名探偵プリキュア! 〜迷宮のアルカナと偽りの真実〜 作:暁 蒼空
シンシアは低く構え、ウソノワールと対峙した。
対するウソノワールは、構えらしい構えなど一切取らず、ただそこに悠然と佇んでいるだけだった。
一見すれば完全に無防備。
しかし――。
(……全く隙がない。ただ佇んでいるだけなのに、このプレッシャー。どう攻めても、完全に手玉に取られるのが分かる)
シンシアは、じわりと手のひらに汗をかくのを感じた。
(戦う前からこんな事思うのなんて、初めて……)
ウソノワールと対峙するだけで、その圧倒的な「格」の違いが肌を刺すように伝わってくる。
本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしていた。
「でも……私の後ろにはお姉ちゃんがいるの。引くわけにはいかない!」
恐怖を振り払い、先に動いたのはシンシアだった。
大地を蹴り、猛スピードでウソノワールの懐へ飛び込むと、鋭い蹴りを放った。
「ハァァァッ!!」
空気を裂く凄まじい風切り音。
しかし。
「ほぅ……。中々のものだな」
ウソノワールは、片腕を無造作に上げるだけで、その必殺の蹴りを容易く受け止めた。
その巨体は、その場でピクリとも動かない。
微動だにしていなかった。
「――っ!」
シンシアは戦慄し、即座に距離を取った。
「冗談でしょ。今の、結構勢いつけたつもりなんだけどな」
額から冷たい汗がツーッと垂れ落ちる。
(これはヤバいなぁ。まさかこれ程だなんて。お姉ちゃんが負けたのも、本当に悔しいけど納得する。たった一撃を防がれただけなのに、実力の差が嫌でも分かっちゃう)
自分と相手との間にある、埋めようのない絶望的な力量差。
天才的な直感を持つ彼女だからこそ、その残酷な事実を正確に悟ってしまっていた。
「それでも……! 私に逃げるなんて選択肢はない!」
シンシアは再び駆け出した。
己の最大の武器であるスピードで翻弄しつつ、四方八方から連撃を繰り出す。
幾重にも重なる打撃の嵐。
しかし、ウソノワールはその全てを、まるで子供の遊びに付き合うかのように軽々と防ぎ続けた。
シンシアのパンチ、蹴り、その全てが、ウソノワールの強靭な腕や手甲によって完全にシャットアウトされる。
どれほど時間が経っただろうか。
シンシアは再び大きく距離を取り、肩で息をした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
身体中から汗が滝のように流れ落ちる。
シンシアは本気だった。手加減など一切していない。
それなのに、ウソノワールは息一つ乱さず、動じることなく全てを防ぎきっていた。
寧ろ、彼の方が圧倒的に手加減をしている。
ウソノワールはまだ、ただの一度も反撃すらしていなかった。
悔しさに顔を歪めるシンシア。
「なるほど。確かにお前の強さは大したものだ。だが、所詮はこの程度か」
「くっ。バカにしないで。まだ、本気なんか出してないんだから!」
「ほぅ。ならその本気はいつ見せてくれるのかな」
「今から見せてあげるわよ!」
シンシアはウソノワールから更に大きく距離を取ると、両脚に全エネルギーを集中させ始めた。
一方、少し離れた場所。
仰向けで寝かされていたるるかは、激痛に顔を歪めながら、何とか身体を捻ってうつ伏せになった。
「あぁっ……!」
立ち上がることはできない。
それでも、るるかは両手で泥だらけの地面を鷲掴みにし、這いつくばりながらも、シンシアが戦っている方角へと前進し始めた。
「ちょっと、るるか! 何してるの! 駄目よ、安静にしてなきゃ! それに手も足もボロボロに……!」
マシュタンが泣きそうな声で止めるが、るるかは耳を貸さない。
痛む身体に容赦なく鞭を打ち、地面を這い進む。
「ぐっ……、つぅ……」
起き上がれないるるかは、這いつくばるようにして進むため、地面を掴む手も、引きずる足も、衣服も泥だらけになっていく。
やがて、擦り剥けた手足から赤い血が滲み出し始めた。
「こころ……こころ……こころ……」
天才探偵と呼ばれた、気高く美しい彼女の面影はどこにもなかった。
ただ惨めで、無様で、泥にまみれた姿。
「待ってて。お姉ちゃんも……今行くから……」
それでも、妹を想う一心だけが、限界を超えた彼女の身体を突き動かしていた。
マシュタンも、己の小さな身体ではるるかを支えきれない無力さを噛み締めながら、必死に彼女の隣に寄り添い続けた。
這いずり続けた末、ようやく二人が戦っている場所が見えてきた。
しかし、るるかの瞳に映った光景は、あまりにも残酷なものだった。
「そんな……こころの攻撃が、全く効いていない……」
想像はしていた。しかし、ここまで一方的だとは予想だにしていなかった。
るるかの顔が、深い絶望に青ざめる。
その視線の先で、シンシアが極限まで脚にエネルギーを溜め込んでいるのが見えた。
シンシアは、脚に限界までエネルギーを充填した。
「ハァァァァッ!! くらえぇぇ!!」
最高速度での突撃。
まさしく光の速度で肉薄したシンシアは、ウソノワールの胸元へ向けて、渾身の必殺の一撃を放った。
凄まじい衝撃音が轟き、辺り一帯に爆風と砂煙が巻き起こる。
マシュタンは吹き飛ばされないよう近くの木の枝に必死にしがみつき、るるかも顔を伏せて、何とかその突風に耐えた。
やがて砂煙が晴れる。
そこには、大きく肩を揺らし、苦しそうに荒い息を吐くシンシアの姿があった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
「これなら、少しくらい効いたでしょ……!」
しかし――。
「まさか私が、ここまで飛ばされるとは。貴様の本気、中々のものだった」
煙の中から現れたウソノワールは、数メートル後方に押し流されてはいたものの、その身にはかすり傷一つ、汚れ一つついていなかった。
自身の巨体が吹き飛ばされたことに、ただ純粋に感心しているだけだった。
「そ、そんな……。私の今出せる全力の一撃でも、傷がつかないなんて……」
シンシアは呆然と立ち尽くした。
全霊を込めた一撃が、全く意味を成さなかった。
その事実が、彼女の闘志を根本からへし折っていく。
「そんな……嘘よ。こころの……全力が……。あの必殺の蹴りでも、ウソノワールにはダメージを与えられないの……?」
泥にまみれて倒れ伏するるかもまた、その信じがたい光景に絶望の声を漏らした。
「さて……貴様の力も分かったことだ」
不意に、ウソノワールの声のトーンが一段低くなった。
「そろそろ、こちらからいかせてもらう」
空気が凍りついた。
ウソノワールの放つ威圧感が、今まで守りのそれから、明確な「殺意」を伴う攻撃へと変貌したのだ。
しかし、己の全力が全く通用しなかったことに愕然としているシンシアは、その致命的な変化に気づいていなかった。
るるかだけが、その気配を敏感に察知した。
「こころ! 動いて! 逃げてっ!!」
喉が裂けるほどの悲鳴を上げるるるか。
その声にハッとしたシンシアが視線を戻した時。
すでにウソノワールは、彼女の目の前に立っていた。
「――がはっ!」
回避する暇などなかった。
ウソノワールの無慈悲な右拳が、シンシアの腹部に深くめり込んだ。
吹き飛ばされることすら許されず、その場に留め置かれたまま、シンシアの体内から「メキョッ」という嫌な音が鳴り響く。
「あ……が……」
フラフラと、糸の切れた人形のように後ずさるシンシア。
容赦のない追撃が襲い掛かる。再び振り抜かれたウソノワールの拳が、今度はシンシアの頬を的確に捉えた。
「がぁっ!!」
強烈な一撃。シンシアの身体はボールのように宙を舞い、何度も何度も地面を転がった。
口の端が裂け、鮮血が飛び散る。
たった二発。
たった二発の攻撃を受けただけで、シンシアは立ち上がることすらできなくなっていた。
「逃げて……こころ……っ」
るるかは、泥だらけの腕を必死に伸ばす。
しかし、その手は永遠に妹には届かない。
何とか痛みを堪え、四つん這いになろうと悶えるシンシア。
その眼前へ、ウソノワールがゆっくりと歩み寄る。
そして、無防備なシンシアの腹部を下から冷酷に蹴り上げた。
「ふん!」
「がはぁっ!!」
蹴り上げられたシンシアの身体が、軽々と上空へと跳ね上げられる。
ウソノワールは一瞬で移動し、飛ばされたシンシアの背後へ先回りした。
「終わりだ」
空中に浮いたシンシアの背中へ向け、ウソノワールのかかと落としが炸裂した。
『メキメキッ!!』
骨が悲鳴を上げる凄惨な音が響く。
「ぐぁぁぁぁっ!!」
シンシアの身体は、凄まじい勢いで地面へと叩きつけられた。
受け身を取る余裕などあるはずもなく、全身を強く打ち付けたシンシアは、苦痛に顔を歪めたまま、ピクリとも動かなくなった。
「そんな……こころ……」
絶望の淵で、るるかはただ、最愛の妹が壊されていく様を見ていることしかできなかった。
その残酷な光景に、るるかの視界が絶望で真っ暗に染まる。
「こころ……こころ……っ!」
声にならない悲鳴を上げ、泥だらけの地面に這いつくばったまま、ただ妹の名前を呼び続ける。
すると――ピクリ、と。
シンシアの泥に塗れた指先が、微かに動いた。
「っ……くぅ!」
「ゲホッ、ゲホッ、はぁっ……はぁっ……」
血を吐き出しながら、シンシアは痛む身体に無理やり力を込め、ふらふらと、操り人形のように立ち上がろうとする。
空から悠然と降り立ったウソノワールが、微かに驚きの声を漏らした。
「あれだけの攻撃を食らって、まだ立ち上がるとはな」
「はぁっ……はぁっ……、ま、まだ……まだ」
全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げている。
ダメージはとうに限界を超え、両足で立つことすら奇跡に近い状態だった。
それでもシンシアは、ふらつく身体を必死に支え、再び両手を前に出して構えた。
もはや、それが「構え」と呼べるものなのかすら分からない。
けれど、彼女には決して諦めるわけにはいかない理由があった。
(倒れるわけにはいかない。お姉ちゃんを助ける為に。私は……絶対に倒れるわけには!)
妹のその悲壮な姿を、るるかはただ無力に眺めていることしかできなかった。
「こころ……もういい……もういいから、逃げて……」
「るるか……」
マシュタンもまた、るるかの悲痛な横顔を見つめ、そしてボロボロになったシンシアへと視線を移す。
「こころちゃん……」
何もできない己の無力さが、マシュタンの小さな胸を締め付けていた。
「そんな体で何が出来るというのだ。キュアシンシア」
「はぁっ……はぁっ……決まってる。あ、貴女を……倒すことよ!」
シンシアは、最後の力を振り絞って駆け出した。
しかし、そのスピードは明らかに落ちていた。
光のような速度で駆け巡った彼女の面影はない。
その足取りは重く、ひどく遅かった。
プリキュアであるにも関わらず、ただ生身で走っているのとそう変わらない。
いや、持ち前の運動神経の良さを誇っていた「普段のこころ」よりも、今の動きはずっと鈍かった。
ウソノワールへと近づき、震える右腕を振りかぶって拳を放つ。
ウソノワールは、避ける素振りすら見せなかった。
ペシッ。
乾いた、力のない音が響き渡る。
ウソノワールの装甲には、微かな傷さえつかない。
「はぁ~。そんな状態で私に挑んでくることは褒めてやろう」
「……っ!」
「だが、無駄だ」
ペシッ、ペシッ、ペシッ、ペシッ。
シンシアは歯を食いしばり、何度も何度も拳を打ち付けた。
しかし、その度に虚しく、力のない音が響くだけだった。
ペシッ、ペシッ、ペシッ――パシッ。
何度目かの拳を放った瞬間、ウソノワールが無造作に手を伸ばし、シンシアの右手を包み込むようにガッチリと受け止めた。
「いい加減、諦めろ」
氷のような冷酷な声と共に、ウソノワールが掴んだシンシアの右手に、ギリッと力を込める。
ミシミシッ。ミシミシッ。
「うわあぁぁぁぁっ!!」
万力をかけられたような激痛に、シンシアの悲鳴が上がる。
骨が軋む生々しい音が響き渡り――そして。
『バキッ!!』
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
シンシアの右手の骨に、無惨にもヒビが入った。
耐えきれない激痛に、シンシアが絶叫する。
「こころぉぉぉっ!!」
るるかの叫び声がこだまする。
しかし、どれだけ叫ぼうと、妹を救う手立ては何一つない。
右手を左手で押さえ、シンシアはその場に崩れ落ちるように膝を突いた。
「ううっ……。痛い……痛いよぉ……」
ぽろぽろと涙を流し、泣きじゃくる。
目の前にウソノワールが存在していることなど、今の彼女には気にする余裕すらなかった。
そんな無防備なシンシアの頭部を、ウソノワールが右手で乱暴に掴み上げた。
「な、なに……は、はなして……」
「ふんっ!」
ウソノワールはシンシアの頭を掴んだまま、容赦なく硬い地面へと叩きつけた。
「がはっ……!」
鈍い音が響き、シンシアの息が止まる。
ウソノワールは頭から手を離さず、無理やりシンシアの顔だけを持ち上げた。
「これで分かったろう。もう諦めろ」
「ゲホッ……だ……だれ……が、あきらめる……もんか」
「……」
再び、顔面を地面へと叩きつける。
「がはっ!」
何度も、何度も、残酷なまでに叩きつける。
そして、シンシアの頭を掴んだ状態のまま、彼女の身体を宙へと持ち上げた。
何度も地面に打ち付けられたシンシアの顔は無惨に傷つき、赤い血がとめどなく流れていた。
「ゲホッ、ゲホッ」
口の中も切れているのか、咳き込む度に口角から血がこぼれ落ちる。
不意に、ウソノワールが手を離した。
フッ、と。シンシアの身体が一瞬、宙に無防備に浮く。
その隙を見逃さず、ウソノワールの拳が、シンシアの顔面を正確に捉えた。
「ぐあっ!!」
シンシアの身体が、紙くずのように吹き飛ばされる。
地面を何度も何度も転がり、土煙を上げながら、這いつくばって追いかけてきていたるるかと、その側にいるマシュタンのすぐ目の前まで転がってきた。
勢いが止まり、仰向けに倒れ伏すシンシア。
「ゲホッ、ゲホッ。……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
もはや、立ち上がる力などどこにも残っていなかった。
「こころちゃん!」
「こ、こころ!」
すぐ側まで吹き飛ばされてきた妹の元へ、るるかは泥だらけの身体を引きずって必死に駆け寄った。
マシュタンも慌ててシンシアの顔を覗き込む。
るるかは、震える手でシンシアの左手に触れた。
「こころ……大丈夫?……しっかりして……っ」
「こころちゃん、こころちゃん、しっかり!」
悲痛な声で呼びかける二人。
ボロボロになったシンシアは、ゆっくりと、声のする方へと顔を向けた。
霞む視界に映ったのは、涙を流すマシュタンと、自分以上に泥だらけでボロボロになった大好きな姉の姿だった。
「お……ねえ……ちゃん。そんな無茶して……」
るるかは、泣きながら激しく首を振った。
「無茶してるのは、どっちよ……!」
「もう……いいから……逃げて……っ」
その姉の懇願に対し、シンシアは痛む身体に再び鞭を打ち、ゆっくりと上体を起こした。
「心配かけてごめんね。お姉ちゃん、マシュタン」
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……。まだ……戦えるよ」
「何言ってるの! これ以上は無理よ。貴女、もうボロボロでろくに戦えていないじゃない!」
マシュタンが叫ぶが、シンシアの瞳の奥にある光は消えていなかった。
「お願い……お姉ちゃんの言う事聞いて。お願いよ……こころ!」
るるかは、何としてでも妹をこの場から逃がそうと、必死にすがりつく。
しかし。
「それだけは、聞けない。聞くわけにはいかない」
シンシアは、微かに微笑んでみせた。
「私がお姉ちゃんを助けるの」
「こころ……」
「今までずっと、助けてもらってきた。どんな時でも、お姉ちゃんは私を助けてくれた。だから!……今日、この時だけは……私が……お姉ちゃんを!」
そう言って、シンシアは再び立ち上がった。
フラフラと今にも倒れそうな状態で、歩みを進める。
前方からは、ウソノワールが死神のようにゆっくりと歩いてくるのが見えた。
シンシアは、少しでも姉を戦いの余波に巻き込まないようにと、あえて自分からウソノワールの方へと距離を詰めていく。
「こころ! こころ! お願いよ。逃げて、こころ!」
背後から、るるかの悲痛な絶叫が響き渡る。
るるかのすすり泣く声が、シンシアの耳に痛いほど届いていた。
(ごめん、ごめんね、お姉ちゃん。ごめんなさい)
(でも……私は……お姉ちゃんの為なら……!)
姉の命を守るためなら、自分の命などどうなってもいい。
どんなにボロボロになっても、姉を助ける。
その無謀すぎる決意を胸に、シンシアはウソノワールへと歩みを進めた。
――この凄惨な戦いにも、終わりが近づいていた。