(四月八日/温水視点)
八奈見さんが去年の六月に学食の二階へ現れてから、俺たちの一年には、月二回の巡回日という定点がある。
定点の人は、焼き魚の日のレジの向こうから、いつも同じ顔でこちらを見ていた。
見られていることに、俺はだいたい気づいていなかった。
気づいていなかったツケが、新年度の八日目に、まとめて回ってきた。
事故は、四月八日の昼、学食のレジ横で起きた。
日替わりの載ったトレイを受け取るとき、俺は、後ろの彼女に言ったのである。
「天愛星さん、二階でいい?」
言ってから、気づいた。
ここは、職場である。
公私の区分は様式の基本、と決めたのが三月三十一日。
事故一件目まで、八日だった。
彼女の耳が瞬時に赤くなり、俺が訂正の言葉を探し、そのときだった。
レジの向こうから、声がした。
「ヘーえ」
振り向くと、ポロシャツにエプロンの八奈見さんが、腕を組んで立っていた。
巡回日である。
月二回の巡回日が、よりによって、今日だった。
「ヘー、え?」
二回目のヘーえは、一回目より長かった。
八奈見さんは、伝票の裏に何かを書いて、俺のトレイの端に置いた。
『十九時。二階。二人とも。』
閉店後の学食への、召喚状だった。
拒否権の欄は、今回もなかった。
席に着いてから、彼女は日替わりを、いつもの一・四倍速で食べた。
「……じ、事故一件目が、や、八日目とはっ」
「ごめん、俺の事故だ」
「わ、私の管理体制の問題でもありますっ。こ、公私区分の運用初週にっ」
「運用って言うほどのものかな」
「運用ですっ。……そ、それに、じ、事故の内容自体はっ、その」
「その?」
「……ふ、不快では、なかったのでっ、し、処分は、け、軽くしておきますっ」
処分権者の頬が赤いうちは、この制度は、たぶん健全である。
十九時、学食の二階。
照明は半分で、窓際のテーブルが一つだけ、椅子が下ろしてあった。
夏の特訓のときと、同じ席である。
拭いた跡が、まだ乾いていない。
「はい、お疲れ。座って座って」
厨房から出てきた八奈見さんは、エプロンのまま、俺たちの向かいに座った。
座って、テーブルに両肘をついて、あごを乗せた。
「で?」
「……で、とは」
「昼のあれ。『天愛星さん』。聞いちゃったんだよね、あたし、レジの真横で」
「や、八奈見さんっ、あ、あれはっ、その」
「いつから?」
「…………三月三十一日、です」
「どっちから?」
「じゅ、十六年前は、私からで……こ、今回は」
「俺から」
「ふーん」
八奈見さんは、あごを乗せたまま、俺と彼女を三往復、見た。
三往復目で、にっこり笑った。
「やっとかー」
やっと、に全部が入っていた。
「まってて。お祝い、作ってくる」
「え、いや、閉店後」
「エリアマネージャー権限」
権限の使い方が間違っている気がしたが、彼女はもう厨房に消えていた。
厨房から、油の音と、出汁の匂いがしてきた。
閉店後の学食に、営業中より本気の匂いが満ちていく。
二十分後、テーブルの上には、九品が並んでいた。
唐揚げの山、天丼、茶碗蒸し、豚汁、小鉢が三つ、杏仁豆腐が二つ。
祝いの膳というより、祝いの砲撃だった。
「二人ぶんに対して九品って、去年の七品を更新したよね」
「お祝いだもん。インフレなの」
「か、唐揚げが、や、山ですっ」
「馬剃さんはこっちの茶碗蒸しからね。出汁、自信作なの」
「い、いただきますっ。……ん、んんっ、こ、昆布のっ」
「でしょー」
出汁の話で、女子二人の間に、即席の同盟が結ばれた。
結ばれた同盟の横で、俺は唐揚げの山の解体を担当した。
九品が六品まで減ったところで、尋問が再開された。
「で、細かく聞くけど。十六年前、告白されて、返事しないで消えたのかなー、かな? 温水君」
「……はい」
「はい、じゃないでしょ。君のことだよ、温水君」
「すみません」
「で、馬剃さんは十六年待って、去年一年隣の席で、この三月に、やっと」
「ね、年度内に、か、回答をいただきました」
「年度内」
八奈見さんは、箸を置いた。
「役所か」
「や、役所ではなく、じ、事務職ですっ」
「同じようなもんじゃん。……はー、なるほどねえ。だから去年の夏、君たち、あんな空気だったんだ」
特訓の夜のことである。
あの夜、この人は三回乱入して、質の悪い質問を連発した。
連発の意図が、十か月越しに、少しだけ分かった気がした。
「あの夜さ、馬剃さんが最後、あたしに笑ったでしょ」
「わ、笑いましたか、私」
「笑った。堅い人が最後に笑うと、記憶に残るんだよ。……で、その顔見て思ったの。ああ、この人が隣にいるなら、温水君は大丈夫だなって」
「じゅ、十か月前から、け、結論が出ていたんですかっ」
「出てたよ。遅かったのは君たちのほうじゃん」
観察係の結論は、当事者たちより、十か月早かった。
「観察してたの、あたし。四月から一年」
「観察」
「月二回、焼き魚の日は必ず二階にいるでしょ、温水君。食べてる様子で、だいたい分かるの。あ、今週は元気だな、とか、あ、今なんか抱えてるな、とか」
「……飯で分かるの」
「分かるよ。一月の終わりごろ、温水君、三日連続でうどんだったでしょ。あれ、噛む元気がない週の食べ方なの」
一月の終わり。
列を一本ずらした週である。
観察係の精度に、俺は唐揚げを持ったまま、少し黙った。
「で、二月の頭から、また定食に戻った。隣の席の人が、なんかしたなって思ってた」
「よ、読み合わせを、しましたっ」
「でしょうね。そういう顔してたもん、二人とも」
「ち、ちなみに、私の観察記録は、あ、ありますかっ」
「馬剃さん? あるよ。緊張する日の朝、味噌汁を最後まで飲まないでしょ」
「っ……の、飲めない日が、あ、ありますっ」
「共通テストの朝と、合格発表の朝と、三月三十一日の昼。三回とも残してた」
「さ、三月三十一日までっ」
「で、四月一日の朝は、完飲。……そういうことかーって、レジで一人でにやにやしてたんだよね、あたし」
三月三十一日の答え合わせは、翌朝の味噌汁で、すでに済んでいたのである。
顔で全部を読む人が、レジの向こうに、一年いた。
いたことに、俺たちは半分も気づいていなかった。
「そういえばさ、馬剃さん」
デザートの杏仁豆腐を配りながら、八奈見さんが言った。
「選挙のとき、あたしが桜井くんの推薦人やったの、覚えてる?」
「お、覚えていますっ。せ、正々堂々、戦っていただきましたっ」
「あれさ」
杏仁豆腐の匙を、くるりと回す。
「『正々堂々やろうよ』って温水君に言ったの、半分は、選挙の話じゃなかったんだよね」
「……と、いいますと」
「乙女の霧の中の話。エントリーしてたかどうかも含めて、霧の中。もう晴れたけど」
霧、と言った横顔は、それ以上の開示を予定していない顔だった。
していないが、隠してもいなかった。
「だからさ、言わせて」
八奈見さんは、匙を置いて、姿勢を正した。
「十六年越しの、正々堂々の結果発表。――馬剃さんの勝ち。文句なし」
「や、八奈見さん……」
「異議は受け付けません。開票、終了」
開票結果に、彼女は深く、頭を下げた。
「かたっ! だからその礼、堅いんだって」
「か、堅くもなりますっ。……じゅ、十六年前、私は、や、八奈見さんが、こ、怖かったのでっ」
「え、何それ初耳」
「な、何を考えているか、わ、分からなくてっ。お、温水さんとの距離が、ち、近すぎてっ」
「今は?」
「い、今は……り、料理が、お、美味しい方だと、に、認識を改めましたっ」
「胃袋から認識を改めるタイプだ」
認識を改めた本人は、茶碗蒸しの二個目に取りかかっていた。
「あとさ、温水君。あたし、昔、君に『抜け駆けは禁止だからね?』って言ってたの、覚えてる?」
「……言われてた気がする」
「い、言われていたんですかっ」
「本人に言ってどうすんのって話だよね、今思えば。で、結局、誰も抜け駆けないまま十六年の停滞。世話ないじゃん」
世話ない十六年の内訳を知っている全員が、少しだけ黙った。
黙った沈黙を、八奈見さんが杏仁豆腐の最後の一匙で打ち切った。
「まあいいや。それで、本日の議題は最後の一件」
「まだあるんだ」
「観察係の、解任と引き継ぎ」
八奈見さんは、俺を指した。
「温水君観察係、本日付で解任。一年間、焼き魚の日に無事を確認する係でした」
「勝手に就任して勝手に解任してる」
「係ってそういうものなの。で、後任」
指が、隣に動いた。
「馬剃さん。毎日見られる席にいるんだから、適任でしょ。温水君、無理すると言葉数が減るからね?」
「は、把握していますっ。ご、五分同じ画面を見ていたら、き、危険信号ですっ」
「……もう引き継ぎ済みじゃん」
引き継ぎ資料三枚の効果が、こんなところで発揮された。
「ただし、あたしも月二回の巡回は続けるからね? 監視網は二重体制。今度温水君が逃げたら、連絡ちょうだい。全メニュー大盛りで完食させるから」
「ぜ、全メニューっ」
「うどんからデザートまで全部だよ」
「せ、制裁の受理は……い、いえ、逃がしませんので、発動条件は満たされない見込みですっ」
「いい答え」
俺の制裁体系が、俺抜きで、また一段、整備された。
帰り支度をしていると、八奈見さんが厨房から戻ってきて、俺に紙袋を持たせた。
「余りもの。二人で分けて」
「余りものの量じゃないんだよな、これ」
「あたしの店に余りものは出ないの。あれは意図的な作りすぎ」
「概念が新しいな」
それから八奈見さんは、少しだけ、声のトーンを変えた。
「温水君」
「うん」
「去年の夏、『元気そうでよかった』って言ったの、覚えてる?」
「……覚えてる」
「あれの続き、言うね」
彼女は、エプロンのポケットに両手を入れて、にっと笑った。
「――幸せそうで、よかった」
夏の続きが、十か月かかって、届いた。
届いた言葉は、九品の膳より、あたたかかった。
この人の祝福は、いつも、料理と一言のセットで来る。
セットの配分が、料理九に対して言葉一なのが、この人の様式である。
一のほうが、九より重いのも、である。
「……ありがとう」
「うん」
うん、だけだった。
この人の、うん、は、昔から全部入りである。
「じゃ、閉めるから帰った帰った。あ、馬剃さん、出汁のレシピ、今度教えるね」
「ぜ、ぜひっ。こ、昆布の詳細をっ」
「昆布の詳細って言う人、初めて見たんだけど」
女子二人の間で、次回の約束が、出汁を軸に締結された。
外に出ると、四月の夜は、まだ少し肌寒かった。
正門までの道を、紙袋を提げて、二人で歩いた。
「や、八奈見さんは……す、すごい方ですね」
「うん」
「じゅ、十六年前の話を、あ、あんなふうに、わ、笑って言える人に、私は、か、勝てた気がしませんっ」
「開票は終了したって言ってたよ」
「か、開票結果は、う、受理しましたっ。受理しましたけどっ、け、敬意は、べ、別枠ですっ」
別枠の敬意を抱えた人と、意図的な作りすぎの紙袋を提げて、夜道を歩く。
スマートフォンが鳴った。
八奈見さんからだった。
『次の巡回日、焼き魚にしといたから』
観察係を解任された人の、解任後最初の業務連絡だった。
係というものは、たぶん、書類の上でしか解任できないのである。
紙袋の中の意図的な作りすぎは、家に帰って数えたら、四食ぶんあった。
四食ぶんの巡回日が、来週も、その先も続く。
観察されながら食う焼き魚は、この一年で、少しずつうまくなっていた気がする。
理由は、たぶん、味付けの話ではない。
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