、ひびが入った。
全部、覚えている。
告白の文言も、差し出した手も、いつか好きになってもらえたら、も。
十六年、私だけの記憶かもしれないと思っていた橋の上が、二人の記憶として、いま追認された。
胸の奥が、かっと熱くなって、熱の置き場に困った。
困った熱を抱えたまま、覚えていて十六年返事をしないでいた人が、ごめん、と言うのを聞いた。
ごめん、は、少しだけ痛かった。
痛かったが、痛みの種類は、悪いものではなかった。
放置された傷が、初めて消毒された痛みである。
急かしていません、と答えた声が震えたのは、様式の限界である。
様式は、心拍百三十を超えると、精度が落ちるのである。
様式ミスの自白は、予定になかった。
なかったのに、口が勝手に白状した。
いつか、に期限を切らなかったこと。
十六年前の私は、期限を切らない優しさのつもりだった。
期限を切らない優しさは、十六年たつと、期限を切らなかった弱さに名前が変わる。
変わった名前ごと、白状した。
白状した先で、彼が言ったのである。
「じゃあ、期限、今つけよう」
「……年度内に、返事する」
時間が、止まった。
十六年、動かなかった案件に、期限がついた。
つけたのは、彼である。
自分から、である。
年度内、という四文字を、私は三回、頭の中で再生した。
三回とも、同じ場所で胸が跳ねた。
自分から、この人が、期限を切った。
十六年、切られなかった期限である。
切ってほしいと、言ったことは一度もない。
言わずに待つのが、督促を送る側の作法だと思っていたからである。
作法の外から、期限が来た。
心臓が、跳ねて、跳ねたまま戻らなくなって、私の口は、算数に逃げた。
「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」
「数えるの早いよ」
「か、簡単な算数ですっ」
十六年と、四十五日。
一秒で計算できてしまう自分の頭を、このときだけは、恨んだ。
算数の答えを言う声が潤んだのは、記録上、暖房の乾燥のせいとする。
帳簿には、そう書く。
書くが、本当の理由は、書かなくても、私が知っている。
手帳には、こう書いた。
『二月十四日。督促、送達。期限、設定さる。三月三十一日。』
書いてから、その下に、もう一行。
『※どんな返事でも、受理する。』
受理する。
どんな返事でも。
それが、督促を送った側の、誠実というものである。
書き終えて、少しだけ迷って、さらに一行、書きかけた。
『※でも』
三文字で、手を止めて、消した。
消した跡は、頁に残った。
十二月三十一日の『※いつまで』の隣に、消した跡が、二つ並んだ。
跡が並んでいくのが、この冬の私の手帳である。
帰り道、正門で彼が言った。
「今日、出てきてよかった」
資材のため、と確認したのは、保険である。
三割くらいは、と彼は言った。
「し、資材のため、ですかっ」
「資材のため」
「……」
「三割くらいは」
残りの七割を聞かないでおいてあげたのは、優しさではない。
聞いたら、私の顔面の温度管理が、正門前で破綻するからである。
七割の中身の推定候補は、帰りの電車で三つ立てた。
三つとも、帳簿に載せられない候補だった。
家に帰って、失敗作を二粒、食べた。
テンパリング一回目と、二回目の子たちである。
成功作より、少しだけ甘かった。
緊張の糖分係数だと思う。
「……言えました」
台所で、誰にともなく、声に出した。
報告する相手は、いない。
いないので、もう一度言った。
「言えましたので!」
二回言って、事実の輪郭を濃くした。
濃くなった事実を胸に、鏡の前に立った。
鏡の中の私は、まだ少し、顔が赤かった。
「……に、二時間たっていますが」
温度管理の報告を求めたが、鏡は答えなかった。
答えない鏡の前を離れて、カレンダーの前に立った。
三月三十一日。
印は、つけなかった。
つけなくても、忘れる種類の日付ではない。
番号たちの期限と、私の申請の期限が、同じ日に立っている。
どちらも、電話が鳴るのを待つ側の日付である。
待つのは、得意になった。十六年で。
得意になったが、今回は、あまり得意の出番がないことを願っている。
次回の督促は、不要になる予定である。
予定、という欄に願望を書いたのは、私の帳簿では、これが初めてである。