(三月十四日/温水視点)
「温水さん。本日の議題を、確認します」
三月十四日、土曜日、九時五分。
繰上げ待機の当番で出た島に、彼女の第一声が響いた。
挨拶の次が議題である。
「おはよう。……議題って何」
「基準書が、完成しました」
クリアファイルから、A4が一枚出てきた。
『ホワイトデー返礼・評価基準(案)』
「一か月前に予告した、あれか」
「予告した基準は、必ず作りますっ。それが行政の信頼ですっ」
「行政じゃないよ、ここ」
「精神の話ですっ」
精神が行政だった。
紙を受け取って、俺は項目を読んだ。
様式性、二十点。実用性、二十点。費用の妥当性、十点。申告の正確性、十点。
そして最後の一行。
その他、四十点。
「その他が四割あるんだけど」
「そ、その他は、重要ですっ」
「配点の設計として、崩壊してない?」
「配点は、設計者の裁量ですっ」
裁量の名のもとに、採点はほぼ主観だった。
主観の四十点を、俺は静かに受け止めた。
返礼を何にするかは、二日前まで決まっていなかった。
三月十二日の夜、俺は小鞠に相談した。
『白い日の返礼、何がいいと思う』
『知るか』
『作家だろ』
『それは小説の話』
一分後に、続きが来た。
『……で、相手は何を渡してきたの』
『手作りの生チョコ。材料費の申告つきで』
『重い』
『重いか』
『重い。でも、いい重さ』
いい重さ、という言い方が、作家だった。
『じゃあ、返すのは物じゃなくて、時間にしとけば』
『時間』
『これから一緒に使うやつ。……これ以上は有料』
有料の助言を、俺は無料で受け取った。
受け取って、その足で文具店に行った。
午前中は、電話が二本鳴った。
辞退が一件、繰上げが一件。
彼女が台本を持って、三回深呼吸をして、ゆっくり話した。
電話が終わるたび、島の空気が、少しずつ春に近づく。
「駅前、白い袋の人が多かったね」
「統計を取りましたか」
「取ってない」
「私は取りました。二月十四日比、四割減です」
「なんで減るんだろ」
「返礼率の問題ですっ。……せ、世間の返礼率については、ほ、本日は言及しませんっ」
言及しない、と言った人の視線が、俺の鞄に一秒だけ落ちた。
落ちて、すぐ戻った。
検品の目は、朝から稼働していたのである。
「本日の当番、俺と馬剃さんだけ?」
「大貫さんは、午前のみです。十二時で退勤です」
その大貫が、十一時五十分に、俺の机の前で立ち止まった。
「温水さん」
「なんだ」
「……鞄、いつもより膨らんでますよね」
「観察するな」
「今日、三月十四日ですけど」
「帰れ。定時だ」
「まだ十分ありますっ!」
「十分ぶん、静かにしてろ」
大貫は、両手で口を押さえるジェスチャーをして、それから、親指を立てて帰っていった。
この男の親指は、いつも何かを立てている。
十二時を過ぎて、島に二人になった。
窓の外は、三月の晴れである。
繰上げの電話は、午後は鳴らないことが多い。
鳴らない時間に、俺は鞄から、紙袋を出した。
「……そ、それは」
「一か月前の、督促に対する回答……じゃなくて、返礼です」
「回答は、別件ですねっ」
「別件です。回答の期限は、三月三十一日で変わりません」
「か、確認しましたっ」
確認の声が、少しだけ硬かった。
硬いまま、彼女は紙袋を受け取って、両手で持って、それから、動かなくなった。
「開けないの」
「か、開封の前に、こ、心の準備が」
「一か月準備してたんじゃなかった?」
「採点の準備ですっ。じゅ、受領の準備は、し、していませんっ」
準備の抜けを、俺は初めて見た。
彼女は深呼吸を二回して、包みを開けた。
中身は、手帳だった。
四月始まりの、年度版である。
表紙は、濃い赤。
文具店で三十分迷って、最後は色で決めた。
この一年、彼女の勝負の色を、俺はずいぶん見てきたからである。
見てきたことを、本人に言う予定は、今日はなかった。
「……こ、これ」
「同じ型のやつ」
「わ、私が使っているのと」
「一年、隣で見てたから」
彼女が、顔を上げた。
「よ、よく、型番まで」
「背に書いてあるからね。あと、毎年同じの使ってるでしょ。今の手帳、背が擦り切れてる」
「す、擦り切れて……」
「毎日開いてる人の手帳は、そうなる」
「か、観察されていましたっ」
「一年、隣にいたので」
彼女が、俺の口調をどこかで聞いたような顔をした。
聞いたことがあるはずである。
この一年、同じ台詞を、俺のほうがずっと言われてきたのだから。
「っ……」
彼女は、机の上の使いかけの手帳を、そっと自分のほうに引き寄せた。
擦り切れた背を、隠すみたいに。
「……よ、四月始まりを、選ばれたんですね」
「うん」
「し、四月一日から、始まる型です」
「そう」
「……」
彼女は、新しい手帳を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
表紙を、指の腹で一度撫でて、それから、そっと角を確認した。
角を確認する仕草は、この人が大事なものを受け取ったときの癖である。
十二月の毛糸のときも、一月のお守りのときも、同じことをしていた。
観察していたのは、たぶん、俺のほうが後発だが、記録の精度では負けていないつもりである。
黙って、それから、小さく言った。
「……よ、四月からも、この島で使うことを、ぜ、前提とした贈り物と、う、受け取ってもよろしいでしょうか」
俺は、少し考えて、答えた。
「そのつもりで選んだ」
「…………」
「来年度の実施計画、作るんでしょ。書くとこ、必要だと思って」
「……っ、そ、そうですねっ、け、計画には、記入欄が必要ですねっ」
計画の話に逃げた声が、完全に揺れていた。
揺れたまま、彼女は手帳を胸に抱えた。
抱えた腕に、少しだけ力が入っているのが分かった。
「あの、温水さん」
「うん」
「ひ、費用の申告は」
「しない」
「……し、しないんですか」
「うん」
彼女は、目を丸くした。
「わ、私は、いつも申告しています」
「知ってる。二千八百円と、九百八十円と、五百六十円」
「ぜ、全部記憶されているのが、こ、怖いですっ」
「記憶するよ、あれは」
金額まで覚えている理由を、俺は言わなかった。
言わなくても、この人はたぶん、分かっている。
「……で、なぜ、申告されないのですか」
「馬剃さんの申告って、あれ、防具でしょ」
「っ」
「金額を先に言えば、渡す理由の話をしないで済むから。……違う?」
彼女の口が、開いて、閉じた。
閉じてから、観念したように、小さく頷いた。
「……ち、違いません」
「だから、こっちは使わない。防具、いらないから」
「い、要らない、というのは」
「渡す理由、言えるから」
島が、静かになった。
三月の午後の光が、机の上を、ゆっくり移動していた。
「……り、理由を、伺っても」
「四月からも、隣で仕事したいから」
「…………」
「今日はそこまで。あとは、三十一日に」
「じゅ、十七日後ですっ」
「数えてるね」
「か、数えますっ! 数えないと、負けそうなのでっ」
数えると負けない人が、今日も数えていた。
しばらくして、彼女が咳払いをした。
咳払いのあとに、基準書が机に戻ってきた。
「で、では、採点を、実施しますっ」
「採点、まだやるんだ」
「予告した検品は、必ず実施しますっ」
彼女はペンを持って、項目を上から読み上げた。
「様式性。……贈答の様式として、季節性、必然性ともに適切。二十点、満点です」
「厳しめに見てよ」
「厳しく見て満点ですっ」
「甘くない?」
「あ、甘くありませんっ。基準に照らした結果ですっ」
「基準、作ったの馬剃さんだよね」
「さ、作成者と評価者が同一であることは、こ、公正性の観点から、も、問題が」
「今気づいたんだ」
「い、今気づきましたっ。……で、ですが、続行しますっ」
「実用性」
「じゅ、十九点です」
「一点引かれた」
「し、四月まで、使えない期間が、じゅ、十七日ありますのでっ」
十七日が、また出てきた。
この人は、今日、あと何回この数字を言うのだろう。
「費用の妥当性」
「……申告がありませんので、さ、査定不能ですっ。よ、よって、満点扱いとしますっ」
「査定不能が満点になる制度、大丈夫?」
「制度は、運用で救済しますっ」
救済された。
「申告の正確性」
「……ぜ、ゼロ点ですっ。申告が、ありませんのでっ」
「厳しい」
「き、規程ですのでっ」
規程は、こういうときだけ厳格だった。
「合計、七十九点。……そして」
彼女は、ペンを持ち直した。
「その他、四十点」
「四十点の内訳は」
「……ひ、非公開ですっ」
「配点の四割が非公開なの?」
「じゅ、重要な項目ほど、こ、公開できないんですっ」
「一個だけ教えて」
「い、一個だけです」
「どうぞ」
「……よ、四月始まりを、選んだことに、十点です」
「残り三十点は」
「ひ、非公開ですっ!」
非公開の三十点が、たぶん、この贈り物の本体だった。
彼女は、基準書の余白に、四十、と書いた。
書いてから、合計欄に、百十九、と書いた。
「百点満点じゃなかったの、これ」
「ま、満点を超えることが、あ、あるんですっ」
「制度が壊れてる」
「壊れましたっ。……本日をもって、こ、この基準書は、廃止しますっ」
施行から一日で廃止された基準書は、彼女の手帳に挟まれた。
新しいほうではなく、擦り切れたほうの手帳に、である。
新しい手帳には、まだ何も挟まれていない。
挟まれていない手帳が、鞄の中で、四月を待っている。
待たせるのは得意な人が、今度は、待たせる側になっていた。
十六時、繰上げの電話がもう一本鳴って、その日の業務が終わった。
帰り支度をしながら、彼女は新しい手帳を、鞄にしまった。
しまう前に、一度だけ開いて、四月一日の頁を確認していた。
「そこ、もう書くの?」
「か、書きません。……よ、四月一日から、使いますので」
「律儀だね」
「よ、四月始まりの手帳を、三月に使うのは、様式違反ですっ」
「じゃあ、三十一日までは」
「い、いまの手帳で、書きますっ」
彼女は、擦り切れた背の手帳を、指で撫でた。
「……こ、こちらには、あと十七日ぶん、書く頁があります」
「うん」
「さ、最後の一行を、書く予定が、あ、ありますので」
その予定の中身を、俺は聞かなかった。
聞かなくても、たぶん、同じものを、俺も予定している。
正門までの道で、彼女が言った。
「温水さん」
「うん」
「ホ、ホワイトデーの様式は、こ、これで終了ですか」
「終了だよ。次は三十一日」
「……で、では、一点だけ、追加の申告をしますっ」
「どうぞ」
「……う、嬉しかったです。ものすごく」
「それ、申告なんだ」
「じゅ、重要事項ですのでっ。も、漏れなく申告しますっ」
「じゃあ、こっちも申告する」
「な、なんですかっ」
「選んでるとき、けっこう楽しかった」
「っ……り、両者の申告が、い、一致しましたっ」
「一致だね」
「い、一致は……い、いいことですっ」
言い切って、彼女は歩く速度を上げた。
上げた背中を、俺は少し遅れて追いかけた。
追いかけながら、鞄の中で新しい手帳が揺れる音を、たぶん俺は、一生覚えていると思う。
三月の風は、まだ冷たかった。
冷たい風の中を、赤いマフラーが、少し先を歩いていく。
あの手帳の最初の一行が何になるかを、俺はもう、だいたい決めている。
決めているが、まだ言わない。
期限は、三月三十一日である。
あと十七日が、静かに減っていく。