四月十五日、午後四時四十分。
温水さんの様子が、朝からおかしかった。
根拠を挙げる。
一、書類を三回めくって、三回とも同じページに戻していた。
二、マグカップを口に運んで、飲まずに置いた。十四時二分と、十四時九分。
三、独り言。
「温水さん、独り言すごいですよ」
「言ってない」
「言ってました。『いやそれは重い』って三回」
大貫君の声で、私はキーボードから指を離した。
――三回。
私が数えていたのは、二回だった。
一回、聞き逃していたらしい。
「なんの話してたんですか」
「業務の話だ」
「どの業務ですか」
「指定校の枠数の話だ」
「それのどこが重いんですか」
温水さんは答えなかった。
私は自分の画面を見たまま、指定校のリストに三行、間違った数字を入れた。
入れてから気づいて、直した。直すのに、二分かかった。
この人は、思考が漏れる人だ。
高校のときもそうだった。
廊下で一人でぶつぶつ言っていて、私はそれを二回、注意したことがある。
だから、正確にはこうなる。
――この人は、余裕がないときにだけ、思考が漏れる。
なぜ余裕がないのか。
私はそれを、業務上の理由から把握しておく必要がある。
OJT担当者の状態が業務に影響する可能性があるからだ。したがって、私が観察することには合理性がある。
……この論法を、私は今月に入ってから、七回使っている。
十七時十五分。
鷲尾課長は出張から戻らず、桑原主査は歯医者、大貫君は「合コンです!」と堂々と宣言して十七時十六分に消えた。
課には、二人だけが残った。
空調の音が、やけに大きく聞こえた。
「あの、馬剃さん」
椅子が回る音がした。
「はい」
「今日、このあとって」
背筋が、ぴん、と勝手に伸びた。
次に、口が勝手に動いた。
「業務時間外の付き合いは、強制ではありませんよね」
――違う。
言った瞬間、頭の中が、かっと熱くなった。
違う。そうじゃない。
私が言いたかったのは、そんなことではない。
この一文は、私が文科省にいた最後の一年で、毎週のように使っていたものだ。
金曜の夕方、あの人が私の席に来るたびに、私はこれを言おうとした。言えた週のほうが少なかった。
あれは、防具だった。
防具は、相手を選んで使うものではない。飛んできたものに、反射で出るものだ。
だから、いま、出た。
この人に向かって。
「あ、はい。そうですね」
温水さんが、即座に椅子を戻した。
「すいません、忘れてください」
――早い。
引くのが、早すぎる。
この人は、昔からそうだった。
拒否の気配を〇・一秒で拾って、その瞬間には撤退が完了している。
鞄を持って立ち上がる音がした。
「じゃあお疲れさまです」
行ってしまう。
ぐらり、と視界が揺れた気がした。
実際には揺れていない。揺れたのは私のほうだ。
「あの!」
私は立ち上がった。
勢いがよすぎて、椅子ががたん、と後ろの棚にぶつかった。
音が、思ったより大きかった。
「……すみません。いまのは、条件反射で」
自分の声が、うわずっていた。
「そうじゃなくて、その、あの」
「はい」
「行きます」
「はい?」
「行きます。ご一緒します」
鞄を持ったまま突っ立っている温水さんを見て、私は、ようやく少しだけ息を吐いた。
「……いま、断られたと思ったんですけど」
「断ってません」
「めちゃくちゃ断る顔でしたけど」
「そういうとこですよ」
――出た。
私は口を押さえた。
顔が、ぶわっと熱くなる。
この言葉を、私はこの二週間で、たぶん四十回は飲みこんでいる。
八奈見さんの口癖である。
高校のとき、あの人がこの人に言っているのを、私は何度も横で聞いた。
聞くたびに、少し、うらやましかった。
あんなふうに人を叱れる関係が、私には一つもなかったからだ。
「……いえ、失礼しました」
「あ、はい」
私たちは、それ以上、何も言わなかった。
電車に乗って、一駅目でホームに降りようとしたら、止められた。
「まだです」
「え」
「もう一駅です」
私はドアの前に戻った。
――二駅。
理由は、考えれば分かる。
大学の最寄りには、教職員がよく行く店が三軒ある。
二駅離れれば、まず誰にも会わない。
誰にも会わないようにする理由は、ひとつしかない。
……私は、そのことについて考えるのをやめた。
やめて、代わりに、吊り革の高さを目で測った。
考えたくないことがあるとき、私は目の前のものを計測する。癖である。
通されたのは、奥の四人席だった。
おしぼりを渡されて、メニューを開いて、そこで私は動かなくなった。
三分ほど経ったと思う。
「馬剃さん、決まりました?」
「いえ、こちらの飲み放題の条件を確認しておりまして」
「条件」
「ラストオーダーが九十分となっていますが、退店時刻の記載がありません。九十分経過後の滞在について、追加料金が発生する可能性が」
「発生しないです」
「明記されていませんが」
「明記されてなくても発生しないです。この店、五年通ってますけど一度もなかったです」
「……慣例ということですか」
「慣例です」
私は眉をひそめた。
慣例。
私が十年かけていちばん憎んだ言葉である。
明文化されていないルール。
「そういうものだから」で終わる説明。誰も責任を取らない運用。
その単語が、この人の口から出ると、なぜか腹が立たない。
なぜだろう、と私は考えた。
考えて、この人は「慣例です」と言ったあと、必ず理由を足す人だからだと気づいた。
現に、この人はさっき、五年ぶんの実測値を足した。
……あの人たちは、足さなかった。
「じゃあ、飲み物どうします。ウーロン茶で」
私は、そこで、〇・三秒だけ考えた。
私は酒に弱い。
二杯で顔が赤くなり、三杯で口が軽くなる。自覚している。
だから、外では飲まない。
文科省にいた十年間、私は一度も、公的な場で酔ったことがない。酔ったら何かを言ってしまうと思っていたからだ。
言ってしまうと、終わる。
だから、飲まなかった。
――でも。
今日、この人は、二駅離れた店を選んだ。
私が飲めない人ではないことを、この人はもう見抜いている。
そして。
私はこの一年半、一度も、酔ったことがない。
「生ビールで」
「え」
「生ビールで」
「……飲めるんですか」
「歓迎会では飲みませんでしたが」
私はメニューを閉じた。
「あの場では、飲みたくなかっただけです」
――今日は、逃げない。
私はそう決めた。
三十四歳が、居酒屋の四人席で、生ビールを頼むだけのことに、それだけの決意を要した。
我ながら、情けない話である。
でも、決めたら、胸のあたりが、すう、と少し軽くなった。
「お疲れさまでした」
乾杯をして、私はジョッキの三分の一を一息で飲んだ。
冷たいものが、喉から胃に、とん、と落ちていく。
五秒後には、耳が熱くなっていた。
「……馬剃さん」
「はい」
「弱いですよね?」
「弱くありません」
「顔が」
「これは店内の温度です」
嘘である。
彼が水を頼んで、枝豆の皿を私の前に押しやってきた。
私はそれを一つ、丁寧に開けた。
開けた豆を、皿の縁に三つ並べた。
役所の飲み会で、私はいつもこれをやっていた。
手を動かしていると、話しかけられにくい。
並べる作業に集中していれば、視線を合わせずに済む。
十年やって、癖になった。
彼は、それについて何も言わなかった。
言わなかったが、たぶん、見ていた。この人はいつも見ている。
「温水主任」
「はい」
「本日は、その、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ。急に誘ってすいません」
「いえ」
沈黙。
しん、とした。
いや、店内は騒がしい。隣の席のサラリーマンが笑っている。厨房から音がする。
うるさいのに、この四人席だけが、しんとしていた。
――気まずい。
私は毎日八時間、この人の隣に座っている。
肘が当たりそうな距離で、何十回も言葉を交わしている。
あそこでは、平気なのだ。
三十センチでも、業務連絡なら、何も起きない。
いま、テーブルを挟んで一メートル離れている。
離れているのに、こちらのほうが、はるかに息が苦しい。
それなのに、いま、私は初対面より緊張していた。
彼が店員を呼んで、焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。
頼み終わるより先に、私はタレと塩の配分を店員に質問していた。任せる範囲の規定まで、聞いた。
我ながら、業務監査である。
途中で手帳に手が伸びかけたところで、「以上で」と、少し早口で注文を締められた。
議事録を取ろうとした自覚は、ある。防具というものは、相手を選ばず勝手に発動する。
枝豆を、もう三つ並べた。
「馬剃さん、変わらないですね」
どきん、とした。
「変わりました」
「そうですか?」
「校則を暗記しなくなりました」
「……就業規則を暗記してるだけでは」
私は、たっぷり三秒、止まった。
止まって、それから、言ってしまった。
「そういうとこですよ、温水さん」
二人とも、動かなくなった。
――呼んだ。
温水さん。
この二週間、私は職場で「温水主任」と呼びつづけてきた。
意味があると思っていた。役職で呼んでいるあいだは、私はただの職員でいられる。
いま、私はそれを、自分から手放した。
顔が、かあっと熱くなる。
耳も、たぶん首も赤い。もう店内の温度のせいにはできない。
「あの、いまのは」
「二回目ですね」
「……はい」
「今日だけで二回」
「そうですね」
「ひさしぶりに言われましたよ、それ」
私は、口を押さえていた手を、そっと下ろした。
「……八奈見さんの口癖でしたよね」
その名前を出すのに、二週間かかった。
言ったあと、心臓が、とくとくと速く鳴っていた。
この人が、どんな顔をするか。
それが、怖かった。
「そもそも、あなたが悪いんですよ」
二杯目が来たころ、私は箸で彼を指していた。
行儀が悪い。素面の私は絶対にやらない。
「なにが」
「持ち物検査です」
「あれは俺、被害者だろ」
「学校にあんな本を持ってくるのが悪いんです」
「普通の小説だって言ったよな。文庫本だぞ」
「表紙をご覧になりましたか?」
「見たよ」
私はジョッキを置いて、姿勢を正した。
「『二人合わせてハタチだから、いますぐお嫁にいけますよ?』」
一字一句、正確に言った。
「え、覚えてるの?」
「忘れられるわけがないでしょう!」
声が裏返った。
裏返ってから、気づいた。
私はいま、居酒屋で、あのタイトルをフルボイスで暗唱した。隣の席の視線が痛い。
「あなたが言わせたんです!」
言いながら、自分から暗唱した自覚は、あった。
……お酒のせいである。そういうことにする。
「私、あのタイトルの意味が、いまだに分からないんです。十歳が二人いても結婚はできません。十六年考えました」
「十六年も考えてたの?」
「たまにです。たまに、ふと思い出して、そのたびに腹が立つんです」
彼が、ぶっ、と吹き出した。
「笑わないでください」
「いや、ごめん。……あれ、合法になった世界の話だから」
「どういう世界ですか」
「そういう世界だよ」
「答えになってません」
――笑った。
私は枝豆を開けながら、その音を聞いていた。
この人が声を出して笑ったのを、私は今日、初めて聞いた。
いや、十六年ぶりに、である。
胸の奥が、じん、とした。
「そもそも、あの本を持ちこんだのは俺じゃないからな」
「知ってます」
「知ってるのに没収したの?」
「文芸部の管理責任です」
「一年生だぞ、当時の俺」
「部長でしたよね」
「二年からだよ」
――え。
私は、考えこんだ。
「……あれ」
「一年のときは平部員だ。部長は玉木先輩で、そのあと小鞠だった」
「では、私が最初に叱ったときのあなたは」
「ただの一年生」
ジョッキを持ったまま、私は固まった。
「十六年、勘違いしてました」
「けっこう理不尽に怒られてたんだよ、俺」
「……申し訳ありません」
「いまさら謝られても」
「謝りますよ。私、そういうところは、ちゃんとしてるんです」
私は本当に頭を下げた。
下げながら、じわり、と申し訳なさが胸に広がった。
十六年前の私は、あの部室の入り口で、この人に何を言っただろう。
部長として責任がどうとか、たしか、そんなことを言った。
言った相手は、ただの一年生だった。
「顔上げて。焼き鳥がタレに落ちる」
「あっ」
「だいたい、文芸部は問題が多すぎたんです。月之木先輩の件もありますし」
「あー」
彼が、あからさまに目を逸らした。
「あの、月之木先輩は」
「聞きたくありません」
「まだ何も言ってない」
「言われる前に分かります。あの方の話は、必ずろくでもない方向に行くんです」
――速すぎた。
自分でも分かった。
この人が「月之木先輩」と言い終わる前に、私は口を開いていた。
被せた。完全に、被せた。
なぜ被せたのかは、はっきりしている。
あと〇・五秒あったら、この人は「あの人、いまも書いてるのかな」と言った。
言われたら、私は答えなければならない。
答えると、私は嘘をつくことになる。
「元気にしてると思うよ、たぶん」
「してるでしょうね。ああいう方は、必ず元気なんです」
言い方に、恨みがこもっていた。
自分でも分かった。十六年経っても消えない恨みというものが、この世にはあるらしい。
……恨み。
便利な言葉だと思う。
あの人が高校の生徒会室に持ちこんだ一冊のせいで、私の十六年は、たしかに少し変わった。
大学四年間で、私は本棚を一つ買い足した。
文科省に入ってからは、置く場所がなくなって、読むほうは電子に移した。深夜のタクシーの中で読んだこともある。
それでも、紙のほうは買いつづけた。
あれは、私が私に許した、たった一つの逃げ場だった。
――だった。
私は、その助動詞の時制について、二秒ほど考えた。
考えて、やめた。
やめて、ジョッキに手を伸ばした。
「そういう馬剃さんだって、猫耳つけてただろ」
三杯目の途中で、彼が反撃してきた。
私の箸が、ぴたりと止まった。
「……なんの話でしょうか」
「ツワブキ祭」
「記憶にありません」
「メイド服で」
「記憶にありません」
「文芸部の会場に飛びこんできて、『会長、次は天文部ですにゃあ』って言ってた」
「言ってません! 言ってませんし、記憶にありませんし、あれは生徒会の職務です!」
「職務で猫耳つけるの?」
「つけます! ときには!」
「最初は志喜屋先輩に言わされて、嫌そうだったのにな。視察の終わりには『いつ仮装なさるんですにゃ?』って、完全に自前の語尾になってた」
「慣れです! 語尾は、慣れます!」
「慣れたんだ」
「……慣れました」
認めてしまった。
事実だから、仕方がない。あの日の語尾は、途中から明らかに自走していた。
「ちなみに、職務じゃないときもつけてたよな」
――来た。
来てほしくないものは、必ず来る。
「馬剃さんの家。『私を応援してくださいにゃあ』」
そこから先は、ほぼ処刑だった。
家での猫耳。招き猫のポーズ。渡り廊下のチカピョン。
この人は、全部覚えていた。年表でも作っているのか。作っていそうで怖い。
弁明はした。
したが、「あなたが二期派だと調査済みでしたから!」のあたりで、自分が何を主張しているのか分からなくなった。
「その調査力、当時から仕事で使うべきだったな」
「うるさいですね!」
ばん、とテーブルを叩いていた。
叩いてから、気づいた。
隣の席のサラリーマンが、こちらを見ている。
彼が、水のグラスを差しだしてきた。
私はそれを受け取って、一口飲んで、ゆっくり座り直した。
顔が、燃えるように熱い。
「……失礼しました」
「いえ」
「私、お酒を飲むと、少しだけ、感情の制御が」
「うん、分かった」
ちなみに、この場では言わなかったことがある。
あの猫耳を、私は前の晩、鏡の前で練習した。
「にゃあ」の高さを三種類試して、真ん中を採用した。
……この話は、墓まで持っていく。
「……ちなみにチカピョンのときは、『にゃんとかは言いませんけど』って、自分で宣言してたな」
彼が、ふいに言った。
「しました。あれは、真剣なお願いでしたから」
言ってから、少し驚いた。
この人は、覚えている。言ったことだけでなく、言わないと宣言したことまで。
彼がジョッキを見た。
見たまま、口を開いた。
「『いまだけは私を――私だけを推してくれませんか』」
息が、止まった。
自分の言葉を、十六年後に、本人の声で聞かされる。
これほど心臓に悪いことが、この世にあるとは知らなかった。
「……一字一句、覚えてるんですね」
「忘れられるわけがないだろ」
――それは。
それは、さっき私が使った台詞である。
タイトルを暗唱した私に、この人が「覚えてるの?」と聞いて、私が答えたやつだ。
この人は、それを、そのまま返してきた。
つまり。
つまり、この人にとってあの言葉は、私にとってのあの忌々しいタイトルと、同じ深さに埋まっている。
……そこまで考えて、頭が沸騰しそうになったので、考えるのをやめた。
「飲みます」
宣言して、残りを一息で飲んだ。
宣言の意味は、自分でも分からない。
それから私は、逃げた。
自覚をもって、話題を変えた。
「そういえば、あのときのあなた、本当に嫌な顔をしてましたね」
「そりゃするだろ。目の前で先輩に襲われてたし」
「襲われてません!」
また声が出た。
「あれは志喜屋先輩が――そう、志喜屋先輩ですよ! あの方が全部悪いんです!」
「まあ、七割くらいはあの人のせいだと思う」
「十割です」
「体育館の照明を落としたのは、さすがに十割あの人だな」
その一言で、私の中の何かが、ぷつ、と切れた。
噴き出した。
「……本当に、あれは」
「うん」
「あの人、演説の途中で選手交代とか言い出して」
「言ったな」
「私、舞台袖であなたと一緒に、あんぐり口を開けて」
「開けてたね」
笑っていた。
声を出して、肩を揺らして、手を口に当てて。
息が苦しい。
目の端に、じわ、と何かがにじんだ。
――何年ぶりだろう。
私は、そう考えかけて、答えが出そうになって、やめた。
やめて、また笑った。
「そういえば、カラオケにも行きましたよね」
笑いが収まってから、私は言った。
「行ったな」
「三時間で、一曲しか歌いませんでした」
「勉強してたからな」
「カラオケボックスで、古文の参考書を開いて」
「いま思えば、あれはかなりの奇行だったのでは」
「言い出したのは馬剃さんだぞ」
「私は相談に乗ってもらうつもりでした。あなたが場所をカラオケにしたんです」
「八奈見さんが『カラオケは戦場だ』とか言ってたから、なんかそういう場所かと」
「戦場でしたよ、確かに」
私は真顔でうなずいた。
「あの日、私は英単語を四十七個覚えました」
「数えてたの?」
「記録は取ります」
――覚えているのは、単語の数だけではない。
あの日、この人が持ってきた単語帳。
ページの角が、折ってあった。
折ってあった箇所は、全部、私が苦手な範囲だった。
つまり、この人は、私が間違えた問題を事前に調べて、印をつけて持ってきていた。
私はそれに、その日の夜に気づいた。
気づいて、部屋で少し泣いた。
……この話は、しない。
するには、まだ、酒が足りない。
「あと、最後の一曲も覚えてます」
彼が言った。
「……あれは」
「ギリアウの一期ED。マイク、両手で渡されたんだよな、俺」
「お渡ししただけです」
「圧があった」
「気のせいです」
「というか、なんで歌えたの、あれ。フルで」
「……時間の、有効活用です」
「答えになってない」
私は、枝豆に集中した。
――この話も、しない。
あの一曲のために、私は準備をしていた。
当時、この人が部室で、あのアニメの話ばかりしていた。
私はそれを、廊下で聞いていた。聞いて、家で調べて、全話見た。
最初は、没収の判断材料にするためだった。
……ということに、当時の私はしていた。
二周目からは、言い訳が思いつかなかった。
エンディングテーマは、家で練習した。
誰にも聞かれないように、声を小さくして。四十……何回かは、数えていない。
数えなかったのは、記録を怠ったからではない。
取れなかったのだ。回数を紙に書いたら、意味を認めることになる。
あの日、残り十分で曲を入れたとき、私の心臓は、たぶん演説の本番より速かった。
「時間が余りましたので」という言い訳は、三日前から用意してあった。
この人は、何も気づかずに、隣で歌っていた。
……気づかれなくて、よかった。
気づいてほしかった。
どちらも本心だったことを、私は十六年たったいまでも、うまく説明できない。
この話は、しない。
するには、あと十六年くらい、足りない。
「そういえば、優等生のお二人にも相談させてもらいましたよね」
「ああ、綾野と朝雲さん」
「朝雲さんの勉強法、覚えてますか」
「教科書と副読本を全部覚えるやつ」
「奥付まで、とおっしゃってました」
私はジョッキを置いて、両手をテーブルに乗せた。
「私、あの日、家に帰ってから三時間くらい放心してました」
「俺もだよ」
「あの方、いまどうされてるんでしょう」
「……さあ」
彼が、焼き鳥の串を皿に置いた。
その音が、こつん、と鳴った。
私は、少し首を傾げた。
「連絡、取ってらっしゃらないんですか」
「……取ってないな」
「どなたとも?」
「うん」
――短い。
この人は、本当に隠したいことだけ、短くなる。
私は、それを指摘しなかった。
この日はまだ、しなかった。
胸のあたりが、すこし、ざらついた。
「私は、志喜屋先輩とだけ、いまでも」
「あ、そうなんだ」
「はい。……年に何度か、意味の分からないメッセージが届きます」
「意味の分からない?」
「先月は『春……溶ける……』とだけ」
「あの人、変わってないな」
「変わってません。十六年、一文字も変わってません」
彼が、また笑った。
四杯目は、彼が止めた。
代わりに、出汁巻き卵が来た。
「馬剃さんは、大学どこ行ったんだっけ」
「名古屋大学です。法学部」
「あ、そう」
彼の箸が、止まった。
「……えっ、名大?」
「はい」
「ツワブキから名大って、けっこう上の方だよな」
「三年生のときに、かなり頑張りました」
私は出汁巻きを一切れ取って、皿に乗せた。
「一年の冬に、ある人から国語を教わったのがきっかけです」
言った。
言った瞬間、心臓が、ばくん、と大きく鳴った。
私は出汁巻きを見ていた。
彼も出汁巻きを見ていた。
二人とも、しばらく出汁巻きを見ていた。
――なぜ、何も言わないのか。
私は、そのとき、たぶん少しだけ怒っていた。
「それ、俺のことか」と聞いてくれれば、私は「そうです」と答えられる。
冗談にして流してくれれば、私も笑って流せる。
この人は、どちらもしなかった。
この人は、こういうときに、黙る。
十六年前も、黙った。
「……それで、そのまま国家公務員試験を受けまして」
「うん」
「総合職です。文部科学省に入りました。初等中等教育局と、高等教育局に」
「すごいな」
「すごくありません」
その否定は、速すぎた。
自分でも分かった。
「……十年で辞めましたので」
空気が、すとん、と一段沈んだ。
「俺は十二年目」
彼が言った。
「え」
「ずっと同じ大学。転職もしてない。異動だけ四回」
「四回、ですか」
「会計課三年、大学病院の医事課一年、病院の用度管財課三年、入試広報課五年目」
――逸らした。
この人は、いま、私の話から、自分の話に切り替えた。
私が沈むのを見て、たぶん〇・五秒で判断した。
私は指を折って数えるふりをした。
「医事課だけ、一年ですね」
「そこ、みんな聞くんだよな」
「向いてなかったんですか」
「向いてなかった」
「なにが」
「一円単位で人の命の値段を数える仕事なんだけど、俺、適当だから」
私は、何か言おうとして、やめた。
この人は、いま、自分の失敗の話をしている。
自分から。
この人が自分から話すことは、めったにない。
めったにないから、私は黙って聞いた。
「……そのあとの、用度管財課というのは」
「業者さんと院内の板挟みになる係。毎日誰かに怒られる」
「それは、つらいのでは」
「それが意外と楽しくてさ」
彼が肩をすくめた。
「怒られ方って、人によって癖があるんだよ。そこを覚えると、だいたい丸く収まる」
私は、じっとその人を見た。
胸の内側が、きゅっと痛んだ。
「……高校の頃と、同じことをされてるんですね」
彼は、返事をしなかった。
返事をしないことが、答えだった。
高校の三年間、この人は毎日、誰かと誰かのあいだに立っていた。
立って、怒られない方法を探していた。
その技術で、いま、この人は飯を食っている。
……それは、才能と呼ぶべきものなのだろうか。
それとも、傷と呼ぶべきものなのだろうか。
私には、分からなかった。
「なんで大学職員になったんですか」
「就職活動が面倒で、最初に受かったところに行った」
「……それだけですか」
「それだけ」
私は、ぽかんとした。
それから、笑った。
「あなたって、本当に」
「なに」
「……いえ。なんでもありません」
本当に、この人らしい。
私は九か月かけて二十三社受けた。
この人は、面倒だから最初に受かったところに行った。
同じ大学の、同じ部署に、いま、二人で座っている。
出汁巻きが半分になったころ、私は箸を置いた。
言うと決めていたことが、ひとつある。
これは、酒の勢いでするしかない。
素面では、たぶん、一生できない。
「温水さん。一つ、お伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「初日の、『知り合い程度』の件です」
彼の手が、ぴたりと止まった。
「最初は、傷つきました」
「……はい」
「正直に申し上げると、かなり」
「はい」
――かなり、である。
あの夜、私は部屋の床にしゃがみこんだ。
膝が冷たくて、喉の奥がひゅっと鳴って、それでも泣かなかった。
友達だと思っていた。
三百二十分の一に戻されたのだと思った。
その話は、しない。
「ですが、三日で分かりました」
「中途で入った女性職員が、既存の男性職員と高校の友人だと分かったら、どう扱われるか。……あなたは、私の三年後を計算して喋ったんですね」
彼が、箸を置いた。
「そんな深く考えてないよ」
「嘘です」
即答した。
「あなたは昔から、そういう嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしないんです」
「は?」
「普段のあなたは、嘘をつくときに必ず余計な情報を足します。『歯医者の予約が十八時十五分で』とか。細かければ細かいほど嘘です」
「え、待って」
「本当に隠したいときだけ、短くなるんです」
彼が、言葉に詰まっていた。
私は、ジョッキの縁を指でなぞりながら、その顔を見ていた。
――伝わっただろうか。
私が言いたかったのは、嘘のパターンの話ではない。
私は、あなたを見ている。
十六年前も見ていたし、いまも見ている。
それを伝える方法が、私には、これしか思いつかなかった。
「……よく見てんな」
「見ていました」
言った。
言ってしまってから、心臓が、どくどくと鳴りはじめた。
まずい。
いま、たぶん、私の顔は真っ赤である。
私は慌てて、話を逸らした。
「ちなみに、今日のこのお店も、大学から二駅ですね」
「……あ」
「一駅目で降りようとしたら、あなたが『まだです』と言いました」
「言った」
「なぜ二駅なんですか」
「……たまたま」
「短いですね」
彼が天井を仰いだ。
私は口元を隠して笑った。
完全に、楽しんでいた。
酔うと性格が悪くなる、と昔、志喜屋先輩に言われたことがある。
あの人に言われるのは心外だと思ったが、たぶん本当だ。
「そういうとこですよ」
「三回目だぞ、それ」
締めに頼んだお茶漬けをつつきながら、私は思い出したように顔を上げた。
「温水さんは、まだ読まれるんですか」
「なにを」
「その、ライトノベルを」
「読むね」
「いまでも」
「いまでも」
私は、なんとも言えない顔をしたと思う。
「三十四歳ですよね」
「三十四歳だな」
「三十四歳で」
「三十四歳で読むんだよ。むしろ可処分所得が増えて、大人買いができる」
「大人買い」
「高校のときは月に二冊が限界だったけど、いまは一箱で買える」
私は箸を置いた。
――変わっていない。
その事実が、胸の奥に、ぽ、と小さな灯りをともした。
この人は、十六年、同じものを好きでいつづけた。
私が文科省で、少しずつ自分の好きなものを捨てていったあいだ。
この人は、捨てなかった。
「……その、失礼を承知でお聞きしますが」
「どうぞ」
「コミックマーケットというものを、ご存じですか」
「知ってるけど」
「先日、テレビで特集をしていました。年に二回、二十万人が集まるとか」
「二十六万だな」
「二十六万」
「二日で二十六万」
「……お詳しいですね」
「まあ」
彼が湯呑みに手を伸ばした。
私は、その手を見ていた。
――まさか。
「なにが」
「行かれるんですか」
「……行くね」
「行くんですか!」
私は身を乗りだしていた。
「豊橋のころは、なかなか行けなかったから。東京に来てからは毎回」
「毎回!」
「あと、その」
彼が湯呑みを置いた。
二秒ほど、迷う気配があった。
「サークル側でも出てる」
「さーくる」
「出す側。本を作って、机の向こうに座ってるほう」
私は、完全に固まった。
十秒くらい固まっていたと思う。
固まっているあいだ、私の頭に浮かんでいたのは、月之木先輩の顔である。
あの方が学校に持ちこんでいたものの、表紙である。
「……あの」
「はい」
「それは、その、月之木先輩のような本ではありませんよね」
「違うわ!」
彼が声を上げた。
その瞬間、私は、少しだけ泣きそうになった。
目の奥が、つん、と熱くなった。
理由は自分でも分からない。
たぶん――この人が、まだ、あの部室にいたころの顔で怒鳴ったからだと思う。
「普通のだって。設定資料集みたいなやつ。読んだラノベの年表とか作ってるだけだから」
「年表」
「年表」
「……それは、需要があるんですか」
「あるんだよ、これが」
私は、しばらく黙っていた。
湯呑みを両手で持って、小さく息を吐いた。
「……安心しました」
「なにが」
「あなたが、ちゃんと同じ人のままで」
彼は、何も言わなかった。
私はお茶漬けの残りを、静かに食べた。
店を出たのは、九時前だった。
四月の夜は、まだ少し冷える。
コートの前を合わせながら、私は駅までの道を歩いた。
アーケードのシャッターが半分下りていて、風が抜けていく。
足音が、二人ぶん、やけによく響いた。
私は歩きながら、今日の三時間を整理していた。
持ち物検査。カラオケ。猫耳。志喜屋先輩。月之木先輩。生徒会長選挙。
名古屋大学。文部科学省。会計課、医事課、用度管財課。
全部話した。
ひとつを除いて。
――あの日の、橋の上。
私は、その話をしなかった。
この人も、しなかった。
三時間かけて、私たちは十六年の答え合わせをして、一問だけ白紙で出した。
自販機の前で、私は足を止めた。
「少し、酔いを覚まします」
小銭を入れて、黒いラベルのボタンを押す。
ごとん、と缶が落ちてきた。
「馬剃さん」
「はい」
「コーヒー、苦手じゃなかったっけ」
缶の上で、手が止まった。
――聞いた。
初日、この人は同じことを言いかけて、止めた。
今日は、聞いた。
その差が、私には分かる。
風が吹いて、コートの裾が揺れた。
答えは、決まっている。
十六年前、駅前の喫茶店で、私はこの人に言った。
――温水さんが好きなら、少しずつ慣れていこうと思います。
あれから十六年、私はコーヒーを飲みつづけた。
役所の深夜、書類の山の横で、私はいつもこれを飲んでいた。
いまでも、まずい。
まずいまま、私は十六年、これを飲んでいる。
それがなぜなのかを、私はもう考えないようにしている。
「……昔の話です」
私はそう言った。
言った瞬間、胸が、ぎゅっと縮んだ。
プルタブを開けて、一口飲んだ。
苦い。
「まずいんですね、それ」
「まずいです」
「じゃあ飲まなきゃいいのに」
「そうですね」
――そうですね。
私は缶を両手で包んだ。
この人は、たぶん、一生気づかない。
気づかれたら困る。
困るのだが。
……いや。
気づいてほしい。
私は、そのとき、はっきりとそう思った。
思って、そんな自分に驚いた。
改札の前で、私たちは立ち止まった。
「今日は、その、ありがとうございました」
「いや、こっちこそ。楽しかったよ」
「……はい」
私は缶を持ち直した。
言おうとしたことが、あった。
――下の名前で、呼んでいただけませんか。
十六年前、私はこの人に、それを許可した。
「温水さんなら構いませんよ、下の名前で呼んでも」と、部室の入り口で言った。
あのとき、この人は固まっていた。
それから卒業まで、この人は一度も、そう呼ばなかった。
最後にそう呼ばれたのが、いつだったかは覚えている。
私が、許可を出す前の日である。
「あの」
「うん」
「温水さん」
口が、開いた。
開いて、そこで止まった。
喉のあたりが、きゅう、と締まる。
――言ったら、どうなるか。
この人は、たぶん「いいけど」と言う。
言って、明日から下の名前で呼ぶ。
そうなったら、私は。
私は、そこから先、どうすればいいのか、分からなかった。
「……いえ」
私は言った。
「明日から、また、温水主任と呼びます」
「なんで」
「職場ですので」
「そっか」
「はい」
私は缶をコートのポケットに入れて、鞄を持ち直した。
「では、失礼いたします」
改札を抜けて、二歩進んで、振り返る。
頭を下げた。
三十度では、なかった。
何度なのかは、自分でも分からない。下げ終わったとき、私はたぶん、笑っていた。
顔を上げると、彼が手を上げていた。
上げてから、すぐに下ろした。
――かわいい。
自分の頭に浮かんだその言葉に、私は自分でぎょっとした。
三十四歳の男性に対して、三十四歳の女性が使う語彙ではない。
しかも上司である。厳密には主任と一般職員なので上司ではないが、指導担当者である。
私は早足で階段を上った。
ホームに立って、電車を待つあいだ、私はポケットの中の缶を握っていた。
ずっと、さっき言えなかった一言のことを考えていた。
――下の名前で、呼んでいただけませんか。
言えなかった理由は、はっきりしている。
怖かったからだ。
あの日、私は先に言った。
言って、返事をもらえなかった。
十六年経って、私はまだ、先に言うのが怖い。
電車が来た。
私は乗って、吊り革を持って、缶を取りだした。
まだ、少し残っていた。
飲んだ。
やっぱり、まずかった。
まずいのに、なぜか、口の端が、少し上がっていた。