大学職員の僕たち   作:房吉

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~1敗目・裏~ 十六年ぶりの、はじめまして

 三月三十一日の夜、私は鏡の前で「本日よりお世話になります」と七回言った。

 

 六回目までは、語尾がわずかに上がった。

 七回目でようやく、まっすぐ着地した。

 

 我ながら、大の大人が何をしているのかと思う。

 

 だが、私にはこれが必要だった。

 一年半前、私は人前で声を出すことが少し苦手になった。いまはもう九割方治っている。残りの一割が、こういう夜に出る。

 

 鏡の中の私は、疲れた顔をしていた。

 目の下のくまは、ファンデーションで隠せる範囲におさまっている。よし。

 

 明日から、私は大学職員になる。

 

 三十四歳、中途採用。

 文科省を辞めて一年半、転職活動を九か月。二十三社受けて、内定は一つだった。

 

 その一つが、明日から働く大学である。

 

 私は歯を磨いて、床の上のわずかな空きスペースに布団を敷いて、横になった。

 目を閉じても、しばらく眠れなかった。

 

 ――大丈夫。

 

 私は自分に言った。

 

 明日は、ただの初日だ。

 知っている人は、一人もいない。

 

 

 

 

 四月一日、午前九時二十分。

 

 辞令交付は本部棟の五階で、事務局長から一枚の紙を渡されて終わった。

 所要時間、四分。

 

「では、配属先にご案内します」

 

 入試広報部長という方が、そう言った。

 柏木さんという、赤ら顔の、声の大きな方だった。

 

 階段を降りながら、部長は上機嫌に喋りつづけていた。

 

「いやあ、うちみたいな中堅私大に、文科省の方が来てくださるとはねえ」

 

「恐れ入ります」

 

「入試広報課はね、いま六人です。課長が一人、主査が一人、主任が一人、あとは若手が」

 

 私は、その情報を頭の中に並べていた。

 六人。全員の名前と役職を、三日で覚えると決めていた。

 

 決めてから、三日は長いと思い直した。今夜中に覚える。

 ……我ながら、こういうところだと思う。

 

「ああ、それでね、馬剃さん」

 

「はい」

 

「うちの課の主任がね、教え方がうまいんですよ。だから今日からOJTをその子にお願いしてあって」

 

「ありがとうございます」

 

「ちゃらんぽらんだけどね、仕事はできる男なんで」

 

 ――ちゃらんぽらん。

 

 妙な人事評価だと思った。

 

 それが、この大学における最上級の褒め言葉であることを、私はこのあと知ることになる。

 

 

 

 

「こちら、入試広報課です」

 

 部長が、扉を開けた。

 

 

 

 

 私が最初に見たのは、窓だった。

 

 次に、机が六つ。モニタ。ホワイトボード。壁に貼られた大きな年間予定表。

 

 人の顔は、意識して最後に見るようにしていた。

 いきなり顔を探すと、探していることが相手に伝わってしまう。

 

「本日付けで着任されました、馬剃天愛星さんです」

 

「馬剃と申します。本日よりお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」

 

 七回練習したやつだ。

 声は、震えなかった。

 

 顔を上げる。

 視線を、右から左へ、等速で流す。誰か一人で止まらないように。

 

 

 

 

 止まった。

 

 どくん、と心臓が跳ねた。

 

 窓際から二列目。

 立ち上がるのが半拍遅れた、少し猫背の男性。

 

 私はその人を、たぶん、〇・五秒で認識した。

 

 いや、〇・五秒もかかっていない。

 顔の輪郭が視界に入った瞬間には、もう分かっていた。

 

 ――え。

 

 ――なんで。

 

 背中の内側を、ざっと冷たいものが降りていった。

 同時に、耳の奥が、しんと鳴った。

 

 息を吸うのを、忘れた。

 

 

 

 

 二秒。

 

 その二秒で、私はいくつものことを確認した。

 

 髪が、少し短くなっている。

 背が、三センチくらい伸びている。高校のときも、私よりずいぶん高かった。

 スーツの肩に皺がある。クリーニングには出しているが、掛け方が雑だ。

 ネクタイが、左に三度ずれている。

 

 ……二秒で角度まで測るな、と自分でも思う。

 

 そして、目だけは、まったく変わっていなかった。

 

 半分こちらを見て、半分どこか別のところを見ている、あの目だ。

 人の話を聞いていないのではない。聞きすぎていて、聞いていることを悟られたくないだけの目。

 

 

 

 

 この人だ。

 

 

 

 

 私は瞬きをして、視線を先へ流した。

 

 顔の筋肉は、動かなかった。

 十年の役所勤めで身につけたもののうち、実際に役立ったものは多くない。だが「表情を止める技術」だけは、あの十年で唯一、完成した。

 

 完成していてよかった、と、生まれて初めて思った。

 

 心臓は、ばくばくしていた。

 ばくばくしていることは、たぶん、私にしか聞こえていない。

 

 

 

 

 二十三社受けた。

 

 志望動機は全部、同じことを書いた。

 大学の現場で、教育をよくする仕事がしたい。

 

 嘘ではない。一文字も嘘ではない。

 

 この大学の名前を初めて見たのは、転職サイトの一覧の中である。

 所在地と、学部構成と、募集職種を見て、応募した。

 

 温水和彦という職員がいることは、書いてなかった。

 

 ……書いてあるわけがない。

 

 私は、いま、この瞬間まで、何も知らなかった。

 

 

 

 

「馬剃さんはね、文部科学省にいらしたのよ」

 

 鷲尾課長という方が、そう言った。

 

 場が、ふわりと動いた。

 

「文科省? 本物の?」

 

「本物以外に何があるのよ」

 

「十年おられて、初等中等教育局と高等教育局のご経験があるそうよ」

 

 ――おおー、という声。

 

 その瞬間、胃のあたりが、きゅっと縮んだ。

 

 褒められると、こうなる。

 いつからこうなったのかは、覚えている。覚えているが、いま思い出すべきではない。

 

 私は微笑んだ。

 微笑む筋肉は、ちゃんと動いた。

 

「恐れ入ります。ですが、現場のことは何も存じません。一から教えていただく立場ですので」

 

 用意してあった三パターンのうちの、第二案。

 否定と謙遜を組み合わせて、話題を早く終わらせるための型である。

 

 うまくいった。

 

 うまくいったと、私は思った。

 

 

 

 

 名刺交換になった。

 

「入試広報課の温水と申します。よろしくお願いします」

 

 

 

 

 ――温水と申します。

 

 

 

 

 その一言が、耳のあたりで、じん、と響いた。

 

 十六年ぶりに聞く声だった。

 少しだけ低くなっていた。低くなっていて、それでも、同じ人の声だった。

 

 私は名刺を両手で受け取って、目の高さで確認した。

 

 入試広報課 主任 温水和彦。

 

 文字が、少しにじんで見えた。

 照明のせいだと思う。たぶん。

 

 その動作の途中で、右手が勝手に動いた。

 

 内ポケット。名刺入れ。

 

 ――ない。

 

 空を切った指先が、ぴくりと止まった。

 

「……申し訳ありません。名刺はまだ発注中でして」

 

「あ、そうですよね。初日ですもんね」

 

 私は右手を下ろした。

 

 この動作を、私は十年間、一日に何度も繰り返した。

 多いときは一日に四十枚出した。局長の三歩後ろから、順番を間違えずに。

 

 身体が、まだ覚えている。

 もう出す相手のいない名刺を、身体が探しにいく。

 

 ……こういうところが、いちばん、応える。

 

 

 

 

「さっき馬剃さんの名前、一発で読んでましたよね。なんでですか」

 

 若い男性職員が、そう言った。

 

 私は、うつむいたまま、その質問の行き先を計算した。

 

 同じ高校。同学年。名前を読める。

 この三つが並ぶと、周囲が置く仮定は、ひとつしかない。

 

「そういえばお二人、同じ高校なんですって」

 

 課長が言った。

 

 場の温度が、はっきりと変わった。

 

 ざわ、と何かが広がる感じがした。

 悪意ではない。好奇心である。好奇心のほうが、たちが悪いこともある。

 

 ――どうしよう。

 

 私は口を開こうとした。

 開いて、何を言うか決めていないことに気づいた。

 

 

 

 

「知り合い程度ですよ」

 

 

 

 

 温水さんが、言った。

 

 息が、止まった。

 

「学年が同じだっただけです。三百二十人いましたから」

 

 平坦な声だった。

 感情の起伏が、どこにもなかった。

 

 私は、自分の顔が動かないことを確認した。

 確認できた。よかった。管理はできている。

 

 管理はできているのに、指先が、すうっと冷たくなっていった。

 

 半拍。

 

「……はい。そんな感じです」

 

 私は言った。

 

 自分の声が、どこか遠くから聞こえた。

 

 

 

 

 知り合い。

 

 

 

 

 私は――友達だと思っていた。

 

 

 

 

 二年生の六月、私はこの人と一緒に、生徒会長選挙を戦った。

 この人は、震えながら、全校生徒の前で私の応援演説をした。

 

 放課後の部室で、この人は私にラノベを貸した。

 私はそれを読んで、翌日、感想を三十分喋った。「長いよ」と言われ、「要点をまとめた結果です」と返した。この人は困った顔で聞いていた。

 

 文化祭の準備で、二人で備品倉庫の鍵を探した。

 カラオケで、勉強を教わった。単語帳の角が折れていた。

 

 冬、駅前の喫茶店で、私は出されたコーヒーに砂糖を三つ入れて、一気に飲んだ。

 次に行ったとき、私の前に置かれていたのは、赤いぶどうのジュースだった。

 

 橋の上で――

 

 

 

 

 全部、友達だからできたことだと、私は思っていた。

 

 

 

 

 十六年経って、その全部が、「学年が同じだった」に圧縮された。

 

 三百二十分の一。

 

 ……そうか。

 

 私は、そう思った。

 

 友達ではなかったのだ。

 いや。友達では、なくなったのだ。

 

 十六年という時間は、人と人の距離を、そこまで戻す。

 

 私は、それを、いま知った。

 

 

 

 

 午前中の業務説明を、私はきちんと受けた。

 

 メモも取った。順序も理解した。

 仕事の話をしているあいだは、私は正常に動く。そういうふうに作り替えられている。

 

 温水さんの説明は、順序が整理されていた。

 

 全体から入って、次に例外を出す。

 例外を出すときに、必ず「なぜその例外があるのか」を言う。理由を先に置くから、記憶に残る。

 

 ――教え方が、変わっていない。

 

 高校一年の冬、この人は私に国語を教えた。

 あのときも同じだった。文法の規則を教えて、それから例外を出して、必ず「なんでこうなるかっていうと」と続けた。

 

 あれで、私の成績は上がった。

 上がった結果、私は名古屋大学に入って、法学部を出て、国家公務員試験を受けて、十年勤めて、辞めた。

 

 全部、あの冬から始まっている。

 

 ……本人は、たぶん、覚えていない。

 

 覚えていないから、「知り合い程度」なのだ。

 

 そう考えたら、喉のあたりが、ぐっと詰まった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「分からないところ、途中で止めてもらっていいですよ」

 

「ありがとうございます」

 

「……いま、分からないところあります?」

 

「いえ。大丈夫です」

 

 私は即答した。

 

 嘘である。

 分からないところは、二十七か所あった。……数えるな、という話ではあるが。

 

 全部、あとで自分で調べれば分かるものだった。

 だから、聞く必要はない。

 

 ――聞く必要は、ない。

 

 

 

 

 昼は、学食に案内された。

 

 新任を初日の昼に一人にしない、というのは、どこの職場にもある配慮だ。

 だから、これは配慮であって、それ以上のものではない。

 

 私は自分にそう説明しながら、廊下を歩いた。

 

「休憩時間は一時間ですね」

 

「そうですね」

 

「労働基準法第三十四条ですと、六時間を超え八時間以内の場合は少なくとも四十五分、八時間を超える場合は少なくとも一時間の休憩を与えなければならないとされています。就業規則を拝見しましたが、御校は――失礼、本学は一律六十分ですね」

 

 言いながら、私は自分にうんざりしていた。

 

 なぜ、条文の話をしているのか。

 もっと他に、話すことがあるだろう。十六年ぶりなのだ。

 

 だが、私の口から出てくるのは条文だけだった。

 

 これが私の防具である。

 防具を外す方法を、私は十年間で忘れた。

 

 ……いや。

 もともと、持っていなかったかもしれない。

 

「……よくご存じですね」

 

「昨日、就業規則と服務規程を通読しました」

 

「全部ですか」

 

「はい。附則まで」

 

 

 

 

 温水さんが、足を止めかけた。

 

 そして、ふっ、と息を漏らした。

 

 ――笑った。

 

 その音が耳に届いた瞬間、胸のあたりが、じわりと熱くなった。

 

 私は前を向いたまま歩いた。

 横を見なくてよかった、と思った。見ていたら、たぶん、私も笑ってしまっていた。

 

 

 

 

 券売機の前で、彼が定期入れを出した。

 

 その拍子に、白いものが滑り出た。

 

 四つに折られた、小さな紙。

 折り目が擦り切れて、端が丸くなっている。かなり古い。

 

 温水さんの手が、ばっ、と動いた。

 

 床に落ちる前に掴んで、定期入れの奥に押しこむ。

 一連の動作に、ためらいが一切なかった。何度もやっている動きだ。

 

「……なにか落ちましたか?」

 

「なんでもないです」

 

「レシートでしたら、経費精算の期限が」

 

「なんでもないんで」

 

 声が、硬かった。

 

 私は「失礼しました」と言って、視線を券売機に戻した。

 

 ――紙。

 

 胸の奥で、とん、と小さく何かが鳴った。

 

 私は、それについて考えることを、自分に禁じた。

 

 考えると、期待が生まれる。

 期待は、私がこの十六年で最も苦手にしてきたものだった。

 

 

 

 

 飲み物を選ぶとき、私は缶コーヒーの前で少しだけ迷った。

 

 迷って、黒いラベルのものを取った。

 

「あれ、コーヒー――」

 

 温水さんが言いかけて、止まった。

 

「……コーヒー、この自販機のやつ、二階のより安いんですよ」

 

 

 

 

 ――止めた。

 

 私は「そうなんですか」と答えた。

 

 答えながら、心臓が、どくん、と大きく鳴った。

 

 この人はいま、「苦手じゃなかったっけ」と言いかけて、止めた。

 

 止めた理由は、ひとつしかない。

 自分で「知り合い程度」と言ったからだ。

 

 知り合い程度の人間は、十六年前の相手の好みを知らない。

 

 ……つまり、この人は、覚えている。

 

 覚えていて、覚えていないことにした。

 

 

 

 

 缶を開けたのは、定食を食べ終えてからだった。

 

 ひと口飲んだ。

 

 まずい。

 

 十六年経っても、まずいものはまずい。

 

 

 

 

 昼休みの残り時間で、私は一階と二階の自動販売機を見比べに行った。

 

 同額だった。どちらも百三十円。

 

 ……やはり。

 

 「安い」は、嘘だ。

 嘘だとすれば、あの言葉は、言いかけた何かを隠すために、あとから足されたものだ。

 

 午後、私はそれを本人に伝えた。

 念のため、価格改定の告知も先に確認しておいた。逃げ道は、先に塞いでおくものである。

 

 案の定、「値上げしたのかもしれない」と言われた。

 塞いでおいてよかった。

 

 我ながら、何がしたいのかは分からなかった。

 分からなかったが、確かめずにはいられなかった。この人がいまも、ああいう嘘のつき方をするのかどうかを。

 

 ――していた。

 十六年前と、寸分違わず、同じつき方だった。

 

 

 

 

 定時になった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日は初日なんで、帰っていいですよ」

 

「はい」

 

 私は返事をして、Zドライブのフォルダを開いた。

 

 過去五年分の高校訪問記録。四百十二ファイル。

 

 ……帰りたくない、というのが本音だった。

 

 帰ると、部屋がある。

 あの部屋に、十九時から翌朝の七時まで、一人でいなければならない。

 

 仕事をしていれば、その時間は減る。

 

 それだけの理由だった。

 

 

 

 

 退勤の前に、私は課の全員に向かって立った。

 

「本日よりお世話になります、馬剃天愛星と申します。至らぬ点も多いかと存じますが、精一杯務めさせていただきます」

 

 背筋を伸ばす。

 顎を引く。三十度。

 

「一日、ありがとうございました」

 

 顔を上げて、それから、彼のほうを向いた。

 

「温水主任。明日から、ご指導のほど、よろしくお願いいたします」

 

 もう一度、三十度。

 

 

 

 

 頭を下げているあいだ、私は右手をぎゅっと握りしめていた。

 

 握っていないと、震えるからだ。

 

 なぜ震えるのかは、分かっている。

 

 人前で名前を呼ばれるのが、まだ、少し怖い。

 人前で誰かに向かって挨拶をするのが、まだ、少し怖い。

 

 文科省を辞めたのは一年半前で、通院をやめたのは十か月前だ。

 もう平気だと、医師にも自分にも言った。

 

 実際、九割は平気になった。

 残りの一割が、こういうときに出る。

 

 ……今日は、それだけではなかったと思う。

 

「こちらこそ、よろしく」

 

 彼の声が、上のほうから聞こえた。

 

 私は頭を上げた。

 彼も、同じくらいの角度で、頭を下げていた。

 

 

 

 

 部屋に帰りついたのは、十九時過ぎだった。

 

 玄関で靴を脱ぐとき、いつもどおり、右足の置き場所を探した。

 三十センチ四方だけ、床が見えている。そこに足を置く。

 

 照明はつけなかった。

 

 鞄を床に置いて、私はコートを着たまま、しばらく立っていた。

 

 

 

 

 ――友達だと、思っていた。

 

 

 

 

 立っていられなくなって、私はその場にしゃがんだ。

 

 床が冷たい。

 膝の裏が、ひやりとする。

 

 息を吸うと、喉の奥が、ひゅっと鳴った。

 

 泣いてはいない。

 泣くほどのことではない。

 

 私は三十四歳で、社会人で、今日は初日で、上司にも同僚にも恵まれていて、仕事は問題なくこなせた。

 何ひとつ、問題は起きていない。

 

 起きていないのに、胸の内側が、ずきずきしていた。

 

 

 

 

 三百二十分の一。

 

 私は、その数字を、頭の中で転がしていた。

 

 三百二十人のうちの一人。

 学年が同じだっただけの人。

 

 ……そうか。

 

 私は、この人にとって、そうなのか。

 

 

 

 

 十六年、私は一度も、この人に連絡を取らなかった。

 

 取れなかった、という言い方はずるいと思う。

 私は連絡先を持っていた。取ろうと思えば取れた。

 

 取らなかったのは、私だ。

 

 だから、これは、当然の結果である。

 十六年、何もしなかった人間が、十六年ぶんの距離を返されただけだ。

 

 ……分かっている。

 

 分かっているのに、指先が冷たいままだった。

 

 

 

 

 私は立ち上がって、電気をつけた。

 

 部屋を見た。

 ゴミ袋が四つ、積んである。いつからあるのかは、思い出したくない。

 

 壁際のカラーボックスだけが、きちんとしている。

 黒い革表紙の手帳が、十五冊。今年の分を入れると、明日から十六冊になる。

 

 私は鞄から今年の手帳を出して、今日の欄を開いた。

 

 業務のメモが、十四行ある。

 

 その下に、私はもう一行、書き足そうとした。

 

 ペンを持って、五秒。

 

 ……やめた。

 

 書けば残る。

 残れば、いつか自分で読み返す。

 

 私は手帳を閉じて、カラーボックスの上に置いた。

 

 

 

 

 明日から毎日、私はあの人の隣に座る。

 

 肘が当たりそうな距離で、八時間。

 考えただけで、胸のあたりが、きゅ、と縮んだ。

 

 明日も、私は「温水主任」と呼ぶ。

 あの人は「馬剃さん」と呼ぶ。

 

 それでいい。

 それが、正しい距離だ。

 

 私はそう思って、コートを脱いだ。

 

 脱いだあと、しばらく、それを腕にかけたまま突っ立っていた。

 

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