「馬剃さん、明日の広報委員会、議事録お願いできますか」
「はい」
私は即答した。
即答できたことに、少しだけ安堵した。
この一か月半、私は返事に一秒以上かけないことを自分に課している。一秒を超えると、相手が「この人は嫌なのかもしれない」と考える時間が生まれるからだ。
根拠はある。
人が違和感を覚えるまでの沈黙の長さは、およそ〇・八秒からだという研究を読んだことがある。私はそれを一秒と設定した。〇・二秒の余裕は、私の反応速度の個体差を吸収するためだ。
今週の達成率は、九十六パーセントである。
未達の二回は、いずれも温水主任からの不意の話しかけによるものだった。対策は検討中である。有効な対策は、まだ見つかっていない。
……などということを、私はこの一か月半、毎日考えている。
考えていることを、私は誰にも言っていない。
「議事録は、書式のひな形がありますか」
「Zドライブに去年のがあります。真似してもらえれば」
「承知しました」
「あ、でも」
温水主任が、椅子を半分こちらに回した。
「明日の議事録、たぶん、いつもと同じにはならないと思うんで」
「といいますと」
「揉めるんですよ、明日」
その言い方が、あまりに軽かった。
「……揉めることが、事前に分かっているのですか」
「分かってますね」
「では、揉めない議題に差し替えるという選択は」
「ないです」
彼は即答した。
「差し替えると、来年も同じところで揉めるんで」
「――」
「三年連続で同じところで揉めてるんですけど、去年より三十分早く揉めてます。だんだん短くなってるんで、あと二年です」
私は、その言葉を書き取った。
「馬剃さん」
「はい」
「いまの、メモしました?」
「しました」
「『あと二年』も?」
「定量的な見通しは記録します」
「俺の勘ですよ、あれ」
「では『出典・勘』と付記します」
「やめてもらっていいですか」
「勘も、当たれば実績です」
「実績になってから言ってください」
「じゃあ、三年後に答え合わせしましょう」
「議事録に書いておきます」
「書かないでください」
あと二年、という見通しを、この人はどこから出しているのだろう。
私は書き取ったものを見返した。
根拠は書かれていない。根拠を聞けば、たぶん答えてくれる。
聞かなかった。
聞くと、明日の楽しみが減るような気がしたからだ。
……いや。
業務に楽しみもなにもない。私はいま、不適切な感想を持った。
その日の夕方、温水主任が受話器を取った。
「あ、文学部の鵜飼先生、いらっしゃいますか。……はい、入試広報課の温水です」
私は自分の作業をしながら、耳だけをそちらに向けていた。
「先生、お世話になってます。……いえ、明日の委員会の件で、一個だけ先に謝っておきたくて」
――謝る?
私は手を止めた。
「明日、また大学案内のページ数の話を出します。三年連続ですいません」
受話器の向こうで、何か言っている。
「はい。分かってます。先生に怒られるのも三年連続です」
笑い声が漏れてきた。
「ただ、今年は数字を持ってきました。……はい。去年のQRコードのやつです。あれ、そういう目的で入れてたんで」
少し間があった。
「先生の学科のページ、一位でした」
温水主任は、そこで椅子の背にもたれた。
「明日、会議でその話します。先に言っておかないと、フェアじゃないと思ったんで。……はい。じゃあ、明日よろしくお願いします」
受話器を置いて、彼は何事もなかったように作業に戻った。
「温水主任」
「はい」
「いまのは、根回しでしょうか」
「根回しですね」
「明日の会議で、初めてお伝えするのかと」
「初めて言うと、先生が全員の前で驚くことになるんですよ」
彼は画面を見たまま言った。
「六十代の教授が、八人の前で驚くのって、けっこう恥なんです。それやると、次から敵になります」
私はペンを取った。
「では、なぜ会議でも同じ話をされるんですか」
「他の七人は、明日初めて聞くんで」
「……鵜飼先生だけ、先に」
「そうです」
温水主任が、こちらを向いた。
「明日、鵜飼先生が『そうなのか』って驚いた顔をしてくれます。あれ、演技です」
「演技」
「先生、けっこう芝居がうまいんですよ」
「温水主任。根回しに、類型はあるんですか」
「ありますよ。事前通知型、種まき型、外堀型」
「三類型」
「あと、『根回しをしない』という根回しもあります」
「……どういうことですか」
「あの人は根回しをしない、っていう信用の作り方です。使えるのは十年に一回ですけど」
「今年は、もう使いましたか」
「まだです。取ってあります」
「……貯金のように言わないでください」
「貯金ですよ、信用って」
「……そういう言い方は、いかがなものかと」
「怒ってます?」
「怒っていません」
「怒ってる顔ですけど」
「これは、平常の顔ですっ」
私は、机の下で、右足のつま先が動いているのに気づいた。
床に、小さく「の」の字を描いている。
止めた。
止めてから、いつからやっていたのかを考えた。
考えて、たぶん十六年前からだという結論に達したので、考えるのをやめた。
私は手帳に、根回し(一)から(四)まで番号を振った。
振ってから、気づいた。
番号を振ったからには、続きを集めるということである。私はこの人の技法を、法令のように体系化しはじめている。
書きながら、思った。
この人は、明日の会議を、今日のうちに半分終わらせている。
私が入職して、一か月と二十日が過ぎた。
仕事は覚えた。
指定校推薦のリストは五月中に完成させ、広報戦略の素案は三案作った。高校訪問には七日間同行し、十九校を回った。
順調である。
順調でないところがあるとすれば、それは私の内側だけだ。
朝、電車に乗るとき、私は今も一度、深呼吸をする。
職場のドアを開ける前に、口角の位置を確認する。誰かに褒められたときの返答は、三パターン用意してある。
全部、必要のないことだと分かっている。
この職場には、私を追い詰める人が一人もいない。
鷲尾課長は理不尽なことを言わない。
柏木部長は声が大きいが、悪意はない。大貫君はうるさいが、あれは誰にでもうるさい。
それでも、私の身体は準備をやめない。
十年かけて覚えたものは、一か月半では消えないらしい。
――そして。
私の隣の席には、温水和彦がいる。
五月二十七日、火曜日。
広報委員会は十四時から、本部棟三階の第二会議室で開かれる。
温水主任は十三時十分に会議室に入った。
私も付いていった。議事録担当は早く入るものだと、文科省でも教わっている。
彼は資料を配りながら、席順を確認していた。
「馬剃さん、これ、座席表です」
「はい」
「委員長がここ。で、時計回りに文学部の鵜飼先生、理学部の権田先生、経済の新開先生――」
私は座席表を受け取って、ペンを構えた。
「鵜飼先生は、大学案内のページ数に強いこだわりがあります。三年連続で反対されてます」
「反対の理由は」
「文学部のページが減るからです」
「実際、減っているんですか」
「減ってます。学生数が減ってるんで」
温水主任は、資料を配り終えると、ホワイトボードの前に立った。
「で、権田先生は鵜飼先生と仲が悪いです」
「……そこまでメモしてよろしいんでしょうか」
「メモしてください。議事録には書かないでほしいですけど」
私は座席表に、鵜飼先生と権田先生のあいだに矢印を引いた。
引いてから、少し考えて、矢印を二重線にした。
「馬剃さん、それなんの記号ですか」
「相関の強度です」
「強度」
「一重が対立、二重が積年の対立です」
温水主任が、資料の束を持ったまま黙った。
「……三重はあるんですか」
「必要になれば作ります」
「それは、見たくないですね」
「私も見たくありません」
「じゃあ、作らせないように頑張ります」
「委員会の平和が、あなたの双肩にかかっています」
「重いなあ」
十四時ちょうど。
委員が全員そろった。
全学部から一名ずつ、計八名。委員長は副学長の宮里先生である。
開会の挨拶が終わり、議題に入った。
議題は四つ。
一つ目が「大学案内の総ページ数削減とWebコンテンツへの移行について」だった。
――一つ目に置かれている。
どき、とした。
私は座席表の余白に、それだけ書いた。
温水主任は先日、こう言った。
通したくない議題は一番目に置く、と。
では、この議題は。
「では、事務局からご説明を」
温水主任が立ち上がった。
「入試広報課の温水です」
彼はホワイトボードの前に立って、資料を持たずに話しはじめた。
資料は、全員の手元にある。
だから彼は、資料を読まない。
「先に結論から申し上げます。事務局案は、大学案内を現行の百九十六ページから百四十ページに削減し、削った分をWebに移す、というものです」
会議室の空気が、目に見えて硬くなった。
「削減幅、五十六ページですね」
鵜飼先生だった。
六十代の、白髪の教授である。声が低く、言葉が丁寧で、丁寧なぶんだけ圧がある。
「はい、五十六ページです」
「事務局は、毎年ページを削りたがる」
「はい。三年連続でお願いしております」
「三年連続で、私が反対していますね」
「よく覚えております」
私は癖で、発言の所要時間を記録している。
鵜飼先生の詰問は平均四十秒。温水主任の返答は平均六秒。詰められるほど、この人の返答は短くなる。
温水主任は、そこで少しだけ笑った。
「去年、先生に一時間説教されました。四十分あたりで、ちょっと泣きそうでした」
会議室に、笑いが起きた。
私は、ぴたりと手が止まった。
――いま、笑わせた。
ぱっ、と空気の色が変わったのが分かった。
鵜飼先生の眉が、わずかに緩んでいる。
完全に緩んではいない。しかし、開会時の硬さは消えた。
「泣いてよろしい。私はまだ話し足りない」
「今日は九十分いただいてるんで、大丈夫です」
また笑いが起きた。
議事録に「(笑い)」と書くべきか、私は一瞬、規程を思い出そうとした。
国会の会議録には(笑声)という記載がある。ここは国会ではない。私はいま、何を考えているのだろう。
……不敬ではないだろうか。
いや、これは私の感覚が古いのだ。
文科省では、局長に対してこのような口をきく職員は存在しなかった。存在したら、翌週には存在しなくなっていた。
「では、数字をご覧ください」
温水主任が、ホワイトボードに数字を書いた。
「昨年度の大学案内は、四万二千部作りました。制作費と印刷費で、およそ千百万円です」
「高いな」
権田先生が言った。
「高いです。で、問題はここからなんですが」
温水主任は、ホワイトボードに縦線を引いた。
「昨年の大学案内、全ページにQRコードを入れました。ページごとに違うコードです」
鵜飼先生が顔を上げた。
「……あれは、そういう目的だったのか」
「はい。どのページが読まれてるかを測るためです」
私は、ペンを握り直した。
これは、聞いていない。
いや、聞いてはいる。共有フォルダの『99_温水メモ』に、二年前の日付でこう書かれていた。
『QRをページごとに変える。誰も気にしない。三年後に効く』
三年後が、今日だった。
「結果を申し上げます」
温水主任は、数字を三つ書いた。
「全百九十六ページのうち、アクセスの九割が上位四十七ページに集中しています」
会議室が静かになった。
「残り百四十九ページのアクセスは、合計で一割です。うち、六十二ページはアクセスがゼロでした」
「ゼロ」
新開先生が繰り返した。
「ゼロです。一件もありません」
温水主任は、マーカーのキャップを閉めた。
「印刷費を単純にページで割ると、一ページあたり約五万六千円です。六十二ページで、三百四十七万円ぶんの紙が、誰にも読まれていません」
しん、と会議室が静まりかえった。
誰も、何も言わなかった。
私はその瞬間の会議室を、正確に記録しようと思った。
だが、記録すべき発言が一つもなかった。八人の教員が、全員黙っていた。
「――で」
温水主任が言った。
「事務局としては、この六十二ページをなくしたいわけじゃないんです」
彼は、鵜飼先生のほうを見た。
「鵜飼先生」
「なんだね」
「文学部のページ、去年アクセス一位でした」
鵜飼先生の動きが、ぴたり、と止まった。
「日本文学科の、卒業生インタビューのページです。二位を倍近く引き離してます」
「……そうなのか」
「そうなんです。あれ、めちゃくちゃ読まれてます」
温水主任は、ホワイトボードのほうに向き直った。
「で、そのページは、いま百二十三ページ目にあります」
私は資料をめくった。
百二十三ページ。前から三分の二を過ぎたところだ。
「先生、俺、これがずっと嫌だったんですよ」
温水主任が言った。
声の高さは、さっきまでと変わらない。
変わらないのに、会議室の空気が変わった。
「一番読まれてるページが、一番後ろに置かれてる。読まれてないページが、前のほうを占めてる。……これ、大学案内としておかしくないですか」
「――」
「先生の学科の紹介を減らしたいわけじゃないんです。読まれてないページに埋もれてるのが嫌なんです」
――あ。
胸の内側が、ぐらり、と大きく揺れた。
いまの言い方を、私は知っている。
どこで聞いたのかを、私はまだ思い出せていない。思い出せていないのに、身体のほうが先に反応した。
鵜飼先生は、しばらく資料を見ていた。
それから、老眼鏡を外して、深く息を吐いた。
「……で、君の案では、うちはどこに来るのかね」
「二十二ページです」
「即答だな」
「三か月考えたんで」
議題一は、賛成多数で可決された。
鵜飼先生は最後まで賛成とは言わなかったが、反対もしなかった。
議事録には「異議なし」と書くことになる。
残りの三議題は、四十分で終わった。
閉会後、委員が退室していく。
権田先生が、温水主任の肩を叩いて出ていった。
「温水さん、あんた性格が悪いね」
「よく言われます」
「鵜飼を褒めて落とすとは」
「褒めてないですよ。数字を読んだだけです」
「そういうところが悪いんだ」
権田先生は、げらげら笑いながら出ていった。
最後に鵜飼先生が立ち上がった。
温水主任が、資料を集める手を止めて、頭を下げる。
「先生、今日はありがとうございました」
「温水君」
「はい」
「あのインタビューの学生はね、いま出版社にいるんだ」
「知ってます。追跡してますんで」
「……君は本当に、嫌な事務屋だ」
鵜飼先生は、そう言って出ていった。
言い方が、ぜんぜん嫌そうではなかった。
私は、会議室に一人残って、机を拭いていた。
温水主任は、プロジェクタの片付けをしている。
ケーブルの巻き方が丁寧だった。八の字に巻いて、面ファスナーで留めている。用度管財課で覚えたのだろうと思った。
私は、雑巾を持ったまま、少し動けなくなっていた。
――十六年前。
あの体育館で、あの人は震えていた。
演台の前に押し出されて、マイクのスイッチを入れる指が震えていた。
言葉が二回止まった。全校生徒の前で、完全に沈黙した。
私はそれを、舞台袖から見ていた。
あの人はいま、八人の教授の前で、原稿を持たずに三十分喋った。
鵜飼先生を笑わせて、権田先生に性格が悪いと言われて、数字で議題を通した。
――変わったのだ。
そう思って、私は自分の考えを訂正した。
違う。
あの日、あの人は震えながら、それでも私のことを話した。
融通が利かなくて、固くて、強情で、少しわがままで――と、全校生徒の前で並べておいて、最後にこう言った。
彼女のわがままは、いつも誰かのため。
今日、鵜飼先生に向かって、この人はこう言った。
先生の学科の紹介を減らしたいわけじゃない、と。
同じだ。
ぞわ、と腕の毛が立った。
言葉の順番が、まったく同じだった。
悪いところを先に全部並べて、最後に、一番大事なことを置く。
……この人は、変わっていない。
変わっていないまま、十六年ぶんだけ、上手になっただけだ。
喉の奥が、じわりと熱くなった。
雑巾を持ったまま、私はしばらく息を止めていた。
「馬剃さん」
「はいっ」
びくっ、と肩が跳ねた。
声も裏返った。
「大丈夫ですか。机、三回拭いてますけど」
「……失礼しました」
「疲れました?」
「いえ」
「じゃあ、戻りましょうか」
私は雑巾を畳んだ。
畳みながら、この人は本当に何も気づいていないのだな、と思った。
気づかれても困る。
困るのだが。
議事録を書きはじめたのは、十六時からだった。
議事録には、規則がある。
発言の逐語録ではない。
議決に必要な範囲で、発言の趣旨を要約して記載する。それが本学の会議運営規程の運用であり、役所でも同じだった。
私はその規則に従って、書いた。
『事務局より、大学案内のページ数削減案について説明。ページ別のアクセス解析結果を示し、上位四十七ページに閲覧の九割が集中している旨を報告』
『鵜飼委員より、文学部関連ページの取扱いについて質問。事務局は、掲載順の見直しにより主要ページを前方へ配置する旨を回答』
問題ない。
規程どおりである。
私は次のページに進み、そこで手を止めた。
――書いていた。
画面には、こう打ってあった。
『事務局(温水)「先生の学科の紹介を減らしたいわけじゃないんです。読まれてないページに埋もれてるのが嫌なんです」』
鉤括弧つき。逐語。
私は、その一行をしばらく見ていた。
これは、規程に反する。
議事録に発言を逐語で記載するのは、議決の効力に疑義が生じるおそれがある場合に限られる。今回はそれに該当しない。
削除すべきである。
私はカーソルを行頭に置いて、シフトキーを押した。
……押したまま、五秒が経った。
指が、かちり、とも動かない。
これは、正確性のためだ。
この発言は、鵜飼委員の態度が変化した直接の契機である。したがって、議事の経過を正しく残すという観点からは、逐語での記録に一定の合理性がある。
そう、合理性がある。
私は業務上の判断として、この一行を残す。それだけの話だ。
……それだけの話だ。
私はシフトキーから指を離した。
「馬剃さん、これなんですか」
顔を上げると、大貫君が私の机の端をのぞきこんでいた。
座席表である。
矢印が七本引いてある。
「座席表です」
「矢印いっぱいついてますけど」
「相関です」
「相関」
「二重線は積年の対立を示します」
大貫君が、しばらく黙った。
「……これ、温水さんに教わったんですか」
「情報源は申し上げられません」
「あの人だ」
大貫君は確信を持った顔でうなずいた。
「俺、三年目なんですけど、そういうの一回も教わってないですよ」
「聞かなかったからでは」
「うっ」
「温水主任は、聞かれたことには全部答えます。聞かれないことは言いません」
言ってから、私は自分の言葉に少し驚いた。
一か月半で、私はこの人のことを、そこまで整理していたらしい。
「馬剃さん、なんか温水さんの取扱説明書みたいになってません?」
「なっていませんっ」
「即答だ」
「即答です」
「いま『っ』つきましたよね」
「ついていません」
「ついてましたって」
「これは業務上必要な人物特性の把握であって、特定個人への継続的な関心の表明ではありませんし、そもそも座席表は課内の情報共有を目的とした事務資料ですので、私的な記録とは性質が異なりますっ」
「うわ、早口」
……早口である。
かあっ、と頬が熱くなった。
熱くなってから、熱くなったことを悟られない角度を、私は反射で計算していた。
自覚はある。
私は、図星を指されると、文の長さで押し返す癖がある。
文科省で十年、これで何人かを黙らせてきた。
入職二か月目の若手には、効かないらしい。
「この座席表、写真撮っていいですか。絶対バズるんで」
「機密です」
「機密!?」
「じゃあせめて、俺の欄も作ってくださいよ」
「大貫君は、単独で立っています」
「孤立って言われた!?」
「独立です」
私は座席表を裏返した。
五月三十日、金曜日。
入試委員会は、広報委員会より重い。
議題が、そのまま受験生の合否に関わるからだ。
この日の議題の二つ目が、揉めた。
『総合型選抜における面接評価の標準化について』
事務局案は、面接の評価項目を五段階のルーブリックに整理し、面接官が評価根拠を一行以上記録する、というものだった。
「面倒くさいなあ」
最初に声を上げたのは、工学部の委員だった。
「面接なんて、話してみれば分かるでしょう。人柄というのは、点数にならない」
「そうですねえ」
温水主任がうなずいた。
「点数にならないです」
「じゃあ」
「でも、記録にはなります」
彼は資料を持たずに、机の端に手をついていた。
「先生、去年、うちの大学に開示請求が二件来ました」
会議室が、少し静かになった。
「不合格になった受験生の保護者からです。『どういう基準で落としたのか』と」
「……そういうのは、事務でうまくやってくれれば」
「うまくやりました」
温水主任が言った。
「うまくやれたのは、その二件が、たまたま評価記録の残っている学部だったからです」
彼は、指を二本立てた。
「残ってなかったら、どうなってたか。うちが説明できないのは、大学の問題です。でも、最終的に説明を求められるのは、面接をした先生です」
誰も、何も言わなかった。
「先生方を守るための記録なんですよ、これ」
――私は、ペンを置いていた。
かたん、と机に当たる音がして、そこでようやく気づいた。
同じことを、私は言ったことがある。
初等中等教育局にいた三年目だった。
評価の記録を残す仕組みを作るべきだと、私は会議で主張した。現場の負担が増えるという反対を、私は数字で押し返した。
結果として、私は正しかったと思う。
いまでもそう思っている。
ただ、私は、こう言った。
――記録がなければ、行政として説明責任を果たせません。
温水主任は、こう言った。
――先生方を守るための記録なんです。
中身は同じだ。
同じことを言っている。
私は、正しさを差しだした。
この人は、相手の利益を差しだした。
その差が、十六年だった。
あのとき、私の案は通った。
通って、そして私は「現場を分かっていない」と言われつづけた。三年後、私はその部署にいなかった。
「――では、事務局案でよろしいですか」
委員長の声で、私は我に返った。
異議なし、という声が、ばらばらと上がった。
私は議事録に、こう書いた。
『異議なし。事務局案のとおり決定』
その下に、私はもう一行、鉤括弧つきで書いた。
削除しなかった。
「馬剃さん、お疲れさま」
会議のあと、鷲尾課長が給湯室で私に声をかけた。
この方は、剣道の有段者だという。
立ち姿がまっすぐで、湯呑みを持つ手にも隙がない。
「今日の議事録、大変だったでしょう」
「いえ、勉強になりました」
「温水君、ああいうときだけ本気出すのよね」
課長が笑った。
「あの子、一度も残業しないの。知ってる?」
「……はい。気づいておりました」
「五年間、月の残業がだいたい三時間。理学部の入試を回して、去年は会計課の主任も兼務してたのに」
私は湯呑みを持つ手を止めた。
それは、知らなかった。
「柏木部長はね、『ちゃらんぽらんだが仕事はできる男だ』って言うのよ。褒めてるんだか、けなしてるんだか」
「……はい」
「でも私は、あれ、少し違うと思ってるの」
課長は、給湯室の窓の外を見た。
「あの子は、必要なところ以外を、全部捨ててるだけ」
私は、何も言えなかった。
「捨てるのって、才能なのよ。それができない人のほうが、ずっと多い」
課長がこちらを見た。
「馬剃さん」
「はい」
「あなた、全部拾おうとするでしょう」
私は、湯呑みを両手で持ったまま、立っていた。
「……はい」
「うん。それも才能」
課長は、そう言って給湯室を出ていった。
出ていく直前に、一度だけ振り返った。
「ただ、拾いすぎると死ぬから。そこだけ気をつけてね」
「馬剃さん、ちょっといいですか」
十七時前、温水主任が椅子を回してきた。
「はい」
「六月三日、空けておいてもらっていいですか」
「六月三日」
「模擬プレゼンです」
私は顔を上げた。
「相談会って、六月中旬から本番なんですけど、その前に一回、課内で見せてもらうんですよ。俺のときもやりました」
「拝見するのは、どなたが」
「課長と、部長です」
――部長。
すっ、と足元の温度が下がった。
「二十分です。高校生と保護者を想定して、うちの大学の説明を二十分。それで独り立ちの判定をします」
「……判定」
「判定っていっても、形式的なやつです。落ちたって誰も怒らないんで」
温水主任が、資料を差しだした。
「これ、過去の実施要領です。二十分喋って、そのあと質疑が五分」
私は、その資料を受け取った。
受け取った、と思う。
手が動いた記憶は、あまりない。
指先が、しびれたように冷たかった。
「馬剃さん」
「はい」
「大丈夫ですか」
「はい」
「顔色、悪いですけど」
「大丈夫です」
私は、はっきりと言った。
一秒以内に。
心臓だけが、どくどくと速かった。
温水主任が席を立ったあと、大貫君が回転椅子ごと近づいてきた。
「馬剃さん、模擬プレゼンですか」
「はい」
「俺のとき、ひどかったですよ」
「といいますと」
「十二分で喋ることなくなって、残り八分ずっと『えー』って言ってました」
「八分」
「柏木部長が途中で寝ました」
「……」
「三分で起きました。起きて、『続けて』とだけ言われました」
「起きたんですね」
「あの人、寝てても要点だけは聞いてるんですよ。怖くないですか」
「で、鷲尾課長に『あなた、大学案内を音読しただけよね』って言われて」
大貫君は、当時を思い出したのか、遠い目をした。
「二回目でなんとか通りました。だから馬剃さんも大丈夫ですって。落ちても死なないです」
「……ありがとうございます」
「あ、でも温水さんは一発だったらしいです」
「そうですか」
「なんか、資料も持たずに二十五分喋って、部長が『長い』って怒ったとか」
「長い、だけですか」
「あと『面白かったからいいけど』って。ずるくないですか」
「ずるいですね」
私は、少しだけ笑った。
笑いながら、指先が冷たいことに気づいた。
資料を読んだ。
実施要領は二枚だった。
想定は、六月の進学相談会。高校生と保護者が座るブース。時間は二十分、質疑五分。
難しいことは、何も書いていない。
私は十年間、これよりはるかに重いものを説明してきた。
三十人の局議で、四十枚の資料を、一時間かけて。政務三役への説明を、十五分の枠で。
できないはずがない。
……。
私は、実施要領をクリアファイルに入れた。
入れて、鞄にしまって、それからもう一度出して、内容を確認した。
二回、同じことをした。
二回目をしたことに気づいたとき、私は手を止めた。
――大丈夫だ。
私は自分に言った。
あのときとは、違う。
あそこには、私を待ち構えている人がいた。ここにはいない。
柏木部長は、悪意のない人だ。
鷲尾課長は、理不尽なことを言わない。
だから、大丈夫だ。
私はそう考えて、鞄を閉じた。
閉じてから、自分がいま、三分間ずっと同じことを考えていたことに気づいた。
その日、私は十八時に大学を出た。
電車は混んでいた。
私は吊り革を持って、窓の外を見ていた。
二十分の説明を、部長と課長の前で。
高校生と保護者を想定して。
できるはずである。
私は十年間、はるかに難易度の高い説明を、はるかに恐ろしい相手にしてきた。局議、政務三役への説明、国会答弁の下ごしらえ。相談会の説明など、その百分の一の重さもない。
できるはずだ。
――できるはずだった。
私は吊り革を握り直した。
部屋に帰りついたのは、十九時過ぎだった。
玄関で靴を脱ぐとき、私はいつもどおり、右足の置き場所を探した。
三十センチ四方だけ、床が見えている。そこに足を置く。
照明はつけない。
つけなくても、寝る場所までは行ける。
鞄を床に置いて、私はコートを着たまま、しばらく立っていた。
それから、部屋の奥に進んだ。
この部屋で、唯一きちんとしている場所がある。
壁際に置いた、二段のカラーボックスだ。
そこには、黒い革表紙の手帳が、十五冊並んでいる。
背表紙に、年が書いてある。
いちばん右は、空いている。今年の分は、いま鞄の中にある。
私はしゃがんで、いちばん左の一冊を抜いた。
角が擦れて、革が白くなっている。
高校一年生のときに、初めて自分の小遣いで買ったものだ。あのころは、これを持っていると大人になった気がした。
中身は、ほとんどが予定である。
生徒会の会議、備品の発注、行事の準備。文化祭の設営図まで挟んである。
几帳面な字だ。
いまの私と、ほとんど変わらない。
変わっていないことに、私は少しだけ救われるような、少しだけ情けないような気持ちになる。
私は表紙を開いた。
ぱら、と乾いた音がした。
最初のページに、私は十六年前、たった一行だけ書いた。
予定ではない。
備忘でもない。
あの日の帰り道、駅の待合室で、私は手帳を開いて、ペンを持って、しばらく動けなかった。
書けば残る。残れば、いつか自分で読み返すことになる。それが怖くて、私は十分近く迷った。
迷って、結局、書いた。
……。
私は、それを読んだ。
読んで、手帳を閉じた。
閉じてから、しばらく動かなかった。
膝が、じんじんと冷たい。
床に座りこんでいるのだと、そのとき気づいた。
喉の奥が、ひくり、と鳴った。
私は立ち上がって、手帳を元の場所に戻した。
十五冊が、また並んだ。
この十六年、私は一度も、この一冊目を職場に持っていったことがない。
持っていく理由がないからだ。
……そういうことにしている。
電気をつけて、部屋を見た。
ゴミ袋が四つ、積んである。いつからあるのかは、思い出したくない。
流しには、洗っていない皿が何枚かある。
テーブルの上には、封を切っていない郵便物が積まれている。健康診断の案内が、たしか三月から置いてある。
書類だけは、片付いている。
仕事の資料は全部ファイリングしてあって、インデックスも色分けしてある。今日持ち帰った実施要領も、いまから所定の位置に入れる。
この部屋で、私の意思が届いているのは、そこだけだ。
明日、片付けよう。
私はそう思って、コートを脱いだ。
この一年、私は毎日そう思っている。