シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
【第1話】私を壊した鏡(きず)
雪が降りしきる真夜中の空。
建物の燃え盛る音、遠くで響く阿鼻叫喚の声。その音に混じって、ゆっくりとこちらに不吉な足音が近づいてくる。
背後の
「悪いな
その瞬間、男の右手から鋭い一閃が奔り、視界は黒一色に塗りつぶされた。
◆ ◆ ◆
「……い……おい。おーい!聞いてるか?」
繰り返される呼び声に、女は意識の底から引きずり出された。
「……ん」
鬱陶しそうに声を漏らし、彼女はゆっくりと目を開ける。
ガタ…ゴト…
そこは布張りの屋根が付いた、簡素な馬車の荷台だった。
目の前には、身なりは良いがどこか趣味の悪い、成金のような雰囲気の男――情報屋が呆れ顔でこちらを覗き込んでいた。
「……ったく。キマってんのか?『
「……なら良かったんだがな。……血と、焦げた
情報屋の問いかけに対し、『
乱雑に切り揃えられた焦げ茶の髪、目の下には深い
女は、布地を幾重にも繋ぎ合わせた、ツギハギだらけの無骨な外套を身に纏っている。右側の腰には、使い込まれた一振りの剣を帯び、腰ベルトの隙間には実務的なナイフが数本、無造作に差し込まれていた。更に右の二の腕には赤い古びたバンダナが巻かれている。
彼女の足元には、生きるための道具を詰め込んだ、黒ずんだ革製の肩掛けの
女は揺れる馬車の中で、足元の
だが、瓶を振っても重みはない。中身はとうに尽きていた。
「……」
女は空の瓶を凝視し、わずかに顔をしかめた。曇ったガラスの表面には、不眠による深い
期待を裏切られた苛立ちと、薬一滴に縋らざるを得ない自分への嫌悪が、表情を苦く歪ませる。眉間に刻まれた
ガタ…ゴト…
「はあ……。呑み過ぎんなよ。もう三十路なんだろ?」
呆れたように情報屋が鼻を鳴らす。
「……うるせえ」
無表情だが、目の奥には静かな殺意が滲み出ている。年齢という無慈悲で鋭利な
ス……。
女は昂ぶる感情を静めるように、左手で腰のナイフを引き抜いた。手のひらに伝わる鋼の冷気が、不眠で火照った脳をわずかに鎮めた。
女は生来の右利きだが、能動的に左手に矯正した過去を持つ。すべては生き残るための、冷徹な計算の結果だった。しかし、今ではその左手を皮肉って『
ヒュンヒュン……
女はその
情報屋がその様子を尻目に、懐から依頼書を取り出し、念を押すように告げる。
「頼むぜー。おめえがトチるとオレの首まで飛びかねねぇからな。頭には入ってると思うが、念のため確認するぜ」
情報屋が手に持った依頼書に視線を落とす。
「依頼内容は令嬢の護衛だ。護衛期間は3か月――依頼主はシュピーゲル家」
更に情報屋が愉悦と侮辱が混ざったような口調で続ける。
「おめえも聞いたことぐらいあるだろ?聖職者の家系のクセに、
女は揺れる馬車の壁に頭を預け、虚空を眺めながら深いため息をついた。その家の悪名は、耳にタコができるほど知っているという態度を取る。
「……護衛対象はエルザ・フォン・シュピーゲル。……フン、8人兄弟の末娘」
情報屋が依頼書をパラリと捲り、ゴミでも見るような声で続けた。
「歳は先月で17になったらしい」
ピクッ――。
『17』という響きに、女の眉がわずかに動いた。無意識の反応だった。
「……だが、コイツがとんでもねえ曰く付きで雇った使用人が3日と保たねえんだとよ。それでおめえに白羽の矢が立ったって訳よ」
「それは初耳だな」
嫌味たっぷりに返しながらも、彼女の視線は依然として虚空を彷徨っている。
「…噂じゃあ、数年前に屋敷の『重石』だった母親が死んでから、中はガタガタらしいぜ。
情報屋は迷惑そうな表情を浮かべて補足した。
「もっとも――俺らにとっちゃあ、
「……」
女は相変わらず虚空を見つめている。肯定なのか、否定なのか、判断がつかない。
「……んで。今回のオレの取り分についてだが……特別サービスで銀貨30枚でどうだ?」
情報屋は白々しく右手の指を三本立てた。雇われ
「……最近の情報屋ってのは随分高給取りだな。15だ」
低く、押し殺した声で威圧する。馬車内の緊迫した空気が流れ、男の額に脂汗が滲む。
「はあ!?ふざけてんのか?20だ。これ以上は負けられねえ」
「……確か以前、誰かさんが賭博でヘマした時に、尻ぬぐいしてくれた美人なお姉さんがいたよな?……17だ」
今度は女の方が身を乗り出し、蛇のように冷徹な瞳で男を凝視した。手元では左手に握ったナイフの腹を自分の右掌へとトントン、と一定のリズムで打ち付けている。
古傷を正確に抉られた情報屋は、表情を凍らせ暫く硬直した。
「……てめえロクな死に方しねえぜ」
負け犬の遠吠えを吐き捨てた男の顔を、彼女は鼻で笑い飛ばす。脇では「……ったく!足まで用意したんだぞ……」と情報屋が毒づく声が聞こえる。
ガタ…ゴト…
ちょうどその時、雲間から容赦の無い陽光が差し込み、彼女の足元を白く塗りつぶした。
女は眉を不快な形に歪ませると、怠そうに腰を浮かせ、御者席の方へ身を乗り出した。
視界が開ける。
霜が蒸発し始めた白い道を、彼女は目を細めてじっと見つめた。
「……ったく。まるで天国への扉だぜ。こっちの都合も考えねえで、毎日さぼらずに照らしやがる」
女は心底忌々しそうに顔を歪め、眩しさに耐えかねるように目を細めた。
「……傷に障るぜ」
彼女は左側の傷跡を隠すように、左手で日差しを遮った。その指先が僅かに震えている。それはあたかも、降り注ぐ光が、かつての地獄を照らし出すのを恐れているかのようだった。
ガタ…ゴト…
馬車は枯れ果てた大地を蹴立て、シュピーゲル家の屋敷に向かって、一歩ずつ進んでいく。
◆ ◆ ◆
ガタ…ゴト…
乾いた音を響かせていた馬車の揺れが、不意にその速度を落とした。霜の降りた硬い大地を噛んでいた車輪が静止し、代わりに晩秋の刺すような静寂が、車内へと重苦しく流れ込んでくる。
荷台の奥から身を乗り出した女——『
「……まあ精々うまくやんな。あそこは普通じゃねえ」
彼女は一度も振り返ることなく、左手を肩の高さまで上げると、「シッシッ」と追い払うように軽く振ってみせた。
「……チッ」
背後から情報屋の、心底面白くなさそうな舌打ちが聞こえた。
ガタ…ゴト…
無機質な車輪の音が遠ざかっていく。霜が降りて白茶けた地面を蹴り、馬車は来た道を戻り始めた。
女の目の前には、まるで魔王の根城のように高くそびえ立つ、シュピーゲル家の威容が立ちはだかっていた。