名探偵プリキュア! 〜迷宮のアルカナと偽りの真実〜 作:暁 蒼空
夜の静寂が支配する、怪盗団ファントムのアジト。
ウソノワール及び幹部たちが集う中、アルカナ・シャドウとマシュタンが遅れて帰還した。
「よお新人。随分遅かったな」
ゴウエモンが、気安い調子で声をかけてくる。
「アルカナ・シャドウよ。何をしていた」
ウソノワールの低く威圧的な声。
「どうせ、ウソノワール様の邪魔をしたことに引け目を感じて逃げていたのだろう?」
ニジーが鼻で笑いながら嫌味を言う。
「ホント、マジ邪魔すんなし」
アゲセーヌも不満げに腕を組み、アルカナ・シャドウを睨みつけた。
ゴウエモン以外からは、散々な言われようだった。
フッと、アルカナ・シャドウの身体から光が抜け、変身を解くるるか。
「勘違いしないで。るるかが逃げるわけないでしょう」
マシュタンが反論し、るるかは無言でケープのポケットに手を入れた。
「うん。これを持ってきたわ」
るるかが差し出した手に握られていたのは、緑色の輝きを放つマコトジュエルの欠片だった。
「「「マコトジュエル!」」」
ニジー、アゲセーヌ、ゴウエモンが驚愕して声を上げる。
「プリキュアから奪ってきた」
るるかが手を掲げると、マコトジュエルはウソノワールの手元へと吸い込まれるように飛んでいった。
「ほう。……良くやった、アルカナ・シャドウよ」
ウソノワールは満足げに宝石を見つめた。
るるかは静かに視線を落としながら、心の中で安堵の息を吐いた。
(これで、また一歩こころを救うことに近づいた……。この調子で信頼を得れば、どこかのタイミングで、くれあとこころの『マコトジュエル』を手に入れるチャンスが来るかもしれない)
その希望だけが、今のるるかを動かす原動力だった。
「今日はこれにて解散とする。……アルカナ・シャドウよ。貴様は少し付き合え」
「……??」
突然の指名に戸惑いながらも、るるかとマシュタンは大人しくウソノワールの後をついていく。
冷たい廊下を歩き、着いた先は――他でもない、るるかとこころに与えられた部屋だった。
「ウソノワール様、一体……」
マシュタンがウソノワールに尋ねる。
「何、少々伝えたいことがあってな。部屋に入れてもらうぞ」
扉を開け、部屋の中に入る。
そこにはいつもの様に、こころが虚ろな目をしてベッドに横たわっていた。
ウソノワールが、眠るこころの傍らに立ち、スッと手のひらをかざす。
すると、まばゆい光とともに『2つのマコトジュエル』が宙に現れた。
それは、かつて奪われたキュアエクレールとキュアシンシアの、大切なマコトジュエルだった。
「なっ!?」
るるかとマシュタンは同時に息を呑んだ。
「これが必要なのだろう。アルカナ・シャドウよ」
ウソノワールは、仮面の奥でねっとりとるるかを見据えた。
「そして貴様は、これを取り戻す為に私の元へやって来た。今、私の命令を忠実に聞いているのも、これを取り戻す目的があるのだろう?」
一番隠しておきたかった本心。
それを真っ向から突きつけられ、るるかは顔を青ざめさせた。
「そ、それ……は……」
言い淀むるるか。
「まぁいい」
ウソノワールが指を鳴らすと、エクレールのマコトジュエルのみがスッと虚空に消えた。
ウソノワールの手元には、ヒビだらけになった痛々しい『シンシアのマコトジュエル』だけが残された。
「えっ……」
どうしてこころのジュエルだけを残したのか、るるかには理解できなかった。
「アルカナ・シャドウよ。貴様が一つ『勘違い』していると思い、呼んだのだ」
「勘違い……。何を……」
ウソノワールは、氷のように冷酷な声で、残酷な真実を告げた。
「ハッキリと言っておく。このマコトジュエルを手にしても、キュアシンシアが元に戻ることはない」
「……!」
「そんな……」
マシュタンが絶句する。
「そんな事ない! あるはずが無い!」
るるかは激しく首を振った。
「マコトジュエルは『真実の結晶』よ! プリキュアに変身するための心のマコトジュエルは、探偵として体験・経験したことが結晶となっている。それを戻せば、こころだって元に戻る筈よ!」
「それが、そもそも間違いだと言っている」
「違う! そんな事あるはずが!」
るるかは完全に冷静さを失い、声を荒げた。
天才探偵としての論理など、もはやどこにもなかった。
「ちょっと、るるか! 落ち着いて!」
マシュタンが必死に止めるが、るるかの耳には届かない。
ウソノワールは、ひび割れたマコトジュエルを、るるかの目の前へスッと差し出した。
「ならば、試してみるがいい」
「……え?」
「貴様が思った通りの結果になるのかどうかをな。どうした? 貴様の言っている通りなら、これで妹が元に戻るのだ。本望だろう」
堂々としているウソノワールの態度に、るるかは激しく動揺した。
しかし、目の前には、喉から手が出るほど欲しかったこころのマコトジュエルが、魂がある。
(そうだ。これでこころが元に戻るんだ。ウソノワールは嘘をついているだけ……!)
るるかは、震える両手でマコトジュエルを受け取った。
まるで壊れ物を扱うように丁寧に優しく持ち、ベッドで眠るこころへと近づく。
「これで……これでいいの。これでこころは元に戻るの。私の願いが、叶うの」
祈るように、るるかはマコトジュエルをこころの胸元へとそっと押し当てた。
「こころ……」
淡い光を放ちながら、マコトジュエルがこころの身体の奥へと吸い込まれていく。
数秒の静寂。
やがて。
ピクッ、とこころの指先が動き、ずっと虚ろだった瞳に、微かな光が戻った。
「こ……こ……は? ……わ…たし、……どう……し…て……」
自分の状況を把握できていないのか、こころが弱々しい声で呟いた。
「こころ!」
るるかの目から、歓喜の涙が溢れる。
「お……ね……え……ちゃ……ん」
「そうだよ。お姉ちゃんだよ!」
るるかが、こころの細い手を両手で包み込む。
しかし。
こころの視線が、るるかの横にいるマシュタンへ向き――そして、その後ろに立つ、『ウソノワール』へと向いた。
その瞬間だった。
こころの脳裏に、身体に、細胞に。
痛めつけられた時の絶望が。
嘘で覆われ、自分の手で自分を壊した時の狂気が。
全てが一気に、濁流となって逆流した。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……!!」
こころの瞳孔が限界まで開き、全身が痙攣し始める。
「こころ?」
「イヤァァァァァぁぁぁぁッ!!!」
鼓膜を突き破るような、獣じみた絶叫。
こころが、腕に刺さっていた点滴の針が引き抜かれるのも構わず、血を流しながらベッドの上で激しく暴れ出した。
「こころ! 大丈夫! 落ち着いて!」
るるかが必死に押さえつけようとする。
「嫌だ! 嫌だぁぁぁ! もう痛いのは嫌だ! 苦しいよ! 死にたくないよっ!!」
「こころ……っ!」
「嫌だ。お姉ちゃんに嫌われる。違う。これは嘘。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!!」
錯乱し、目の焦点が合わないまま悲鳴を上げ続けるこころ。
「こころ。私を見て!」
るるかがこころの顔を包み込もうとした瞬間。
『バシッ!!』
こころが、るるかの手を全力で弾き飛ばした。
「さわらないでッ!!」
「えっ……」
るるかの時間が、止まった。
「私を……助けてくれなかったのに……っ! ずっと、ずっと痛い思いをしたのに! 私を助けてくれなかったじゃん! 今さら、手を伸ばさないでよッ!!」
それは、悪夢の中で何度も何度も聞いた、るるかの心を抉る最大の呪いだった。
「こ……ころ……」
るるかの顔から、血の気が完全に引く。
「い、いや……違う。こんな事……言いたいんじゃない……っ」
突然、こころは自分の頭を両手で掻きむしり始めた。
「わ、わたし……あれ……わたし……って、なにしてたんだっけ……」
「こころ……?」
「わたし……って、だれ……」
こころの精神は、あの拷問と嘘の力で、そもそも『完全に崩壊』していたのだ。
それが、マコトジュエルが戻ったことで一時的にすべての『真実の記憶』が戻り、その耐え難い苦痛を同時に追体験したことで、彼女の脳と心はついにキャパシティを限界突破し、粉々に砕け散った。
防御本能が、すべての記憶を強引に消去していく。
「お姉ちゃん……大好きなお姉ちゃん。あれ……『お姉ちゃん』……って、誰だっけ……?」
「いや……やめて、こころ……っ!」
「なにも……なにも……思い出せない。あれ……記憶がなくなっていく。いたい……なに、これ……」
こころの目から、空っぽの涙が流れ落ちる。
「痛くて……苦しくて……死にそうな記憶しかないよ……っ」
「こころ……!」
「やだ、もうヤダ。こんな思いするくらいなら……死んだほうが、よかった……っ」
その絶望の言葉を最後に。
こころの瞳から完全に光が失われ、再び虚無の暗黒へと沈んだ。
そして、限界を超えて砕け散った精神に耐えきれず、こころの胸からマコトジュエルが弾き出された。
空中に飛び出したマコトジュエルは――先ほどよりもさらに深く、無惨にひび割れていた。
「そ……ん……な……」
るるかは、糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちて膝をついた。
「これでわかっただろう」
冷酷な見物人であったウソノワールが、静かに告げた。
「貴様は勘違いしていた。元々、完全に壊れた精神に真実の記憶を戻せば、狂乱し、更に壊れた結果になる。いくらマコトジュエルを手に入れた所で……根本的な解決には、そもそもならなかったのだ」
「あっ、あっ、あっ……」
過呼吸のように喘ぐるるかに、ウソノワールは歩み寄る。
「もう聞こえていないか。……貴様は、私の言いなりになるしかないのだ。私の『嘘』で覆われれば、現実を書き換え、妹の壊れた精神を救うこともできる」
「そんな……こんなのって……」
ただマコトジュエルを戻すだけでは妹は救えない。
嘘で世界を塗り替えるしか、この地獄から妹を救い出す方法はない。
それが、ウソノワールがるるかに用意した、絶対的な絶望の檻だった。
「今後も期待しているぞ、アルカナ・シャドウよ」
ひび割れたマコトジュエルを回収し、ウソノワールは満足げに部屋から出ていった。
後に残されたのは、再び虚無の底へ落ちた妹と、すべてを失った少女だけ。
「るるか……こころちゃん……」
マシュタンは、そのあまりにむごい光景に、言葉を失って震えることしかできない。
「私が……また……。私が間違って……。私のせいで……こころが……!」
るるかの大きな瞳から、とめどなく涙が溢れ出す。
天才探偵の誇りも、希望も、すべてが完全に砕け散った。
「うわぁぁぁぁん!! 私のせいだ! 私のせいだぁぁぁっ!!」
るるかは床にすがりつき、喉が裂けんばかりに泣き叫び続けていた。
天才探偵と呼ばれ、常に冷静沈着だった彼女の面影はどこにもない。
マシュタンは、ただ黙ってその小さな背中に寄り添うことしかできなかった。
それから、どれほどの時間が経過しただろうか。
「わたし……また、わたしは……」
枯れ果てた声で、るるかがポツリと呟いた。
自分の仕出かしてしまった取り返しのつかない罪に、るるかは完全に絶望していた。
「どうして……どうして……何で……こんな……取り返しのつかない失敗を……『2回』も……っ」
かつて探偵時代に、妹がウソノワールに捕らえられてしまった『1回目』の失敗。
そして今回、マコトジュエルを戻せば妹が治ると浅はかに信じ込み、こころの精神を完全に砕き散らしてしまった『2回目』の失敗。
「私がしてた事って……いったい……私は……こんな事、したかったんじゃ……」
るるかは這うようにして、こころが眠るベッドへと縋り付いた。
シーツを強く握りしめ、頭をこすりつける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
壊れたレコードのように、謝罪の言葉を繰り返す。
「こころ……違うの……私……本当に……貴女を救いたくて……」
涙がとめどなく溢れ続ける。
しかし、涙を流しているるるかの表情はどす黒く曇り、その紫色の瞳からは完全に光が失われ、死んだ魚のような目をしていた。
「助けたくて……ただ助けたくて……。マコトジュエルを戻せれば、元に戻せると思ってたの……っ」
「こんな事になるなんて思ってなくて……嫌だ……嫌だ……」
るるかは、自分の無力さと愚かさに押し潰されそうになっていた。
「私は……お姉ちゃんなのに……。最低だ……。私……お姉ちゃんなんかじゃない」
「妹1人も救えない姉なんて……生きている、何の意味があるの……っ」
「うわぁぁぁぁぁん! やだよぉ! こころぉぉ!!」
ベッドのシーツを掻きむしり、子供のように泣きじゃくる。
「嫌だ! 嫌だ! こころに忘れられるのはやだよぉ……っ!!」
「るるか……」
心配するマシュタンの声に、るるかはハッと顔を上げた。
そして、狂ったようにマシュタンにすがりつき、強く抱きしめた。
「マシュタン……マシュタンッ!!」
「私のせいで……こころが……こころがぁぁぁ!!」
「私のせいだ。私のせいだ!!」
「もう嫌だ! もう自分が大っきらいだよ! 私なんて、生きてる意味なんてないよ!!」
完全に錯乱し、自己否定の言葉を叫び続けるるるか。
「るるか! るるか! 落ち着いて! そんな事言わないで!」
マシュタンが必死になだめようとするが、パニック状態のるるかには届かない。
「アァぁぁぁぁぁぁぁッ! 嫌だぁぁぁ! こころぉぉぉ! うわぁぁぁぁぁん!!」
鼓膜を破るような、悲痛な泣き叫び。
(ごめんね、るるか!)
マシュタンは心の中で謝ると、るるかの腕から強引に抜け出し、小さな手で思い切りるるかの頬を叩いた。
『パチンッ!!』
乾いた音が、部屋に響き渡った。
「えっ……」
るるかは、何をされたのか理解できていなかった。
少しだけジンジンと痛む頬。
るるかは、瞬きをしながらゆっくりとマシュタンの方を向いた。
「いい加減にしなさい! るるか! 諦めてどうするのよ!!」
マシュタンの悲痛な、しかし力強い叫び。
「マ、マシュタン……」
「泣きたい気持ちは分かるわ! 貴女が自分を責める気持ちも、絶望する気持ちも、全部とは言わないけど……痛いほど分かるわよ!」
マシュタンの瞳にも、大粒の涙が浮かんでいた。
「でも……! どんな事をしてでも救うんでしょ!! 今までの自分達を……誇り高き『名探偵』だった頃を否定してでも……地獄に落ちるとしてでも、こころちゃんを救うんでしょ!!」
「わたし……私は……」
「だったら、例え絶望してもやるしかないのよ! 貴女一人じゃない。アタシ達がやらないといけないのよ! 誰が……誰がこころちゃんを救うのよ!!」
マシュタンの言葉が、るるかの凍りついた心に熱く突き刺さる。
「それは……」
「貴女にとって、こころちゃんの存在は『そんなもの』なの!? 違うでしょ! 貴女の大切な、たった一人の妹なのよ!!」
マシュタンは、るるかの胸元を小さな両手で強く掴んだ。
「諦めないでよ! るるか!」
「……っ」
「アタシだって、地獄に落ちる覚悟は出来てるのよ! あの時からずっと! 貴女と一緒に最後まで付き合うって決めたの! 例え世界を敵に回したとしても! アタシは貴女と一緒にいるわ!!」
その言葉に、るるかの死んだ瞳に再び光が灯り、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
「嫌だ……。諦めたくない……。諦められない……っ」
るるかは、震える声で搾り出すように言った。
「私は……こころが……大好きなの。どんな事をしてでも、救いたいの……」
「諦めたくない。私は……」
るるかは、手の甲で乱暴に涙を拭った。
その瞳に宿ったのは、正義でも希望でもない。
底知れぬ狂気と、揺るぎない愛の執念だった。
「例え、悪に染まっても……。例え世界が『嘘』に覆われたとしても……こころを救えるなら、どんな世界でもいい!」
それは、名探偵としての信念を完全に捨て去り、ウソノワールの用意した悪魔の道を進むという、究極のエゴイズムの宣言。
「こころと一緒に生きていける世界が、もう一度手に入るなら……何だってする!!」
るるかは泣きながらも、はっきりとそう宣言した。
「なら、やりましょう! 泣いたっていい! 絶望したっていい! アタシが側で支えるわ! 約束する!」
「私も……約束する。例え悲しくても、絶望しても、私は……私の目的の為に……こころを救う為なら、どんな手でも使う! どんな世界になっても、絶対に後悔なんてしない!」
るるかの瞳が、真っ直ぐにマシュタンを見つめ返す。
「こころと一緒に……いや、マシュタンと、こころと、くれあと、シュシュタンと……またあの頃の皆と一緒に生きていける世界が手に入るなら、何だっていい!!」
「そう。それでいいわ、るるか! よく頑張ったわね」
マシュタンの優しい声を聞き、張り詰めていたるるかの瞳が再び潤んだ。
「ごめんなさい。キツイ言葉を言ってしまって。今は……泣いてもいいから」
「マシュタン……っ」
るるかの目から、今度は張り詰めていた糸が切れたような安堵の涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい。迷惑ばっかりかけて……」
「ありがとう。ありがとう、マシュタン……っ」
るるかは、マシュタンの小さな身体を両手で優しく、愛おしむように抱きしめた。
「ありがとう、マシュタン。ごめん、今は……このまま……っ」
「うん。今は泣いて、るるか」
「グスッ、グスッ……うわぁぁぁぁぁん……っ!!」
マシュタンの温もりに包まれ、るるかは声を出して泣きじゃくった。
先ほどまでの絶望と自己嫌悪の涙ではなく、己の弱さをすべて受け入れてくれた相棒への、感謝と甘えの涙だった。
「よしよし」
マシュタンは、泣き叫ぶるるかの頭を小さな手で何度も何度も、優しく撫で続けた。
全てを失い、さらに深い絶望の淵に立たされた天才探偵。
しかし彼女は、一人ではなかった。
互いを地獄の底まで支え合うと誓った絆を胸に、るるかの心は完全に『怪盗アルカナ・シャドウ』として、漆黒の闇の中へと沈んでいったのだ。
***
泣き叫び、すべての感情を吐き出したるるかは、やがて糸が切れたように眠りに落ちていた。
冷たい床の上で、涙の跡をくっきりと残したまま気を失った彼女に、マシュタンはそっと寄り添っていた。
「るるか……辛いでしょ。こころちゃんがあんな事になってしまって」
マシュタンは、るるかの冷たくなった頬に自分の額をすり寄せる。
「アタシも気付けなかった。アタシも……マコトジュエルが戻れば、元に戻るかもって思ってた」
マシュタンは、小さな両手で自分の顔を覆った。
「……いや、違うわね。もしかしたら、上手くいかないかもって……あのウソノワールの態度を見て、正直思ってた。でも……信じたかった。これは……止められなかったアタシにも、罪があるわ」
るるか一人に背負わせるわけにはいかない。
もう、正義の味方には戻れない。
「るるか。もうアタシ達は、後戻り出来ないんでしょうね。それでも……アタシは貴女と一緒よ」
マシュタンは、魔法の力でふわりとるるかの身体を浮かせ、ベッドの空いているスペースへと優しく寝かせた。そして自らも、るるかの首元に丸くなる。
「おやすみ、るるか」
絶望の夜。二人はそのままの状態で、泥のような眠りについた。
***
そして翌日。
「ん……」
目を覚ましたマシュタンは、自分が柔らかいベッドの上に寝かせられていることに気がついた。
るるかは既に目を覚まし、鏡の前で身支度を整えていた。
漆黒のケープを羽織り、ネクタイ型のリボンを結んでいる。
「おはよう。るるか」
「マシュタン。おはよう」
るるかが、ゆっくりと振り返る。
その瞬間。
マシュタンは、振り返ったるるかの顔を見て、息を呑んで硬直した。
「るるか……貴女……」
(そう……もう、引き返さないのね。貴女は、そこまで……)
マシュタンは、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えながらも、ただ黙って相棒の覚悟を受け入れた。
***
一方、怪盗団ファントムのアジト。
VIP席のウソノワール、そしてニジー、アゲセーヌ、ゴウエモンは、既にいつもの位置についていた。
「うん? アルカナ・シャドウはどうした?」
ウソノワールが、空席を見やって低く尋ねる。
「いえ、まだ見ていませんが……」
ニジーが肩をすくめる。
「寝坊ッショ。もしくは、ウソノワール様の邪魔をしたことに引け目でも感じてるんじゃね」
アゲセーヌが爪を弄りながら鼻で笑う。
「いやいや、あの真面目そうな新人が寝坊なんてあり得るのか?」
ゴウエモンが首を傾げた。
(昨日の事は、流石にショックを与えすぎたか……)
ウソノワールは、仮面の奥で静かに思考を巡らせていた。
精神を完全に破壊してしまっては、使える手駒が一つ減ってしまう。
すると、暗い廊下の奥から足音が聞こえた。
『コツ、コツ、コツ……』
るるかとマシュタンが、いつもの定位置へと到着した。
「随分遅かったじゃないか、ベイビー」
ニジーが皮肉交じりに笑う。
「てか、新人のくせに一番遅いって生意気ッショ」
アゲセーヌが不満げに睨みつける。
「どうした? 新人。遅いなんて珍しいじゃねぇか」
ゴウエモンは、少しだけ心配そうな声をかけた。
そんな幹部たちの会話に対し、るるかは深く俯いたまま、ピクリとも動かなかった。
「ごめんなさい。少し準備に手間取っちゃって」
マシュタンが、気さくな声を出して慌ててフォローを入れる。
しかし、るるかは全く反応しない。
流石にゴウエモンも異変を感じた。
「新人? 大丈夫か?」
その声に反応し、るるかが、ゆっくりと顔を上げた。
「えぇ。問題ないわ」
静かで、透き通るような声。
しかし、そのるるかの『表情』を見た瞬間、幹部一同は息を呑んで固まった。
「「「!?」」」
「ア、アルカナ・シャドウ……君は……」
ニジーの顔から、余裕の笑みが引き攣って消える。
「アンタ……いったい……」
アゲセーヌが、無意識に後ずさりする。
「新人……お前は……」
ゴウエモンでさえ、背筋に冷たいものを感じて言葉を失った。
(成る程。……かなり効果があったようだな)
ウソノワールだけが、その姿を見て口角を吊り上げた。
顔つきも、声色も、いつも通りのるるかに見えた。
しかし――るるかの紫色の瞳から、『ハイライト(光)』が完全に消え失せていたのだ。
深い、深い、底なしの虚無。
何も映さず、何も感じていない、ガラス玉のような漆黒の瞳。
それなのに、いつもの様な丁寧な言葉遣い。
そして、口元にはうっすらと、貼り付けたような『笑み』を浮かべていた。
「どうしたの? そんな顔して」
るるかは、コテッと小さく首を傾げて問いかけた。
それは、かつてこころがよくやっていた、可愛らしい仕草。
そのはずだが――光の消えた瞳で、感情の抜け落ちた笑みを浮かべる今のるるかがやると、形容しがたいほどの『不気味さ』と『狂気』が増幅されていた。
「い、いや……なんでもないよ」
冷や汗を流し、あのニジーが目を逸らして後ずさった。
「そう」
るるかは静かに微笑んだまま、いつもの幹部席の椅子に腰を下ろした。
マシュタンが、るるかの膝の上にふわりと乗る。
「モフモフ……。気持ちいい」
るるかは、マシュタンの頭を両手で優しく撫で始めた。
その言葉に嘘はなく、るるかは普段通り、本当にマシュタンの毛並みを心地よいと思って撫でている。
マシュタンも、るるかの心がどれだけ壊れても愛情だけは変わっていないことを理解した上で、大人しく撫でられていた。
しかし、外(他の幹部たち)から見れば。
底なしの虚無の瞳で、不気味な笑みを浮かべながらマシュタンを撫で続けるその姿は、本心でそんな事をしてるとはとても思えない、完全に『壊れてしまった異常者』の姿そのものだった。
瞳からハイライトが消えただけで、ここまで人に抱かせる印象が劇的に変わるとは思わなかった一同。
アジトの空気が、るるか一人によって重く冷たく凍りついていた。
(いい感じだ)
ウソノワールは、その狂気を帯びた姿を見て確信した。
(約束の日に向けてマコトジュエルを集めるのに、今のアルカナ・シャドウの力は非常に有効だ。これからも大いに期待できるだろう)
るるかの心は、狂気じみた愛と絶望に染まりかけていた。
こころを救う為なら、悪魔に魂を売り渡し、何でもする。
そう誓ったるるかの瞳には、もう、名探偵としての『光』など一切必要なかった。