大学職員の僕たち   作:房吉

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~33敗目~ 贈与等の受領に関する届出

(二月三日〜二十一日/馬剃視点)

 

 二月三日、火曜日、十時四十分。

 

 入試広報課の島に、段ボールが一つ届いた。

 

 伝票の品名欄に、こうあった。

 

 

 

 

 『日本酒 一・八リットル瓶 二本』

 

 

 

 

 差出人は、月之木酒造。

 

 宛名は、私だった。

 

「馬剃さん、それ酒っすよ」

 

「存じております」

 

「けっこう重そうですね」

 

「一升瓶は一・八リットルです。瓶を含めますと、約三・二キログラム。二本で六・四キログラムです」

 

「詳しいな」

 

「昨夜、調べました」

 

「昨夜」

 

「……いえ」

 

 大貫君が、ゆっくりこちらを見た。

 

「馬剃さん、届くの知ってたんですか」

 

「存じません」

 

「じゃあ、なんで昨夜」

 

「一般教養ですっ」

 

 

 

 

 嘘である。

 

 

 

 

 十月十一日に、あの方は「秋あがりはもっと丸くなる。今度送ったげる」と言った。

 

 私は「お気持ちだけで」と申し上げた。

 

 申し上げてから、四か月、毎週水曜日に配送状況を確認していた。

 

 確認する対象が存在しないのに、確認していた。

 

 これを、業務用語では「無」という。

 

「馬剃さん」

 

 温水主任が、こちらを見ていた。

 

「はい」

 

「顔、赤いですけど」

 

「暖房ですっ」

 

「二十二度に設定してますよ」

 

「二十二度は、人によっては高温ですっ」

 

 

 

 

「――受領できません」

 

 

 

 

 私は、そう申し上げた。

 

 温水主任が、書類から顔を上げた。

 

「なんでですか」

 

「利害関係者からの贈与に該当する可能性があります」

 

「しないです」

 

「国家公務員倫理規程第三条第一項第一号。利害関係者から金銭、物品又は不動産の贈与を受けること」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「うち、私立なんで」

 

「存じております」

 

「じゃあ」

 

「存じておりますが、身体が拒否しますっ」

 

「身体は規程じゃないんだよなあ」

 

「私の身体は、規程でできておりますっ」

 

 

 

 

 ……我ながら、意味が分からない。

 

 

 

 

 だが、これは本当である。

 

 十年、私は贈答品の前で一度も手を出さなかった。

 

 中元も、歳暮も、出張先の菓子折りも、全部、庶務に回した。

 

 回すのが正しかったし、正しかったから、いまも身体が動かない。

 

「では、本学の内規を確認します」

 

「あります?」

 

「あります。事務職員服務規程の別表第四です」

 

「見たことないな」

 

「本学の職員が、見たことがないんですか」

 

「うん」

 

「……十二年目の主任が、ですか」

 

「そう」

 

「……信じられませんっ」

 

 私は、共有フォルダを開いた。

 

 開いて、七分で見つけた。

 

 別表第四には、こうあった。

 

 

 

 

 『業務に関連しない私的な贈答については、この限りでない』

 

 

 

 

 私は、その一行を三回読んだ。

 

 

 

 

 除外規定というのは、逃げ道である。

 

 役所で十年、私はこの手の一行を何百本も読んだ。

 読んで、そのたびに「これは私には使えない」と判断してきた。

 

 使えると判断した人は、たいてい、あとで困る。

 

 だから私は、いつも本則のほうを選んだ。

 

 選んで、何も受け取らずに十年やって、そのあと辞めた。

 

 

 

 

 三回読んで、画面を閉じた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「該当しました?」

 

「……除外規定に、該当いたします」

 

「じゃあ、もらっていいやつだ」

 

「はい」

 

「よかったですね」

 

「よくありませんっ」

 

 温水主任が、ペンを置いた。

 

「なんでですか」

 

「私的、と自分で認定することが、できませんっ」

 

 

 

 

 言ってしまってから、私は口を閉じた。

 

 

 

 

 私的である。

 

 私的でなければ、なんなのか。

 

 あの方は、業務で送ってこない。

 

 私に送ってきた。四か月前の、一言のためだけに。

 

 それを「私的な贈答」と書類に書けば、話は終わる。

 

 終わらせたくない。

 

 ……そういう、身勝手な話である。

 

「じゃあ、どうするんですか」

 

「返礼に伺います」

 

「伺うんだ」

 

「伺います。直接、お礼を申し上げます」

 

「電話でよくないですか」

 

「よくありませんっ」

 

 

 

 

 二月四日、水曜日。

 

 私は、返礼品の比較表を作った。

 

 候補は十四点。評価項目は七つ。

 

 価格、日持ち、重量、地域性、季節性、包装、そして先方の嗜好である。

 

 最後の一項目が、埋まらなかった。

 

「馬剃さん」

 

 大貫君が、私の画面を覗きこんでいた。

 

「はい」

 

「それ、なんですか」

 

「返礼品の比較表です」

 

「エクセルで作ってる人、初めて見ました」

 

「加重平均です」

 

「重みづけまでしてる」

 

「日持ちの係数を、〇・八にしております」

 

「なんで〇・八」

 

「先方は、二月が繁忙期です。すぐに召し上がれない可能性があります」

 

「そこまで考えます、普通」

 

「考えますっ」

 

 

 

 

 三日たった。

 

 

 

 

 二月七日の時点で、比較表の行は二十二になっていた。

 

 増えていた。

 

 減らすために作った表が、増えている。

 

 私は、この現象に名前をつけようとして、やめた。

 

「馬剃さん」

 

 温水主任が、後ろから言った。

 

「はい」

 

「まだ決まらないんですか」

 

「検討中です」

 

「四日目ですよ」

 

「精査中です」

 

「じゃあ、一個だけ」

 

「はい」

 

 温水主任は、自分の席に戻りながら言った。

 

「先輩、甘いもの好きですよ」

 

 

 

 

 私の手が、キーボードの上で止まった。

 

 

 

 

「……いま、なんとおっしゃいましたか」

 

「甘いもの。十六年前、部室でよく食べてた」

 

「なぜ」

 

「なぜ?」

 

「なぜ、それを先におっしゃらないんですかっ!」

 

 声が、島に響いた。

 

 桑原主査が、給湯室の入口で足を止めた。

 

「聞かれてないんで」

 

「聞いておりますっ! 私は四日間、七項目の評価軸で十四点を比較しておりましたっ! 嗜好の欄だけが空白だったんですっ! その空白を埋められる人間が、三メートル以内に座っていたんですっ!」

 

「三メートル」

 

「三メートルですっ!」

 

「馬剃さん、いま息継ぎしました?」

 

「鼻でしておりますっ」

 

 

 

 

 ……鼻で、しております。

 

 

 

 

 十月に、私は同じことを言った。

 

 同じ人に対してではないが、同じ言葉である。

 

 私の語彙は、追いつめられると、循環するらしい。

 

「あと、辛党じゃないです。あの人」

 

「酒蔵の方ですが」

 

「作るのと飲むのは別なんだよなあ」

 

「……存じませんでした」

 

「うん」

 

「なぜご存じなんですか」

 

「十六年前、部室で。ようかん一本、三日で食べてた」

 

「一本」

 

「一本」

 

 私は、比較表を閉じた。

 

 閉じて、新しいシートを開いて、菓子だけで七点、並べ直した。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「増えてますよ」

 

「精査ですっ」

 

 

 

 

 結局、私が選んだのは、豊橋の老舗の最中だった。

 

 理由は三つある。

 

 一、日持ちが二十一日ある。

 

 二、個包装で、蔵の方々に配れる。

 

 三、これは、書類に書かない理由だが。

 

 

 

 

 ――私が、いちばん好きだから。

 

 

 

 

 二月十七日、火曜日。

 

 私は、返礼品の手配を終えて、先方に連絡を入れた。

 

 返信は、四十秒で来た。

 

 

 

 

 『二十一日おいでよ。仕込み中だから蔵見せたげる』

 

 

 

 

 私は、その一文を、三回読んだ。

 

 三回読んで、手帳を出して、二月二十一日の欄に丸を書いた。

 

 書いてから、丸が大きすぎたので、小さいのを横に書き足した。

 

 大きいほうは、消せなかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「二十一日、俺も行きます」

 

 

 

 

 ――は。

 

 

 

 

 私は、手帳を落としそうになった。

 

 落とさなかったのは、両手で持っていたからである。

 

「……なぜ、いらっしゃるんですか」

 

「先輩に、用があるんで」

 

「どのような」

 

「言わないです」

 

「……不公平です」

 

「不公平ですね」

 

「認めるんですかっ」

 

「認めます」

 

 

 

 

 この人は、認める。

 

 認めるだけで、何も明かさない。

 

 四月からずっとそうである。

 

 

 

 

 二月二十一日、土曜日。

 

 名古屋で乗り換えて、名鉄で三十分と少し。

 

 窓の外が、だんだん平たくなっていく。

 

 三河である。

 

 私の実家からは、電車で四十分ほどの距離だった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「実家、寄ります?」

 

「寄りません」

 

「即答だ」

 

「即答です」

 

 温水さんは、それ以上、聞かなかった。

 

 聞かないでいてくれる人である。

 

 ……いつか、寄る。

 

 いつか、が、いつなのかは、まだ決めていない。

 

「温水さんは」

 

「うん」

 

「本日、会計課の締めが」

 

「金曜に終わらせた」

 

「……昨夜、二十三時までいらっしゃいましたね」

 

「なんで知ってるんですか」

 

「共有カレンダーです」

 

「見ないでください」

 

「見ますっ」

 

 

 

 

 蔵は、駅から歩いて十二分だった。

 

 白い壁と、黒い板塀。

 

 屋根の上に、太い煙突が一本立っている。

 

 門のところに、杉玉が吊るしてあった。

 

 まだ青い。

 

 

 

 

 ――新酒である。

 

 

 

 

 私は、その色を、しばらく見上げていた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「あれ、なにか分かるんですか」

 

「杉玉です。新酒ができると吊るします。青いうちは、できたばかりです」

 

「よく知ってるな」

 

「昨夜、調べました」

 

「何時間」

 

「……二時間ですっ」

 

「寝てないんじゃないですか」

 

「寝ましたっ。四時間はっ」

 

「それ、寝たって言わないんだよなあ」

 

 

 

 

 九月にも、同じやり取りをした。

 

 同じやり取りができることが、私は、少し嬉しい。

 

 嬉しいと思ったことは、申し上げなかった。

 

 

 

 

「あ、来た来た」

 

 母屋の引き戸が開いて、あの方が出てきた。

 

 紺の作業着に、白い長靴。

 

 髪は、後ろで一つにまとめて、上から手ぬぐいを巻いている。

 

 十月の、瓶ビールを傾けていた人と、同じ人には見えなかった。

 

「ご無沙汰しております」

 

「四か月ぶりね」

 

「はい」

 

「十六年空けなかったじゃん」

 

「……空けておりません」

 

「えらい」

 

「えらくありません」

 

 私は、紙袋を差しだした。

 

「つまらないものですが」

 

「つまらないもの持ってきたの?」

 

「……つまらなくは、ありませんっ」

 

「じゃあ最初からそう言いなさいよ」

 

「日本語の慣習ですっ」

 

 あの方が、げらげら笑った。

 

 中身を見て、笑うのをやめた。

 

「……最中じゃん」

 

「はい」

 

「豊橋の」

 

「はい」

 

「あんた、なんで知ってんの」

 

 私は、半歩下がった。

 

 下がって、隣を指した。

 

「その方が、四日目に教えてくださいました」

 

「四日目」

 

「四日間、私は嗜好の欄を空白にしておりました」

 

「なにそれ」

 

「比較表ですっ」

 

「これ、休憩に出すね」

 

「はい」

 

「何個入り?」

 

「二十個です」

 

「蔵人、六人だけど」

 

「……多かったでしょうか」

 

「ちょうどいい。あいつら三個ずつ食べるから」

 

「三個」

 

「肉体労働だからね」

 

 

 

 

「そうだ、志喜屋さんから連絡来た?」

 

 

 

 

「……いえ」

 

「あの人、いまシンガポールよ」

 

「シンガポール」

 

「化粧品の、なんか偉いやつ。よく分かんない」

 

「……お元気ですか」

 

「元気。年賀状に『生きて……いる……』って書いてくる」

 

「……変わっておられませんね」

 

「変わってない」

 

「あの、月之木先輩」

 

「なに」

 

「あの方の連絡先を、私は」

 

「教えたげる」

 

「……よろしいのですか」

 

「なんで許可取るのよ」

 

「…………」

 

「馬剃ちゃん、そういうとこよ」

 

 

 

 

 母屋の脇から、もう一人出てきた。

 

 背が高い。

 

 紺の作業着の上に、灰色の上っ張りを羽織っている。

 

「玉木先輩、いらしてたんですね」

 

「二月だけな」

 

「休みを取って、蔵に入られると伺いました」

 

「入る」

 

 玉木先輩は、それだけ言って、私のほうを見た。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「よく来たな」

 

「……はい」

 

「古都が、二週間前から言ってた」

 

「なんと」

 

「『来るかな』って」

 

 

 

 

 私は、返事ができなかった。

 

 

 

 

「三回、言ってた」

 

「……三回」

 

「三回だ」

 

「慎太郎っ!」

 

 母屋のほうから、声が飛んできた。

 

「言ってないから!」

 

「言ってた」

 

「言ってないって!」

 

 玉木先輩は、否定しなかった。

 

 否定せずに、洗い場のほうへ歩いていった。

 

 この方は、大事なところで、言葉を増やさない。

 

 増やさないので、逃げ場がない。

 

 蔵に入る前に、私は手を三回洗った。

 

「馬剃ちゃん、手ぇ洗って」

 

「洗いました」

 

「もう一回」

 

「洗いました」

 

「もう一回」

 

「三回目ですっ」

 

「三回洗うの」

 

 あの方は、当然のように言った。

 

「蔵はね、菌の世界なの。うちの菌以外は、全部敵」

 

 私は、手を止めた。

 

「……全部、ですか」

 

「全部。よそから来た菌が一つ入ると、一本だめになる」

 

「一本」

 

「タンク一本。二千リットル」

 

 

 

 

 私は、四回目を洗った。

 

 

 

 

「長靴、これ履いて」

 

「サイズは」

 

「そのへんの、適当に」

 

「……サイズが、規定されていないのですか」

 

「ないよ」

 

「…………」

 

「二十三、そこにある」

 

「なぜ、私のサイズをご存じなんですか」

 

「足見れば分かる」

 

「……分かるんですね」

 

「二十年、蔵人に長靴履かせてんの」

 

 白衣を着て、帽子をかぶった。

 

「馬剃ちゃん、髪」

 

「入れました」

 

「後ろ、出てる」

 

「出ておりませんっ」

 

「出てる。一本でもだめ」

 

「一本」

 

「一本」

 

 私は、鏡の前で、四分かけた。

 

 四分で、一本も出ていない状態にした。

 

「几帳面だねえ」

 

「几帳面ですっ」

 

「そこ張り合うんだ」

 

 

 

 

 温水さんも、白衣に帽子だった。

 

 

 

 

 ……私は、その姿を、二秒だけ見た。

 

 二秒で目を逸らしたのは、正しい判断だったと思う。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「なんですか」

 

「なにも申し上げておりませんっ」

 

「見てましたよね」

 

「見ておりませんっ」

 

「二秒くらい」

 

「――計測しないでくださいっ!」

 

「馬剃さんに教わったんですけど」

 

「返却いたしますっ」

 

「返却できないんだよなあ」

 

 

 

 

 中は、暗かった。

 

 暗くて、暖かくて、甘い。

 

 十月に嗅いだ匂いと同じである。

 

 同じだが、百倍濃い。

 

 息をすると、鼻の奥に膜が張る。

 

 膜が張って、それから、なぜか、目の奥が少し痛くなった。

 

「馬剃さん、大丈夫ですか」

 

「大丈夫です」

 

「顔、赤いですけど」

 

「……蔵が、暖かいので」

 

 

 

 

 嘘ではない。

 

 

 

 

 ただ、全部でもない。

 

「こっち。麹室」

 

 厚い扉を開けた瞬間、眼鏡が、白くなった。

 

 何も見えない。

 

「あつっ」

 

「暑いですっ!」

 

「三十度あるからね」

 

「三十度……」

 

「湿度も高い。麹菌がいちばん喜ぶ温度」

 

 私は、眼鏡を外して、袖で拭いた。

 

 拭いて、かけ直して、また曇った。

 

「馬剃ちゃん、諦めて」

 

「……諦めます」

 

 

 

 

 台の上に、白いものが広げてあった。

 

 米である。

 

 米だが、表面に薄く霜のようなものがついている。

 

「触っていい」

 

「よろしいのですか」

 

「手、洗ったでしょ」

 

 私は、指を一本だけ伸ばした。

 

 温かい。

 

 思っていたより、ずっと温かかった。

 

「あったかいでしょ」

 

「……はい」

 

「菌が呼吸してんの。発熱してんのよ」

 

「生きて、いるんですね」

 

「生きてる」

 

 

 

 

 私は、そこで、手帳を出した。

 

 

 

 

「出た」

 

「出ましたね」

 

「なによ二人して」

 

「馬剃さん、そこは記録するんだ」

 

「記録しますっ」

 

 

 

 

 仕込み蔵に移った。

 

 天井が高い。

 

 背の高いタンクが、八本並んでいた。

 

「今年、米が溶けたって、十月におっしゃっていました」

 

「言ったっけ」

 

「おっしゃいました。『夏が暑すぎたの。溶けるのよ、米が』と」

 

「よく覚えてんね」

 

「記録しております」

 

「対策は企業秘密って言わなかった?」

 

「言われました」

 

 あの方は、タンクの縁に手を置いた。

 

 置いて、少し考えて、それから言った。

 

「洗いの時間、変えたのよ」

 

「洗い」

 

「米を洗う時間。秒で管理する」

 

「……秒、ですか」

 

「去年より三秒短い」

 

 

 

 

 三秒。

 

 

 

 

 私は、手帳の上で、ペンを止めた。

 

「三秒で、変わるのですか」

 

「変わる。別の酒になる」

 

「……三秒で」

 

「三秒で」

 

 私は、その三文字を、二回書いた。

 

 二回書いて、それから顔を上げた。

 

「あの、企業秘密では」

 

「あんたにはいい」

 

「なぜですか」

 

 あの方は、タンクを叩いた。

 

 ごん、と低い音がした。

 

「三秒の話が通じる人、あんまりいないから」

 

 

 

 

 私は、何も言えなかった。

 

 

 

 

 言えないまま、手帳を胸の高さで持っていた。

 

 十年、私は「そこまでやる必要がありますか」と言われつづけた。

 

 三秒を詰めるのは、私の職分ではない。

 そう言った人は、悪い人ではなかった。正しかったのだと思う。

 

 組織というのは、三秒を詰めない人でも回るようにできている。

 回るようにできているから、詰める人間は、浮く。

 

 私は、十年かけて、きれいに浮いた。

 

 いま、私は、三秒の話で蔵に入れてもらっている。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「顔」

 

「……蔵が、暖かいのですっ」

 

 

 

 

 いちばん奥に、小さいタンクがあった。

 

 他のより、ずっと低い。

 

 あの方が、蓋を持ち上げた。

 

「これ、見て」

 

 中は、白かった。

 

 どろりとしていて、動いていない。

 

「……止まっています」

 

「止まってるように見えるでしょ」

 

「はい」

 

「酛。酒母っていうの。酵母を増やしてるとこ」

 

「増えて」

 

「増えてる。いま、めちゃくちゃ増えてる」

 

 私は、身をかがめた。

 

 しばらく見ていると、白い表面の一か所が、ぷつ、と動いた。

 

 少しして、別のところが、ぷつ、と動いた。

 

「……動きました」

 

「でしょ」

 

「これは」

 

「炭酸ガス。呼吸してんの」

 

 

 

 

 ぷつ。

 

 

 

 

 ぷつ。

 

 

 

 

 私は、それを、たぶん一分近く見ていた。

 

 一分のあいだに、七回動いた。

 

 数えていた。

 

 白いものの下で、目に見えない数のなにかが、増えつづけている。

 

 増えているのに、上からは、止まって見える。

 

 止まって見えるものを、この方は毎年、二か月間、ただ見ている。

 

「馬剃ちゃん」

 

「はい」

 

「これね、この期間はなんにもしないの」

 

「なにも」

 

「温度だけ見る。あとは、待つ」

 

「……手を、加えないのですか」

 

「加えると死ぬ」

 

 あの方は、蓋を戻した。

 

「待つのが仕事なの。いちばん長くて、いちばん地味で、いちばん大事」

 

 

 

 

 ――待つのが、仕事。

 

 

 

 

 私は、その言葉を、手帳に書かなかった。

 

 書くと、業務になる。

 

 これは、業務ではなかった。

 

「馬剃ちゃん」

 

「はい」

 

「まだ読めない?」

 

 

 

 

 蔵の空気が、動かなくなった。

 

 

 

 

 私は、タンクのほうを向いたままだった。

 

 温水さんは、少し離れたところにいた。

 

 いてくださったのだと思う。

 

「……読めません」

 

「うん」

 

「申し訳ございません」

 

「なんであんたが謝るのよ」

 

「……いただいたものを、無駄にしております」

 

「無駄」

 

「はい」

 

「あたし、貸したつもりないんだけど」

 

 私は、顔を上げた。

 

「……では、なんでしょうか」

 

「置いてったの」

 

「置いて」

 

「あんたの棚に、置いてった。十六年前に」

 

 あの方は、長靴の先で、床を軽く蹴った。

 

「棚はあんたのだから、いつ開けるかはあんたが決めて。あたしは決めない」

 

「……ですが」

 

「ですがじゃないの」

 

「はい」

 

「あたしも、一年、蔵を止めたことあるのよ」

 

 

 

 

 私は、動けなくなった。

 

 

 

 

「八年前。親父が倒れて、杜氏さんも辞めて、人がいなくなった」

 

「……その一年は」

 

「掃除してた」

 

「掃除」

 

「毎日、蔵を洗ってた。仕込めないから、洗うしかなくて」

 

 あの方は、天井を見た。

 

 高いところに、太い梁が通っている。

 

「あの一年がなかったら、いまの酒はないよ」

 

「なぜですか」

 

「菌が住み直したから」

 

 

 

 

 ――住み直した。

 

 

 

 

 私は、その言葉の意味を、たぶん、二秒遅れて理解した。

 

 理解して、それから、下を向いた。

 

 下を向いたのは、目の奥がまた痛くなったからである。

 

 蔵は、暖かい。

 

 暖かいので、そういうことも、あると思う。

 

「馬剃ちゃん」

 

「……はい」

 

「読めるようになったら教えて」

 

「はい」

 

「なったら、ね」

 

「……はい」

 

 

 

 

 「なれば」でも、「なったなら」でもなかった。

 

 十月と、同じである。

 

 この方は、なると思っている。

 

 思っていることを、一秒も疑っていない。

 

 

 

 

 外に出たとき、光が白かった。

 

 十六時前である。

 

 洗い場のところに、二人立っていた。

 

 温水さんと、玉木先輩である。

 

 玉木先輩は、二月だけ休みを取って蔵に入るのだそうだ。今朝、そう伺った。

 

 二人は、並んで立っていた。

 

 温水さんが、何か言った。

 

 玉木先輩が、短く答えた。

 

 三語か、四語だったと思う。

 

 

 

 

 聞こえない。

 

 

 

 

 私は、その距離で立ち止まった。

 

 近づけば聞こえる。

 

 近づかなかった。

 

 温水さんは、それから、動かなかった。

 

 私は、数えていた。

 

 

 

 

 二十二秒である。

 

 

 

 

 二十二秒、あの人は、洗い場の水を見ていた。

 

 水は、流しっぱなしになっていた。

 

 あの人は、水を止めることを、いつも忘れない人である。

 四月から、一度も忘れたことがない。

 

 その人が、二十二秒、止めなかった。

 

 四月から、私はこの人の沈黙を三十件以上記録している。

 

 最長は、八月九日の四秒だった。

 

 更新された。

 

 更新されたことを、私は、たぶん一生忘れない。

 

 

 

 

 帰りの名鉄で、温水さんは座ってすぐに言った。

 

「五分だけ寝ます」

 

「どうぞ」

 

「五分で起こしてください」

 

「承知しました」

 

 

 

 

 四十一分、寝ていた。

 

 

 

 

 起こさなかった。

 

 起こす理由が、なかったからである。

 

 いや、あった。

 

 本人が、そう頼んだ。

 

 頼まれたことを実行しないのは、私の職業倫理に反する。

 

 反するのだが。

 

 

 

 

 ――手を出すと、死ぬ。

 

 

 

 

 私は、そう思った。

 

 思って、窓の外を見た。

 

 三河の平地に、日が落ちていくところだった。

 

 四十一分のあいだ、私は、何もしなかった。

 

 スマホも見ず、手帳も出さず、ただ座っていた。

 

 こんなに何もしなかったのは、たぶん、十年ぶりである。

 

「……馬剃さん」

 

「はい」

 

「いま、何分」

 

「五分です」

 

「嘘だろ」

 

「……四十一分です」

 

「数えてたのか」

 

「記録は取ります」

 

「そこは記録するんだよなあ」

 

「記録しますっ」

 

 

 

 

 あの人は、そこで少し笑って、それから窓の外を見た。

 

 見て、二駅ぶん、何も言わなかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日、ありがとうございました」

 

「……お礼を申し上げるのは、私です」

 

「いや、俺のほうです」

 

「なぜですか」

 

「言わないです」

 

「――また、それですかっ」

 

 

 

 

 二十一時過ぎ、私は部屋に帰った。

 

 九月七日に片付いた部屋である。

 

 床が、全部見える。

 

 カーテンは、十月に買い替えた。

 

 色は、うすい桃色である。

 

 報告は、まだしていない。

 

 

 

 

 棚の下に、段ボールが五つ、積んである。

 

 全部、開いていない。

 

 いちばん上の伝票の日付は、一年半以上前だった。

 

 私は、台所からカッターを持ってきた。

 

 持ってきて、床に座って、一つ目のテープに刃を当てた。

 

 

 

 

 当てたまま、四十秒、動かなかった。

 

 

 

 

 ……手を出すと、死ぬ。

 

 

 

 

 ――違う。

 

 

 

 

 あれは、酛の話である。

 

 私は、酛ではない。

 

 私は、一年半、温度だけ見ていた。

 

 温度は、もう、じゅうぶんに上がっている。

 

 

 

 

 すう、と刃が滑った。

 

 

 

 

 テープが切れた音は、思っていたより小さかった。

 

 ぺり、という音である。

 

 私は、蓋を開けた。

 

 中を、見なかった。

 

 見ずに、手を入れて、いちばん上の一冊だけを取りだした。

 

 表紙も、見なかった。

 

 立ち上がって、棚の空いているところに、それを立てた。

 

 背表紙を、外に向けて。

 

 

 

 

 一冊である。

 

 

 

 

 残りの四つの箱は、閉じたままにした。

 

 開けるのは、私が決める。

 

 棚は、私のものだそうだ。

 

 

 

 

 スマホを取って、私は、短い文を送った。

 

 

 

 

 『開けました』

 

 

 

 

 返信は、十四秒で来た。

 

 

 

 

 『はい』

 

 

 

 

 それだけだった。

 

 それだけで、じゅうぶんだった。

 

 私は、スマホを置きかけて、もう一件、通知が来ていることに気づいた。

 

 

 

 

 『先輩、なんて?』

 

 

 

 

 温水さんである。

 

 私は、返信を三回書き直した。

 

 三回目に、こう打った。

 

 『また読めるようになったら教えて、と言われました』

 

 既読が、すぐについた。

 

 

 

 

 『そっか』

 

 

 

 

 『……教える相手、増やしといたら』

 

 

 

 

 私は、その一文を、五分見ていた。

 

 五分見て、返信をせずに、手帳を開いた。

 

 開いて、二月二十一日の欄に、一行だけ書いた。

 

 

 

 

 『箱を、一つ開けた』

 

 

 

 

 書いてから、その下に、一行ぶんの空白を残した。

 

 空白には、いつか書く。

 

 

 

 

 私は、顔を上げて、カーテンを見た。

 

 うすい桃色である。

 

 十六年前、私の部屋のカーテンも、この色だった。

 

 十月に選んだとき、私は理由を考えなかった。

 

 考えなかったことにして、選んだ。

 

 ……報告できない理由は、色ではない。

 

 色を選んだ理由のほうである。

 

 

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