大学職員の僕たち   作:房吉

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~5敗目~ 会議は踊る、事務局は踊らない

「馬剃さん、明日の広報委員会、議事録お願いできますか」

 

「はい」

 

 私は即答した。

 

 即答できたことに、少しだけ安堵した。

 この一か月半、私は返事に一秒以上かけないことを自分に課している。一秒を超えると、相手が「この人は嫌なのかもしれない」と考える時間が生まれるからだ。

 

 根拠はある。

 人が違和感を覚えるまでの沈黙の長さは、およそ〇・八秒からだという研究を読んだことがある。私はそれを一秒と設定した。〇・二秒の余裕は、私の反応速度の個体差を吸収するためだ。

 

 今週の達成率は、九十六パーセントである。

 未達の二回は、いずれも温水主任からの不意の話しかけによるものだった。対策は検討中である。有効な対策は、まだ見つかっていない。

 

 ……などということを、私はこの一か月半、毎日考えている。

 考えていることを、私は誰にも言っていない。

 

「議事録は、書式のひな形がありますか」

 

「Zドライブに去年のがあります。真似してもらえれば」

 

「承知しました」

 

「あ、でも」

 

 温水主任が、椅子を半分こちらに回した。

 

「明日の議事録、たぶん、いつもと同じにはならないと思うんで」

 

「といいますと」

 

「揉めるんですよ、明日」

 

 その言い方が、あまりに軽かった。

 

「……揉めることが、事前に分かっているのですか」

 

「分かってますね」

 

「では、揉めない議題に差し替えるという選択は」

 

「ないです」

 

 彼は即答した。

 

「差し替えると、来年も同じところで揉めるんで」

 

「――」

 

「三年連続で同じところで揉めてるんですけど、去年より三十分早く揉めてます。だんだん短くなってるんで、あと二年です」

 

 私は、その言葉を書き取った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いまの、メモしました?」

 

「しました」

 

「『あと二年』も?」

 

「定量的な見通しは記録します」

 

「俺の勘ですよ、あれ」

 

「では『出典・勘』と付記します」

 

「やめてもらっていいですか」

 

「勘も、当たれば実績です」

 

「実績になってから言ってください」

 

「じゃあ、三年後に答え合わせしましょう」

 

「議事録に書いておきます」

 

「書かないでください」

 

 あと二年、という見通しを、この人はどこから出しているのだろう。

 

 私は書き取ったものを見返した。

 根拠は書かれていない。根拠を聞けば、たぶん答えてくれる。

 

 聞かなかった。

 聞くと、明日の楽しみが減るような気がしたからだ。

 

 ……いや。

 業務に楽しみもなにもない。私はいま、不適切な感想を持った。

 

 

 

 

 その日の夕方、温水主任が受話器を取った。

 

「あ、文学部の鵜飼先生、いらっしゃいますか。……はい、入試広報課の温水です」

 

 私は自分の作業をしながら、耳だけをそちらに向けていた。

 

「先生、お世話になってます。……いえ、明日の委員会の件で、一個だけ先に謝っておきたくて」

 

 ――謝る?

 

 私は手を止めた。

 

「明日、また大学案内のページ数の話を出します。三年連続ですいません」

 

 受話器の向こうで、何か言っている。

 

「はい。分かってます。先生に怒られるのも三年連続です」

 

 笑い声が漏れてきた。

 

「ただ、今年は数字を持ってきました。……はい。去年のQRコードのやつです。あれ、そういう目的で入れてたんで」

 

 少し間があった。

 

「先生の学科のページ、一位でした」

 

 温水主任は、そこで椅子の背にもたれた。

 

「明日、会議でその話します。先に言っておかないと、フェアじゃないと思ったんで。……はい。じゃあ、明日よろしくお願いします」

 

 受話器を置いて、彼は何事もなかったように作業に戻った。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「いまのは、根回しでしょうか」

 

「根回しですね」

 

「明日の会議で、初めてお伝えするのかと」

 

「初めて言うと、先生が全員の前で驚くことになるんですよ」

 

 彼は画面を見たまま言った。

 

「六十代の教授が、八人の前で驚くのって、けっこう恥なんです。それやると、次から敵になります」

 

 私はペンを取った。

 

「では、なぜ会議でも同じ話をされるんですか」

 

「他の七人は、明日初めて聞くんで」

 

「……鵜飼先生だけ、先に」

 

「そうです」

 

 温水主任が、こちらを向いた。

 

「明日、鵜飼先生が『そうなのか』って驚いた顔をしてくれます。あれ、演技です」

 

「演技」

 

「先生、けっこう芝居がうまいんですよ」

 

「温水主任。根回しに、類型はあるんですか」

 

「ありますよ。事前通知型、種まき型、外堀型」

 

「三類型」

 

「あと、『根回しをしない』という根回しもあります」

 

「……どういうことですか」

 

「あの人は根回しをしない、っていう信用の作り方です。使えるのは十年に一回ですけど」

 

「今年は、もう使いましたか」

 

「まだです。取ってあります」

 

「……貯金のように言わないでください」

 

「貯金ですよ、信用って」

 

「……そういう言い方は、いかがなものかと」

 

「怒ってます?」

 

「怒っていません」

 

「怒ってる顔ですけど」

 

「これは、平常の顔ですっ」

 

 

 

 

 私は、机の下で、右足のつま先が動いているのに気づいた。

 

 床に、小さく「の」の字を描いている。

 

 止めた。

 

 止めてから、いつからやっていたのかを考えた。

 考えて、たぶん十六年前からだという結論に達したので、考えるのをやめた。

 

 私は手帳に、根回し(一)から(四)まで番号を振った。

 

 振ってから、気づいた。

 番号を振ったからには、続きを集めるということである。私はこの人の技法を、法令のように体系化しはじめている。

 

 書きながら、思った。

 この人は、明日の会議を、今日のうちに半分終わらせている。

 

 

 

 

 私が入職して、一か月と二十日が過ぎた。

 

 仕事は覚えた。

 指定校推薦のリストは五月中に完成させ、広報戦略の素案は三案作った。高校訪問には七日間同行し、十九校を回った。

 

 順調である。

 順調でないところがあるとすれば、それは私の内側だけだ。

 

 朝、電車に乗るとき、私は今も一度、深呼吸をする。

 職場のドアを開ける前に、口角の位置を確認する。誰かに褒められたときの返答は、三パターン用意してある。

 

 全部、必要のないことだと分かっている。

 この職場には、私を追い詰める人が一人もいない。

 

 鷲尾課長は理不尽なことを言わない。

 柏木部長は声が大きいが、悪意はない。大貫君はうるさいが、あれは誰にでもうるさい。

 

 それでも、私の身体は準備をやめない。

 十年かけて覚えたものは、一か月半では消えないらしい。

 

 ――そして。

 

 私の隣の席には、温水和彦がいる。

 

 

 

 

 五月二十七日、火曜日。

 

 広報委員会は十四時から、本部棟三階の第二会議室で開かれる。

 

 温水主任は十三時十分に会議室に入った。

 私も付いていった。議事録担当は早く入るものだと、文科省でも教わっている。

 

 彼は資料を配りながら、席順を確認していた。

 

「馬剃さん、これ、座席表です」

 

「はい」

 

「委員長がここ。で、時計回りに文学部の鵜飼先生、理学部の権田先生、経済の新開先生――」

 

 私は座席表を受け取って、ペンを構えた。

 

「鵜飼先生は、大学案内のページ数に強いこだわりがあります。三年連続で反対されてます」

 

「反対の理由は」

 

「文学部のページが減るからです」

 

「実際、減っているんですか」

 

「減ってます。学生数が減ってるんで」

 

 温水主任は、資料を配り終えると、ホワイトボードの前に立った。

 

「で、権田先生は鵜飼先生と仲が悪いです」

 

「……そこまでメモしてよろしいんでしょうか」

 

「メモしてください。議事録には書かないでほしいですけど」

 

 私は座席表に、鵜飼先生と権田先生のあいだに矢印を引いた。

 引いてから、少し考えて、矢印を二重線にした。

 

「馬剃さん、それなんの記号ですか」

 

「相関の強度です」

 

「強度」

 

「一重が対立、二重が積年の対立です」

 

 温水主任が、資料の束を持ったまま黙った。

 

「……三重はあるんですか」

 

「必要になれば作ります」

 

「それは、見たくないですね」

 

「私も見たくありません」

 

「じゃあ、作らせないように頑張ります」

 

「委員会の平和が、あなたの双肩にかかっています」

 

「重いなあ」

 

 

 

 

 十四時ちょうど。

 

 委員が全員そろった。

 全学部から一名ずつ、計八名。委員長は副学長の宮里先生である。

 

 開会の挨拶が終わり、議題に入った。

 

 議題は四つ。

 一つ目が「大学案内の総ページ数削減とWebコンテンツへの移行について」だった。

 

 ――一つ目に置かれている。

 

 どき、とした。

 

 私は座席表の余白に、それだけ書いた。

 

 温水主任は先日、こう言った。

 通したくない議題は一番目に置く、と。

 

 では、この議題は。

 

「では、事務局からご説明を」

 

 温水主任が立ち上がった。

 

 

 

 

「入試広報課の温水です」

 

 彼はホワイトボードの前に立って、資料を持たずに話しはじめた。

 

 資料は、全員の手元にある。

 だから彼は、資料を読まない。

 

「先に結論から申し上げます。事務局案は、大学案内を現行の百九十六ページから百四十ページに削減し、削った分をWebに移す、というものです」

 

 会議室の空気が、目に見えて硬くなった。

 

「削減幅、五十六ページですね」

 

 鵜飼先生だった。

 六十代の、白髪の教授である。声が低く、言葉が丁寧で、丁寧なぶんだけ圧がある。

 

「はい、五十六ページです」

 

「事務局は、毎年ページを削りたがる」

 

「はい。三年連続でお願いしております」

 

「三年連続で、私が反対していますね」

 

「よく覚えております」

 

 私は癖で、発言の所要時間を記録している。

 鵜飼先生の詰問は平均四十秒。温水主任の返答は平均六秒。詰められるほど、この人の返答は短くなる。

 

 温水主任は、そこで少しだけ笑った。

 

「去年、先生に一時間説教されました。四十分あたりで、ちょっと泣きそうでした」

 

 会議室に、笑いが起きた。

 

 私は、ぴたりと手が止まった。

 

 ――いま、笑わせた。

 

 ぱっ、と空気の色が変わったのが分かった。

 

 鵜飼先生の眉が、わずかに緩んでいる。

 完全に緩んではいない。しかし、開会時の硬さは消えた。

 

「泣いてよろしい。私はまだ話し足りない」

 

「今日は九十分いただいてるんで、大丈夫です」

 

 また笑いが起きた。

 

 議事録に「(笑い)」と書くべきか、私は一瞬、規程を思い出そうとした。

 国会の会議録には(笑声)という記載がある。ここは国会ではない。私はいま、何を考えているのだろう。

 

 ……不敬ではないだろうか。

 

 いや、これは私の感覚が古いのだ。

 文科省では、局長に対してこのような口をきく職員は存在しなかった。存在したら、翌週には存在しなくなっていた。

 

「では、数字をご覧ください」

 

 温水主任が、ホワイトボードに数字を書いた。

 

「昨年度の大学案内は、四万二千部作りました。制作費と印刷費で、およそ千百万円です」

 

「高いな」

 

 権田先生が言った。

 

「高いです。で、問題はここからなんですが」

 

 温水主任は、ホワイトボードに縦線を引いた。

 

「昨年の大学案内、全ページにQRコードを入れました。ページごとに違うコードです」

 

 鵜飼先生が顔を上げた。

 

「……あれは、そういう目的だったのか」

 

「はい。どのページが読まれてるかを測るためです」

 

 私は、ペンを握り直した。

 

 これは、聞いていない。

 いや、聞いてはいる。共有フォルダの『99_温水メモ』に、二年前の日付でこう書かれていた。

 

 『QRをページごとに変える。誰も気にしない。三年後に効く』

 

 三年後が、今日だった。

 

 

 

 

「結果を申し上げます」

 

 温水主任は、数字を三つ書いた。

 

「全百九十六ページのうち、アクセスの九割が上位四十七ページに集中しています」

 

 会議室が静かになった。

 

「残り百四十九ページのアクセスは、合計で一割です。うち、六十二ページはアクセスがゼロでした」

 

「ゼロ」

 

 新開先生が繰り返した。

 

「ゼロです。一件もありません」

 

 温水主任は、マーカーのキャップを閉めた。

 

「印刷費を単純にページで割ると、一ページあたり約五万六千円です。六十二ページで、三百四十七万円ぶんの紙が、誰にも読まれていません」

 

 しん、と会議室が静まりかえった。

 

 誰も、何も言わなかった。

 

 私はその瞬間の会議室を、正確に記録しようと思った。

 だが、記録すべき発言が一つもなかった。八人の教員が、全員黙っていた。

 

「――で」

 

 温水主任が言った。

 

「事務局としては、この六十二ページをなくしたいわけじゃないんです」

 

 彼は、鵜飼先生のほうを見た。

 

「鵜飼先生」

 

「なんだね」

 

「文学部のページ、去年アクセス一位でした」

 

 鵜飼先生の動きが、ぴたり、と止まった。

 

「日本文学科の、卒業生インタビューのページです。二位を倍近く引き離してます」

 

「……そうなのか」

 

「そうなんです。あれ、めちゃくちゃ読まれてます」

 

 温水主任は、ホワイトボードのほうに向き直った。

 

「で、そのページは、いま百二十三ページ目にあります」

 

 私は資料をめくった。

 百二十三ページ。前から三分の二を過ぎたところだ。

 

「先生、俺、これがずっと嫌だったんですよ」

 

 温水主任が言った。

 

 声の高さは、さっきまでと変わらない。

 変わらないのに、会議室の空気が変わった。

 

「一番読まれてるページが、一番後ろに置かれてる。読まれてないページが、前のほうを占めてる。……これ、大学案内としておかしくないですか」

 

「――」

 

「先生の学科の紹介を減らしたいわけじゃないんです。読まれてないページに埋もれてるのが嫌なんです」

 

 

 

 

 ――あ。

 

 胸の内側が、ぐらり、と大きく揺れた。

 

 いまの言い方を、私は知っている。

 どこで聞いたのかを、私はまだ思い出せていない。思い出せていないのに、身体のほうが先に反応した。

 

 鵜飼先生は、しばらく資料を見ていた。

 

 それから、老眼鏡を外して、深く息を吐いた。

 

「……で、君の案では、うちはどこに来るのかね」

 

「二十二ページです」

 

「即答だな」

 

「三か月考えたんで」

 

 

 

 

 議題一は、賛成多数で可決された。

 

 鵜飼先生は最後まで賛成とは言わなかったが、反対もしなかった。

 議事録には「異議なし」と書くことになる。

 

 残りの三議題は、四十分で終わった。

 

 

 

 

 閉会後、委員が退室していく。

 

 権田先生が、温水主任の肩を叩いて出ていった。

 

「温水さん、あんた性格が悪いね」

 

「よく言われます」

 

「鵜飼を褒めて落とすとは」

 

「褒めてないですよ。数字を読んだだけです」

 

「そういうところが悪いんだ」

 

 権田先生は、げらげら笑いながら出ていった。

 

 最後に鵜飼先生が立ち上がった。

 温水主任が、資料を集める手を止めて、頭を下げる。

 

「先生、今日はありがとうございました」

 

「温水君」

 

「はい」

 

「あのインタビューの学生はね、いま出版社にいるんだ」

 

「知ってます。追跡してますんで」

 

「……君は本当に、嫌な事務屋だ」

 

 鵜飼先生は、そう言って出ていった。

 

 言い方が、ぜんぜん嫌そうではなかった。

 

 

 

 

 私は、会議室に一人残って、机を拭いていた。

 

 温水主任は、プロジェクタの片付けをしている。

 ケーブルの巻き方が丁寧だった。八の字に巻いて、面ファスナーで留めている。用度管財課で覚えたのだろうと思った。

 

 私は、雑巾を持ったまま、少し動けなくなっていた。

 

 ――十六年前。

 

 あの体育館で、あの人は震えていた。

 

 演台の前に押し出されて、マイクのスイッチを入れる指が震えていた。

 言葉が二回止まった。全校生徒の前で、完全に沈黙した。

 

 私はそれを、舞台袖から見ていた。

 

 あの人はいま、八人の教授の前で、原稿を持たずに三十分喋った。

 鵜飼先生を笑わせて、権田先生に性格が悪いと言われて、数字で議題を通した。

 

 ――変わったのだ。

 

 そう思って、私は自分の考えを訂正した。

 

 違う。

 

 あの日、あの人は震えながら、それでも私のことを話した。

 融通が利かなくて、固くて、強情で、少しわがままで――と、全校生徒の前で並べておいて、最後にこう言った。

 

 彼女のわがままは、いつも誰かのため。

 

 今日、鵜飼先生に向かって、この人はこう言った。

 先生の学科の紹介を減らしたいわけじゃない、と。

 

 同じだ。

 

 ぞわ、と腕の毛が立った。

 

 言葉の順番が、まったく同じだった。

 悪いところを先に全部並べて、最後に、一番大事なことを置く。

 

 ……この人は、変わっていない。

 

 変わっていないまま、十六年ぶんだけ、上手になっただけだ。

 

 喉の奥が、じわりと熱くなった。

 雑巾を持ったまま、私はしばらく息を止めていた。

 

「馬剃さん」

 

「はいっ」

 

 びくっ、と肩が跳ねた。

 声も裏返った。

 

「大丈夫ですか。机、三回拭いてますけど」

 

「……失礼しました」

 

「疲れました?」

 

「いえ」

 

「じゃあ、戻りましょうか」

 

 私は雑巾を畳んだ。

 畳みながら、この人は本当に何も気づいていないのだな、と思った。

 

 気づかれても困る。

 困るのだが。

 

 

 

 

 議事録を書きはじめたのは、十六時からだった。

 

 議事録には、規則がある。

 

 発言の逐語録ではない。

 議決に必要な範囲で、発言の趣旨を要約して記載する。それが本学の会議運営規程の運用であり、役所でも同じだった。

 

 私はその規則に従って、書いた。

 

 『事務局より、大学案内のページ数削減案について説明。ページ別のアクセス解析結果を示し、上位四十七ページに閲覧の九割が集中している旨を報告』

 

 『鵜飼委員より、文学部関連ページの取扱いについて質問。事務局は、掲載順の見直しにより主要ページを前方へ配置する旨を回答』

 

 問題ない。

 規程どおりである。

 

 私は次のページに進み、そこで手を止めた。

 

 ――書いていた。

 

 画面には、こう打ってあった。

 

 『事務局(温水)「先生の学科の紹介を減らしたいわけじゃないんです。読まれてないページに埋もれてるのが嫌なんです」』

 

 鉤括弧つき。逐語。

 

 私は、その一行をしばらく見ていた。

 

 これは、規程に反する。

 議事録に発言を逐語で記載するのは、議決の効力に疑義が生じるおそれがある場合に限られる。今回はそれに該当しない。

 

 削除すべきである。

 

 私はカーソルを行頭に置いて、シフトキーを押した。

 

 ……押したまま、五秒が経った。

 

 指が、かちり、とも動かない。

 

 これは、正確性のためだ。

 この発言は、鵜飼委員の態度が変化した直接の契機である。したがって、議事の経過を正しく残すという観点からは、逐語での記録に一定の合理性がある。

 

 そう、合理性がある。

 私は業務上の判断として、この一行を残す。それだけの話だ。

 

 ……それだけの話だ。

 

 私はシフトキーから指を離した。

 

 

 

 

「馬剃さん、これなんですか」

 

 顔を上げると、大貫君が私の机の端をのぞきこんでいた。

 

 座席表である。

 矢印が七本引いてある。

 

「座席表です」

 

「矢印いっぱいついてますけど」

 

「相関です」

 

「相関」

 

「二重線は積年の対立を示します」

 

 大貫君が、しばらく黙った。

 

「……これ、温水さんに教わったんですか」

 

「情報源は申し上げられません」

 

「あの人だ」

 

 大貫君は確信を持った顔でうなずいた。

 

「俺、三年目なんですけど、そういうの一回も教わってないですよ」

 

「聞かなかったからでは」

 

「うっ」

 

「温水主任は、聞かれたことには全部答えます。聞かれないことは言いません」

 

 言ってから、私は自分の言葉に少し驚いた。

 

 一か月半で、私はこの人のことを、そこまで整理していたらしい。

 

「馬剃さん、なんか温水さんの取扱説明書みたいになってません?」

 

「なっていませんっ」

 

「即答だ」

 

「即答です」

 

「いま『っ』つきましたよね」

 

「ついていません」

 

「ついてましたって」

 

「これは業務上必要な人物特性の把握であって、特定個人への継続的な関心の表明ではありませんし、そもそも座席表は課内の情報共有を目的とした事務資料ですので、私的な記録とは性質が異なりますっ」

 

「うわ、早口」

 

 

 

 

 ……早口である。

 

 かあっ、と頬が熱くなった。

 熱くなってから、熱くなったことを悟られない角度を、私は反射で計算していた。

 

 自覚はある。

 私は、図星を指されると、文の長さで押し返す癖がある。

 

 文科省で十年、これで何人かを黙らせてきた。

 入職二か月目の若手には、効かないらしい。

 

「この座席表、写真撮っていいですか。絶対バズるんで」

 

「機密です」

 

「機密!?」

 

「じゃあせめて、俺の欄も作ってくださいよ」

 

「大貫君は、単独で立っています」

 

「孤立って言われた!?」

 

「独立です」

 

 私は座席表を裏返した。

 

 

 

 

 五月三十日、金曜日。

 

 入試委員会は、広報委員会より重い。

 議題が、そのまま受験生の合否に関わるからだ。

 

 この日の議題の二つ目が、揉めた。

 

 『総合型選抜における面接評価の標準化について』

 

 事務局案は、面接の評価項目を五段階のルーブリックに整理し、面接官が評価根拠を一行以上記録する、というものだった。

 

「面倒くさいなあ」

 

 最初に声を上げたのは、工学部の委員だった。

 

「面接なんて、話してみれば分かるでしょう。人柄というのは、点数にならない」

 

「そうですねえ」

 

 温水主任がうなずいた。

 

「点数にならないです」

 

「じゃあ」

 

「でも、記録にはなります」

 

 彼は資料を持たずに、机の端に手をついていた。

 

「先生、去年、うちの大学に開示請求が二件来ました」

 

 会議室が、少し静かになった。

 

「不合格になった受験生の保護者からです。『どういう基準で落としたのか』と」

 

「……そういうのは、事務でうまくやってくれれば」

 

「うまくやりました」

 

 温水主任が言った。

 

「うまくやれたのは、その二件が、たまたま評価記録の残っている学部だったからです」

 

 彼は、指を二本立てた。

 

「残ってなかったら、どうなってたか。うちが説明できないのは、大学の問題です。でも、最終的に説明を求められるのは、面接をした先生です」

 

 誰も、何も言わなかった。

 

「先生方を守るための記録なんですよ、これ」

 

 ――私は、ペンを置いていた。

 

 かたん、と机に当たる音がして、そこでようやく気づいた。

 

 

 

 

 同じことを、私は言ったことがある。

 

 初等中等教育局にいた三年目だった。

 評価の記録を残す仕組みを作るべきだと、私は会議で主張した。現場の負担が増えるという反対を、私は数字で押し返した。

 

 結果として、私は正しかったと思う。

 いまでもそう思っている。

 

 ただ、私は、こう言った。

 

 ――記録がなければ、行政として説明責任を果たせません。

 

 温水主任は、こう言った。

 

 ――先生方を守るための記録なんです。

 

 中身は同じだ。

 同じことを言っている。

 

 私は、正しさを差しだした。

 この人は、相手の利益を差しだした。

 

 その差が、十六年だった。

 

 あのとき、私の案は通った。

 通って、そして私は「現場を分かっていない」と言われつづけた。三年後、私はその部署にいなかった。

 

「――では、事務局案でよろしいですか」

 

 委員長の声で、私は我に返った。

 

 異議なし、という声が、ばらばらと上がった。

 

 私は議事録に、こう書いた。

 

 『異議なし。事務局案のとおり決定』

 

 その下に、私はもう一行、鉤括弧つきで書いた。

 

 削除しなかった。

 

 

 

 

「馬剃さん、お疲れさま」

 

 会議のあと、鷲尾課長が給湯室で私に声をかけた。

 

 この方は、剣道の有段者だという。

 立ち姿がまっすぐで、湯呑みを持つ手にも隙がない。

 

「今日の議事録、大変だったでしょう」

 

「いえ、勉強になりました」

 

「温水君、ああいうときだけ本気出すのよね」

 

 課長が笑った。

 

「あの子、一度も残業しないの。知ってる?」

 

「……はい。気づいておりました」

 

「五年間、月の残業がだいたい三時間。理学部の入試を回して、去年は会計課の主任も兼務してたのに」

 

 私は湯呑みを持つ手を止めた。

 

 それは、知らなかった。

 

「柏木部長はね、『ちゃらんぽらんだが仕事はできる男だ』って言うのよ。褒めてるんだか、けなしてるんだか」

 

「……はい」

 

「でも私は、あれ、少し違うと思ってるの」

 

 課長は、給湯室の窓の外を見た。

 

「あの子は、必要なところ以外を、全部捨ててるだけ」

 

 私は、何も言えなかった。

 

「捨てるのって、才能なのよ。それができない人のほうが、ずっと多い」

 

 課長がこちらを見た。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「あなた、全部拾おうとするでしょう」

 

 私は、湯呑みを両手で持ったまま、立っていた。

 

「……はい」

 

「うん。それも才能」

 

 課長は、そう言って給湯室を出ていった。

 

 出ていく直前に、一度だけ振り返った。

 

「ただ、拾いすぎると死ぬから。そこだけ気をつけてね」

 

 

 

 

「馬剃さん、ちょっといいですか」

 

 十七時前、温水主任が椅子を回してきた。

 

「はい」

 

「六月三日、空けておいてもらっていいですか」

 

「六月三日」

 

「模擬プレゼンです」

 

 私は顔を上げた。

 

「相談会って、六月中旬から本番なんですけど、その前に一回、課内で見せてもらうんですよ。俺のときもやりました」

 

「拝見するのは、どなたが」

 

「課長と、部長です」

 

 ――部長。

 

 すっ、と足元の温度が下がった。

 

「二十分です。高校生と保護者を想定して、うちの大学の説明を二十分。それで独り立ちの判定をします」

 

「……判定」

 

「判定っていっても、形式的なやつです。落ちたって誰も怒らないんで」

 

 温水主任が、資料を差しだした。

 

「これ、過去の実施要領です。二十分喋って、そのあと質疑が五分」

 

 私は、その資料を受け取った。

 

 受け取った、と思う。

 手が動いた記憶は、あまりない。

 

 指先が、しびれたように冷たかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「大丈夫ですか」

 

「はい」

 

「顔色、悪いですけど」

 

「大丈夫です」

 

 私は、はっきりと言った。

 

 一秒以内に。

 

 心臓だけが、どくどくと速かった。

 

 

 

 

 温水主任が席を立ったあと、大貫君が回転椅子ごと近づいてきた。

 

「馬剃さん、模擬プレゼンですか」

 

「はい」

 

「俺のとき、ひどかったですよ」

 

「といいますと」

 

「十二分で喋ることなくなって、残り八分ずっと『えー』って言ってました」

 

「八分」

 

「柏木部長が途中で寝ました」

 

「……」

 

「三分で起きました。起きて、『続けて』とだけ言われました」

 

「起きたんですね」

 

「あの人、寝てても要点だけは聞いてるんですよ。怖くないですか」

 

「で、鷲尾課長に『あなた、大学案内を音読しただけよね』って言われて」

 

 大貫君は、当時を思い出したのか、遠い目をした。

 

「二回目でなんとか通りました。だから馬剃さんも大丈夫ですって。落ちても死なないです」

 

「……ありがとうございます」

 

「あ、でも温水さんは一発だったらしいです」

 

「そうですか」

 

「なんか、資料も持たずに二十五分喋って、部長が『長い』って怒ったとか」

 

「長い、だけですか」

 

「あと『面白かったからいいけど』って。ずるくないですか」

 

「ずるいですね」

 

 私は、少しだけ笑った。

 

 笑いながら、指先が冷たいことに気づいた。

 

 

 

 

 資料を読んだ。

 

 実施要領は二枚だった。

 想定は、六月の進学相談会。高校生と保護者が座るブース。時間は二十分、質疑五分。

 

 難しいことは、何も書いていない。

 

 私は十年間、これよりはるかに重いものを説明してきた。

 三十人の局議で、四十枚の資料を、一時間かけて。政務三役への説明を、十五分の枠で。

 

 できないはずがない。

 

 ……。

 

 私は、実施要領をクリアファイルに入れた。

 入れて、鞄にしまって、それからもう一度出して、内容を確認した。

 

 二回、同じことをした。

 

 二回目をしたことに気づいたとき、私は手を止めた。

 

 ――大丈夫だ。

 

 私は自分に言った。

 

 あのときとは、違う。

 あそこには、私を待ち構えている人がいた。ここにはいない。

 

 柏木部長は、悪意のない人だ。

 鷲尾課長は、理不尽なことを言わない。

 

 だから、大丈夫だ。

 

 私はそう考えて、鞄を閉じた。

 

 閉じてから、自分がいま、三分間ずっと同じことを考えていたことに気づいた。

 

 

 

 

 その日、私は十八時に大学を出た。

 

 電車は混んでいた。

 私は吊り革を持って、窓の外を見ていた。

 

 二十分の説明を、部長と課長の前で。

 高校生と保護者を想定して。

 

 できるはずである。

 私は十年間、はるかに難易度の高い説明を、はるかに恐ろしい相手にしてきた。局議、政務三役への説明、国会答弁の下ごしらえ。相談会の説明など、その百分の一の重さもない。

 

 できるはずだ。

 

 ――できるはずだった。

 

 私は吊り革を握り直した。

 

 

 

 

 部屋に帰りついたのは、十九時過ぎだった。

 

 玄関で靴を脱ぐとき、私はいつもどおり、右足の置き場所を探した。

 三十センチ四方だけ、床が見えている。そこに足を置く。

 

 照明はつけない。

 つけなくても、寝る場所までは行ける。

 

 鞄を床に置いて、私はコートを着たまま、しばらく立っていた。

 

 それから、部屋の奥に進んだ。

 

 この部屋で、唯一きちんとしている場所がある。

 壁際に置いた、二段のカラーボックスだ。

 

 そこには、黒い革表紙の手帳が、十五冊並んでいる。

 

 背表紙に、年が書いてある。

 いちばん右は、空いている。今年の分は、いま鞄の中にある。

 

 私はしゃがんで、いちばん左の一冊を抜いた。

 

 角が擦れて、革が白くなっている。

 高校一年生のときに、初めて自分の小遣いで買ったものだ。あのころは、これを持っていると大人になった気がした。

 

 中身は、ほとんどが予定である。

 生徒会の会議、備品の発注、行事の準備。文化祭の設営図まで挟んである。

 

 几帳面な字だ。

 いまの私と、ほとんど変わらない。

 

 変わっていないことに、私は少しだけ救われるような、少しだけ情けないような気持ちになる。

 

 私は表紙を開いた。

 

 ぱら、と乾いた音がした。

 

 最初のページに、私は十六年前、たった一行だけ書いた。

 

 予定ではない。

 備忘でもない。

 

 あの日の帰り道、駅の待合室で、私は手帳を開いて、ペンを持って、しばらく動けなかった。

 書けば残る。残れば、いつか自分で読み返すことになる。それが怖くて、私は十分近く迷った。

 

 迷って、結局、書いた。

 

 ……。

 

 私は、それを読んだ。

 

 読んで、手帳を閉じた。

 

 閉じてから、しばらく動かなかった。

 

 膝が、じんじんと冷たい。

 床に座りこんでいるのだと、そのとき気づいた。

 

 喉の奥が、ひくり、と鳴った。

 

 私は立ち上がって、手帳を元の場所に戻した。

 十五冊が、また並んだ。

 

 この十六年、私は一度も、この一冊目を職場に持っていったことがない。

 持っていく理由がないからだ。

 

 ……そういうことにしている。

 

 電気をつけて、部屋を見た。

 ゴミ袋が四つ、積んである。いつからあるのかは、思い出したくない。

 

 流しには、洗っていない皿が何枚かある。

 テーブルの上には、封を切っていない郵便物が積まれている。健康診断の案内が、たしか三月から置いてある。

 

 書類だけは、片付いている。

 仕事の資料は全部ファイリングしてあって、インデックスも色分けしてある。今日持ち帰った実施要領も、いまから所定の位置に入れる。

 

 この部屋で、私の意思が届いているのは、そこだけだ。

 

 明日、片付けよう。

 

 私はそう思って、コートを脱いだ。

 この一年、私は毎日そう思っている。

 

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