大学職員の僕たち   作:房吉

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~3敗目・裏~ 生ビールを頼んだ理由

 四月十五日、午後四時四十分。

 

 温水さんの様子が、朝からおかしかった。

 

 根拠を挙げる。

 

 一、書類を三回めくって、三回とも同じページに戻していた。

 二、マグカップを口に運んで、飲まずに置いた。十四時二分と、十四時九分。

 三、独り言。

 

「温水さん、独り言すごいですよ」

 

「言ってない」

 

「言ってました。『いやそれは重い』って三回」

 

 大貫君の声で、私はキーボードから指を離した。

 

 ――三回。

 

 私が数えていたのは、二回だった。

 一回、聞き逃していたらしい。

 

「なんの話してたんですか」

 

「業務の話だ」

 

「どの業務ですか」

 

「指定校の枠数の話だ」

 

「それのどこが重いんですか」

 

 温水さんは答えなかった。

 

 私は自分の画面を見たまま、指定校のリストに三行、間違った数字を入れた。

 入れてから気づいて、直した。直すのに、二分かかった。

 

 

 

 

 この人は、思考が漏れる人だ。

 

 高校のときもそうだった。

 廊下で一人でぶつぶつ言っていて、私はそれを二回、注意したことがある。

 

 だから、正確にはこうなる。

 

 ――この人は、余裕がないときにだけ、思考が漏れる。

 

 なぜ余裕がないのか。

 私はそれを、業務上の理由から把握しておく必要がある。

 

 OJT担当者の状態が業務に影響する可能性があるからだ。したがって、私が観察することには合理性がある。

 

 ……この論法を、私は今月に入ってから、七回使っている。

 

 

 

 

 十七時十五分。

 

 鷲尾課長は出張から戻らず、桑原主査は歯医者、大貫君は「合コンです!」と堂々と宣言して十七時十六分に消えた。

 

 課には、二人だけが残った。

 

 空調の音が、やけに大きく聞こえた。

 

「あの、馬剃さん」

 

 椅子が回る音がした。

 

「はい」

 

「今日、このあとって」

 

 

 

 

 背筋が、ぴん、と勝手に伸びた。

 

 次に、口が勝手に動いた。

 

「業務時間外の付き合いは、強制ではありませんよね」

 

 ――違う。

 

 言った瞬間、頭の中が、かっと熱くなった。

 

 違う。そうじゃない。

 私が言いたかったのは、そんなことではない。

 

 この一文は、私が文科省にいた最後の一年で、毎週のように使っていたものだ。

 金曜の夕方、あの人が私の席に来るたびに、私はこれを言おうとした。言えた週のほうが少なかった。

 

 あれは、防具だった。

 防具は、相手を選んで使うものではない。飛んできたものに、反射で出るものだ。

 

 だから、いま、出た。

 

 この人に向かって。

 

「あ、はい。そうですね」

 

 温水さんが、即座に椅子を戻した。

 

「すいません、忘れてください」

 

 

 

 

 ――早い。

 

 引くのが、早すぎる。

 

 この人は、昔からそうだった。

 拒否の気配を〇・一秒で拾って、その瞬間には撤退が完了している。

 

 鞄を持って立ち上がる音がした。

 

「じゃあお疲れさまです」

 

 

 

 

 行ってしまう。

 

 

 

 

 ぐらり、と視界が揺れた気がした。

 実際には揺れていない。揺れたのは私のほうだ。

 

「あの!」

 

 私は立ち上がった。

 

 勢いがよすぎて、椅子ががたん、と後ろの棚にぶつかった。

 音が、思ったより大きかった。

 

「……すみません。いまのは、条件反射で」

 

 自分の声が、うわずっていた。

 

「そうじゃなくて、その、あの」

 

「はい」

 

「行きます」

 

「はい?」

 

「行きます。ご一緒します」

 

 

 

 

 鞄を持ったまま突っ立っている温水さんを見て、私は、ようやく少しだけ息を吐いた。

 

「……いま、断られたと思ったんですけど」

 

「断ってません」

 

「めちゃくちゃ断る顔でしたけど」

 

「そういうとこですよ」

 

 

 

 

 ――出た。

 

 私は口を押さえた。

 

 顔が、ぶわっと熱くなる。

 

 この言葉を、私はこの二週間で、たぶん四十回は飲みこんでいる。

 

 八奈見さんの口癖である。

 高校のとき、あの人がこの人に言っているのを、私は何度も横で聞いた。

 

 聞くたびに、少し、うらやましかった。

 あんなふうに人を叱れる関係が、私には一つもなかったからだ。

 

「……いえ、失礼しました」

 

「あ、はい」

 

 私たちは、それ以上、何も言わなかった。

 

 

 

 

 電車に乗って、一駅目でホームに降りようとしたら、止められた。

 

「まだです」

 

「え」

 

「もう一駅です」

 

 私はドアの前に戻った。

 

 ――二駅。

 

 理由は、考えれば分かる。

 

 大学の最寄りには、教職員がよく行く店が三軒ある。

 二駅離れれば、まず誰にも会わない。

 

 誰にも会わないようにする理由は、ひとつしかない。

 

 ……私は、そのことについて考えるのをやめた。

 

 やめて、代わりに、吊り革の高さを目で測った。

 考えたくないことがあるとき、私は目の前のものを計測する。癖である。

 

 

 

 

 通されたのは、奥の四人席だった。

 

 おしぼりを渡されて、メニューを開いて、そこで私は動かなくなった。

 

 三分ほど経ったと思う。

 

「馬剃さん、決まりました?」

 

「いえ、こちらの飲み放題の条件を確認しておりまして」

 

「条件」

 

「ラストオーダーが九十分となっていますが、退店時刻の記載がありません。九十分経過後の滞在について、追加料金が発生する可能性が」

 

「発生しないです」

 

「明記されていませんが」

 

「明記されてなくても発生しないです。この店、五年通ってますけど一度もなかったです」

 

「……慣例ということですか」

 

「慣例です」

 

 

 

 

 私は眉をひそめた。

 

 慣例。

 私が十年かけていちばん憎んだ言葉である。

 

 明文化されていないルール。

 「そういうものだから」で終わる説明。誰も責任を取らない運用。

 

 その単語が、この人の口から出ると、なぜか腹が立たない。

 

 なぜだろう、と私は考えた。

 考えて、この人は「慣例です」と言ったあと、必ず理由を足す人だからだと気づいた。

 

 現に、この人はさっき、五年ぶんの実測値を足した。

 

 ……あの人たちは、足さなかった。

 

「じゃあ、飲み物どうします。ウーロン茶で」

 

 

 

 

 私は、そこで、〇・三秒だけ考えた。

 

 

 

 

 私は酒に弱い。

 二杯で顔が赤くなり、三杯で口が軽くなる。自覚している。

 

 だから、外では飲まない。

 文科省にいた十年間、私は一度も、公的な場で酔ったことがない。酔ったら何かを言ってしまうと思っていたからだ。

 

 言ってしまうと、終わる。

 だから、飲まなかった。

 

 ――でも。

 

 今日、この人は、二駅離れた店を選んだ。

 私が飲めない人ではないことを、この人はもう見抜いている。

 

 そして。

 

 私はこの一年半、一度も、酔ったことがない。

 

「生ビールで」

 

「え」

 

「生ビールで」

 

「……飲めるんですか」

 

「歓迎会では飲みませんでしたが」

 

 私はメニューを閉じた。

 

「あの場では、飲みたくなかっただけです」

 

 

 

 

 ――今日は、逃げない。

 

 私はそう決めた。

 

 三十四歳が、居酒屋の四人席で、生ビールを頼むだけのことに、それだけの決意を要した。

 我ながら、情けない話である。

 

 でも、決めたら、胸のあたりが、すう、と少し軽くなった。

 

 

 

 

「お疲れさまでした」

 

 乾杯をして、私はジョッキの三分の一を一息で飲んだ。

 

 冷たいものが、喉から胃に、とん、と落ちていく。

 

 五秒後には、耳が熱くなっていた。

 

「……馬剃さん」

 

「はい」

 

「弱いですよね?」

 

「弱くありません」

 

「顔が」

 

「これは店内の温度です」

 

 嘘である。

 

 彼が水を頼んで、枝豆の皿を私の前に押しやってきた。

 

 私はそれを一つ、丁寧に開けた。

 開けた豆を、皿の縁に三つ並べた。

 

 役所の飲み会で、私はいつもこれをやっていた。

 

 手を動かしていると、話しかけられにくい。

 並べる作業に集中していれば、視線を合わせずに済む。

 

 十年やって、癖になった。

 

 彼は、それについて何も言わなかった。

 言わなかったが、たぶん、見ていた。この人はいつも見ている。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「本日は、その、ありがとうございます」

 

「いや、こちらこそ。急に誘ってすいません」

 

「いえ」

 

 

 

 

 沈黙。

 

 

 

 

 しん、とした。

 

 いや、店内は騒がしい。隣の席のサラリーマンが笑っている。厨房から音がする。

 うるさいのに、この四人席だけが、しんとしていた。

 

 ――気まずい。

 

 私は毎日八時間、この人の隣に座っている。

 肘が当たりそうな距離で、何十回も言葉を交わしている。

 

 あそこでは、平気なのだ。

 三十センチでも、業務連絡なら、何も起きない。

 

 いま、テーブルを挟んで一メートル離れている。

 離れているのに、こちらのほうが、はるかに息が苦しい。

 

 それなのに、いま、私は初対面より緊張していた。

 

 彼が店員を呼んで、焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。

 頼み終わるより先に、私はタレと塩の配分を店員に質問していた。任せる範囲の規定まで、聞いた。

 

 我ながら、業務監査である。

 

 途中で手帳に手が伸びかけたところで、「以上で」と、少し早口で注文を締められた。

 議事録を取ろうとした自覚は、ある。防具というものは、相手を選ばず勝手に発動する。

 

 枝豆を、もう三つ並べた。

 

「馬剃さん、変わらないですね」

 

 

 

 

 どきん、とした。

 

「変わりました」

 

「そうですか?」

 

「校則を暗記しなくなりました」

 

「……就業規則を暗記してるだけでは」

 

 

 

 

 私は、たっぷり三秒、止まった。

 

 止まって、それから、言ってしまった。

 

「そういうとこですよ、温水さん」

 

 

 

 

 二人とも、動かなくなった。

 

 

 

 

 ――呼んだ。

 

 温水さん。

 

 この二週間、私は職場で「温水主任」と呼びつづけてきた。

 意味があると思っていた。役職で呼んでいるあいだは、私はただの職員でいられる。

 

 いま、私はそれを、自分から手放した。

 

 顔が、かあっと熱くなる。

 耳も、たぶん首も赤い。もう店内の温度のせいにはできない。

 

「あの、いまのは」

 

「二回目ですね」

 

「……はい」

 

「今日だけで二回」

 

「そうですね」

 

「ひさしぶりに言われましたよ、それ」

 

 

 

 

 私は、口を押さえていた手を、そっと下ろした。

 

「……八奈見さんの口癖でしたよね」

 

 

 

 

 その名前を出すのに、二週間かかった。

 

 言ったあと、心臓が、とくとくと速く鳴っていた。

 

 この人が、どんな顔をするか。

 それが、怖かった。

 

 

 

 

「そもそも、あなたが悪いんですよ」

 

 二杯目が来たころ、私は箸で彼を指していた。

 

 行儀が悪い。素面の私は絶対にやらない。

 

「なにが」

 

「持ち物検査です」

 

「あれは俺、被害者だろ」

 

「学校にあんな本を持ってくるのが悪いんです」

 

「普通の小説だって言ったよな。文庫本だぞ」

 

「表紙をご覧になりましたか?」

 

「見たよ」

 

 私はジョッキを置いて、姿勢を正した。

 

「『二人合わせてハタチだから、いますぐお嫁にいけますよ?』」

 

 一字一句、正確に言った。

 

「え、覚えてるの?」

 

「忘れられるわけがないでしょう!」

 

 声が裏返った。

 

 裏返ってから、気づいた。

 私はいま、居酒屋で、あのタイトルをフルボイスで暗唱した。隣の席の視線が痛い。

 

「あなたが言わせたんです!」

 

 言いながら、自分から暗唱した自覚は、あった。

 ……お酒のせいである。そういうことにする。

 

「私、あのタイトルの意味が、いまだに分からないんです。十歳が二人いても結婚はできません。十六年考えました」

 

「十六年も考えてたの?」

 

「たまにです。たまに、ふと思い出して、そのたびに腹が立つんです」

 

 彼が、ぶっ、と吹き出した。

 

「笑わないでください」

 

「いや、ごめん。……あれ、合法になった世界の話だから」

 

「どういう世界ですか」

 

「そういう世界だよ」

 

「答えになってません」

 

 

 

 

 ――笑った。

 

 私は枝豆を開けながら、その音を聞いていた。

 

 この人が声を出して笑ったのを、私は今日、初めて聞いた。

 いや、十六年ぶりに、である。

 

 胸の奥が、じん、とした。

 

 

 

 

「そもそも、あの本を持ちこんだのは俺じゃないからな」

 

「知ってます」

 

「知ってるのに没収したの?」

 

「文芸部の管理責任です」

 

「一年生だぞ、当時の俺」

 

「部長でしたよね」

 

「二年からだよ」

 

 

 

 

 ――え。

 

 私は、考えこんだ。

 

「……あれ」

 

「一年のときは平部員だ。部長は玉木先輩で、そのあと小鞠だった」

 

「では、私が最初に叱ったときのあなたは」

 

「ただの一年生」

 

 

 

 

 ジョッキを持ったまま、私は固まった。

 

「十六年、勘違いしてました」

 

「けっこう理不尽に怒られてたんだよ、俺」

 

「……申し訳ありません」

 

「いまさら謝られても」

 

「謝りますよ。私、そういうところは、ちゃんとしてるんです」

 

 私は本当に頭を下げた。

 

 下げながら、じわり、と申し訳なさが胸に広がった。

 

 十六年前の私は、あの部室の入り口で、この人に何を言っただろう。

 部長として責任がどうとか、たしか、そんなことを言った。

 

 言った相手は、ただの一年生だった。

 

「顔上げて。焼き鳥がタレに落ちる」

 

「あっ」

 

 

 

 

「だいたい、文芸部は問題が多すぎたんです。月之木先輩の件もありますし」

 

「あー」

 

 彼が、あからさまに目を逸らした。

 

「あの、月之木先輩は」

 

「聞きたくありません」

 

「まだ何も言ってない」

 

「言われる前に分かります。あの方の話は、必ずろくでもない方向に行くんです」

 

 

 

 

 ――速すぎた。

 

 

 

 

 自分でも分かった。

 

 この人が「月之木先輩」と言い終わる前に、私は口を開いていた。

 被せた。完全に、被せた。

 

 

 

 

 なぜ被せたのかは、はっきりしている。

 

 あと〇・五秒あったら、この人は「あの人、いまも書いてるのかな」と言った。

 言われたら、私は答えなければならない。

 

 答えると、私は嘘をつくことになる。

 

 

 

 

「元気にしてると思うよ、たぶん」

 

「してるでしょうね。ああいう方は、必ず元気なんです」

 

 言い方に、恨みがこもっていた。

 自分でも分かった。十六年経っても消えない恨みというものが、この世にはあるらしい。

 

 

 

 

 ……恨み。

 

 便利な言葉だと思う。

 

 あの人が高校の生徒会室に持ちこんだ一冊のせいで、私の十六年は、たしかに少し変わった。

 

 大学四年間で、私は本棚を一つ買い足した。

 文科省に入ってからは、置く場所がなくなって、読むほうは電子に移した。深夜のタクシーの中で読んだこともある。

 それでも、紙のほうは買いつづけた。

 

 あれは、私が私に許した、たった一つの逃げ場だった。

 

 

 

 

 ――だった。

 

 

 

 

 私は、その助動詞の時制について、二秒ほど考えた。

 

 考えて、やめた。

 

 

 

 

 やめて、ジョッキに手を伸ばした。

 

 

 

 

「そういう馬剃さんだって、猫耳つけてただろ」

 

 三杯目の途中で、彼が反撃してきた。

 

 私の箸が、ぴたりと止まった。

 

「……なんの話でしょうか」

 

「ツワブキ祭」

 

「記憶にありません」

 

「メイド服で」

 

「記憶にありません」

 

「文芸部の会場に飛びこんできて、『会長、次は天文部ですにゃあ』って言ってた」

 

「言ってません! 言ってませんし、記憶にありませんし、あれは生徒会の職務です!」

 

「職務で猫耳つけるの?」

 

「つけます! ときには!」

 

「最初は志喜屋先輩に言わされて、嫌そうだったのにな。視察の終わりには『いつ仮装なさるんですにゃ?』って、完全に自前の語尾になってた」

 

「慣れです! 語尾は、慣れます!」

 

「慣れたんだ」

 

「……慣れました」

 

 認めてしまった。

 事実だから、仕方がない。あの日の語尾は、途中から明らかに自走していた。

 

「ちなみに、職務じゃないときもつけてたよな」

 

 ――来た。

 来てほしくないものは、必ず来る。

 

「馬剃さんの家。『私を応援してくださいにゃあ』」

 

 そこから先は、ほぼ処刑だった。

 

 家での猫耳。招き猫のポーズ。渡り廊下のチカピョン。

 この人は、全部覚えていた。年表でも作っているのか。作っていそうで怖い。

 

 弁明はした。

 したが、「あなたが二期派だと調査済みでしたから!」のあたりで、自分が何を主張しているのか分からなくなった。

 

「その調査力、当時から仕事で使うべきだったな」

 

「うるさいですね!」

 

 ばん、とテーブルを叩いていた。

 

 叩いてから、気づいた。

 

 隣の席のサラリーマンが、こちらを見ている。

 

 彼が、水のグラスを差しだしてきた。

 私はそれを受け取って、一口飲んで、ゆっくり座り直した。

 

 顔が、燃えるように熱い。

 

「……失礼しました」

 

「いえ」

 

「私、お酒を飲むと、少しだけ、感情の制御が」

 

「うん、分かった」

 

 ちなみに、この場では言わなかったことがある。

 

 あの猫耳を、私は前の晩、鏡の前で練習した。

 「にゃあ」の高さを三種類試して、真ん中を採用した。

 

 ……この話は、墓まで持っていく。

 

「……ちなみにチカピョンのときは、『にゃんとかは言いませんけど』って、自分で宣言してたな」

 

 彼が、ふいに言った。

 

「しました。あれは、真剣なお願いでしたから」

 

 言ってから、少し驚いた。

 この人は、覚えている。言ったことだけでなく、言わないと宣言したことまで。

 

 彼がジョッキを見た。

 見たまま、口を開いた。

 

「『いまだけは私を――私だけを推してくれませんか』」

 

 

 

 

 息が、止まった。

 

 

 

 

 自分の言葉を、十六年後に、本人の声で聞かされる。

 これほど心臓に悪いことが、この世にあるとは知らなかった。

 

「……一字一句、覚えてるんですね」

 

「忘れられるわけがないだろ」

 

 ――それは。

 

 それは、さっき私が使った台詞である。

 タイトルを暗唱した私に、この人が「覚えてるの?」と聞いて、私が答えたやつだ。

 

 この人は、それを、そのまま返してきた。

 

 つまり。

 つまり、この人にとってあの言葉は、私にとってのあの忌々しいタイトルと、同じ深さに埋まっている。

 

 ……そこまで考えて、頭が沸騰しそうになったので、考えるのをやめた。

 

「飲みます」

 

 宣言して、残りを一息で飲んだ。

 宣言の意味は、自分でも分からない。

 

 それから私は、逃げた。

 自覚をもって、話題を変えた。

 

「そういえば、あのときのあなた、本当に嫌な顔をしてましたね」

 

「そりゃするだろ。目の前で先輩に襲われてたし」

 

「襲われてません!」

 

 また声が出た。

 

「あれは志喜屋先輩が――そう、志喜屋先輩ですよ! あの方が全部悪いんです!」

 

「まあ、七割くらいはあの人のせいだと思う」

 

「十割です」

 

「体育館の照明を落としたのは、さすがに十割あの人だな」

 

 

 

 

 その一言で、私の中の何かが、ぷつ、と切れた。

 

 噴き出した。

 

「……本当に、あれは」

 

「うん」

 

「あの人、演説の途中で選手交代とか言い出して」

 

「言ったな」

 

「私、舞台袖であなたと一緒に、あんぐり口を開けて」

 

「開けてたね」

 

 

 

 

 笑っていた。

 

 声を出して、肩を揺らして、手を口に当てて。

 

 息が苦しい。

 目の端に、じわ、と何かがにじんだ。

 

 ――何年ぶりだろう。

 

 私は、そう考えかけて、答えが出そうになって、やめた。

 

 やめて、また笑った。

 

 

 

 

「そういえば、カラオケにも行きましたよね」

 

 笑いが収まってから、私は言った。

 

「行ったな」

 

「三時間で、一曲しか歌いませんでした」

 

「勉強してたからな」

 

「カラオケボックスで、古文の参考書を開いて」

 

「いま思えば、あれはかなりの奇行だったのでは」

 

「言い出したのは馬剃さんだぞ」

 

「私は相談に乗ってもらうつもりでした。あなたが場所をカラオケにしたんです」

 

「八奈見さんが『カラオケは戦場だ』とか言ってたから、なんかそういう場所かと」

 

「戦場でしたよ、確かに」

 

 私は真顔でうなずいた。

 

「あの日、私は英単語を四十七個覚えました」

 

「数えてたの?」

 

「記録は取ります」

 

 

 

 

 ――覚えているのは、単語の数だけではない。

 

 あの日、この人が持ってきた単語帳。

 ページの角が、折ってあった。

 

 折ってあった箇所は、全部、私が苦手な範囲だった。

 

 つまり、この人は、私が間違えた問題を事前に調べて、印をつけて持ってきていた。

 

 私はそれに、その日の夜に気づいた。

 気づいて、部屋で少し泣いた。

 

 ……この話は、しない。

 

 するには、まだ、酒が足りない。

 

 

 

 

「あと、最後の一曲も覚えてます」

 

 彼が言った。

 

「……あれは」

 

「ギリアウの一期ED。マイク、両手で渡されたんだよな、俺」

 

「お渡ししただけです」

 

「圧があった」

 

「気のせいです」

 

「というか、なんで歌えたの、あれ。フルで」

 

「……時間の、有効活用です」

 

「答えになってない」

 

 私は、枝豆に集中した。

 

 

 

 

 ――この話も、しない。

 

 

 

 

 あの一曲のために、私は準備をしていた。

 

 当時、この人が部室で、あのアニメの話ばかりしていた。

 私はそれを、廊下で聞いていた。聞いて、家で調べて、全話見た。

 

 最初は、没収の判断材料にするためだった。

 ……ということに、当時の私はしていた。

 

 二周目からは、言い訳が思いつかなかった。

 

 エンディングテーマは、家で練習した。

 誰にも聞かれないように、声を小さくして。四十……何回かは、数えていない。

 

 数えなかったのは、記録を怠ったからではない。

 取れなかったのだ。回数を紙に書いたら、意味を認めることになる。

 

 あの日、残り十分で曲を入れたとき、私の心臓は、たぶん演説の本番より速かった。

 「時間が余りましたので」という言い訳は、三日前から用意してあった。

 

 この人は、何も気づかずに、隣で歌っていた。

 

 ……気づかれなくて、よかった。

 気づいてほしかった。

 

 どちらも本心だったことを、私は十六年たったいまでも、うまく説明できない。

 

 この話は、しない。

 

 するには、あと十六年くらい、足りない。

 

 

 

 

「そういえば、優等生のお二人にも相談させてもらいましたよね」

 

「ああ、綾野と朝雲さん」

 

「朝雲さんの勉強法、覚えてますか」

 

「教科書と副読本を全部覚えるやつ」

 

「奥付まで、とおっしゃってました」

 

 私はジョッキを置いて、両手をテーブルに乗せた。

 

「私、あの日、家に帰ってから三時間くらい放心してました」

 

「俺もだよ」

 

「あの方、いまどうされてるんでしょう」

 

「……さあ」

 

 

 

 

 彼が、焼き鳥の串を皿に置いた。

 

 その音が、こつん、と鳴った。

 

 私は、少し首を傾げた。

 

「連絡、取ってらっしゃらないんですか」

 

「……取ってないな」

 

「どなたとも?」

 

「うん」

 

 

 

 

 ――短い。

 

 この人は、本当に隠したいことだけ、短くなる。

 

 私は、それを指摘しなかった。

 

 この日はまだ、しなかった。

 

 胸のあたりが、すこし、ざらついた。

 

「私は、志喜屋先輩とだけ、いまでも」

 

「あ、そうなんだ」

 

「はい。……年に何度か、意味の分からないメッセージが届きます」

 

「意味の分からない?」

 

「先月は『春……溶ける……』とだけ」

 

「あの人、変わってないな」

 

「変わってません。十六年、一文字も変わってません」

 

 彼が、また笑った。

 

 

 

 

 四杯目は、彼が止めた。

 

 代わりに、出汁巻き卵が来た。

 

「馬剃さんは、大学どこ行ったんだっけ」

 

「名古屋大学です。法学部」

 

「あ、そう」

 

 彼の箸が、止まった。

 

「……えっ、名大?」

 

「はい」

 

「ツワブキから名大って、けっこう上の方だよな」

 

「三年生のときに、かなり頑張りました」

 

 私は出汁巻きを一切れ取って、皿に乗せた。

 

「一年の冬に、ある人から国語を教わったのがきっかけです」

 

 

 

 

 言った。

 

 言った瞬間、心臓が、ばくん、と大きく鳴った。

 

 

 

 

 私は出汁巻きを見ていた。

 彼も出汁巻きを見ていた。

 

 二人とも、しばらく出汁巻きを見ていた。

 

 

 

 

 ――なぜ、何も言わないのか。

 

 私は、そのとき、たぶん少しだけ怒っていた。

 

 「それ、俺のことか」と聞いてくれれば、私は「そうです」と答えられる。

 冗談にして流してくれれば、私も笑って流せる。

 

 この人は、どちらもしなかった。

 

 この人は、こういうときに、黙る。

 

 十六年前も、黙った。

 

 

 

 

「……それで、そのまま国家公務員試験を受けまして」

 

「うん」

 

「総合職です。文部科学省に入りました。初等中等教育局と、高等教育局に」

 

「すごいな」

 

「すごくありません」

 

 

 

 

 その否定は、速すぎた。

 

 自分でも分かった。

 

「……十年で辞めましたので」

 

 空気が、すとん、と一段沈んだ。

 

 

 

 

「俺は十二年目」

 

 彼が言った。

 

「え」

 

「ずっと同じ大学。転職もしてない。異動だけ四回」

 

「四回、ですか」

 

「会計課三年、大学病院の医事課一年、病院の用度管財課三年、入試広報課五年目」

 

 

 

 

 ――逸らした。

 

 この人は、いま、私の話から、自分の話に切り替えた。

 

 私が沈むのを見て、たぶん〇・五秒で判断した。

 

 私は指を折って数えるふりをした。

 

「医事課だけ、一年ですね」

 

「そこ、みんな聞くんだよな」

 

「向いてなかったんですか」

 

「向いてなかった」

 

「なにが」

 

 

 

 

「一円単位で人の命の値段を数える仕事なんだけど、俺、適当だから」

 

 

 

 

 私は、何か言おうとして、やめた。

 

 この人は、いま、自分の失敗の話をしている。

 自分から。

 

 この人が自分から話すことは、めったにない。

 めったにないから、私は黙って聞いた。

 

「……そのあとの、用度管財課というのは」

 

「業者さんと院内の板挟みになる係。毎日誰かに怒られる」

 

「それは、つらいのでは」

 

「それが意外と楽しくてさ」

 

 彼が肩をすくめた。

 

「怒られ方って、人によって癖があるんだよ。そこを覚えると、だいたい丸く収まる」

 

 

 

 

 私は、じっとその人を見た。

 

 胸の内側が、きゅっと痛んだ。

 

「……高校の頃と、同じことをされてるんですね」

 

 

 

 

 彼は、返事をしなかった。

 

 

 

 

 返事をしないことが、答えだった。

 

 高校の三年間、この人は毎日、誰かと誰かのあいだに立っていた。

 立って、怒られない方法を探していた。

 

 その技術で、いま、この人は飯を食っている。

 

 ……それは、才能と呼ぶべきものなのだろうか。

 それとも、傷と呼ぶべきものなのだろうか。

 

 私には、分からなかった。

 

「なんで大学職員になったんですか」

 

「就職活動が面倒で、最初に受かったところに行った」

 

「……それだけですか」

 

「それだけ」

 

 

 

 

 私は、ぽかんとした。

 

 それから、笑った。

 

「あなたって、本当に」

 

「なに」

 

「……いえ。なんでもありません」

 

 

 

 

 本当に、この人らしい。

 

 私は九か月かけて二十三社受けた。

 この人は、面倒だから最初に受かったところに行った。

 

 同じ大学の、同じ部署に、いま、二人で座っている。

 

 

 

 

 出汁巻きが半分になったころ、私は箸を置いた。

 

 言うと決めていたことが、ひとつある。

 

 これは、酒の勢いでするしかない。

 素面では、たぶん、一生できない。

 

「温水さん。一つ、お伝えしておきたいことがあります」

 

「はい」

 

「初日の、『知り合い程度』の件です」

 

 

 

 

 彼の手が、ぴたりと止まった。

 

 

 

 

「最初は、傷つきました」

 

「……はい」

 

「正直に申し上げると、かなり」

 

「はい」

 

 

 

 

 ――かなり、である。

 

 あの夜、私は部屋の床にしゃがみこんだ。

 膝が冷たくて、喉の奥がひゅっと鳴って、それでも泣かなかった。

 

 友達だと思っていた。

 三百二十分の一に戻されたのだと思った。

 

 その話は、しない。

 

「ですが、三日で分かりました」

 

 

 

 

「中途で入った女性職員が、既存の男性職員と高校の友人だと分かったら、どう扱われるか。……あなたは、私の三年後を計算して喋ったんですね」

 

 

 

 

 彼が、箸を置いた。

 

「そんな深く考えてないよ」

 

「嘘です」

 

 即答した。

 

「あなたは昔から、そういう嘘をつくときだけ、具体的な言い訳をしないんです」

 

「は?」

 

「普段のあなたは、嘘をつくときに必ず余計な情報を足します。『歯医者の予約が十八時十五分で』とか。細かければ細かいほど嘘です」

 

「え、待って」

 

「本当に隠したいときだけ、短くなるんです」

 

 

 

 

 彼が、言葉に詰まっていた。

 

 私は、ジョッキの縁を指でなぞりながら、その顔を見ていた。

 

 ――伝わっただろうか。

 

 私が言いたかったのは、嘘のパターンの話ではない。

 

 私は、あなたを見ている。

 

 十六年前も見ていたし、いまも見ている。

 

 それを伝える方法が、私には、これしか思いつかなかった。

 

「……よく見てんな」

 

「見ていました」

 

 

 

 

 言った。

 

 言ってしまってから、心臓が、どくどくと鳴りはじめた。

 

 まずい。

 

 いま、たぶん、私の顔は真っ赤である。

 

 私は慌てて、話を逸らした。

 

「ちなみに、今日のこのお店も、大学から二駅ですね」

 

「……あ」

 

「一駅目で降りようとしたら、あなたが『まだです』と言いました」

 

「言った」

 

「なぜ二駅なんですか」

 

「……たまたま」

 

「短いですね」

 

 

 

 

 彼が天井を仰いだ。

 

 私は口元を隠して笑った。

 完全に、楽しんでいた。

 

 酔うと性格が悪くなる、と昔、志喜屋先輩に言われたことがある。

 あの人に言われるのは心外だと思ったが、たぶん本当だ。

 

「そういうとこですよ」

 

「三回目だぞ、それ」

 

 

 

 

 締めに頼んだお茶漬けをつつきながら、私は思い出したように顔を上げた。

 

「温水さんは、まだ読まれるんですか」

 

「なにを」

 

「その、ライトノベルを」

 

「読むね」

 

「いまでも」

 

「いまでも」

 

 

 

 

 私は、なんとも言えない顔をしたと思う。

 

「三十四歳ですよね」

 

「三十四歳だな」

 

「三十四歳で」

 

「三十四歳で読むんだよ。むしろ可処分所得が増えて、大人買いができる」

 

「大人買い」

 

「高校のときは月に二冊が限界だったけど、いまは一箱で買える」

 

 

 

 

 私は箸を置いた。

 

 ――変わっていない。

 

 その事実が、胸の奥に、ぽ、と小さな灯りをともした。

 

 この人は、十六年、同じものを好きでいつづけた。

 

 私が文科省で、少しずつ自分の好きなものを捨てていったあいだ。

 この人は、捨てなかった。

 

「……その、失礼を承知でお聞きしますが」

 

「どうぞ」

 

「コミックマーケットというものを、ご存じですか」

 

「知ってるけど」

 

「先日、テレビで特集をしていました。年に二回、二十万人が集まるとか」

 

「二十六万だな」

 

「二十六万」

 

「二日で二十六万」

 

「……お詳しいですね」

 

「まあ」

 

 

 

 

 彼が湯呑みに手を伸ばした。

 

 私は、その手を見ていた。

 

 ――まさか。

 

「なにが」

 

「行かれるんですか」

 

「……行くね」

 

「行くんですか!」

 

 

 

 

 私は身を乗りだしていた。

 

「豊橋のころは、なかなか行けなかったから。東京に来てからは毎回」

 

「毎回!」

 

「あと、その」

 

 彼が湯呑みを置いた。

 

 二秒ほど、迷う気配があった。

 

「サークル側でも出てる」

 

「さーくる」

 

「出す側。本を作って、机の向こうに座ってるほう」

 

 

 

 

 私は、完全に固まった。

 

 十秒くらい固まっていたと思う。

 

 固まっているあいだ、私の頭に浮かんでいたのは、月之木先輩の顔である。

 あの方が学校に持ちこんでいたものの、表紙である。

 

「……あの」

 

「はい」

 

「それは、その、月之木先輩のような本ではありませんよね」

 

「違うわ!」

 

 

 

 

 彼が声を上げた。

 

 その瞬間、私は、少しだけ泣きそうになった。

 

 目の奥が、つん、と熱くなった。

 

 理由は自分でも分からない。

 

 たぶん――この人が、まだ、あの部室にいたころの顔で怒鳴ったからだと思う。

 

「普通のだって。設定資料集みたいなやつ。読んだラノベの年表とか作ってるだけだから」

 

「年表」

 

「年表」

 

「……それは、需要があるんですか」

 

「あるんだよ、これが」

 

 

 

 

 私は、しばらく黙っていた。

 

 湯呑みを両手で持って、小さく息を吐いた。

 

「……安心しました」

 

「なにが」

 

「あなたが、ちゃんと同じ人のままで」

 

 

 

 

 彼は、何も言わなかった。

 

 私はお茶漬けの残りを、静かに食べた。

 

 

 

 

 店を出たのは、九時前だった。

 

 四月の夜は、まだ少し冷える。

 コートの前を合わせながら、私は駅までの道を歩いた。

 

 アーケードのシャッターが半分下りていて、風が抜けていく。

 足音が、二人ぶん、やけによく響いた。

 

 

 

 

 私は歩きながら、今日の三時間を整理していた。

 

 持ち物検査。カラオケ。猫耳。志喜屋先輩。月之木先輩。生徒会長選挙。

 名古屋大学。文部科学省。会計課、医事課、用度管財課。

 

 全部話した。

 

 ひとつを除いて。

 

 ――あの日の、橋の上。

 

 私は、その話をしなかった。

 この人も、しなかった。

 

 三時間かけて、私たちは十六年の答え合わせをして、一問だけ白紙で出した。

 

 

 

 

 自販機の前で、私は足を止めた。

 

「少し、酔いを覚まします」

 

 小銭を入れて、黒いラベルのボタンを押す。

 

 ごとん、と缶が落ちてきた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「コーヒー、苦手じゃなかったっけ」

 

 

 

 

 缶の上で、手が止まった。

 

 

 

 

 ――聞いた。

 

 初日、この人は同じことを言いかけて、止めた。

 今日は、聞いた。

 

 その差が、私には分かる。

 

 風が吹いて、コートの裾が揺れた。

 

 

 

 

 答えは、決まっている。

 

 十六年前、駅前の喫茶店で、私はこの人に言った。

 

 ――温水さんが好きなら、少しずつ慣れていこうと思います。

 

 あれから十六年、私はコーヒーを飲みつづけた。

 役所の深夜、書類の山の横で、私はいつもこれを飲んでいた。

 

 いまでも、まずい。

 

 まずいまま、私は十六年、これを飲んでいる。

 それがなぜなのかを、私はもう考えないようにしている。

 

「……昔の話です」

 

 私はそう言った。

 

 言った瞬間、胸が、ぎゅっと縮んだ。

 

 

 

 

 プルタブを開けて、一口飲んだ。

 

 苦い。

 

「まずいんですね、それ」

 

「まずいです」

 

「じゃあ飲まなきゃいいのに」

 

「そうですね」

 

 

 

 

 ――そうですね。

 

 私は缶を両手で包んだ。

 

 この人は、たぶん、一生気づかない。

 

 気づかれたら困る。

 困るのだが。

 

 ……いや。

 

 気づいてほしい。

 

 私は、そのとき、はっきりとそう思った。

 思って、そんな自分に驚いた。

 

 

 

 

 改札の前で、私たちは立ち止まった。

 

「今日は、その、ありがとうございました」

 

「いや、こっちこそ。楽しかったよ」

 

「……はい」

 

 

 

 

 私は缶を持ち直した。

 

 言おうとしたことが、あった。

 

 

 

 

 ――下の名前で、呼んでいただけませんか。

 

 

 

 

 十六年前、私はこの人に、それを許可した。

 

 「温水さんなら構いませんよ、下の名前で呼んでも」と、部室の入り口で言った。

 あのとき、この人は固まっていた。

 

 それから卒業まで、この人は一度も、そう呼ばなかった。

 

 最後にそう呼ばれたのが、いつだったかは覚えている。

 私が、許可を出す前の日である。

 

「あの」

 

「うん」

 

「温水さん」

 

 

 

 

 口が、開いた。

 

 開いて、そこで止まった。

 

 喉のあたりが、きゅう、と締まる。

 

 

 

 

 ――言ったら、どうなるか。

 

 この人は、たぶん「いいけど」と言う。

 言って、明日から下の名前で呼ぶ。

 

 そうなったら、私は。

 

 私は、そこから先、どうすればいいのか、分からなかった。

 

 

 

 

「……いえ」

 

 私は言った。

 

「明日から、また、温水主任と呼びます」

 

「なんで」

 

「職場ですので」

 

「そっか」

 

「はい」

 

 

 

 

 私は缶をコートのポケットに入れて、鞄を持ち直した。

 

「では、失礼いたします」

 

 改札を抜けて、二歩進んで、振り返る。

 

 頭を下げた。

 

 三十度では、なかった。

 何度なのかは、自分でも分からない。下げ終わったとき、私はたぶん、笑っていた。

 

 顔を上げると、彼が手を上げていた。

 上げてから、すぐに下ろした。

 

 

 

 

 ――かわいい。

 

 

 

 

 自分の頭に浮かんだその言葉に、私は自分でぎょっとした。

 

 三十四歳の男性に対して、三十四歳の女性が使う語彙ではない。

 しかも上司である。厳密には主任と一般職員なので上司ではないが、指導担当者である。

 

 私は早足で階段を上った。

 

 

 

 

 ホームに立って、電車を待つあいだ、私はポケットの中の缶を握っていた。

 

 ずっと、さっき言えなかった一言のことを考えていた。

 

 ――下の名前で、呼んでいただけませんか。

 

 言えなかった理由は、はっきりしている。

 

 怖かったからだ。

 

 あの日、私は先に言った。

 言って、返事をもらえなかった。

 

 十六年経って、私はまだ、先に言うのが怖い。

 

 

 

 

 電車が来た。

 

 私は乗って、吊り革を持って、缶を取りだした。

 

 まだ、少し残っていた。

 

 飲んだ。

 

 やっぱり、まずかった。

 

 まずいのに、なぜか、口の端が、少し上がっていた。

 

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