シュピーゲル 〜不眠の傭兵と猛毒の令嬢、17歳の暗殺事件〜 作:氏家まさら
「……よっと!」
ドカッ…!
応接間に戻ったカレンが、脱衣所からエルザを持ち上げ、椅子に座らせた。エルザは薄い部屋着一枚を身に纏っている。
カレンは櫛を取り出した。恭しく、しかし嫌味を込めた調子で告げる。
「……それではお嬢様。
「……それやめて」
エルザが力なく応じた。口元は疲れ切っている。
カレンは丁寧に櫛で髪を
カチ…カチ…。
室内には、柱時計が静寂を刻む音だけが響く。
カレンの右手が時折、エルザの耳元や顎の付け根に触れる。
「……ねえ。アンタの
エルザが僅かに顔を歪めた。カレンの口調が鋭く一転する。
「本当にお貴族様は贅沢だねぇ……。
カレンは手を止めずに言葉を継いだ。
「気に入らないなら……このまま
座った眼で、冷ややかに圧をかける。
「……ッ!……アンタ本当に悪趣味ね」
エルザが不快感を露わにした。
「よし!これでいいだろう」
カレンは先ほどの煽りが無かったかのような爽やかな声色で答えると、予備の髪留め用の紐を口に咥えた。手際よくエルザの髪をまとめ上げる。
「え、ちょっと?」
エルザの戸惑う声が響く。
ギュッ…!
紐で結ばれた銀色の髪が、後頭部でシンプルな
「待ってな」
トス、トス……。
カレンが姿見を運ぶ足音が部屋に響く。
カチ…カチ…。
それに被せるかのように柱時計の秒針音が重なった。時刻は12時59分を示している。
「……ほら」
エルザの前に姿見が置かれた。
カチリ……。
時計が13時を指す音と、鏡を据える音が重なった。
ボーーン…!
13時を告げる鐘の音が響く。
鏡の中には、二人の姿が映し出されていた。エルザは部屋着一枚の姿で、化粧気のない顔に、銀色の髪をシンプルな
カレンは対照的に袖なしのアンダーチュニック姿にトラウザーズという無骨な装いだった。表情は薄く、エルザとは対照的に顔には皺があり、目の下には隈の跡が残っている。しかし、その佇まいには機能性と生命力を内包した美しさが宿っていた。
「……私じゃないみたい」
エルザは思わず椅子から立ち上がり、鏡の中の自分を注視した。
「いや、悪くねえよ。これなら
「……質素すぎない?」
「バカ言え。質素が良いんだよ」
「……そうかな」
エルザは一度、視線を俯かせた。それから再び、鏡の中の自分と向き合う。
「……うん。そうかも」
窓からは神々しい陽光が差し込み、背後では秒針が二人を祝福するように規則正しく鳴り響いていた。
一瞬、すべての音が消えた。
ヒュンッ——。
窓の外を、どす黒い物体が高速で落下した。
…ベチャ!
禍々しい衝撃音が響く。邪悪な物体が地面に激突し、無残に潰れた音だった。
「アン。あれほど窓から
上の階からモーゼスの叱責する声が聞こえた。
「ごめんなさ〜い」
続いてアンの、舌を出して可愛い子ぶったような軽薄な声が聞こえた。
再び静寂が訪れる。
「……ほらな。清めてなければ直撃だったぞ?良かったな」
カレンは鉄壁の営業スマイルを浮かべた。だが、その表情には隠しきれない動揺が混じっている。エルザは魂の抜けたような顔で、呆然と
「
カレンの乾いた笑いが虚しく響いた。室内に無情な秒針の音が戻り、やがて僅かな蠅の羽音が混ざり始めた。