(同時期/馬剃視点)
発明は、二月十二日の深夜に生まれた。
布団の中で、私は三日間、同じ問題を解けずにいた。
二月十四日に、渡すか、渡さないか。
渡すなら、区分をどう申告するか。
義理と言えば、安全である。
安全だが、虚偽の申告である。様式違反である。私の帳簿が、それを許さない。
本命と言えば、正確である。
正確だが、それは実質、二度目の告白である。
十六年前の橋の上を、もう一度やる勇気が、私にあるか。
……ない、とは言いたくないが、あの日の心拍数を再現して生き延びられる保証も、ない。
三日目の深夜、天井を見ていたら、ふいに、答えが降ってきた。
二度目の告白は、しなくていい。
一度目が、まだ、生きているのだから。
取り下げていない。時効にもしていない。
あの申請は、十六年間、ずっと有効なままである。
有効なものは、告白し直す必要がない。
存在を、確認すればいい。
債権の存在確認。すなわち――督促である。
「……督促」
声に出したら、ストン、と胸に収まった。
「督促です。督促なら、できますっ」
深夜の部屋に、自分の宣言が響いた。
響いてから、隣の部屋に聞こえていないかを三秒心配して、布団の上に、一人で正座した。
「告白は、二度しません。一度目が、有効ですので」
正座のまま、誰もいない部屋に規程を読み上げた。
読み上げるほどの発明だった。
告白の勇気を要求せず、嘘の申告もせず、それでいて、債権の存在だけを正式に机に置ける。
我ながら、行政経験の正しい私的流用である。
流用ついでに、翌日の帰りに、製菓の教本を一冊買った。
テンパリングは、二回失敗した。
一回目は温度計を疑い、二回目で自分を疑い、三回目で教本に従った。
最初から従えばいいのに、疑ってからでないと従えないのが、私という人間である。
「……なぜ、分離するんですかっ」
二十二時四十分、ボウルの中身に抗議した。
チョコレートは、抗議を受理しなかった。
受理しない相手との交渉は、文科省でも経験がある。条件を変えて、再提案するのみである。
二十三時の台所で、チョコレートを混ぜながら、十二月の毛糸の夜を思い出した。
一日六段の夜と、テンパリング三回の夜は、たぶん、同じ棚に並ぶ夜である。
型は、使った。
大きさが揃っていることは、私にとっての誠意だからである。
粒の数は、九にした。
理由は、帳簿に書かない。
書かないが、四月からの月の数と一致するのは、偶然ではない。
二月十四日、朝。
駅からの道で、赤い袋の人を数えた。
平日比、体感三割増。
数えたのは、統計のためではない。
数えているあいだは、鞄の中の紙袋のことを考えなくて済むからである。
毛玉と同じ、浮き輪だった。
島に着いて、紙袋を鞄の横に置いた。
置いてから、午前中に、彼の視線が三回、袋に来たのを検知した。
三回目のとき、私は袋の向きを直した。
直した理由は、自分でも分からない。
見てほしいのと、見ないでほしいのが、同時に成立していた。
両立しない要望の処理方法を、私はまだ、キレる以外に開発できていない。
昼の自爆についても、記録する。
「そういえば、世間は、その、行事のようですが」
あれは、午後の本番のための、予行のつもりだった。
話題に一度触れておけば、夕方の導入が滑らかになる、という計画だった。
「らしいね」
計画は、二文字で終了した。
終了した会話の残骸を前に、私は弁当を平常の一・四倍速で食べた。
速く食べても、時間は速く進まないことを、午後の時計が教えてくれた。
途中、給湯室で一人になったとき、口から出た。
「……受けの角度が浅い、じゃありませんっ。投げの角度が浅かったんですっ」
自分の投球への抗議である。
抗議しても、午後の予定は変わらなかった。
時計を見た回数、五回。
時計の点検係が、時計に急かされていた。
渡す時刻は、三案あった。
朝一。昼休み。定時二十五分前。
朝一は、渡したあとの八時間が長すぎる。
昼休みは、午後の業務に支障が出る。私に。
定時二十五分前なら、渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。
「温水さん。お渡しするものが、あります」
「……うん」
「お渡しする前に、申告があります」
「聞きます」
「五百六十円です」
金額を先に言う鎧は、十二月と同じ運用である。
鎧の在庫が一種類しかないのは、装備品として課題だが、実績はある。
撤退線を確保して、私は十六時五十分に、立ち上がったのだった。
立ち上がって、一度、座った。
膝が、勝手に椅子に戻ったのである。
膝に発言権はない。
「……行きますっ」
声には出さずに、口の中だけで言った。
言ってから、口の中の宣言に効力があるのかを疑ったが、あった。
二回目の立ち上がりで、私は膝を却下して、彼の机の前に立った。
立った五歩ぶんのあいだ、心臓は、どく、どく、どく、と三歩ぶん余計に打った。
「……ぎ、義理ですっ」
聞かれた瞬間、口が、安全策を選んだ。
選んだ〇・五秒後に、胸の中で警報が鳴った。
虚偽申告、と警報は言った。
この箱は、義理ではない。
義理と申告して受け取られたら、この箱は、義理として保管されてしまう。
十六年の督促状が、義理の棚に入る。
それだけは、駄目だった。
駄目なので、深呼吸をした。
いつもより長い深呼吸の中で、心拍を四つ数えて、深夜の発明を、机に置いた。
「督促状です」
「督促状」
「じゅ、十六年前の申請の、です」
「申請」
「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」
全部言わされかけたのは、私の説明の順序が悪かったからだが、それを認める余裕は、あの瞬間にはなかった。
言えた。
言えた瞬間、心臓が、どっどっどっ、と走り出した。
走り出した心臓の向こうで、彼が言った。
「……覚えてるよ。橋の上の。全部」
全部。
その二文字で、目の防波堤に、ひびが入った。
全部、覚えている。
告白の文言も、差し出した手も、いつか好きになってもらえたら、も。
十六年、私だけの記憶かもしれないと思っていた橋の上が、二人の記憶として、いま追認された。
胸の奥が、かっと熱くなって、熱の置き場に困った。
困った熱を抱えたまま、覚えていて十六年返事をしないでいた人が、ごめん、と言うのを聞いた。
ごめん、は、少しだけ痛かった。
痛かったが、痛みの種類は、悪いものではなかった。
放置された傷が、初めて消毒された痛みである。
急かしていません、と答えた声が震えたのは、様式の限界である。
様式は、心拍百三十を超えると、精度が落ちるのである。
様式ミスの自白は、予定になかった。
なかったのに、口が勝手に白状した。
いつか、に期限を切らなかったこと。
十六年前の私は、期限を切らない優しさのつもりだった。
期限を切らない優しさは、十六年たつと、期限を切らなかった弱さに名前が変わる。
変わった名前ごと、白状した。
白状した先で、彼が言ったのである。
「じゃあ、期限、今つけよう」
「……年度内に、返事する」
時間が、止まった。
十六年、動かなかった案件に、期限がついた。
つけたのは、彼である。
自分から、である。
年度内、という四文字を、私は三回、頭の中で再生した。
三回とも、同じ場所で胸が跳ねた。
自分から、この人が、期限を切った。
十六年、切られなかった期限である。
切ってほしいと、言ったことは一度もない。
言わずに待つのが、督促を送る側の作法だと思っていたからである。
作法の外から、期限が来た。
心臓が、跳ねて、跳ねたまま戻らなくなって、私の口は、算数に逃げた。
「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」
「数えるの早いよ」
「か、簡単な算数ですっ」
十六年と、四十五日。
一秒で計算できてしまう自分の頭を、このときだけは、恨んだ。
算数の答えを言う声が潤んだのは、記録上、暖房の乾燥のせいとする。
帳簿には、そう書く。
書くが、本当の理由は、書かなくても、私が知っている。
手帳には、こう書いた。
『二月十四日。督促、送達。期限、設定さる。三月三十一日。』
書いてから、その下に、もう一行。
『※どんな返事でも、受理する。』
受理する。
どんな返事でも。
それが、督促を送った側の、誠実というものである。
書き終えて、少しだけ迷って、さらに一行、書きかけた。
『※でも』
三文字で、手を止めて、消した。
消した跡は、頁に残った。
十二月三十一日の『※いつまで』の隣に、消した跡が、二つ並んだ。
跡が並んでいくのが、この冬の私の手帳である。
帰り道、正門で彼が言った。
「今日、出てきてよかった」
資材のため、と確認したのは、保険である。
三割くらいは、と彼は言った。
「し、資材のため、ですかっ」
「資材のため」
「……」
「三割くらいは」
残りの七割を聞かないでおいてあげたのは、優しさではない。
聞いたら、私の顔面の温度管理が、正門前で破綻するからである。
七割の中身の推定候補は、帰りの電車で三つ立てた。
三つとも、帳簿に載せられない候補だった。
家に帰って、失敗作を二粒、食べた。
テンパリング一回目と、二回目の子たちである。
成功作より、少しだけ甘かった。
緊張の糖分係数だと思う。
「……言えました」
台所で、誰にともなく、声に出した。
報告する相手は、いない。
いないので、もう一度言った。
「言えましたので!」
二回言って、事実の輪郭を濃くした。
濃くなった事実を胸に、鏡の前に立った。
鏡の中の私は、まだ少し、顔が赤かった。
「……に、二時間たっていますが」
温度管理の報告を求めたが、鏡は答えなかった。
答えない鏡の前を離れて、カレンダーの前に立った。
三月三十一日。
印は、つけなかった。
つけなくても、忘れる種類の日付ではない。
番号たちの期限と、私の申請の期限が、同じ日に立っている。
どちらも、電話が鳴るのを待つ側の日付である。
待つのは、得意になった。十六年で。
得意になったが、今回は、あまり得意の出番がないことを願っている。
次回の督促は、不要になる予定である。
予定、という欄に願望を書いたのは、私の帳簿では、これが初めてである。