(四月四日/温水視点)
クレープ屋を出たところで、スマートフォンが鳴った。
佳樹からである。
『お兄様。ご報告が済んだ足で、ご実家へどうぞ。お茶の準備があります』
「……なんで今日、俺が豊橋にいるって知ってるんだ」
『妹ですので』
「もうその返事でいいや」
『それから、馬剃さんに。十六年ぶりに、お目にかかりたく、と』
画面を見せると、隣で、彼女の背筋が音を立てて伸びた。
「か、佳樹さんっ」
「お茶だけだよ。妹がいるだけ」
「い、妹さん、だけっ!? じゅ、十六年間、審査員を務められていた方ですよねっ」
「あれ言わなきゃよかったな」
「め、面接ですっ。これは、最終面接ですっ」
「面接じゃないよ」
「面接ですっ! い、一次は、じゅ、十六年前に受けていますっ! そ、その後の連絡がっ、じゅ、十六年っ、来なかっただけでっ!」
連絡を止めていたのは、審査側ではなく、俺である。
俺であるので、反論の権利はなかった。
権利のない男の隣で、彼女は、両手で顔を覆った。
「そ、それにっ……わ、私は、あの方に、よ、弱みを握られていますっ」
「弱み?」
「ね、猫耳ですっ! ツ、ツワブキ祭のっ!」
思い出した。
十六年前、ツワブキ祭の準備中の生徒会室である。
志喜屋先輩に強引に着せられた猫耳メイドの、この人がいた。
「あ、あの場に、佳樹さんは、いませんでしたっ。い、いませんでしたがっ、あの方は、なんでも知っていますっ! じゅ、十六年前からっ!」
「……いなかったよ、あの場には」
いなかった。
妹は、確かに、あの場にいなかった。
いなかったが、あの姿を、当時の俺は、デジカメで撮っている。
七十二枚である。
七十二枚を、俺は消していない。
消していないデジカメの中身を、当時の妹は、勝手に共有したクラウドごと、定期的にチェックしていた。
『授業の資料』というフォルダ名で、十六年前の俺は、何かを守ろうとした。
守り切れたかどうかを、俺は一度も確かめていない。
確かめていないので、知らない。
知らないまま、隣の人は、あの妹の前で猫耳の話題を出さないと決めて、十六年生きてきたらしい。
俺の背中にも、十六年ぶりに、冷や汗が一筋、降りた。
降りた理由は、隣の人には言わない。
決めて生きてきた十六年に、猫耳の話題を出す機会は、たぶん一度もなかったはずである。
なかったはずだが、備えていたらしい。
備える人は、いつでも備えている。
備えの中身が猫耳一件で埋まっている十六年を、少しだけ気の毒に思った。
真剣な横顔を見ていたら、これから会わせるのが妹一人で、本当によかったと思った。
母まで揃っていたら、この人はたぶん、玄関の前で、想定問答集を三冊作っている。
移動の二十分で、彼女は想定問答を組もうとした。
「し、質問の候補を、三系統で想定します。こ、交際の経緯、け、継続の意思、それから、か、家事能力ですっ」
「三系統目はなんで入るの」
「か、家事能力は、じゅ、十六年前に、い、一度、評価を受けていますっ」
「……あの、出汁の」
「と、取り忘れの、つ、追試ですっ。あの台所でっ」
追試を受けた場所へ、いまから向かうのである。
試験官は当時中学三年生で、いまも同じ家に住んでいて、たぶん採点基準も変えていない。
向かう人の顔は、追試の合否を、まだ聞いていない顔だった。
それから、手土産問題が発生した。
「て、手ぶらは、あり得ませんっ」
「お茶だけだって」
「様式ですっ。ときわ通りで調達しますっ」
彼女は、通りを三十秒見渡して、迷いなく一軒の店に入った。
出てきたときには、包みを抱えていた。
「ちくわですっ」
「実家にちくわ?」
「等価と伺いましたっ。羊羹と」
伺ったのは、俺の母の見解である。
母の見解が、四か月越しに、手土産の様式として運用されていた。
「それに、あのお店のは、格が違うんですっ」
「詳しくなったね、豊橋」
「よ、予習していますのでっ」
何の予習かは、聞かないでおいた。
実家の玄関を開けると、佳樹が立っていた。
エプロン姿で、姿勢は相変わらず、定規で引いたようだった。
「お兄様、おかえりなさいませ」
「ただいま」
「馬剃さん。……お久しぶりです」
「ご、ご無沙汰しておりますっ。か、佳樹さんっ」
彼女が、腰から深く、礼をした。
佳樹も、同じ角度で返した。
礼の深さが、完全に一致した。
十六年前、この玄関で、味噌汁を習いに来た人と、出迎えた妹が、同じことをした記憶がある。
あのときの角度から、たぶん、二人とも一度も動いていない。
「お、大きく、なられてっ……」
「背は、少しだけです。中身は、あのころから、あまり変わっておりません」
「か、変わって、いませんかっ」
「はい。……評価も」
彼女の背筋に、電気が走ったのが、隣から見えた。
評価、の二文字だけで、この人は十六年前の台所に戻される。
戻す側の妹は、涼しい顔でスリッパを揃えていた。
玄関先で早くも、この家の力関係の来季の布陣が、見えた気がした。
「母は、本日、意図的に外出しております」
居間に通されるなり、佳樹が言った。
「意図的」
「初回から役者が多いと、進行が乱れますので。本日は、佳樹の回です。母の回は、追って調整いたします」
「回って言うな。番組か」
「段取りと申してください」
段取りの人は、昔から段取りの人である。
お茶が出た。
湯呑みが、三つ。
お茶請けに、彼女のちくわが、早くも切られて皿に載っていた。
「お持たせで恐縮ですが。……いい選択です、馬剃さん。あの店のは、格が違いますので」
「か、格が違いますよねっ」
ちくわの格で、最初の合意が形成された。
合意形成が早い二人だった。
早いのは、十六年前からである。
十六年前、この二人は、台所で昆布を戻す三十分のあいだに、俺の知らない同盟を結んでいた。
「馬剃さんの近況は、存じておりました」
「え」
「文部科学省にお入りになったことも。この春、お辞めになって、兄の隣にお座りになったことも」
「な、なぜっ」
「妹ですので」
「わ、私の妹では、ありませんっ」
「いずれ、そうなる予定と、存じております」
「よ、予定っ!?」
彼女の湯呑みが、かたん、と鳴った。
鳴った湯呑みを、佳樹は静かに布巾で受けた。
受けながら、俺のほうは一度も見なかった。
見なくても、兄の同意を要さない話だと、妹は決めているらしい。
決めている人が二人になると、俺の同意欄は、書式から消える。
湯呑みが一周したところで、佳樹が居住まいを正した。
来た、と俺は思った。
隣で、彼女の背筋が、面接の角度になった。
「馬剃さん。まず、審査側として、お詫び申し上げます」
「……はい?」
「審査結果の通知に、十六年かかりました。本来、あってはならない遅延です」
「佳樹が詫びるのか」
「審査員ですので」
審査員が、兄の代わりに頭を下げた。
下げられた彼女は、両手を振って、それから、律儀に答えた。
「つ、通知は、き、期限内に受領しましたのでっ。ね、年度内でしたのでっ」
「期限内。……さすがです」
何がさすがなのかは、二人だけが分かっている顔だった。
「ところで馬剃さん。一点、確認がございます」
「は、はいっ」
「お味噌汁の腕は、維持されていますか」
空気が、変わった。
彼女の顔が、じわ、と赤くなった。
「……ま、毎週、作っています」
「昆布は」
「い、いつもの、を……つ、通販で、取り寄せて、いますっ」
「毎週」
「毎週ですっ」
俺は、湯呑みを持ったまま、止まった。
十六年前、この居間の続きの台所で、彼女は佳樹から出汁の引き方を習った。
だしを取り忘れた味噌汁の、リベンジのためである。
あのとき習った味を、この人は――
十六年。
東京の、一人の台所で。
文科省の深夜残業の日々の中で、毎週、この家の味を作り続けていた。
胸の奥に、熱いものが、どっと流れ込んできた。
流れ込んできたものの名前を確認する前に、口が動いていた。
「……十六年、作ってたの」
「っ」
彼女の耳が、限界の赤になった。
「こ、これはっ、その、単なる、習慣ですっ」
「習慣」
「お、美味しかったのでっ! レシピがっ! れ、レシピの問題ですっ!」
「なるほど、レシピの」
「レシピの問題ですっ!!」
三回言った。
三回言うときは、レシピの問題ではないのである。
佳樹が、湯呑みを置いた。
「十六年前、あの台所で、佳樹は申し上げました」
「……は、はい」
「くりかえせば、馬剃さんお一人でも、温水家の味が出せるようになります、と」
「お、覚えて、いますっ」
「くりかえして、くださったのですね」
彼女が、小さく、頷いた。
頷いた首のうしろで、赤が、耳から首筋まで降りていた。
「八百三十二回、です」
「数えるな」
「十六年、五十二週です。概算です」
「概算でも言うな」
「投資の、運用益が出ています」
「投資って言うな」
「十六年、複利で回りました」
「複利って言うな」
複利は、最近どこかでも聞いた単語である。
この兄妹と彼女のあいだで、俺の知らない経済が、ずっと回っていたらしい。
お茶の二杯目が入って、佳樹が、少しだけ声の温度を変えた。
「馬剃さん。……一つだけ、審査と関係のない話を、してもよろしいですか」
「は、はい」
「兄は、十六年前、何も言わずにいなくなりました」
居間が、静かになった。
「家族にも、行き先を告げずに、です。年賀状の返事も、来ませんでした」
「佳樹」
「事実ですので」
事実です、を、妹はまっすぐ言った。
「母は、心配を口に出さない人です。ですので、この家の心配は、十六年、佳樹が記録しておりました。日記に」
妹の日記の中身を、俺は初めて知った。
歴史的事件だけが書かれているのだと、思っていた。
「その兄が、去年の春から、電話の声が変わりました。夏に一度、様子を見に上京して、確信しました。隣の席の方の話をするときだけ、兄は、生きている声で話します」
「……様子を見に来てたのか、あれ」
「視察です」
視察だったらしい。
佳樹は、彼女に向き直って、腰から、深く、頭を下げた。
玄関の礼より、さらに深かった。
「兄が戻ってくる場所を、作ってくださって、ありがとうございました」
「わ、私は、何も」
「隣の席に、いてくださいました。一年間」
彼女は、何かを言おうとして、言えなくて、膝の上で手を握った。
この一年、隣の席で俺が受け取ってきたものを、妹は、家族の側から全部見ていた。
見ていて、記録していて、今日、いちばん正しい形で、精算した。
握った手の上に、一粒、落ちた。
「す、すみませんっ、め、面接中にっ」
「面接ではありません」
佳樹が、顔を上げて、笑った。
「面接は、十六年前に、終わっております。首席で」
「じゅ、十六年前っ……?」
「味噌汁の教室の日です。合否は、当日中に出ておりました」
「と、当日っ」
「あの日、佳樹は、嫁入り、と申し上げたはずですが」
「い、言われましたっ! じ、自爆しましたっ!」
「あれが、内定通知でした」
「な、内定っ!?」
「お受け取りになっていなかったのですね。十六年」
内定通知が、十六年、未受領のままだったらしい。
未受領のまま、当人は毎週、味噌汁を作っていたのである。
どちらの様式も、この家の台所には敵わなかった。
当日中に出ていた合否を、審査員は十六年、寝かせていたのである。
寝かせて、熟成させて、今日、開示した。
この妹は、やはり、少しこわい。
それから佳樹は、テーブルの上に、紙を三枚、置いた。
「本日の本題です」
「本題、今からなのか」
「馬剃さん。兄の今後の管理は、共同でお願いいたします」
「管理って言うな」
「つきましては、引き継ぎ資料をご用意しました。三枚です」
三枚。
三枚の紙で三か月を渡す文化の、源流を見た気がした。
源流は、この家の妹だった。
「一枚目、生活習慣の要点。締切前に食事を抜く癖があります。実績は、この一月にも一件」
「な、なぜそれをっ……い、いえ、私も確認済みですっ。再発防止・三案で対処しましたっ」
「三案。いい様式です」
「あ、ありがとうございますっ」
俺の生活習慣が、俺抜きで、様式の使い手二人に共有されていく。
「二枚目、体調の兆候。無理をすると、まず言葉数が減ります」
「ご、五分同じ画面を見ていたら、危険信号と、把握していますっ」
「正確です。三枚目――」
佳樹は、三枚目だけ、少しゆっくり置いた。
「好物の一覧と、温水家の味の、残りのレシピです。味噌汁は伝授済みですので、続きを」
「つ、続きっ」
「ドライカレーと、豊橋風カレーうどんと、巻かないロールキャベツ。……お渡しするのは、佳樹の代からの、正式な引き継ぎです」
彼女は、三枚目を、両手で受け取った。
受け取って、深く、礼をした。
「じゅ、受理しますっ。……た、大切に、運用しますっ」
「よろしくお願いします。……それから、お呼びの仕方は、これまでどおり、佳樹さん、で結構です」
「は、はいっ」
「続柄が、付くまでは」
「つ、続柄っ!?」
「気が早い、とお兄様は申しますが」
佳樹は、俺を見た。
「審査員は、十六年前から、早いのです」
「早いのは知ってる」
知っているので、否定はしなかった。
否定しなかったことを、隣の人が、湯呑みの陰で、たぶん記録した。
夕方、佳樹は駅まで送ると言って聞かなかった。
駅前で、彼女が売店を見つけて「お、お手洗いと、お茶を買ってきますっ」と離れた隙に、佳樹が、俺の隣に並んだ。
「お兄様」
「なんだ」
「いい方です。十六年前から、佳樹の目に、狂いはありませんでした」
「……そうだな」
「二位以下との差は、十六年、一度も縮まりませんでした」
「二位以下がいたのか」
「非公開です」
非公開らしい。
公開されても、たぶん、誰の顔も思い浮かべないようにする。
「それから、猫耳の件は、資料に載せておりません」
「……載せる案があったのか」
「四枚目の候補でした。玄関でお顔を拝見した限り、ご本人は、佳樹が存じていることを、ご存じない様子でしたので」
「……知ってるのか」
「七十二枚、存じております」
背中の冷や汗が、十六年ぶりに、二筋目になった。
「……いつからだ」
「ツワブキ祭の、翌週です」
「『授業の資料』は」
「初手で拝見しました」
「数えるな」
「数えたのは、お兄様です」
数えたのは、俺である。
十六年前の防衛線は、初手で突破されていた。
突破されていたことを、十六年後の駅前で、初めて知った。
知った上で、なお馬剃さんには伏せる、というのが、この妹の優しさである。
優しさの単位が、一枚ぶん、である。
一枚ぶんの優しさを、この妹は、十六年前の台所でも、たぶん一度使っている。
七十二枚の件は、墓まで持っていくことに決めた。
「次は、母の回です。段取りは、佳樹が組みます」
「こわいこと言うな」
「五月の連休を、想定しています」
もう日程まで想定されていた。
想定の外で生きることは、この妹の兄である限り、たぶん一生できない。
「それから、お兄様」
佳樹は、改札の向こうの人混みを見たまま、言った。
「今度は、黙って、いなくならないでくださいね」
「……いなくならないよ」
「お約束の実績が、一件ありますので、念のためです」
「破った実績な」
「はい。ですので、今回は、二人がかりで監視します」
監視って言うな、と言いかけて、やめた。
二人がかり、の二人の顔を思い浮かべたら、悪くない監視だと思ってしまったからである。
帰りのこだまで、彼女は三枚の資料を、熟読していた。
「そんなに読み込まなくていいよ、それ」
「よ、要点が的確ですっ。特に二枚目のっ」
「俺の取扱説明書だよ、それ」
「じゅ、重要書類ですっ」
重要書類は、クリアファイルに入れられて、彼女の鞄に格納された。
格納された鞄の内側で、緑の小さな袋が、ちらりと揺れた。
格納が終わって、彼女は、大きく息を吐いた。
「……で、出ませんでしたねっ」
「なにが」
「ね、猫耳の件がっ」
「出さないよ、あいつも」
出さないと決めた人と、出さないと決めた人が、同じ日に同じ顔をしていたことは、伝えないでおく。
「し、しかしっ、よ、四枚目が、あ、あるような気がしてなりませんっ」
ある。
あるが、割愛された。
割愛の経緯と枚数は、俺の胸に、一枚ぶんだけ、しまっておくことにした。
窓の外を、夕方の浜名湖が流れていく。
行きに報告して、橋で名前を呼んで、実家で首席が確定して、資料を三枚もらって帰る。
一日の成果としては、過去最高である。
「あ、あのっ、温水さん……じゃなくて」
彼女が、資料から顔を上げた。
上げて、深呼吸を一つして、言い直した。
「……か、和彦さん」
「うん」
「か、家に帰ったら、そ、その……み、味噌汁の写真、送ってもいいですかっ。じゅ、十六年ぶんの、成果報告としてっ」
「毎週でも」
「ま、毎週っ……じゃ、じゃあ、毎週っ!」
毎週の様式が、また一つ増えた。
増えた様式の数だけ、俺たちの「いつも」は、これから厚くなっていく。
こだまは、各駅に停まりながら、東京へ向かう。
浜松を過ぎたあたりで、佳樹からメッセージが来た。
『本日の面接結果を、通知します』
『面接じゃなかったんだろ』
『様式です。……合格です。文句なしの、首席です。十六年前と、同順位』
画面を、隣に見せた。
彼女は三回読んで、それから、口元を両手で覆った。
「じゅ、受理しますっ……」
受理の声が、半分濡れていた。
濡れた声のまま、彼女は手帳を出して、今日の頁に何かを書いた。
書いた中身は、見なかった。
見なくても、この手帳の今年の頁が、いい記録で埋まっていっていることだけは、隣にいれば分かる。
急がない列車の窓で、隣の人の耳は、豊橋を出てから小田原まで、ずっと赤かった。