シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
修理作業が終わり、柱時計の前に立つカレン。向かって右隣に立つエルザは、これまでの作業による疲労で荒い呼吸を繰り返し、ぐったりと肩を落としている。
「よし!あとは鍵を回すだけだな」
カレンは左手で巻き鍵を握り、柱時計の盤面へ向けた。
カレンが盤面の穴に鍵を差し込んだ。そのままゆっくりと、主ゼンマイを巻き上げる。
「……動かないな」
期待に反して、時計は沈黙を保ったままだった。
「……何が原因だ?」
カレンは左手を顎に添え、眉間に皺を寄せた。
「……?」
エルザが、ぼーっと盤面を見つめた。彼女は何かに促されるように、無意識のうちに普段は使わない左手を前へと突き出していた。
「……ん?おい。変なところに触るな……!」
エルザの挙動に気づいたカレンが、咄嗟に本来の利き手である右手を突き出した。
カツン。
一瞬、エルザの左手の端に、カレンの右手の指先が触れた。その接触により、エルザの左手が僅かに右側へと流れる。
エルザの左手が時計の盤面を捉えた。何もないはずの盤面が僅かに沈み込む――。
ガチンッ――。
硬質な音が室内に響いた。
止まっていた秒針が震え、時を刻み始める。11時59分を指していた針が、12時00分へと重なった。
カチン。
次の瞬間、重厚な鐘の音が部屋の空気を震わせた。
ボーン…!ボーン…!
「……動いた」
二人は、自分たちが蘇らせたその音を、ただ茫然と見つめた。
◆ ◆ ◆
ボーン……。
「……ん?」
執務室で書類を捌いていたモーゼスが、ペンを止めた。遠くから響く聞き覚えのない重低音に、不審げな表情を浮かべる。
ボーン……。
「……あん!?なにこれ?」
屋敷の廊下で昼の務めに勤しんでいたアンが顔を
ボーン……。
「……あら?」
自室でお茶を飲んでいたエレノアが、ティーカップを宙で止め、僅かに目を細めた。
◆ ◆ ◆
ボーン…!
「鳴ったな……!」
カレンが右手に拳を作り、目を輝かせる。
ボーン…!
「鳴ったわね……!」
エルザも左手に拳を作り、目を輝かせる。
ボーン…!
至近距離で響く鐘の音は、想像以上に凄まじかった。
ボーン…!
「結構うるさいんだな……」
ボーン…!
「うるさいわね……」
二人は顔をしかめ、騒々しい初鳴きに耐えた。
ボーン…!
「……それにしてもいつまで鳴るんだ?」
ボーン…!
「……さあ、そろそろじゃない?」
やがて、重厚な余韻を残して鐘の音が止んだ。
「あ、止んだ」
二人が声を合わせた瞬間、部屋には再び静寂が戻った。しかし、その静寂はすぐに別の音で塗り替えられた。
カチ、カチ、カチ……。
新しく刻まれ始めた秒針の音が、止まっていた時間を動かすように、部屋の中に響き渡っていた。
◆ ◆ ◆
その日の夜。真夜中のエルザの自室。
「……ああ、今日は疲れたわ……」
エルザはソファに横たわり、天井を仰いだ。
「……ああ、確かに骨が折れたな」
カレンは近くの椅子に腰かけ、腕を組んで目を閉じる。
室内に、新しく刻み始めた秒針の音だけがこだまする。二人はうとうとと意識を落とし始めた。
ボーン!ボーン!
唐突な重低音が空気を震わせた。カレンとエルザは、弾かれたように上体を起こした。
「なんなのよ!アレ!?」
「知るか!」
しばしの静寂。二人は顔を見合わせた。
「……あ、やんだ……」
カチ、カチ、カチ……。再び秒針の音だけが戻る。二人は力なく再び眠りにつこうとした。
ボーン!ボーン!ボーン!
カレンの肩がビクッと跳ねた。彼女は壁時計を鋭く睨みつける。
「なあ、お嬢さんよ……!あの時計、ぶっ壊してもいいか?」
「だめよ……!腐っても私の
エルザはソファのクッションを強く握りしめ、カレンに怒鳴り返した。
「……あ、また、やんだ……」
不気味な静寂が室内に満ちる。二人は眉間に皺を寄せたまま、毛布にくるまった。
ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!
「もう、あれは壊れていたんじゃないわ……!厳重に封印されていたのよ……!」
エルザが両手で耳を塞ぎ、絶叫に近い声を上げた。
「……私たちは、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれん……!!」
カレンも両手で耳を塞ぎ、虚空を見つめ、戦慄した表情で呟いた。
ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!
深夜のシュピーゲル家の屋敷に、蘇った時計の鐘の音が容赦なく鳴り響き続けた。
◆ ◆ ◆
窓の外から小鳥のさえずりが聞こえる。室内には穏やかな朝日が差し込んでいた。
「お嬢さんよ……。あれは夜中は止めよう」
カレンは、目の下に重い隈を作りながら、幽霊のような足取りでエルザに向き直った。
「……珍しく意見が合ったわね……賛成よ」
エルザもまた、目の下に盛大な隈を刻み、焦点の合わない目で力なく頷いた。
カレンがおぼつかない足取りで時計に近づき、時計の時報レバーを手動で「封印」した。
カチ、カチ……。
部屋には小さな秒針の音だけが残り、二人はそのままソファと椅子に壊れた人形のように倒れ込んだ。