大学職員の僕たち   作:房吉

52 / 54
~36敗目~ 引き継ぎ資料は三枚

 (四月四日/温水視点)

 

 クレープ屋を出たところで、スマートフォンが鳴った。

 

 佳樹からである。

 

『お兄様。ご報告が済んだ足で、ご実家へどうぞ。お茶の準備があります』

 

「……なんで今日、俺が豊橋にいるって知ってるんだ」

 

『妹ですので』

 

「もうその返事でいいや」

 

『それから、馬剃さんに。十六年ぶりに、お目にかかりたく、と』

 

 画面を見せると、隣で、彼女の背筋が音を立てて伸びた。

 

「か、佳樹さんっ」

 

「お茶だけだよ。妹がいるだけ」

 

「い、妹さん、だけっ!? じゅ、十六年間、審査員を務められていた方ですよねっ」

 

「あれ言わなきゃよかったな」

 

「め、面接ですっ。これは、最終面接ですっ」

 

「面接じゃないよ」

 

「面接ですっ! い、一次は、じゅ、十六年前に受けていますっ! そ、その後の連絡がっ、じゅ、十六年っ、来なかっただけでっ!」

 

 連絡を止めていたのは、審査側ではなく、俺である。

 

 俺であるので、反論の権利はなかった。

 

 権利のない男の隣で、彼女は、両手で顔を覆った。

 

「そ、それにっ……わ、私は、あの方に、よ、弱みを握られていますっ」

 

「弱み?」

 

「ね、猫耳ですっ! ツ、ツワブキ祭のっ!」

 

 

 

 

 思い出した。

 

 

 

 

 十六年前、ツワブキ祭の準備中の生徒会室である。

 

 志喜屋先輩に強引に着せられた猫耳メイドの、この人がいた。

 

「あ、あの場に、佳樹さんは、いませんでしたっ。い、いませんでしたがっ、あの方は、なんでも知っていますっ! じゅ、十六年前からっ!」

 

「……いなかったよ、あの場には」

 

 いなかった。

 

 妹は、確かに、あの場にいなかった。

 

 いなかったが、あの姿を、当時の俺は、デジカメで撮っている。

 

 七十二枚である。

 

 七十二枚を、俺は消していない。

 

 消していないデジカメの中身を、当時の妹は、勝手に共有したクラウドごと、定期的にチェックしていた。

 

 『授業の資料』というフォルダ名で、十六年前の俺は、何かを守ろうとした。

 

 守り切れたかどうかを、俺は一度も確かめていない。

 

 確かめていないので、知らない。

 

 知らないまま、隣の人は、あの妹の前で猫耳の話題を出さないと決めて、十六年生きてきたらしい。

 

 俺の背中にも、十六年ぶりに、冷や汗が一筋、降りた。

 

 降りた理由は、隣の人には言わない。

 

 決めて生きてきた十六年に、猫耳の話題を出す機会は、たぶん一度もなかったはずである。

 

 なかったはずだが、備えていたらしい。

 

 備える人は、いつでも備えている。

 

 備えの中身が猫耳一件で埋まっている十六年を、少しだけ気の毒に思った。

 

 真剣な横顔を見ていたら、これから会わせるのが妹一人で、本当によかったと思った。

 

 母まで揃っていたら、この人はたぶん、玄関の前で、想定問答集を三冊作っている。

 

 

 

 

 移動の二十分で、彼女は想定問答を組もうとした。

 

「し、質問の候補を、三系統で想定します。こ、交際の経緯、け、継続の意思、それから、か、家事能力ですっ」

 

「三系統目はなんで入るの」

 

「か、家事能力は、じゅ、十六年前に、い、一度、評価を受けていますっ」

 

「……あの、出汁の」

 

「と、取り忘れの、つ、追試ですっ。あの台所でっ」

 

 追試を受けた場所へ、いまから向かうのである。

 

 試験官は当時中学三年生で、いまも同じ家に住んでいて、たぶん採点基準も変えていない。

 

 向かう人の顔は、追試の合否を、まだ聞いていない顔だった。

 

 それから、手土産問題が発生した。

 

「て、手ぶらは、あり得ませんっ」

 

「お茶だけだって」

 

「様式ですっ。ときわ通りで調達しますっ」

 

 彼女は、通りを三十秒見渡して、迷いなく一軒の店に入った。

 

 出てきたときには、包みを抱えていた。

 

「ちくわですっ」

 

「実家にちくわ?」

 

「等価と伺いましたっ。羊羹と」

 

 伺ったのは、俺の母の見解である。

 

 母の見解が、四か月越しに、手土産の様式として運用されていた。

 

「それに、あのお店のは、格が違うんですっ」

 

「詳しくなったね、豊橋」

 

「よ、予習していますのでっ」

 

 何の予習かは、聞かないでおいた。

 

 

 

 

 実家の玄関を開けると、佳樹が立っていた。

 

 エプロン姿で、姿勢は相変わらず、定規で引いたようだった。

 

「お兄様、おかえりなさいませ」

 

「ただいま」

 

「馬剃さん。……お久しぶりです」

 

「ご、ご無沙汰しておりますっ。か、佳樹さんっ」

 

 彼女が、腰から深く、礼をした。

 

 佳樹も、同じ角度で返した。

 

 礼の深さが、完全に一致した。

 

 十六年前、この玄関で、味噌汁を習いに来た人と、出迎えた妹が、同じことをした記憶がある。

 

 あのときの角度から、たぶん、二人とも一度も動いていない。

 

「お、大きく、なられてっ……」

 

「背は、少しだけです。中身は、あのころから、あまり変わっておりません」

 

「か、変わって、いませんかっ」

 

「はい。……評価も」

 

 

 

 

 彼女の背筋に、電気が走ったのが、隣から見えた。

 

 

 

 

 評価、の二文字だけで、この人は十六年前の台所に戻される。

 

 戻す側の妹は、涼しい顔でスリッパを揃えていた。

 

 玄関先で早くも、この家の力関係の来季の布陣が、見えた気がした。

 

「母は、本日、意図的に外出しております」

 

 居間に通されるなり、佳樹が言った。

 

「意図的」

 

「初回から役者が多いと、進行が乱れますので。本日は、佳樹の回です。母の回は、追って調整いたします」

 

「回って言うな。番組か」

 

「段取りと申してください」

 

 段取りの人は、昔から段取りの人である。

 

 お茶が出た。

 

 湯呑みが、三つ。

 

 お茶請けに、彼女のちくわが、早くも切られて皿に載っていた。

 

「お持たせで恐縮ですが。……いい選択です、馬剃さん。あの店のは、格が違いますので」

 

「か、格が違いますよねっ」

 

 ちくわの格で、最初の合意が形成された。

 

 合意形成が早い二人だった。

 

 早いのは、十六年前からである。

 

 十六年前、この二人は、台所で昆布を戻す三十分のあいだに、俺の知らない同盟を結んでいた。

 

「馬剃さんの近況は、存じておりました」

 

「え」

 

「文部科学省にお入りになったことも。この春、お辞めになって、兄の隣にお座りになったことも」

 

「な、なぜっ」

 

「妹ですので」

 

「わ、私の妹では、ありませんっ」

 

「いずれ、そうなる予定と、存じております」

 

「よ、予定っ!?」

 

 彼女の湯呑みが、かたん、と鳴った。

 

 鳴った湯呑みを、佳樹は静かに布巾で受けた。

 

 受けながら、俺のほうは一度も見なかった。

 

 見なくても、兄の同意を要さない話だと、妹は決めているらしい。

 

 決めている人が二人になると、俺の同意欄は、書式から消える。

 

 

 

 

 湯呑みが一周したところで、佳樹が居住まいを正した。

 

 来た、と俺は思った。

 

 隣で、彼女の背筋が、面接の角度になった。

 

「馬剃さん。まず、審査側として、お詫び申し上げます」

 

「……はい?」

 

「審査結果の通知に、十六年かかりました。本来、あってはならない遅延です」

 

「佳樹が詫びるのか」

 

「審査員ですので」

 

 審査員が、兄の代わりに頭を下げた。

 

 下げられた彼女は、両手を振って、それから、律儀に答えた。

 

「つ、通知は、き、期限内に受領しましたのでっ。ね、年度内でしたのでっ」

 

「期限内。……さすがです」

 

 何がさすがなのかは、二人だけが分かっている顔だった。

 

 

 

 

「ところで馬剃さん。一点、確認がございます」

 

「は、はいっ」

 

「お味噌汁の腕は、維持されていますか」

 

 

 

 

 空気が、変わった。

 

 

 

 

 彼女の顔が、じわ、と赤くなった。

 

「……ま、毎週、作っています」

 

「昆布は」

 

「い、いつもの、を……つ、通販で、取り寄せて、いますっ」

 

「毎週」

 

「毎週ですっ」

 

 俺は、湯呑みを持ったまま、止まった。

 

 十六年前、この居間の続きの台所で、彼女は佳樹から出汁の引き方を習った。

 

 だしを取り忘れた味噌汁の、リベンジのためである。

 

 あのとき習った味を、この人は――

 

 十六年。

 

 東京の、一人の台所で。

 

 文科省の深夜残業の日々の中で、毎週、この家の味を作り続けていた。

 

 胸の奥に、熱いものが、どっと流れ込んできた。

 

 流れ込んできたものの名前を確認する前に、口が動いていた。

 

「……十六年、作ってたの」

 

「っ」

 

 彼女の耳が、限界の赤になった。

 

「こ、これはっ、その、単なる、習慣ですっ」

 

「習慣」

 

「お、美味しかったのでっ! レシピがっ! れ、レシピの問題ですっ!」

 

「なるほど、レシピの」

 

「レシピの問題ですっ!!」

 

 三回言った。

 

 三回言うときは、レシピの問題ではないのである。

 

 佳樹が、湯呑みを置いた。

 

「十六年前、あの台所で、佳樹は申し上げました」

 

「……は、はい」

 

「くりかえせば、馬剃さんお一人でも、温水家の味が出せるようになります、と」

 

「お、覚えて、いますっ」

 

「くりかえして、くださったのですね」

 

 

 

 

 彼女が、小さく、頷いた。

 

 

 

 

 頷いた首のうしろで、赤が、耳から首筋まで降りていた。

 

「八百三十二回、です」

 

「数えるな」

 

「十六年、五十二週です。概算です」

 

「概算でも言うな」

 

「投資の、運用益が出ています」

 

「投資って言うな」

 

「十六年、複利で回りました」

 

「複利って言うな」

 

 複利は、最近どこかでも聞いた単語である。

 

 この兄妹と彼女のあいだで、俺の知らない経済が、ずっと回っていたらしい。

 

 

 

 

 お茶の二杯目が入って、佳樹が、少しだけ声の温度を変えた。

 

「馬剃さん。……一つだけ、審査と関係のない話を、してもよろしいですか」

 

「は、はい」

 

「兄は、十六年前、何も言わずにいなくなりました」

 

 

 

 

 居間が、静かになった。

 

 

 

 

「家族にも、行き先を告げずに、です。年賀状の返事も、来ませんでした」

 

「佳樹」

 

「事実ですので」

 

 事実です、を、妹はまっすぐ言った。

 

「母は、心配を口に出さない人です。ですので、この家の心配は、十六年、佳樹が記録しておりました。日記に」

 

 妹の日記の中身を、俺は初めて知った。

 

 歴史的事件だけが書かれているのだと、思っていた。

 

「その兄が、去年の春から、電話の声が変わりました。夏に一度、様子を見に上京して、確信しました。隣の席の方の話をするときだけ、兄は、生きている声で話します」

 

「……様子を見に来てたのか、あれ」

 

「視察です」

 

 視察だったらしい。

 

 佳樹は、彼女に向き直って、腰から、深く、頭を下げた。

 

 玄関の礼より、さらに深かった。

 

「兄が戻ってくる場所を、作ってくださって、ありがとうございました」

 

「わ、私は、何も」

 

「隣の席に、いてくださいました。一年間」

 

 

 

 

 彼女は、何かを言おうとして、言えなくて、膝の上で手を握った。

 

 この一年、隣の席で俺が受け取ってきたものを、妹は、家族の側から全部見ていた。

 

 見ていて、記録していて、今日、いちばん正しい形で、精算した。

 

 握った手の上に、一粒、落ちた。

 

「す、すみませんっ、め、面接中にっ」

 

「面接ではありません」

 

 佳樹が、顔を上げて、笑った。

 

「面接は、十六年前に、終わっております。首席で」

 

「じゅ、十六年前っ……?」

 

「味噌汁の教室の日です。合否は、当日中に出ておりました」

 

「と、当日っ」

 

「あの日、佳樹は、嫁入り、と申し上げたはずですが」

 

「い、言われましたっ! じ、自爆しましたっ!」

 

「あれが、内定通知でした」

 

「な、内定っ!?」

 

「お受け取りになっていなかったのですね。十六年」

 

 内定通知が、十六年、未受領のままだったらしい。

 

 未受領のまま、当人は毎週、味噌汁を作っていたのである。

 

 どちらの様式も、この家の台所には敵わなかった。

 

 当日中に出ていた合否を、審査員は十六年、寝かせていたのである。

 

 寝かせて、熟成させて、今日、開示した。

 

 この妹は、やはり、少しこわい。

 

 

 

 

 それから佳樹は、テーブルの上に、紙を三枚、置いた。

 

「本日の本題です」

 

「本題、今からなのか」

 

「馬剃さん。兄の今後の管理は、共同でお願いいたします」

 

「管理って言うな」

 

「つきましては、引き継ぎ資料をご用意しました。三枚です」

 

 三枚。

 

 三枚の紙で三か月を渡す文化の、源流を見た気がした。

 

 源流は、この家の妹だった。

 

「一枚目、生活習慣の要点。締切前に食事を抜く癖があります。実績は、この一月にも一件」

 

「な、なぜそれをっ……い、いえ、私も確認済みですっ。再発防止・三案で対処しましたっ」

 

「三案。いい様式です」

 

「あ、ありがとうございますっ」

 

 俺の生活習慣が、俺抜きで、様式の使い手二人に共有されていく。

 

「二枚目、体調の兆候。無理をすると、まず言葉数が減ります」

 

「ご、五分同じ画面を見ていたら、危険信号と、把握していますっ」

 

「正確です。三枚目――」

 

 佳樹は、三枚目だけ、少しゆっくり置いた。

 

「好物の一覧と、温水家の味の、残りのレシピです。味噌汁は伝授済みですので、続きを」

 

「つ、続きっ」

 

「ドライカレーと、豊橋風カレーうどんと、巻かないロールキャベツ。……お渡しするのは、佳樹の代からの、正式な引き継ぎです」

 

 彼女は、三枚目を、両手で受け取った。

 

 受け取って、深く、礼をした。

 

「じゅ、受理しますっ。……た、大切に、運用しますっ」

 

「よろしくお願いします。……それから、お呼びの仕方は、これまでどおり、佳樹さん、で結構です」

 

「は、はいっ」

 

「続柄が、付くまでは」

 

「つ、続柄っ!?」

 

「気が早い、とお兄様は申しますが」

 

 佳樹は、俺を見た。

 

「審査員は、十六年前から、早いのです」

 

「早いのは知ってる」

 

 知っているので、否定はしなかった。

 

 否定しなかったことを、隣の人が、湯呑みの陰で、たぶん記録した。

 

 

 

 

 夕方、佳樹は駅まで送ると言って聞かなかった。

 

 駅前で、彼女が売店を見つけて「お、お手洗いと、お茶を買ってきますっ」と離れた隙に、佳樹が、俺の隣に並んだ。

 

「お兄様」

 

「なんだ」

 

「いい方です。十六年前から、佳樹の目に、狂いはありませんでした」

 

「……そうだな」

 

「二位以下との差は、十六年、一度も縮まりませんでした」

 

「二位以下がいたのか」

 

「非公開です」

 

 非公開らしい。

 

 公開されても、たぶん、誰の顔も思い浮かべないようにする。

 

「それから、猫耳の件は、資料に載せておりません」

 

「……載せる案があったのか」

 

「四枚目の候補でした。玄関でお顔を拝見した限り、ご本人は、佳樹が存じていることを、ご存じない様子でしたので」

 

「……知ってるのか」

 

「七十二枚、存じております」

 

 

 

 

 背中の冷や汗が、十六年ぶりに、二筋目になった。

 

 

 

 

「……いつからだ」

 

「ツワブキ祭の、翌週です」

 

「『授業の資料』は」

 

「初手で拝見しました」

 

「数えるな」

 

「数えたのは、お兄様です」

 

 数えたのは、俺である。

 

 十六年前の防衛線は、初手で突破されていた。

 

 突破されていたことを、十六年後の駅前で、初めて知った。

 

 知った上で、なお馬剃さんには伏せる、というのが、この妹の優しさである。

 

 優しさの単位が、一枚ぶん、である。

 

 一枚ぶんの優しさを、この妹は、十六年前の台所でも、たぶん一度使っている。

 

 七十二枚の件は、墓まで持っていくことに決めた。

 

「次は、母の回です。段取りは、佳樹が組みます」

 

「こわいこと言うな」

 

「五月の連休を、想定しています」

 

 もう日程まで想定されていた。

 

 想定の外で生きることは、この妹の兄である限り、たぶん一生できない。

 

「それから、お兄様」

 

 佳樹は、改札の向こうの人混みを見たまま、言った。

 

「今度は、黙って、いなくならないでくださいね」

 

「……いなくならないよ」

 

「お約束の実績が、一件ありますので、念のためです」

 

「破った実績な」

 

「はい。ですので、今回は、二人がかりで監視します」

 

 監視って言うな、と言いかけて、やめた。

 

 二人がかり、の二人の顔を思い浮かべたら、悪くない監視だと思ってしまったからである。

 

 

 

 

 帰りのこだまで、彼女は三枚の資料を、熟読していた。

 

「そんなに読み込まなくていいよ、それ」

 

「よ、要点が的確ですっ。特に二枚目のっ」

 

「俺の取扱説明書だよ、それ」

 

「じゅ、重要書類ですっ」

 

 重要書類は、クリアファイルに入れられて、彼女の鞄に格納された。

 

 格納された鞄の内側で、緑の小さな袋が、ちらりと揺れた。

 

 格納が終わって、彼女は、大きく息を吐いた。

 

「……で、出ませんでしたねっ」

 

「なにが」

 

「ね、猫耳の件がっ」

 

「出さないよ、あいつも」

 

 出さないと決めた人と、出さないと決めた人が、同じ日に同じ顔をしていたことは、伝えないでおく。

 

「し、しかしっ、よ、四枚目が、あ、あるような気がしてなりませんっ」

 

 ある。

 

 あるが、割愛された。

 

 割愛の経緯と枚数は、俺の胸に、一枚ぶんだけ、しまっておくことにした。

 

 窓の外を、夕方の浜名湖が流れていく。

 

 行きに報告して、橋で名前を呼んで、実家で首席が確定して、資料を三枚もらって帰る。

 

 一日の成果としては、過去最高である。

 

「あ、あのっ、温水さん……じゃなくて」

 

 彼女が、資料から顔を上げた。

 

 上げて、深呼吸を一つして、言い直した。

 

「……か、和彦さん」

 

「うん」

 

「か、家に帰ったら、そ、その……み、味噌汁の写真、送ってもいいですかっ。じゅ、十六年ぶんの、成果報告としてっ」

 

「毎週でも」

 

「ま、毎週っ……じゃ、じゃあ、毎週っ!」

 

 毎週の様式が、また一つ増えた。

 

 増えた様式の数だけ、俺たちの「いつも」は、これから厚くなっていく。

 

 こだまは、各駅に停まりながら、東京へ向かう。

 

 浜松を過ぎたあたりで、佳樹からメッセージが来た。

 

『本日の面接結果を、通知します』

 

『面接じゃなかったんだろ』

 

『様式です。……合格です。文句なしの、首席です。十六年前と、同順位』

 

 画面を、隣に見せた。

 

 彼女は三回読んで、それから、口元を両手で覆った。

 

「じゅ、受理しますっ……」

 

 受理の声が、半分濡れていた。

 

 濡れた声のまま、彼女は手帳を出して、今日の頁に何かを書いた。

 

 書いた中身は、見なかった。

 

 見なくても、この手帳の今年の頁が、いい記録で埋まっていっていることだけは、隣にいれば分かる。

 

 急がない列車の窓で、隣の人の耳は、豊橋を出てから小田原まで、ずっと赤かった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。