「四十七件、来てます」
「四十七」
「で、出るのは二十二件です」
私は、机の上の封筒の山を見ていた。
二十五件を、出ないと判断する。
その基準を、私はまだ知らない。
「……なぜ、半分にするんですか」
「金と人が足りないです」
温水主任が封筒を一通抜いて、中身を出した。
A4三枚。
主催者名、実施校名、日程、開催形式、想定参加生徒数、参加費、申込締切。
私はそれを、二度読んだ。
――知らない。
この書式を、私は見たことがない。
「これ、業者さんからの案内です。うちの場合、ユニネクストさんと、あと三社くらいから来ます」
「業者」
「進学ガイダンスの運営会社です。高校と一緒に企画して、大学を集めて、当日全部仕切ってくれます」
私は、その案内をじっと見た。
「……高校に、直接お願いに行くのではないんですか」
「行かないですね」
「え」
私は、大学職員というのは高校を一校ずつ訪問するものだと思っていた。
どこでそう思ったのかは、分からない。
どこかで見たドラマか、あるいは、私が勝手に想像していただけかもしれない。
いずれにせよ、私は十年間、高等教育行政の現場にいた。
いて、それを一度も確認しなかった。
「高校からすると、大学が一校ずつ来るのって、地獄なんですよ。全国に大学が八百校近くあるんで」
「……八百」
「なので、業者さんが間に入ります」
私は書き取った。
「集める基準は」
「その高校から過去に進学実績がある大学が中心です。あとは高校側の要望」
ペンが、止まった。
――待って。
「つまり」
「はい」
「呼ばれない大学は、そもそも、その高校に行けないということですか」
ずん、と重いものが胸に落ちた。
「行けないですね」
「では、実績のない高校には」
「入れないです。基本は」
「新規開拓は」
「難しいです。だから、いま呼んでもらえてる高校を、絶対に落とさないようにする」
私は、しばらく黙っていた。
黙って、それから、手帳に書きはじめた。
「……私は、この仕組みを知りませんでした」
声が、自分でも分かるくらい、低くなっていた。
「十年、高等教育行政におりました」
ぱらり、とページが鳴る。
「大学と高校の接続について、報告書を何本も書きました。……現場で誰と誰が、どうやって会っているのかを、私は一度も見ていません」
「まあ、そういうもんですよ」
「それは、私の責任です」
「重いな」
重い。
自分でも分かっている。
でも、これは、本当に私の責任なのだ。
私は「高大接続」という言葉を、十年間、何百回も使った。
使いながら、その接続の実務が、業者への申込書と参加費と宅配便でできていることを、知らなかった。
私が書いた報告書を、この人たちは読んだのだろうか。
読んで、どう思っただろうか。
……考えるのをやめた。
考えても、もう、直せない。
五月十二日、月曜日。
朝、庶務課から二つの荷物が届いた。
「馬剃さん、これ、名刺です」
「あ」
私は、その箱を、しばらく開けられなかった。
指先が、なぜか、少し震えていた。
文科省を辞めるとき、私は名刺を全部処分した。
正確には、処分しようとして、できなかった。
残っていた分を箱に戻して、そのままにしてある。いまも部屋のカラーボックスの上にある。
一年半、私は「自分の名前が印刷されているもの」を持っていなかった。
私は蓋を開けた。
一枚、抜き取った。
目の高さで見た。
大学のロゴ。
部署名。
馬剃天愛星。
……ある。
喉の奥が、じん、と熱くなった。
「……どうしました?」
「いえ」
「……久しぶりに見ました」
「なにを」
「自分の名前が、印刷されているものを」
彼は、それ以上、何も聞かなかった。
聞かないと分かっていたから、言えたのだと思う。
私は名刺を三十枚数えて、名刺入れに入れた。
入れて、内ポケットに収めた。
それから――右手を、当てた。
抜く。戻す。
抜く。戻す。
するり、と抜けて、かちり、と収まる。
その感触に、胸のあたりが、ふっと軽くなった。
「馬剃さん」
「はいっ?」
「今日から高校訪問です。……あ、いや、ガイダンスです。水曜」
「はい」
「名刺、忘れずに」
「……持ちました」
見られていた、と思う。
この人は、いつも見ている。
席が隣なので、見ないほうが難しい。
でも、「名刺、忘れずに」という言い方は、見ていないふりをしながら私が持ったことを確認する言い方だった。
とん、と心臓が跳ねた。
「で、こっちが大学案内です」
彼が指したのは、壁際に積み上がった段ボールだった。
「これを、当日持っていくんですか」
「持っていかないです」
「え」
「一箱八キロです。十二箱で九十六キロですよ」
……当たり前である。
私は、なぜ持っていくと思ったのだろう。
この一か月半、私は自分の常識のずれを、たぶん四十回くらい修正している。
修正するたびに、少し恥ずかしくなって、そのあと少し楽しくなる。
楽しい、というのは、正しい表現ではないかもしれない。
でも、そうとしか言いようがない。
「では、当日は」
「手ぶらです。名刺と、あとは筆記用具くらい」
「手ぶら」
「厳密には、ノートパソコンとモバイルバッテリー持ちます。あと、飴」
「飴?」
「五十分喋ると、喉が死ぬんで」
五月十四日、水曜日。
彼は十一時に大学を出た。
集合は十三時である。
「温水主任」
「はい」
「集合は十三時です」
「そうですね」
「現地までは、乗り換えを含めて四十八分です」
「そうですね」
「いま、十一時二分です」
「そうですね」
――サボりだ。
私は、はっきりとそう思った。
思って、その判断を記録するべきかどうか迷った。
OJT担当者の勤務態度について、私に報告義務はない。
ないが、私は十年間、そういう場所にいた。誰かが誰かを見ていて、見られていることを全員が知っている場所に。
私は手帳を開いて、そして、閉じた。
連れていかれたのは、ファミリーレストランではなかった。
アーケードを北に抜けた先の、二階である。
タイル張りの、細長い建物だった。
――知っている。
この造りを、私は知っている。
十六年前、豊橋のときわ通りにも、同じような店があった。
一階が店で、脇の階段を上がると、二階に喫茶店がある。外から中が見えない店である。
偶然である。
この国に、こういう喫茶店は何百軒もある。
……偶然であってほしい。
窓際の四人席で、この人はメニューを開かずに注文した。
「ナポリタンと、あと、ぶどうジュース、二つください」
二つ。
私は、その二文字で、一瞬、息の吸い方を間違えた。
私は、まだ何も言っていない。
コーヒーとも、紅茶とも、水でいいとも、何も言っていない。
この人は、私の分を、聞かずに決めた。
――知っている。
この人は、十六年前も、同じことをした。
あの日、私の前に置かれたのは、赤いぶどうのジュースだった。
私がコーヒーに砂糖を三つ入れて一気に飲んだのを、この人は、その少し前に一度だけ見ている。
一度で足りるらしい。
「あれ、温水さん。いつものコーヒーじゃなくていいの? 豆、挽いちゃったけど」
カウンターの奥から、マスターが顔を出した。
……いつもの。
いつもの、ということは、この人はこの店で、いつもコーヒーを頼んでいる。
五年間。この席で、毎回。
その人が、今日だけ、変えた。
変えた理由を特定するのに、計算は要らなかった。
胸の内側を、とん、と何かが打った。
打たれたところが、じわ、と熱を持っていく。
「あー……、今日はそういう気分なんです」
……気分ではないでしょう。
そして、マスターが、目を細めた。
細めたまま、視線を、私のほうへ移した。
――測られている。
私は反射的に背筋を伸ばした。
伸ばしてから、それが最悪の挙動だったと気づいた。背筋を伸ばす人間は、やましい人間である。
「なるほどね」
なるほど、とは。
なにが、なるほどなのですか。
訂正を申し入れなければならない。
当方は同一部署の職員であり、本日は業務上の移動の途上であり、当該注文はOJT担当者の裁量によるものであって、両者の間に――
顔を上げたときには、もう暖簾が揺れているだけだった。
……引き際が、速すぎる。
この店の人間は、店主まで、あの人と同じ癖を持っているらしい。
私は、おしぼりを握った。
握って、それから、いちばん聞いてはいけないことを聞いた。
「……あの」
「はい」
「温水主任は、いつもコーヒーを頼まれるんですね」
「頼みますね」
「では、なぜ今日はジュースなんですか」
「そういう気分なんです」
――嘘です。
「しかも、私のぶんまで、勝手に」
「……だって馬剃さん、コーヒー苦手でしょう」
息が、止まった。
止まって、それから、私は椅子を鳴らして立ち上がりかけていた。
「あれは、高校時代の話ですっ!」
「え」
「今は飲めます! 毎朝、飲んでおります!」
「そうなんですか」
「豆から挽いております! 湯温は九十度、蒸らしは三十秒!」
「手順まで」
「手順どおりに淹れると、おいしいんですっ!」
……止まらない。
私は、追いつめられると、手順を読み上げる。
十年やって、癖になった。
答えられない質問をされたとき、答えられる部分だけを大きな声で言う。それで、なんとなく答えたことにする。
いま私が言うべきだったのは、湯温ではない。
――なぜ飲めるようになったか、である。
十六年前の冬、私はときわ通りのコーヒー屋で、豆を二百グラム買った。
一杯目は、流しに捨てた。
二杯目は、半分飲んだ。
十杯目で、砂糖が二つに減った。
三十杯目で、おいしいと思った。
いまは、何も入れない。
その十六年のあいだ、私は一度も、理由を書き留めなかった。
書き留めると、記録になる。記録になったものは、いつか誰かに読まれる。
私は「少しずつ慣れていこうと思います」と言った。
言ったからには、やる。
私は、そういう人間である。
……それだけだ。それ以外の理由は、ない。
ないことに、してきた。
「すいません。俺の情報が、十六年ぶん古かったです」
――覚えて、いる。
私は、グラスの台座を見た。
この人は、私がコーヒーを飲めなかったことを、覚えていた。
覚えていて、そのうえで、今日はジュースにした。
更新されていなかったのは情報のほうで、記憶のほうは、一度も消えていない。
「……古いです。とても古いです」
声が、少し震えた。
「更新します」
「更新してください」
……更新しないでください、とは、言えなかった。
私は、ふん、と鼻から息を抜いて、椅子に座り直した。
勝ったことにした。
こういうときは、勝ったことにしておくのが早い。
「でも、今日はジュースでいいと思います」
「なぜですか」
「馬剃さん、今日たぶん十七時半まで帰れないですよ」
「はい」
「五十分喋って、十分休んで、また五十分喋ります」
「二回転、ですね」
「二回転です。で、そのあと控室で名刺交換の列に並びます」
「……なるほど」
「慣れない仕事で、もうけっこう疲れてるでしょ」
「疲れておりません」
「顔に出てます」
「出ていませんっ」
「疲れたときは、甘いもののほうがいいかなって」
――あ。
その一文を、私は知っている。
一字一句、同じである。
十六年前。あのポスターを撮られた二日後、駅前の二階の喫茶店で、この人はまったく同じ順序で同じことを言った。
疲れた時には甘いものがいいかなって。
いつもはコーヒー頼むけど、俺も久しぶりに頼んでみたよ。
「俺もいつもはコーヒーですけど、久しぶりに頼んでみました」
……言った。
私は、おしぼりを畳んだ。
四つに畳んで、角を揃えた。
揃えていないと、手が、どこかへ行ってしまいそうだった。
彼が先に、自分のグラスに口をつけた。
「山梨のワイナリーのやつです。赤のほう。ここにしか置いてないんですよ」
「ここで一時間座っておかないと、二回転目でヘラヘラできなくなるんですよ」
「へら」
「ヘラヘラです。あれ、体力使うんで」
……ヘラヘラ。
私は、その単語を手帳に書きたい衝動と、正面から戦った。
この人は、五十分の説明を「体力を使う」と言った。
言い方はふざけている。
だが、内容は正確である。人前で好かれる顔を作りつづけるのは、労働だ。
私は、それを十年やった。
やって、それが労働であると誰かに認められたのは、たぶん、いまが初めてだった。
運ばれてきたグラスに、私は口をつけた。
甘い。
甘くて、冷たくて、喉のあたりが、じん、とした。
……ずるい。
私は、そこで動けなくなった。
二秒。
その二秒に、十六年が戻ってきた。
グラスから口を離したときには、もう、耳まで熱くなっていた。
私はグラスを置いて、顔を上げた。
上げて、たぶん、いちばん言ってはいけないことを言った。
「……温水主任。あなた、弱った女性の扱いが、やけに慣れてますよね」
言ってから、かあっ、と顔じゅうが熱くなった。
弱った女性、と私は言った。
自分で、自分を、そう呼んだ。
訂正はできない。訂正すると、認めることになる。
だから私は、そのまま最後まで走った。
外から見えない喫茶店。連れこむ。甘いもので籠絡する。
三つとも、十六年前に私が言った文である。
一字一句、覚えていた。覚えていたことを、いま自分で証明してしまった。
この人は、「ジュース頼んだだけなんですけど」と言った。
……その顔が、十六年前と、寸分違わなかった。
だから私は、詰めた。
――数えてある。
席に着いた直後、私はこの店の飲み物を数え終えていた。
考えたくないことがあるとき、私は目の前のものを計測する。癖である。
この癖のおかげで、私は十年間、会議中に泣かずに済んだ。
今日は、逆に働いた。
数え終えたときには、この人の逃げ道が、全部塞がっていたのである。
「温水主任。さきほど、疲れたときは甘いもの、とおっしゃいましたね」
「言いましたね」
「では、伺います」
私はメニュー立てを、こつ、と指先で叩いた。
「この店の甘い飲み物は、ぶどうを除いて五種類あります。オレンジ、パイン、メロンソーダ、レモンスカッシュ、クリームソーダ」
「……いつ数えたんですか」
「座って三分以内です」
「あなたは、その五つを飛ばしました」
「飛ばしましたね」
「メニューを、開かずに」
「開かなかったですね」
「甘ければよいのであれば、いちばん上のオレンジで足ります」
彼が、黙った。
――ここだ。
「甘い飲み物、というのは条件です」
私は、まっすぐ彼を見た。
「赤ぶどう、というのは、条件ではありません」
条件と仕様は、違う。
「甘いもの」からは、五通りの答えが出る。
「赤ぶどう」は、一通りしか出ない。
一通りしか出ないものが出てきたということは、条件のほかに、書かれていない前提があるということだ。
書かれていない前提を、私は十年間、探しつづけてきた。
探して、見つけて、指摘して、恨まれた。
……今日、私は、生まれて初めて、見つけたくて探している。
「条件からは、そこまで決まりません。決まっているということは、条件の外に、なにか根拠があるということです」
「……はい」
「……なぜ、赤ぶどうなんですか」
――訊いてしまった。
訊いてはいけない質問だった。
この人が正直に答えたら、私は今日、二回転の説明会を平常心で見学できなくなる。
「……俺が、飲みたかったんで」
――短い。
この人の文は、隠しているときだけ短くなる。
十六年前から、そうだった。
本当のことを言うときは、理由を三つ足す。隠したいときは、主語ごと落とす。
私はその規則性を、高校二年の秋に発見した。
発見して以来、一度も外していない。
いまのは、主語しかなかった。
「短いですね」
「短いです」
「本当に隠したいときだけ、短くなりますよね」
「その運用、ほんとにやめてほしい」
「やめませんっ」
やめるわけがない。
これは、私が十六年かけて作った、たった一つの運用である。
私は、ストローを咥えて、そっぽを向いた。
向いたまま、半分飲んだ。
速すぎたと思う。思ったが、止まらなかった。
ナポリタンは、まだ来なかった。
沈黙が、怖い。
沈黙のあいだ、人は相手の顔を見てしまう。
私は、鞄から規程の冊子を出した。
「読むんですか、それ」
「読みます」
「休憩ですよ」
「これが休憩です」
これが私の休憩である。
文字を追っていると、何も考えなくて済む。
……考えなくて済む場所が、いま、いちばん必要だった。
彼が、ジュースを噴きそうになっていた。
「規程を読むのが休憩って、じゃあ馬剃さんにとって仕事は何なんですか」
「規程どおりに動くことです」
「……一貫してるなあ」
……失礼な人だと思う。
思いながら、私は同じ行を、三回読んだ。
第四条第二項。旅費の支給に関する規定である。
三回読んで、一文字も入ってこなかった。
控室は、その高校の会議室だった。
入った瞬間、私は少し面食らった。
長机が四列。
スーツの男女が二十人以上。名札を確認する人、資料を出す人、スマホを見る人。
全員が、他大学の職員である。
「今日、何校ですか」
「二十六校ですね」
「二十六校」
――全員、競合。
私はその部屋の空気を、うまく理解できなかった。
文科省では、他省庁の人間と同席する場は、常に緊張していた。
緊張していない場は、緊張していないふりをしているだけだった。
ここは、違う。
「あ、温水さん。お久しぶりです」
「どうも。今日、教室どこですか」
「第五です。うち、去年ここ二人しか座らなくて」
「うわ、きつい」
「きついですよ。今年もたぶん二人です」
……普通に、話している。
自分のところに二人しか来なかったという情報は、競合に渡していい情報なのだろうか。
「……いまの方は」
「他大学の職員さんです」
「競合、ですよね」
「競合ですね」
「あんなに、普通に話されるんですか」
「話しますよ。毎週どこかで顔合わせるんで。年に三十回とか会います。うちの課より会ってるかもしれない」
私は、その部屋をもう一度見回した。
あちこちで、小声の会話がある。
今年のあの高校は文系が増えたらしい。あの業者は来年から料金を上げるらしい。
嘘は、たぶん、あまりない。
――ここは、そういう場所なのだ。
競合であることと、同業であることが、同時に成立している。
私はそれを、少しうらやましく思った。
十三時ちょうど。
業者の担当者が前に立った。
「なお、本日は三年生と二年生の合同開催です。第一回が三年生中心、第二回が二年生中心となります」
私は書き取った。
書き取った直後、隣から声がした。
「馬剃さん」
「はい」
「一回目と二回目、内容変えます」
「え」
「三年と二年なんで」
「……いま、決めたんですか」
「いま決めました」
――いま。
ぐらり、と足元が揺れた気がした。
五十分の説明を、二本。
その構成を、開始三十分前に、業者の一言で組み替えた。
私には、できない。
私は、二十分の説明のために、三日かける人間である。
三日かけて原稿を作って、それを読んで、それでも声が出なくなる人間である。
教室に入るなり、彼は後ろの壁を読みはじめた。
「温水主任、それは」
「読みます」
「読むんですか」
「読みます」
貼ってあったのは、進路だよりの五月号だった。
三年生向け。見出しは「オープンキャンパスに行こう」。
その下に、去年の卒業生の合格体験記が三本。
私は、そのうち二本が理系であることに、彼より三十秒遅れて気づいた。
十三時三十分。
チャイムが鳴って、生徒が入ってきた。
二十二人。前の三列が、ほぼ埋まった。
私は教室の後ろに立って、手帳を開いた。
ペンを構えた。
この五十分を、全部書き取るつもりだった。
「こんにちは。今日は来てくれてありがとうございます」
彼が、そう言った。
少し、間を置いた。
「三年生ですよね。……五月にオープンキャンパスの説明を聞くの、正直しんどくないですか」
前列の女子が、ふ、と笑った。
――え。
教室の空気が、ふわ、と緩んだ。
一言である。
たった一言で、二十二人の肩が、同時に下がった。
私は、ペンを持ったまま、動けなくなった。
――十六年前。
あの体育館で、この人は震えていた。
演台の前に押し出されて、マイクのスイッチを入れる指が震えていた。
言葉が二回止まった。全校生徒の前で、完全に沈黙した。
私はそれを、舞台袖から見ていた。
見ながら、この人を巻きこんでしまったことを、心の底から後悔していた。
いま、この人は、教壇に立っている。
資料を持っていない。
メモも見ていない。
黒板の前を、ゆっくり歩きながら喋っている。
震えていない。
「僕、去年もこの高校に来てるんですけど、五月って、まだ実感ないんですよね。夏になると急に来ます。八月にみんな一気に焦ります」
「なので、今日は焦らせないようにします。四十分で終わらせて、あと十分は質問の時間にします」
教室が、はっきりと、こちらを向いた。
私は、そこから、何をしていたのだろう。
あとから振り返ると、私はたぶん、五十分間、ずっとこの人を見ていた。
途中で、彼が急に話を止めた。
三列目の右から二番目の男子が、机の下でスマートフォンに手を伸ばしかけた、その〇・五秒後だった。
「あ、そうだ。去年うちに入った学生で、面白いやつがいて」
――見ていた。
私は、はっとした。
この人は、喋りながら、二十二人を見ている。
誰の目が落ちたか、誰の眉が寄ったか、誰の指がペンを回しはじめたかを、全部拾っている。
そして拾うたびに、話を切り替えている。
笑いが起きた。
スマートフォンが、机の下に戻っていった。
二列目の女子が、眉を寄せた。
「あ、いま『学部と学科』って言いましたけど、これ最初、全員意味分かんないですよね。僕も分からなかったです」
黒板に、大きな四角と小さな四角。
女子の眉が、戻った。
――なんですか、これは。
私は、心の中でそう呟いた。
これは、話し方の技術ではない。
人の顔色を読む技術である。
この人が、高校の三年間、毎日やっていたことだ。
誰と誰のあいだに立って、誰が何を言われたら傷つくかを、常に計算していたことだ。
あれは、この人が生きるために身につけた、たぶん、あまり幸福ではないやり方だった。
その技術で、いま、二十二人の高校生を退屈させないでいる。
喉のあたりが、ぎゅう、と締まった。
「大学案内、みんなの教室に届いてると思います。うち、けっこう厚いやつ出してて」
「全部読まなくていいです。百二十三ページだけ読んでください。百二十三ページ」
――百二十三ページ。
私は、その数字を知っている。
入職の週に、大学案内を三回通読した。百二十三ページは、日本文学科の卒業生インタビューである。
後ろ寄りの、誰も開かない場所にある。
百九十六ページのうち、この人は、そこを一発で指定した。
なぜ、そのページなのか。私はまだ、理由を知らない。
「あと、これは今日いちばん言いたいことなんですけど」
声が、少し落ちた。
教室が、しんとした。
「みんな、たぶんこれから『指定校は楽だ』って言われることがあると思います」
どくん、とした。
「うち、指定校で入った学生の入学後の成績を、三年ぶん追いかけてます。……一般で入った学生より、平均が上です。退学も少ないです」
黒板に、数字が三つ。
――私の、数字だ。
息が、止まった。
先週の水曜日の夜、私は部屋の床に座って、それを作った。
床の、三十センチ四方だけ片付いている場所に、ノートパソコンを置いて。
三年分の追跡データを整理して、グラフにして、印刷した。
印刷はコンビニでした。うちにプリンタはない。
使う場面があるかどうかは、分からなかった。
誰にも見せていない。共有フォルダに置いただけだ。
置いただけのものが、いま、二十二人の高校生の前で、黒板に書かれている。
「どの入り方で入っても、入ってからどう過ごすかで全部変わります。それだけです」
私は、目のあたりが熱くなるのを、必死で押さえた。
押さえながら、彼がこちらを見たのが分かった。
一秒。
すぐに、生徒のほうに戻った。
チャイムが鳴った。
「はい、じゃあ終わります。ありがとうございました」
拍手が起きた。
生徒が出ていって、教室が空になる。
「馬剃さん」
「……はい」
「メモ、大丈夫でした?」
私は、手帳を見た。
白紙だった。
一行も、書いていなかった。
ざあ、と血の気が引いた。
「……申し訳ありません」
「いや、別にいいですけど」
「一行も、取っておりません」
「うん」
「私、五十分、何をしていたんでしょうか」
声が、震えた。
自分でも、はっきり分かった。
「聞いてたんじゃないですか」
――聞いていた。
そうかもしれない。
でも、それだけではない。
私は、あの教室で、十六年前の舞台袖に立っていた。
二回目は、二年生が十六人だった。
「二年生ですよね。じゃあ今日は、大学の話しません」
「大学って何なのか、の話をします。うちの大学に来なくていいんで」
私は、また、書けなかった。
書こうとした。
ペンを紙に当てた。
当てたまま、五十分が終わった。
控室に戻ると、名刺交換の列ができていた。
「これ、なんですか」
「名刺交換です」
「並ぶんですか」
「並びます。一人一分くらいです」
列が進んだ。
私たちの番が来た。
彼が名刺を出して、顔を上げて、そして――
――あ。
立っていたのは、綾野光希だった。
私は、心臓が、ばくん、と鳴るのを聞いた。
「……温水?」
「綾野」
「え、待って」
後ろに、二十校ぶんの列がある。
彼が名刺を差しだした。
「本日はありがとうございました。入試広報課の温水です」
――仕事の顔だ。
私は、一歩前に出た。
右手が、動いた。
内ポケット。名刺入れ。抜く。
迷いが、なかった。
「同じく、馬剃と申します」
綾野さんが名刺を受け取って、目を落として、固まった。
「馬剃……天愛星さん?」
「はい」
「えっ」
後ろの人が、待っている。
「……あとで連絡する」
「うん」
それだけだった。
私たちは頭を下げて、列を抜けた。
外に出ると、五月の夕方だった。
「一分でしたね」
「一分でしたね」
「……心臓に、悪いです」
「悪いですね」
「あの、温水主任」
「はい」
「五十分の件ですが」
私は、彼を見た。
「二回目、一回目とまったく別の内容でした」
「まあ」
「私、二回目もメモを取りませんでした」
「そうですか」
「……なぜでしょうか」
彼は、駅までの道を歩きだした。
「馬剃さん」
「はい」
「メモ、二回目からでいいですよ」
「……二回目」
「今日じゃなくて、次の会場です。今日は見るだけでよかったんで」
私は、足を止めた。
「では、最初からそう言ってください」
「言うと、見なくなるんですよ」
――ずるい。
この人は、本当に、ずるい。
私は何も言えなくなって、半歩後ろを歩いた。
歩きながら、鞄の持ち手を、両手で握っていた。
綾野さんから連絡が来たのは、その日の夜だった。
三人のグループが、いきなり作られていた。
『今日はお疲れ様でした。仕事の顔で名刺出されて、こっちが泣きそうになった』
『土曜、時間ある? 飲みでも飯でもいいので』
私は、二秒で返信した。
『ぜひ、伺います』
返信してから、私は自分の指を見た。
――速い。
速すぎる。
なぜ即答したのか。
この人が、迷うと思ったからだ。
迷って、たぶん、断ると思ったからだ。
私が先に「行く」と言えば、この人は行くしかなくなる。
……そこまで計算して、私は指を動かした。
我ながら、性格が悪いと思う。
土曜日の夜、私たちは新宿の居酒屋の個室にいた。
私は烏龍茶にした。
理由は、二人だからである。
二人までなら、私は素で喋れる。三人になると、私は防具を着る。
これは私の癖であって、綾野さんのせいではない。
「馬剃さんもすごいな。文科省でしょ」
「……十年おりました」
「で、いま大学職員」
「はい」
「なんか、すごい遠回りだね」
ちくり、とした。
悪気は、まったくない。
悪気のない人の言葉が、いちばん答えにくい。
「そうですね。遠回りです」
「あ、ごめん」
「いえ。事実ですので」
――事実である。
私は、そう言えるようになった。
一年前なら、言えなかった。
一年前の私は、この質問に、たぶん一言も返せなかった。
「馬剃さん、変わんないな」
「変わりました」
「どこが」
「校則を暗記しなくなりました」
「就業規則を暗記してるんですよ、この人」
「余計なことを言わないでください」
「事実だろ」
「事実ですが、初対面に近い方に開示する情報ではありません」
「初対面じゃないだろ、十六年ぶりなだけで」
綾野さんが、げらげら笑った。
「なにこれ。お前ら、そんな喋る仲だったっけ」
とん、と空気が沈んだ。
――しまった。
私は、烏龍茶を飲んだ。
彼は、ビールを飲んだ。
二人とも、二秒くらい、何も言わなかった。
「……職場が同じなので」
私は言った。
「席も隣ですから」
「隣!?」
「隣です」
言ってしまってから、顔が、かあっと熱くなった。
なぜ言ったのか。
言う必要は、まったくなかった。
「職場が同じなので」で、話は終わっていた。
私は、たぶん、言いたかったのだ。
……最悪である。
綾野さんが、彼のほうを見た。
なにか言いたそうな顔をして、そのまま、枝豆に手を伸ばした。
二軒目には行かなかった。
駅までの道で、綾野さんが足を止めた。
「温水」
「うん」
「お前さ」
「連絡くらい、くれよ」
「……悪い」
「いや、いいんだけど」
「なんかさ、あのころ、いろいろあったじゃん。お前がしんどかったのも、なんとなく分かってたし」
「うん」
「だから、誰も追いかけなかったんだよ。追いかけないほうがいいと思って」
「でもさ」
「みんな、お前が元気にしてるかだけ、知りたかったんだよ」
私は、そのとき、この人の顔を見ていた。
口が、開いた。
一・五秒。
閉じた。
「ああ」
むっ、とした。
――それだけ?
私は、思わずそう思った。
思ってから、自分に驚いた。
私は、いま、怒っている。
胸の奥が、ちりちりと熱い。
この熱が何なのか、私はそのときまだ、名前をつけられなかった。
帰りの電車で、私は三駅だけ、この人と一緒になる。
ドアの横に並んで立って、しばらく何も喋らなかった。
「温水さん」
私は、そう呼んだ。
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「水曜日の、五十分」
電車が揺れた。
「あの話し方は、いつからですか」
「いつから、って言われると」
「高校のときの、あなたではありませんでした」
言いながら、私は、少しだけ嘘をついていた。
「まあ、十二年もやってれば」
「そうでしょうか」
私は、彼を見た。
「私は、少し、面影があると思いました」
「面影?」
「一言目です」
――五月にオープンキャンパスの説明を聞くの、正直しんどくないですか。
「相手が嫌がっていることを、先に自分から言うんです」
私は、前を向いた。
「先に言って、相手を楽にする。……あれは、昔からのあなたです」
言った。
言えた。
じん、と胸のあたりが熱くなった。
彼は、返事をしなかった。
――言ってほしい。
私は、そう思った。
「そうかな」でも、「そんなことないよ」でもいい。
何か言ってほしかった。
言わないから、私は、別のことを聞いてしまった。
「あの」
「はい」
「先ほど、綾野さんに肩を叩かれたとき」
「うん」
「なにか、言おうとされてましたよね」
「言おうとしてないよ」
「口が開いていました」
「開いてないって」
「一・五秒ほど」
「なんで測ってるんだよ」
私は、答えられなかった。
なぜ測っているのか。
答えは、たぶん、簡単だ。
私は、この人が何かを言おうとして、やめる瞬間を、十六年前から数えている。
高校のとき、私はそれを何度も見た。
見て、そのたびに、続きを待っていた。
一度も、続きは来なかった。
次の駅で、私は降りた。
降りる前に、いつもより浅く頭を下げた。
ホームに立って、私は手帳を開いた。
水曜日のページは、まだ白紙のままだった。
二日経っても、私はそこに何も書いていない。
書けなかった。
あの五十分に何が起きたのかを、私はまだ、言葉にできていない。
私は、ペンを持った。
しばらく迷って、一行だけ書いた。
『五十分、震えていなかった』
書いてから、私はそれをじっと見た。
業務のメモではない。
削除も、できない。手書きなので。
電車が入ってきた。
私は乗って、吊り革を持って、目を閉じた。
目を閉じると、教壇に立つあの人の背中が浮かんだ。
浮かんで、そのすぐ後ろに、十六年前の体育館の舞台袖が重なった。
二つの光景が、ぴったりと重ならない。
重ならないのに、同じ人だった。
――知ってしまった。
私は、この一か月半で、この人が元気にしていることを知った。
定時で帰るし、ラノベを読むし、教授をからかうし、たまに独り言を言う。
そして、五十分間、二十二人の高校生を一度も飽きさせない。
元気そうだ。
十分すぎるくらい、元気そうだ。
知ってしまったら、それで足りるはずだった。
足りていない。
胸の底のほうが、しくしくと痛んだ。
私は目を開けて、窓の外を見た。
五月の夜が、後ろに流れていった。