名探偵プリキュア! 〜迷宮のアルカナと偽りの真実〜 作:暁 蒼空
「アンサー」
「ミスティック……」
冷たい雨と泥にまみれた砂浜の上で。
キュアミスティックは、倒れ込んで泣いていたキュアアンサーへ向けて、そっと手を差し伸べた。
「あべこべ……か……」
「え?」
涙を拭い、アンサーがふふっと笑う。
「ジェット先輩が言ってた。あの時と『あべこべ』だねって」
初めてみくると出会ったあの日。
みくるへ、あんなが真っ直ぐに手を差し伸べた。
「あなたが、気づかせてくれたから」
今は立場が逆転している。
今度は、みくるがあんなを暗闇から引っ張り上げる番。
ミスティックの細くも力強い手を、アンサーがしっかりと握り返す。
二人は、荒れ狂う嵐の浜辺で、並んで立ち上がった。
「なに!?」
完全に心が折れたはずの二人が再び立ち上がったことに、上空のニジーが驚愕の声を上げる。
「ミスティック……さっき『1999年に、この時代にきて、心細い、不安でしょ』って言ってくれたけど、私もう平気だよ」
「……1999年に来た?」
ニジーがその不可解な言葉に疑問を持つが、二人は構わず言葉を続けた。
「だって、私の中にみくるがいるから」
「ええ。私の中にもあんながいる」
「「私たちは、一人じゃない!」」
二人の心が完全に一つに重なり合った。
「くっ……1人だろうが2人だろうが、どうでもいい! 僕にはもう後がない、倒すまでさ!」
焦りと恐怖に駆られたニジーが、巨大な合体ハンニンダーに命じて突撃を仕掛けてくる。
「ミスティックと2人で、マコトジュエルを!」
「ツバメの像を!」
「「取り返す!!」」
「ポチー!」
猛スピードで飛んできたポチタンが、二人の間に割って入った。
その手には、ジェット先輩から託された『プリキットミラールーペ』が握られている。
「あっ、2人じゃない。3人で!」
「「オープン! プリキットミラールーペ!」」
「「ポチタン!」」
「ポチ~!!」
ポチタンが差し出したマコトジュエルを受け取り、二人はミラールーペの中央へとカチリとセットした。
「「マコトジュエル!」」
「見て!」
「感じて!」
「「謎を解く!」」
鏡の蓋を勢いよく開く。
内側から目も眩むような神聖な光が溢れ出し、プリキュアの力が渦を巻くように高まっていく。
「「これが、私たちの答え(アンサー)だ!!」」
「「プリキュア!! フライング・スペクトル!!」」
どんよりと垂れ込めていた暗い雲が、光の柱によって真っ二つに割れた。
眩い白光が空を貫き、巨大で美しい『白い鳥』が姿を形作る。
羽ばたく翼が嵐のように空気を震わせ、巨大な合体ハンニンダーへ向かって一直線に撃ち抜いた。
「ハンニンダァァァァァッ!?」
「「キュアット解決!」」
凄まじい爆発と共に、ハンニンダーが浄化の光に包まれて消滅していく。
二つのマコトジュエルが、空からキラキラと舞い落ちてきた。
――その瞬間だった。
誰にも気づかれず、『一つの影』が一瞬だけ横切り、何かを掴み取って再び闇へと溶けた。
何が起きたのか、プリキュア達はおろか、ニジーすら気づいていない。
「ポチポチ、キュアキュア!」
ポチタンが宙へ飛び上がり、マコトジュエルを無事に吸収した。
敗北し、砂浜に無様に倒れ伏すニジー。
そこへ、るるかが、静かな足取りで歩み寄ってきた。
しゃがみ込み、感情の無い声でニジーへと声をかける。
「帰りましょう」
「くっ……」
るるかとマシュタンに促され、這々の体で立ち上がったニジーは、屈辱に塗れながらアジトへと撤退していった。
***
雨雲が去り、夕焼けに染まる虹ケ浜。
「ポチタン、ごめんね」
「ありがとう」
「ポチポチ!」
あんなとみくるに撫でられ、ポチタンは嬉しそうに目を細めた。
「フフフッ」
そこへ、息を切らしたジェット先輩が駆けつけてくる。
「おーい、みんな無事だったか」
「ジェット先輩!」
「うん? なんだ、いっぱしのおとも妖精だな」
ジェット先輩がポチタンを褒める。
「ポチー!」
「フフフッ!」
夕日に照らされる波打ち際で、あんなとみくるはポチタンの小さな手を一緒に握り合い、勝利の喜びを分かち合っていた。
***
一方で。
怪盗団ファントムのアジト。
「うっ……うぅ……」
真っ暗な舞台の上。
スポットライトが、ニジーの姿を白々と照らし出していた。
けれどその光は、主役に贈られる栄光の照明などではない。
破滅へ向かう者の末路を照らし出す、冷酷な処刑の灯火だ。
絶望と後悔に染まったニジーの顔。
しかし、ウソノワールが彼を許すことはなかった。
無断で名探偵プリキュアと戦い、敗北した。
せっかく手に入れたはずのマコトジュエルを取り返され、最後のチャンスを完全に無下にしたのだ。
「お前の役目は、終わった」
ウソノワールから告げられた、氷のような一言。
それはつまり、ニジーがこの舞台に立つことは二度とないという死の宣告だった。
ゴゴゴゴゴ……。
舞台の床が、少しずつ下に沈み始めた。
ニジーの体が、ゆっくりと奈落の底へと落とされていく。
「ひっ……! ……ぁ……ウソノワール様……! ウソノワール様!!」
「行くがいい、奈落の底へ」
まるで見せしめのように。
ゆっくりと、床が下がっていく。
急転直下ではなく、じわじわと迫りくる暗黒の終わりが、逆にニジーの精神に底知れぬ恐怖を深く深く刻みつけていった。
その残酷な処刑の様子を、アゲセーヌとゴウエモンが戦慄した表情で見つめている。
いずれ自分たちも同じ末路を辿るかもしれないという恐怖に、幹部たちは完全に凍りついていた。
「う……ウソ……!? ウソノワール様!!」
どんなに悲鳴を上げても、無情にも床はさらに沈んでいく。
もうニジーの命は終わる。
誰もがそう確信した瞬間だった。
「お、お待ちください! とびきりの情報があります!!」
ニジーが、首の皮一枚を繋ぐための最後の抵抗として、声を張り上げた。
「プ……プリキュアの一人、キュアアンサーは……『1999年に来た』と!!」
「「えっ!?」」
アゲセーヌとゴウエモンが、同時に驚愕の表情を浮かべた。
ガタン!!
沈んでいた床が、けたたましい音を立てて停止した。
「恐らく……違う時代から来たのかと……っ」
「何……?」
ウソノワールの関心を引くことに成功した。
「違う時代から来た……プリキュア……」
マシュタンを抱いて幹部席に座っていたるるかも、その情報には流石に目を見開いた。
キュアアンサーという、本来この時代には存在しないはずの人物。
ウソノワールが処刑を中断したという事実が、その情報の異常な重さを物語っていた。
「『未來自由の書』にも書いていない……まさか……」
ウソノワールの低い声が、劇場の内側に静かにこだまする。
情報と引き換えに命拾いしたニジーは、完全に力が抜け、その場にヘナヘナと崩れ落ちた。
そこで、マシュタンが口を開いた。
「ウソノワール様」
「なんだ」
「るるかが、ウソノワール様に用事があるみたい」
「何用だ。キュアアルカナ・シャドウ」
その場にいる幹部全員の視線が、るるかの方へと集中する。
るるかは無言で立ち上がると、ケープのポケットから『あるもの』を取り出た。
それを見た瞬間、その場にいた全員が息を呑み、目を見開いた。
るるかが手の中に持っていたのは――一つの『マコトジュエル』だった。
「「「マコトジュエル!?」」」
ニジー、アゲセーヌ、ゴウエモンが信じられないという顔で叫ぶ。
「ニジーが奪った二つのうちの一つ。ハンニンダーがやられたタイミングで、一つだけ奪っておいたわ」
るるかは、あの浄化の閃光に紛れ、誰にも気付かれずにジュエルを回収していたのだ。
るるかの淡々とした説明に、ニジーは愕然とした。
「一応、ニジーがプリキュア達を追い詰めた結果の手柄でもあるし……今回は、これ以上彼を責めなくてもいいと思う」
「アルカナ・シャドウ……どうして……」
自分を見下していたはずのるるかの擁護に、ニジーは呆然と呟く。
るるかが差し出したマコトジュエルが、ふわりと宙に浮き、ウソノワールの手元へと収まった。
「よくやった。キュアアルカナ・シャドウ」
ウソノワールが満足げに頷き、そして奈落の底で震える男を見下ろした。
「ニジーよ。今回はキュアアルカナ・シャドウがマコトジュエルを持ってきたこともある為、特別に許してやろう」
「あ、ありがとうございます……っ」
そして、るるかが本題へと切り込む。
「マコトジュエルを一つ持ってきました。だから……お願いがあります」
「……」
「あの子の事を……こころの事で、約束通り何かしてもらえないですか?」
『特別措置』。
その言葉を聞いて、るるかは必死に懇願した。
幹部の三人は何のことだか分からず顔を見合わせている。
ウソノワールは、少しの間考え込むような素振りを見せた。
「いいだろう。今後も私の為に忠実に動くのであれば……貴様の大切な存在である彼女と『一緒に過ごす時間の制限』をなくしてもいい」
「本当……!?」
るるかの顔がパァッと明るくなる。
「必ず……必ず動きます。だから……こころと過ごす時間を、私にください」
今まで、一日にほんの僅かな時間しか許されていなかった面会。
任務以外の時間はすべて妹と一緒にいられるようになるというのは、今のるるかにとって、何よりもかけがえのない報酬だった。
「いいだろう。今回の特別措置は、その内容とする」
「ありがとうございます」
るるかは深く頭を下げた。
「良かったわね、るるか」
「うん……っ」
るるかの顔には、数ヶ月ぶりに、ほんの少しだけ心からの安堵の笑顔が浮かんでいた。
しかし、その心の中には、決して拭い去ることのできない深く暗い思いが巣食っていた。
(私のやっている行動は、間違いなく過去の自分達と正反対の行動……。名探偵プリキュアとして活動していた、自分達を否定する最低な行動だわ)
それでも。
るるかは、こころを救う可能性があるならどんな事でもする。
今のるるかには、世界の平和よりも、プリキュアとしての正義よりも、それ以上に大切なものがあった。
記憶を失った親友のくれあが、戦いを知らずに幸せに過ごせること。
そして何よりも――心を壊された妹・こころを救うことが出来るかもしれないという希望。
また、笑い合える日が来るかもしれないという奇跡。
(……そんな世界になるなら、私は何でもいい)
冷たく暗い廊下を、妹の元へと急ぎ足で歩きながら、るるかは暗い決意を固めていく。
(あんなことになって、初めて自覚した。私は……こころがいないと生きていけない)
(こころが、私の生きていく意味だった)
(だから……あの子を救えるなら、どんな世界になったって構わないわ)
かつての天才名探偵は、ただ一人の妹を愛するが故に、取り返しのつかない深い闇の底へと、自らの意志で沈んでいった。
***
ウソノワールから『こころと一緒に過ごす時間の制限解除』という特別措置を勝ち取ったるるかは、早足で廊下を歩いていた。
向かう先はただ一つ、最愛の妹が眠る部屋だ。
「それにしても、るるかがあんな強引な方法でマコトジュエルを盗むなんて思わなかったわ」
るるかの腕の中に抱かれたマシュタンが、先ほどの虹ケ浜での一件を思い返して呟いた。
プリキュア達が放った浄化の閃光。
その光に紛れて、無防備に宙を舞うマコトジュエルを空中でかっさらう。
それは、敵陣のど真ん中へ突っ込む無謀な方法だった。
「そうね。いつもの私ならしないかも」
るるかは足を止めることなく、淡々と答える。
「それに……あれは、マコトジュエルが『二つ』だったからこそ出来たことよ。一つだけなら、奪われたことに直ぐに気づかれてしまう。二つあったから、一つ残しておけば彼女たちは気を取られる。その隙を突いただけ」
その声はどこか弾んでいた。
「でも……おかげで、こころとの時間を取り戻せた。私にとっては、何よりも大きな一歩よ」
「そうね」
そんな会話を交わしている内に、扉の前へと辿り着く。
るるかは小さく深呼吸をしてから、扉を開けて中へと入った。
「こころ、ただいま」
返事はない。
いつものことだ。
部屋の中には、ベッドに横たわり、虚ろな目をして天井を見つめ続けるこころの姿があった。
るるかは迷わずベッドの横に椅子を引き寄せ、そこに静かに腰を下ろした。
「こころ。今日からまた、昔みたいにずっと一緒にいられるようになったよ」
るるかは、傷ついたこころの頬にそっと、愛おしむように触れた。
「特別措置として、時間制限をなくしてもらったの。任務になれば離れないといけない時もあるけど……それ以外は、ずっとそばにいるよ。こころのこと、もう一人ぼっちになんてさせないから」
返事のない妹へ向けて、るるかは優しい声で語り続ける。
「今日からはまた、一緒に寝ようね。私もこの部屋で一緒に過ごすから」
どんなに温かい言葉をかけても、こころの虚ろな瞳は瞬きすらしない。
「きっとこころは怒るかもしれないけど、私……マコトジュエルを奪ったの。それをウソノワールに渡したから、この結果を手に入れたのよ」
妹が知れば、軽蔑されるかもしれない。
それでも。
「でも……後悔はしないよ。だって、大切な家族との時間を取り戻す事が出来たから。私はこれからも、自分の目的の為に動く。例えそれが、皆に誇れないことだとしても」
るるかの瞳に、暗く冷たい光が宿る。
「ごめんね、私の話ばっかりで。体、拭いてあげるね」
「そういうと思って、準備しておいたわよ、るるか」
るるかがこころに語りかけている間に、マシュタンは気を利かせて温かいお湯を張った桶と、清潔なタオル、新しい包帯を用意してくれていた。
「さすがマシュタン。ありがとう」
「当然よ。私は、るるかのおとも妖精なんだから」
二人で協力し、こころの細い身体を丁寧に拭いていく。
あの凄惨な拷問から時間が経ち、身体の傷は随分と良くなっていた。
深い傷が完全に塞がるまではまだお風呂に入れてあげることは出来ないが、それでも外傷の殆どは治癒に向かっている。
痛々しい傷跡は残ってしまうだろうが、命の危機は脱しつつあった。
綺麗に汗を拭き取り、新しい包帯を巻き直す。
新しい患者用の服を着せ替え、両手両足のギプスを慎重に付け直した。
「よし。綺麗になったね」
ベッドにこころを寝かせ直し、るるかはその頭を優しく撫で始めた。
サラサラとした髪の感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「ねぇ、マシュタン」
「どうしたの……るるか」
「私ね……」
るるかは、撫でる手を止めずに、ポツリと呟いた。
「こんな事言えば駄目なのは分かってるんだけど……こころ達が幸せに過ごせるなら、『嘘』で覆われても……どんな世界でもいいのかなって、思っちゃう時があるの」
その衝撃的な言葉に、マシュタンはハッと目を見開いた。
「ちょっと! それは……!」
「分かってる。良くないことだよ。そんな事させるわけにはいかないってことも」
るるかの声は、ひどく静かで、波立っていなかった。
「それでも、くれあが戦いを気にしないで暮らせる。こころが目を覚まして、また平和に幸せに暮らせる。もし……そんな都合のいい世界を作ることが出来るのであれば……それでもいいかななんて、心の何処かで思い始めちゃってるの」
それは、名探偵としての『真実を追い求める正義』を完全に投げ捨てる、悪魔のような思想だった。
「きっと、こころとくれあがこんな事知ったら、すっごく怒られるんだろうな。怒られるだけで済めばいいけど……」
るるかは自嘲するように笑い、深く暗い表情を見せた。
「るるか……」
マシュタンは、るるかがどれほど深く悩み、そして絶望の淵に立っているのかを悟り、返す言葉を見つけられなかった。
少しの間、部屋の中は静寂に包まれた。
何か声をかけてあげなければ。
そう思ったマシュタンが、るるかの顔を覗き込んだ瞬間――マシュタンは驚愕に息を呑んだ。
るるかの瞳から、大粒の涙が滝のように溢れ落ちていたのだ。
声を出すこともなく。ただ肩を小刻みに震わせ、歯を食いしばって、るるかは押し殺したように泣いていた。
「ちょ、ちょっとるるか! どうしたの!? 泣いたりなんてして、大丈夫!?」
「っ……」
マシュタンの慌てた声に、るるかは急いで袖で涙を拭った。
しかし、拭っても拭っても、後から後から涙が溢れて止まらない。
「ごめん、マシュタン……心配、するよね……っ」
「一体どうしたのよ!?」
「私ね、最近になって……こんな事、増え始めたの」
るるかは、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしながら言葉を紡ぎ出した。
「私、こんな事になって……初めて自覚したの。私って、こころが居ないと生きていけないんだって。こころが……私の『生きる意味』だったんだって……!」
「るるか……」
「当たり前だって思ってたの。こころと一緒に生きているのが。マシュタン達と出会って……探偵になって……名探偵プリキュアになって、皆で一緒に暮らしているのが、ずっと続く当たり前のことだって思ってた……っ」
指の隙間から、涙がとめどなく流れ落ちる。
「こころがいつも『お姉ちゃん』って呼んで、甘えてくれて、抱きついてきてくれて、私を頼ってくれて……それが、当たり前だって……っ」
あんなとみくる。
新しい名探偵プリキュア達の姿が、るるかの脳裏にフラッシュバックする。
「新しい名探偵達を見てから、特にそう思うようになったの。あの二人が笑顔でいるのを見ると……思い出すの。くれあと、こころと笑い合っていた時のことを。何かの拍子に、いつも……こころの笑顔が過るの……っ」
「…………」
「私のせいで……こころの人生を……未来を……奪った事が……苦しくて……許せなくて……っ。こころの笑顔が見たいよ……! こころの声が、聞きたい……っ!!」
「うっ……うぅっ……あああぁぁぁっ……!」
いつも冷静沈着で、弱音など決して吐かなかったるるかが。
他人の前で涙を見せることなど滅多になかったるるかが、今は子供のように声を上げて泣き崩れていた。
マシュタンは、るるかの膝の上に飛び乗り、その震える小さな背中にそっと寄り添った。
「今はそのまま、自分の気持ちを吐き出して」
「うぅっ……ひぐっ……」
「私は……貴女の隣りにいるわ」
マシュタンの温もりにすがりつくように、るるかはひとしきり泣き続けた。
やがて、部屋に響いていた嗚咽が少しずつ治まり、るるかはゆっくりと顔を上げた。
目元は赤く腫れ上がっている。
「……ごめんね。いつもありがとう、マシュタン」
「いつも言ってるでしょ。私は、るるかとこころちゃんのおとも妖精よ。最後まで一緒だって。辛い時は、いつでも私に言って、るるか」
「……うん」
るるかは大きく深呼吸をし、ベッドで眠る妹の手を、両手でぎゅっと握りしめた。
その瞳には、もう涙はなかった。
あるのは、冷たく燃える黒い炎。
「まだ、どうなるかは分からない。それでも……もしその時が来たら、私は迷わず選ぶわ。こころが、幸せになる世界を」
「……!」
「それが、他の人を不幸に……世界を今と違う風にする事だとしても」
それは、紛れもないエゴイズム。
世界の平和を天秤にかけ、たった一人の妹を選ぶという、独善的な宣言だった。
「これが自分のエゴだって分かってる。名探偵としては、こんなの絶対駄目だってことも。でも……私はこのエゴを押し付けてでも、こころと生きる時間を、絶対に取り戻す」
その揺るぎない覚悟を聞き、マシュタンは思わず「はぁ」と大きなため息をこぼした。
「るるかって、昔からそういう所あるわよね」
「えっ……どんなところ?」
「冷静そうに見えるのに、マイペースで天然で……そして、とんでもなく無茶なことをしようとするところ。あと、素直すぎて、逆に変な方向に向かって突っ走っちゃうところ」
容赦ないマシュタンの分析に、るるかは少しムッとした。
「そんな事ないもん」
「あるわよ。探偵時代からずっと一緒にいる私が言うんだもの。間違いないわ」
るるかは不満そうに、少しだけ頬を膨らませた。
かつての、姉妹と笑い合っていた頃のような、年相応の少女の表情だった。
それを見て、マシュタンは少しだけ安心したように微笑んだ。
「……わかったわ、るるか。るるかが後悔しないなら、私もそれでいい」
「マシュタン……」
「私は貴女の味方よ、るるか。世界中が敵になってもね」
「うん。そうだね……頼りにしてる、マシュタン」
るるかは、眠り続けるこころの額に、そっと自分の額をすり寄せた。
「こころ……待っててね」
誰に聞かせるでもない、狂おしいほどの愛と執念の誓い。
「私が……必ず……貴女を救うから」
怪盗キュアアルカナ・シャドウ。
彼女の心は、この日を境に、完全に後戻りのきかない暗黒の深淵へと足を踏み入れ始めたのだった。
***
ウソノワールとの取引により、『こころと過ごす時間の制限解除』という特別措置を手に入れたるるか。
殺風景だった部屋には、こころの眠るベッドのすぐ隣にもう一つ、るるか用のベッドが並べられていた。
これで、任務の時以外は片時も離れずに妹のそばにいられる。
しかし――念願だったはずの夜は、決して安らかなものではなかった。
深夜。
静まり返った部屋の中で、るるかは冷や汗を流し、ひどく魘されていた。
***
『うっ……。あぁっ!』
視界を覆うのは、絶望の紫色。
ウソノワールの放つ無慈悲な攻撃を、キュアアルカナは次々とその身に受けていた。
すでに全身はボロボロで、立っているのが不思議なほどの激痛が全身を苛んでいる。
それでも、アルカナは震える足に力を込め、何とか立ち上がった。
『はぁっ、はぁ……っ』
肩で息をするアルカナの眼前に、ウソノワールが右手をかざす。
その手のひらから、紫色のエネルギー弾が放たれた。
『くっ……!』
アルカナは咄嗟に上空へと跳び上がり、何とか直撃を回避する。
しかし、空中に逃げた彼女の背後には、すでに空間を歪めて移動したウソノワールが立っていた。
『はっ!』
アルカナがハッと息を呑んで振り返った瞬間。
逃げ場のない至近距離から、強力な紫色のエネルギー弾が炸裂した。
『うわあぁぁぁっ!!』
悲鳴を上げながら、アルカナの身体が紙屑のように地面へと叩きつけられる。
うつ伏せで倒れ伏すアルカナの背中へ、ウソノワールは容赦のない追撃のエネルギー弾を放った。
『ドガァァァッ!!』
直撃。
致命的なダメージを受けたアルカナの身体が光に包まれ、そして、パチンと儚く光が弾け飛ぶ。
キュアアルカナの変身が強制的に解除され、るるかの姿へと戻ってしまった。
変身が解けたるるかの姿は、服も顔も、長い髪も、埃と煤でドロドロに汚れていた。
プリキュアの力に守られていたため、即死するような致命傷こそない。
しかし、限界を超えて蓄積されたダメージにより、るるかは指一本動かすことができず、ただ地面に這いつくばることしかできなかった。
『はぁ、はぁ、はぁ……っ』
すると。
倒れ伏するるかの目の前に、キュアシンシアが飛び出してきた。
ウソノワールと真っ向から戦おうとする、小さな背中。
『こころ、お願い……逃げて……っ』
掠れた声で懇願する。
しかし、その声が届くより早く、圧倒的な実力差による一方的な蹂躙が始まった。
るるかの目の前で、シンシアが殴られ、蹴られ、血を吐き出しながら痛めつけられていく。
『やめて……やめてよ……もうやめて……っ!』
るるかの悲鳴を嘲笑うかのように、ウソノワールの手から大量の紫色のエネルギー弾が放たれた。
『やめてぇぇぇっ!!』
『きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
エネルギー弾の豪雨に、シンシアの小さな身体が完全に飲み込まれた。
凄まじい爆風と土煙。
やがて煙が晴れると、そこにはボロボロになり、血だまりの中に倒れ伏すこころの姿があった。
『こころ! こころ!!』
るるかは、動かないはずの身体を無理やり引きずって立ち上がり、こころの元へ駆け寄った。
泥と血に塗れたこころの身体を、震える腕で抱き起こす。
『目を開けて、こころ……っ!』
呼びかけに答えるように、ボロボロで血を流しているこころの瞳が、ゆっくりと開かれた。
『こころ。良かった……っ』
るるかが安堵の涙を流した、その時。
こころが震える右手をゆっくりと持ち上げ、るるかの頬に触れた。
その瞳は、いつもの温かな光を完全に失い、底知れぬ暗い色を宿していた。
『……どうして……』
『えっ……』
思わず聞き返す。
『どうして……、私、頑張ったんだよ。どうして……私を助けてくれなかったの』
『こ……ころ……』
『どうして見捨てたの……お姉ちゃん……』
こころの口から紡がれたのは、呪いのような恨み言だった。
『違う。見捨ててなんかない!』
るるかは激しく首を振って否定する。
こころが、こんなに冷たい瞳でこんなことを言うはずがない。
『痛いよ……苦しいよ……死にたくないよ……。助けて……助けてよ……』
『助けるから……! 待ってて、絶対助けるから……っ!』
(これは夢だ)
るるかは、心のどこかでそれが「自分の罪悪感が見せている悪夢」だと分かっていた。
それでも、目の前で血を流し、苦痛に歪むこころの幻影を前にして、狂ったように叫ぶことしかできなかった。
しかし、こころは冷たく言い放った。
『嘘つき』
『えっ……』
『嘘つき。私が助けを呼んでも、助けてくれなかったのは誰? お姉ちゃんだよ。お姉ちゃんは、私を助けてくれなかった。またそう言って、助けてくれないんだ。私を見捨てるんだ』
『違うっ。そんな事しない。私は……こころを……っ!』
縋るようにこころを抱きしめようとするるるかを、こころは冷たい瞳で見据えた。
憎悪と、軽蔑と、深い恨みがこもった目。
『一生、恨むから』
『あっ、あっ、あっ……違う。嫌だ。ごめんなさい。ごめんなさい……っ』
パニックになり、壊れたように謝り続けるるるかの耳に、最後の一撃が突き刺さる。
『お姉ちゃんなんて、大っきらい!』
『イヤァァァァァァァァァッ!!!』
***
「うわあぁぁぁぁぁぁっ!!」
るるかは絶叫と共に、ベッドから弾かれたように跳ね起きた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……。ゆ、夢……?」
全身が、バケツで水を被ったように汗だくになっている。
心臓が肋骨を突き破るかと思うほど激しく早鐘を打っていた。
ガタガタと震える視線を横に向けると、そこには、静かな寝息を立てて眠っているこころの姿があった。
虚ろな目は閉じられ、苦しんでいる様子はない。
しかし、るるかの脳裏には、夢の中で自分を恨むように睨みつけてきたこころの冷たい瞳が焼き付いて離れなかった。
恐怖で歯の根が合わず、身体中の震えが止まらない。
るるかは震えを抑え込もうと、自分の両腕を強く、爪が食い込むほどに抱きしめた。
「どうしたの……るるか」
るるかの叫び声に驚き、隣で寝ていたマシュタンが目を覚ました。
窓の外はまだ真っ暗だ。
「まだ、夜よ……」
「ご、ごめん……っ」
「ちょっと、るるか。すごい汗じゃない。先ずは着替えないと風邪引くわよ」
マシュタンは慌てて飛び起き、クローゼットからるるかの着替えを取りに向かった。
着替えを終え、るるかはベッドに戻らず、部屋の隅にある椅子に丸くなるようにして座っていた。
その膝の上に、マシュタンがそっと飛び乗る。
「で、どうしたのよ」
マシュタンの優しい問いかけに、るるかはポツリポツリと、先ほどの悪夢の内容を語り始めた。
自分がウソノワールに何もできずに負けたこと。
そして、ボロボロになったこころに「見捨てた」「大嫌い」と恨みの言葉を投げつけられたこと。
「そんな事ないわ。絶対に、こころちゃんはるるかを恨んだりなんてしない」
マシュタンが強い口調で否定するが、るるかの震えは止まらなかった。
「分かってる。あれが夢なんだって事くらい、途中でも分かったの。でも……」
るるかは、膝を抱え込むようにして身体を丸めた。
「でも……もしかしたら、『本当』かもしれないって思った。私は……あの時のことが、完全にトラウマになってるの。こんな夢も見るし、こころの顔を見るだけで直ぐに泣いちゃうし……」
るるかは、自分の心の奥底にある、誰にも言えなかった脆い本音を吐露した。
「気づかせないようにしてたけど……ウソノワールを目の前にしたり、プリキュアに変身しようとしたりすると、身体が勝手に震えるの。怖いって……逃げ出したいって、本能が警鐘を鳴らすの。……私は、弱いままだ……っ」
天才探偵と呼ばれ、誰よりも冷静だった自分が、一人の敵を前にして恐怖で動けなくなる。
その事実が、るるかをさらに深い絶望へと突き落としていた。
「ほら、下を向かない」
マシュタンの小さな両手が、るるかの頬をペチッと軽く叩いた。
「話してくれてありがとう、るるか。怖くてもいいじゃない。あのバケモノみたいな敵を前にして、怖くない方がおかしいわ。今は怖くても、いつか絶対に乗り越えられる時がくる」
マシュタンは、るるかの胸元にすり寄るように身を預けた。
「私は、貴女の隣にずっといる。怖かったら、私を思い切り抱きしめてもいい。るるか、貴女は一人なんかじゃない。少なくても、私が居るわ!」
「……っ」
その真っ直ぐで温かい言葉に、るるかの張り詰めていた心が少しだけ解けた。
「うん……ごめん。ごめんね、マシュタン」
るるかは、膝の上のマシュタンをそっと、けれどすがりつくように抱きしめた。
「今は……こうさせて」
マシュタンは何も言わず、素直にるるかの腕の中に包まれた。
るるかの心と身体に刻み込まれた、敗北の恐怖と後悔というトラウマ。
それは、絶対にあり得ないはずの『自分を恨む妹の姿』を、悪夢という檻の中で何度も彼女に見せつけるようになってしまった。
この深く抉られた傷が癒える日は、きっとまだ、ずっと先のことなのだろう。