大学職員の僕たち   作:房吉

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~32敗目・裏~ 督促、送達

(同時期/馬剃視点)

 

 発明は、二月十二日の深夜に生まれた。

 

 布団の中で、私は三日間、同じ問題を解けずにいた。

 

 二月十四日に、渡すか、渡さないか。

 

 渡すなら、区分をどう申告するか。

 

 義理と言えば、安全である。

 

 安全だが、虚偽の申告である。様式違反である。私の帳簿が、それを許さない。

 

 本命と言えば、正確である。

 

 正確だが、それは実質、二度目の告白である。

 

 十六年前の橋の上を、もう一度やる勇気が、私にあるか。

 

 ……ない、とは言いたくないが、あの日の心拍数を再現して生き延びられる保証も、ない。

 

 三日目の深夜、天井を見ていたら、ふいに、答えが降ってきた。

 

 

 

 

 二度目の告白は、しなくていい。

 

 一度目が、まだ、生きているのだから。

 

 

 

 

 取り下げていない。時効にもしていない。

 

 あの申請は、十六年間、ずっと有効なままである。

 

 有効なものは、告白し直す必要がない。

 

 存在を、確認すればいい。

 

 債権の存在確認。すなわち――督促である。

 

「……督促」

 

 声に出したら、ストン、と胸に収まった。

 

「督促です。督促なら、できますっ」

 

 深夜の部屋に、自分の宣言が響いた。

 

 響いてから、隣の部屋に聞こえていないかを三秒心配して、布団の上に、一人で正座した。

 

「告白は、二度しません。一度目が、有効ですので」

 

 正座のまま、誰もいない部屋に規程を読み上げた。

 

 読み上げるほどの発明だった。

 

 告白の勇気を要求せず、嘘の申告もせず、それでいて、債権の存在だけを正式に机に置ける。

 

 我ながら、行政経験の正しい私的流用である。

 

 流用ついでに、翌日の帰りに、製菓の教本を一冊買った。

 

 

 

 

 テンパリングは、二回失敗した。

 

 一回目は温度計を疑い、二回目で自分を疑い、三回目で教本に従った。

 

 最初から従えばいいのに、疑ってからでないと従えないのが、私という人間である。

 

「……なぜ、分離するんですかっ」

 

 二十二時四十分、ボウルの中身に抗議した。

 

 チョコレートは、抗議を受理しなかった。

 

 受理しない相手との交渉は、文科省でも経験がある。条件を変えて、再提案するのみである。

 

 二十三時の台所で、チョコレートを混ぜながら、十二月の毛糸の夜を思い出した。

 

 一日六段の夜と、テンパリング三回の夜は、たぶん、同じ棚に並ぶ夜である。

 

 型は、使った。

 

 大きさが揃っていることは、私にとっての誠意だからである。

 

 粒の数は、九にした。

 

 理由は、帳簿に書かない。

 

 書かないが、四月からの月の数と一致するのは、偶然ではない。

 

 

 

 

 二月十四日、朝。

 

 駅からの道で、赤い袋の人を数えた。

 

 平日比、体感三割増。

 

 数えたのは、統計のためではない。

 

 数えているあいだは、鞄の中の紙袋のことを考えなくて済むからである。

 

 毛玉と同じ、浮き輪だった。

 

 島に着いて、紙袋を鞄の横に置いた。

 

 置いてから、午前中に、彼の視線が三回、袋に来たのを検知した。

 

 三回目のとき、私は袋の向きを直した。

 

 直した理由は、自分でも分からない。

 

 見てほしいのと、見ないでほしいのが、同時に成立していた。

 

 両立しない要望の処理方法を、私はまだ、キレる以外に開発できていない。

 

 

 

 

 昼の自爆についても、記録する。

 

「そういえば、世間は、その、行事のようですが」

 

 あれは、午後の本番のための、予行のつもりだった。

 

 話題に一度触れておけば、夕方の導入が滑らかになる、という計画だった。

 

「らしいね」

 

 計画は、二文字で終了した。

 

 終了した会話の残骸を前に、私は弁当を平常の一・四倍速で食べた。

 

 速く食べても、時間は速く進まないことを、午後の時計が教えてくれた。

 

 途中、給湯室で一人になったとき、口から出た。

 

「……受けの角度が浅い、じゃありませんっ。投げの角度が浅かったんですっ」

 

 自分の投球への抗議である。

 

 抗議しても、午後の予定は変わらなかった。

 

 時計を見た回数、五回。

 

 時計の点検係が、時計に急かされていた。

 

 

 

 

 渡す時刻は、三案あった。

 

 朝一。昼休み。定時二十五分前。

 

 朝一は、渡したあとの八時間が長すぎる。

 

 昼休みは、午後の業務に支障が出る。私に。

 

 定時二十五分前なら、渡して、受け答えをして、それでも定時に撤収できる。

 

「温水さん。お渡しするものが、あります」

 

「……うん」

 

「お渡しする前に、申告があります」

 

「聞きます」

 

「五百六十円です」

 

 金額を先に言う鎧は、十二月と同じ運用である。

 

 鎧の在庫が一種類しかないのは、装備品として課題だが、実績はある。

 

 撤退線を確保して、私は十六時五十分に、立ち上がったのだった。

 

 立ち上がって、一度、座った。

 

 膝が、勝手に椅子に戻ったのである。

 

 膝に発言権はない。

 

「……行きますっ」

 

 声には出さずに、口の中だけで言った。

 

 言ってから、口の中の宣言に効力があるのかを疑ったが、あった。

 

 二回目の立ち上がりで、私は膝を却下して、彼の机の前に立った。

 

 立った五歩ぶんのあいだ、心臓は、どく、どく、どく、と三歩ぶん余計に打った。

 

 

 

 

「……ぎ、義理ですっ」

 

 聞かれた瞬間、口が、安全策を選んだ。

 

 選んだ〇・五秒後に、胸の中で警報が鳴った。

 

 虚偽申告、と警報は言った。

 

 この箱は、義理ではない。

 

 義理と申告して受け取られたら、この箱は、義理として保管されてしまう。

 

 十六年の督促状が、義理の棚に入る。

 

 それだけは、駄目だった。

 

 駄目なので、深呼吸をした。

 

 いつもより長い深呼吸の中で、心拍を四つ数えて、深夜の発明を、机に置いた。

 

「督促状です」

 

「督促状」

 

「じゅ、十六年前の申請の、です」

 

「申請」

 

「向山大池の、は、橋の上のですっ。ぜ、全部言わせないでくださいっ」

 

 全部言わされかけたのは、私の説明の順序が悪かったからだが、それを認める余裕は、あの瞬間にはなかった。

 

 言えた。

 

 言えた瞬間、心臓が、どっどっどっ、と走り出した。

 

 走り出した心臓の向こうで、彼が言った。

 

「……覚えてるよ。橋の上の。全部」

 

 

 

 

 全部。

 

 

 

 

 その二文字で、目の防波堤に、ひびが入った。

 

 全部、覚えている。

 

 告白の文言も、差し出した手も、いつか好きになってもらえたら、も。

 

 十六年、私だけの記憶かもしれないと思っていた橋の上が、二人の記憶として、いま追認された。

 

 胸の奥が、かっと熱くなって、熱の置き場に困った。

 

 困った熱を抱えたまま、覚えていて十六年返事をしないでいた人が、ごめん、と言うのを聞いた。

 

 ごめん、は、少しだけ痛かった。

 

 痛かったが、痛みの種類は、悪いものではなかった。

 

 放置された傷が、初めて消毒された痛みである。

 

 急かしていません、と答えた声が震えたのは、様式の限界である。

 

 様式は、心拍百三十を超えると、精度が落ちるのである。

 

 

 

 

 様式ミスの自白は、予定になかった。

 

 なかったのに、口が勝手に白状した。

 

 いつか、に期限を切らなかったこと。

 

 十六年前の私は、期限を切らない優しさのつもりだった。

 

 期限を切らない優しさは、十六年たつと、期限を切らなかった弱さに名前が変わる。

 

 変わった名前ごと、白状した。

 

 白状した先で、彼が言ったのである。

 

「じゃあ、期限、今つけよう」

 

「……年度内に、返事する」

 

 

 

 

 時間が、止まった。

 

 

 

 

 十六年、動かなかった案件に、期限がついた。

 

 つけたのは、彼である。

 

 自分から、である。

 

 年度内、という四文字を、私は三回、頭の中で再生した。

 

 三回とも、同じ場所で胸が跳ねた。

 

 自分から、この人が、期限を切った。

 

 十六年、切られなかった期限である。

 

 切ってほしいと、言ったことは一度もない。

 

 言わずに待つのが、督促を送る側の作法だと思っていたからである。

 

 作法の外から、期限が来た。

 

 心臓が、跳ねて、跳ねたまま戻らなくなって、私の口は、算数に逃げた。

 

「……じゅ、十六年と、四十五日、ですね」

 

「数えるの早いよ」

 

「か、簡単な算数ですっ」

 

 十六年と、四十五日。

 

 一秒で計算できてしまう自分の頭を、このときだけは、恨んだ。

 

 算数の答えを言う声が潤んだのは、記録上、暖房の乾燥のせいとする。

 

 帳簿には、そう書く。

 

 書くが、本当の理由は、書かなくても、私が知っている。

 

 

 

 

 手帳には、こう書いた。

 

 『二月十四日。督促、送達。期限、設定さる。三月三十一日。』

 

 書いてから、その下に、もう一行。

 

 『※どんな返事でも、受理する。』

 

 受理する。

 

 どんな返事でも。

 

 それが、督促を送った側の、誠実というものである。

 

 書き終えて、少しだけ迷って、さらに一行、書きかけた。

 

 『※でも』

 

 三文字で、手を止めて、消した。

 

 消した跡は、頁に残った。

 

 十二月三十一日の『※いつまで』の隣に、消した跡が、二つ並んだ。

 

 跡が並んでいくのが、この冬の私の手帳である。

 

 

 

 

 帰り道、正門で彼が言った。

 

「今日、出てきてよかった」

 

 資材のため、と確認したのは、保険である。

 

 三割くらいは、と彼は言った。

 

「し、資材のため、ですかっ」

 

「資材のため」

 

「……」

 

「三割くらいは」

 

 残りの七割を聞かないでおいてあげたのは、優しさではない。

 

 聞いたら、私の顔面の温度管理が、正門前で破綻するからである。

 

 七割の中身の推定候補は、帰りの電車で三つ立てた。

 

 三つとも、帳簿に載せられない候補だった。

 

 

 

 

 家に帰って、失敗作を二粒、食べた。

 

 テンパリング一回目と、二回目の子たちである。

 

 成功作より、少しだけ甘かった。

 

 緊張の糖分係数だと思う。

 

「……言えました」

 

 台所で、誰にともなく、声に出した。

 

 報告する相手は、いない。

 

 いないので、もう一度言った。

 

「言えましたので!」

 

 二回言って、事実の輪郭を濃くした。

 

 濃くなった事実を胸に、鏡の前に立った。

 

 鏡の中の私は、まだ少し、顔が赤かった。

 

「……に、二時間たっていますが」

 

 温度管理の報告を求めたが、鏡は答えなかった。

 

 答えない鏡の前を離れて、カレンダーの前に立った。

 

 三月三十一日。

 

 印は、つけなかった。

 

 つけなくても、忘れる種類の日付ではない。

 

 番号たちの期限と、私の申請の期限が、同じ日に立っている。

 

 どちらも、電話が鳴るのを待つ側の日付である。

 

 待つのは、得意になった。十六年で。

 

 得意になったが、今回は、あまり得意の出番がないことを願っている。

 

 次回の督促は、不要になる予定である。

 

 予定、という欄に願望を書いたのは、私の帳簿では、これが初めてである。

 

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