シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
夕暮れ時の執務室。
エレノアは執務机に腰を下ろしていた。机の上では、彼女の飼っている黒猫が四肢を投げ出してくつろいでいる。エレノアは左手を伸ばし、猫の顎をゆっくりと撫でた。猫は目を細め、嬉しそうに喉をぐるぐると鳴らした。
傍らには、モーゼスが控えている。トレーカートの上には、磨き上げられた紅茶セットが載せられていた。
モーゼスは淀みない動作で紅茶を淹れた。エレノアのテーブルに、温かい紅茶と焼き菓子が並べられる。エレノアは優雅な所作で紅茶を口に含んだ。一口嗜むと、音もなくカップをソーサーに置いた。
「モーゼス、あなたのお気に入りの『
「お気に入りなどと……ご冗談を」
モーゼスは表情を崩さず、やめてくれと言いたげな態度で一礼した。
「アレから上手くやっているかしら?」
「は……誠に遺憾ですが、護衛としては優秀と言わざるを得ませんな。隙だらけのようで抜け目ない。油断のならない奴です」
モーゼスは視線を落としたまま、言葉を継いだ。
「我々も日々手を焼いております。エレノア様の見込んだ通りでございますな」
モーゼスはエレノアの
「あら、お上手ねー」
エレノアが猫の喉元に指を這わせたまま、薄く笑った。まるで、それがあなたの仕事よ?と告げているかのようだ。
「恐れ入ります」
モーゼスは無表情で告げる。
「しかし、
「ああ、そう。好都合じゃない……ふふ」
エレノアの瞳に、計算高い光が宿った。彼女にとっては歓迎すべき事態のようだ。
「……えぇ。……全く恐ろしいほどに。……クク」
「あとモーゼス。
「はっ。万事滞りなく」
「ふふ。安心したわ。ワタシを失望させないでね」
エレノアが猫から手を離し、視線を窓の外へと向けた。沈みゆく夕陽が、執務室の床に長い影を落としている。
◆ ◆ ◆
雪深く積もった高所の雪原。周囲を峻烈な山々に囲まれたその場所に、遭難者用の山小屋がポツンと佇んでいた。
ドシュ……!ドシュ……!
薄暗い室内が松明の炎でぼんやり照らされている。松明が爆ぜる音をかき消すように刃物が肉を貫く鈍い音が延々と響く。
ゴソゴソ……
「……へへ。こいつら同業者みたいっすねぇ。旦那ぁ。結構蓄えてますよ」
子鬼の背後には、昏い表情をしたブロンド髪の男が、死体を椅子代わりにして座っていた。傍らの床には、無骨な
室内にはもう1人、軍人のような佇まいの若い男がいた。腰には
「……ヨハンの兄貴。何故あんな奴を」
露骨に軽蔑の表情を見せ、うんざりしたように苦言を呈した。
「
死体に座っていたブロンドの髪の男――ヨハンが、視線を落としたまま淡々と答えた。
「……」
ヤコブと呼ばれた青年は、当然だと言いたげな表情を浮かべた。
「寧ろアイツは便利だぞ……。光り物さえ見せておけば、言う事を聞く」
ヨハンはヤコブと視線を合わせず、首元のロケットを右手で弄り始めた。彼の左手薬指には、銀色の指輪が鈍く光っている。
ドシュ……!ドシュ……!
室内には、松明の爆ぜる音と、子鬼のような男——ゴブの刺突音だけが満ちていた。
「……それより依頼内容の確認だ」
ヨハンが、ようやくヤコブに軽く視線をやりながら淡々と告げる。ヤコブが懐から依頼書を取り出し、手短に報告した。
「はい。依頼主はシュピーゲル家。標的は17歳の末娘……だそうです」
ピクッ。
ヨハンの眉が、『17歳』という言葉に僅かに反応した。彼は自らを律するように、ゆっくりとロケットの表面を指先で撫でた。
「……ぐへへ。こんなちょろい仕事で良いのかぁ?。歯ごたえがねえよ」
ゴブが二人の間に割って入り、ヤコブの肩に馴れ馴れしく手を置いた。
「……ち」
ヤコブは汚らわしいそうに、その手を肩を払うようにしてどかした。
「身内が年頃の娘を暗殺か……。世も末だな」
ヨハンが死体に座ったまま、ヤコブから依頼書を取り上げて凝視する。軽蔑するように目が細められる。
「へへ……!まったく……しょうもねえ」
重苦しい雰囲気の二人を他所に、ひとりだけご機嫌そうなゴブが金袋を懐に入れ、代わりに奪った保存食のパンを床へと捨てた。
ボト……。
「……」
ヨハンがその光景を、鋭く凝視した。彼は死体から静かに立ち上がり、無言でゴブの近くに歩み寄った。続けてゆっくりと屈み、床に転がったパンを拾い上げる。
「……?」
ゴブが怪訝そうな顔でヨハンを見た。
「……落とし物だ」
ヨハンは視線をゴブの目線の高さに合わせ、拾ったパンを
「……ああ……すまねえ」
気圧されたゴブが、震える手でパンを受け取った。ヤコブはその様子を、緊張した面持ちで注視している。
「死体を片付けたらすぐに出発する。急げ」
「……へい!」
「はい!」
ヨハンは再び首元のロケットに触れ、薄暗い山小屋の出口へと歩き出した。