大学職員の僕たち   作:房吉

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~37敗目~ 観察係、解任

 (四月八日/温水視点)

 

 八奈見さんが去年の六月に学食の二階へ現れてから、俺たちの一年には、月二回の巡回日という定点がある。

 

 定点の人は、焼き魚の日のレジの向こうから、いつも同じ顔でこちらを見ていた。

 

 見られていることに、俺はだいたい気づいていなかった。

 

 気づいていなかったツケが、新年度の八日目に、まとめて回ってきた。

 

 事故は、四月八日の昼、学食のレジ横で起きた。

 

 日替わりの載ったトレイを受け取るとき、俺は、後ろの彼女に言ったのである。

 

「天愛星さん、二階でいい?」

 

 

 

 

 言ってから、気づいた。

 

 ここは、職場である。

 

 

 

 

 公私の区分は様式の基本、と決めたのが三月三十一日。

 

 事故一件目まで、八日だった。

 

 彼女の耳が瞬時に赤くなり、俺が訂正の言葉を探し、そのときだった。

 

 レジの向こうから、声がした。

 

「ヘーえ」

 

 

 

 

 振り向くと、ポロシャツにエプロンの八奈見さんが、腕を組んで立っていた。

 

 巡回日である。

 

 月二回の巡回日が、よりによって、今日だった。

 

「ヘー、え?」

 

 二回目のヘーえは、一回目より長かった。

 

 八奈見さんは、伝票の裏に何かを書いて、俺のトレイの端に置いた。

 

 『十九時。二階。二人とも。』

 

 閉店後の学食への、召喚状だった。

 

 拒否権の欄は、今回もなかった。

 

 席に着いてから、彼女は日替わりを、いつもの一・四倍速で食べた。

 

「……じ、事故一件目が、や、八日目とはっ」

 

「ごめん、俺の事故だ」

 

「わ、私の管理体制の問題でもありますっ。こ、公私区分の運用初週にっ」

 

「運用って言うほどのものかな」

 

「運用ですっ。……そ、それに、じ、事故の内容自体はっ、その」

 

「その?」

 

「……ふ、不快では、なかったのでっ、し、処分は、け、軽くしておきますっ」

 

 処分権者の頬が赤いうちは、この制度は、たぶん健全である。

 

 

 

 

 十九時、学食の二階。

 

 照明は半分で、窓際のテーブルが一つだけ、椅子が下ろしてあった。

 

 夏の特訓のときと、同じ席である。

 

 拭いた跡が、まだ乾いていない。

 

「はい、お疲れ。座って座って」

 

 厨房から出てきた八奈見さんは、エプロンのまま、俺たちの向かいに座った。

 

 座って、テーブルに両肘をついて、あごを乗せた。

 

「で?」

 

「……で、とは」

 

「昼のあれ。『天愛星さん』。聞いちゃったんだよね、あたし、レジの真横で」

 

「や、八奈見さんっ、あ、あれはっ、その」

 

「いつから?」

 

「…………三月三十一日、です」

 

「どっちから?」

 

「じゅ、十六年前は、私からで……こ、今回は」

 

「俺から」

 

「ふーん」

 

 八奈見さんは、あごを乗せたまま、俺と彼女を三往復、見た。

 

 三往復目で、にっこり笑った。

 

「やっとかー」

 

 やっと、に全部が入っていた。

 

「まってて。お祝い、作ってくる」

 

「え、いや、閉店後」

 

「エリアマネージャー権限」

 

 権限の使い方が間違っている気がしたが、彼女はもう厨房に消えていた。

 

 

 

 

 厨房から、油の音と、出汁の匂いがしてきた。

 

 閉店後の学食に、営業中より本気の匂いが満ちていく。

 

 二十分後、テーブルの上には、九品が並んでいた。

 

 唐揚げの山、天丼、茶碗蒸し、豚汁、小鉢が三つ、杏仁豆腐が二つ。

 

 祝いの膳というより、祝いの砲撃だった。

 

「二人ぶんに対して九品って、去年の七品を更新したよね」

 

「お祝いだもん。インフレなの」

 

「か、唐揚げが、や、山ですっ」

 

「馬剃さんはこっちの茶碗蒸しからね。出汁、自信作なの」

 

「い、いただきますっ。……ん、んんっ、こ、昆布のっ」

 

「でしょー」

 

 出汁の話で、女子二人の間に、即席の同盟が結ばれた。

 

 結ばれた同盟の横で、俺は唐揚げの山の解体を担当した。

 

 

 

 

 九品が六品まで減ったところで、尋問が再開された。

 

「で、細かく聞くけど。十六年前、告白されて、返事しないで消えたのかなー、かな? 温水君」

 

「……はい」

 

「はい、じゃないでしょ。君のことだよ、温水君」

 

「すみません」

 

「で、馬剃さんは十六年待って、去年一年隣の席で、この三月に、やっと」

 

「ね、年度内に、か、回答をいただきました」

 

「年度内」

 

 八奈見さんは、箸を置いた。

 

「役所か」

 

「や、役所ではなく、じ、事務職ですっ」

 

「同じようなもんじゃん。……はー、なるほどねえ。だから去年の夏、君たち、あんな空気だったんだ」

 

 特訓の夜のことである。

 

 あの夜、この人は三回乱入して、質の悪い質問を連発した。

 

 連発の意図が、十か月越しに、少しだけ分かった気がした。

 

「あの夜さ、馬剃さんが最後、あたしに笑ったでしょ」

 

「わ、笑いましたか、私」

 

「笑った。堅い人が最後に笑うと、記憶に残るんだよ。……で、その顔見て思ったの。ああ、この人が隣にいるなら、温水君は大丈夫だなって」

 

「じゅ、十か月前から、け、結論が出ていたんですかっ」

 

「出てたよ。遅かったのは君たちのほうじゃん」

 

 観察係の結論は、当事者たちより、十か月早かった。

 

「観察してたの、あたし。四月から一年」

 

「観察」

 

「月二回、焼き魚の日は必ず二階にいるでしょ、温水君。食べてる様子で、だいたい分かるの。あ、今週は元気だな、とか、あ、今なんか抱えてるな、とか」

 

「……飯で分かるの」

 

「分かるよ。一月の終わりごろ、温水君、三日連続でうどんだったでしょ。あれ、噛む元気がない週の食べ方なの」

 

 一月の終わり。

 

 列を一本ずらした週である。

 

 観察係の精度に、俺は唐揚げを持ったまま、少し黙った。

 

「で、二月の頭から、また定食に戻った。隣の席の人が、なんかしたなって思ってた」

 

「よ、読み合わせを、しましたっ」

 

「でしょうね。そういう顔してたもん、二人とも」

 

「ち、ちなみに、私の観察記録は、あ、ありますかっ」

 

「馬剃さん? あるよ。緊張する日の朝、味噌汁を最後まで飲まないでしょ」

 

「っ……の、飲めない日が、あ、ありますっ」

 

「共通テストの朝と、合格発表の朝と、三月三十一日の昼。三回とも残してた」

 

「さ、三月三十一日までっ」

 

「で、四月一日の朝は、完飲。……そういうことかーって、レジで一人でにやにやしてたんだよね、あたし」

 

 三月三十一日の答え合わせは、翌朝の味噌汁で、すでに済んでいたのである。

 

 顔で全部を読む人が、レジの向こうに、一年いた。

 

 いたことに、俺たちは半分も気づいていなかった。

 

 

 

 

「そういえばさ、馬剃さん」

 

 デザートの杏仁豆腐を配りながら、八奈見さんが言った。

 

「選挙のとき、あたしが桜井くんの推薦人やったの、覚えてる?」

 

「お、覚えていますっ。せ、正々堂々、戦っていただきましたっ」

 

「あれさ」

 

 杏仁豆腐の匙を、くるりと回す。

 

「『正々堂々やろうよ』って温水君に言ったの、半分は、選挙の話じゃなかったんだよね」

 

「……と、いいますと」

 

「乙女の霧の中の話。エントリーしてたかどうかも含めて、霧の中。もう晴れたけど」

 

 霧、と言った横顔は、それ以上の開示を予定していない顔だった。

 

 していないが、隠してもいなかった。

 

「だからさ、言わせて」

 

 八奈見さんは、匙を置いて、姿勢を正した。

 

「十六年越しの、正々堂々の結果発表。――馬剃さんの勝ち。文句なし」

 

「や、八奈見さん……」

 

「異議は受け付けません。開票、終了」

 

 開票結果に、彼女は深く、頭を下げた。

 

「かたっ! だからその礼、堅いんだって」

 

「か、堅くもなりますっ。……じゅ、十六年前、私は、や、八奈見さんが、こ、怖かったのでっ」

 

「え、何それ初耳」

 

「な、何を考えているか、わ、分からなくてっ。お、温水さんとの距離が、ち、近すぎてっ」

 

「今は?」

 

「い、今は……り、料理が、お、美味しい方だと、に、認識を改めましたっ」

 

「胃袋から認識を改めるタイプだ」

 

 認識を改めた本人は、茶碗蒸しの二個目に取りかかっていた。

 

 

 

 

「あとさ、温水君。あたし、昔、君に『抜け駆けは禁止だからね?』って言ってたの、覚えてる?」

 

「……言われてた気がする」

 

「い、言われていたんですかっ」

 

「本人に言ってどうすんのって話だよね、今思えば。で、結局、誰も抜け駆けないまま十六年の停滞。世話ないじゃん」

 

 世話ない十六年の内訳を知っている全員が、少しだけ黙った。

 

 黙った沈黙を、八奈見さんが杏仁豆腐の最後の一匙で打ち切った。

 

「まあいいや。それで、本日の議題は最後の一件」

 

「まだあるんだ」

 

「観察係の、解任と引き継ぎ」

 

 八奈見さんは、俺を指した。

 

「温水君観察係、本日付で解任。一年間、焼き魚の日に無事を確認する係でした」

 

「勝手に就任して勝手に解任してる」

 

「係ってそういうものなの。で、後任」

 

 指が、隣に動いた。

 

「馬剃さん。毎日見られる席にいるんだから、適任でしょ。温水君、無理すると言葉数が減るからね?」

 

「は、把握していますっ。ご、五分同じ画面を見ていたら、き、危険信号ですっ」

 

「……もう引き継ぎ済みじゃん」

 

 引き継ぎ資料三枚の効果が、こんなところで発揮された。

 

「ただし、あたしも月二回の巡回は続けるからね? 監視網は二重体制。今度温水君が逃げたら、連絡ちょうだい。全メニュー大盛りで完食させるから」

 

「ぜ、全メニューっ」

 

「うどんからデザートまで全部だよ」

 

「せ、制裁の受理は……い、いえ、逃がしませんので、発動条件は満たされない見込みですっ」

 

「いい答え」

 

 俺の制裁体系が、俺抜きで、また一段、整備された。

 

 

 

 

 帰り支度をしていると、八奈見さんが厨房から戻ってきて、俺に紙袋を持たせた。

 

「余りもの。二人で分けて」

 

「余りものの量じゃないんだよな、これ」

 

「あたしの店に余りものは出ないの。あれは意図的な作りすぎ」

 

「概念が新しいな」

 

 それから八奈見さんは、少しだけ、声のトーンを変えた。

 

「温水君」

 

「うん」

 

「去年の夏、『元気そうでよかった』って言ったの、覚えてる?」

 

「……覚えてる」

 

「あれの続き、言うね」

 

 彼女は、エプロンのポケットに両手を入れて、にっと笑った。

 

「――幸せそうで、よかった」

 

 

 

 

 夏の続きが、十か月かかって、届いた。

 

 届いた言葉は、九品の膳より、あたたかかった。

 

 この人の祝福は、いつも、料理と一言のセットで来る。

 

 セットの配分が、料理九に対して言葉一なのが、この人の様式である。

 

 一のほうが、九より重いのも、である。

 

 

 

 

「……ありがとう」

 

「うん」

 

 うん、だけだった。

 

 この人の、うん、は、昔から全部入りである。

 

「じゃ、閉めるから帰った帰った。あ、馬剃さん、出汁のレシピ、今度教えるね」

 

「ぜ、ぜひっ。こ、昆布の詳細をっ」

 

「昆布の詳細って言う人、初めて見たんだけど」

 

 女子二人の間で、次回の約束が、出汁を軸に締結された。

 

 

 

 

 外に出ると、四月の夜は、まだ少し肌寒かった。

 

 正門までの道を、紙袋を提げて、二人で歩いた。

 

「や、八奈見さんは……す、すごい方ですね」

 

「うん」

 

「じゅ、十六年前の話を、あ、あんなふうに、わ、笑って言える人に、私は、か、勝てた気がしませんっ」

 

「開票は終了したって言ってたよ」

 

「か、開票結果は、う、受理しましたっ。受理しましたけどっ、け、敬意は、べ、別枠ですっ」

 

 別枠の敬意を抱えた人と、意図的な作りすぎの紙袋を提げて、夜道を歩く。

 

 スマートフォンが鳴った。

 

 八奈見さんからだった。

 

 『次の巡回日、焼き魚にしといたから』

 

 観察係を解任された人の、解任後最初の業務連絡だった。

 

 係というものは、たぶん、書類の上でしか解任できないのである。

 

 紙袋の中の意図的な作りすぎは、家に帰って数えたら、四食ぶんあった。

 

 四食ぶんの巡回日が、来週も、その先も続く。

 

 観察されながら食う焼き魚は、この一年で、少しずつうまくなっていた気がする。

 

 理由は、たぶん、味付けの話ではない。

 

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