大学職員の僕たち   作:房吉

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~32敗目~ 二月十四日の督促状

(二月十四日/温水視点/31敗目の二月十三日と十七日の間)

 

 二月十四日、土曜日、朝八時四十五分。

 

 駅からの道は、赤い袋を提げた人が、平日より多かった。

 

 世間はバレンタインである。

 

 俺は意識していない。

 

 意識していない、と駅から大学までのあいだに三回思った時点で、たぶん、していた。

 

 今日は、休日出勤である。

 

 合格発表が昨日で、補欠通知書の発送準備が来週。あいだの土曜に、資材の確認と繰上げ台本の素案を進めておく。そういう、地味で正しい理由の出勤だった。

 

 島には、俺と馬剃さんの二人だけである。

 

「おはようございます。七時五十分から居ります」

 

「早いよ。土曜だよ」

 

「土曜でも、資材は待ってくれませんので」

 

「駅、赤い袋の人が多かったね」

 

「統計を取りましたか」

 

「取ってないけど」

 

「私は取りました。体感で、平日比三割増です」

 

「取ったんだ」

 

「目に入ったものは、数えてしまう性分ですのでっ」

 

 数えたのは、たぶん、性分だけのせいではない。

 

 ないと思うが、追及は、お互いのためにやめておいた。

 

 待つと思う。資材だし。

 

 思ったが、言わなかった。

 

 言わなかった理由の一つは、彼女の鞄の横に、見慣れない紙袋が置いてあったからである。

 

 白い、小さめの紙袋。

 

 持ち手は、きれいに揃えて折ってある。

 

 見なかったことにして、俺は封筒の在庫を数え始めた。

 

 数えながら、視線が三回、紙袋に行った。

 

 三回目のとき、彼女が紙袋の向きを、さりげなく直した。

 

 持ち手をこちらに向けた、ようにも見えたし、隠した、ようにも見えた。

 

 どちらにしても、午前中ずっと、紙袋はそこにいた。

 

 いる、というのが正しい気がする存在感だった。

 

 

 

 

 午前の業務は、静かに進んだ。

 

「封筒、二百八十。うち予備、二十」

 

「予備、多くない?」

 

「折り損じの実績値ですっ」

 

「誰の」

 

「……月曜に来る方の、です」

 

 不在の大貫が、実績値でディスられていた。

 

 宛名ラベル三百、予備の通知書用紙、確認済み。

 

「台本の素案ですが、冒頭の名乗りで三案あります」

 

「三案」

 

「丁寧、簡潔、中間です」

 

「丁寧はどのくらい丁寧なの」

 

「『お忙しいところ恐れ入ります。突然のお電話にて大変恐縮ではございますが』から始まります」

 

「切られるよ、それ」

 

「簡潔案は『大学です。繰上げです』」

 

「怖いよ」

 

「ですので、中間です」

 

「中間で」

 

「私も中間だと思っていました」

 

 中間で一致した。

 

 一致したのに、彼女は三案とも、読み上げた。

 

「採用された案以外も、聞いてほしいんです。比較して選んだと、記録に残したいので」

 

「記録に残すんだ、それも」

 

「残しますっ」

 

 残すらしい。

 

 昼は、それぞれの席で弁当を食べた。

 

 途中、彼女が箸を止めて、言った。

 

「そういえば、世間は、その、行事のようですが」

 

「らしいね」

 

「……」

 

「……」

 

「か、会話が終了しましたっ!」

 

「振ったの、そっちだよ」

 

「振りましたけど、う、受けの角度が浅いんですっ!」

 

「どう受ければよかったの」

 

「じ、自分で考えてくださいっ」

 

 自分で振って、自分でキレて、自分で打ち切った。

 

 打ち切ったあとの弁当を、彼女はいつもより速く食べた。

 

 食べながら、二回、壁の時計を見た。

 

 午後は、三回見た。

 

 時計の点検をする人が、時計に急かされている。

 

 めずらしい光景を、俺は封筒を数えるふりで、数えていた。

 

 

 

 

 十六時五十分、資材の確認が終わった。

 

 定時の二十五分前である。

 

 あとから思えば、あれは計画された時刻だった。

 

 渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。撤退線つきの申告時刻である。

 

 終わって、島に、区切りの空気が流れた。

 

 彼女が、立ち上がった。

 

 立ち上がって、座った。

 

 もう一回、立ち上がった。

 

 二回目の立ち上がりで、椅子を入れて、紙袋を持って、俺の机の前に来た。

 

 姿勢が、朝礼のときのそれだった。

 

「温水さん。お渡しするものが、あります」

 

「……うん」

 

「お渡しする前に、申告があります」

 

「聞きます」

 

「五百六十円です」

 

「材料費」

 

「材料費です」

 

 紙袋の中には、小さな箱が入っていた。

 

 箱の中には、生チョコが九粒。

 

 大きさが、九粒とも、そろっていた。

 

「作ったの? これ」

 

「教本を一冊、買いました」

 

「またそろえたね、大きさ」

 

「型を使いましたので。……テンパリングは、二回失敗しています」

 

「失敗の報告までしなくていいよ」

 

「正確な申告が原則ですっ」

 

 原則らしい。

 

 九粒の生チョコの後ろに、二回分の失敗作が存在する。

 

 存在するが、目の前には、成功だけが並んでいる。

 

 誰かの十二月の、毛糸と同じ構造だった。

 

「……ありがとう。もらうよ。それで、あの」

 

 聞くべきか、三秒迷った。

 

 迷ったが、世間が世間なので、区分の確認は避けて通れなかった。

 

「これは、その、どういう区分?」

 

「区分」

 

「今日、二月十四日だし」

 

「……ぎ、義理ですっ」

 

 

 

 

 〇・五秒、間があった。

 

 

 

 

「今、間があったよね」

 

「ありませんっ!」

 

「あった。〇・五秒」

 

「計測しないでくださいっ!」

 

 計測は、お互い様である。

 

 彼女は、口を一度結んで、それから、深呼吸をした。

 

 深呼吸の長さが、いつもより長かった。

 

「……訂正します」

 

「うん」

 

「区分は、義理ではありません」

 

 彼女は、まっすぐ俺を見た。

 

 目の縁が、少し赤かった。

 

「督促状です」

 

「……督促状」

 

「じゅ、十六年前の申請の、です」

 

「申請」

 

「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」

 

「ごめん。確認しただけ」

 

「か、確認は、……い、いえ、確認は、正しいです。手続きなので」

 

 キレかけて、様式に救われて、着地した。

 

 

 

 

 島の空気が、止まった。

 

 

 

 

 十六年前の申請。

 

 向山大池の、橋の上。

 

 告白と、返事に詰まった俺と、彼女が差し出した手。

 

 まずは、友達から始めませんか。

 

 あの日から、審査は、止まったままだった。

 

 止めたのは、逃げた俺である。

 

「……覚えてるよ。橋の上の。全部」

 

「…………」

 

「返事を、しないまま消えて、しないまま十六年たって、しないまま同僚になって。……ごめん」

 

「い、急かしては、いませんっ」

 

 彼女の声が、少しだけ震えて、すぐ様式に戻った。

 

「督促は、催促ではなく、様式ですっ。債権の存在を、定期的に確認する手続きです」

 

「存在確認」

 

「はい。……存在、していますので。あの申請は、まだ」

 

 彼女は、一度目を伏せて、続けた。

 

「じゅ、十六年前、『いつか好きになってもらえたら』と、言いました。……『いつか』に期限を切らなかったのは、わ、私の様式ミスですっ」

 

「ミスじゃないよ」

 

「ミスですっ! 期限のない債権は、じ、時効の危険がありますっ」

 

「……時効には、しない」

 

「っ」

 

「じゃあ、期限、今つけよう」

 

 存在している。

 

 十六年、取り下げられていない。

 

 その事実を、彼女はチョコの箱一つで、正式に文書化してみせた。

 

 督促状という様式は、たぶん、発明である。

 

 同じ告白をもう一度やり直す勇気を、誰にも要求しない。

 

 債権の存在だけを、そっと机に置く。

 

 置かれた側の俺は、逃げた側のくせに、その発明に救われていた。

 

 救われながら、上着のポケットに、指が触れた。

 

 定期入れの、いちばん奥。

 

 十六年前の書類が、こっちにも一枚ある。

 

 あの紙を机に置く日を、俺はまだ、決めていない。

 

 決めていないが、期限のほうは、いま決まったところである。

 

 俺は、箱を机に置いて、姿勢を正した。

 

 正してから、言った。

 

「……年度内に、返事する」

 

 

 

 

 彼女が、止まった。

 

 

 

 

「ね、年度内」

 

「三月三十一日まで、だよね。年度」

 

「……はい」

 

「それまでに、ちゃんと答える。十六年前のに」

 

 彼女は、口を開けて、閉じて、もう一度開けた。

 

「……番号と、同じですね」

 

「番号」

 

「補欠の番号は、三月三十一日まで生きています。……では、その返事も、同じ期限で、生きているものとして扱いますっ」

 

「扱ってください」

 

「じゅ、受理しますっ」

 

 受理された。

 

「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」

 

「数えるの早いよ」

 

「か、簡単な算数ですっ」

 

 算数の答えを言う声が、少しだけ、潤んでいた。

 

 潤んだ声のまま、彼女は咳払いを一つして、様式に戻った。

 

 手帳が、すっと出て、何かが書かれた。

 

「何て書いたの」

 

「き、記録の閲覧には、け、権限が必要ですっ」

 

「権限、どうやったら取れるの」

 

「……ね、年度内に、分かりますっ」

 

 書いている手が、少しだけ震えているのが見えたが、指摘はしなかった。

 

 指摘できるほど、俺の心臓も、平常運転ではなかった。

 

 どく、どく、と速い音が、さっきから胸の中で続いている。

 

 締切を、自分で切った。

 

 切った瞬間から、この件は、俺の中で「いつか」ではなく「案件」になった。

 

 案件には、必ず期限が来る。

 

 来ることが、怖くて、少しだけ、ほっとしていた。

 

 

 

 

「り、利子の話ですが」

 

 彼女が、手帳から顔を上げた。

 

「チョコの?」

 

「申請の、です。十六年ぶんの」

 

「利子つくんだ、あれ」

 

「つきますっ。複利ですっ」

 

「十六年の複利は怖いな」

 

「怖がってくださいっ」

 

「ちなみに、元本は」

 

「げ、元本っ……」

 

 彼女の顔が、一段赤くなった。

 

「こ、告白一件、ですっ。げ、元本の確認までさせないでくださいっ!」

 

 させてしまった。

 

 反省はしているが、確認できた元本は、俺の中で、今日いちばん重い数字になった。

 

 怖がることにした。

 

 怖がりながら、生チョコを一粒、食べた。

 

「……うまい」

 

「二回の失敗の上に、立っていますので」

 

「失敗も含めて、ごちそうさま」

 

「っ……ど、どういたしまして、です」

 

 どういたしまして、が少し崩れた。

 

 崩れた様式を、俺は聞かなかったことにしなかった。

 

 しっかり、聞いた。

 

「あと、ホワイトデーの様式は」

 

「一か月後に、私が検品しますっ」

 

「お返しに検品が入るんだ」

 

「入りますっ。基準は、当日までに作りますっ」

 

「参考までに、減点項目は」

 

「教えませんっ。事前に教えたら、検品の意味がなくなりますっ」

 

「厳しいな、抜き打ちか」

 

「一か月、準備期間がありますっ。抜き打ちではありませんっ」

 

「基準書、また増えるね」

 

「この島は、基準書で回っていますのでっ」

 

 回っているのは基準書ではなく、たぶん、別のものだと思う。

 

 思ったが、それこそ、年度内の案件である。

 

 

 

 

 十七時十五分、二人で島の電気を消した。

 

 正門までの道で、彼女が言った。

 

「箱は、常温で。本日中に召し上がらない分は、冷蔵庫へ」

 

「取説が来た」

 

「様式ですので」

 

「メールでも来る?」

 

「……送っておきますっ」

 

「件名は」

 

「『生チョコの保存について(重要)』ですっ」

 

「重要までつくんだ」

 

「重要ですのでっ」

 

 来るらしい。しかも重要付きで。

 

 人類二人目の、チョコの取説メール受信者である。一人目も俺だが。

 

「今日、出てきてよかった」

 

「し、資材のため、ですかっ」

 

「資材のため」

 

「……」

 

「三割くらいは」

 

「……のこりの七割は、き、聞かないでおいてあげますっ」

 

 比率の様式が、彼女の側から運用された。

 

 運用の手つきが、堂に入っていた。

 

 正門で別れて、俺は箱を、鞄ではなく、コートの内ポケットに入れた。

 

 緑の端数の、隣である。

 

 狭い内ポケットが、今日は、少し混んでいた。

 

 混んでいる理由を、帰りの電車で考えないようにして、ずっと考えていた。

 

 

 

 

 アパートに帰って、もう一粒食べた。

 

 やっぱり、うまかった。

 

 スマートフォンが鳴った。

 

 小鞠からである。

 

『八冊目の感想は』

 

『今夜送る』

 

『チョコ食べながらでいいから』

 

『……なんで分かるんだ』

 

『作家だから』

 

 作家の観察眼は、画面越しにも届くらしい。

 

 続けて、もう一件鳴った。

 

 佳樹である。

 

『お兄様、本日の戦果は』

 

『非公開だ』

 

『チョコの匂いのする非公開ですね』

 

『なんで分かるんだ』

 

『妹ですので』

 

 妹ですので、が、今年も通ってしまった。

 

 通知を閉じて、俺はカレンダーを見た。

 

 三月三十一日まで、あと四十五日。

 

 十六年、動かなかった案件に、初めて、期限がついた夜だった。

 

 期限のある案件を、俺は仕事で、落としたことがない。

 

 仕事では、だ。

 

 仕事では、というただし書きを、今回は、外すと決めた。

 

 決めた夜の生チョコは、二粒目のほうが、少しだけ甘かった。

 

---

 

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## ~32敗目・裏~ 督促、送達

 

 (同時期/馬剃視点)

 

 発明は、二月十二日の深夜に生まれた。

 

 布団の中で、私は三日間、同じ問題を解けずにいた。

 

 二月十四日に、渡すか、渡さないか。

 

 渡すなら、区分をどう申告するか。

 

 義理と言えば、安全である。

 

 安全だが、虚偽の申告である。様式違反である。私の帳簿が、それを許さない。

 

 本命と言えば、正確である。

 

 正確だが、それは実質、二度目の告白である。

 

 十六年前の橋の上を、もう一度やる勇気が、私にあるか。

 

 ……ない、とは言いたくないが、あの日の心拍数を再現して生き延びられる保証も、ない。

 

 三日目の深夜、天井を見ていたら、ふいに、答えが降ってきた。

 

 

 

 

 二度目の告白は、しなくていい。

 

 一度目が、まだ、生きているのだから。

 

 

 

 

 取り下げていない。時効にもしていない。

 

 あの申請は、十六年間、ずっと有効なままである。

 

 有効なものは、告白し直す必要がない。

 

 存在を、確認すればいい。

 

 債権の存在確認。すなわち――督促である。

 

「……督促」

 

 声に出したら、ストン、と胸に収まった。

 

「督促です。督促なら、できますっ」

 

 深夜の部屋に、自分の宣言が響いた。

 

 響いてから、隣の部屋に聞こえていないかを三秒心配して、布団の上に、一人で正座した。

 

「告白は、二度しません。一度目が、有効ですので」

 

 正座のまま、誰もいない部屋に規程を読み上げた。

 

 読み上げるほどの発明だった。

 

 告白の勇気を要求せず、嘘の申告もせず、それでいて、債権の存在だけを正式に机に置ける。

 

 我ながら、行政経験の正しい私的流用である。

 

 流用ついでに、翌日の帰りに、製菓の教本を一冊買った。

 

 

 

 

 テンパリングは、二回失敗した。

 

 一回目は温度計を疑い、二回目で自分を疑い、三回目で教本に従った。

 

 最初から従えばいいのに、疑ってからでないと従えないのが、私という人間である。

 

「……なぜ、分離するんですかっ」

 

 二十二時四十分、ボウルの中身に抗議した。

 

 チョコレートは、抗議を受理しなかった。

 

 受理しない相手との交渉は、文科省でも経験がある。条件を変えて、再提案するのみである。

 

 二十三時の台所で、チョコレートを混ぜながら、十二月の毛糸の夜を思い出した。

 

 一日六段の夜と、テンパリング三回の夜は、たぶん、同じ棚に並ぶ夜である。

 

 型は、使った。

 

 大きさが揃っていることは、私にとっての誠意だからである。

 

 粒の数は、九にした。

 

 理由は、帳簿に書かない。

 

 書かないが、四月からの月の数と一致するのは、偶然ではない。

 

 

 

 

 二月十四日、朝。

 

 駅からの道で、赤い袋の人を数えた。

 

 平日比、体感三割増。

 

 数えたのは、統計のためではない。

 

 数えているあいだは、鞄の中の紙袋のことを考えなくて済むからである。

 

 毛玉と同じ、浮き輪だった。

 

 島に着いて、紙袋を鞄の横に置いた。

 

 置いてから、午前中に、彼の視線が三回、袋に来たのを検知した。

 

 三回目のとき、私は袋の向きを直した。

 

 直した理由は、自分でも分からない。

 

 見てほしいのと、見ないでほしいのが、同時に成立していた。

 

 両立しない要望の処理方法を、私はまだ、キレる以外に開発できていない。

 

 

 

 

 昼の自爆についても、記録する。

 

「そういえば、世間は、その、行事のようですが」

 

 あれは、午後の本番のための、予行のつもりだった。

 

 話題に一度触れておけば、夕方の導入が滑らかになる、という計画だった。

 

「らしいね」

 

 計画は、二文字で終了した。

 

 終了した会話の残骸を前に、私は弁当を平常の一・四倍速で食べた。

 

 速く食べても、時間は速く進まないことを、午後の時計が教えてくれた。

 

 途中、給湯室で一人になったとき、口から出た。

 

「……受けの角度が浅い、じゃありませんっ。投げの角度が浅かったんですっ」

 

 自分の投球への抗議である。

 

 抗議しても、午後の予定は変わらなかった。

 

 時計を見た回数、五回。

 

 時計の点検係が、時計に急かされていた。

 

 

 

 

 渡す時刻は、三案あった。

 

 朝一。昼休み。定時二十五分前。

 

 朝一は、渡したあとの八時間が長すぎる。

 

 昼休みは、午後の業務に支障が出る。私に。

 

 定時二十五分前なら、渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。

 

「温水さん。お渡しするものが、あります」

 

「……うん」

 

「お渡しする前に、申告があります」

 

「聞きます」

 

「五百六十円です」

 

 金額を先に言う鎧は、十二月と同じ運用である。

 

 鎧の在庫が一種類しかないのは、装備品として課題だが、実績はある。

 

 撤退線を確保して、私は十六時五十分に、立ち上がったのだった。

 

 立ち上がって、一度、座った。

 

 膝が、勝手に椅子に戻ったのである。

 

 膝に発言権はない。

 

「……行きますっ」

 

 声には出さずに、口の中だけで言った。

 

 言ってから、口の中の宣言に効力があるのかを疑ったが、あった。

 

 二回目の立ち上がりで、私は膝を却下して、彼の机の前に立った。

 

 立った五歩ぶんのあいだ、心臓は、どく、どく、どく、と三歩ぶん余計に打った。

 

 

 

 

「……ぎ、義理ですっ」

 

 聞かれた瞬間、口が、安全策を選んだ。

 

 選んだ〇・五秒後に、胸の中で警報が鳴った。

 

 虚偽申告、と警報は言った。

 

 この箱は、義理ではない。

 

 義理と申告して受け取られたら、この箱は、義理として保管されてしまう。

 

 十六年の督促状が、義理の棚に入る。

 

 それだけは、駄目だった。

 

 駄目なので、深呼吸をした。

 

 いつもより長い深呼吸の中で、心拍を四つ数えて、深夜の発明を、机に置いた。

 

「督促状です」

 

「督促状」

 

「じゅ、十六年前の申請の、です」

 

「申請」

 

「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」

 

 全部言わされかけたのは、私の説明の順序が悪かったからだが、それを認める余裕は、あの瞬間にはなかった。

 

 言えた。

 

 言えた瞬間、心臓が、どっどっどっ、と走り出した。

 

 走り出した心臓の向こうで、彼が言った。

 

「……覚えてるよ。橋の上の。全部」

 

 

 

 

 全部。

 

 

 

 

 その二文字で、目の防波堤に、ひびが入った。

 

 全部、覚えている。

 

 告白の文言も、差し出した手も、いつか好きになってもらえたら、も。

 

 十六年、私だけの記憶かもしれないと思っていた橋の上が、二人の記憶として、いま追認された。

 

 胸の奥が、かっと熱くなって、熱の置き場に困った。

 

 困った熱を抱えたまま、覚えていて十六年返事をしないでいた人が、ごめん、と言うのを聞いた。

 

 ごめん、は、少しだけ痛かった。

 

 痛かったが、痛みの種類は、悪いものではなかった。

 

 放置された傷が、初めて消毒された痛みである。

 

 急かしていません、と答えた声が震えたのは、様式の限界である。

 

 様式は、心拍百三十を超えると、精度が落ちるのである。

 

 

 

 

 様式ミスの自白は、予定になかった。

 

 なかったのに、口が勝手に白状した。

 

 いつか、に期限を切らなかったこと。

 

 十六年前の私は、期限を切らない優しさのつもりだった。

 

 期限を切らない優しさは、十六年たつと、期限を切らなかった弱さに名前が変わる。

 

 変わった名前ごと、白状した。

 

 白状した先で、彼が言ったのである。

 

「じゃあ、期限、今つけよう」

 

「……年度内に、返事する」

 

 

 

 

 時間が、止まった。

 

 

 

 

 十六年、動かなかった案件に、期限がついた。

 

 つけたのは、彼である。

 

 自分から、である。

 

 年度内、という四文字を、私は三回、頭の中で再生した。

 

 三回とも、同じ場所で胸が跳ねた。

 

 自分から、この人が、期限を切った。

 

 十六年、切られなかった期限である。

 

 切ってほしいと、言ったことは一度もない。

 

 言わずに待つのが、督促を送る側の作法だと思っていたからである。

 

 作法の外から、期限が来た。

 

 心臓が、跳ねて、跳ねたまま戻らなくなって、私の口は、算数に逃げた。

 

「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」

 

「数えるの早いよ」

 

「か、簡単な算数ですっ」

 

 十六年と、四十五日。

 

 一秒で計算できてしまう自分の頭を、このときだけは、恨んだ。

 

 算数の答えを言う声が潤んだのは、記録上、暖房の乾燥のせいとする。

 

 帳簿には、そう書く。

 

 書くが、本当の理由は、書かなくても、私が知っている。

 

 

 

 

 手帳には、こう書いた。

 

 『二月十四日。督促、送達。期限、設定さる。三月三十一日。』

 

 書いてから、その下に、もう一行。

 

 『※どんな返事でも、受理する。』

 

 受理する。

 

 どんな返事でも。

 

 それが、督促を送った側の、誠実というものである。

 

 書き終えて、少しだけ迷って、さらに一行、書きかけた。

 

 『※でも』

 

 三文字で、手を止めて、消した。

 

 消した跡は、頁に残った。

 

 十二月三十一日の『※いつまで』の隣に、消した跡が、二つ並んだ。

 

 跡が並んでいくのが、この冬の私の手帳である。

 

 

 

 

 帰り道、正門で彼が言った。

 

「今日、出てきてよかった」

 

 資材のため、と確認したのは、保険である。

 

 三割くらいは、と彼は言った。

 

「し、資材のため、ですかっ」

 

「資材のため」

 

「……」

 

「三割くらいは」

 

 残りの七割を聞かないでおいてあげたのは、優しさではない。

 

 聞いたら、私の顔面の温度管理が、正門前で破綻するからである。

 

 七割の中身の推定候補は、帰りの電車で三つ立てた。

 

 三つとも、帳簿に載せられない候補だった。

 

 

 

 

 家に帰って、失敗作を二粒、食べた。

 

 テンパリング一回目と、二回目の子たちである。

 

 成功作より、少しだけ甘かった。

 

 緊張の糖分係数だと思う。

 

「……言えました」

 

 台所で、誰にともなく、声に出した。

 

 報告する相手は、いない。

 

 いないので、もう一度言った。

 

「言えましたので!」

 

 二回言って、事実の輪郭を濃くした。

 

 濃くなった事実を胸に、鏡の前に立った。

 

 鏡の中の私は、まだ少し、顔が赤かった。

 

「……に、二時間たっていますが」

 

 温度管理の報告を求めたが、鏡は答えなかった。

 

 答えない鏡の前を離れて、カレンダーの前に立った。

 

 三月三十一日。

 

 印は、つけなかった。

 

 つけなくても、忘れる種類の日付ではない。

 

 番号たちの期限と、私の申請の期限が、同じ日に立っている。

 

 どちらも、電話が鳴るのを待つ側の日付である。

 

 待つのは、得意になった。十六年で。

 

 得意になったが、今回は、あまり得意の出番がないことを願っている。

 

 次回の督促は、不要になる予定である。

 

 予定、という欄に願望を書いたのは、私の帳簿では、これが初めてである。

 

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