大学職員の僕たち   作:房吉

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~35敗目・裏~ 番号の向こう側

(同時期/馬剃視点)

 

 繰上げの電話をかける前に、三回、深呼吸をする。

 

 一回目は、声のため。

 

 二回目は、速度のため。

 

 三回目は――番号の向こうにいる子の、この瞬間までの日々のためである。

 

 補欠番号を持って春を待つ気持ちを、私は、少しだけ知っている。

 

 番号の種類は違うが、私も十六年、待合室にいたからである。

 

 合格でも不合格でもない場所で、取り下げも諦めもしないまま、電話が鳴るのを待つ。

 

 あの椅子の座り心地を知っている人間は、受話器を、ゆっくり持つ。

 

 台本の冒頭には、『三秒』と書き込みがある。

 

 二月の練習の夜、彼の言葉を聞きながら、私が書き足した三文字である。

 

 電話のたびに、この三文字を見る。

 

 見ると、声が、正しい温度になる。

 

 規程には書いていない温度の出どころは、つまり、隣の席である。

 

 

 

 

 三月十七日、六件目の辞退の日。

 

 繰上げ順位の一覧に、あの名前を見つけた瞬間、手が、〇・五秒、止まった。

 

 雪の朝の、自転車の子。

 

 膝から血を流して、それでも受けさせてくださいと言った子である。

 

 どくん、と心臓が鳴って、それから、静かに熱くなった。

 

 番号は、探さない。

 

 探さないと決めていたのに、番号のほうから、一番上に来てくれた。

 

 三回目の深呼吸を、いつもより長くしたのは、そのせいである。

 

「――おめでとうございます」

 

 電話の向こうで、言葉になる前の音がした。

 

 音を、急かさなかった。

 

 待つことについてなら、私は、専門家である。

 

「膝の傷は、いかがですか」

 

 台本にない一文が、口から出た。

 

 出どころは、分かっている。

 

 規程にない一文を足す勇気は、『慌てずに』の人から、この冬に教わったものである。

 

『……ほ、ほんとうですか』

 

「本当です」

 

『ほんとうに、ほんとうですか』

 

「事実です」

 

 事実です、を、私はできる限り、やわらかく発音した。

 

 事実というものは、届け方で、温度が変わる。

 

 十六年待った案件の「事実」を、私はいつか、どんな温度で受け取るのだろう。

 

 そんなことを、電話の向こうの泣き声を待ちながら、考えていた。

 

 電話を切って、完了の印を捺した。

 

 捺した印の横に、指を一秒、置いた。

 

 いい番号だった、と思った。

 

 番号に良し悪しはない、と主任としては言うべきだが、この一秒だけは、私用である。

 

 島の男性陣が天井を見ているあいだ、私は下を向いていた。

 

 下を向いていたのは、印のためではない。

 

 目の防波堤の、角度の問題である。

 

 

 

 

 三月十九日、課長に呼ばれた彼が、島に戻ってきた。

 

「三月六日の、局長室」

 

 その一言で、キーボードの上の私の手が、止まった。

 

 ――ばれた。

 

 二月三日の夜のことは、誰にも言わない予定だった。

 

 単独会場の初日、彼のいない本部で、繰上げ期の体制の穴を数えながら、私はA4を三枚、書いた。

 

 一枚目と二枚目は、本当に体制の話である。

 

 三枚目の最後の一行を書くとき、指が、少しだけ震えた。

 

 『次年度も、当該職員の専任配置を要望する』

 

 役所の文章で包んだが、包みの中身は、私情である。

 

 私情を役所の文章で包む技術だけが、文科省の十三年で、いちばん上達した技術かもしれない。

 

「……七割は、体制の話ですっ」

 

「三割は」

 

 非公開です、と言うつもりだった。

 

 つもりだったのに、彼の目が、まっすぐだった。

 

 まっすぐな目に、包み紙が、負けた。

 

「……来年も、隣の席がいい、という話です」

 

 言った瞬間、耳が、かっと熱くなった。

 

 熱いまま、私は猛然とキーボードに戻った。

 

 戻った先の画面の中で、来年度の計画書だけが、私の味方だった。

 

「……い、言ってしまいましたっ」

 

 夜、帰り道で、独り言が出た。

 

 出たが、取り消しの申請は、しなかった。

 

 事実なので。

 

 

 

 

 三月二十七日、番号たちの綴じ込みの日。

 

「四月は全員に来ます」

 

 断言したのは、実績があるからである。

 

 来てほしくなかった四月も、何度かあった。

 

 告白の返事がないまま卒業した年の四月。彼が消えたと知った年の四月。文科省で枯れかけていた年の四月。

 

 それでも四月は、毎年、律儀に来た。

 

 来た四月の十八回目に、私はこの島にいて、十九回目を、あと五日で迎える。

 

 八十一日の線の完走報告をしたのは、その日である。

 

 線の先に、二年目の線を引いた夜、私は終点の欄を、初めて空白のままにした。

 

「しゅ、終点は……み、未定ですっ」

 

 報告のとき、様式にない言葉を探して、少しつかえた。

 

 つかえた私に、彼は、未定のまま長いのがいい、という顔で頷いた。

 

 空白のまま提出する工程表は、人生で初めてだった。

 

 初めてだが、怖くなかった。

 

 未定のまま長い線を、私はもう、いいものだと知っている。

 

 

 

 

 三月三十一日の朝は、四時に目が覚めた。

 

 目覚ましは六時である。

 

 二時間ぶんの覚醒を、私は装備の点検に使った。

 

 赤いシュシュ。三月中随時、の最終日。

 

 鏡の前で結びながら、手帳の、あの頁を開いた。

 

 『二月十四日。督促、送達。期限、設定さる。三月三十一日。』

 

 『※どんな返事でも、受理する。』

 

 どんな返事でも。

 

 四十五日前の私は、いい覚悟を書いた。

 

 書いた覚悟を、今日、実行する。

 

「……どんな返事でも、ですっ」

 

 鏡に向かって、復唱した。

 

 復唱の声が、少しだけ震えたのは、朝の冷えのせいとする。

 

 

 

 

 昼休み、給湯室で一人になったとき、独り言が出た。

 

「……ほ、本日が、期限ですが」

 

 誰にともなく、確認した。

 

「さ、催促は、しませんっ。督促は二月に済んでいますっ。さ、催促と督促は、別の様式ですのでっ」

 

 様式の区別を給湯室の壁に説明している時点で、私の平常心は、すでに定時前だった。

 

 定時後の島に、二人が残った。

 

 大貫さんの「なんとなく」三連は、気遣いとして粗削りだったが、志は、手帳に記録した。

 

 記録し終えたとき、彼の椅子が、回った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日が、期限です」

 

 

 

 

 心臓が、どくん、と大きく鳴って、そのまま走り出した。

 

 

 

 

 背筋が、勝手に伸びた。

 

 伸びた背筋の先で、彼が、立ち上がった。

 

 立って言う人を、私は見上げた。

 

 見上げながら、どっどっどっ、と速くなる鼓動の中で、朝の復唱を、もう一度した。

 

 どんな返事でも、受理する。

 

 どんな返事でも――

 

「好きです。付き合ってください」

 

 

 

 

 時間が、止まった。

 

 

 

 

 その前に、紙が出てきたのである。

 

 四つ折りの、擦り切れた紙。

 

 一月の券売機の前で、彼が床に落としかけて、私が一歩引いた、あの紙である。

 

 あの日の私は、聞かなかった。

 

 聞けば、彼が困ると思ったからだ。

 

 十六年前の私なら、腕をつかんで階段の下まで連れていって、白状させていた。

 

 連れていかなくなった自分を、私は大人になったのだと思っていた。

 

 違った。

 

 諦め方を、覚えただけだった。

 

 だから今日は、一歩、踏み込んだ。

 

「……み、見せて、いただけますか」

 

 開かれた紙の真ん中に、私の字があった。

 

 『好きな人』

 

 

 

 

 息が、止まった。

 

 

 

 

 十六年前、橋の上で渡した、借り物競走のお題である。

 

 渡して、返事をもらえなくて、彼はいなくなった。

 

 私はずっと、こう思っていた。

 

 あの人は、あの日の紙も、あの日の私も、東京行きの荷物に入れなかったのだと。

 

 十六年、片側だけが生きている関係なのだと。

 

 違った。

 

 定期入れを三回買い替えて、そのたびに移された紙が、ずっと、彼の上着の内側にいた。

 

 胸が熱い、というのでは足りない。

 

 熱いものが、十六年ぶんの高さから、いっぺんに落ちてきた感じだった。

 

 待っていたのは、私だけではなかった。

 

 持ち歩いていた人が、いた。

 

 用意していた受理の様式が、頭の中で、白紙になった。

 

 白紙の口から出たのは、様式のどこにもない一音だった。

 

「……へ」

 

 へ、である。

 

 十六年と四十五日待った返事への第一声が、へ、だった。

 

 この一音を、私は生涯、手帳に書かない。

 

 書かないが、忘れもしないと思う。

 

 承諾です、と彼は言った。

 

 それから、いまのは俺からの申請でもあります、と。

 

 じわ、と視界の下から熱いものがせり上がってきて、三秒で、堤防を越えた。

 

 越えたものを、止めなかった。

 

 止める規程が、見当たらなかったからである。

 

 泣きながら、私は思っていた。

 

 待つ側だった十六年の、最後の日に、申請される側になった。

 

 番号の向こう側に、私は今日、初めて立ったのである。

 

 繰上げでも、補欠でもなく。

 

 電話を待つ側から、答えをもらう側へ。

 

 この移動の距離を、私は、番号の子たちの誰よりも、長く歩いた自信がある。

 

 

 

 

 手帳に一行書くのに、三回かかった。

 

 一回目、手が震えて、線になった。

 

 二回目、涙で滲んで、頁を替えた。

 

 三回目で、書けた。

 

 『三月三十一日。両件、受理。』

 

 その下に、もう一行だけ、書き足した。

 

 『借り物競走。返却、確認。』

 

 返却されたのは紙ではなく、十六年ぶんの、片側だった。

 

 書いてから、二月十四日の頁に戻った。

 

 『※どんな返事でも、受理する。』の下の、消した『※でも』の跡。

 

 その隣に、小さく、一行足した。

 

 『※でも、は、不要になった。』

 

 四十五日前の私の消し跡が、今日、正式に成仏した。

 

 成仏を見届けて、私は顔を上げて、聞いたのである。

 

「じゅ、受理しますっ。……受理して、いいんですよねっ!?」

 

 受理していいに決まっている場面で確認を取るのが、私という人間である。

 

 どうぞ、と言われて、受理した。

 

 人生で、いちばんの受理だった。

 

 その夜、部屋で、私は一人で、もう一度言った。

 

「……受理、しましたっ」

 

 言ってから、枕に顔を押しつけた。

 

 押しつけたまま、足が、勝手に少し動いた。

 

 動いた足の記録は、残さない。

 

 残さないが、本日の私の帳簿は、記録しない項目だけで一頁が埋まった。

 

 埋まった頁ごと、今夜は抱えて寝ることにした。

 

 

 

 

 土曜日、豊橋に、と彼は言った。

 

 行き先の意味は、二秒で分かった。

 

 報告をしに行く場所は、この世に一つしかない。

 

 こだまで行きましょう、と言ったのは、経済合理性ではない。

 

 十六年と四十五日の答え合わせに向かう道は、長ければ長いほど、いいからである。

 

 

 

 

 四月四日、向山大池の橋。

 

 桜は七分咲きで、欄干の位置は、記憶のままだった。

 

 十六年前の私は、この欄干の前で、告白をして、三秒待って、手を差し出した。

 

 差し出した手は、取られなかった。

 

 取られなかった手の形を、私は十六年、覚えていた。

 

 覚えていた場所に立って、私は、十六年前の私に、報告をした。

 

 あなたの申請は、受理されました。

 

 それから――よく、待ちました。

 

 待ったことを、様式ミスだと言った夜もあった。

 

 期限を切らなかった弱さだと、名前を変えた冬もあった。

 

 今日から、名前を戻す。

 

 あれは、待つと決めた私の、十六年の工程だった。

 

 工程は、完了した。

 

 

 

 

 登録名の変更は、橋の上でした。

 

 『温水主任』の五文字を消すとき、指が、少し震えた。

 

 この五文字は、この一年の私の、公式の呼び名だった。

 

 公式の下に本音を格納する運用を、一年、続けた。

 

 続けた運用の、最終日である。

 

 『和彦さん』

 

 打ち終えて、確定ボタンの上で、指が止まった。

 

「……か、確定ボタンが、お、重いですっ」

 

 重いのは、ボタンではない。

 

 十六年ぶんの、格納容器の蓋である。

 

 押した瞬間、かこ、と小さい音がして、蓋が、開いた。

 

 開いた画面の向こうで、彼も、自分の画面を見せてくれた。

 

 『天愛星さん』

 

 どきん、と心臓が跳ねて、口元を、両手で覆った。

 

 準備ができたら、声で呼ぶ、と彼は言った。

 

 準備なら、できている。

 

 十六年前、この橋の上で告白した日から、ずっと、できている。

 

 できていることを、私は今日、初めて口に出した。

 

「天愛星さん」

 

 初めて呼ばれた声を、私は、体のいちばん奥の棚に、そっとしまった。

 

 この棚の在庫は、これから、増えていく予定である。

 

 

 

 

 帰り際、橋を渡り切る手前で、彼が手を差し出した。

 

 十六年前、差し出したのは私で、取られなかった。

 

 今日、差し出されたのは私で――

 

 取るまでに、〇・五秒かかった。

 

 かかった〇・五秒は、ためらいではない。

 

 十六年前の私に、見せてあげていた時間である。

 

 ほら、と。

 

 手は、こうやって、取られる日が来る。

 

「……取りましたっ」

 

「申告しなくていいよ」

 

「し、しますっ。大事な受領はっ、必ずっ」

 

 繋いだ手のひらから、彼の体温が伝わってきた。

 

 材料費ゼロ円、実価値算定不能の温度である。

 

 算定不能の在庫が、私の帳簿に、また一つ増えた。

 

 増えるばかりで一向に減らないこの帳簿を、私は、生涯かけてつけていくのだと思う。

 

 

 

 

 クレープ屋では、聞かれてもいないのに、申告をした。

 

「……つ、付き合ってますっ」

 

 口が、勝手に動いたのである。

 

 十六年、先回りして「同僚です」と言い続けた口が、更新された情報を、一刻も早く配信したがった。

 

 配信先が、クレープ屋のおばちゃんだったことについては、様式上の問題を認める。

 

 認めるが、後悔はしていない。

 

 知ってたよ、と言われて、おまけまで付いた。

 

 自主申告には、時に、おまけが付くのである。

 

 夜、東京の部屋に帰って、私は台所に立った。

 

 昆布を、水に浸す。

 

 いつもの、である。

 

 十六年、一人で作り続けた味噌汁を、今夜も作った。

 

 作って、写真を一枚、撮った。

 

 送信の前に、少しだけ迷って、文面を足した。

 

 『十六年ぶんの、一枚目です』

 

 返信は、三十秒で来た。

 

 『毎週、楽しみにしてます』

 

 毎週、という言葉に、期限はない。

 

 期限のない毎週を、私は今日から、数えずに重ねていく。

 

 数えなくても、負けない日々が、始まったからである。

 

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