大学職員の僕たち   作:房吉

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~2敗目・裏~ ふせん一枚ぶんの距離

 午前八時前に出勤するのは、文科省にいたころからの習慣である。

 

 と、私は誰かに聞かれたらそう答えるつもりだった。

 実際には、違う。

 

 文科省時代の私は、八時前に出勤していたのではない。

 帰っていなかっただけである。

 

 いまは違う。ちゃんと帰って、ちゃんと寝ようとして、寝られなくて、五時半には目が覚める。

 六時に諦めて、七時前に家を出る。それだけの話だ。

 

 だから八時前に着く。

 健康的な理由ではないので、誰にも説明したくない。

 

「おはようございます、温水主任」

 

「おはようございます。早いですね」

 

「はい」

 

「……その、無理はしないでくださいね」

 

「はい」

 

 会話が終わる。

 

 本当は、「温水主任もです」と返す予定だった。

 昨夜、返答の候補を三つ用意した。三つとも、口から出なかった。

 

 私は毎朝、この二往復で会話を終わらせている。

 三往復目を作る方法が、分からない。

 

 ちなみに今朝、大貫君が温水さんに「負けてますよ」と小声で言っているのが聞こえた。

 私の出勤時刻の話らしい。勝負をした覚えはない。

 

 ないが、聞いた瞬間、明日は五分早く出ようと思った。

 ……何と戦っているのだ、私は。

 

 席は、隣である。

 

 肘掛けと肘掛けのあいだが、三十センチない。

 この人がマグカップを置く音も、ため息も、キーボードを叩く癖も、全部こちらに届く。

 

 ――ちなみに、この人のキーボードは、エンターキーだけ強い。

 

 二日目に気づいた。

 気づいて、それを数えている自分に気づいて、私は少しだけ落ちこんだ。

 

 

 

 

 四月三日。

 

 その日、温水さんは決裁の話をした。

 

「大学の仕事って、九割が『誰がハンコを押すか』なんですよ」

 

「事務決裁規程ですね」

 

「読みました?」

 

「はい」

 

 読んでいた。

 三月三十日の夜に、二回。

 

「じゃあ話が早い。実務でいうと、うちの課で一番多いのが高校訪問の出張伺いと、あとは印刷物の発注です。指定校推薦の枠数の決裁は――」

 

 彼が、少し考えた。

 

「あれは課長専決でいけます」

 

 ――違う。

 

 私のペンが止まった。

 

 事務決裁規程別表第二の第十四項。

 指定校推薦の枠数変更は、部長決裁である。前年度から増減がない場合に限り、課長専決。

 

 着任の前に読んだ。

 条番号まで覚えている。

 

 私は口を開こうとした。

 

 開いて――

 

 

 

 

 声が、出なかった。

 

 いや、正確に言うと、出そうとした瞬間に、身体のほうが先に止めた。

 

 私はそのとき、自分が何を思い出したのかを、自分では分からなかった。

 

 あとから分かった。

 

 ――会議室の、右から三番目の席。

 

 入省七年目の秋、私はある会議で、上司の説明の誤りを指摘した。

 根拠のある指摘だった。指摘しなければ、後で大きな問題になる種類のものだった。

 

 その場で、上司は「ああ、そうだね」と言った。

 それだけだった。何も起きなかった。

 

 何も起きなかったのは、その日だけだった。

 

 ……ここまでにする。

 

 この先を思い出す必要はない。

 もう終わったことだし、私はもうそこにいない。

 

「承知しました」

 

 私は言った。

 

 

 

 

 その夜、私は部屋の床でノートパソコンを開いた。

 

 事務決裁規程を確認し、別表第二をもう一度読み、私の理解が正しいことを確かめた。

 正しかった。

 

 問題は、これをどう伝えるかである。

 

 案一。翌朝、口頭で伝える。

 案二。メールで送る。

 案三。ふせんに書いて、机に貼る。

 

 私は案三を選んだ。

 

 理由は、口頭だと相手が周囲に聞かれるから。

 メールだと記録が残るから。

 

 ……本当の理由は、たぶん違う。

 

 口頭は、相手の顔を見なければならないからだ。

 

 私はふせんを四枚無駄にした。

 

 書いては丸め、書いては丸めして、そのたびに、くしゃ、と小さな音がした。

 

 一枚目は、字が硬すぎた。

 二枚目は、「存じます」が二回あった。

 三枚目は、書いているうちに謝罪の文になっていた。

 

 四枚目で、ようやく業務連絡の体裁になった。

 

 『事務決裁規程 別表第二・第十四項につき、指定校推薦の枠数変更は部長決裁と存じます。前年度からの増減がない場合のみ課長専決。馬剃』

 

 没にした三枚は、細かく破って捨てた。

 筆跡から動揺が読める気がしたからである。読む人は、いない。

 

 私はそれを鞄に入れて、そのまま床で寝てしまった。

 

 

 

 

 翌朝、七時五十分。

 

 私は誰もいない課で、彼のキーボードの上にふせんを貼った。

 貼って、自分の席に戻って、パソコンを立ち上げた。

 

 心臓が、とくとくと速い。

 ふせん一枚を貼るだけのことで、なぜこんなに緊張しているのか、自分でも分からなかった。

 

 八時十五分に、彼が来た。

 

 ふせんを取る音。

 少し間があって、椅子の背が、ぎ、と鳴った。

 

 私は画面を見たまま、息を止めていた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「ふせん、ありがとうございます。俺の間違いです」

 

「いえ」

 

「助かりました。あれ、部長に上げずに出してたら、六月に事故ってました」

 

「……はい」

 

 私は画面を見ていた。

 見ていないと、たぶん、顔が保てなかった。

 

 彼は立ち上がって、給湯室のほうへ二歩歩いて、戻ってきた。

 

 

 

 

「あの、一個だけ聞いていいですか」

 

「はい」

 

「昨日、その場で言ってくれてもよかったのに」

 

 

 

 

 この人は、そういうことを聞く。

 

 文科省では、誰も聞かなかった。

 私が何かを言わなかったとき、その理由を聞いた人は一人もいなかった。

 

 言わなかったことは、存在しないのと同じだからだ。

 

「……人前で、上司の誤りを指摘したことがありまして」

 

 私はそう答えた。

 

 それ以上は、言わなかった。

 言えば説明になるし、説明すれば言い訳になる。

 

 彼は、それ以上聞かなかった。

 

 給湯室に行って、コーヒーを淹れて、戻ってきて――私の机の横に立った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これから俺が間違ってたら、その場で言ってください」

 

 私は顔を上げた。

 

「俺、間違えるんで。わりと頻繁に」

 

「……」

 

「大貫にも同じこと言われてます。『温水さん、平気で嘘の情報流しますよね』って」

 

「言いましたけど、それ悪口ですからね!」

 

 三席向こうから声が飛んできた。

 

「本当に、いいんですか」

 

 私は聞いた。

 

 声が、少し低くなった。自分でも分かった。

 

「よくないと死ぬんですよ、この仕事」

 

 彼はマグカップをひと口すすった。

 

「六月に十七件の相談会があります。俺が間違ったまま喋ったら、それを聞いた高校生が間違ったまま出願します。……で、落ちます」

 

 

 

 

 ――ああ。

 

 私は、そのとき、たぶん少しだけ表情を崩した。

 

 この人は、「私のため」と言わなかった。

 「言ってくれたほうが助かる」とも言わなかった。

 

 落ちる子がいる、と言った。

 

 だから言え、と。

 

 ……ずるい。

 

 こう言われたら、私はもう、言わないという選択ができない。

 この人は、私に、逃げ道を残さない形で許可を出した。

 

 たぶん、無自覚である。

 

「承知しました」

 

 私はそれだけ答えた。

 

 短くしないと、声が変わりそうだった。

 

 

 

 

 その日の午後、私は課の空気を観察していた。

 

 観察しよう、と思って観察していたわけではない。

 ただ、ふせんの一件のあと、なんとなく手が止まって、周りの音を聞いていた。

 

 大貫君が電話をしている。桑原主査が印鑑を押している。

 鷲尾課長が誰かと立ち話をしていて、時々笑い声が上がる。

 

 ――噂が、立たない。

 

 私は、そのことに気づいた。

 

 

 

 

 中途で入って四日目である。

 入って三日というのは、いちばん噂が立つ時期だ。

 

 役所では、そうだった。

 人が入って三日で、その人の前職と、出身と、誰と親しいかが、フロア中に行き渡っていた。

 

 この課には、それがない。

 

 なぜか。

 

 私は、初日のやり取りを、頭の中でもう一度再生した。

 

 

 

 

 ――そういえばお二人、同じ高校なんですって。

 

 ――知り合い程度ですよ。学年が同じだっただけです。三百二十人いましたから。

 

 

 

 

 あのとき。

 

 あの一言のあと、大貫君は「なーんだ」と言った。

 課長は「あら、そう」と言って、それきり話題にしなかった。

 

 三日間、誰も、その話をしていない。

 

 

 

 

 ぞわ、と背中が粟立った。

 

 ――そうか。

 

 中途で入った女性職員と、既存の男性職員が、高校の同級生だったとする。

 しかも同い年で、OJT担当と新人という関係にある。

 

 この条件がそろったとき、周囲に何が起きるか。

 

 私は、それを知っている。

 文科省で、二度、間近で見た。

 

 二度目のときに壊れた人は、私ではなかった。

 私ではなかったが、私はその人の異動を、掲示で知った。

 

 

 

 

 あの一言は。

 

 私は、パソコンの画面を見たまま、動けなくなっていた。

 

 喉の奥が、きゅっと締まった。

 

 ――守られていた。

 

 私は、三日間、あの言葉に傷ついていた。

 

 友達だったはずだった。

 それが「学年が同じだっただけ」に圧縮されたことに、私は初日の夜、部屋の床でしゃがみこんだ。

 

 その三日間、この人は、私の三年後を計算していた。

 

 

 

 

 ばか。

 

 

 

 

 私は、心の中で、そう言った。

 

 誰に対して言ったのかは、自分でも分からない。

 この人にか、私にか。

 

 たぶん、私にである。

 

 

 

 

 言ってほしかった。

 

 「あれはこういう意図です」と、一言でいいから、言ってほしかった。

 

 でも、この人は言わない。

 言ったら、それは恩着せになる。恩着せになったら、私はこの人に借りができる。

 

 ……そこまで計算しているのだとしたら、この人は、本当に。

 

 私は、キーボードに手を戻した。

 

 戻して、三行、意味のない文字を打って、全部消した。

 

 

 

 

 四月に入ってから、昼は毎日、誰かと一緒に食べている。

 

 初日は温水さんが学食に案内してくださった。それから数日は、大貫君が誘ってくれる。

 ……そろそろ、断ることになると思う。

 

 断るのは、彼が嫌だからではない。

 

 人と昼を食べると、五十分間、表情を維持しなければならない。

 午後の会議に備えるためには、その五十分を、回復に使いたい。

 

 ――と、私は自分に説明している。

 

 説明の内容が、我ながら病的だとは思う。

 

 

 

 

 その日、私は温水さんの説明を受けていた。

 

 委員会の話だった。

 

「この八人、仲がいいわけじゃないです」

 

「……それを、把握したうえで議事を」

 

「そうです。議題の並び順で結果が変わるんで」

 

 私は、それを書き取りながら、うまく息ができないような感覚を覚えていた。

 

 同じことを、私は文科省でも見ていた。

 見ていて、そして「そういうことをするから物事が歪む」と思っていた。

 

 この人は、同じことをして、そして――

 

「馬剃さんは馬剃さんのやり方でいいです」

 

 と、言った。

 

 私は顔を上げた。

 

「これ、正解じゃないんで」

 

 

 

 

 正解じゃない、と言われたのは、いつ以来だろう。

 

 役所では、誰もが正解を持っていた。

 持っていない人は、持っている人の後ろについた。

 

 私は、正解を持とうとして、持てなくて、そして持っているふりをやめられなかった。

 

 この人は、十六年かけて、自分のやり方を作って、それを「正解じゃない」と言う。

 

 ……こういうところが。

 

 私は手帳に何かを書いた。

 書いた内容は、いま思い出せない。たぶん、業務とは関係のないことだった。

 

 

 

 

 昼休み。

 

「馬剃さん、聞いていいですか」

 

 大貫君が、正面に座った。

 

「文科省ってどんなとこなんですか。やっぱ全員めちゃくちゃ頭いいんですか」

 

 

 

 

 箸が止まった。

 

 〇・五秒である。

 

 その〇・五秒のあいだに、私が処理したものは、以下のとおりだった。

 

 一、この質問に悪意はない。

 二、答えなければ不自然である。

 三、正直に答える必要はない。

 四、用意してある第一案が使える。

 

 処理は完了した。完了して、口が動く直前。

 

「そうですね。優秀な方が多かったです」

 

 言えた。

 

 言えたのに、味噌汁の椀を持つ手が、ずしりと重かった。

 指先が、じわ、と冷たくなっていく。

 

「うわ、いいなー。俺、地元の私大なんで、そういう世界まったく知らなくて」

 

 次の質問が来る。

 来ると分かった。

 

「大貫君」

 

「……えっ、いま?」

 

「お前、来週の高校訪問のアポ、あれ何件取れた」

 

 

 

 

 話題が、私の頭の上を越えていった。

 

 私は焼き魚を崩しながら、そのやり取りを聞いていた。

 

 電話は午前十時から十一時にかける。

 先生方が授業に出る前だから。

 

 ――そういうことじゃない。

 

 いや、そういうことなのだが。

 

 この人はいま、私の話を、大貫君の失点にすり替えた。

 しかも大貫君が納得する形で。しかも大貫君にとって有益な情報を渡す形で。

 

 誰も損をしていない。

 誰も、何が起きたか気づいていない。

 

 ……私だけが気づいている。

 

 私は味噌汁を飲んだ。

 顔を上げなかった。上げたら、たぶん、まずいことになると思った。

 

 

 

 

 午後、電話応対の練習をした。

 

「うちの課で気をつけるのは、受験生本人からの電話です」

 

「といいますと」

 

「あの子たち、めちゃくちゃ緊張して電話してくるんですよ」

 

「だから、最初の三秒だけゆっくり喋ってください。『はい、入試広報課です』を、ちょっとだけ遅く」

 

 私はそれを書き取った。

 

 三秒。

 

 文科省では、電話は速さがすべてだった。

 名乗り、用件、回答。無駄を削ぎ落とすことが、相手への礼儀だった。

 

 三秒ゆっくり喋る、という発想は、なかった。

 

 

 

 

 一本目、印刷会社。取り次いだ。

 二本目、高校の先生。問題なし。

 

 三本目。

 

「はい、入試広報課でございます」

 

 三秒、ゆっくり。ちゃんとできた。

 

 ――文部科学省高等教育局の。

 

 

 

 

 音が、すう、と遠くなった。

 

 正確に言うと、音は聞こえている。

 人の声だと分かる。日本語だと分かる。

 

 単語が、意味にならない。

 

 私はそのとき、机の木目を見ていた。

 右手前の、小さな傷。前任者がつけたのだろう。三ミリくらいの傷。

 

 その傷を見ながら、私は、自分が呼吸をしているかどうかを確認しようとしていた。

 

 ――ふ、と受話器が軽くなった。

 

 

 

 

 指のあいだから、するりと抜けていった。

 

 抵抗しなかった。

 抵抗するという発想が、そのときはなかった。

 

「お電話代わりました、入試広報課の温水と申します」

 

 彼の声が、すぐ横で始まった。

 

「はい。……はい、入学者選抜実施状況の調査票の件ですね」

 

 普通の声だった。

 いつもの声だった。

 

「締切、今月末でしたよね。……あ、二十五日ですか。すいません、こちらの控えが古かったです」

 

 私は膝の上で、両手を重ねた。

 右手が左手を押さえていた。押さえていないと、指が動くからだ。

 

「様式は前年度から変更ありですか。……なるほど、別紙二だけ」

 

 三分で終わる話だった。

 

 私が固まっていたのは、たった三分の、ごく事務的な照会だった。

 

 

 

 

 彼は受話器を置いて、メモを書いて、自分の席に戻った。

 

 戻ってから、画面を見たまま、言った。

 

「馬剃さん」

 

「……申し訳ありません」

 

「俺、電話代わるの得意なんで」

 

 

 

 

 私は顔を上げた。

 

「用度にいたころ、クレーム電話を代わる係だったんですよ。院内の苦情って全部あそこに来るんで」

 

「あれ、コツがあって。代わったほうが冷静に聞こえるんですよね。同じこと言っても」

 

「だから、しんどい電話は投げてください。俺、得意なんで」

 

 

 

 

 ――違う。

 

 この人は、いま、私の話を一つもしていない。

 

 「大丈夫ですか」とも聞かない。

 「何かあったんですか」とも聞かない。

 

 自分の得意な仕事の話をして、それを引き受けると言っただけである。

 

 つまり、これは、支援ではない。

 業務の分担である。

 

 ……そういう形にしてくれた、ということだ。

 

 私は、しばらく黙っていた。

 黙ってから、言った。

 

「……なぜ、何も聞かないんですか」

 

 彼のマウスから、手が離れる音がした。

 

「聞かれたら嫌でしょ」

 

 

 

 

 私は、その言葉に、返事ができなかった。

 

 喉の奥が、ぎゅっと詰まった。

 

 嫌である。

 聞かれたら、嫌だ。

 

 だから私は、この一年半、誰にも何も話していない。

 

 両親にも「体調を崩して」としか言っていない。

 志喜屋先輩にも、輪郭しか話していない。

 

 この人は、それを、たった一往復で見抜いた。

 

 ……いや。

 

 見抜いたのではないかもしれない。

 

 この人は昔から、人が言われたくないことを避けるのがうまかった。

 うますぎて、そのせいで、大事なことを何も言わないまま卒業した人だ。

 

「……はい」

 

 私はそれだけ答えた。

 

 午後四時に大貫君が「あーもう疲れた」と大声で言って、部屋の空気が普通に戻った。

 

 

 

 

 金曜日に、歓迎会があった。

 

 私は前日の夜、答えを三つ用意した。

 

 第一案。「優秀な方が多かったです」

 第二案。「ご期待いただけるほどの働きは、できませんでしたので」

 第三案。「その話は、また今度」

 

 第三案は、使えたことがない。

 場が凍るからだ。

 

 当日、私は上座に座らされた。

 柏木部長の正面。逃げ場のない席である。

 

 四十分ほどして、部長が身を乗りだした。

 

「文科省でしょう? 補助金の申請とか、全部お見通しでしょ」

 

「いえ、私は補助金の担当ではありませんでしたので」

 

「またまた。何年いらしたんでしたっけ」

 

「十年です」

 

「十年! 十年いて、なんでまた辞めちゃったんですか」

 

 

 

 

 ――第二案。

 

「ご期待いただけるほどの働きは、できませんでしたので」

 

 部長は満足そうに笑って、話は次に移った。

 

 うまくいった。

 うまくいったので、私は二十時ちょうどに立ち上がった。

 

「申し訳ありません。少し体調が優れませんので、失礼いたします」

 

 誰も止めなかった。

 止められないように言ったのだから、当然である。

 

 

 

 

 外に出たら、風があった。

 

 私はまっすぐ歩いた。

 まっすぐ歩くことに集中していた。集中していないと、歩き方が分からなくなる夜がある。

 

「馬剃さん」

 

 振り返って、しまったと思った。

 

 

 

 

 並んで歩いた。

 

 足音が、少しずつ揃っていく。

 彼が半歩、歩幅をずらした。揃わないように。

 

 ――気づかれた。

 

 どき、とした。

 そして、それに気づいた自分に、うんざりした。

 私は今日、何回、この人の挙動を数えているのだろう。

 

「あの、部長のあれ、悪気ないんで」

 

「存じてます」

 

「はい」

 

「……本当に、存じているんです」

 

 私は言った。

 

「悪気のない方の質問が、いちばん答えにくいというのは、この十年で学びました」

 

 彼は、何も言わなかった。

 

 言わないでいてくれた、というほうが正確だと思う。

 

 

 

 

「私、ああいう席が、少し苦手で」

 

「……体質というのは、嘘です」

 

「知ってます」

 

 

 

 

 私は足を止めかけた。

 

「なぜ」

 

「あ、いや。今日、ウーロン茶に三回しか口つけてなかったんで」

 

「飲めない人は、逆にめちゃくちゃ飲むんですよ。手持ち無沙汰だから。三回しか飲まない人は、飲めないんじゃなくて、飲みたくない人です」

 

 

 

 

 ……この人は。

 

 この人は、いったい、私を何回見ているのだろう。

 

 私が彼を数えているように、彼も私を数えている。

 しかも、こちらのほうが精度が高い。

 

「……よく、見ていらっしゃるんですね」

 

「用度で三年、業者さんと飲んでたんで。職業病です」

 

 職業病。

 

 便利な言葉だ。

 この人は、自分の行動に必ず、そういう説明をつける。

 

 信号が青になった。

 

「あの、もしよかったら」

 

 

 

 

 私は、そこで、はっきりと待った。

 

 自分でも驚くくらい、はっきりと待った。

 

 続く言葉を、私は三つくらい想定していた。

 三つのうち、二つは、私が「はい」と答えるものだった。

 

「……もしよかったら、月曜は少し遅く来てください。今日、気を張ったでしょうから」

 

 

 

 

「はい。ありがとうございます」

 

 私はそう言って、頭を下げた。

 

 改札の手前で「お疲れさまでした」と言って、別のホームに向かった。

 

 階段を上りながら、私は自分の顔に手を当てた。

 

 ――何を期待していたのか。

 

 私は自分に聞いた。

 

 答えは出なかった。

 出さないようにした、というほうが正しい。

 

 

 

 

 電車に乗って、私は手帳を開いた。

 

 今日の欄に、業務のメモが九行ある。

 

 その下に、私は一行だけ、書き足した。

 

 『月曜、遅く来ない』

 

 ……我ながら、意味の分からないメモである。

 

 私は手帳を閉じた。

 

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